啐啄 7

 軍人を辞める覚悟で陛下に手を出したアルフォンスだったが、アレクは彼の退役を認めなかった。結局、軍務尚書のミュラーの提案を受け入れ、アルフォンスには半年の謹慎を命じた。
 ミュラーは、陛下の友人でもありビッテンフェルトの義理の息子という立場のアルフォンスには、両者の間をうまく取り持って欲しいと考えていた。従って今はアルフォンスは仕事から離れて、ヨゼフィーネのために十分な時間がとれる状態の方がいいだろうと判断したのだ。(今は全く見えていないフィーネと赤ん坊の将来だが、そのうち進む道が幾つかに絞られてくる・・・)と、ミュラーは推測していた。


 ビッテンフェルトは、愛娘ヨゼフィーネを傷つけた憎き男がアレクであるという事実を知ったとき、さすがに大きな動揺を見せていた。しかしそれ以降は、ずっと沈黙を守っていた。ただそれは、怒りを内に込めているのが見てとれる凄みのある沈黙で、誰もヨゼフィーネの件に触れる事が出来ない状態であった。又、ビッテンフェルトは仕事以外は自宅の書斎に立て籠もって、ミュラーやアルフォンスが訪ねてきても会おうとはしなかった。
 更に、ビッテンフェルトはアレクをも避けていた。そのために生じた不自然な言い訳と不可解な行動は、周囲からある種の疑問を起こさせていた。
<ビッテンフェルト元帥に叛意の気配・・・>
 それはまだ一部の人間が煽り立てている噂の段階ではあったが、毎年恒例の黒色槍騎兵艦隊の遠征が近づいていることもあって、今のビッテンフェルトに兵を持たせる事に慎重になった閣僚もいた。
 そしてこのような流れに便乗して、いろいろ口出しするビッテンフェルトを快く思っていなかった人々が、チャンスとばかりに『黒色槍騎兵艦隊の司令官を引退をさせるべきだ!』などと言い出して彼の失脚を狙っていた。



 病院を退院したヨゼフィーネは、楽しい思い出があるハルツの別荘で過ごしているうち少し落ち着いてきたようであった。エリスはほっとしながらも、悲壮感が漂うヨゼフィーネから目が離せなかった。そんな生活が幾日かが過ぎた頃、アルフォンスが別荘を訪ねてきた。
 山の自然に囲まれた空気の中で、ヨゼフィーネとアルフォンスが佇む。二人とものどかな時間を過ごし、ゆったりとした気持ちになる。
「やっぱりここは空気が美味しいな~。景色もいいし、のんびりとした気持ちになる」
「エリス姉さんから、義兄さんが退役を取りやめて長期の休暇に変更したと聞いたけど・・・」
 ヨゼフィーネには、アルフォンスが謹慎中であることは伝えていなかった。
「ああ、そうなんだ。ちょうどヨーゼフの入院が決まったからね。あの子の手術が終わって落ち着くまで、家族のそばにいてやりたいんだ。あのとおりルイーゼは夢中になると、自分の体の事まで考えなくなるだろう。だから、心配でね。ヨーゼフを産んだときみたいな思いは、もうしたくないし・・・」
 アルフォンスは、長期休暇の理由をヨゼフィーネが負担を感じないように、ヨーゼフ坊やの病気の為と説明した。実際、ヨーゼフ坊やの心臓の手術をする日が決まった事も事実なのである。アルフォンスの家族想いは、ヨゼフィーネもよく知っている。
「姉さんも今、大変な状態なのね・・・。でも、義兄さんが軍人を辞めなくてよかった。だって姉さんは、最初に軍服姿の義兄さんに惹かれたのよ」
「フィーネ、それは違うよ!」
 アルフォンスは人差し指を立てた手を軽くリズミカルに振って、笑いながらヨゼフィーネの言葉を否定した。
「ルイーゼは、私が君の誕生日のときになったウサギのバニーちゃん姿に、一目惚れしたんだよ!」
「へぇ~!そうだったんだ~」
 久しぶりにヨゼフィーネが笑う。
「やっと、笑ったね」
 暫く聞いていなかった義妹の笑い声に、アルフォンスもほっとする。
「・・・ここにいると、気持ちが落ち着くの。母上とこの別荘で過ごした頃を思い出せる気がする・・・」
「そうか」
「・・・父上は忙しいの?」
「いろいろ忙しくてね。此処に来るのは、もう少し落ち着いてからになりそうだよ」
「そう、父上はまだ一度も来てくれない。入院中も顔を見せてもすぐ帰ってしまっていたし・・・」
 やっと笑ったヨゼフィーネの顔に、再び陰りが見えていた。
「義父上は、お腹の子の父親が陛下だったことにショックを受けているんだ。だから、時間をくれないか?それに、黒色槍騎兵艦隊の遠征も控えているからね。司令官である義父上の遠征前の忙しさは、君だってよく知っているだろう」
「うん・・・。あのね・・・、父上、陛下に会っても大丈夫だった?」
 不安そうに尋ねるヨゼフィーネに、アルフォンスが少し笑顔を見せて応える。
「君の気持ちは、義父上にも充分通じているよ。だから、あまり悪い方に考えないで欲しいな・・・。そのうち、義父上もここに来るだろう。さぁ、フィーネ、そんな顔しないで楽しい事を考えよう!君の赤ちゃんは男と女、どっちだと思う?」
「そこまで、考えた事なかった・・・」
「だったら今、考えてごらん」
 アルフォンスが、ヨゼフィーネにお腹の中の赤ん坊の性別を考えることを促す。少し考えたヨゼフィーネが、ポツリと答えた。
「・・・父上そっくりな男の子か、私によく似た女の子がいいな・・・」
「そっか、もしフィーネの希望通りの男の子だったら、うちのヨーゼフと双子みたいに育つんだろうな。それに、君そっくりの女の子も可愛いけど、義父上に似ている女の子もそれなりに可愛いと思うよ♪」
「ん?・・・義兄さんったら・・・。それって、お惚気~?」
 父親似のルイーゼを妻に持つアルフォンスの言い分に、ヨゼフィーネが笑った。
「そう、笑って!フィーネはたくさん笑うんだ!母親の笑い声がお腹の赤ちゃんにとって、一番の栄養になるんだからね!」
「うん・・・。義兄さん、ありがとう・・・」
 アルフォンスの優しい思いやりが、ヨゼフィーネの心に染みていた。



 アルフォンスがハルツの別荘から帰った日、彼は父親のワーレンにある相談をしていた。
「父上、あちらの義父上は私やミュラー閣下は勿論ですが、ヨゼフィーネに逢うことまで避けているのです。それにあの噂・・・、話が大きくなる前に何とかしたいと思っているのですが・・・」
 ワーレンはビッテンフェルト家に襲った出来事を、嫁のルイーゼから聞いて知っていた。「実家の事でアルフォンスまで巻き込んでしまって申し訳ない・・・」と詫びるルイーゼに、ワーレンは「俺たちは家族なのだから、ルイーゼが詫びる必要などない!大丈夫、みんなで協力すれば乗り越えられる!」と言って彼女を励ましたのだ。
「ビッテンフェルトの性格からしてお前達まで避けているというのは、まだいろいろ悩んでいて自分自身が掴めていないのだろう」
「しかし、このままだと噂が更に大げさになりそうです。この状態が長びく事は防ぎたいのですが・・・」
「確かに噂というのは大きく広がってしまうと、真実性を帯びてしまう危険性がある。それで噂になっている当人が次第に周囲から孤立してしまい、追い込まれた挙げ句、本人の意志に反して噂道理の結果になってしまうという事は確かにある・・・」
 ワーレンの脳裏に、忘れがたい同期仲間であるロイエンタールの顔が浮かんでいた。共にローエングラム王朝に忠誠を尽くしてきた僚友であったが、思わぬ噂が結果的に彼の運命を変えた。反乱者としての烙印を押されたロイエンタールの最期は、ワーレンにとっても大きなしこりとなって残っている。
「ええ、それにフィーネの様子も心配なんです。父親が陛下の子を身ごもった自分を認めていないことを、フィーネは感じています。それが一番堪えているようです。以前からフィーネは、父親に対して自分自身を認めてもらいたがっていた傾向がありましたから・・・」
「ん?アルフォンス、それはどういう事だ?」
「・・・実は、ルイーゼが私との結婚に悩んでいる頃、フィーネと二人きりで話をする機会がありました。その頃のフィーネは、父親のビッテンフェルト提督に負い目のような感情を持って『自分の産むことを選べなければ、母親は生きていたのに・・・』と、自分の存在に否定気味だったのです。それで私は、自分の経験も話して 『母親の死をそんなふうに受け取らないように!』と助言したことがあります」
 ワーレンは思わず息子の顔を覗き込んだ。
「アルフォンス・・・お前もそんなふうに思っていたことがあったのか?」
「昔、父上と離れて暮らしていた子どもの頃に少しだけ・・・。戦争に父上をとられたように感じて、寂しかったのですよ・・・。自分でも考えすぎていたと思っています」
「そうか・・・」
 アルフォンスは父親に穏やかな笑顔で頷いて見せた後、ヨゼフィーネの事に話を戻した。
「ヨゼフィーネが父親にそんな感情を持ってしまったのは、感じやすい性格の他に彼女が亡くなった母親によく似ている事も原因のような気がします。実際、彼女が大きくなるにつれて誰もが母親にそっくりになったと言います。勘の鋭いフィーネは周囲の自分を見る目の違いに敏感になっていて、それで父親も自分を通して母親を見ているのだと思い込んでいるようでした。ルイーゼもそうですが、二人とも思い込みの激しい性格なんですよ。どうも、父親からの遺伝のようですね・・・」
 アルフォンスの苦笑いに、ワーレンもつられた。息子夫婦と一緒に暮らすようになってから、ワーレンも嫁のルイーゼの中に、父親のビッテンフェルトの遺伝子を垣間見る事があるだけに、つい笑ってしまったのである。
「アルフォンス、ビッテンフェルトの方は俺に任せてくれないか?お前は主にヨゼフィーネの面倒を見てやってくれ。忙しいルイーゼの為にもな!俺はビッテンフェルトとはつき合いが長い分、年の功と経験値で婿のお前よりあいつの扱いは心得ていると思う・・・」
「判りました。ではあちらの義父上の事は、父上にお任せます!」
 ワーレンの言葉に、アルフォンスが従った。
「・・・アルフォンス、俺は小さなお前を、親父やお袋に任せっきりにしていた。その頃のお前の成長を見ていない分、今のテオやヨーゼフ坊やから想像するんだ。ときどき、お前の寂しそうな小さな背中が見えてくる事がある。そんなとき俺は堪らなくなり、時間を遡って小さなお前を抱きしめたくなる・・・」
 少し切なそうな表情を見せた父親に、アルフォンスが話しかける。
「父上、私は父上が息子達と一緒に遊んでいるのを見ていると、まるで自分が遊んでもらっているような錯覚に陥ります。なんとなく心があったかくなって安らぎを感じるんです。・・・結婚して二人の子どもを持つ親となりましたが、中身はまだまだ父上に甘えたがっている子どものままです。一人前の顔をして気取っていますがね・・・」
 恥ずかしそうに告白したアルフォンスに、すかさずワーレンは告げた。
「いや!お前は、何処にだしても恥ずかしくない俺の自慢の息子だ!」
 父親の言葉にアルフォンスは嬉しそうな顔をした後、少し照れくさそうに呟いた。
「・・・父上、世間ではそれを<親バカ>と言うんです」



 明くる日、エリスのいないミュラー家で、ミュラーとワーレンが酒を交わしていた。
「ミュラー、陛下にヨゼフィーネの事を話すべきだと思う。いつまでも隠しておける問題でもないし・・・。第一、ビッテンフェルトのあの噂が広まり複雑になったら、取り返しが付かなくなるぞ!」
「ええ、確かに・・・。実は、父親であるビッテンフェルト提督とフィーネの今後について話し合ってから、陛下に報告しようと思っていたのです。しかし、ビッテンフェルト提督から避けられてしまって・・・。ですが、私も陛下に隠しておくのはもう限界だと思っていました」
「よし!では、陛下にはミュラーが話してくれ!俺はビッテンフェルトの方を何とかしてみよう」
「判りました!明日にでも、陛下にヨゼフィーネの懐妊を報告することにします」
 ひとまず今日の話し合いの結論が出たところで、二人はひと息つく。ミュラーがワーレンのグラスに新たな酒を注いだ。その酒を見つめながら、ワーレンが呟いた。
「しかし、ビッテンフェルトも老いたな・・・。若い頃は何事にも真正面に向き合って、こんな現実逃避をする奴じゃなかったのに・・・」
「無理もありません・・・。今回のヨゼフィーネの一件は、ショックでした。私でさえ信じられない出来事なのですから、父親のビッテンフェルト提督が受け入れがたいのも判ります・・・」
 今回の出来事は、ヨゼフィーネを取り囲む人々に大きなショックと影響を与えている。特にビッテンフェルトは、自分の感情を押さえている事で精一杯の様子である。ミュラーやワーレンは(「ビッテンフェル元帥に叛意!」などという埒もない噂は、今の余裕がないビッテンフェルトに代わって自分たちで何とかしなければ・・・)と考えていた。
 又、もしヨゼフィーネに何かあった場合、陛下とビッテンフェルトの亀裂は決定的になってしまうだろうと感じた二人は、ヨゼフィーネを優先に行動すべきだろうという意見でも一致していた。
「ワーレン元帥、私はビッテンフェルト提督をロイエンタール元帥の二の舞には、絶対にさせたくはありません」
 ミュラーの目を見てワーレンも頷いた。ミュラーの中で、ウルヴァシーでのルッツの最期の別れが甦る。

ルッツ提督の最期の姿を、忘れた事はなかった
彼が亡くなった事で、
ロイエンタール元帥も後戻りできなくなったのだ・・・

 ハルツにいるエリスからは、ミュラーの元に定期的にヨゼフィーネの様子が伝えられてくる。だがエリスのいつもの明るさが感じられない便りは、ミュラーにとっても気がかりであった。



 翌日のワーレンは、極上のワインを携えてビッテンフェルト家を訪れていた。ビッテンフェルトは相変わらず書斎に立て籠もっていた。ワーレンは書斎の前で、ドア越しに彼に話しかける。
「ビッテンフェルト!俺だ、ワーレンだ!ヨーゼフ坊やの事で話がある」
 ドアの向こうから反応は無かった。
「判った!薄情なおじいちゃんだな、お前は・・・」
 捨てぜりふのように呟くと、ワーレンは意外にあっさりと諦め引き払おうとした。ワーレンが階段を下りる途中で、書斎のドアが開いた。
「おい!ヨーゼフ坊やに、何かあったんだ?」
 心臓に疾患がある孫のヨーゼフ坊やの事が心配で堪らなくなったビッテンフェルトが、ついに顔を見せた。


 結局、ワーレンはビッテンフェルトの懐に入る事に成功した。二人でワーレンの手みやげのワインを飲み始める。
「こんなとき俺と飲んでいたら、お前まで謀反の疑いをかけられるぞ・・・」
「言いたい奴には言わせておけばいいさ!」
「しかしワーレン、ヨーゼフ坊やをダシにするのは狡いぞ・・・」
「これも作戦だ!同盟側のヤン提督が使ったペテンに比べれば、可愛いもんだろう」
 ワインの入ったグラスを見つめたままのビッテンフェルトが、ワーレンに問いかけた。
「ヤン提督か・・・懐かしい敵だな。・・・・・・ワーレン、今の俺の敵は、誰だと思う?」
「お前、敵を作りたいのか?」
「・・・・・・」
「もし、お前が怒っている相手と敵対すれば、噂を広げている奴らの思う壺だな・・・」
「・・・俺は、どうすればいいのか判らない」
 ビッテンフェルトが頭を抱えながら話し始めた。
「確かに、陛下に対してフィーネの父親として怒っている。だが憎みきれない俺もいる。そこまで陛下を追いつめたのは、俺のせいだと感じているし・・・。だが、フィーネのあの泣き顔を思い出すと、とてつもなく陛下が憎くてたまらないときがくる。もしそんなとき目の前に陛下にいれば、俺は自分が押さえられなくなる・・・」
「ビッテンフェルト、お前はヨゼフィーネも勿論大事だが、陛下も可愛いんだよ。小さい頃から父親のような目で成長を見守ってきたんだ。その陛下がヨゼフィーネを傷つけたことを、お前はまだ認めたくない。だから、ヨゼフィーネが身ごもっている事も、その赤ん坊も受け入れられないんだ!」
「俺が?」
「ああ、お前が一番、ヨゼフィーネのお腹の中の赤ん坊の存在を認めていない!」
 ビッテンフェルトは一瞬、愕然とした表情を見せていた。だがその後、納得したような顔で「そうかも知れない・・・」と小さく呟いた。
「いっそ、アルフォンスのように陛下を殴ったらどうだ!否が応でも陛下とヨゼフィーネの関係を、認めたことになるぞ」
「ふん!そんな事をしたら折角のアルフォンスの行為が無駄になる・・・。あれは俺の機先を逸らすための先制攻撃だろう?」
「まあな。しかし、あれはあれで、結果的には良かったのさ。『大事な時期に、ちょうどよく長期休暇が取れた』とアルフォンス自身が言っている。俺も実際のところ、タイミングが良かったと思っているんだ」
「どういう事だ?」
 ビッテンフェルトが不審に思い尋ねた。
「実はヨーゼフ坊やの手術の日が決まった。ルイーゼは、入院しているヨーゼフ坊やにずっと付き添っている。だが、もう無理はさせたくないんだ。それでなくてもヨーゼフ坊やの心臓病は、未熟児で生んでしまった自分のせいだとルイーゼは思い込んでいる。医者もアルフォンスも確率の問題で早産との因果関係はないと説明しているんだが、ルイーゼは自分を責めることをやめないんだ。それに妹のヨゼフィーネの事も心配で、気持ちが随分焦っている。だから、ルイーゼの心が不安定なこの時期に、夫のアルフォンスがそばでずっと支えてやれるのは、本当に良かったと思っている」
「そうか、ヨーゼフ坊やの手術が決まったか・・・。まだ小さいし、もっと体力がついてからと聞いていたが、随分急ぐんだな。状態が良くないのか?」
「な~に、ヨーゼフ坊やは大丈夫だ!あの子はお前に似て強い子だから・・・」
 ビッテンフェルトは、ここに来るのがルイーゼでなく主にアルフォンスであることが気になっていた。(もしかするとヨーゼフ坊やに何かあって、母親のルイーゼが目が離せない状態なのでは?)と心配もしていた。その予想が当たっていた事を、ビッテンフェルトは察した。
「しかし、昔から俺はいつもお前を振り回してきた。今度はルイーゼと親子でお前を振り回しているな・・・」
「なに言っているんだ!ルイーゼは俺の娘でもあるんだぞ!」
 ワーレンが軽く笑った。息子の妻のルイーゼを、嫁と言わず娘と呼ぶワーレンの気持ちがビッテンフェルトには嬉しかった。
「娘っていうのは可愛いもんだ・・・」
 しみじみ言ったワーレンに、ビッテンフェルトがポツリと答えた。
「だが難しいときもある・・・」
 ぼそっと呟いたビッテンフェルトに、ワーレンがヨゼフィーネの近況を伝えた。
「一昨日、アルフォンスがヨゼフィーネの様子を見てきた。別荘にいると母親を思い出して落ち着くと言っていたそうだ」
「そうか・・・」
「ヨゼフィーネ自身、予想もしなかった今の自分の運命に戸惑っている。たが、お腹の赤ん坊の存在は、お前には認めてもらいたいんだよ。身ごもった自分をもな・・・」
「俺は今、フィーネに逢うのが怖いんだ。あの子の辛い顔を見たら、俺は陛下に何をするのか判らない・・・」
(確かにこの言葉は、今のビッテンフェルトの本音だろう・・・)
 ワーレンとて今のビッテンフェルトが動かない理由に気が付いている。
「お前の葛藤は判る。だが、赤ん坊の事は別問題だ!ヨゼフィーネの為にも、赤ん坊の存在を認めてやれよ!テオドールやヨーゼフ坊やと同じ孫としてな・・・。お前が拒もうとしても、時期が来れば赤ん坊は産まれるんだ。お前の三人目の孫として・・・」
「三人の孫・・・」
 その言葉がやけに心に引っかかったビッテンフェルトは、難しい顔で幾度なく呟いていた。



 一方、ミュラーは王宮のアレクの元を訪れていた。
「今日の軍務尚書の話は、ビッテンフェルトの事だろう」
 ミュラーと二人っきりになったところで、アレクから話を切り出してきた。
「ビッテンフェルトが私を避けている理由は、私自身が一番よく知っている。彼は、自分の娘に手を付けた私を怒っているのだ・・・」
 アレクがミュラーに見つめ、自分の言葉に対する返事を窺った。だが、ミュラーからは、アレクが予想もしなかった言葉が返ってきた。
「実は陛下・・・・ヨゼフィーネは妊娠しているのです!」
「えっ!」
 目の前のミュラーの意外な言葉に、アレクは思わず立ち上がり目を大きく見開いて驚いた。
「・・・私の子だ!・・・それで、現在<いま>どうなっているのだ?」
「彼女は今、ハルツにあるビッテンフェルト家の別荘で静養しています」
「静養?」
 アレクの顔が曇り始める。
「胃を悪くして、先日まで入院していたのです。ヨゼフィーネは精神的にも体調もまだ不安定で、それ故陛下への懐妊の御報告も遅れました」
「あの子に赤ん坊が・・・」
 アレクはそう言ったきり、頭を抱えてしまった。
「ビッテンフェルトは私を許さないだろう・・・」
「彼は今のところ娘のヨゼフィーネの事で精一杯で、他のことを考える余裕がないようです」
「・・・ヨゼフィーネはそんなに悪い状態なのか?」
 アレクが顔色を変えた。
「ええ、まあ・・・。繊細な子です。今回のことは、大きなストレスになっているようで・・・」
「ミュラー!私はヨゼフィーネに謝りたい。彼女に逢わせて貰えないだろうか?」
「いいえ!今は、陛下は行動を起こさない方が無難だと思います」
「・・・軍務尚書がそう言うのであれば・・・従おう・・・」
 アレクはすぐにでもヨゼフィーネに会って謝罪したい気持ちになっていたのだが、無理だと判断しているミュラーの言葉に従うことにした。
 暫くの沈黙の後、アレクが口を開いた。
「この事をマリアンヌに話したら、ショックを受けるのであろうな・・・」
 アレクの問いかけに、ミュラーもこの件を知った皇妃のことを考える。
(皇妃がこの状態の陛下を見れば、自分を裏切ったとは感じないだろう。ただ陛下の御子を身ごもった相手が、親友のルイーゼの妹のヨゼフィーネであったことには戸惑いを見せるかも知れない・・・)
「今のところヨゼフィーネが陛下の御子を懐妊した事を知っているのは、私以外にはビッテンフェルト家とワーレン家の人々、妻のエリス、あとは親衛隊長のキスリングのみです」
「・・・キスリングも知っていたのか?」
「私が『陛下にはまだ知らせないでくれ!』と頼みました。ヨゼフィーネの先の状況が、ずっと見えなかったので・・・」
「彼女、産みたがらなかったのか?・・・・・・いや、彼女にしてみれば当たり前だな・・・。あの日、私はどうかしていたのだ・・・。苛ついた気持ちを抑えきれなかった。気が付いたらヨゼフィーネに酷いことを・・・」
 落ち込んでいるアレクは、教会にある懺悔室の神父に話すかのように、あの日の出来事を話し始めた。ミュラーは、黙ってそれを聞いていた。


「ヨゼフィーネは私を恨んでいるはずだ・・・。信頼を裏切って、私はあのような事をした。そのうえ赤ん坊とは・・・」
 アレクは今までのことをミュラーに話すことで、動揺した自分の心を落ち着かせようとしているようだった。
「私の妻が、『ヨゼフィーネは、産む事と産まない事の両方を恐れているようだ・・・』と話していました。まだ十五歳という若さでの妊娠ですし・・・」
 ミュラーの言葉に、アレクが辛そうに問いかける。
「卿もアルフォンスのように私を見限るのか?」
「陛下、アルフォンスに殴られた事は気になさらないように・・・。アルフォンスは、ビッテンフェルト提督の怒りの矛先を逸らすため、あのような事をしたのです。怒ってはいますが見限っているわけではありません。しかし、アルフォンスも苦しんでいます」
 ミュラーがアルフォンスの心境をアレクに伝える。
「それに、兄のように親しんできたアルフォンスが陛下を殴ったのでは、ちょっとした喧嘩が過ぎたのだろうと周囲は見てくれるでしょう。しかし、相手がビッテンフェルト提督だと、こうはいきません。アルフォンスのように若気の至りなどという理由は通用せず、大きな事件になってしまいます。現に現在<いま>だって、このような状態になっているでしょう」
「私は不安だ。ヨゼフィーネに繋がる人々が、皆私から去ってしまいそうで・・・」
(原因がわかっているとはいえ周囲で囁かれているビッテンフェルト提督の噂には、陛下も不安になっているのだろう・・・)と察したミュラーは、アレクを励ました。
「陛下・・・、今の陛下とビッテンフェルト提督は、糸が絡まった状態なのです。諦めず根気よく解いていくことにしましょう・・・。いつかきっと、ヨゼフィーネの事が解決すれば、元のような関係に戻りますから・・・」
 それはミュラーの切実な願いでもあった。


 結婚以来アレクがずっと望んでいた二世誕生の兆しは、彼の喜びには繋がらなかった。


 <続く>