夕方、エリスを送りがてらミュラーは、ビッテンフェルト家を訪れた。迎えたアマンダの、左手を白い三角巾で吊っている姿を見るなり、ミュラーは侘びを入れた。
「すいません。私が未熟だものであなたを・・・」
話しかけている途中のミュラーの口に、アマンダは右手の人差し指を当てて首を振った。
「まだ、そんなこと言って・・・。フリッツに聞こえたら怒鳴られますよ」
そう言って微笑んだ。一回り痩せた感じで、体調もまだ戻っていないのだろう顔色も悪かった。
(エリスがこれで「大分良くなりました」と言っていたからには、最初はもっと酷くて大変だったのだろう・・・)
ミュラーは、アマンダの入院当時が想像できた。
「無事、退院できて良かったですね」
「ありがとうございます。順調に回復して、もうすぐリハビリが始まります」
「そうですか」
「ミュラーさん、私は大丈夫ですから・・・」
「ええ、判りました」
ミュラーはアマンダの言いたいことを理解した。
(事件を防げなかった責任を感じて、落ち込んでいる私の事を心配しているのだ・・・)
実際、自分の目でアマンダの様子を見て、ミュラーは安心していた。
リビングでは、ルイーゼを抱いてるビッテンフェルトが待っていた。
「よう!」
「今日は、ありがとうございます。お陰様でいい気晴らしができました」
「そうか!それは良かった。だが、強引にエリスの相手をさせてしまって悪かったな・・・。エリスも顔には出さないが、父親やフェルナーのことが気がかりらしくて沈んでいたから・・・」
「いえ、エリスがいて助かりましたよ。あの娘<こ>の笑顔を見ているとこちらも安らげます・・・」
動物園でも、ともすれば暗く考え込んでしまうミュラーに、さり気なく話し掛けて明るい話題を持ち出し、その世界にミュラーを引き寄せた。気を配っているのもあるだろうが、エリスの持っている自然にその場が和むような気質は、この娘の持ち味なのだろう。
「エリスは、いい娘<こ>だろう」
「ええ、本当に・・・」
ビッテンフェルトの言葉に、ミュラーが頷いた。
「食事の用意ができましたよ~」
キッチンでアマンダを手伝っていたエリスの声が聞こえた。
「さあ、飯にしよう!」
ビーフシチューの中身の豪快さに、ミュラーは思わず目を見張った。
「材料を切ったのは俺だが、味付けはアマンダだから心配いらないぞ!」
片手が不自由なアマンダを手伝うビッテンフェルトのエプロン姿を想像したミュラーは、思わず微笑んでいた。食卓を囲んで和やかな会話が弾む。
「エリス、今日は楽しめたかい?」
ビッテンフェルトがエリスに訊いてきた。
「ええ、とっても」
「ところで、二人で何処に行ってきたんだ?」
「動物園です」
エリスの弾んだ声と入れ替わりに「ぶっ、動物園!」と吹き出して、大笑いしたビッテンフェルトの大きな声が部屋中に響いた。
楽しい夕食が終わり、リビングに場を移した。
片付けを終えたエリスが、ルイーゼを抱きかかえて、アマンダに伝える。
「今夜は、私がルイちゃんを寝かしつけますから」
そして、部屋から出る間際に、エリスは碧色の瞳に期待を覗かせてミュラーに頼んだ。
「ミュラーさん、今日はありがとうございました。またデートに誘ってくださいね」
「ええ、そのうち是非・・・」
ビッテンフェルト夫妻の手前、少しばかり照れくさそうな顔でミュラーは応じる。
「ほう~、デートね~」
水割りの準備をしているアマンダを手伝っていたビッテンフェルトの目が輝いた。今までの経験から何か言われる前にと、慌ててミュラーは話題をルイーゼの事に持ちかけた。
「ルイーゼはしっかりしてきて・・・何だかおねえちゃんになった感じですね~」
ビッテンフェルトは、ミュラーを冷やかそうとしていたことも忘れ、すぐさま乗ってきた。
「だろう♪いや~子供って逞しいぞ。今回の事でルイーゼは、夜アマンダが居なくても平気になった。まあ、エリスがいてくれたお陰でもあるんだろうけれど、少しずつ慣れたんだろうな~。それに、アマンダが怪我をしているって判ってから、『抱っこ』って甘えに行かないし、聞き分けも良くなった。あいつも小さいなりに気を遣って、頑張っているんだろう。甘えん坊のルイーゼが、少し大人になった感じだ♪」
いつものように親ばか丸出しのビッテンフェルトだが、ミュラーもルイーゼの仕種にアマンダへの気遣いが感じられ、いじらしくもあり感心もしていた。
夜はアマンダから離れないのを知っているミュラーだけに、ルイーゼの成長ぶりに目を細めていた。
「まとわりついていた子が離れてしまって、親の私の方が何だか寂しくなりました」
アマンダのそんな言葉に、ビッテンフェルトもミュラーも笑った。
そんな和やかなムードが変わったのは「ペクニッツ夫人は、どうしています?」という、アマンダの問いかけがきっかけだった。
「今は精神が普通ではない状態なので、病院に入院してもらいました」
ミュラーは今のぺクニッツ夫人の状況を説明する。
「彼女のこと教えて頂けますか?静かに暮らしていた筈の彼女に、何があったのか?」
アマンダの質問に、ミュラーが今まで知り得た情報を話し始めた。
「彼女の娘であるゴールデンバウム王朝の最後の皇帝、カザリン・ケートヘン一世が亡くなったのはご存じですね」
「ええ」
まだ政府は正式に発表してはいなかったが、この事はもう噂になっていた。
「カザリン嬢が亡くなったのは病気が原因です。しかし、ペクニッツ夫人は、娘はローエングラム王朝の陰謀で殺されたんだと思いこんだらしくて・・・」
「なぜ、彼女はそんなふうに受けとめてしまったのですか?」
「無理もないんです。一人娘のカザリンが亡くなっただけでもショックを受けていたところに、父親であるペクニッツ公爵から娘の死を責められたことで、ノイローゼ気味になっていたといいますから・・・」
「責める!どうして?普通は幼い我が子の死というものは、夫婦で助け合って乗り越えていく問題ではないのか?」
ビッテンフェルトは腑に落ちない様子で、ミュラーに尋ねた。
「ええ、ペクニッツ公爵にも問題があるのです。娘に与えられる年金を貰えなくなるのを恐れて、その死を隠し、夫人にもカザリンが生きているように振る舞わせたのですから・・・」
ビッテンフェルトは呆れてしまった。
「今、彼女の心は過去に戻ったままです。女帝になった頃の赤ん坊のカザリンと共に過ごしているんです。よく様子を見にいくオルラウのことをオーベルシュタイン元帥の部下と思いこんでいますし・・・」
ミュラーのその言葉に、アマンダの表情が変わった。
「ご夫妻の交友関係、親戚など細かな情報を知りたいのですが、軍務省には関係書類が最小限のものしかなくて、今いろいろ調査中です」
「どこかにある筈じゃないのか?あのオーベルシュタインは、綿密な調査をした上で、カザリンを皇帝に推薦したんだろう!あいつ、そんなところは抜かりは無いからな」
「ええ、私もオーベルシュタイン元帥であれば、万全の体制を整えたうえでカザリン嬢を皇帝に推挙したと思います。ですが、ペクニッツご夫妻関係のデーターは、先帝のラインハルト帝が即位した頃、消去されてしまっているので・・・」
「ふ~ん、なぜだろう?」
「特に深い意味はないかも知れません。ただ単に不要なデーターと見なし、整理しただけかも知れませんし・・・」
「あの・・・」
二人の会話に、アマンダが口を挟んだ。
「ペクニッツ公爵夫妻とカザリン・ケートヘン一世の資料を破棄したのは、私です・・・」
ビッテンフェルトとミュラーは、アマンダの思わぬ言葉に、顔を見合わせて驚いた。
当時、アマンダは軍務省でオーベルシュタインの秘書官をしていた。だが准尉のアマンダが、単独でそれをしたとは思えない。
「命令・・・だったんだろう?」
ビッテンフェルトが心配そうに尋ねる。
「私から、同時の上司であるオーベルシュタイン軍務尚書に申し出ました。ペクニッツ家を政治から引き離すために・・・」
「引き離す?」
「私が・・・彼女の娘カザリン嬢を、先帝の傀儡にしたんです・・・」
「傀儡・・・」
ミュラーはアマンダの言葉に、どう反応していいのか判らなかった。
「それは違う!カザリンを女帝に選んだのは、先帝だ。お前にそんな権限はない。それに・・・そんな言い方をするな・・・」
ビッテンフェルトの表情にも戸惑いが見えていた。
「エルウィン・ヨーゼフ二世陛下が行方不明になって、皇帝の廃立が決まる前に、新たな皇帝の候補のリストは軍務省で作成されていました。私はそのスタッフで、カザリン嬢をリストに加え候補の筆頭にしました」
「だからと言って、あの子が女帝になったことは、お前のせいにはならない!」
「先帝もオーベルシュタイン閣下も、次の皇帝は誰でも良かったのです。新たな王朝を迎える前の、単なる『つなぎ』でしかないのですから・・・だから、自動的に候補の筆頭で、何も問題が無かったカザリン嬢に決定されたのです」
「・・・・・・」
ビッテンフェルトとミュラーが思わず顔を見合わせたが、お互い言葉が出ない。
「私が彼女を選んだ理由も単純でした。一番年齢が低い、ただそれだけの理由です。彼女が物心が付く頃には全て片づいている。皇帝だったという出来事が幼い記憶に残る前に、ゴールデンバウム王朝は滅ばされる。彼女のその後の人生に及ぼす影響は、最小限で済む筈・・・済ませたい・・・そう思ってました」
そう言ってアマンダは俯いてしまった。
ミュラーにも、アマンダの気持ちは良く判る。ペクニッツ家はある意味被害者だ。何も知らない夫婦と無垢な赤子を、政治に利用して使い捨てた。そして加害者は、今のローエングラム王朝を創設した人々である。
ペクニッツ家には代償として、公爵の称号と充分な年金を与えていた。しかし、彼らの平凡に送るはずの人生はすっかり狂ってしまった。今回の事件が何よりの証拠だ。
カザリンの年金をすっかり当てにして過ごしていた父親に、娘の死を悲しむ気持ちは生まれなかった。カザリンの年金は彼女自身にあてがわれたもので、夫妻に貰う権利はない。しかし親権者として、思うように自分の趣味の象牙細工に使い込んでいた父親は焦った。
カザリンが亡くなると、年金は支給されない。公爵にとってカザリンは、娘というより金をもたらす金蔓になっていた。
娘の死を隠し、生きているように見せかけたりしていたが、それにも限界があった。母親であるペクニッツ夫人の精神が耐えられなくなったのだ。
夫人に見切りを付けた公爵は、お気に入りの象牙細工を持って姿をくらました。彼はずっと支給されるであろうカザリンの年金を当てにして、象牙細工の業者数件に多額の借金があったのだ。
世間知らずの公爵は、ハイエナのような連中の格好のカモだった。邸に残されたのは、哀れな母親と僅かな象牙細工、それに莫大な借金だけであった。
もし、カザリンが皇帝にならなければ、父親も子爵のままのはずだ。分相応の生活に金目当てや地位を利用する人間が寄ってくる訳もなく、普通の平凡な生活を過ごしていただろう。
ビッテンフェルトにしても、あの頃、カザリンのことは感心の薄い出来事だった。今、違った感情を抱くのは、当時の彼女と変わらない幼い女の子を持つ親となったからだろう・・・。
ルイーゼとカザリンを重ねて見てしまう・・・。ルイーゼの幸せを願っているビッテンフェルトに、娘の収入で自分が利を得るなどということは考えられない事だった。ましてや我が子の死に際し、夫人を責め、生きているように振る舞わせる公爵に、貴族社会で育った者にありがちな自己中心的な残酷さを見いだしていた。
乳母に抱かれて玉座に座っていた亡きカザリン・ケートヘン一世の無邪気な笑顔を思い出したビッテンフェルトは、同じ父親として、夫として公爵に怒りを感じた。
ビッテンフェルト、ミュラー、アマンダそれぞれ思いを巡らせ、その場は沈黙の空気が漂っていた。
その三人を包む重い沈黙を、破ったのはアマンダだった。
「ミュラーさん、私をペクニッツ夫人と逢わせて頂けませんか?彼女と少し話をしたいのですが・・・」
ミュラーは迷った。傍目にはアマンダは皇太后を庇ったとはいえ、ペクニッツ夫人によって怪我を負った被害者である。ビッテンフェルトも被害者の家族ということで、この事件には関われずにいる。
加害者と被害者を直接会わせることは、普通しない事である。そんな関係の二人が会うときは、裁判が始まったときぐらいだろう。
そんなミュラーの心の中を読んだかのように、アマンダは話を続ける。
「ペクニッツ夫人の中でオーベルシュタイン閣下がまだ生きておられるのであれば、私の事も覚えているかも知れません。事件の事が記憶にないのであれば、加害者、被害者という関係にはならないと思いますが・・・」
ミュラーは思わずビッテンフェルトの顔を見た。
「・・・俺は、お前に任せる」
ビッテンフェルトの言葉を受けて、ミュラーは決めた。
「では、アマンダさんにペクニッツ夫人と会ってもらう事にします」
「ありがとうございます。それで、どなたか部下の方を立ち合わせて頂けませんか・・・。もしかしたら、新たな情報を得る事ができるかもしれませんし・・・」
この申し出にミュラーは、アマンダが明日、何を聞こうとしているか、朧気ながら予想ができた。
「わかりました。隣の部屋で私と担当の医師で見守ります。マジックミラーで、病室の様子を伺えるようになっているんです。それでよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
(記憶のない夫人に、事件のことを聞くつもりかも・・・)と感じたミュラーは、立ち会うのは部下でなく、アマンダをよく知っている自分の方がいいだろうと考えた。
「では、明日の午後、お迎えに上がります」
「・・・ミュラー、明日、俺も立ち会ってもいいかな」
難しい顔で考え込んでいたビッテンフェルトが、アマンダにも了承を得るかのように問いかけた。
「ええ、ビッテンフェルト提督もご一緒のほうが、アマンダさんも心強いでしょう」
ミュラーはビッテンフェルトに同席を勧め、アマンダも「ええ、お願いします」と夫に伝え、話はまとまった。
帰り道、ミュラーは考えた。
もし、カイザーが生きておられたら、
今回の事件をどう思っただろう・・・
臨終の間際、先立つ親として、
なによりも我が子に友達を与えたいと願った親心・・・
親の立場を経験したあのカイザーが、
今のペクニッツ夫人をどう見るだろうか・・・
そんなふうに考えていたミュラーの耳に、あの独特の抑揚のない冷めた声が聞こえたような気がした。
『こんな事は、些細な事だ・・・』
「確かに・・・カイザーが、いちいちこんな事を気にしていたら頂点は極められまい・・・」
ミュラーは独り言のように呟き、夜空を見上げた。輝く星空に、ヴァルハラに旅立った筈の自分の前任者が浮かんだ。
自分の感覚に苦笑いしたミュラーは、その後限りなく続いている宇宙<そら>に向かって、深い溜息をついていた。
<続く>