第37章 トラキア地方の青銅器時代の歴史

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Create:2025.4.16, Update:2025.4.16

1 はじめに
Peloponnesus半島は、ギリシア人が入植したとき、ほぼ無人であったが、Thracia地方には多くの先住民族がいた。
ギリシア人は、Thracia地方へ多くの入植をしているが、一度に多くの町を建設するような大規模な人々の移動はなかった。
Thracia地方に入植したギリシア人は、周辺の先住民族と交じり合い、Straboは、彼らを一様にThraciansと呼んでいる。
Thracia、Macedonia、Paeonia地方の青銅器時代の歴史について記述する。

2 Thraciaの歴史
2.1 Arcadiaからの移住
BC1430年、Arcadia地方中央部に洪水が発生して、被災した住人は、新天地を求めて移住した。Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusは、Samothrace島に移住した。[1]
この時、Dardanusの兄弟Emathionは、Chalcidice半島を過ぎた所のThracia地方に入植した。Emathionは、Sithonia地方の支配者になった。[2]

2.2 Phoeniciaからの移住
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Phoenicia地方のSidonの町からSamothrace島を経由して、Chalcidice半島の北のThracia地方へ移住した。Cadmusは、Pangaeus山付近で金鉱を発見した。[3]
金鉱を発見したのは、Cadmusに同行していたIdaean Dactylsとも呼ばれるTelchinesであった。[4]
Cadmusの母Telephassaは、その地で死んだ。[5]

2.3 BoeotiaやPhocisへの移住
BC1420年、大津波に襲われたCadmusやTereusは、居住地を追われて、南下した。
Cadmusは、Boeotia地方へ移住してCadmeia (後のThebes)の町を創建した。[6]
Tereusは、Phocis地方のDaulis付近へ移住した。[7]
Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne (or Progne)と結婚した。[8]
Tereusは、Thracianだと伝えられている。[9]
しかし、PelasgianであったAthens王の娘と結婚していることから、Tereusは、Dardanusの移民団と途中で分かれて、Thracia地方に入植したPelasgianであったと思われる。
もしかすれば、Tereusは、EmathionやDardanusの兄弟であったかもしれない。

2.4 Athensからの移住
BC1390年、大津波に襲われたAthensの町から、Boreasが移民団を率いて、Samothrace島向かいの本土の内陸へ移住した。[10]
Boreasは、Hebrus川を遡上し、支流のRheginia川を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山の麓にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[11]
Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであったと推定される。

2.5 Eleusisからの移住
BC1390年、Eumolpusの子Ceryxは、Boreasの移民団に参加して、Eleusisの町からThracia地方へ移住した。[12]
Ceryxの入植地は、Hebrus川付近と推定される。
次のことから、Ceryxの妻は、BoreasとOrithyiaの娘Chioneと推定される。
1) Chioneの子EumolpusはThraciansを率いて、Atheniansと戦っていたEleusiniansに味方するために駆け付けた。[13]
Chioneは、第6代Athens王Erechtheusの娘Orithyiaの娘であった。[14]
2) EleusisにChioneの子Eumolpusの墓があった。[15]
3) Ceryxの子Eumolpusの子孫は、Eleusisで入信式を創始した大祭司であった。[16]

2.6 Anatoliaからの移住
2.6.1 Salmydessusの創建
BC1380年、Belusの子Phineusは、Cyzicusの町近くのEthiopiansの地から黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[17]
Belusは、Boreasと共に移民団を率いて航海し、Boreasと別れてAegean SeaからHellespontos海峡の奥へ侵入した。Belusは、Propontisに入り、Cyzicusの手前のAesepus川河口付近に入植した。[18]
Phineusは、Danaeの子Perseusの妻Andromedaの父Cepheusの兄弟であった。[19]
Salmydessusの町は、Boreasの居住地を流れるRheginia川の源流近くにあった。

2.6.2 Odrysaeの名祖
BC5世紀の歴史家Pherecydesは、Phineusの2人の息子たち、ThynusとMariandynusが、ThyniansとMariandyniansに名前を与えたと伝えている。[20]
また、Bithynia地方で生まれたLucius Flavius Arrianusは、ThynusとMariandynusの父親をOdrysaeの名祖Odrysusだと伝えている。[21]
つまり、Phineusは、Odrysusという別名を持つ、Odrysaeの始祖であったと思われる。
恐らく、PhineusとBoreasの娘Cleopatraの後裔たちが、Salmydessusの町から西側へ居住地を広げて行ったと思われる。

2.7 Galepsusの創建
BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島の向かいの本土へ移住して、Galepsusの町を創建した。[22]
Galepsusの祖父Cilixは、Agenorの息子で、EgyptからPhoenicia地方のSidonの町を経由して、Troad地方のIda山近くのThebeの町へ移住した。
Cilixの子Thasusは、Thebeの町からThasus島へ移住した。[23]
彼の移住には、冶金技術に優れたIdaean Dactylsも同行したと思われ、Thasus島は、金の産出で有名であった。[24]
Thasusの子Galepsusは、さらに金鉱を求めて本土へ移住したと推定される。
Galepsusの町の近くのScapte-Hyleには、金鉱床があった。[25]

2.8 Salmydessusへの嫁入り
BC1370年、Phineusは、Boreasの娘Cleopatraを妻に迎えた。[26]
Phineusの父BelusとCleopatraの父Boreasが同じ移民団にいた。
BelusとBoreasは、それぞれ遠く離れた土地に定住したが、その後も、交流していたことが分かる。

2.9 CeryxとChioneの結婚
BC1370年、Eumolpusの子Ceryxは、Boreasの娘Chioneを妻に迎えた。[27]
CeryxとBoreasは、移民団を率いて、一緒に移住した仲間であった。

2.10 黒海西岸への移住
BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Hyperboreansの地へ移住した。[28]
Hyperboreansの住む島は、後に、Alexander the GreatがThracia地方に攻め寄せたときに、Triballiansが逃げ込んだ川中島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster (現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいSacred Mouthと呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、Peuceと呼ばれていた。[29]
Triballiansは、Alexander the Greatと友好関係を結んだ後も、彼が島へ上陸することを許さなかった。[30]

2.11 Eleusisへの遠征
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusと第6代Athens王Erechtheusとの戦いがあり、2人とも戦死した。[31]
Chioneの子Eumolpusは、Thracia地方からEleusisの町を応援するために駆けた。[32]

2.12 Eleusisへの移住
BC1350年、Eleusisの町のEumolpusが死に、Eumolpusの子Ceryxは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[33]
Immaradusの死後、Eleusisの祭儀は、Immaradusの父Eumolpusが執り行っていた。[34]

2.13 Salmydessusから各地への移住
BC1350年、Phineusの息子たちは、Salmydessusの町から各地へ移住した。

2.13.1 Bithyniaへの移住
Phineusの子Bithynusは、Salmydessusの町からBosporus海峡を渡ったところへ移住した。[35]
その地方は、最初にBebrycia、その後、Mygdoniaと呼ばれていたが、Bithynusの名前に因んでBithyniaと呼ばれるようになった。[36]

2.13.2 Mariandyniaへの移住
Phineusの子Mariandynusは、Bithynusよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。[37]
その地方の住人はMariandyniansと呼ばれるようになり、その地は、後にHeracleaの町になった。[38]

2.13.3 Paphlagoniaへの移住
Phineusの子Paphlagon (or Paphlagonus)は、Mariandynusよりもさらに東側の黒海南岸へ移住した。その地方は、Paphlagonの名前に因んでPaphlagoniaと呼ばれるようになった。[39]

2.13.4 Phrygiaへの移住
Phineusの子Thynusは、Salmydessusの町からBosporus海峡を渡って、Ascania湖の南西のOlympus山付近へ移住した。[40]
その地方の住人は、Thynusの名前に因んでThyniansと呼ばれるようになった。[41]
Thynusの母Idaeaは、Troy王国の始祖Dardanusの娘であった。Thynusの子Eioneusの子Cisseus (or Dymas)の娘Hecba (or Hecbe)は、Laomedonの子Priamの妻になった。[42]

2.14 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住
BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[43]

2.15 Ethiopiaからの嫁入り
BC1332年、Belusの入植地Ethiopiaに住むBenthesicymeの娘Daeiraは、Thracia地方に住むChioneの子Eumolpusのもとへ嫁いだ。[44]
Benthesicymeは、Belusの子Cepheusの娘と思われる。[45]
EumolpusとDaeiraとの結婚から、Chioneの父BoreasとBelusが同じ移民団にいて、その後も両者の間で交流があったことが分かる。

2.16 Eleusisへの移住
BC1315年、Chioneの子Eumolpusは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[46]
Eumolpusの子Antiophemusの子Musaeusの子Eumolpusは、入信式を創始して、大祭司となり、彼の後裔は、Eumolpidaeと呼ばれるようになった。[47]

2.17 Ismarusの創建
BC1310年、Chioneの子Eumolpusの子Ismarusは、Thracia地方のHebrus川とNestus川の間の海の近くにIsmarusの町を創建した。[48]
Ismarusの妻は、Thraciansの王Tegyriusの娘であった。[49]
恐らく、TegyriusはCiconianであり、Belusの子Phineusの後裔であったと思われる。
詩人Orpheusは、Odrysianであり、Ciconianであった。[50]
つまり、Ciconiansは、Odrysiansの支族であったと思われる。
Ismarusの町は、Ciconiansの町であった。[51]
Euanthesが移住して来る前は、CiconiansがIsmarusの町に住んでいた。[52]

2.18 Methoneからの移住
BC1301年、Methonの子Charopsは、Macedonia地方のMethoneの町からThracia地方のBisaltiaへ移住して来た。[53]

2.19 Pieriaからの嫁入り
BC1278年、Pierusの娘Calliopeは、Pieriaの町からBisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[54]
Charopsは、Calliopeの父Pierusの兄弟Methonの息子であった。

2.20 Parnassus近くからの移住
BC1268年、Philammonは、Parnassus山の近くからChalcidice半島北部へ移住して来た。[55]
Philammonの妻Argiopeは、Odrysianであった。[56]

2.20 Thebesへの移住
BC1250年、Charopsの子Ismeniusの子Linusは、BisaltiaからThebesの町へ移住した。[57]
Linusの母Calliopeの兄弟Linusの子Pierusは、Boeotia地方のThespiaeの町に住んでいた。[58]

2.21 Chiosからの移住
BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThracia地方のIsmarusの町へ移住した。[59]
EuanthesとEumolpusの子Ismarusとの間に親族関係はない。
Euanthesは、Cariansによって、Chios島から追い出されたと推定される。[60]

2.22 Pimpleiaへの嫁入り
BC1230年、Thamyrisの娘Menippeは、Chalcidice半島北部からMacedonia地方のPimpleiaの町に住むPierusの子Oeagrusのもとへ嫁いだ。[61]
OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。

2.23 Thebesへの移住
BC1225年、Thamyrisの子Musaeusは、Chalcidice半島北部からThebesの町へ移住した。[62]

2.24 Maroneiaの創建
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、Ismarusの町の近くにMaroneiaの町を創建した。[63]
Maronは、Ismarusの町のApolloの神官であった。[64]
Maroneiaは、Ciconiansの町であった。[65]

2.25 Macedoniaへの移住
BC1190年、Maronの子Macedonは、Maroneiaの町からMacedonia地方へ移住した。[66]
Macedonia地方の名前は、Maronの子Macedonの名前に因んでいるという伝承があるが、Aeolusの子Macedonに因むとする伝承の方が妥当である。[67]

2.26 Lemnosからの移住
BC495年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住して、Cleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusの町に定住した。[68]
Pelasgiansを率いたのは、Hermonであった。[69]
その後、Pelasgiansの一部は、Scyros島へ渡った。[70]
また、Pelasgiansの一部は、Chalcidice半島から内陸へ移動して、Paeonia地方の近くへ移住した。
BC429年当時、Paeoniansの隣には、Sintiansが住んでいた。[71]
Sintiansとは、Attica地方のBrauronの町で娘たちを略奪した後で、Lemnos島に住むPelasgiansに付けられた呼び名であった。[72]
Straboは、Thracia地方のSintiansがLemnos島に住みついたと、逆に記している。[73]

2.27 Thraciansの系譜
Thracia地方に最初に住んだのは、Electraの子Emathionであり、住人は、Pelasgiansであった。[74]
その後、BoreasやCeryxに率いられたPelasgiansやAeoliansが入植した。
彼らと同じ時期に、Anatolia半島に入植したBelusのもとからBelusの子PhineusがAchaeansを率いて入植した。[75]
Boreas、Ceryx、Belus、それに、先住民族との混血によって、OdrysiansやCiconiansが誕生したと思われる。
Euanthesに率いられて、Chios島から入植したCretansは、Ciconiansと共住した。[76]
Trojan Warより前の時代、Pelasgians、Aeolians、CretansがThracia地方へ入植したが、多くの先住民族と共住したと推定される。

3 Macedoniaの歴史
3.1 Thessalyからの移住
BC1350年、Aeolusの2人の息子たち、MagnesとMacedonは、Thessaly地方のArneの町からOlympus山近くへ移住した。Macedonは、Macedonia地方に住んだ最初のギリシア人であり、彼は、Macedoniaの名付け親になった。[77]

3.2 Thessalyへの移住
BC1330年、Magnesの子Glaphyrusは、Olympus山近くからThessaly地方のBoebeis湖の近くへ移住して、Glaphyraeの町を創建した。[78]

3.3 Methoneの創建
BC1320年、Magnesの子Methoneは、Olympus山近くからThermaic Gulf北西岸へ移住して、Methoneの町を創建した。[79]
但し、当時は集落程度で、Methoneの町と呼ばれるようになったのは、Eretriansが共住するようになってからと思われる。Eretriansは、Trojan War時代にCorcyra島に入植していたが、BC734年、Corinthiansによって島から追放された。Eretriansは、故郷のEuboea島のEretriaの町へ行ったが、上陸を阻止された。Thracia方面へ向かう途中、Methoneの町に住み着いた。[80]

3.4 Emathiaの創建
BC1315年、Macedonの子Emathionは、海の近くにEmathiaの町を創建した。[81]

3.5 Pieriaの創建
BC1310年、Magnesの子Pierusは、Olympus山の北側にPieria (後のLyngus)の町を創建した。[82]

3.6 Europusの創建
BC1305年、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusは、Olympus山近くからLudias川とAxius川の間の土地(後のPellaの少し北)へ移住し、Europusの町を創建した。[83]

3.7 Berisの創建
BC1305年、Macedonの子Beresは、Olympus山近くから移住して、Macedonia地方にBerisの町を創建した。[84]

3.8 Paeoniaからの嫁入り
BC1302年、Magnesの子Pierusは、Paeonia地方からPaeonの娘Evippeを妻に迎えた。[85]
Pierusは、Evippeの祖父Endymionの従兄弟であった。

3.9 Bisaltiaへの移住
BC1301年、Methonの子Charopsは、Methoneの町からThracia地方のBisaltiaへ移住した。[86]

3.10 MiezaとBeroeaの創建
BC1295年、Macedonia地方にMiezaの町とBeroeaの町が創建された。MiezaとBeroeaは、Aeolusの子Macedonの子Beresの娘たちの名前であった。[87]

3.11 Acessamenaeの創建
BC1280年、Pieriaの町に住むAcessamenusは、Macedonia地方にAcessamenaeの町を創建した。[88]
Acessamenusは、Magnesの子Pierusの息子と思われる。

3.12 Pieriaからの嫁入り
BC1261年、Pieriaに住むAcessamenusの娘Periboeaは、Mygdoniaに住むMygdonの子Axiusに嫁いだ。[89]

3.13 Boeotiaへの移住
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusは、Pieriaの町からBoeotia地方のThespiaeの町へ移住した。[90]
Pierusは、Helicon山にムーサ諸女神の神域を造営して、ムーサ女神を9柱と定めた。[91]
Pierusは、有名な詩人Orpheusの祖父であった。[92]
Straboは、PierusをThracianだと記しているが、Pierusは、Hellenの子Aeolusの血を引くAeolianであった。[93]

3.14 Creteからの移住
3.14.1 Bottonの入植地
BC1235年、Bottonを指導者とするCrete島の移民団がMacedonia地方に定住した。[94]
Bottonは、Athensの町からCrete島のMinosのもとへ亡命したDaedalusの息子であったと推定される。[95]
Bottonは、兄弟Iapyxと共へ移住先を探してCrete島を出航した。
Iapyxは、Italy半島東南部へ入植した。[96]
Bottonは、一部の人々を率いて、Macedonia地方へ移住した。[97]
Bottonの入植地は、Thermaic Gulfへ注ぐAxius川の西方、Haliacmon川の北方の土地であった。[98]

3.14.2 先住者
後のPellaの町の少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaとの息子Europusが創建したEuropusの町があった。[99]
Bottonの移民団には、Aegeusの時代にAthensの町からCrete島へ送られたAtheniansが含まれていた。[100]
また、Europusの町の住人には、Oreithyiaの嫁入りに伴って移住したAtheniansが含まれていた。
Bottonは、Europusの母Oreithyiaの父Cecropsの子Pandionの娘Merope (or Alcippe)の子Daedalusの息子であった。[101]
つまり、Europusは、Bottonの祖母の従兄妹であった。
Bottonの入植地はBottiaea地方、そこの住人はBottiaeansと呼ばれるようになった。[102]

3.14.3 Chalcidiceへの移住
BC6世紀頃、Bottiaeansは、勢力を増したArgeadaeに追われてChalcidiansの地に隣接した土地へ移住した。[103]
Bottiaeansは、Bithynia地方のAscania湖東岸に入植して、Ancoreの町を創建した。[104]

3.15 Boeotiaからの移住
BC1235年、Pierusの子Oeagrusは、Boeotia地方のThespiaeの町からOlympus山近くのPimpleiaの町へ移住して来た。[105]

3.16 Thraciaからの嫁入り
BC1230年、Pierusの子Oeagrusは、Chalcidice半島北部に住んでいたThamyrisの娘Menippeを妻に迎えた。[106]
OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。

3.17 Thraciaからの移住
BC1190年、Maronの子Macedonは、Thracia地方のMaroneiaの町からMacedonia地方へ移住した。[107]
Maronは、Minosの娘Ariadneの子Oenopionの子Euanthesの息子であった。
Macedonと共にMacedonia地方へ移住した人々は、Cretansであり、彼らの移住先は、Bottiaea地方であったと思われる。

3.18 Troyan War時代
BC1188年、Laomedonの子Priamが死に、Antenorの息子たちはTroyへ遠征して、Iliumの町を占領した。
Mygdonの後裔も、Troyへ遠征した。[108]
AntenorとTheanoの息子Iphidamasは、Macedonia地方に住んでいた。[109]
Antenorの息子たちは、BC1170年に、Hectorの息子たちによって、Iliumの町を奪還されるまで、Troad地方を支配した。

3.19 Caranusの入植
BC750年、Pheidonの子Caranusは、Argosの町から移民団を率いて、Bermius山近くのEdessa (後のAegeae)と呼ばれていた土地へ移住した。[110]
CaranusがBermius山近くを移住先に選んだのは、初めて度量衡を定めたPheidonの銀貨鋳造の影響があったと思われる。[111]
Bermius山には、Midasの富を生んだ鉱床があった。[112]
また、少し離れたPaeonia地方では、土地を耕していても金塊が見つるほどであった。[113]
Caranusは、近隣の土地に先住していたCisseusと戦って勝利した。[114]
このCisseusは、Iliadに登場するIphidamasの母方の祖父Cisseusの後裔と推定される。[115]
先祖のCisseusは、Macedonia地方に住んでいた。[116]

3.20 Phrygiaへの移住
BC670年、Caranusの子Coenusの子Tirimmusの子Perdicasは、近隣の土地に先住していた人々を追い出した。[117]
Gordiasの子Midasは、Brigesを率いて、Bermius山近くからPhrygia地方へ移住した。[118]
Pieriansは、Pangaeus山近くのPhagresの町へ移住した。[119]

3.21 Mycenaeからの移住
BC468年、Argivesに攻められたMycenaeansは、Mycenaeの町からMacedonia地方のAmyntasの子Alexanderのもとへ逃れた。[120]
Alexanderは、Heracleidaeを率いてArgosの町の支配者になったTemenusの後裔であった。[121]
Argosの町から攻められたMycenaeansがTemenusの後裔Alexanderを頼って亡命するのは、矛盾しているようである。
しかし、当時、Temenusの後裔は、Argosの町の支配者ではなくなっていた。[122]

3.22 Macedoniansの系譜
3.22.1 初期の住人
Macedonia地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、Aeolusの子Macedonであり、住人は、Aeoliansであった。[123]
Macedonと彼の兄弟Magnesの後裔は、Macedonia地方の各地へ居住地を広げて、PieriansやEmathiansと呼ばれるようになった。[124]
その後、Botton率いるCretansが移住して来て、彼らはBottiaeansと呼ばれるようになった。[125]
また、Paeonia地方から移住して来て、Bermius山近くに住み着いたMidasの先祖もいた。
Midasは、Mygdonの後裔と思われ、住人は、Pelasgiansであった。

3.22.2 Caranus移住後の住人
Pheidonの子Caranusは、Argosの町から移住して来た後で、それまで、Macedonia地方に住んでいた住人は、他へ追いやられた。[126]
しかし、その後のMacedonia地方の住人がDoriansになったわけではなかった。
Caranusの時代のArgosの町の住人には、次の人々が含まれていたと思われる。
1) Heraclesが率いていたAchaeans、Arcadians、Lydians
2) Heraclesの子供たちと共にAttica地方からDoris地方へ移住したIonians
3) Heracleidaeと共にDoris地方からArgosの町へ移住したDorians、Cadmeans
その後、Argivesに追われたMycenaeansがMacedoniansに合流した。[127]

3.22.3 領土拡張で取り込まれた住人
Caranusの後裔の領土拡張で、居住地を追われずに、Macedonia地方に取り込まれた住人も多かった。その中には、Parauaeiもいた。[128]
Parauaeiは、Thessaly地方のDotianに住んでいたが、Lapithsに追われて、Pindus山地のAethiciaへ移住した。[129]
Parauaeiは、Aenianiansの支族Centaursであった。[130]
Aenianiansは、Amphictyonsに名前を連ねるギリシア人であった。[131]

4 Paeoniaの歴史
4.1 Elisからの移住
BC1320年、Endymionの子Paeonは、Elisの町からPaeonia地方へ移住した。[132]
Paeonの祖父Aethliusは、Thessaly地方のArneの町からEleia地方のElisの町の創建者であった。[133]
Paeonは、Methoneの父Magnesの父Aeolusの子Aethliusの子Endymionの息子であった。つまり、Paeonは、父の従兄弟Methoneを頼って移住したと思われる。
その証拠に、Paeonの娘Evippeは、Methoneの兄弟Pierusと結婚した。[134]
Paeonの入植地は、Strymon川の上流ではなく、もっと海に近い土地であったと思われる。

4.2 Pieriaへの嫁入り
BC1302年、Paeonの娘Evippeは、Paeonia地方からPieriaの町に住むMacedonの子Pierusへ嫁いだ。[135]
Pierusは、Evippeの祖父Endymionの従兄弟であった。

4.3 Bisaltiaへの嫁入り
BC1278年、Pierusの娘Calliopeは、Pieriaの町からBisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[136]
Charopsは、Calliopeの父Pierusの兄弟Methonの息子であった。

4.4 Anatoliaからの移住
4.4.1 Antenor
BC1244年、Troad地方で、Trosの子Ilusの後裔と、Trosの子Assaracusの後裔の戦いがあった。戦いに敗れたAssaracusの子Capysの子Aesyetesの子Antenorは、Paeonia地方へ移住した。[137]

4.4.2 Mygdon
Antenorに味方したMygdonも、Mysia of Olympene地方からPaeonia地方へ移住した。[138]
Mygdonの子Cisseusの娘Theanoは、Antenorの妻であった。[139]
Mygdonと一緒にIdaean Dactyliも、Europeに渡り、Mygdonの後裔Midasの富を掘り出す技術者となった。[140]

4.5 Thraciaへの移住
Strymon川流域に住んでいたPaeoniansは、Propontisの北岸へ遠征してPerinthusの町を攻略した。[141]
Perinthusの町は、Samos島を追い出されて、Samothrace島へ逃れたSamiansの一部が、BC1060年に創建した町であった。[142]
このPaeoniansは、Mysia of OlympeneからPaeonia地方へ移住したMygdonの後裔と推定される。Perinthusの町は、昔、Mygdoniaと呼ばれていた。[143]
このPaeoniansの遠征は、Perinthusの創建からDarius Iの時代までの間の出来事であった。[144]

4.6 Asiaへの移住
BC490年、Paeoniansの一部(Siropaeonians、Paeoplians)は、Persia大王Dariusの将Megabyzusによって、Asiaへ移住させられた。[145]

4.7 Paeoniansの系譜
Paeonia地方に最初に住み、地方の名前の由来ともなったのは、Endymionの子Paeonであり、住人は、Aeoliansであった。[146]
Paeonの娘Evippeは、Pieriaの町に住むMagnesの子Pierusへ嫁ぎ、息子Acessamenusが生まれた。[147]
Acessamenusの娘Periboeaは、Mygdonの子Axiusに嫁いだ。[148]
Mygdonと共に、Anatolia半島からPaeonia地方へ移住して来たAntenorは、Mygdonの子Cisseusの娘Theanoと結婚した。[149]
Mygdonは、Mysia of Olympene地方に居住していたDolionesであり、Dolionesの先祖は、Argosの町に起源を持つPelasgiansであった。[150]
また、Antenorは、Capysの子Aesyetesの息子であり、彼の先祖Dardanusは、Arcadia地方に起源を持つPelasgiansであった。Antenorと共に、Creta島に起源を持つTrojansもPaeonia地方へ移住した。
Trojan War時代、AntenorやMygdonの後裔は、Troad地方へ帰還した。
その後、Paeon、Mygdon、Antenor一族の姻戚関係によって生じた指導者がPaeoniansを支配した。Aeolians、Pelasgians、Trojansが、先住民族と混血して、Paeoniansという独自の種族が誕生した。

おわり