夜も更け、執務室で一人になったミュラーは今回の事件のことを考えていた。以前は艦隊の指揮官として、単純に目の前の敵と戦えば良かった。しかし、今回は相手の姿が見えない。それも、軍人とは限らない・・・いや、軍人でない可能性の方が高い。見えない敵とのやっかいな攻防戦の予感に、ミュラーは溜息をついた。
生粋の軍人で真っ直ぐな戦いをしてきたミュラーには、前の軍務尚書オーベルシュタイン元帥のように貴族社会の陰湿な世界に対応できるか不安であった。ローエングラム王朝は始まったばかりで、しかも先帝の血を受け継ぐ後継者は、幼いアレク一人しかいないという綱渡り状態である。
今後、アレクが成人して家庭を持ち王朝を安定させる前に、滅ぼそうとする連中は確かにまだいるのである。昔の栄華を忘れずにいる人々にとって、特権が通用しないローエングラム王朝は暮らしにくいのであろう・・・。
戦場の戦いとは違う日常で起きる殺意に、ミュラーは軍務尚書という地位の難しさを感じていた。
「閣下、ペクニッツ夫人の資料ですが・・・」
副官ドレウェンツが書類を差し出した。ほんの数行の内容に、ミュラーは驚いた。
「・・・これだけか?」
「ええ、いくら調べても出てきません。仮にもカザリン・ケートヘン一世の御生母に当たる方なのです。これだけの資料の筈がありません。誰かが故意に消したとしか思えないのですが・・・」
「故意に消した?」
「調べたところ消された痕跡がありましたから・・・」
「消された日付は判るか?」
「丁度、先帝が即位された頃にあたります」
「そうか・・・」
(先帝の即位の頃だとすれば、事件との関わりは薄いかな。ローエングラム王朝になって、以前のゴールデンバウム王朝の関係者を簡略にしただけで深い意味はないかもしれないし・・・)
「軍務省以外の資料からも調べて見てくれ。ペクニッツ夫人についてどんな事でも・・・」
「はい」
「招待客との関わりは?」
「まだです。今は半分ほどしか調査できていません」
「急いでくれ・・・」
ミュラーがそう告げたとき、オルラウが新たな情報の入手を報告する。
「閣下、オーディンの調査官からペクニッツ公爵夫人関係の資料が送られて来ました」
ペクニッツ公爵夫人について、急遽オーディンに問い合わせた返答が来たのである。ミュラーが待っていたその資料には、信じられない内容が記されていた。
(ペクニッツ夫人が叫んでいた言葉から、娘であるカザリン・ケートヘン一世に何かあったとは思っていたが・・・)
カザリン・ケートヘン一世はすでに亡くなっていた。しかも、父親であるペクニッツ公爵はそれをずっと隠していた。理由は簡単である。カザリンに支給される毎年150万マルクの年金が、手に入らなくなるのを恐れたからである。
カザリンはもともと体が弱く病弱であった。些細な風邪でも肺炎を起こしこじらしてしまうことが多く、亡くなった原因も風邪を引いたのがきっかけだった。母親であるペクニッツ夫人の懸命の看病の甲斐無く、ゴールデンバウム王朝最後の皇帝カザリン・ケートヘン一世は、幼くしてヴァルハラに召された。
父親のペクニッツ公爵は焦った。彼は趣味の象牙細工の業者数件に、多額の負債があったのだ。それで彼は、我が子を亡くして悲しみに暮れる夫人に追い討ちをかけるように『病弱にしたのは母親の責任だ!』と夫人を責めたて、あげくの果てに娘がまだ生きているように振る舞わせた。そうやって収入の安定を謀ったのである。
召使い達にも暇をだし、カザリンの葬儀は執事だけで人知れずひっそりと済ませた。病弱で、もともと家の中にいることが多かったカザリンなので、その死は世間には気づかれずに済んでいた。
夫人の精神が病んできたのを見かねた執事がペクニッツ公爵を諫めたところ、主人の逆鱗に触れその場で邸を追われたという。その後の事は誰も知らず、ペクニッツ公爵も現在行方不明との事だった。
ミュラーは、引き続いてペクニッツ公爵家を調査するよう伝えると、一息ついた。だんだん、自分の気持ちが重くなってくるのがわかった。
前王朝の最後で在位期間も短かったとはいえ、カザリン・ケートヘン一世は皇帝であった。なのに、人目を避け、両親にも見送られず旅立ったとは・・・。我が子をそんな目に合わせるペクニッツ公爵に呆れるとともに、別人のように姿が変わってしまった夫人を哀れに思った。
(しかし・・・アマンダさんは、あの状態のペクニッツ夫人によく気がついたものだ。以前の仕事柄、彼女のことを知っていたんだろうか?)
何も手がかりがない状態の今、どんな情報でも欲しかった。ミュラーはアマンダに会って、ペクニッツ夫人のことを聞いてみようと考えた。アマンダの怪我の状態も気になっていたし、何よりも謝りたかった。
ペクニッツ夫人の存在に気がついたアマンダの言葉を、安易に受けとめてしまった自分の不手際を詫びたかった。
外はもう夜が明け、空は明るくなっていた。
病院にまだアマンダが居るかどうか確認して、ミュラーは昼過ぎ病院に出向いた。昨日のビッテンフェルトの話しぶりから、入院は一晩ぐらいと軽く考えていたミュラーは、アマンダの病室のドアの前で驚いた。
<面会謝絶>の札が掲げられている。
(これは一体・・・)
呆然となっていたミュラーの目の前で、突然ドアが開いた。
「あ、ミュラーさん・・・」
現在、ビッテンフェルト家に預けられているエリスだった。
「エリス!アマンダさんの容体は、面会謝絶になるほどひどいのかい?意識は?・・・昨夜、ビッテンフェルト提督はこんな状態とは、一言も言っていなかったのに・・・」
すっかり顔色を変えてしまったミュラーに、エリスが声をかけた。
「大丈夫ですか?ミュラーさん」
年下のエリスに言われて、ミュラーは自分が慌ててしまった事を恥じた。
(確かに、昨日の事件から自分の気持ちに余裕が無くなっている)
「大丈夫!エリス、少し話を聞きたいけどいいかな?」
「ええ」
二人で廊下の片隅にある椅子に座って話し始める。
「アマンダさんの容体を話してくれないか?」
「傷のほうは、大丈夫だそうです。ただ・・・」
「ただ・・・なんだい?」
「ナイフにアルカロイド性の毒が塗られていて、その解毒剤を点滴しているんですが、副作用で嘔吐が酷くて・・・熱も高いし・・・」
「アルカロイド性の毒!」
ミュラーの表情が変わる。
「担当のお医者さんが、この状態では面会謝絶にした方がいいって言われて・・・。アマンダさんは大げさにしないで欲しいと頼んでいましたけれど、実際、今は副作用でお辛そうだし、ビッテンフェルト提督も医師の指示に従おうとおっしゃって・・・」
「そうか・・・。では、命に関わるような状態というわけでは無いんだね」
「ええ、大丈夫です。しばらく様子をみて検査の結果が良くなったら、解毒剤の点滴は外すと言っていましたから・・・」
「後遺症の心配は?・・・何か聞いているかい?」
あの猛毒でワーレンは左手を失った。ミュラーも詳しいとは言えないが、ひとどおりの知識は持っている。
エリスはミュラーに告げていいものかどうか、悩んでいる様子だった。
「話してくれないか?」
ミュラーの必至の表情に、エリスがアマンダの状態を説明する。
「左手に麻痺が残るかもと・・・」
「麻痺・・・つまり、左手が動かなくなると・・・」
(なんて事だ…)
「ビッテンフェルト提督の話を鵜呑みにして、アマンダさんの怪我は軽いと思っていた・・・」
深い溜息をついて落ち込むミュラーを見て、エリスが言った。
「ビッテンフェルト提督は『命の危険に関わる事や左手を切り落とす事を考えれば、今の状態はラッキーだった』って言っておられましたし、アマンダさんも『利き腕じゃなくて幸いだった』って・・・。お二人はそんなに悲観的じゃありませんよ。リハビリが始まれば、再び動かせる可能性だって残っているんです。だからミュラーさん、そんな顔しないで・・・」
ショックを受けている様子のミュラーを見て、励まそうとエリスは必至になって話を続ける。
「アマンダさんは大丈夫ですよ。ビッテンフェルト提督がついていますから。あのご夫婦なら、今回の事も乗り越えてしまいますよ!ミュラーさんだってそう思うでしょう?」
「そ、そうだね」
ミュラーは努めて温和な表情を見せて、エリスに答えた。いつもの顔に戻ったミュラーに、エリスも安心したようだった。
「あの~、私、もういいですか?ルイちゃんがお昼寝から目覚める前に戻りたいんです。今は、オイゲンのおばさまが来て、見てくださっているんですけど心配で・・・。だってルイちゃん、気がつくとアマンダさんを探すんです。泣かないけど我慢しているのが判って、何だかいじらしくて・・・。お昼寝から目覚めたとき、私の姿まで見当たらなかったら可哀想ですから・・・」
「そっか。急いでいるとき呼び止めてゴメンね。送っていくよ」
二人は、病院を後にした。
「ミュラーさんもお忙しいのに、送って下さってありがとうございます」
地上車でビッテンフェルト家まで送ったもらったミュラーに、エリスは礼を言うとすぐさま家の中に入っていった。ミュラーはその姿を見届けてから、再び地上車を走らせた。
ルームミラーに写る自分の落ち込んだ顔を見て、「動揺が顔に出るようだと、軍務尚書は失格だな・・・」と、ミュラーは自嘲気味に呟いていた。
<続く>