啐啄 8

 ミュラーがアレクにヨゼフィーネの件を報告して数日が過ぎたある日、ケスラー夫人のマリーカからミュラーに連絡が入った。
 マリーカは独身の頃からヒルダに仕え、結婚してケスラー夫人となってからもそのまま仕事を続けていた。忙しい皇太后を支え、大きな信頼を得ている人物でもある。平和なこの時代、軍務より行政を受け持つ事が多くなった夫のケスラーと共に、夫婦で皇太后のよき片腕となっていた。
 そのマリーカがこの時期に、「エリスに相談したいことがある」と言って、わざわざ持ちかけてきたのは、ヨゼフィーネの件が絡んでの事だろうとミュラーにも察しがついていた。エリスとマリーカは年も近く、同じ元帥夫人という事もあって、長年親しくしている。二人の交流を見ていたミュラーには、お互いプライベートの部分を大事に付き合っているような気がして、それだけ大切な友人として認め合っているのであろうと感じていた。
 妻の友人でもあるマリーカに、ミュラーが話しかける。
「私は明日、エリスがいるハルツに向かう予定なのです。もし、ご都合がつくのであれば、一緒に行きませんか?」
 ミュラーの問いかけに、マリーカが少し考えた。
「そうでしたか・・・。では、私も明日、ハルツを訪ねる事にします。ミュラー閣下にもエリスと一緒に、私の相談事を聞いてもらいたいと思いますし・・・。でも、向こうで落ち合う事に致しましょう。ビッテンフェルト家の別荘には、フェリックスに連れて行ってもらう手筈になっているのです」
 現在、ビッテンフェルトの思わぬ噂に黒色槍騎兵艦隊の兵士達は苛ついている。そして、血気盛んな兵士達のその不穏な言動に、行政側も緊張している状態なのである。マリーカが軍の要でもある軍務尚書のミュラーと同行するのを避けたのは、妙な憶測が立たぬようにと気を遣っての事と考えたミュラーは、温和な笑顔を見せて応じた。
「判りました。では明日、私は別荘にてあなた方を待ちましょう」
 ミュラーの了解に、マリーカは少女のような屈託のない笑いを浮かべて付け足した。
「ミュラー閣下、フェリックスが同行するからといって私が別荘に行くことを陛下から頼まれたと誤解しないでくださいね。私が『自分で運転して、一人でハルツに向かう!』と主人に伝えましたら、もの凄く心配して勝手に別荘の場所を知っているフェリックスに運転手を頼んだのですよ!確かに私は車の運転に慣れていないし、方向音痴でいつも迷ってしまうのも認めますけれど・・・」
 少し恥ずかしそうな顔で話すマリーカに、ミュラーは思わず微笑んでしまった。遠い昔、エリスとまだ恋人同志であった頃、ケスラー夫妻と一緒に過ごしたひとときをミュラーはふと思い出した。あのときも、妻のマリーカの大胆な行動に振り回されて焦っているケスラーを微笑ましく思ったものだった。ミュラーはマリーカの話しぶりから、ケスラー夫妻は昔と変わらないそんな夫婦関係を維持しているような気がした。
(ケスラー閣下もフィーネの件を知ったのだろうか?いずれにしろ、フィーネの様子を知りたいと望んでいる陛下の気持ちを夫人が汲んだ結果、陛下の代理としてフェリックスを同行させるのであろう・・・)と、ミュラーは推測していた。



 翌日、ハルツの別荘を訪れたミュラーは、久しぶりに妻とヨゼフィーネに逢った。長い髪をお下げにしたヨゼフィーネは、まださほどお腹の膨らみは目立っていなかった。従ってミュラーには、少しやつれた頬が気になる以外は、以前のヨゼフィーネと全く変わらないように見えた。
「調子はどう?」
「・・・エリス姉さんが、もの凄い過保護になっている・・・」
 クスッと笑うヨゼフィーネを見て、ミュラーも笑顔を見せる。比較的落ち着いているようなヨゼフィーネに、ミュラーも一安心する。
 暫くして、マリーカとフェリックスも顔を見せた。自然に囲まれたこの別荘の持つ優しい雰囲気のせいなのか、二人の客を招いてのお茶会は和やかに過ぎていった。
「エリス姉さんは、お友達のケスラー夫人とは久しぶりに会うのでしょう?どうぞ、遠慮せずゆっくりお話しして!私、少し外を散歩して来るわ」
 ヨゼフィーネがエリスにそう告げて席を立った。
「そう・・・。でも、あまり遠くに行かないでね・・・」
「大丈夫!迷子にはならないから・・・」
 心配そうなエリスに、ヨゼフィーネは苦笑いする。ヨゼフィーネを見送って再び席に着いたエリスは、ミュラーに小さく呟いた。
「まだ一人にさせるのは心配です・・・」
「私が、彼女と一緒にいましょう!」
 エリスの不安を察したフェリックスが、すぐ立ち上がって外にいるヨゼフィーネの元に向かった。


 この別荘が建っている場所は山々に囲まれているだけに、外は気持ちの良い景色が広がっている。その風景をじっと眺めているヨゼフィーネを見つけたフェリックスは、彼女の方に向かって歩き出した。
 自分の隣に来たフェリックスに、ヨゼフィーネが静かに問いかけた。
「あなたとケスラー夫人が、この別荘まで来たのは・・・・・・命令?」
 あえてアレクの名前を出さずに尋ねるヨゼフィーネに、フェリックスはここに来る前、アルフォンスから「ヨゼフィーネの前で、陛下や父親の今の状態を話題にしないで欲しい・・・」と頼まれた事を思い出していた。
 不安一杯の表情をしたヨゼフィーネに、フェリックスは即座に応答する。
「いや、違う!陛下から頼まれた訳ではない!今回は、ケスラー閣下に夫人の運転手を頼まれたんだ。ケスラー夫人はこの別荘の場所を知らないし、山道での運転は慣れていないから、旦那としては一人で出すのが心配らしくてね。それで、別荘を知っている俺に頼んだのさ」
「そう・・・」
 ヨゼフィーネはそう言うと、その後は黙ったまま俯いてしまった。そんなヨゼフィーネを見て、フェリックスは改めて思った。
(こうしてみると、まだ子どもじゃないか・・・)
 フェリックスがヨゼフィーネを見るのは、あのパーティのとき以来である。あのときは彼女の大人びたドレス姿に、年齢よりも随分上に見ていた。だが、今のヨゼフィーネの心細そうな様子はまるで小さな少女のようで、フェリックスは心を痛めた。
 ヨゼフィーネの身におこった事を、直接アレクの口から告げられたとき、フェリックスはすぐには信じられなかった。だが、ずっと疑問に思っていたアルフォンスが陛下を殴った理由がそこにあったと気が付いたとき、思わず納得した。あの件ではアレクもアルフォンスも口を閉ざしていたので、フェリックスは二人の間に何があったのか気になっていたのだ。(あの温厚なアルフォンスが、陛下を殴るほど怒るとは?・・・)と、普段の彼を知っているフェリックスだけに、その行動が不思議でならなかった。
(問題の日、俺がアルフォンスから頼まれたヨゼフィーネのパートナーをきちんと務めていれば、彼女が酔った陛下と二人きりなることはなかった・・・)
 全てを知ったフェリックスは、ヨゼフィーネに責任を感じていた。
 ふとフェリックスが隣にいるヨゼフィーネを見つめたとき、彼女の肩が小刻みに震えているのに気が付いた。泣いているのか或いは泣くのを堪えているのかよく判らなかったが、そんな状態のヨゼフィーネが心配になった。
「おい、大丈夫か?」
 フェリックスに声をかけられたヨゼフィーネは顔を上げると、幼子がいやいやをするように首を振って涙を溜めた目で訴えた。
「私は陛下を恨んでいる・・・あの事がなかったら、私はこんなに苦しまなかった・・・。私が原因で父上や姉さん達まで苦しめている。家族の幸せが崩れている・・・」
 感情的になってしまったヨゼフィーネが、大声で叫ぶ。
「お願い、私に構わないで!・・・」
 ヨゼフィーネのヒステリックな叫び声に、別荘の中にいたミュラーやエリス、マリーカが慌てて飛び出してきた。
「フィーネ!どうしたの?」
 心配して傍に駆け寄ったエリスの両腕にしがみついたヨゼフィーネが、とり乱して叫ぶ。
「私をもっと遠くへ!陛下の目が届かない遠い所へ行かせて頂戴!もう、二度と逢いたくないの~」
「ねぇ、落ち着いてフィーネ!」
 エリスが興奮状態のヨゼフィーネを宥める。
「父上がここに来ないのは、このためなの?私を陛下に差し出すつもりなの?やっぱり、父上にとって、私は生まれて欲しくなかったのよ!」
「フ、フィーネ・・・?」
 思いがけない言葉に、ミュラーもエリスも戸惑った。
「そうよ、父親に生まれることを否定された子は、産まないほうがよかったのよ・・・。そうしたら母上も死なずにすんだ!」
「フィーネ、そんな悲しい事を言わないで・・・。アマンダさんが可哀想よ」
 ヨゼフィーネの叫び声に、エリスが辛そうな顔で答える。そんなエリスを見て堪らなくなったヨゼフィーネは、首を振って泣き出した。
「だって、私は・・・、私は、陛下のそばに行きたくない!嫌!、絶対いやぁ~」
 半狂乱のように激しく泣き叫ぶヨゼフィーネを、エリスが必死で抱きかかえる。
「そんなことはしないわよ!だから、安心してフィーネ!大丈夫、大丈夫だから・・・」
 まるで小さな子供を慰めるように、エリスは優しく諭す。
「そんなに興奮したら身体に悪いわ。お願いだから、落ち着いて!・・・少し休みましょう」
 エリスは泣きじゃくるヨゼフィーネを抱えるようにして、別荘の中に連れて行った。そんな二人の姿を見送ったミュラーもマリーカも、呆然としたまま無言になっていた。
「私は何も言っていない!突然、あの娘<こ>が興奮して叫びだして・・・」
 立ちすくんでいる二人に、フェリックスが慌てて釈明していた。


 激しく泣き出したヨゼフィーネを目の辺りにしたミュラーには、すぐに言葉が出てこなかった。少し経ってから、やるせなさそうにマリーカに話しかけた。
「あの子は多分、あなたがここに来た目的を察したのでしょう。勘が鋭い子ですから・・・。確かに、あなたが仰っていた<ヨゼフィーネを王宮に迎えるのが、一番の解決策>というのは、陛下の御子を身ごもっている以上、妥当な選択だと思います。それに伴って、ビッテンフェルト提督の不本意な噂も、一気に払拭されるでしょうし・・・」
「ええ、皇帝夫妻も皇太后さまも、ビッテンフェルト提督の今の状況を遺憾に思って、何とかしたいと願っています」
 ミュラーの深い溜息を聞きながら、マリーカが言葉を続ける。
「それに、陛下は一時的な感情でヨゼフィーネをこのような目にあわせたことを、とても悔やんでおられます。皇妃さまも、自分がビッテンフェルト元帥に頼んだことが引き金になって、この事態を招いたと御自分を責めています。皇太后さまも、今回の事では大変お心を痛めています。私は全てが丸く収まる方法として、彼女を王宮に迎える事が一番だと思いました。その為、ヨゼフィーネを説得するつもりでここに来たのです。つい先ほどまでは・・・・・・。彼女が、あんなに激しく陛下に拒絶反応を示すとは思いませんでした」
 ミュラーも、ヨゼフィーネが閉じこめていたアレクへの嫌悪感を、今改めて思い知った。
(おそらく周囲に気を遣って、ずっと我慢していたのだろう。皆、陛下に忠誠を尽くす立場の人間ばかりなのだから・・・)
 ミュラーはヨゼフィーネの気持ちがいっぱいいっぱいで、もう感情が制御出来ない状態になっている事を感じた。
「ミュラー閣下、私にはあの陛下が、ヨゼフィーネと無理に関係を持ったとは信じられなかったのです。気に障るような言い方で申し訳ありませんが、彼女が強く拒絶すれば陛下は無体な事はしなかったであろうと思っていました」
 マリーカは、ヨゼフィーネやエリスがいる別荘を見つめながら話した。
「ヨゼフィーネは拒絶しなかったのではなくて、拒めなくなったんです・・・。あなたは、ヨゼフィーネをよく知らない。幼い頃から、人の表面に出ない感情まで理解してしまうような子でした。今、あなたの心が判ったように・・・。もしあのとき、ヨゼフィーネが陛下の中にあったビッテンフェルト提督への憤りを知ってしまったとしたらどうでしょう?陛下のそういった心理状況を理解したヨゼフィーネには、更に陛下の怒りの火に油を注ぐ様な真似は出来ないでしょう。陛下のビッテンフェルト提督に対する怒りを静めるためにも、なすがままになっていた。それに、恐怖のあまり身動きがとれなかったとしても仕方ありませんよ。あの子はまだ十五歳です。男性との交際も経験がないような大人しい子です。酔った男の行動に、抵抗ができなくなるくらい怖がってしまっても本人の責任ではありません・・・」
 聞き役のミュラーしては、珍しく一気に話した。そんなミュラーに、マリーカは弁解するように伝えた。
「ミュラー閣下、私はヨゼフィーネを責めているのでありません。ただ、あまりにも陛下が御自分を責めているので、見ているのが辛くて・・・。あの日、陛下はお酒をだいぶ召されていたようでかなり酔っていました。陛下にしては珍しい事だったので、女官達もその日のことをよく憶えていました。陛下は平常心ではなかったのです。普段の陛下を知っている者であれば、ヨゼフィーネとの事は『魔がさした!』としか言いようがありません!確かに、どのような理由があったとしても、許される事ではありませんが・・・」
 いつの間にか、マリーカが陛下側の立場で、ミュラーがヨゼフィーネ側の立場で話をしている。
「ヨゼフィーネは妻のエリスに妊娠を告白したとき『一度だけの悪い夢だと思いたかった』と言って泣き崩れました。あの子は、あの一件をずっと忘れたがっていたのです・・・」
「陛下はヨゼフィーネには誠意を、子供に対して責任をとりたいというお考えです。しかし、今の彼女に、陛下のお心は届かないでしょう。説得はまだ無理ですね・・・」
 マリーカがあきらめ顔でミュラーに伝えた。
「ええ、ヨゼフィーネはまだ精神的に不安定です。今の自分を受け入れることさえ難しがっている・・・。彼女のことはこちらに任せてもらえませんか。あなたからも、陛下や皇妃にお伝えください」
「しかし・・・」
 そばにいたフェリックスが何か言いかけた途端、ミュラーは首を振って彼を制した。
「もし、これ以上娘のフィーネに何かあったら、ビッテンフェルト提督だって収まらなくなる。かえって取り返しが付かなくなることになりかねない・・・」
 ミュラーの考えている不安を、二人とも無言で頷き理解した。


 ヨゼフィーネから離れられないエリスを別荘に残し、ミュラーがマリーカとフェリックスの二人を見送った。帰り際、マリーカが少し寂しそうにミュラーに伝えた。
「ミュラー閣下、エリスにも気を配ってあげてください。エリスまで陛下に対する拒絶反応が出たら、この先軍務尚書の妻として生きていくのが辛くなります」
「えっ、まさか?エリスに限って・・・」
「でもエリスは、ヨゼフィーネを我が子のように思っています。あの子が持っている陛下への怒りが、エリスの心にシンクロする・・・とは考えられませんか?」
「・・・」
「エリスの友達として、彼女の事も心配です。気持ちも随分参っているようですし・・・。ミュラー閣下も、明日は大事な会議を控えて大変なときでしょうが・・・」
「判りました!私はもう少しここに留まって、エリスと話をしましょう・・・」
 ミュラーの言葉にマリーカは安心したように頷くと、フェリックスと共に別荘を後にした。



 二人を見送ったミュラーは、すぐ別荘に戻った。
「フィーネは?」
「胃が痛みだしたらしく、薬を飲ませて休ませました。今は落ち着いたようで、そのまま寝ています。・・・あの子、このところ夜もあまり寝ていないようですし・・・」
 エリスはヨゼフィーネの状態を、ミュラーに説明した。
「う~ん、そうか・・・。別荘に来て、少しは良くなると思ったのだが・・・」
「ビッテンフェルト提督がこちらに来るのは、まだ無理なのでしょうか?父親が顔を出してくれると、フィーネも安心すると思いますし、私も心強いのですが・・・」
「ビッテンフェルト提督は今は無理だろう。大事な会議も控えているし、黒色槍騎兵艦隊の遠征も近い・・・」
 ミュラーが渋い顔で告げた。がっかりした様子のエリスに、ミュラーは告げずにいた今までの状況を話した。
「・・・以前、ビッテンフェルト提督は、皇妃から陛下に側室を持つことを薦めてほしいと頼まれた。だが提督がその件を陛下に話した途端、陛下が激しく気分を害されたことがあったんだ。そのときはそれで済んだのだが・・・。ただ、フィーネの事があってから、ビッテンフェルト提督は陛下を避けている。それで周囲から二人の仲違いが疑われ、噂が立ち上がってきたんだ。<ビッテンフェルト元帥に叛意の疑いあり!>というとんでもない噂が・・・」
「まあ!・・・そんな状況になっていたのですか!でも何故?確かに今回の一件では、ビッテンフェルト提督は陛下に怒っていると思いますけれど、それは父親として当たり前の感情であって・・・」
 エリスは必死の顔で、ミュラーにビッテンフェルトの弁明する
「判っている。勿論、これは単なる噂だ!だが、このところの二人の間がぎくしゃくしていたのは確かだし、フィーネの事を隠している我々の行動も変に疑われているらしい・・・」
「それで陛下に、フィーネの妊娠のことを伝えたのですね。だから、マリーカとフェリックスがここまで来た・・・」
「誤解が大きくなるのを防ぎたかった。それにいつかは知らせないと・・・」
「ナイトハルト、ビッテンフェルト提督が陛下に側室を薦めたというのは、陛下がフィーネと関係を持つ前の話ですね」
「ああ・・・」
 ミュラーはひと言で済ませた。同じ日に起きた出来事とは言えなかったのだが、エリスにはピンときたらしい。
「陛下は、側室を薦めたビッテンフェルト提督を怒っていた。・・・それで、その腹いせに娘のフィーネを・・・」
「エリス!」
 珍しく怖い顔で窘めるミュラーに、エリスは堪らず涙声で漏らした。
「すみません・・・つい・・・・・・でも、酷い」
 おそらく、それは我が子同様のヨゼフィーネの辛い状態をずっと見ていたエリスの本音だろう。
「その~君の気持ちも判るよ。あんなフィーネを見たら、誰だってやり切れなくなる。だから、ビッテンフェルト提督も此処には来られないんだ。こんな状態のフィーネを見て、自分の感情に押さえが利かなくなるのを恐れているんだ・・・」
 陛下への忠誠と娘への気持ち・・・天秤で二つを比べる事自体、愚かな事だ。だが、その天秤が均整を保てず娘のヨゼフィーネに傾いてしまったとき、自分が何をするか判らなくなる危険をビッテンフェルトは自覚していた。
 二人の間に暫く沈黙があった後、エリスがポツリと呟いた。
「あの子、<生まれることを否定された>と言っていましたね・・・」
「うん・・・。でも、あれは仕方なかったんだ。もし、私が同じ立場になったとしたら、ビッテンフェルト提督と同じように妻の君を選んだろう。彼がアマンダさんの身体を優先したのは、苦渋の上での選択だった。でもアマンダさんの熱意に負けて産むと決めてからは、彼は父親としてフィーネの事は大事に考えてきたし、産まれてからの愛情の注ぎ方だって人一倍だった。何故フィーネはそんなふうに考えてしまったのだろう・・・」
「感受性が鋭いというのは、厄介ですね。相手が自覚していないような心の奥まで読みとってしまうのですから・・・。確かに、ビッテンフェルト提督の心の奥に、生まれる前の事ではフィーネにすまないと思っている感情が、まだ残っているのかも知れません。でも、『自分が否定された!』とフィーネが思うなんて・・・」
 泣きそうなエリスに、ミュラーが慰める。
「フィーネだって、本当は判っているのさ。ただ、今は情緒不安定で悪い方に考えてしまうんだよ・・・」
「でもこんな事がなかったら、表面には出てこなかった感情でしょう・・・」
「確かに・・・。今回も、ビッテンフェルト提督はフィーネに負い目を持っている。自分が側室をすすめた事が、陛下を追いつめる原因になったと考えているし・・・」
(アマンダさんが亡くなる前に危惧していたのは、こういう事だったんだ・・・)
 二人とも、心の中で同じ事を考えていた。以前、アルフォンスに想いを寄せながらも結婚することを避けていたルイーゼの本当の理由が、アマンダの最後の気がかりであったことは二人とも知っている。
 アマンダは亡くなる前、娘のルイーゼに『取り越し苦労だと思うけれど・・・この先、年頃になったフィーネと父上の関係が拗れないように気を付けてあげて・・・』と頼んで逝ったのである。ルイーゼも、母親の言い残した言葉をずっと気にしていた。
「私はよく、ルイーゼやフィーネ達からなにか相談を受けたとき、『アマンダさんだったらどう考えますか?』と心の中で、あの子達の母親に問いかける事があります。そうすることで自然によい考えも浮かんで、難しい事もアドバイスが出来ました。でも今回、いくらアマンダさんに訊いても教えてくれないのです」
 焦っているようなエリスに、ミュラーが話しかける。
「・・・エリス、君も疲れているんだ。難しい状態のフィーネを、君に任せっきりにして済まなかった。もうすぐヨーゼフ坊やの手術が終わる。ヨーゼフ坊やが落ち着けば、アルフォンスやルイーゼだってここに来る。あともう少し、頑張って欲しい・・・」
 ミュラーの言葉に、エリスがはっと我に返る。
「すみません、あなたにまで心配をかけてしまって・・・。ルイーゼの方が大変なんですよね。・・・今、ヨーゼフ坊やはどんな状態ですか?」
「今回の手術さえ無事成功すれば、大丈夫だと思う。ただルイーゼもフィーネの事が心配で堪らないらしく、アルフォンスに『身体が二つ欲しい・・・』と嘆いていたそうだ」
「可哀想に・・・。ルイーゼが一番、フィーネの傍にいてあげたいと思っている事でしょう」
 深い溜息を付くエリスを見て、ミュラーは考えた。

フィーネが
この先どうなるのかは、まだ判らない
今のフィーネは
まるで目隠しで綱渡りをしているかのような不安定な状態だ
いつ、足を踏み外して転落してしまうか判らない・・・
それに、出産まで精神的に持つのだろうか・・・
今、ビッテンフェルト提督を始め、家族みんなが
不安という大きな暗い渦に巻き込まれそうになっている
私がしっかりとした支えにならなくては!

明日の会議の案件は、
黒色槍騎兵艦隊の遠征についてだ
もうすでに、もめそうな気配が漂っている
遠征を大事にしているビッテンフェルト提督は
司令官として会議には必ず顔を出す筈だ・・・
ビッテンフェルト提督と陛下は
フィーネの件を知って以来、初めて顔を合わせる事になる
私は、それを見届る必要がある・・・

 今日のヨゼフィーネの状態を見て、ミュラーは今夜ぐらいはエリスと共に彼女の傍に付いてやりたい気持ちでいっぱいであった。しかし、明日の会議で顔を合わせる陛下とビッテンフェルトも気がかりなのである。
 ミュラーは、後ろ髪を引かれるような思いでエリスとヨゼフィーネを残し、別荘を後にした。



 同じ日の真夜中、閉じこもっている書斎でビッテンフェルトは不思議な夢を見ていた。亡き妻のアマンダと自分が、最後に過ごした時間の再現を見ているような映像に、ハッとなって目が覚めた。
『フリッツ・・・子供達の事、頼みますね』
 たった今囁かれたように、自分の耳にアマンダの声がリアルに残っている。ビッテンフェルトの心の中に、ザワザワとした嫌な胸騒ぎが起こり始めた。
 大きな不安に襲われ堪らなくなったビッテンフェルトが、出かける用意をする。
「何だか妙な胸騒ぎを感じるんだ。念のため、これからハルツの別荘に行って来る!なにも変わりがなければすぐ帰ってくる。一応オイゲンには、俺がハルツに向かったと連絡を入れておいてくれ!」
 起き出してきたガウン姿のミーネにそう告げると、ビッテンフェルトは地上車に乗り込んであっという間に走り去った。
 何故だか判らぬが先ほどからビッテンフェルトの脳裏に、不気味な影を漂よわせたヨゼフィーネと、悲しそうなアマンダの顔が浮かんでいる。悪い予感に囚われたビッテンフェルトは、別荘にいるヨゼフィーネの事がどんどん心配になってきた。
 そして焦った父親が運転する地上車は、もの凄いスピードを出して暗闇の中、ハルツに向かっていた。


<続く>