ビッテンフェルトが居たたまれない思いで過ごしていた夜、ミュラー家でも同じような時間が訪れようとしていた。
仕事で遅くなったミュラーを出迎えたエリスの顔は沈んでいて、いつもの笑顔はなかった。エリスがこんな顔で帰宅する自分を出迎えた事はなかっただけに、ミュラーは心配になって尋ねてみた。
「エリス、今日何があったんだい?」
「・・・あの・・・私、赤ちゃんを養子を迎えたいと思うのですが・・・」
ミュラーに訊かれて、エリスは先ほどからずっと考えていたことを、なんの前置きもなく告げていた。ミュラーは妻の意外な返事にも驚いたが、その言葉に相応しくない厳しい表情の方が気になった。
「いったいどうしたんだい?何だか深刻そうだが・・・」
ミュラーに理由を問われたエリスだが、夫にその事を話す事には少し躊躇してしまった。そんな妻の様子を見て、ミュラーがエリスの肩にそっと手を添える。エリスは、その夫の手の温もりに先導されるように話し始めた。
「・・・フィーネが、不幸な妊娠をしてしまったのです」
「えっ!」
一瞬、ヨゼフィーネと妊娠がうまく結びつかず、反応の素早いミュラーにしては理解に少し手間取った。
「まさか!・・・相手は?」
エリスは首を振って、相手が判らない事を伝えた。
「フィーネが『一度だけの悪い夢だと思いたかった・・・』と言った後、泣き出してしまって・・・」
みるみるミュラーの顔が険しくなった。長年夫婦でいるエリスでも、ミュラーのこんな怖い顔は見たことがないほどであった。
「フィーネからなんとか話を聞き出してくれないか?どんな小さな事でもいい。必ず相手を見つけ出して思い知らせてやる!」
ミュラーの砂色の瞳が、怒りの炎で燃えていた。
「フィーネが辛そうで、乱暴されたときの事は訊けないのです。私も相手の男性が憎い!絶対、許せません!でも、今はフィーネの気持ちが優先ですから・・・」
そう言ってエリスは、険しい顔のミュラーに冷静になる事をすすめた。
「ビッテンフェルト提督はどうしている?彼もきっと、このままじゃ済ませないだろう・・・」
「えぇ、怒りを必死に押さえて、今はフィーネの事を先に・・・とお考えのようです。それで、ビッテンフェルト提督はフィーネに堕胎させるおつもりなのです。でも、私には本当のところは迷っていると感じる面もあって・・・。だから、今回の養子の件は、まだ産むことさえ決まっていないフィーネのお腹の中の赤ちゃんの事なのです・・・」
エリスから事の経緯を詳しく聞いたミュラーは、ずっと考え込んでいた。お互い暗い表情で、この夫婦には珍しい重苦しい雰囲気が漂う。
「『何故、この子を生むのが私なの?』か・・・。う~ん、私もこのフィーネの言葉を不思議に思うよ。言い方は悪いが、乱暴されて出来た子だろう。赤ん坊には罪は無いが、まだ若いフィーネが子どもを産むことまで考えるだろうか?」
「フィーネ自身、実際はどうしていいのか判らないのだと思います。ただ、元々女性に備わっている母性から、本能的にそんな言葉が出たのかもしれません。いずれにしろ、産んでも堕ろしても、フィーネの心に今以上の大きな傷が残るに違いありません。可哀想で、とても見ていられない・・・」
「エリス、その~、赤ん坊が無事産まれたとして、君が引き取って育てたいという気持ちはわかる。だが・・・」
「ナイトハルトは、反対ですか?」
「私は、養子を迎える事に反対はしない。しかし、今回は別だ!フィーネが産む赤ん坊を、私達が育てる訳にはいかないだろう。養子にだすなら、ビッテンフェルト家と関わりの無い、離れた場所の家庭のほうがいいと思う。実の母親の近くだと、母と子どちらにも残酷だよ・・・」
「そうでしたね・・・。確かに、ナイトハルトのいうとおりです」
夫の考えは正しいとエリスも納得した。ヨゼフィーネにとって忘れたい出来事なのに、目の前にその結果ともいえる子どもがいては、彼女の心は安まらない。
「しかし・・・どうしてこんな事に・・・」
涙ぐむエリスの顔に、やり切れない思いが表れていた。
その夜、書斎で必死に調べ物をしているミュラーの姿があった。ヨゼフィーネに乱暴した相手を探し出す作業をしていたのである。
出産予定日から受胎日すなわち乱暴されたと思われる日を推定し、その前後のヨゼフィーネの行動を全て調べていた。ミュラーは軍務尚書という仕事柄、極秘で素早く探せる情報網を持っている。
ミュラーはビッテンフェルトより、先にその憎むべき男を見つけ出さなくてはと考えていた。今のビッテンフェルトは、ヨゼフィーネのことで身動きがとれない。しかし落ち着いたら、きっと草の根分けても相手の男を探し出すに違いない。娘を傷つけられたビッテンフェルトのとてつもない怒りが相手の身にふりかったとき、どんな結果になるのかミュラーには想像が付いた。
確かに相手の男は、ヨゼフィーネに犯した罪の報いは受けなければならない。だが、それを下すのは法であって、憎しみに満ちた父親ではない。今のビッテンフェルトは、激しい怒りを制御出来ないだろう。ビッテンフェルトのためにも、男の身柄を保護しなければ・・・とミュラーは考えていた。
真夜中に、ある情報がミュラーに届いた。
<王宮でのパーティの夜、親衛隊長のキスリングに送られて帰宅・・・>
(キスリング?・・・女性関係は賑やかな独身のキスリングだが、フィーネは対象外だろう・・・)
ミュラーはこの親友の女性の好みを知っているし、捜している男がキスリングとは考えられなかった。しかし、ヨゼフィーネにはそれ日以外に特に気になる動きがなかった。ミュラーは、キスリングが関わっているこの日が一番怪しいと睨んだ。
親衛隊長のキスリングは、殆ど陛下と共に行動する。ミュラーはこの日、ビッテンフェルトがアレクから怒られた一件を思い出した。
ミュラーの中で、一つ一つの点が一本の線に繋がった。そして、ずっと引っかかっていたヨゼフィーネの言葉が、心の中で木霊する。
『この子は、私から産まれるべき子ではないのに・・・
何故、この子を産むのが私なの?』
フィーネ、
信じられないことだが
君を乱暴した憎むべき相手は、陛下なのか?
もし、そうだとしたら、
君のその言葉の意味が、理解できる・・・
だが、いくら何でも、あの陛下が?
ミュラーは、マリアンヌ皇妃一筋の真面目なアレクを知っている。しかし、自分の心に投げかけたこの疑問は、水面の波紋のように大きく広がってしまった。
普段の陛下なら、あり得ないはず・・・
しかし、この日の陛下は感情的になっていた
陛下がビッテンフェルト提督に怒りを見せた日
ヨゼフィーネがキスリングに送られてきた日
同じ日である・・・
問題の日、アレクが告げた<ビッテンフェルトが傷つくことがあるとすれば、娘達になにかあったぐらいだろう・・・>という言葉が、ミュラーの心を支配する。ミュラーは自分が考えた仮定を、否定できなくなっていた。己の不安を解くためにも、ミュラーはこの事実を知っているであろうキスリングに、朝が来るのを待って連絡を入れていた。
仕事を終えたミュラーとキスリングが、なじみの店で落ち合う。お互いの近況を報告する何気ない会話から始まったが、暫くしてミュラーから口火を切った。
「ヨゼフィーネ・ビッテンフェルトを知っているか?ビッテンフェルト提督の下の娘だ」
「・・・何が知りたい?」
キスリングがいきなり核心に触れる。
「以前、お前がヨゼフィーネを王宮から自宅に送り届けた事があっただろう。そのとき、あの子になにがあった?」
「徹夜明けか?」
疲れが見えるミュラーの顔を見て、キスリングがはぐらかす。
「質問に答えろよ!」
ミュラーの怒った様子に、キスリングは一瞬にして考えを巡らせる。
(軍務尚書のミュラーは計り知れないほどの情報を持っている。調べ抜いたミュラーを誤魔化すなど無駄なこと・・・)そう考えたキスリングは、ある事を提案した。
「条件をつけよう!」
「条件?」
「今、彼女に何がおきているのかが知りたい・・・」
(うっ!)と言葉に詰まったミュラーに、キスリングが挑むように問いかける。
「この条件をのむか?」
ミュラーを見つめるキスリングの目は、まるで勝負師がここ一番の戦いで見せるような真剣な目であった。普段のキスリングは、決してミュラーにこんな目を向けない。ミュラーも表情が堅いまま、いつもの二人からは随分かけ離れた緊迫が流れていた。
「いや!条件はのまない。・・・これで君が関わっているということが、充分確認できたよ」
ミュラーはキスリングを一睨みすると、席を立とうとした。
「待てよ、ミュラー!俺は、あの子と約束したんだ」
立ち上がったミュラーの服の袖をつまんで、キスリングが伝える。
「約束?」
「そうだ。ヨゼフィーネから『忘れてほしい』と頼まれた。縋るような目で『父親に知られたら、死を選ぶ!』とも言われた」
「・・・」
深い溜息の後、ミュラーは低く声にした。
「・・・彼女は・・・ヨゼフィーネは、今・・・妊娠している」
「・・・そうか。では俺も答えよう。・・・赤ん坊の父親は、陛下だ!」
何とも言えない沈黙が二人を包んだ。二人の間に驚きが無かったのは、予想していた不安が、現実になったという事かもしれない。
「で、どうするんだ?」
数分後、キスリングが尋ねた。
「エリスの話だと、ビッテンフェルト提督は堕胎させるつもりらしい。無理もない・・・。フィーネはまだ十五歳だぞ」
「ミュラーおじさんも、同じ考えかな?」
キスリングがミュラーの顔を覗き込む。
「・・・フィーネは産まれたときから知っている。我が子同然の思いで、あの子の成長を見守ってきたんだ。フィーネに辛い思いはさせたくない・・・」
「では、ミュラー軍務尚書としては?」
「・・・・・・何故、フィーネなんだ!陛下を慕う女性や、外戚になりたいと願っている貴族達はたくさんいるだろう・・・」
ミュラーが思わず呟いた言葉の意味は、キスリングにも理解できた。
王族と婚姻関係を結ぶ事は、貴族の名誉と思っている人々は多い。自分たちの家門の繁栄を願う貴族の昔から変わらない願いである。もし、一族の女性に、世継ぎとなる陛下の子供を授かったとしたら、普通は光栄に思い舞い上がるだろう。
だがヨゼフィーネの父親のビッテンフェルトは、そんな貴族社会とは全く違った価値観を持っていた。娘達の人生と引き替えに地位や名誉を得るなどは考えられない筈だし、大事な娘を守る為にはどんな権力にも屈しないだろう。
二人に一つの不安が浮かび上がり、背筋に冷たいものが走る。おそらく、ヨゼフィーネもそれを恐れて、今まで口を閉ざしてきたに違いない。
「陛下に報告するのか?」
ミュラーが難しい顔でキスリングに問いかけた。
「事が事だけに急を要するだろう・・・。何も知らないビッテンフェルト元帥が、娘に行動を起こしてしまう前に何とかしなくては・・・。皇帝の大事な世継ぎが闇に葬らせようとしているのを、俺が見過ごす訳にはいかない」
「ま、待ってくれ、キスリング!彼には私から話そう。だから、この事を陛下に報告するのは、暫く待ってくれないか?」
「しかし・・・手遅れにならないか?」
「この事実を知ったら、ビッテンフェルト提督も赤ん坊を堕胎させる事はしないだろう。ただ、ヨゼフィーネ自身が産むことを強く拒否するとしたら・・・」
ミュラーは、その後の言葉が続かなかった。黙ってしまった親友に、キスリングが話しかける。
「ミュラー、お前はあの子とは肉親同様だ。個人的な感情が入りすぎている。今のお前は、軍務尚書にはなれないだろう・・・。間に立つのは、違う人物を勧める。それに、ビッテンフェルト元帥の怒りの矛先の方向によっては、大変な事態になりかねない」
「・・・判っている。大丈夫だ!軍務尚書の立場で報告する」
ミュラーは頷きながらキスリングに伝えた。ミュラーでさえ、この事実を知ったときのビッテンフェルトの行動が予測できなかった。
朝早く、ミュラーの執務室にアルフォンスの姿があった。アルフォンスも妻のルイーゼから、義妹のヨゼフィーネの事を知って動揺していた。
ミュラーは、ビッテンフェルトが事実を知ったときの暴動を抑えるためにも、娘婿のアルフォンスには先にこの事を知らせておいたほうがいいだろうと判断した。
「ヨゼフィーネの相手が判ったんですか?」
顔色を変えたアルフォンスの方から、先にミュラーに訊いてきた。
「ああ・・・」
「誰なんです?」
相手への怒りから早くも手が握り拳になっているアルフォンスに、ミュラーは言いづらくなっていた。辛そうな上官の表情に、アルフォンスはピンと来た。
「ミュラー閣下、もしかして軍人ですか?閣下も私も知っている・・・」
ミュラーは小さな溜息の後、アルフォンスの目を見つめて告げた。
「・・・陛下だ」
「エッ!・・・まさか?・・・」
驚きを隠せないアルフォンスは、もう一度確認した。
「本当に陛下なんですか?何かの間違いでは?私には信じられないのですが・・・」
しかし、それっきりアルフォンスは黙ってしまった。振り返って見れば、どことなくずっと不自然だったアレクの様子が思い出される。少し間を置いた後、アルフォンスはミュラーに話し始めた。
「ルイーゼの怒りはもの凄いのです。フィーネを傷つけた相手の男性に対しては、殺しかねない程の憎しみを持っています。そして同じように私も・・・」
「ああ、判っている。だから、先に君に話した。ビッテンフェルト提督やルイーゼに伝える前に、君には冷静になって欲しいから・・・」
「えぇ、判ります。でも、何故、こんなことに・・・」
アルフォンスの<怒りを何処へぶつけて良いのか判らない!>といった様子は、昨日のミュラーの姿でもあった。立っていたアルフォンスを座らせ、ミュラー自らコーヒーを煎れて差し出す。二人はそれを飲んでひと息つく。アルフォンスが少し落ち着いた様子を見て、ミュラーは話を切りだした。
「ただこの事は、本人である陛下やフィーネに、直接確認した訳ではないんだ。何も知らないビッテンフェルト提督は、赤ん坊を堕胎するつもりで時間がない。それで、フィーネの義兄であり陛下とも親しい君の意見を参考にして、急いで本人達に確かめたいと思うのだが・・・」
「閣下、その役目は私に任せて貰えませんか?フィーネは私の大事な義妹です。それに陛下も、閣下に訊かれるより私の方が話しやすいでしょう・・・」
「冷静に出来るか?」
「ええ・・・努力します・・・」
「それと、陛下にはフィーネの妊娠は、まだ知らせないほうがいいだろう。今の状態では、この先が予測できない・・・」
アルフォンスは重い表情のまま、ミュラーの指示に応じていた。
その日、昼休みを利用してアルフォンスがビッテンフェルト邸を訪れた。部屋に閉じこもっているヨゼフィーネに声をかける。
軍服姿で自分を訪ねてきたアルフォンスのいつもと違う表情に、ヨゼフィーネは全てが知られてしまった事を察した。
「アルフォンス義兄さんは・・・知ってしまったのね?」
悲しそうな目で問いかけるヨゼフィーネに、アルフォンスは静かに頷いた。ヨゼフィーネが目線を落として俯きながら、アルフォンスに話し始める。
「夢をみるの・・・。私のお腹の赤ちゃんが、皇妃さまのお腹に瞬間移動するの。私の体は元通りになって、皇妃さまはみんなから祝福されている。お腹の子は、周りから望まれて産まれる赤ちゃんになって誕生するの」
再び顔を上げてアルフォンスを見つめるヨゼフィーネの目は、悲しみの涙で溢れそうだった。
「・・・でも、眠りから覚めると現実は違って、赤ちゃんはまだ私のお腹の中にいる。私はいつも夢から覚めると、消えてしまいたい気持ちになるの」
最後は震えた声になって泣き出してしまったヨゼフィーネに、アルフォンスは堪らなくなった。
「フィーネ、消えてしまいたいなんて思うなよ・・・。大丈夫だから、泣かないで・・・」
「私、どうなるの?」
泣きじゃくりながら尋ねるヨゼフィーネに、アルフォンスはいつもの微笑みを返す余裕がなかった。
「・・・まだ、判らない。義父上もルイーゼも、まだこの事を知らないんだ」
「不安なの・・・。とっても怖いの!父上や姉さんを巻き込みたくない」
「フィーネは、今は自分の体の事だけを考えてくれないか?私がいい方法を考えるよ。任せて欲しい・・・」
それだけいうのが精一杯のアルフォンスであった。
その日の真夜中、ワーレン家のリビングで酒の入ったグラスを片手に、アルフォンスはずっと考え込んでいた。
「悩み事か?」
寝ていたと思っていた父親のワーレンの声に、アルフォンスが驚いた。
「いえ・・・」
「そうか~?昨日から、お前もルイーゼも何だか様子がおかしいぞ」
黙り込む息子に、ワーレンは「一緒に飲んでいいか?」と訊ねた。アルフォンスは頷き、父親のグラスに酒を注ぐ。父と息子の時間が、静かに流れる。
「その・・・父上、もし、私が父上の立場を考えない行動をしたら・・・」
アルフォンスの質問は、途中で途絶えてしまった。ワーレンは息子の思い詰めた表情を見て応じた。
「たとえ、全宇宙がお前の敵になっても、私はお前の味方だ。世界中の誰もがお前を非難しても、私はお前を、自分の息子を最後まで信じる!」
父親の何の迷いもなく言い切った言葉は、アルフォンスを力強く励ました。
「父上、ありがとう・・・」
ワーレンは、息子のからになったグラスに酒を注ぎながら伝えた。
「その~、アルフォンス。私はお前の力になりたい。一人で抱えていないで、いつでも甘えてくれ・・・」
「ええ父上・・・。そのときが来たら、私に力を貸してください。・・・でも、今はこれだけしか言えない」
「判った・・・」
ワーレンは頷くと、軽くアルフォンスの肩を叩いた。今、息子がどんな問題を抱えているか、父親には判らなかった。だが、この先どんなことがあっても息子の支えになろうとワーレンは決意していた。
<続く>