ミュラーの恋人エリスの父親が亡くなってから、もうすぐ一年が過ぎようとしている。
父親の一周忌過ぎを目安に正式に婚約して、出来るだけ早くエリスとの結婚を望んでいたミュラーは、(そろそろプロポーズしてもいい頃だよな・・・)と思っていた。
しかし、決意はしたものの思うように実行に移せないまま、時間だけが過ぎている。
恋人のエリスが若く、まだまだ青春を楽しむ年頃であるということも求婚に踏み込めない一つの理由でもあったが、いざ男女間の事になると必要以上に慎重になるミュラーの性格も影響しているのであろう。
エリスは高校を卒業した後、絵の教室でアシスタントの仕事をしていた。
そこの教室の講師を兼ねていた画家のバイエルン氏が、高校の美術部の顧問の先生と知り合いという縁で、エリスにこの仕事が舞い込んだ。
主に子供を対象にした教室だったので、エリスは毎日楽しそうに子供相手に絵の世界に浸っている。
恋人のミュラーもビッテンフェルト夫妻も、芸術関係の大学に入学が決まっていたエリスにそれとなく進学を勧めたが、エリスは自分に合う仕事がちょうど見つかったと笑って進学を取りやめ就職の道を選んだのだ。
エリスの子供好きは知っていたが、それ以上に両親のいないエリスの早く自立したいという思いが、学生ではなく社会人としての道を進ませたことを周囲は察していた。
ミュラーと付きあい始めて約一年、エリスはどんどん変わっていった。
一緒に暮らしているビッテンフェルトやアマンダにも、エリスの変化は眩しいほどだった。まるでサナギから美しい蝶に羽化するように、エリスは可憐な少女から魅力的な女性へと変わっていった。
ビッテンフェルトは、恋愛によってこんなにも急激に大人になったエリスに、恋する乙女の不思議さを改めて思い知った。ミュラーとの結婚も時間の問題だろうと、ビッテンフェルトを始め誰もがそう感じていた。
そんななか、ビッテンフェルトは毎年恒例の宇宙への遠征に出立した。帰還予定の二ヶ月後には、娘のように思っているエリスの花嫁姿を見ることが出来るであろうと、予想しての旅立ちであった。
ミュラーの副官ドレウェンツも、早く結婚式の準備をしたいと思いつつ、未だに恋人にプロポーズさえしていない上官に気を揉んでいた。
久しぶりの休日、迎えにきたミュラーに、エリスは尋ねた。
「今日のデートは、天気が良ければ動物園に行くって予定でしたよね。あの、ルイちゃんも連れて行ってもいいでしょうか?」
それを聞いたアマンダが「こんなおじゃま虫が付いていったら、折角のデートが台無しになってしまうわ」と、慌ててエリスにくっついているルイーゼを呼び寄せた。
実はアマンダは、今日のミュラーが一大決意でこのデートに望んでいることを知っているのだ。
先日ミュラーに相談され、エリスに似合いそうな指輪を選ぶのを手伝った。勿論、最終的にはミュラー本人がエンゲージリングを決めたのだが、アマンダやミーネのアドバイスがかなり参考になったのは確かである。
今日のデートでプロポーズをしっかり決めて、エンゲージリングを渡そうとしているミュラーの計画を知っているだけに、万全な態勢を整えてやらなくてはと、アマンダはエリスから離れないルイーゼを宥めてみる。
しかし、二人のデートに付いて行くつもりになっているルイーゼはなかなか動じなかった。一度こうと決めたらてこでも動かない性格は、父親のビッテンフェルト譲りだろう。
「ルイーゼも、ビッテンフェルト提督が遠征でずっといないから寂しいんですよ。一緒に連れていって遊んだら、いい気分転換になるでしょう」
ミュラーは温和な顔でそう言うと、ルイーゼを抱っこした。
「でも・・・」
「大丈夫です。私がちゃんと面倒見ますから」
アマンダの困った顔に、エリスが安心させるように答える。
今日のミュラーの思惑を知らないエリスと自分の意志が通って満足そうなルイーゼを乗せて、ミュラーは初デートの場所である思い出の動物園へと車を走らせた。
郊外にある動物園は、天候に恵まれたせいもあり家族連れが多く見られた。
ミュラーに肩車されたルイーゼとエリスの3人も幸せな親子のようだった。
様々な動物たち達を見てすっかりご機嫌のルイーゼは、楽しそうにはしゃいでいる。園内を一回り見た後、木陰のベンチに腰掛け3人は一休みをした。
ミュラーの買ってきたポップコーンを夢中で食べているルイーゼの横で、ミュラーとエリスも飲み物を飲んでくつろぐ。
「何だか初めてのデートを思い出しますね」
「そうだね。あれから一年、いろいろなことがあったな。君はお父さんが亡くし、ビッテンフェルト一家やミーネさんと一緒に暮らしている。それに、あの頃は学生だったのに、もう社会人として立派に働いて・・・そして、何より今は私の大事な恋人だ!」
ミュラーに「大事な恋人」と言われて、嬉しそうに微笑むエリス。二人ともすっかり自分たちの世界に浸っていた。
「一年前ここに来たときは、ミュラーさんとこんな関係になれるなんて、予想もしていませんでした。ご縁って不思議ですよね」
「そうだね。私は君と出会えてよかった。素敵な縁に恵まれたよ。・・・一年後、私たちはどんなふうに変わっていると思うかい?」
「変わる?・・・出来ればこのまま、変わらないでいて欲しいです。今、とても幸せだから・・・」
エリスはちょっと照れくさそうに俯いて答えた。そんなエリスを見つめ、ミュラーはついにプロポーズの言葉を口にした。
「その~、君の名前と住む家が変わっているという未来は予想出来ないかな?エリス、一年後は私と結婚して、エリス・ミュラーになっていて欲しいんだが・・・」
「きゃぁぁ、危ない!!」
ミュラーの言葉が終わらないうちに、突然、エリスが叫んだ。
(はぁ??)
事態が飲み込めないミュラーが、エリスの指さす方向を見て驚いた。
隣にいたはずのルイーゼが、20m程先にある猿山の前で、下に落ちそうなくらい前のめり状態で猿を見ているのだ。
しかも、身長が低く手すりで見えないルイーゼは、どこから持ってきたのか木箱に乗って、夢中になって覗き込んでいる。
(あの場所から下に落ちたら大変だ!!)
ここの動物園は山の自然を上手く利用して造られており、特に猿のいる猿山は見やすいようにと見物するところが高くなっているのだ。猿たちは6mくらい下の場所で生活していて、それを見下ろす形で客たちが見るという構造となっている。今、ルイーゼが下に落ちたら、当然大けがをしてしまう。
焦ったミュラーは猛ダッシュでルイーゼの元に走り寄った。そして、落ちそうな状態のルイーゼを抱きかかえ、ほっと一安心する。
ミュラーに続いて青ざめて走って来たエリスに、「大丈夫!落ちていないよ!」と知らせ、「全く・・・、君は油断も隙もないな~」と、父親そっくりに笑うルイーゼを見つめた。
「良かった~!!ミュラーさん、すいません。私が目を離したばかりに・・・」
ミュラーは抱きかかえていたルイーゼをエリスに渡した。
そのとき、ミュラーはあることに気が付き、呆然となった。先ほど取り出しやすいようにと上着の胸ポケットに入れたエリスに渡す筈のエンゲージリングの箱が、ない!
慌てて辺りを捜すミュラーに、猿山の中にぽつんと落ちている小さな箱が目に入った。ルイーゼを助けるため急いで走って来た勢いで、箱がポケットから下に落ちてしまったらしい。
(しまった~)
動揺しているミュラーに、エリスが心配そうに聞いてきた。
「ミュラーさん、どうかしたんですか?」
「いや、たいしたことではないが・・・。その~、ちょっと下に大事な物を落としてしまったんだ」
「まぁ、大変!飼育係の方を呼びましょうか?」
「いや、猿たちに拾われたら大変だから、今すぐ自分で取りに行く!」
「えっ、大丈夫ですか?」
驚くエリスに、ミュラーは「大丈夫だよ」と言って安心させたものの(猿たちがあの箱の存在に気づく前に回収しないと・・・)と、内心は焦っていた。
(あの指輪の箱に悪戯されたら大変だし、何より一度箱を手にした猿から取り返すのは困難だろう・・・)
ミュラーは自分で拾いにいこうと決めたものの、どうやって実行するべきか素早く思案した。
(下に飛び降りるのは簡単だが、問題がその後だ。退路をきちんと確保していないと、猿たちが集まってきたとき大変だし・・・)
「梯子があったらいいのだが・・・。いや、ロープでも構わない」
そう言ってミュラーは辺りを見渡した。不意にルイーゼがミュラーの服の裾を引っ張って、ある場所を指さした。
そこには掃除用品など動物園の備品が置いてあり、先ほどルイーゼが踏み台にしていた木箱も重ねてあった。しかも手頃なロープもある。
「よし、ルイーゼ、でかしたぞ!」
ミュラーは急いでそこからローブを持ってくると、片方の端を固定し、もう片方を下の猿山の中に静かに降ろした。
「これで退路は確保した!」
ミュラーは昼寝している猿たちを刺激しないように、注意してそっと下に降りた。
思わぬ侵入者に最初に気が付いたのは、一匹の子猿だった。
警戒の中にも好奇心をのぞかせて、ミュラーの傍に近寄ってその行動を見つめる。ミュラーは得意の温和な笑顔で子猿をあしらいながらも、落とした指輪の入っている箱をなんとか手に入れた。
「ふう~」
安堵の溜息をついたミュラーに、傍にいた子猿が怒ったように叫んだ。自分たちの獲物を横取りされたと思ったらしい・・・。
その子猿の叫び声に反応して、他の猿たちがミュラーの存在に気が付いた。慌てて逃げるミュラーの周りに、あっという間に猿たちが集まってきた。
上でミュラーの作業を見つめていたエリスは、そのいたたまれない光景に思わず顔を手で塞いだ。
そして、その指の隙間から目撃したものは、猿たちの攻撃を必死になって防ぐミュラーの姿だった。
ミュラーが動物園で猿達から総攻撃を受けたという話は、瞬く間に兵士達の噂になった。
会議で顔を合わせたワーレンとミッターマイヤーがその噂を聞き、「そんな、ビッテンフェルトじゃあるまいし・・・」と笑っていたが、その後現れたミュラーの顔と手にある無数の引っかけ傷を見て、目を点にして言葉を失った。
僚友達の同情の眼差しを受けたミュラーは、引きつった笑いで誤魔化し、その場を繕っていた。
更にこの男の不幸は、意を決して伝えたプロポーズの言葉が、ルイーゼの危ない行動に目がいっていたエリスの耳に届かなかったということであろう・・・。
<END>
今回ミュラーさん、プロポーズに失敗してしまいました(笑)
ミュラーさんは、どうも親子二代(ビッテンフェルト&ルイーゼ)にわたって振り回される人生のようです(A^^;)
次の挑戦で、是非、プロポーズを成功させて下さい。
(でも、又、邪魔が入るかも・・・/笑)