皇帝陛下が崩御して、何度目かの夜を迎えた。誰もが皆、悲しみから逃れるように、慌ただしく時間を過ごしていた。
ずっと寝ていないビッテンフェルトは、副官のオイゲンの忠告の従い自宅に戻ち、少し体を休ませることにした。しかし、帰宅して横になってはみるものの、疲れているはずなのに彼の目は、妙に冴えて眠れそうになかった。
ビッテンフェルトの中で、忙しいときは紛れていた空虚さがこみ上げてきた。なんだかやりきれなくなった彼は、無性に誰かと話がしたくなった。ふと、頭の中に、オーベルシュタインの顔が浮かんだ。
(なぜ陛下ではなくお前なんだ!)
ビッテンフェルトは自分の頭の中の映像に腹を立てたが、そのあとすぐ、オーベルシュタインの秘書官であるアマンダの事を思い出した。
(同じように上官を亡くしたあの女は、どうしているだろう・・・)
あのハイネセンの一件以来、彼女とは顔を合わせていない。ビッテンフェルトは、アマンダの事が急に気になってしまった。 、 <思い付いたら即実行>の彼の足は、アマンダの官舎に向かって走り出していた。
アマンダが住む官舎の玄関で、ビッテンフェルトは大きく深呼吸をした。そして、呼び鈴を押す。
ドアがゆっくり開き、クリーム色の髪と蒼い瞳のアマンダが姿を現した。ビッテンフェルトは、目の前のアマンダから漂う酒の臭いに気が付いた。
「お前、飲んでいたのか?」
「・・・・・・」
「だったら俺と一緒に飲まないか?」
突然のビッテンフェルトの誘いだったが、アマンダは無言で首を傾け部屋に招いた。
ビッテンフェルトが部屋の中に入ると、テーブルには二つのグラスが置かれていた。
<しまった!誰かと飲んでいたのか・・・>と一瞬ビッテンフェルトは思ったが、部屋にはアマンダ以外に人は見あたらず、彼は不思議に思った。
アマンダはそんな疑問顔のビッテンフェルトに構わず、新たに三個目のグラスを彼の前に置いた。ビッテンフェルトは自分でそのグラスに水割りを作り始める。アマンダは黙ってそれを見つめていた。
二人とも無言のまま時間が流れ、ビッテンフェルトのグラスの酒が半分に減った頃、初めて彼はアマンダに尋ねた。
「このグラスは?」
「・・・ヴァルハラにいる人・・・」
「軍務尚書のことか?」
「・・・あの人達はヴァルハラの門を通れず、まだこの辺にいる・・・」
一瞬、口元だけの乾いた笑みを見せたアマンダが、ビッテンフェルトに吐き捨てるように告げた。
(あの人達?陛下とオーベルシュタインのことか)
不敬罪にもあたる言葉に、ビッテンフェルトは思わず眉を顰めて、アマンダを見つめた。だが、アマンダの表情は変わらない。
「大分飲んでいるな・・・」
「・・・そうね・・・」
アマンダはそう言ったが、ビッテンフェルトからも見ても、彼女が酔っているようには感じられなかった。
ビッテンフェルトが、アマンダの空のグラスに水割りを作ってやる。
「なぜ、二人はヴァルハラの門を通れない?」
「・・・血を吸いすぎたから・・・」
ビッテンフェルトの問いに、アマンダは目を合わせず無表情のまま告げる。
「そうか。だったら、俺も死んでもヴァルハラの門はくぐれんな」
「・・・・・・」
「上級大将なんて偉そうな地位は、たくさんの部下の命を楯と矛にしてきた証のようなものだからな・・・。軍人なんて因果な商売さ・・・」
アマンダが、黙って煙草に火をつける。
「上官のオーベルシュタインのこと、どう思っていた?」
「・・・あの人から見れば、私は単なる持ち駒の一つ・・・」
煙を吐いて、部下だった女は答えた。
「陛下から見れば、俺だって持ち駒の一つさ!」
ビッテンフェルトも、煙草を吸い始める。部屋に紫煙が漂う。
「戦場では、自分の部下も持ち駒になる。戦艦をチェスの駒と同じように見立て戦略を練る。一角が崩れると、違う場所から駒を補充する。どの駒にも何百人という命が付いてくるのだが故意に忘れる・・・。頭を切り替えないと狂ってしまう世界だ」
「・・・・・・」
「戦場の修羅場では、死にゆく者もそれを看取る者も、紙一重の運命という状態だ。何回も経験すると、人の死や痛みの感覚が鈍くなる。そんな自分が嫌になるが、奮い立たせる。司令官の士気が、全体の流れに影響することもあるからな。前線に立つことのない軍務省の奴らには、解らん感情かも知れんが・・・」
「・・・そうね、戦場の修羅場は知らない・・・」
表情を変えずに、アマンダが言う。その後、二人とも黙ってしまい沈黙が続いた。
「なぜあのとき、俺を庇った?」
不意にビッテンフェルトが、あのハイネセンでの出来事に対して問い掛けた。
「・・・・・・」
アマンダは黙ったまま、反応がなかった。
話そうとしないアマンダに、ビッテンフェルトが告げた。
「話したくないなら、無理に言わなくてもいいさ!」
無言のアマンダの蒼色の瞳が、ビッテンフェルトを見つめる。遠い、違う空間を見ているような目・・・。
ビッテンフェルトは、アマンダが自分を通して、だれか違う面影を見ていることに気が付いた。
そのとき、かすかにアマンダの唇が動いた。
「・・・貴族に復讐を誓った・・・」
凍る様な声に(えっ?)とビッテンフェルトは顔を上げた。アマンダのもっていたグラスの水割りが静かに波立ち、氷がグラスにぶつかる様子をみて、ビッテンフェルトは彼女の手が震えているのを知った
(泣いている?)
ビッテンフェルトがアマンダに見つめると、そこには哀切の表情の女がいた。蒼色の瞳には涙はなかった。だがそれは深い沼の底の様に暗い水の色をしていた。ビッテンフェルトは、そのままアマンダが沈んで消えてしまいそうな錯覚を覚えた。
(この女には、悲しい過去がある・・・)
ビッテンフェルトはそう感じた。
軍服の上からは想像出来ない程の細い肩が、かわいそうなくらい儚く見えた。アマンダの揺れているグラスを受け取り、テーブルに置いた。
そして、自分の両手をアマンダの頬に添えた。
ビッテンフェルトのその大きな手には意外な温もりがあり、彼女は思いがけなく癒されるような心地良さを感じた。
頬に添えたビッテンフェルトの手に、一筋の温かいものが流れる。
その涙にビッテンフェルトが驚くが、それ以上にアマンダ本人の方が、自分の涙に驚いたように目を見開いた。
そして、その蒼色の目と薄茶色の目が合った瞬間、アマンダの細い肩はビッテンフェルトのたくましい胸の中にいた。
アマンダの中で、不思議な安堵感に包まれる感覚が沸き上がる。
照明が消え、月明かりの朧ろな空間。
・・・抱いて、抱かれた・・・
愛があるかどうかは問題ではなかった。ただ、お互い、心の隙間に流れる寂寞を埋め合おうとしていただけだった。
翌日の朝、アマンダは、洗面所の鏡に写る自分の顔を見つめた。
(もう泣くこともないと思っていたのに・・・)
ビッテンフェルトは、部屋に漂うコーヒーの香りで目が覚めた。
「よう!」
昨夜抱いた女は軍服に身を堅め、相変わらずの無表情でコーヒーを飲んでいる。
「お前、疲れないか?そういう生き方・・・」
「・・・・・・」
ビッテンフェルトの問いかけに、アマンダは無言であった。女の無反応に、ビッテンフェルトがついぼやくように呟く。
「自分を閉じこめるより、もっと感情を出して生きた方が楽だろうに・・・」
そのとき、アマンダが時計を指を指して、ビッテンフェルトに時間の経過を教える。
「やべぇ、時間が!」
ビッテンフェルトはあわてて軍服を着込み、玄関へ急いだ。そして、背中を向けているアマンダに、彼らしくない自信なさそうな言い方で問いかけた。
「また来ていいか?」
返事はなかった。だが、ビッテンフェルトが見た女の背中は、拒絶の裏に救いを求めているように感じた。
「また来る!」
彼はそう言い直して外に出た。歩きながらビッテンフェルトは、昨夜のことを思い出していた。
あの女に表情がないのは、
自分を閉じこめているからだ
過去がどんなものなのか解らないが、
心に影を抱えている
あの空席のグラス
ヴァルハラに逝った人というのも関係があるのか?
昨夜、
自分の胸の中であの女は、
無表情のままのその目から涙をこぼしていた
泣きじゃくるわけでもなく、
声を出さずにいるが
声を殺しているふうでもない
泣き方を忘れたように
感情を感じさせない涙が気になった
こんな悲しい泣き方をするあいつを
可哀想に思った・・・
外は夏らしくないひんやりとした空気が漂い、まだ陛下が逝った日の嵐の余韻が残っていた。
新しい時代を迎えるのに、残された者は忙しかった。ビッテンフェルトがアマンダと過ごしたあの夜から早くも一週間が経っていた。ようやく仕事に一息つけたビッテンフェルトが、ワインとバラの花束を手にアマンダの官舎に足を運んだ。
(彼女が一部分ではあるが、俺の前で自分を見せてくれた。)
ビッテンフェルトの心の中で、アマンダの存在が大きくなりつつあった。その新たな感情が何であるかは、まだ特定出来ないが、ただ彼女を救ってやりたい気持ちになっていた。
玄関の前で気合いを入れたビッテンフェルトが、官舎の呼び鈴を押す。しかし、全く反応がない。不審に思った彼はドアに手をかけた。ドアには鍵はかかっておらず、自由に入る事ができる状態であった。
ビッテンフェルトは嫌な予感がした。
(おかしい。人の気配どころか、生活の匂いさえなくなっている)
「おい!アマンダ!いないのか?」
叫びながら奥に進んだ。部屋の中は、物がなくなって空き家になっていた。呆気にとられたビッテンフェルトが、暫く呆然となる。
「チッ、くそ!」
ビッテンフェルトは、もっていた花束を壁にぶつけた。バラの花びらが舞い、香りが立ち込めてくる。何もない部屋がバラの香りに包まれた。
アマンダが姿を消してから、ビッテンフェルトは彼女の行方を捜してみたが、消息を知るものはいなかった。
オーベルシュタイン元帥が亡くなった軍務省は、混乱を取り戻していたが退役する者も少なくなかった。彼女もその中の一人とされ、周りの人々の記憶から消えていった。アマンダの行方の知る糸口を得るため軍の人事課に問い合わせて見たところ、意外な事を言われてしまった。
「アマンダ・ベーレンス准尉の資料はありません」
「そんな馬鹿な!」
退役したとはいえ、最近まで軍務省にいたのである。ビッテンフェルトは腑に落ちなかった。
何日か経って、ビッテンフェルトは軍務省に行き、オーベルシュタインの後任の軍務尚書になったミュラーの執務室を訪ねた。周りの者を下がらせ二人きりになってから、ミュラーは話を切り出した。
「頼まれていたアマンダ・ベーレンス准尉の件ですが・・・実は彼女、秘書官の前はオーベルシュタイン元帥の諜報員だったんです」
「諜報員!」
「ええ、詳しいことは解りません。ご存じの通り諜報員は極秘で活動してますし、退役した段階でほとんど資料は残しません。・・・敵も味方も欺く行為をしますから・・・本人の身の安全のためです」
「・・・知っている」
「貴族連合軍と戦いが始める以前から、工作員として貴族側に潜入していたらしいです」
「工作員として貴族側に・・・」
(あのとき「貴族に復讐を誓った・・・」とアマンダは言っていた)
オーベルシュタインとアマンダを結ぶ糸が、ぼんやりと見えた気がした。
貴族に復讐と言うぐらいだから、
貴族社会を憎んでいたのか?
女の身で工作員・・・
憎悪や陰謀が渦巻く世界では、
自分の感情は不必要だったろう
策略や裏切りの中では、
女を武器にしたこともあったんだろうな
お前は「戦場の修羅場は知らない」と言っていた
地上の醜い世界の修羅場は知っていたんだな・・・
ミュラーは、黙りこくってしまったビッテンフェルトに話しかけた。
「・・・ビッテンフェルト提督?大丈夫ですか?」
思考の渦の中にいたビッテンフェルトが、ミュラーの声に我に返った。
「ああ、済まない。少し考え事をしていて・・・」
「彼女のこと、もう少し詳しく調べて見ますか?」
ミュラーが遠慮がちに言う。彼は、アマンダがオーベルシュタインの諜報の手足となった工作員だった事を知り、その後の調査は控えた。当時の貴族の社会に潜入した女性工作員の役割は、ミュラーにも見当が付く。
「いや、もういい。忙しいのに手間を取らせて悪かったな」
「いえ、彼女の居場所が判らず、お役に立てなくて申し訳ありません」
ミュラーは、ビッテンフェルトとアマンダの間に何かあったと考えたが、深くは推測しなかった。
ビッテンフェルトは、急に消えたアマンダの存在を忘れられなくなっていた。
無機質な表情は、
凄まじい修羅場を幾度もくぐったせいか?
耐えきれなくなった心に封印して、
感情を失わせたのか?
人形が涙を見せるような悲しいあいつの泣き方を変えたい
そして、俺は
あいつの笑顔が見たい
あいつの笑い声が聞きたい
ハイネセンでの出来事や二人で酒を飲みながら話したこと、そしてあの夜のこと・・・・・・何度も何度も思い出す。
ビッテンフェルトは自分の心に、彼女が住みついてしまった事に気がついた。しかし、肝心のアマンダの行方は、ずっと掴めずにいた。
<続く>