アルカイック・スマイル 4

 ある冷え込んでいる夜のこと、ビッテンフェルトは水の流れる音で目が覚めた。ふと見ると、隣に寝ている筈のアマンダの姿がなく、ベットの温もりも消えている。
「アマンダ?」
 ビッテンフェルトは、水の音のする洗面所に急ぎ、暗闇の中で洗面台の前にいるアマンダを見つけた。照明を付けると、青ざめた顔で取り憑かれたように手を洗っている妻の姿が目に映った。
「アマンダ!何をしているだ?」
「・・・手に血が付いている。ずっと洗っているのに血の色が離れない・・・」
 ビッテンフェルトには見えない血のついた手を、アマンダは泣きそうな顔で必死に洗っている。
「こんな汚れた手でルイーゼを抱けない!」
 涙ぐむ哀しい声・・・。いつからやってたのだろうか、アマンダの手は白くふやけていた。
「アマンダ!こっちを見ろ!俺を見るんだ!」
 ビッテンフェルトがアマンダの肩を揺さぶって、正気を取り戻そうとする。
「・・・ああ、私・・・ごめんなさい・・・あの・・・」
 何か言おうとしていたアマンダを、ビッテンフェルトは強く抱きしめた。
「何も言わなくてもいい。俺が付いている」
 アマンダの体が、ビッテンフェルトの温かい胸に埋もれる。そこには、震える声で泣くアマンダがいた。アマンダのすっかり冷えた体と氷のように冷たい両手、そして哀しい過去がビッテンフェルトの温もりに包まれた。
(戦争は終わった。だが生き残った者は多かれ少なかれ心に傷を負っている。必ず、お前の傷は俺が癒してやる。大丈夫だ・・・大丈夫だ・・・)
 ビッテンフェルトは自分に言い聞かせていた。


 静かな夜更けに、パチパチと薪が燃える音が聞こえる。
 暖炉のほんのりとした灯火の前で、夫婦でウイスキーのお湯割りを飲みながら冷えた体を温めていた。
「落ち着いたか?」
 ビッテンフェルトの言葉にアマンダが頷く。彼女にとって酒は久し振りであった。

自分のお腹の中に
一つの生命が宿っていると気づいてから
酒も煙草もやめた
優しい気持ちになれる自分を、
不思議に思った
飲まずにはいられないほど、
気が滅入る事も少なくなった
眠れない夜は
お腹の中の赤ちゃんが、胎動で慰めてくれた
酒は必要が無くなった

ルイーゼが生まれると、
その存在が生きる活力になっていった
ルイーゼの無邪気な笑顔が、
過去の痛みを忘れさせてくれた
フリッツと暮らし始めてから
何年かぶりに心から笑えた
毎日が満ち足りて幸せだと感じていた

・・・もう魂が流離う事は、ないと思っていたのに・・・

 黙り込んで暖炉の火を見つめているアマンダに、ビッテンフェルトが話しかける。
「・・・過去を忘れろとは言わない。心の奥底に埋まっているものには自分ではどうすることも出来ないものもあるさ。今は無理でも時間の流れが解決してくれることもある」
「・・・・・・」
「俺がお前達をどんなものからも守ってやる」
 アマンダが弱々しい微笑みを見せる。
「理不尽な貴族社会もなくなり、戦争も終わった。これからは平和な時代になる。俺はルイーゼのためにもいい未来を作るんだ。・・・それが新しい時代の為、犠牲になった者への罪滅ぼしになるのかもしれん・・・」
 アマンダの蒼色の瞳が、ビッテンフェルトを見つめる
「お前も前を見て生きるんだ。ルイーゼと一緒の幸せの未来を見つめろ!」
 ビッテンフェルトは三個目のグラスを見つめて話し続ける。
「そりゃたまには、過去を振り返るのは悪い事じゃないさ。過去に心を閉ざしたら現在の足下も見えなくなって、いい未来も築けないしな!だが目を向けるのは前だ!未来の方だ。歩いて来た過去じゃない」
「・・・そうね。前向きにね・・・」
 アマンダは自分に言い聞かせるように呟いた。
「アマンダ、ルイーゼに弟や妹を作ってやろう!子供はたくさんいた方が賑やかでいい。俺たちは子供や孫達に囲まれて過ごすんだ」
 アマンダの表情が和む。
「よし!早速・・・」
 思い立ったら止まらない。猪突猛進の彼は、アマンダを優しく抱きかかえると寝室へ消えていった。
 暖かな空気の余韻を残しながら、暖炉の灯火はゆっくりと小さくなっていった。



 今にも雪が降りそう暗い空模様の日、高級士官クラブ<海鷲>ではミュラー、ワーレン、ミッターマイヤー、アイゼナッハの四人の顔ぶれで酒を交わしていた。
「敬愛する司令官が、<出来ちゃった結婚>するもんだから、黒色槍騎兵では右習えの兵士達で異様な熱気だそうだな?」
「私も聞きましたよ。何でも兵士達の部屋には、様々な栄養ドリンクの他に<男女を産み分ける方法>という本も置いてあるそうですよ」
「う~ん、一年後、黒色槍騎兵ではピンクのベビーブームが訪れることだろうよ」
 そんな話をしていた所に、噂の司令官ビッテンフェルトが顔を出した。
「よう!」
 思わず僚友達が苦笑いする。
「珍しいな!」
「本当に<海鷲>では久し振りですね。ずっとルイーゼ嬢に提督を独り占めされていましたから」
 ミュラーがビッテンフェルトに席を勧める。
「なんか盛り上がったいるようだな?」
「このところ注目の卿の事だ。どうやって奥方を射止めたかを議論していた」
「お二人は、いつの間にか一緒に住むようになりましたけど、どうやって彼女を口説いたんですか?」
 ビッテンフェルトは、あの小春日和の日の再会を思い出した。
「『捕まえた!』と言った」
「『捕まえた!』・・・ですか?そんな鬼ごっこじゃあるまいし・・・」
 ミュラーが呆れたように言う。
「一度逃げられたから、今度は捕まえたと言うことだ!」
「一度逃げられた?」
 ワーレンがすかさず聞き返し、ミッターマイヤーが吹き出した。周りに笑い声が起こった。雑誌を読んでいるアイゼナッハが、声を出さずに笑っているらしく肩が震えていた。
(しまった~。いらぬことを言ってしまった!)
「コラ!ミュラー!お前が余計な事を聞くから~」
 ビッテンフェルトが怒り出した。
「すみません」
 笑いながら謝る。和やかな場になり、酒が進む。
「ミュラー、逃げたら捕まえればいいんだ」
「え?」
「忘れられないならそうすればいい」
 ミュラーは、自分の別れた恋人の事を言っているのだと気が付いた。
「・・・もう遅いですよ・・・」
「だったら新しく相手を見つけろ!」
「今はもう仕事で手一杯です。何しろあのオーベルシュタイン元帥の後を任された訳ですから・・・」
「あんな妖怪と同じことは、誰にも出来ないさ」
 ワーレンが納得顔で頷く。
「ミュラー、お前の手は幾つある?」
「二つですが・・・?」
 ビッテンフェルトからの突然の質問に、ミュラーは不思議そうに答える。
「手が二つある理由は知っているか?一つは仕事をやるため!もう一つは女を捕まえるため!そのために二つあるんだ!」
「・・・凄い理屈ですね」
「戦争は終わったんだ。もう、両手で仕事を持つな。片手で充分!空いてる手で相手を捕まえろ!」
「・・・あはは・・・努力します・・・」
 ミュラーには無茶苦茶言っているビッテンフェルトが、彼なりに自分を気遣っているのを知っている。
「それは、愛する奥方と可愛い娘を持つ者の余裕の発言だな!」
 二人のやりとりを聞いていたワーレンが、ビッテンフェルトに話しかける。
「おう♪」
 ビッテンフェルトは得意げに答えた。
「ホント!以前ここで『女なんて・・・』と言って大暴れした誰かと、とても同一人物とは思えない・・・」
 ミッターマイヤーの言葉で、周りは一瞬はシ~ンとなった・・・・・・がその後、大爆笑が起きた。
 まだビッテンフェルトが独身だった頃、ここ<海鷲>で酔って暴れたのだ。何がきっかけだっだか皆覚えてないのだが、ビッテンフェルトが『女がどうのこうの』と、叫んだ事は覚えている。
 手がつけられない状態だったが、ビッテンフェルト本人は全く記憶に無かった。その後<海鷲>は店内を修復するため、二日間店を閉めた。皆、その事を思い出したのである。
 ワーレンは酒を吹き出してむせてしまうし、ミッターマイヤーは腹を抱えて笑っている。ミュラーは笑いを堪えようとしているが我慢出来ないらしく、肩が震え声が漏れている。アイゼナッハは持っている雑誌までが揺れていた。
「・・・俺は帰る!」
 僚友達の笑いに、ビッテンフェルトは拗ねてしまった。
「まあ、そう言うな!卿が帰ってしまうと酒が楽しく無くなる」
 ミッターマイヤーがそう宥めて、ビッテンフェルトのグラスにワインを注いだ。
 その後の話題は子供の事になり、親ばかぶりを披露したビッテンフェルトは、盛り上がりすっかり上機嫌になった。



 雪がちらついてきたその夜の帰り、自分の肩に寄り掛かりながら千鳥足で歩く酔っぱらいのビッテンフェルトを、ミュラーは自宅まで送って行った。
「いいかミュラー!守る者がいると男は強くなれる。愛する女がいれば心が安らぐ。可愛い子供がいれば平和で明るい未来を願う」
 ビッテンフェルトは酔っぱらい口調で、更にくどくど言う。
「建国の基礎という土台だけ作ってヴァルハラに逝ってしまった連中に、いつか俺が逝ったときに『土台の上に立派な国家を築いたのは俺達だ!』と自慢するんだ。あのオーベルシュタインにも、堂々と胸を張って大きな顔をする事ができる!」
 ミュラーはこの人が強く生きる秘訣は、ここにあるのかも知れないと思った。


 ビッテンフェルト邸につく頃には、二人とも頭にうっすらと雪をつけていた。
「温かい飲み物をどうぞ」と言うアマンダの好意に甘えて、ミュラーは一休みする。何しろあのビッテンフェルトを、引きずるように連れて来たので、すっかり疲れてしまったのだ。
「ルイちゃん!ただいま♪」
 帰宅した父親の問いかけに、暖炉の前で遊んでいたルイーゼは、小さな歯を出して満面の笑みを浮かべた。
(これではビッテンフェルト提督でなくてもメロメロになってしまう)ミュラーも釣られて微笑む。
 ルイーゼの笑顔で、更に骨抜き状態になったビッテンフェルトは、娘の隣に行きゴロンと寝そべった。何分もしないうちに、声と同じくらい大きい鼾の音が響く。その轟音をものともせず父親の隣で、娘のルイーゼはウサギのぬいぐるみでご機嫌に遊んでいた。
 アマンダが、ビッテンフェルトの大きな体に毛布を掛けてやった。
 ビッテンフェルトの鼾をBGMにしながら、ミュラーとアマンダは向き合ってコーヒーを飲む。
「・・・私は、フリッツとルイーゼに救われた部分があります・・・」
「ビッテンフェルト提督とルイーゼの二人がかりの笑顔は、どんな悲しみも和らげてくれますよ」
「ええ」
「貴女に笑顔が戻って良かった・・・」
「・・・ミュラーさん・・・」
「はい?」
「私はフリッツの前で泣けたのがきっかけでした・・・」
「そうですか・・・」
「出口の見えない暗いトンネルで彷徨っている私を、あの人は明るい場所に導いてくれます」
「何となくわかります」
「あなたも、早く心の霧が晴れるといいですね」
 ミュラーは思わずアマンダを見つめた。
 アマンダの深い微笑みが砂色の瞳に映る。
(この微笑み、何かで見たような・・・)
 ミュラーは必死に記憶を辿った。

そうだ、あの本!
長い入院生活の時の、
心の空白を埋めたくて読んだ本
人類が地球にいた頃の、
信仰を集めた神秘的な微笑を持つ仏像の姿
<アルカイック・スマイル>と呼ばれていた
不思議な安らぎを与える微笑み

そうか、この人はこんな素敵な微笑みが出来る人だったんだ・・・
やっぱりビッテンフェルト提督にはかなわないや!
この人に<アルカイック・スマイル>を取り戻させたのだから・・・

 ミュラーは、暖炉の前のビッテンフェルトとルイーズを見つめた。
 暖かな空間で、オレンジ色の髪をした父親と同じ色の柔らかい髪を持つ娘が、安らかな寝顔で寄り添いながら眠りに付いていた。


<完>

~あとがき~
これは、私が初めて書いた小説です。
この作品はあき様「crimson clover」の小説<stray sheep>のミュラーさんを励ましたくて出来たお話です。
しかし、ミュラーさんでなく、ビッテンフェルトが幸せを掴んでしまいました。(笑)
タイトルの<アルカイック・スマイル>は、日本の仏像の温和なお顔をイメージして付けました。
(未熟な処女作だというのに、あき様に押しつけてしまいました(^^;)
その後のスマイルシリーズも、お世話になっています~

※このサイトに収納する際、オリキャラであるアマンダに名前を付け加えました。
(最初、名前しか設定していなかったので、新たに姓を付け足しました)