第52章 その他の種族の系譜

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Create:2025.8.6, Update:2025.10.14

1 はじめに
ギリシアの伝承に登場する種族の大部分は、OgygusかInachusの後裔であった。
Thessaly地方に住んでいたPerrhaebiansやAenianians (Malians, Centaurs)も、Ogygusの後裔と推定される。
例外は、TelchinesとDelphiansであった。
Leleges (or Lelegians)は、ギリシア世界の広い範囲で、伝承に登場するが、それらは、同じ種族ではなかった。
また、ギリシア人ではない、Gephyraeansもギリシアの歴史に深く関与していた。

2 Perrhaebiansについて
Perrhaebiansは、Deucalionの子Amphictyon が招集したAmphictyonsの一員であった。[1]
Amphictyonsの構成員は、Delphiansを除いて、Hellenの父Deucalionの後裔であった。
つまり、PerrhaebiansもDeucalionの後裔であり、Hellenesの支族であったと思われる。
Perrhaebiansは、Thessaly地方のDotiumやOssa山付近に住んでいた。[2]
BC1246年、Perrhaebiansの一部は、Lapithsに追われて、Peneius川の源流付近へ移住した。[3]
その後もPerrhaebiansは、Lapithsと共住して、Dotium周辺に住み続けた。[4]
BC1186年、Perrhaebiansは、Thessaly地方に攻め込んで来たThesprotiansと戦ったが敗れた。[5]
Perrhaebiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[6]
BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Perrhaebiansは、Persia大王に土と水を献じた。[7]

3 Aenianiansについて
Aenianians (or Enianians)は、Deucalionの子Amphictyon が招集したAmphictyonsの一員であった。[8]
Amphictyonsの構成員は、Delphiansを除いて、Hellenの父Deucalionの後裔であった。
つまり、AenianiansもDeucalionの後裔であり、Hellenesの支族であったと思われる。
Aenianiansは、Thessaly地方のDotiumやOssa山付近に住んでいた。[9]
BC1246年、Aenianiansの一部は、Lapithsに追われて、Oeta山の近くへ移住した。[10]
Aenianiansの一部は、Molossiansの地のAuas川付近へ移住して、Parauaeiに名前を変えた。[11]
Aenianiansは、Thessaly地方に住み続け、BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Persia大王に土と水を献じた。[12]

3.1 Malians
次のことから、Maliansは、Aenianiansの支族であったと推定される。
1) AD3世紀の著述家Antoninus Liberalisは、Malian Gulf北側のOthrys山麓をMaliansが領していたと伝えている。[13]
2) Straboは、AenianiansがOeta山付近からOthrys山麓のEchinusの町まで居住範囲を広げたと伝えている。[14]
BC1246年、Maliansは、Dotium平原からOeta山近くのTrachisの町へ移住した。[15]
BC1230年、Maliansは、Dryopiansを追放して、Dryopia地方を獲得した。[16]
その後、Maliansは、Trachisの町から東側のMalian Gulf周辺へ居住地を広げた。

3.2 Centaurs
次のことから、Centaursは、Aenianiansの支族であったと推定される。
1) Centaursは、Ixionの子Peirithousに追われて、Pindus山地に住むAethicesの土地へ逃げ込んだ。[17]
2) Dotiumに住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Aethiciaへ移住した。[18]
BC1390年、PelasgiansがThessaly地方を追われたとき、Deucalionの子Amphictyonが招集した部族名にAenianiansがある。[19]
Aenianiansも古くからThessaly地方に住むAeolisの支族と考えられる。
Hellenの子Aeolusの子Mimasの代と、彼の息子Hippotesの代の系譜は不明である。
Mimas、あるいはHippotesの息子にAenianiansの始祖がいて、Pelasgiansを追い出した後に、Dotiumに住み着いたと推定される。[20]
Lapithsに追われたCentaursの一部は、Aetolia地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、Heraclesに滅ぼされた。[21]
Centaursの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。その後、Molossia地方のAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[22]
BC5世紀末、Peloponnesian Warで、Oroedusに率いられたParauaeiは、Peloponnesus側に味方した。[23]
BC3世紀には、Parauaeiは、Macedonia地方の辺境に住んでいた。[24]

4 Delphiansについて
4.1 Lycoreiaの創建
BC1750年、Parnassus山の北側のCephisus川で大洪水が発生した。[25]
Ogygus率いるEctenesは、Cephisus川の下流へ逃れ、Inachusの息子たちは、Peloponnesusへ逃れた。
Parnassusの娘Coryciaの子Lycorus (or Lycoreus)に率いられた人々は、Parnassus山へ逃れて、Lycoreiaの町を創建した。[26]

4.2 Delphiの創建
Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの子 Delphusは、Lycoreiaの町より少し低い所に町を創建した。その町は、Delphus の名前に因んで、Delphiと呼ばれるようになった。[27]
Delphiは、Delphusの子Pythesの名前に因んで、Pythoとも呼ばれた。[28]
Delphiの創建は、BC1650年と推定される。

4.3 Lydiaへの移住
BC1173年、Delphiansは、Magnesiansと共にLydia地方へ移住して、Magnesiaの町を創建した。[29]

5 Lelegesについて
Straboは、LelegesがCaria地方、Acarnania地方、Locris地方に住んでいたため、Lelegesを放浪の民だと記している。[30]
しかし、それらのLelegesは、一つの種族ではなかった。
また、Boeotia地方やEuboea島の最初の住人もLelegesと呼ばれていた。[31]

5.1 Lacedaemon、Megara、AcarnaniaのLeleges
BC1430年、Libyaの子Lelexは、Egyptから後にLacedaemonとなる地方へ移住した。
その地方はLelegia、その地方の住人は、Lelexの名前に因んでLelegesと呼ばれるようになった。[32]
その後、Lelexは、Megara地方へ移住した。[33]
Megara地方の人々も、Lelegesと呼ばれるようになった。[34]
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Lelegesを率いて、Acarnania地方へ移住した。[35]
Teleboasの後裔は、Teleboansと呼ばれるようになり、Acarnania地方西部には、Teleboans、とLelegesが住んでいた。[36]

5.2 Asia MinorのLeleges
BC1425年、Agenorの子Phoenixの娘Astypalaeaは、Crete島北西部のApteraの町に住むIdaean Heraclesと結婚した。[37]
BC1416年、Idaean Heraclesは、移民団を率いて、Crete島からCaria地方へ移住して、5つの町を創建した。[38]
Idaean Heraclesは、Idaean Dactylsの一人であり、Telchinesであった。[39]
移民団の中には、Telchinesの他に、Arcadiansも含まれていた。
彼らは、Caria地方に住んでいたCariansと混血して、Lelegesに名前を変えた。
Idaean HeraclesとAstypalaeaの息子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[40]
Lelegesとは、混血して、特定の種族に属さない人々に与えられた名称であった。[41]
Pausaniasは、LelegesをCariansの支族だと記しているが、CariansとGreeksの混血によって誕生した種族であった。[42]
Trojan War時代、Leleges王Trambelusは、Miletusの町に住んでいた。[43]

5.3 LocrisのLeleges
BC1262年、Locrusの子Opusは、Locris地方のPhyscusの町からThermopylaeとEuripus海峡との間へ移住して、Opusの町を創建した。[44]
Opusの町の建設には、Argosの町、Thebesの町、Arcadia地方の町、Pisaの町から参加者があった。[45]
Locris地方に住む人々は、Dorians、Argives、Thebans、Arcadians、Myrmidonsが混血して、Lelegesと呼ばれるようになった。[46]
Locris地方に住んでいたLelegesは、Boeotia地方へも居住範囲を広げた。[47]

6 Gephyraeansについて
6.1 PhoeniciaからBoeotiaへの移住
BC1420年、Phoeniciansの支族Gephyraeansは、Cadmusの移民団に参加して、Phoenicia地方からBoeotia地方へ移住した。[48]
Gephyraeansは、Boeotia地方東部に定住して、その地方は、Gephyra (後のTanagra)と呼ばれるようになった。[49]

6.2 BoeotiaからAthensへの嫁入り
BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入し、AtheniansがTanagraの町周辺に居住していたGephyraeansのもとへ避難し、GephyraeansはAtheniansを受け入れた。[50]
BC1392年、第6代Athens王Erechtheusは、Gephyraeansの指導者Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaを妻に迎えた。[51]
このとき、Praxitheaと共に、Athensの町へ移住したGephyraeansは、Athensの町にPhoenician lettersをもたらした。

6.3 星座の知識の伝授
星座になったHyrieusの子Orionの墓は、Tanagraの町にあった。[52]
Tanagraの町の周辺に居住していたGephyraeansが、Babiloniansから得た星座に関する知識をギリシア人に伝えたと推定される。[53]

6.4 BoeotiaからAcarnaniaへの移住
6.4.1 Astacusの創建
BC1204年、EpigoniのThebes攻めで捕虜になったGephyraeansは、Amphiarausの子Alcmaeonと共にAcarnania地方へ遠征した。[54]
Gephyraeansの一部は、Achelous川の河口近くにAstacusの町を創建した。[55]

6.4.2 AstacusとGephyraeansの関係
Astacusは、AdrastusのThebes攻めのときに、Thebesの町の守将Melanippusの父の名前として登場する。[56]
BC712年にBithynia地方に創建されたAstacusの町は、SpartiのAstacusの名前に因んで名付けられたと伝えられている。Melanippusの父Astacusは、Spartiであったと思われる。[57]
Astacusの町には、Megaraの町とAthensの町からの移住した人々が住んでいた。[58]
SpartiのAstacusの後裔がMegarians (Dorians)の中にいたとは思えず、Atheniansの中にいたと思われる。
Athensの町へSpartiが移住したのは、BC1205年のEpigoniのThebes攻めの後で、Tanagra周辺に住んでいたGephyraeansが、Boeotiansに追われたときと推定される。[59]
つまり、Melanippusの父Astacusは、Gephyraeanであった。

6.4.3 Amphilochian Argosへの定住
Alcmaeonと共に遠征したGephyraeansの一部は、AlcmaeonがAmbracian Gulfの近くに建設したAmphilochian Argosの町にも定住した。[60]
BC430年、Ambraciansと共住したAmphilochiansは、初めてギリシア語を用いるようになった。[61]

6.5 AthensからEuboeaへの移住
BC1085年、Athensの町に住んでいたGephyraeansは、Euboea島へ移住して、Eretriaの町を創建した。[62]

6.6 EuboeaからAthensへの移住
BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusは、AristogitonとHarmodiusに暗殺された。[63]
AristogitonとHarmodiusは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[64]
Gephyraeansは、Euboea島のEretriaの町から移住して、Aphidnaの町に住んでいた。[65]

6.7 AthensからBithyniaへの移住
BC434年、Atheniansは、Bithynia地方へ植民した。[66]
Bithynia地方には、BC712年にZypoetes率いるMegariansが建設した町があった。[67]
Zypoetesが創建した町の住人は周辺部族からの攻撃に苦しんで、Atheniansに植民団の派遣を要請し、彼らはAtheniansと共住した。[68]
その町は、Thebesの町のSpartiの名前に因んで、Astacusと名付けられた。[69]
Astacusの後裔は、Atheniansの植民団の中にいたと推定される。

7 Hyantesについて
7.1 Cadmusとの戦い
Hyantesは、Cadmusが移住して来る前からBoeotia地方に住んでいた。
BC1420年、Hyantesは、Cadmusと戦ったが敗れて、西へ追いやられた。[70]
Hyantesは、Boeotia地方のCopais湖の南側に定住した。[71]
Hyantesの一部は、Aetolia地方へ移住した。[72]
BC1320年、Elisの町からEndymionの子Aetolusが移住したとき、Aetolia地方に住んでいたCuretesは、名前を変えたHyantesであったと思われる。

7.2 Copais西側への移動
BC1370年、Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusがCopais湖の南側に、Coroneiaの町とHaliartusの町を創建した。[73]
Hyantesは、彼らに追われて、Copais湖の西側へ移住した。
BC1350年、Orchomenusの子Aspledonは、Copais湖の北西部にAspledonの町を創建した。[74]
その後、Aspledonは、南へ移住して、Mideiaの町を創建した。[75]
恐らく、Copais湖の北西の土地は、Hyantesの勢力が強かったと思われる。

7.3 Hyampolisの創建
BC1310年、Hyantesは、Copais湖の北西部からPhocis地方へ移住して、Hyampolisの町を創建した。[76]
Orchomenusの町は、Chrysesの子Minyasの治世で全盛期を迎えており、Hyantesは、Minyansによって、北へ追いやられたと思われる。

7.4 Orchomenusの占領
BC1188年、Boeotia地方に、ThraciansやPelasgiansが侵入した。[77]
ThraciansはOrchomenusの町を、PelasgiansはCoroneiaの町を占領した。[78]

7.5 Orchomenusからの退去
BC1126年、BoeotiansとOrchomeniansは、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出した。[79]
Orchomenusの町を占拠していたThraciansとは、Hyantesであり、彼らは、Phocis地方のHyampolisの町へ移住したと思われる。[80]

8 ギリシア暗黒時代
Perrhaebiansは、Thessaly地方やPeneius川の源流付近に住んでいた。
Aenianiansは、Thessaly地方に住んでいた。
Aenianiansから名前を変えたMaliansは、Malian Gulf周辺に住んでいた。
Aenianiansから名前を変えたParauaeiは、Molossiansの地に住んでいた。
Delphiansは、Phocis地方のDelphiとLydia地方のMagnesiaの町に住んでいた。
Lelegesは、IoniansやDoriansに居住地を追われながらも、Asia Minorに住んでいた。
Gephyraeansは、Euboea島のEretriaの町に住んでいた。
Gephyraeansは、Acarnania地方に住んでいた。
Hyantesは、Phocis地方に住んでいた。
Hyantesから名前を変えたCuretesは、Aetolia地方に住んでいた。

おわり