絆 16

 大きなお腹を抱えて士官学校に通っていたヨゼフィーネも産前休暇に入り、フェリックスの気苦労も一つ減った。
 何しろ、夜遅くまで授業の下準備の為の勉強や資料作りをしているヨゼフィーネを見る度、フェリックスは体調を崩さないかと心配していたし、夢中になると妊娠中という事を忘れているような妻を知っているだけに、自分の目の届かない士官学校での行動も気がかりだったのである。それだけに、産休に入って自宅で過ごすようになった妻に一安心していた。
 一方ヨゼフィーネは、産休中は普段なかなか出来なかった細々した家事に精を出すつもりでいたのだが、時間がたっぷりあるこの機会に思いっきり勉強したいという欲求も生まれた。結局日中は、机に向かって勉強している事が多かった。
 時間を忘れて本に没頭する妻に、フェリックスは(人それぞれ得手不得手があるからな・・・。フィーネはやっぱり家事をするより、勉強したいという気持ちの方が強いんだろう。まあ、好きな事をやっている分、ストレスが溜まらず精神的にもいいだろう・・・)と見守っていた。
 更に、ヨゼフィーネはこの時期を利用して、夫の実家であるミッターマイヤー家に顔を出すようになっていた。
 フェリックスと結婚したものの、夫婦共に毎日時間に追われる生活を送っていただけに、なかなか夫の両親とゆっくり過ごす機会がなかった。フェリックス自身も独身の頃からあまり実家に帰らず、ミッターマイヤー夫妻も息子夫婦の生活にあれこれ係わる事もなかった。それぞれ独立した家庭として、付かず離れずの関係を保っている。自分の実家と比べるとあまりにもドライな親子関係に、ヨゼフィーネは義両親との距離感に戸惑った。
 フェリックスに相談しても「親父とお袋はいつも二人の世界を作っているから、邪魔しない方がいいんだ!お互い元気でやっているんだから、いちいち気にしなくてもいいだろう・・・」と言って、夫婦揃って実家を訪れる事も少なかった。
 ルイーゼは、妹の嫁としての立場を心配して「もう少しフェリックスのご両親に顔を見せなさい!忙しいのは判るけど、あなたは結婚してミッターマイヤー家の一員となったのだから・・・」と、ヨゼフィーネに注意していた。さすがに、義両親との交流の少なさを気にしていたヨゼフィーネも、(赤ちゃんも生まれるし、産休で家にいるいい機会だから・・・)と夫を当てにせず、一人でミッターマイヤー家を訪問するようになったのである。


 七元帥の筆頭であったミッターマイヤーも、ビッテンフェルトと同じように引退して今は隠居生活を送っている。只、両者に違いがあると言えば、ミッターマイヤーは趣味で始めた庭いじりが評判になって、彼は第二の人生を庭師として送っている事であろう。
 ミッターマイヤーには元々造園業を営んでいた父親譲りのセンスが備わっていたのか、彼の自宅の庭は趣味の域を超えていた。アレクはミッターマイヤーの腕を見込んで、王宮の自分のプライベート部分やグリューネワルト邸の庭を、引退後の彼に任せていた。ミッターマイヤーの妻のエヴァンゼリンも、夫の仕事を手伝い、ミッターマイヤー夫妻はいつも一緒に過ごしていた。
 そんな二人の元に、産休中のヨゼフィーネがご機嫌伺いに訪れたのである。息子の嫁の訪問を、ミッターマイヤー夫妻は殊の外喜んでくれた。


 いつもは夫婦二人だけのミッターマイヤー家のお茶に、今日は嫁のヨゼフィーネが加わり、三人で和やかなひとときを迎えていた。
「フィーネ、よく来てくれたわね!調子はどう?」
「ええ、お腹の赤ちゃんも私も順調です。只、産休に入ってからは家の中ばかりにいるものだから、運動不足になってしまって・・・。だから、今日は散歩がてら、ここまで足を延ばしてきました!」
 肩をすくめて笑う身重の嫁に、エヴァンゼリンは心配そう尋ねる。
「あそこからだと結構歩くでしょう?大丈夫だった?」
「普段から鍛えているので、散歩には丁度よい距離なんです。それに、こちらの家はお庭が素敵だから、胎教にもいいかな~と思って・・・」
 大きなお腹をさすりながら庭を見る事が胎教によいと告げるヨゼフィーネに、エヴァンゼリンもにこやかに応じる。
「あら、ありがとう!我が家の庭は、ウォルフ自慢の庭なのよ!」
 それを聞いたミッターマイヤーが、エヴァンゼリンに伝える。
「いや、エヴァ自慢の庭だろう。俺が陛下のところやグリューネワルト邸の庭を任されるようになってからは、我が家の庭の方はエヴァがほとんど担当しているじゃないか!」
「でも、元々はあなたがいろいろ工夫して作り上げた庭だから、ウォルフの作品と言えるわ・・・」
 いつものように延々と続きそうな夫婦の甘い会話に、ヨゼフィーネが苦笑いで伝える。
「それでは、お二人のご自慢の庭という事で・・・」
 嫁の前でも相変わらず仲の良いミッターマイヤー夫妻に当てられながら、ヨゼフィーネは(ミュラーおじさんとエリス姉さんのところも結構熱々だけれど、フェリックスのご両親はそれを更に大きく上回る感じ・・・。さすが、歴代の将校の中でも仲が良いことで有名なご夫婦だわ・・・)と軍の中で<ミッターマイヤー夫妻は万年新婚状態!>と語り継がれている噂に納得していた。
 そんなエヴァンゼリンが、目の前のヨゼフィーネを見つめながら、しみじみと語った。
「こうしてアマンダそっくりのあなたを見ていると、彼女と過ごしていた頃を思い出すわ。私たちは同じ元帥夫人として、そして小さな子どもを持つ育児仲間として親しくお付き合いしていたのよ。よくお互いの家を行き来して、フェリックスはあなたの実家にあるビッテンフェルト提督お手製の砂場で遊んだものよ・・・」
 エヴァンゼリンは母親似のヨゼフィーネの存在で、アマンダと交流していた若かりし頃を思いだし、遠い昔を懐かしんでいた。
「義母上から見て、私の母はどんな女性でしたか?」
 ヨゼフィーネがエヴァンゼリンに尋ねた。
「アマンダは控えめでどちらかといえば大人しいタイプだったけれど、芯はとても強い人だったわ。アマンダを姉のように慕っていたエリスとかは、頼りがいのあるしっかりとした女性と思っていたようだけれど、私から見れば夫のビッテンフェルト提督に甘える可愛らしい女性だったわよ・・・」
「母が父に甘える!・・・ですか?」
「ええ」
 意外な感じがしたヨゼフィーネに、エヴァンゼリンは自信をもってきっぱりと答えた。
 エヴァンゼリンとアマンダは年も近く、共に元帥夫人として皇太后を支えてきた。ヒルダの方もプライベートでも同じ年頃の子を持つ母親同志、気心の知れた友人として二人と交流を持っていた。
 エヴァンゼリンとアマンダの間には、お互い同志のような仲間意識があったかも知れない。
 エヴァンゼリンが話すアマンダ像は、ヨゼフィーネにはエリスやルイーゼから聞いていた母親とは少し違った雰囲気に感じられた。
「あの二人は結婚してから、恋愛状態に陥ったんだ。だから、ビッテンフェルトは家庭を持ったことで、人生がバラ色になったんだろうな~。あの頃は、随分のろけ話を聞かされたものだ!」
 ミッターマイヤーも妻と同じように昔を思い出したのか、新婚時代のビッテンフェルトとアマンダとのほのぼのとしたエピソードなどを話し始めた。初めて知る両親の恋愛話は、ヨゼフィーネにとっては新鮮で面白く、彼女はミッターマイヤー夫妻との会話に夢中になった。
 あるときは、昔、エヴァンゼリンの目の前で起きた<皇太后暗殺未遂事件>のときのアマンダの武勇伝が話題になった。軍人であるヨゼフィーネとて、当時行われた地球教撲滅作戦のきっかけとなった<皇太后暗殺未遂事件>は知っている。だが、自分の母親が係わっていた事は知らなかった。
「あのときほど、アマンダが元軍人であったと思い知らされたときはなかったわ。同じ戦争を知っている世代とはいえ、彼女はウォルフ達と同じように戦場で軍人として戦っていた。修羅場を潜りぬけた経験があるからこそ、あのときは皇太后さまを守るため、咄嗟に体が反応したのね・・・」
 あの事件はペクニッツ夫人の名誉を守る為、皇太后ヒルダの指示で詳細は公文書にも残していなかった。だいぶ昔の事件のことでもあり、家族からもこの出来事を聞いたことがなかったヨゼフィーネは、母親の軍人であったなごりを感じて嬉しく思った。
 アマンダの新たな一面を知りたくて、産休中のヨゼフィーネは、ミッターマイヤー家によく足を運ぶようになっていた。そして、ミッターマイヤー家に通うようになってから、ある事に気が付いたヨゼフィーネが、その事をフェリックスに教える。
「ねぇ、フェリックス、お腹の赤ちゃん、あなたの実家に行くと嬉しいみたい。普段の日中はおとなしくて動かない癖に、私が義父上や義母上と話していると、びっくりするくらいお腹を蹴って暴れ始めるのよ!まるで大喜びしているみたいに・・・」
 ヨゼフィーネの話を聞いたフェリックスが、彼女のお腹に顔を近づけ、赤ん坊に声を掛けた。
「へぇ~、お前は、うちの親父やお袋の声を聞いて興奮するのか?」
 赤ん坊をからかうように笑ったフェリックスであったが、心の中では(フィーネが親父とお袋との会話を楽しんでいるからこそ、お腹の赤ん坊も母親に共感して喜んでいるんだろう・・・)と感じていた。そして、自分の両親との交流を深める妻を、微笑ましく思っていた。


 そんなふうに産休を過ごしていたヨゼフィーネも臨月近くになり、ビッテンフェルトが心待ちにしていたハルツに出発する日も近づいた。
 いつもは帰宅が遅いフェリックスも、ヨゼフィーネが産休に入ってからは、定時に帰るようにしている。その日も早めに仕事を終わらせたフェリックスが帰宅しようとしたとき、妻から連絡が入った。
「フェリックス、さっき義母上から連絡があって、あちらのお家にミュラーおじさんとエリス姉さんが来ているんですって!それで私たちも夕食に誘われたんだけど、そっちの仕事は終わりそう?」
「大丈夫だ!丁度、今、帰るところだから俺達も行こう!」
「良かった~♪義母上には、私の方から伝えておくわ!ミュラーおじさんとは久し振りだし、ハルツに行く前に二人には是非逢いたいと思っていたの・・・」
「判ってる!すぐ帰るから・・・」
 フェリックスの了解を得て、ヨゼフィーネは上機嫌で支度を始めた。



 ミュラー夫妻の他に息子夫婦も加わり、その日のミッターマイヤー家は、賑やかな夕食を迎えていた。
「ハルツには、いつ発つの?」
 エリスがヨゼフィーネに尋ねる。
「私と姉さんは、明後日の出発なの。でも父上は、明日ハルツに向かって、いろいろ準備しておくって・・・」
「まぁ、ビッテンフェルト提督は随分張り切っているのね~」
「ええ、まるで遠足に行く前の日の子供みたいに、やたらテンションが高くて・・・」
 呆れ顔で話すヨゼフィーネに、ミュラーも笑って伝える。
「君とレオンハルト皇子と過ごす時間を、それだけ楽しみにしているんだよ」
「それに、私をハルツに送っていく姉さんの方も大変よ。私が手ぶらで動けるようにって、出産の準備品や私と赤ちゃんの着替えとかハルツに持っていく大荷物を、姉さんが既に自分の家に移動させたわ。あと紙オムツや沐浴用のベビーバスとかも持っていくから、ハルツに向かうときの車は凄い荷物になりそう・・・」
「ハルツの別荘は山の中の一軒家だから買い物も不便だし、特に赤ちゃんの使うものは消耗品が多いから仕方ないわよ」
 エリスの言葉に、フィーネが溜息混じりに告げる。
「でも、赤ちゃんが生まれるのは、もう少し先よ。一度に全て揃えなくてもいいのに・・・。でも、姉さんは用意周到にしなくては気が済まないらしくて・・・」
 苦笑いするヨゼフィーネに、エリスが伝える。
「妊娠や出産は、何があるか判らないから用心に越した事はないのよ!ルイーゼは自分がヨーゼフを産んだときの経験があるから、なおさら心配するのよ」
「まあ、私としては、姉さんが何もかもやってくれるから助かっているんだけれど・・・」
 ヨゼフィーネが肩をすくめながら言った。
「本当にルイーゼには夫婦で甘えてしまって、何もかも世話になっています」
 申し訳なさそうに話すフェリックスに、エリスが微笑む。
「フェリックス、ルイーゼはフィーネがレオンハルト皇子を身籠ったとき、そばに付いてやれなかった事が心残りだったのよ・・・。苦しんでいるフィーネのそばに居たかったけど、ヨーゼフの事があってできなかったでしょう。だから、今回はルイーゼの気の済むようにさせてあげて・・・」
 ミュラーも妻の言葉に付け足して当時のルイーゼの状況を、フェリックスに教える。
「あの頃のルイーゼは、苦しい板挟みになっていた。『妹のそばにもいてやりたいし、病気で手術を控えた息子にもついてやりたい。・・・自分の体が二つ欲しい・・・』と言って嘆いていたよ。だから、今回は思いっきり世話をしたいのさ!」
 ミュラー夫妻の言葉に、ヨゼフィーネは首を軽く振りながら言った。
「当時、姉さんが身動き取れなかったのは判っていたわ。でも、姉さんの代わりに義兄さんがよく顔を見せにハルツ迄来てくれたし、エリス姉さんがついていてくれた。姉さんが引け目に感じる事なんかないのに・・・」
「ルイーゼは君の役に経ちたいんだよ!生れたときから、あれほど可愛がっていたんだからね」
 ミュラーの言葉に、ヨゼフィーネが(判っている!)といった具合に頷いた。
「赤ん坊が生れたら、今以上にルイーゼに頼ってしまう事でしょう・・・」
 このフェリックスの言葉に、ミッターマイヤーが反応した。
「おいおい!俺達にも頼ってくれよ!若い者は忙しいだろうが、隠居生活の俺達には時間が充分ある。遠慮しないで、いつでも赤ん坊を連れてこいよ!」
「親父、子守りする気満々だね!」
 フェリックスの父親に対する冷やかしに、周囲がドッと笑う。夫の隣にいたエヴァンゼリンが、微笑みながらヨゼフィーネに告げた。
「アマンダが生きていれば、二人で孫を共有できることを、どんなに喜んだ事でしょう。私はアマンダの分も、あなた達の力になりたいわ。遠慮なんかしないで、いつでも言ってきてね」
「ありがとうございます。頼もしい助っ人がたくさんにいて、心強いです」
 子どもを産んでからもずっと軍人を続けるつもりのヨゼフィーネには、こうして頼れる人が多いというのは、子育てする際の安心感に繋がる。夫婦で軍人である以上、非常事態には共に身動き取れない場合だってある。そのような状況になったら、どうしても子供は誰かに預かってもらうしかない。
(私は本当に恵まれている・・・)
 ヨゼフィーネは素直に、自分の周囲の人々に感謝するのであった。


 その後、男性陣はリビングに場を移し、女性達は台所で酒のつまみの用意をしたり、夕食の後片付けをし始めた。ミッターマイヤー、フェリックス、ミュラーのこの三人で飲むのは久し振りで、話が弾み酒も大いにすすんだ。
 暫くして新たに水割りを作ろうとしたフェリックスが、氷がないことに気が付いた。
(そういえば、さっきフィーネが「氷を足してくる!」と言ってアイスクーラーを持って行ったんだっけ・・・。戻ってこないところを見ると、キッチンで女同士の話に夢中になっているのかな?)
 フェリックスは立ち上がって、自分で氷を持って来ようと台所に向かった。
「フィーネ、氷はどうなったんだい?」
 フェリックスが妻に声を掛けたが、台所にはエヴァンゼリンとエリスしかいなかった。
「氷はさっき、フィーネが持っていったと思うけど・・・。フィーネ、そっちに居ないの?」
 エリスが問いかける。
「アイスクーラーを持って行ったきり、来ていないよ・・・」
「あら、変ね・・・」
 ヨゼフィーネがいなくなってから、どう考えても三十分以上は経っている。エリスとフェリックスが、不思議そうに顔を見合わせ、そして不安になる。
「なにかあったのかしら?」
「俺、チョット様子を見てくる」
 心配になったフェリックスはヨゼフィーネを探し始めた。そして、洗面所前の廊下にあったアイスクーラーに気が付いた。
(お手洗いか・・・。お腹の調子でも悪くなったのかな?)
 フェリックスがノックをして声を掛ける。
「フィーネ、どうしたんだい?具合でも悪くなったのかい?」
 しかし、中にいると思われるヨゼフィーネからは返事がなく、心配になったフェリックスがドアとドンドン叩いて、今度は大きな声で呼びかける。
「フィーネ、いるんだろう!どうしたんだい!」
「・・・フェリックス?・・・あの~、波がきている・・・」
「波?・・・なにそれ?どういう意味なんだい?」
「・・・陣痛の波・・・」
「???・・・えっ、そ、それは、赤ん坊が生まれそうって事かい?・・・ちょっと待て、フィーネ!」
 驚いたフェリックスがドアを開けようとしたが、鍵がかかって開かなかった。
「おい、フィーネ、ドアを開けてくれ!」
「いま、動けない・・・」
「はぁ?動けない!そ、その~、ミ、ミュラー夫人を呼んでくる!」
 フェリックスが慌てて台所にいるエリスの元に走った。


 フェリックスに呼ばれて駆けつけたエリスが、ドア越しにヨゼフィーネに話しかける。
「フィーネ、出血はどう?」
 ルイーゼがヨーゼフを出産したときの大出血を思い出したエリスも、様子を窺っているフェリックスも緊張している。
「・・・大丈夫・・・」
 ドアの向こうから、微かにヨゼフィーネの辛そうな声が聞こえる。
「そう、それじゃ今の陣痛の波が引いたら、そのタイミングでこのドアを開けて頂戴。焦らず呼吸を整えて、ゆっくりでいいから・・・」
「了解・・・」
 ヨゼフィーネも余裕がないのか軍務中のような反応を見せる。彼女の返事を確認したエリスは、クルッと後ろを振り向くと、心配して後ろで控えていたエヴァンゼリンに頼んだ。
「ミッターマイヤー夫人、申し訳ありませんけれど、ここから一番近い寝室をお借りします!」
「ええ、私たちの寝室をどうぞ!今、準備してきます」
 エヴァンゼリンが素早く動きだす。
「フェリックス、鍵が開いたら、すぐフィーネを寝室に運んで頂戴!一応フィーネの様子を確認してから、病院に運ぶか、医者を呼ぶか決めましょう・・・」
「・・・判った・・」
 エリスの言葉に、フェリックスも緊張しながらドアの向こうの気配に集中する。
 暫くして鍵が開いた音に反応したフェリックスがドアを開けると、ヨゼフィーネがなだれ込んできた。彼は妻を抱きかかえると、すぐさま寝室に運んだ。



 騒ぎを聞きつけたミッターマイヤーやミュラーも、寝室の前でフェリックスやエヴァンゼリンと一緒に、エリスの判断を待っていた。ドアが開き、エリスがヨゼフィーネの状況をフェリックスに伝える
「もう、お産が進んでいる・・・この状態では、病院に運ぶ途中で赤ちゃんが生まれてしまう可能性があるかもしれない。まだ、ここで産んだ方がリスクが少ないわ!ここで産ませましょう!」
 フェリックスが緊張の面もちで頷く。フェリックスの了承を得たエリスは、目の前にいた夫とミッターマイヤー夫妻に頼み込む。
「ナイトハルトは、すぐ病院に行って先生を連れて来てください!ミッターマイヤー閣下は、ワーレン家に連絡して、ルイーゼにフィーネのお産の準備品一式を持って来てもらうよう伝えてください!それから、ミッターマイヤー夫人は新しいシーツとタオル・・・それと消毒液が入った洗面器と熱湯消毒したはさみの準備をお願いします・・・」
 次々と陣頭指揮するエリスに、フェリックスが「お、俺は、何をすればいい?」と尋ねる。
「フェリックスは、飲み物と汗を拭く濡れタオルを用意して、フィーネの傍にいてあげて!」
「判った!」
 それぞれ指示に従い行動する。ミュラーは車に乗り込んで病院に向かい、ミッターマイヤーがワーレン家にいるルイーゼに連絡をした。そして、エヴァンゼリンとフェリックスは、家の中をバタバタと走り回って準備をしている。
 ミッターマイヤー家にいた人々は、予定外の緊急事態に皆焦っていた。


 一つ大きく深呼吸して自身の緊張をほぐしたエリスが、寝室に戻ってヨゼフィーネに微笑みながら伝える。
「フィーネ、お腹の赤ちゃん、ミッターマイヤー家で産まれたいんだって!ここで産みましょうね・・・」
「ええ、判ったわ・・・。全く、ハルツの別荘で、ライナー先生に取り上げてもらうつもりだったのに・・・。この子、随分せっかちな子になりそう・・・」
 陣痛の合間で落ち着いていたヨゼフィーネが、苦笑いでエリスに訴えた。思いがけないお産になった訳だが、比較的リラックスしているヨゼフィーネに、エリスも一安心する。
「フィーネ、大丈夫かい?」
 飲み物を抱えたフェリックスが、妻に声を掛ける。
「フェリックス、ここでお産になってしまってごめんなさい・・・。義父上や義母上にご迷惑を掛けちゃって、申し訳ないわ。あなたからもお詫びして・・・」
「なに言っているんだ、フィーネ!君が謝る必要なんかないよ。むしろ、あの二人は喜んでいるよ。もうすぐ孫に逢えるって・・・・」
 この余裕のない状況でも自分の両親に気を使っているヨゼフィーネに、フェリックスはその必要がない事を強調する。
「そう、良かった・・・。あっ、きた!・・・」
「フィーネ、まだ、りきまないで、力を抜いて・・・そうそう、その調子・・・」
 陣痛に襲われて力が入ったヨゼフィーネを、エリスが誘導する。
 出来るだけ医者が来るまで陣痛を持たせたいと思っていたエリスであったが、ヨゼフィーネの出産の進行は思いのほか早かった。



 ミッターマイヤー邸に、大きな荷物を両手に持ったルイーゼとベビーバスを抱えたアルフォンスが、慌てた様子で飛び込んできた。それとほぼ同時に、ミュラーも医者を連れてきた。 
 落ち着かない様子で待っていたミッターマイヤーが、彼らの到着で一安心した瞬間、赤ん坊の産声が響いた。
「あら、生まれちゃった!先生、早く早く!」
 ルイーゼが医者の手を引っ張って、赤ん坊の泣き声のする寝室に向かう。
 入れ替わりにエヴァンゼリンが出て来て、リビングにいる夫に報告をした。
「ウォルフ、生まれたわ!元気のよい女の子よ!フィーネも無事よ、安心して!」
「そうか!良かった~」
 ミッターマイヤーもミュラーも、そしてアルフォンスも、満面の笑顔になって赤ん坊の誕生を喜んだ。
「さぁ、赤ちゃんの診察が終わったら、お風呂よ。すぐ準備しなくては!」
 エヴァンゼリンの指示に従い、男三人は赤ん坊の沐浴の準備を始めていた。


 医師の診察を終え一息ついたヨゼフィーネに、フェリックスが声を掛けた。
「フィーネ、ご苦労さん!疲れたろう?」
「フェリックス、ごめんなさい・・・。せっかくあなたが、ハルツの別荘で産む準備をしてくれていたのに・・・」
 済まなそうな顔のヨゼフィーネに、思わずフェリックスが告げた。
「なに言っているんだ!そんなことは気にするなよ!赤ん坊も君も無事だった。それがなにより一番だよ!」
 フェリックスはヨゼフィーネの頬に軽く右手を添えると、微笑みながら伝える。
「それに赤ん坊はちゃんと願い通り、俺が君の傍にいるときに生れてきてくれた。出産にも立ち会えて、俺は充分満足しているよ。只、突然だったからチョット慌ててしまったけれど・・・」
 フェリックスが照れくさそうに笑う。
「ライナー先生には俺から連絡してお詫びしておくから、君は何も心配しないで、ここで赤ん坊と二人ゆったりと体を休ませてくれ!それから、親父やお袋に気兼ねはいらないよ。あの二人は、孫娘の誕生に立ち会えて大喜びさ!」
「ええ・・・。フェリックス、ずっと傍にいてくれてありがとう・・・」
「いや、礼を言うのは俺の方だよ!君のおかげで、俺は父親になれた。本当にありがとう・・・」
 フェリックスとヨゼフィーネが見つめ合って、お互いに感謝の気持ちを告げていた。
「でも、このドタバタ出産劇は、後々笑い話になってしまうわね」
「はは、でも、俺達夫婦のいい思い出にもなるさ!」
 先ほどまでの緊張感から解放され、夫婦で出産を乗り越えた充実感が二人を包み込んでいた。



 ルイーゼが元気よく泣いている赤ん坊を、ベビーバスにゆっくりいれる。温かいお湯が心地よいのか赤ん坊は泣き止んで目を細めた。
「ウォルフ、見て!なんて可愛らしいのでしょう!」
 エヴァンゼリンが、生まれたての孫娘をうっとりと見つめる。
「我が家にようこそ!」
 ミッターマイヤーが産湯に浸かっている赤ん坊に声を掛けた途端、まるで返事をするかのように、赤ん坊がゆっくりと目を開けた。パッチリと開いた瞳の色は、右目が黒、左目が青であった。
 祖父と同じ金銀妖瞳<ヘテロクロミア>の目を持つ赤ん坊が、ミッターマイヤー夫妻を見つめる。目の前の孫娘と目が合ったミッターマイヤー夫妻は共に驚き、そして、あふれんばかりの笑顔になった。
「ミュラー、この子を見てごらん!」
 ミッターマイヤーに勧められたミュラーが、赤ん坊の顔を覗き込んだ。黒に近いブラウン色の髪の赤ん坊は、ミュラーが知っている僚友と同じ目を持っていた。
「ほう・・・なるほど・・・。ここで産まれる理由<わけ>ですね・・・」
 ミュラーもミッターマイヤー夫妻同様に驚き、そして納得する。 
「そういえば、ビッテンフェルト提督はどうしたのですか?」
 ミュラーの問いかけで、ビッテンフェルトがいない事に気が付いたミッターマイヤーが確認する。
「あれ?えっ~と、誰がビッテンフェルトに連絡したんだっけ?」
 周囲で顔を見合わせながら、全員がゆっくり首を振る。ここで初めて、誰もビッテンフェルトに連絡していない事に、みんなが気が付いた。
「あら、うっかりしてましたね・・・」
「バタバタして、それどころじゃなかったしな・・・」
 何とも言えない空気が流れていたところに、フェリックスが「俺にも赤ん坊を見せてくれ♪」とリビングに入ってきた。すぐさまミッターマイヤーが、息子に命令する。
「丁度良かったフェリックス!お前、ビッテンフェルトに赤ん坊が生まれた事を教えてやれ!」
「えっ、お、俺!?・・・」
 今までヨゼフィーネの傍で出産に立ち会っていたフェリックスが、まだビッテンフェルトに連絡がいっていない事に驚いた。
「夫のお前が、妻の父親に孫が生まれたことを連絡するのは、当然だろう・・・」
(ルイーゼに連絡したとき、ついでにビッテンフェルトにも連絡すべきだった・・・)と自分の失態を自覚したミッターマイヤーが、はぐらかすように息子に告げる。そして、周りの人々もミッターマイヤーに同意するように無言で頷いて、フェリックスに<早く連絡してくれ!>と目で訴える。
(みんなで義父上に連絡するのを忘れていたんだな・・・全く・・・)
 フェリックスが(仕方ない!)っといった様子で、ビッテンフェルトに連絡をいれる。
「義父上・・・今、実家の方に来ているのですが、フィーネが急に産気づきまして・・・」
 そこまで話したフェリックスが、みんなの方を向いて一言告げた。
「すぐ来るって・・・」
 エヴァンゼリンが息子に訊いた。
「フェリックス、ビッテンフェルト提督に赤ちゃんが産まれた事、伝えた?」
「いや・・・だって、『フィーネが産気づいた!』って言ったら、『よし、判った!』と返事があって、すぐ電話が切れた・・・」
 フェリックスが、呆れたようにみんなに教える。
「まあ・・・きっと、急いでこちらに向かっているのね」
 エヴァンゼリンがにっこりと笑った。


<続く>