1 はじめに
伝承では、Cadmusが「牝牛が疲れて倒れた土地に町を建設せよ」との神託を受けて、Thebesの町を創建したことになっている。[1]
しかし、Thebesの町は水が豊富で、緑の牧草地と肥沃な丘陵に恵まれていたという証言がある。[2]
CadmusがBoeotia地方へ侵入した当時、後に、Cadmeiaの町が建設される土地は、決して無人ではなかった。Cadmusは、先住民と戦って、最良の定住地を獲得した。
青銅器時代のThebesの町の歴史は、荒唐無稽な物語という厚いベールに覆われている。
しかし、そのベールの陰には、波乱万丈の歴史があった。
2 Cadmusの時代 (1420-1390 BC)
2.1 Cadmeiaの建設
BC1420年、Agenorの子Cadmusは、Thracia地方からThessaly地方を通って、Boeotia地方へ侵入した。[3]
当時、Aoniansは、Thebesの町の北東方のGlisasの町周辺に住んでいた。Hyantesは、Ectenesを追い出して、Onchestusの町周辺に住んでいた。Hyantesに追われたEctenesは、Thebesの町の北側に住んでいた。[4]
Cadmusは先住部族と戦って勝ち、Aoniansには、そのままGlisasの町周辺に居住することを許した。[5]
Ectenesは抗戦したが敗れ、Attica地方へ移住した。Hyantesも西へ追いやられた。[6]
Hyantesの一部は、Aetolia地方へ移住した。[7]
BC1320年、Endymionの子AetolusがElisの町からAetolia地方へ移住したときに、その地にいた先住者Curetesは、名前を変えたHyantesと推定される。[8]
Cadmusは、後にThebesの町のAcropolisとなる丘に、Cadmeiaの町を創建した。Aoniansは、村落単位で住んでいたが、Cadmusと移住した人々は、Cadmeiaの町に寄り集まって暮らした。[9]
Cadmusは、Cadmeiaの町から流れ出る地下の水路を造らせた。[10]
Copais湖に地下水路が造られる前に、既に、土木工事が行われていた。
CadmusがCadmeiaを選んだのは、銅の採掘も関係していた。
それは、地上に露出したcadmeaと呼ばれる鉱石であったと推定される。[10-1]
Cadmusは、Cadmeiaの町で銅を見つけたと伝えられている。[10-2]
2.2 Cadmusと共に移住して来た人々
2.2.1 Pelasgians
2.2.1.1 Hyria (Euboea)の創建
Phoenicia地方のSidonの町を出発したCadmusが途中で立ち寄ったSamothrace島には、Dardanusに率いられてArcadia地方から移住して来たPelasgiansが住んでいた。彼らの中のMegassaresは、Cadmusの移民団に参加して、Samothrace島からBoeotia地方へ移住した。Megassaresの妻Alcyoneは、Cadmusの妻Harmoniaの母Electraの妹であった。[11]
Megassaresは、Euboea島への渡り口付近に定住して、Euboeaと呼ばれる町を創建した。
Apollodorosは、Hyrieusの息子たち、NycteusとLycusは、Phlegyasを殺害して、「Euboea」から「Hyria」へ逃亡したと伝えている。[12]
次のことから、「Euboea」は、Aulisの町近くのHyriaの町の古い名前で、「Hyria」は、Cithaeron山麓のHysiaeの町と推定される。
1) Hyrieusの息子たちは、Hyrieusの名前に因むHyriaの町に住んでいた。[13]
2) Cithaeron山麓のHysiaeは、Hyriaとも呼ばれていた。[14]
Megassaresの息子と推定されるHyrieus (or Chthonius)は父の跡を継いで、町の名前を自身の名前に因んでHyriaと名付けた。[15]
MegassaresをHyrieusの父と推定したのは、つぎの理由からである。
Megassaresの名前は、ApollodorosがSyriaからCiliciaへ移住して、Celenderisの町を創建したSandocusの妻Pharnaceの父であり、Hyriaの王として伝えているだけである。[16]
Sandocusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseから5代目の子孫であった。[17]
Castorが伝えているAthens王の在位年数から逆算すると、Cecropsは、BC1596年生まれである。また、1世代間を男25年、女20年とすれば、Sandocusは、BC1445年生まれである。したがって、Sandocusの妻Pharnaceの父Megassaresは、BC1465年生まれである。
一方、NycteusはHyrieusの息子であり、Nycteusの娘Nycteisの夫は、Cadmusの子Polydorusであった。[18]
つまり、NycteusはCadmusと同世代であり、 Nycteusの父Hyrieusは、Cadmus時代のSpartiのひとりで、Chthoniusとも呼ばれていた。[19]
また、Nycteusが建設したHysiaeの町は、Hyriaの町の植民市であったことから、Nycteusの父Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたと思われる。[20]
以上のことから、Hyrieusの父は、ApollodorosがHyriaの王として伝えているPharnaceの父Megassareと推定される。[21]
Boeotia地方のHyriaの町のMegassaresの娘PharnaceとCilicia地方のCelenderisの町の創建者Sandocusとの婚姻は、つぎのようにして成立したと推定される。
Hyriaの町とCelenderisの町とは、直線距離で、約900km離れているが、出会いの場は、Samothrace島であった。Sandocusの父Astynousは、Phoenicia地方のSidonの町の住人であった。[22]
Astynousは、Cadmusの植民団に船を提供し、Sidonの町からThracia地方まで、息子Sandocusと共にCadmusに同行した。[23]
Megassareの妻Alcyoneは、Atlasの娘Pleioneを母として、Arcadia地方のCylleneで生まれた。[24]
Alcyoneの姉妹Electraの子Dardanusは、Cadmusより前にArcadia地方からSamothrace島に移住しており、Alcyoneや、彼女の夫Megassareや子供たちも一緒であった。[25]
Sandocusは、島にいたMegassareの娘Pharnaceと出会い、Cadmusの植民団に同行して、Thracia地方まで行った。その後、Pharnaceを妻にもらい、父Astynousと共にSidonの町に帰還し、その後、Cilicia地方へ移住してCelenderisの町を創建した。[26]
2.2.1.2 Hysiaeの創建
BC1390年、大津波がEuripus海峡近くの町を襲い、Hyriaの町も被災した。Hyrieusの2人の息子たち、NycteusとLycusは、内陸部に新天地を求めて、Hyriaの町から南西方へ約33km離れたCithaeron山麓にHysiaeの町を創建した。[27]
NycteusとLycusがPhlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaの町に逃れたという伝承がある。[28]
Hyriaは、Hysiaeを指した呼び名だとも伝えられ、このEuboeaは島ではなく、Aulis付近の地名で、恐らく、Hyriaの町の古い名前と思われる。[29]
この島ではないEuboeaと同じものにつぎのEuboeaがある。
1) Naxos(Strongyle)島のThraciansが襲撃したが撃退されたEuboea。[30]
2) Orionが帰り着いたというEuboea。[31]
NycteusはPolyxoと結婚して、2人の娘たち、NycteisとAntiopeが生まれた。[32]
Nycteusの娘Nycteisは、Cadmusの子Polydorusと結婚した。Polydorusが幼い息子Labdacusを残して死んだ後、NycteusはCadmeiaの町へ移り住み、彼の孫Labdacusの後見人となった。[33]
Nycteusが死んだ後で、彼の弟LycusがLabdacusの後見職を引き継いだ。[34]
Lycusの館は、Thebesの町にあるCadmusの娘Semeleの墓の近くにあった。[35]
2.2.1.3 Italy半島への移住
BC1390年、Hyrieusの息子と思われるMessapusがHyriaの町から移民団を率いて、Italy半島東南部のPeucetia地方へ移住した。[36]
Messapusの移住は、大津波と、その後を襲った悪疫の流行によるものと思われる。[37]
Messapusが入植したItaly半島東南部は、Messapia地方と呼ばれた。[38]
Minosの時代に、その地方へCretansの移民団が入植し、Hyriaの町を創建したという伝承もあるが、Messapusが創建して出身地の名前を付けたと考えられる。[39]
2.2.1.4 Anthedonの創建
Megassaresのもう一人の息子Anthasは、Hyriaの町から北西方の海辺へ移住して、Anthedonの町を創建した。[40]
Anthasは、Hyperenorとも呼ばれるSpartiで、GreeceにCabeiriの密儀をもたらした人物と思われる。Anthedonの町には、Cabeiriの神域があった。[41]
Thebesの町のNeistan gateから西へ5kmほどの所にthe sanctuary of the Cabeiriがある。
EpigoniのThebes攻めの後で、その神域で祭司をしていたPelargeの父Potnieusは、Anthedonの町のAnthasの後裔と推定される。[42]
2.2.1.5 Eleutheraeの創建
Megassaresの娘Aethusaの子Eleutherは、Hyriaの町からCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeの町を創建した。[43]
Eleutherには、息子Iasiusがいたが、Eleutherの妻の名前は不明である。[44]
つぎの理由で、Eleutherの妻は、Nycteusの娘Antiopeであったと推定される。
1) Antiopeが双子の息子たち、AmphionとZethusをEleutheraeの町で産んだこと。[45]
2) AntiopeがEleutherの母方の従兄弟Nycteusの娘であった。[46]
つまり、Antiopeは、Eleutherの又いとこであり、年代的にも夫婦として妥当である。
Antiopeは、Hysiaeの町に住む父NycteusのもとからCithaeron山を越えたEleutheraeの町のEleutherに嫁いだというのが史実であろう。[47]
Antiopeについては、Sicyonの町のEpopeusにまつわる伝承が多いが、いずれも後世の詩人たちによる作り話である。
2.2.2 Telchines
Telchinesは、Thebesの町の北東約8kmの土地(後のTeumessus)に定住して、a sanctuary of Telchinian Athenaを造営した。Pausaniasは、彼らをCyprus島に住んでいたTelchinesであろうと推測している。彼らは、Telchines (後のRhodes)島からSamothrace島を経て、Cadmusの移民団に加わった人々と思われる。 [48]
2.2.3 Gephyraeans
Cephisus率いるGephyraeans (Phoeniciansの支族)は、Tanagraの町の周辺に定住した。[49]
彼らがその地に住んで間もなく、Eumolpus率いるThraciansに追われたAtheniansが逃れてきて、Gephyraeansは彼らを受け入れ、しばらくの間、共住した。[50]
GephyraeansとAtheniansは、これを機に交流して、Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaと第6代Athens王Erechtheusの婚姻が成立している。[51]
BC1200年、Gephyraeansは、Tanagraの町のChaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensの町へ移住した。[52]
2.2.4 Arabians
Arabiansは、Euboea島へ入植した。[53]
2.3 Illyriaへの移住
Cadmusと共にBoeotia地方に移住して来た人々のうち、一部は、Copais湖付近に居住した。彼らは、Copais湖で獲れる鰻に因んでEncheleansと呼ばれた。[54]
後に、Cadmusの娘Agaveと結婚したLycothersesは、Encheleanであった。[55]
Lycothersesの父は、Encheleansの指導者であり、Cadmusの兄弟であったと推定される。
伝承では、Encheleansからの要請で、CadmusがIllyria地方へ移住したことになっている。[56]
しかし、Cadmusは、Cadmeiaの町から追放されて、Illyria地方へ移住したとも伝えられている。[57]
Cadmusの子PolydorusやPolydorusの子Labdacusの時代に、Cadmeiaの町で内紛があったことを考慮すると、Cadmusは、内紛によって、Cadmeiaの町から追放されたと思われる。
Cadmusを追放したのは、Cadmusに次ぐ権力を持っていたSpartiであったと推定される。
BC1390年、Cadmusは、Encheleansと共にIllyria地方へ移住した。
Cadmusの娘AgaveとEchionの娘Epirusは、旅の途中で死んだ。[58]
Cadmus終焉の地は、Illyria地方の海辺の町Butoe (or Buthoe, now Budva)であった。[59]
3 Cadmusの子Polydorusの時代 (1390-1370 BC)
Cadmusの跡を継いだのは、Cadmusの子Polydorusであった。[60]
3.1 Polydorusの帰還
BC1380年、Polydorusは、父と共にIllyria地方へ移住したが、成人した息子たちと共にCadmeiaの町へ帰還した。[61]
Polydorusの息子の名前は、Labdacusのみが伝えられているが、Labdacusには多くの兄がいたと推定される。幼少のLabdacusを残して、Polydorusが死んだとき、Polydorusは、50歳を過ぎていた。[62]
Polydorusの息子たちが戦士の年齢に達するまで、Illyria地方に10年間位いたと思われ、その間、Cadmeiaの町は、Spartiたちによって統治されていたと推定される。
Polydorusと共にEncheleansの一部が、Illyria地方から移住して、Cadmeiaの町の近くに定住した。彼らの町は、Encheliaと呼ばれ、後に、Cadmeiaの町と併せてThebesの町になった。[63]
3.2 Polydorusの死
Polydorusは、SpartiのひとりChthonius (別名Hyrieus)の子Nycteusの娘Nycteisと結婚して、息子Labdacusが生まれた。[64]
BC1370年、Polydorusは、Cadmusの娘Agaveの子Pentheusによって殺された。[65]
Pentheusは、Thebes王の一人として名前が挙がっており、Labdacusが即位する前に王であったのかもしれない。[66]
3.3 権力闘争
Polydorusを殺害したPentheusの父Echionは、Spartiであった。[67]
Pentheusは、Cadmusの娘Semeleの子Dionysusに殺された。[68]
Pentheus殺害には、Polydorusの妻の父Nycteusも関与していたと思われる。Nycteusは、まだ少年であったLabdacusの後見人になった。[69]
Cadmeiaの町には、創建時から、Cadmusの後裔と、Spartiの権力闘争があったと推定される。彼らの対立は、OedipusとCreonの時代を経て、Tisamenusの子AutesionがThebesの町を去るまで続いた。BoeotiansがThebesの町の支配者になっても、BC4世紀のEpameinondasの時代まで、Spartiは、Thebesの町で権力を保ち続けた。
4 Polydorusの子Labdacusの時代 (1370-1337 BC)
Labdacusの父Polydorusが死んだとき、彼は少年であったので、彼の母Nycteisの父Nycteusが後見人になった。[70]
その後、Labdacusも1歳の彼の息子Laiusを残して死んだ。[71]
4.1 AmphionとZethusの誕生
BC1365年、Hyrieusの子Nycteusの娘Antiopeに双子の息子たち、AmphionとZethusが生まれた。[72]
Hyrieus (or Chthonius)は、Cadmusに次ぐ実力を持つ5人のSpartiたちの一人であった。[73]
4.2 AntiopeとEpopeusの伝承
伝承では、AmphionとZethusは、Sicyonの町のEpopeusがAntiopeに産ませた息子たちだということになっている。[74]
しかし、彼らの誕生時のこと以外に、彼らとSicyonの町やEpopeusに関係する話がまったく見当たらない。後世の詩人たちが意図的に、Thebesの町の基礎を築いたAmphionとZethusをSicyonの町に結び付けようとしているように見える。[75]
AmphionとZethusに関する伝承で、真実と思われるのは、彼らがEleutheraeの町で生まれたということだけである。[76]
このことから、つぎのように推定される。
当時、Eleutheraeの町には、Cadmusと共にBoeotia地方に移住して来たMegassaresの娘Aethusaの子Eleutherが住み、Eleutherは、Eleutheraeの町の創建者であった。[77]
Eleutheraeの町からCithaeron山を北に越えたHysiaeの町には、Nycteusの娘Antiopeが住んでいた。[78]
Eleutherは、母方の従兄弟の娘Antiopeと結婚し、AmphionとZethusが生まれた。[79]
Thebansとしては、Eleutheraeの町の出身者がThebesの町の基礎を作ったとは認めたくないので、父親の名は敢えて記録に残さなかったものと思われる。
4.3 NycteusとEpopeusの戦い
AntiopeとEpopeusの伝承は作り話であるが、Sicyon王EpopeusとNycteusとの間に戦いがあったのは、史実のようである。[80]
4.3.1 EpopeusとCadmeiaの繋がり
Epopeusの母は、Thessaly地方のArneの町に住むAeolusの娘Canaceであった。[81]
Epopeusは、祖父Aeolusの養子になるために、Sicyonの町からArneの町へ移住した。[82]
BC1370年、Aeolusの娘Melanippeの子Boeotusが、Italy半島からArneの町へ帰還して、Aeolusの跡を継いだ。[83]
Epopeusは、Sicyonの町へ帰還して、Sicyon王になった。[84]
Epopeusは、Sicyonの町とArneの町との間の旅の途中で、Cadmeiaの町に住むSpartiと親しくなったと思われる。
後に、Epopeusは、Cadmusに次ぐ実力を持つ5人のSpartiたちの一人Udaeusの血を引くLadonの娘Metope (or Melia)を妻に迎えている。
4.3.2 戦いの経過
NycteusとEpopeusの戦いは、次のような経過であったと推定される。
Labdacusの後見人Nycteusが専横化したため、Nycteusは、Spartiたちから反発を受け、EpopeusがSpartiに加勢して、戦いになった。
戦いでNycteusが死に、彼の兄弟LycusがNycteusの跡を継いで、Labdacusの後見人になった。つまり、Epopeusの加勢は無駄に終わった。[85]
この戦いは、AmphionとZethusが生まれたBC1365年に起こったと推定される。
4.4 Sicyonへの嫁入り
BC1352年、Ladonの娘Metope (or Melia)は、Sicyonの町のEpopeusのもとへ嫁いだ。[86]
EpopeusとMetopeの息子Tenerusは、Ptous山の神託所の開祖であり、Tenerusの後裔Tiresiasは、Udaeusの血を引くSpartiであった。[87]
4.5 Labdacusの死
BC1337年、Labdacusは、1歳の息子Laiusを残して死んだ。[88]
Labdacusは、Pentheusと同じような考えを持っていたので狂乱女たちに殺されたと伝えられている。[89]
30歳代後半で死んだLabdacusには、Laiusの他にも多くの息子たちがいたと推定される。
恐らく、Cadmusの時代から続く、内紛が原因で、Laiusを残して、Labdacusや彼の息子たちは死んだと思われる。
5 Labdacusの子Laiusの時代 (1337-1264 BC)
Labdacusの跡を継いだLaiusは幼少であったため、彼の祖父Nycteusの弟Lycusが後見人になった。[90]
5.1 AmphionとNiobeの結婚
BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて移住した。
彼らは、Thebesの町をHypsistan gateから出てLeuktraの町へ向かって約14km進んだ所にEutresisの町を創建した。[91]
Eutresisの町から北東へ約7kmの所にCabeiriの神域があった。[92]
Samothrace島からBoeotia地方へ持ち込まれたCabeiri信仰は、「神々の母」「山の母」「Phrygiaの大女神」などと呼ばれるCybele信仰と同じようなものになっていた。[93]
BC1332年、Amphionは、Lydia地方に住んでいたTantalusの娘NiobeとCabeiriの神域で出会い、結婚した。[94]
NiobeとCybele信仰との繋がりは、つぎのことから推定される。
1) Niobeの兄弟Broteasが、神々の母の一番古い神像を作った。[95]
2) TantalusがTrosの子Ilusによって、Ida山近くから追放されたとき、Tantalusは、Phrygia地方のPessinusの町へ避難した。[96]
Pessinusの町には、Tantalusの旧領近くのIda山からCorybasの母CybeleがTantalusより前に移り住んでいた。[97]
3) Niobeの兄弟Pelopsと共にGreeceへ移住して来たPhrygiansがCybeleを讃えていた。[98]
5.2 AmphionのCadmeia攻め
5.2.1 最初の攻撃
BC1326年、AmphionとZethusが、Cadmeiaの町を攻めたが、Lycusに撃退された。AmphionとZethusはLocris地方へ亡命した。[99]
AmphionとZethusがLycusを攻めたのは、Lycusが20年間、後見人として権力を我が物にして専横化したためと思われる。[100]
AmphionとZethusにとって、Lycusは彼らの母Antiopeの叔父であったが、Laiusは、Antiopeの姉の孫、つまり、彼らの従姉妹の息子であった。[101]
5.2.2 Locrisへの亡命
AmphionとZethusの亡命先は、Locris地方のThermopylae近くのAntheiaの町に住むAmphictyonの子Aetolusの子Physciusのもとであった。[102]
Physciusは、Zethusの妻Thebeの父であった。[103]
5.2.3 Cadmeia攻め
BC1325年、AmphionとZethusは軍勢を集めて、再び、Cadmeiaの町を攻撃した。[104]
AmphionとZethusに加勢したのは、次の人々であった。
1) Leleges
Locris地方に住むLelegesは、Zethusの妻Thebeの兄弟Locrusに率いられて、AmphionとZethusに加勢した。[105]
2) Aeolians
Epopeusは、Labdacusの後見人Nycteusによる支配を終わらせようとしたが果たせなかった。[106]
Epopeusの子Ismenusは、父の遺志を継いで、AmphionとZethusに協力して、Laiusの後見人Lycusによる支配を終わらせようとした。[107]
3) Boeotians
Thessaly地方のArneの町に住むBoeotiansは、Boeotusの子Itonusに率いられて、AmphionとZethusに加勢した。[108]
Boeotusは、Locrusの父Physciusの父Aetolusの兄弟Itonusの妻Melanippeの息子であった。つまり、Locrusは、又従兄弟Boeotusに援軍を要請した。
5.2.4 戦いの結果
5.2.4.1 Laiusの処遇
AmphionとZethusは、Lycusを殺し、Cadmeiaの町の支配権を獲得した。
Labdacusの子Laiusは、Amphionによって追放された、あるいは、密かに町から逃れたという伝承がある。[109]
しかし、後に、LaiusがPelopsのもとへ亡命したという伝承がある。[110]
LaiusとAmphionが敵対関係にあれば、LaiusがAmphionの妻Niobeの兄弟Pelopsのもとへ亡命するはずがない。
Laiusは、そのまま王であり、Laiusの後見人が、LycusからAmphionに代わったと考えた方が妥当である。
5.2.4.2 Amphionの居住地
Amphionは、Cadmeiaの町に住まず、後のProetidian gateの近くに住んでいたと思われる。そこには、AmphionとZethusの墓があった。[111]
また、Amphionより前に、Amphionが殺したLycusが、そこに住んでいた。[112]
5.2.4.3 Thessalyからの移住
Boeotusの子Itonusは、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方のCoroneiaの町の近くへ移住した。Itonusは、高台にあったCoroneiaの町の下手、Copais湖の岸辺に、湖に沈んだと伝えられるArneの町を創建した。[113]
そこには、Itonian Athenaの神域が造営され、Boeotiansの同盟集会がそこで開催された。[114]
Coroneiaの町の住人が、Itonusらの移住を受け入れたのは、Coroneiaの町やHaliartusの町もAmphionとZethusに協力したからと思われる。それらの町の創建者CoronusとHaliartusは、Zethusの妻Thebeの母Maeraの父Proetusの兄弟であった。[115]
5.2.4.4 Sicyonからの移住
Epopeusの子Ismenusは、Sicyonの町からCadmeiaの町の近くの丘へ移住した。[116]
その丘は、Ismenusの母方の先祖の居住地と思われ、近くを流れる川は、Ismenusの母Metopeの父Ladonの名前が付けられていた。[117]
また、その丘には、Metopeの兄弟Caanthusの墓があった。[118]
その後、丘や川には、Ismenusの名前が付けられた。[119]
5.3 Thebes建設時の住人
Cadmeiaの町や、その近くに住んでいた人々は、つぎの種族であった。
1) Argosの町からEgyptを経由して移住して来たPelasgians
2) Phoenicia地方から移住して来たPhoenicians
3) Arcadia地方からSamothrace島を経由して移住して来たArcadians
4) Thessaly地方からSicyonの町を経由して移住して来たAeolis
5.4 Thebesの建設
BC1324年、AmphionとZethusは、Cadmeiaの町の隣にあったEncheliaの町の方へ居住地を広げて町を大きくして、Zethusの妻Thebeに因んで、Thebesの町と呼ばせた。[120]
さらに、Amphionは、近くに住む横暴なPhlegyesから町を守るため、幾つかの門を持つ城壁を造った。[121]
伝承によれば、Amphionの歌に合わせて城壁を築く石が寄ってきたという。実際は、城壁を築く人々へ労賃の代わりに、Amphionが歌を聴かせたことからそのような伝承が生まれたとする説もある。[122]
Thebesの城壁は、町全体を囲んでいたわけではないようである。
Euripidesは、Thebesを攻撃するため、歩兵部隊がIsmenus川沿いの高台に整列したと述べている。川を防壁代わりにできない箇所に城壁を造ったと思われる。[123]
5.5 7つの門
Homerは、建設当初から7つの門があったように伝えている。[124]
また、最初は、12の門があったという伝承もある。[125]
Hyginusは、Amphionが自分の娘たちの名前を付けたと伝えている。つまり、7つの門には、Thera、Cleodoxe、Astynome、Astycratia、Chias、Ogygia、Chlorisという名前が付けられた。[126]
しかし、AdrastusのThebes攻めの時代には、門の名前は、変わっていた。
その時の7つの門の名前と、名前の由来はつぎのとおりである。
1) Electran gateは、Cadmusの姉妹Electraに因む。[127]
2) Proetidian gateは、Thebeの母Maeraの父Proetusに因む。[128]
Proetusの父は、HaliartusとCoroneiaの創建者たちの父Thersandorusであった。[129]
3) Neistan gateは、Zethusの子Neisに因む。[130]
4) Crenaean gateは、近くにCrenaeの泉があったことに因む。[131]
5) Hypsistan gateは、近くにZeus surnamed Hypsistusの神域があったことに因む。[132]
6) Ogygian gateは、門の向いた方角にOgygusが住んでいたことに因む。[133]
7) Homoloid gateは、EpigoniのThebes攻めでThessaly地方のHomoleへ避難した人々が帰還の際に、その門から町に入ったことに因む。[134]
したがって、最後の門の名前は、EpigoniのThebes攻めの後に名付けられた。それ以前は別な名前であったか、あるいは、新たに門が設けられたか、いずれかと思われる。[135]
5.6 AmphionとZethusの死
Zethusは、妻Thebeが過失で息子Neisを死なせた後で、悲嘆のあまり死去した。[136]
Amphionは、家族と共に悪疫のために死んだ。[137]
Amphionの子供たちの墓はProetidian gateの近くにあり、息子たちと娘たちとは別々の墓になっていた。[138]
また、AmphionとZethusの墓もその近くにあった。[139]
Thebesの町の住人は、BC7世紀の予言者Bacisが告げた神託を信じて、墓に見張りを置いた。
その神託とは、「AmphionとZethusの墓から土を取ってTithoreaにあるAntiopeの墓に運べば、Tithoreaの大地には穀物が稔り、Thebesでは収穫がなくなるだろう」というものであった。[140]
BacisもThebansも、Phocis地方のTithoreaの町にある墓の主AntiopeがAmphionとZethusの母であると勘違いしていた。墓の主は、Sisyphusの子Ornytionの子Phocusの妻Antiopeであり、AmphionとZethusの母Antiopeより、150年以上後の人物であった。[141]
5.7 Ptous山の神託所の開設
BC1330年、Meliaの子Tenerusは、Ptous山に神託所を開設した。[142]
Tenerusの後裔は、Teiresias、Manto、Mopsusへと続く、予言者の系譜であった。Mantoは、Ionia地方のColophonの町の近くの海辺のClarusの町に、Apollonの神託所を開設し、息子Mopsusが継承した。[143]
Mopsusの娘Rhodeは、Lycia地方のRhodia(Rhodiapolis)の名祖になった。[144]
Rhodia近くのTelmessus出身で、Alexander the Greatの遠征に従軍した予言者Aristanderも、Mopsusの後裔と思われる。
Persian Warのとき、Caria語で神託を告げたPtous山の女司祭もTenerusの後裔で、Asia MinorにいるMopsusの後裔と交流があったものと思われる。[145]
Ptous山の神託所はAlexander the GreatがThebesの町を破壊するまで、約1000年続いた。[146]
5.8 叙事詩人Linusの誕生
BC1320年、Thebesの町で、AmphimarusとOuraniaの息子Linusが生まれた。[147]
Linusは、Thebesの町に住んでいたPhoeniciansからPhoenician languageとPhoenician lettersを学んで、Pelasgic lettersを考案した。[148]
Linusは、Thebesの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。[149]
後に、Chalcisの町は文芸の町となり、ギリシア世界で有名な詩人たちを集めた競技会が開催された。[150]
5.9 Phlegyesによる占領
BC1300年、Amphionが死んで、Laiusの時代になると、Eurymachus率いるPhlegyesがThebesの町に攻め入って、町を占領した。[151]
Laiusは、後見人であったAmphionの妻Niobeの兄弟Pelopsを頼って、Eleia地方のPisaの町へ亡命した。[152]
Laiusは、Pelopsから軍勢を借りて、Thebesの町を奪還した。[153]
5.10 Laiusの結婚
Laiusは、Menoeceusの娘Jocasta (or Iocasta, Epicasta)と結婚した。[154]
Menoeceusは、彼の息子Creonの子Haemonの子MaeonがSpartiであったことから、SpartiのEchionの子Pentheusの孫と推定される。[155]
また、このMenoeceusは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの妻Hipponomeの父であり、AmphitryonをThebesの町へ招いた人物であった。[156]
5.11 Oedipusの誕生
BC1294年、LaiusとJocastaに、息子Oedipusが生まれた。[157]
Oedipusには、兄たちがいたため、彼は養子に出された。[158]
Oedipusの養父は、Corinth地方のTeneaの町に住むPolybusであった。[159]
Polybusには、娘Lysianassaしかいなかった。[160]
Polybusは、Oedipusを跡継ぎとするために養子にしたと思われる。
Polybusの妻は、DorianのMeropeだという伝承もある。[161]
しかし、Polybusの妻はPeriboeaで、Oedipusの年の離れた姉と推定される。[162]
Polybusの母Chthonophyleの父Sicyonの父Marathonの父Epopeusは、Thebesの町からMetopeを妻に迎えた。[163]
つまり、Epopeusの時代から、Sicyonの町とThebesの町には繋がりがあった。
5.12 Atticaからの移住
BC1279年、Pandion (or Deion, Deioneus, Deione)の子Cephalusは、Attica地方のThoricusの町からThebesの町へ移住して来た。[164]
Procrisは、第8代Athens王Pandionの娘であった。[165]
つまり、Procrisは、Cephalusの異母姉妹であった。
伝承では、CephalusがProcrisを殺して、Thebesの町へ逃れたことになっている。[166]
しかし、Cephalusの移住は、彼の義兄弟であるAthens王Aegeusによって追放されたためと推定される。
5.13 Haliartusとの戦い
Cadmusより少し遅れてOrchomenusの町に入植したAeolisとThebansとの争いは、必然的なものであった。
BC1279年、Orchomenusの町とThebesの町の境のHaliartusの町で、争いが起きた。[167]
Haliartusの町の指導者はAlopecusであった。Alopecusは、Athamasの養子Haliartusの孫と推定される。[168]
Laiusは、Cephalusに軍勢を与えて、Alopecusと戦わせ、Cephalusは勝利した。[169]
5.14 Tirynsからの移住
BC1278年、Laiusは、Tirynsの町に住んでいたAlcaeusの子AmphitryonをThebesの町へ招致した。それを仲介したのは、Thebesの町に住むSpartiのMenoeceus (or Menoecus)であった。[170]
Menoeceusは、Amphitryonの母Hipponomeの父であった。[171]
5.15 Greece北西部への遠征
BC1277年、Amphitryonは、叔父たち、HeliusとElectryonから、Greece北西部への遠征参加を求められた。すでに、Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建していたが、新たな土地を求め、それにElectryonが協力したものであった。[172]
この遠征には、Thebesの町からCreonやCephalusも参加した。[173]
この遠征で、Heliusは、Echinades諸島に入植した。[174]
Cephalusは、Cephallenia島に入植した。[175]
Electryonと息子たちは、遠征中の戦いで死んだ。[176]
Amphitryonは、Mideaの町に残されたElectryonの子供たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せ、後に、Alcmenaを彼の妻にした。[177]
Amphitryonは、Thebesの町のApollo Ismenias神殿にTeleboansから得た鼎を奉納した。[178]
5.16 Heracles誕生
Amphitryonは、Thebesの町のElectran Gate手前の右側に住んでいた。[179]
BC1275年、Amphitryonの妻Alcmenaは、そこで、男の子を産んだ。
男の子はAlcides、あるいは、祖父の名前でもあったAlcaeusと名付けられた。[180]
後に、Delphiの巫女が神託を授ける際にHeraclesと呼び、以後、その名で呼ばれるようになった。[181]
Heraclesは、52歳の生涯のうち、24年間をThebesの町で暮らした。[182]
5.17 Laiusの死
5.17.1 Laiusの死の真相
Laiusは息子Oedipusによって、彼の父とは知らずに殺されたという伝承がある。
しかし、Laiusの死後、跡を継いだのはCreonであり、この時、OedipusはTeneaの町に住んでいた。[183]
Laiusは、Phocis地方のPanopeusの町の近くで死んだと伝えられていることから、Phlegyansとの戦いで戦死したと推定される。[184]
5.17.2 Laiusを埋葬したDamasistratus
Damasistratusは、Asopus河神の娘Tanagraと同年代で、彼の妻はTanagraの姉妹Plataeaで、彼はPlataeaの町の創建者であった。[185]
Damasistratusは、Tanagraの町を創建したPoemanderの父Chaeresilausの兄弟であり、Eleutheraeの町に住むEleutherの子Iasiusの息子と思われる。
これより前に、Iasiusの兄弟と思われるAmphionは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Thebesの町の西南西にEutresisの町を創建していた。[186]
Damasistratusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Eutresisの町へ半分くらいの所にPlataeaの町を創建した。[187]
Damasistratusの叔父Amphionは、Laiusの後見人であった。[188]
伝承では、Damasistratusが偶然、Laiusの死体を見つけたことになっているが、Damasistratusは、Laiusと共に行動していたと思われる。
5.17.3 Laiusが死んだ年
Minosの子Androgeusは、Laiusの葬送競技会参加のためにThebesの町へ行く途中で殺害された。[189]
Androgeus殺害が発端で、MinosとAthensの町の戦争が起きたことから、Laiusが死んだのは、BC1264年と推定される。
6 Laiusの息子の時代 (1264-1238 BC)
伝承によれば、Laiusの死後、Creonが跡を継いだ。[190]
しかし、Laiusには、Oedipusの他に数人の息子たちがいた。[191]
名前の伝わらないOedipusの兄がLaiusの跡を継いだと推定される。
6.1 MinosとAthensとの戦い
BC1264年、Minosの子AndrogeusがLaiusの葬送競技会参加のためにThebesの町へ行く途中で殺害された。[192]
この事件が、MinosとAthensの町との戦いの原因であると伝えられる。しかし、Athensの町のAegeusとPallasの息子たちとの戦いに、MinosがPallasの息子たちに加担したというのが、史実のようである。[193]
Aegeusは、Athensの町を追われて、Megaraに逃げ込んだがMinosに攻められ、さらにTroezenの町のPittheusのもとへ亡命した。MinosとAthensの町の戦いで、Megaraでの戦いしか伝承にないのが、この推定を裏付けている。[194]
この戦いにおけるThebesの町の動静は不明であるが、つぎの理由で、Minosに味方したと思われる。
1) Minosの子Androgeusは、Thebesの町のLaiusの葬儀へ行く途中であった。[195]
2) この戦いの後、Minosの兄弟Rhadamanthysが、Boeotia地方に入植した。[196]
3) Rhadamanthysの入植地は、Megaraに味方したMegareusの領地であった。[197]
4) Amphitryonの死後、RhadamanthysがThebesの町に住んでいたAlcmenaを妻にした。[198]
6.2 Chalcodonとの戦い
BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むAbasの子ChalcodonがBoeotia地方に侵入した。
Amphitryonは、Thebesの町のProetidian gateから出撃し、Teumessusの村近くでChalcodonと戦い、彼を討ち取った。[199]
6.3 Orchomenusとの戦い
BC1256年、Orchomenus王Clymenusが、Onchestusの町で、Creonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[200]
Onchestusの町は、Laiusの時代にAlopecusとの戦いがあったHaliartusの町からさらにThebesの町寄りにあった。[201]
Clymenusの子Erginusは、Thebesの町を占領して、Thebesの町に20年間の貢納を課した。[202]
当時、Amphitryonは、彼の息子Heraclesを連れてPeloponnesusを旅していた。
Theseusが7歳の時、Troezenの町のPittheusの家で、獅子の皮を敷いて座っているHeraclesを見たのは、このときであった。[203]
Pittheusは、Amphitryonの妻Alcmenaの母Nicippeの兄弟であり、Pittheusは、Amphitryonの義理の伯父であった。[204]
Amphitryonは、Thebesの町へ帰るとErginusとの戦いの準備をして軍勢を集めた。その中には、Corinth地方のTeneaの町へ養子に出されていたOedipusもいた。
Thebansは、Orchomenusの町まで攻め込んで勝利したが、Amphitryonは戦死した。[205]
また、Oedipusの2人の息子たち、PhrastorとLaonytusも戦死した。[206]
この戦いには、Ocaleaeの町のRhadamanthysもThebes側で参加したと思われ、Rhadamanthysは、Amphitryonの未亡人Alcmenaを妻に迎えた。[207]
6.4 Sphinxとの戦い
BC1238年、多数の船がAnthedon沖に現れた。船から上陸した者たちは、Anthedonの町から西南西へ約27kmの所にある標高約550mの山に拠点を置いて周辺を荒らしまわった。その集団は、Sphinxと呼ばれ、人々に「なぞなぞ」を問いかけたと伝えられている。彼らの話す言葉が理解できない地元の住人には、「なぞなぞ」のように聞こえたと思われる。[208]
それまで、Euboea島からBoeotia地方に侵入されて荒らされたことはあった。[209]
しかし、多数の船に乗って、各地を荒らす行為は見受けられず、Sphinxは、遠方から渡来した「海の民」の一部と思われる。[210]
Sphinxは、Thebesの町にも迫り、Creonは軍勢を差し向けたが、Creonの子HaemonやLaiusの息子たちは戦死した。[211]
恐らく、Thebesの町にも攻め込まれ、Creonは援軍を求めた。
その頃、Thebesの町から妻を得たRhadamanthysは世を去っていた。Athensの町はAegeusが支配していたが、Thebesの町との関係は良好とは言えず、内輪の紛争の種を抱えていた。Creonが娘Megaraを与えたHeraclesは、不幸な出来事の後で、Megaraを離縁し、それ以来、Heraclesは、Thebesの町を忌避していた。[212]
結局、Creonは、Laiusの息子で、Corinth地方のTeneaの町に住むPolybusのもとへ養子に出されていたOedipusに援軍を要請した。[213]
Oedipusは、Creonの姉妹Jocastaの息子であり、OedipusはCreonの甥であった。
当時、Polybusのもとには、Argosの町を追われたAdrastusがいた。[214]
Adrastusの母Lysianassaは、Polybusの娘であった。[215]
Sphinxとの戦いにはAdrastusも参加したと思われ、Corinthiansを率いたOedipusは、Sphinxに勝利した。[216]
当時、Corinthの町は、Aesonの子Jasonの支配下にあり、この戦いには、Jasonや彼の息子Mermerusや、Sisyphusの子Ornytionも参加していたと思われる。[217]
このとき、Jasonは各地を荒らしていたSphinxからCorcyra島付近の土地の豊さを聞き及んだと推定される。[218]
この戦いから数年後、Jasonは、Heraclesに協力を求めて、Thesprotiansの地へ遠征して、Corcyra島へ移住した。[219]
7 Laiusの子Oedipusの時代 (1238-1225 BC)
Laiusの子Oedipusは、Sphinxとの戦いで勝利して、Thebes王になった。[220]
あるいは、Sphinxとの戦いでLaiusの息子たちが戦死したときに、OedipusがThebes王になったのかもしれない。[221]
7.1 Oedipusの妻たち
Oedipusには、少なくとも3人の妻がいた。
7.1.1 Jocasta
Oedipusが最初に娶ったのは、Hyperphasの娘Jocasta (or Iocasta)であった。[222]
OedipusがJocastaと結婚したのは、彼の養父PolybusがSicyon王となって、Corinth地方のTeneaの町からSicyonの町へ移住した頃であった。[223]
Hyperphasは、OedipusのTeneaの町の継承を正当化するために必要な人物で、Corinthの町のLycaethusの子Creonの兄弟と推定される。[224]
JocastaとOedipusの間には、2人の息子たち、PhrastorとLaonytusがいたが、MinyansのErginusとの戦いで戦死した。[225]
Jocastaの名前は、Oedipusの母であるMenoeceusの娘Jocastaと同じであったため、Oedipusが母を妻にしたという伝承が生まれた。[226]
7.1.2 Euryganeia
MinyansのErginusとの戦いの1年後、Oedipusは最初の妻Jocastaの妹Euryganeia (or Eurygania)を娶った。[227]
EuryganeiaとOedipusの間には、2人の息子たち、EteoclesとPolyneices (or Polynices)、それに2人の娘たち、Ismene、Antigona (or Antigone)が生まれた。[228]
7.1.3 Astymedusa
Thebesの町へ帰還後、老年になったOedipusは、Sthenelusの娘Astymedusaを妻に迎えた。[229]
このSthenelusは年代が合致することと、つぎのことからMycenae王Eurystheusの父と推定される。
1) Oedipusが住んでいたTeneaの町は、Mycenaeの町の近くにあり、OedipusとAstymedusaには面識があったと思われる。
2) Epigoniの捕虜になったMantoがAsia Minorへ移住したとき、Mycenaeの町出身のLebesの子Rhaciusと出会った。Rhaciusは、MantoからThebesの町が陥落したことを聞いて、大いに動揺して悲しんだ。Rhaciusは、Astymedusaの縁者で、Astymedusaは、Mycenaeの町出身と思われる。[230]
7.2 Oedipusの亡命
OedipusがAstymedusaを娶ったことで、Oedipusと息子たちとの間に不和が生じた。
Creonは娘Megaraを離縁したHeraclesに強い敵意を抱いていた。Creonは、Mycenaeの町の創建者Perseusを共通の先祖とするHeraclesと同族であるAstymedusaとOedipusとの結婚に反対し、OedipusをThebesの町から追放した。
Oedipusの息子たち、EteoclesとPolyneicesも父を助けようとはしなかった。[231]
BC1225年、Oedipusは、娘Antigone、孫Maeonと共にAthensの町へ移住した。[232]
HeracleidaeがPeloponnesusへ帰還したとき、Thebesの町には、Athensの町のAegeusの血筋の者がいたという。[233]
それは、Antigoneの子MaeonとAegeusの孫娘との間に生まれた子供の子孫と思われる。
8 Oedipusの子Eteoclesの時代 (1225-1215 BC)
8.1 Oedipusの死
BC1218年、Oedipusは、76歳で死んだ。[234]
Oedipusが死んだのは、Thebesの町、あるいは、Athensの町と伝えられているが、葬儀が行われたのは、Thebesの町であった。Polyneicesの妻Argea (or Argia、Argeia)がArgosの町から葬儀に出席した。[235]
Oedipusの葬送競技会がThebesの町で開催され、3年後にThebes攻めで戦死することになるTalausの子Mecisteusが参加した。[236]
Mecisteusの母方の祖父Polybusは、Oedipusの養父であり、Oedipusは、Mecisteusの義理の伯父であった。MecisteusはArgeaの護衛役でもあった。[237]
また、Oeclesの子Amphiarausも彼らに同行した。Amphiarausは、Oedipusの埋葬にも参加した。[238]
Thebesの町に埋葬されたOedipusの遺骨は、その後、Athensの町に改葬された。[239]
8.2 Thebes攻めの背景
Oedipusの跡をEteoclesが継いだ。
BC6世紀の思想家Pherecydesは、PolyneicesはEteoclesによって追放されたと伝えている。[240]
BC5世紀の歴史家Hellanicusは、Polyneicesは財産の一部を受け取り、王位はEteoclesに譲ったと伝えている。[241]
PolyneicesとEteoclesの兄弟同士の争いは、ArgivesのThebes攻めへと発展するが、その決定的な動機が不明である。
唯一考えられるのは、Polyneicesが正当な王位継承者であったことである。DiodorusはEteoclesが兄であったと伝えているが、PolyneicesがEteoclesの兄であったのかもしれない。[242]
Polyneicesには、EpigoniのThebes攻めに参加した3人の息子たち、Thersander、Adrastus、Timeasがいた。一方、Eteoclesの息子は、Laodamasしか伝えられていない。[243]
Polyneicesは、父Oedipusの養父Polybusの娘の子Adrastusを頼ってArgosの町へ行った。
PolyneicesとAdrastusの娘Argiaとの間には、少なくとも3人の息子たちが生まれた。[244]
恐らく、Polyneicesは父Oedipusが追放された直後にThebesの町から追放されたと思われる。そこには、Creonを味方に付けたEteoclesとPolyneicesの間の権力闘争があったと推定される。[245]
Polyneicesは、追放された後も、Oedipusの葬儀に妻を参列させており、Eteoclesと戦うまでの対立はなかった。
その後、Polyneicesは、Eteoclesに招かれてThebesの町へ帰還した。しかし、PolyneicesとEteoclesの間に、決定的な対立が生じて、Polyneicesは、再び、Argosの町へ亡命した。[246]
8.3 Thebes攻めの参加者
Polyneicesが、Talausの子Adrastusに懇願して集められたThebes攻めの参加者は、つぎのとおりであった。[247]
Oeneusの子Tydeus - Adrastusの娘Deipyla(or Deipyle)の夫
Hipponousの子Capaneus - Adrastusの姉妹Astynomeの息子
Iphisの子Eteoclus - Adrastusの姉妹Astynomeの子Capaneusの妻Evadneの兄弟
Mnesimachusの子Hippomedon - Adrastusの姉妹Metidiceの息子
Oeclesの子Amphiaraus - Adrastusの姉妹Eriphyleの夫
Talausの子Mecisteus - Adrastusの兄弟
Talausの子Parthenopaeus - Adrastusの兄弟
以上は、Adrastusの縁者であったが、Arcadia地方からもHippomenesとAtalantaの間の子Parthenopaeusが参加した。[248]
ParthenopaeusがArgivesに協力したのは、つぎの理由からであった。
Thebesの町の北北東のSchoinosの町に住んでいたParthenopaeusの母Atalantaの父Schoenusは、Erginusとの戦いに勝利したThebesの町に圧迫されていた。[249]
同じ頃、Minosとの戦いで父Megareusを失ったOnchestusの町のHippomenesもThebesの町に圧迫されていた。[250]
Hippomenesは、Schoenus一家と共にArcadia地方へ移住し、Schoinosの町を創建した。[251]
Parthenopaeusは、Thebesの町によって居住地を奪われた両親の恨みをはらすためにThebes攻めに参加したと思われる。[252]
この他、MesseniansもAdrastusの遠征に参加した。[253]
これに対して、Thebesの町は、Phocis地方の傭兵やMinyansの地方のPhlegyansを味方に付けた。[254]
Homerは、Mycenaeの町がPolyneicesとTydeusから遠征への参加を求められて受諾したが、後に、不吉な前兆により援軍を出さなかったと伝えている。[255]
しかし、Mycenaeの町は、創建当初からArgosの町とは、敵対関係にあった。
また、Mycenaeの町は、EurystheusがAthensの町に攻め込んで壊滅的な損害を被った後であり、遠征に参加する余裕はなかった。PolyneicesとTydeusによるMycenaeの町の訪問は、作り話と思われる。[256]
8.4 ArgivesのThebes攻め
BC1215年、Adrastus率いるArgivesは、Argosの町を出発して陸路で、Cithaeron山を越え、Electran gateの外で待ち受けるThebansと戦った。Thebansが城壁の中に籠ると、Argivesは、7つの門に兵を分散した。[257]
戦いの結果、Adrastus以外の将たちは戦死した。[259]
この戦いの原因であったPolyneicesとEteoclesは、両人ともに戦死した。[260]
Thebesの町は王を失い、戦利品もない「a Cadmean victory」であった。[261]
Creonは、Adrastusからの遺体の引き取りの要求を拒否し、Thebansにも遺体の埋葬を許さなかった。Adrastusは、Athensの町のTheseusのもとへ嘆願に行き、Theseusは使節を派遣して、Thebesの町から遺体の引き取りの許しを得た。[262]
BC4世紀の弁論家Isocratesは、Athensの町がThebesの町に脅しをかけたと伝えている。[263]
少し前に、Eurystheus率いるMycenaeansを撃破したAtheniansの実力をThebansが恐れた結果であった。
Adrastusは、Cithaeron山を越えたEleutheraeの町に兵士たちの遺体を埋葬し、将官の遺体は、Eleusisの町に埋葬した。[264]
BC319年のOrkyniaの戦いの時、Eumenesは、Antigonusとの戦いで戦死した将官と兵士を別々に火葬している。身分で分ける慣習は、古くから行われていたようだ。[265]
Eleutheraeの町は、当時はまだAttica地方ではなかったが、その頃からThebesの町に反感を持っていて、埋葬を許したものと思われる。Eleutheraeの町は、後にAttica地方になった。[266]
CreonがArgivesの遺体に非道な仕打ちをしたのは、町が攻められ、Eteoclesを奪われたことばかりが原因ではなかった。
Creonは、娘MegaraをAmphitryonの子Heraclesに嫁がせたが、HeraclesはMegaraを離縁した。[267]
古代の伝承の中で、離縁された女性はあまり例がない。離縁は、女性や彼女の親にとって、不名誉なことであったと思われる。
Megaraを離縁した後で、Heraclesは、Thebesの町を避けるように居住地を変えた。Heraclesの死後、彼の息子たちが、Eurystheusの圧力でTrachisの町から追い出されたときも、彼らは、Thebesの町へ行かず、Athensの町へ亡命した。[268]
Creonは、Heraclesや彼の息子たちに憎悪を抱き、そこから、Argivesに対しても悪感情を持っていたものと思われる。
8.5 実際のThebes攻め
Thebesの町の城壁は100年ほど前に築かれ、Phlegyes、Minyans、Sphinxからの3度に及ぶ攻撃を受け、その都度、補強していたと思われる。正攻法でThebesの町を攻略することは不可能であった。
BC429年、1万人以上のPeloponnesus同盟軍は、城壁内に500人未満の兵たちが籠るPlataeaの町を攻め落とすことができなかった。[269]
つまり、攻城戦は作り話で、実際は、数で勝るThebansがAdrastusの遠征軍をElectran gateの前で待ち構え、最初の戦いで、Argivesは壊滅したと推定される。[270]
BC1368年、Abasの双子の息子たち、Argosの町のAcrisiusとTirynsの町のProetusは、攻城戦を行わず、町の外で戦っている。[271]
8.6 Amphiaraus受難の場所
Amphiarausは、Boeotia地方東部のOropus(or Harma)で戦車ごと大地に呑み込まれたと伝えられている。[272]
その伝承は、Amphiarausが討ち取ったAstacusの子Melanippusの墓がThebesの町からChalcisの町へ行く街道沿いにあったことから作られたと思われる。[273]
しかし、Melanippusの墓があった場所は、Melanippusが討ち取られた場所ではなく、Melanippusの屋敷があった場所であった。[274]
Pausaniasは、Thebesの町と1.8km南のPotniaeの町との間で、Amphiarausが大地に呑み込まれたと記している。そこは、最初の戦いがあったIsmenian sanctuaryの近くであった。[275]
Ismenian sanctuaryには、Lydia王CroesusがAmphiarausの勇武と受難に感銘して奉納した黄金の楯と槍があった。[276]
9 Eteoclesの子Laodamasの時代 (1215-1205 BC)
Eteoclesの跡をLaodamasが継ぎ、Creonが後見人になった。[277]
9.1 EpigoniのThebes攻め
BC1205年、AdrastusのThebes攻めから10年後、Amphiarausの子Alcmaeonに率いられたArgivesは、再び、Thebesの町へ遠征した。[278]
Argivesには、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansが味方した。[279]
Messeniansの参加者は、不明である。
Arcadia地方からの参加者は、Atalantaの子Parthenopaeusの仇を討つために参加した彼の息子たち、TlesimenesとBiantesであった。彼らの他に、Phegiaの町に住むPhegeusの2人の息子たち、TemenusとAxionも参加した。[280]
彼らは、Alcmaeonの最初の妻Alphesiboea(or Arsinoe)の兄弟であった。[281]
Corinthの町からの参加者は、Melampusの子Abasの子Coeranusの子Polyidusの2人の息子たち、EuchenorとCleitusであった。[282]
Coeranusは、Argosの内紛で、Corinthの町へ移住していた。
Megaraの町は、当時、Telamonの子Ajaxが治めていたが、AjaxとAdrastusやArgosの町との繋がりは見つからない。恐らく、Argosの内紛でMegaraに移住したArgivesと思われ、後にTroy遠征に参加する予言者Thestorの子Calchasではないかと思われる。[283]
この他に、Troezenの町からもTheseusの子Hippolytusが参加したと推定される。
Hippolytusは、戦車の手綱が木に引っ掛かり転覆して引きずられて死んだという伝承がある。[284]
Troezenの町にDiomedes創建のHippolytusの神苑があり、HippolytusとDiomedesと同世代であった。Thebes攻めの後で、Troezenの町がDiomedesの支配下にあったことから、HippolytusはEpigoniのThebes攻めに参加して戦死したと思われる。[285]
一方、Thebesの町へは周辺の町から援軍があった。[286]
9.2 Mysiaからの参加
Hyginusは、Parthenopaeusの子TlesimenesをMysianだと伝えている。[287]
Parthenopaeusは、Augeの子Telephusと共にArcadia地方からAsia MinorのMysiaへ移住した。[288]
ParthenopaeusとTelephusは、同年代であり、Tegeaの町のすぐ東側のParthenius山付近に住んでいた。[289]
Telephusの父は、Heraclesではなく、Parthenopaeusの母Atalantaの兄弟、Schoeneusの子Clymenusであった。Telephusは、彼の母AugeとClymenusの甥Parthenopaeusと共にMysia地方へ移住した。[290]
Mysia地方のPergamusの町の住人は、Telephusと共にArcadia地方から移住して来た人々の後裔であった。[291]
Parthenopaeusは、AdrastusのThebes攻め前に帰国して、遠征に参加して戦死した。
Tlesimenesは、EpigoniのThebes攻めの話を聞いて、父の仇を討つためにMysiaから駆け付けて遠征に参加した。[292]
9.3 Epigoniの将たち
Polyneicesの子ThersanderをThebes王とするために、つぎの将たちが遠征に参加した。[293]
Amphiarausの子Alcmaeon
Adrastusの子Aegialeus
Talausの子Parthenopaeusの子Promachus
Hippomedonの子Polydorus
Amphiarausの子Amphilochus
Tydeusの子Diomedes
Capaneusの子Sthenelus
Mecisteusの子Euryalus
Polyneicesの2人の息子たち、AdrastusとTimeas
[294]
9.4 戦いとその後
Alcmaeon率いるArgivesは海路でAulisの町に着き、そこから、陸路でThebesの町を目指した。[295]
Eteoclesの子Laodamasは、Argivesを迎え撃つためにThebesの町から出陣して、Glisasの町に陣を敷いた。[296]
そこで激戦があり、Adrastusの子Aegialeusや、Parthenopaeusの子Promachusが戦死するが、Argivesが勝利した。[297]
Thebesの町の住人は、町から出て、Alalcomenaeの町の近くのTilphossaeumへ逃れた。[298]
Thebesの町の予言者Teiresiasはその地で死に、彼の娘Mantoは、Argivesの捕虜になった。[299]
Thebesの町の住人は、次のように各地へ逃れた。
1) Laodamasに率いられた人々は、Illyria地方へ移住した。[300]
Illyria地方には、Laodamasの先祖Cadmusを招いたEncheleansが住んでいた。[300-1]
2) 一部の人々は、Thessaly地方北部のPeneius河口付近のHomoleの町へ移住した。[301]
3) 一部の人々は、Euboea島北西部にHistiaeaの町を創建した。[302]
Homerは、Histiaeaの町を「ブドウ豊かな」と表現している。[303]
大部分の人々は、Haliartusの町近くのTilphossaeum山へ逃げ込み、Argivesがいなくなるのを待っていた。[304]
Homoleの町へ逃れた人々は、後に、Thersanderによって、Thebesの町へ呼び戻された。[305]
9.5 Eriphyleの首飾り
BC352年、Phocisの僭主Theotimusの子PhayllusがDelphiのAthena Forethought神殿から略奪した品の中に、Eriphyleの首飾りがあった。[306]
その首飾りは、戦いで勝利したEpigoniがDelphiに奉納した戦利品の中の一つであった。
後に、Delphiでその首飾りを見た人物が、Thebesの町にあった首飾りがDelphiに奉納されるに至るまでを物語にした。その物語のあらすじはつぎのとおりである。
Polyneicesは、Adrastusの娘Eriphyleの夫AmphiarausをThebes攻めの遠征に参加させようとして、Eriphyleに首飾りを贈った。[307]
その首飾りは、Cadmusの妻Harmoniaの代から続く由緒ある品であった。[308]
Amphiarausの子Alcmaeonは、EpigoniのThebes攻めの後で、父の遺言に従って母Eriphyleを殺害して首飾りを手に入れた。その後、Alcmaeonは、Arcadia地方のPhegiaの町に住むPhegeusの娘Alphesiboeaを妻にして、彼女に首飾りを贈った。[309]
その後、AlcmaeonはAcarnania地方へ移住して、Callirhoeを妻にした。[310]
CallirhoeからEriphyleの首飾りを手に入れるよう頼まれたAlcmaeonは、Phegiaの町へ行き、そこで殺された。[311]
Alcmaeonを殺したPhegeusの息子たちは、首飾りをDelphiに奉納した。[312]
という、相当無理のある物語であるが、Homerは、Eriphyleが高価な黄金のために夫を売ったと伝えている。[313]
しかし、Eriphyleの首飾りと伝えられるものは、黄金の鎖ではなかった。
Phayllusが神殿から首飾りを略奪する4年前に、同じ神殿からPhayllusの兄弟PhilomelusがCroesus奉納の黄金の丸楯などを略奪していた。Eriphyleの首飾りが黄金製であれば、Philomelusが見逃すはずがない。その首飾りは価値のない品物であったと思われる。[314]
10 Polyneicesの子Thersanderの時代 (1205-1196 BC)
Thersanderは、Thebesの町を支配下に置くと、各地へ避難した人々を呼び戻した。その際、Thessaly地方のHomoleの町から帰還した人々が町へ入るときに潜った門は、Homoloid gateと呼ばれるようになった。[315]
つまり、Homoloid gateという名前の門は、AdrastusのThebes攻めのときも、EpigoniのThebes攻めのときも存在していなかったか、別な名前で呼ばれていた。
10.1 Alcmaeonと捕虜たちのAcarnania入植
Amphiarausの子Alcmaeonは、捕虜となった人々を引き連れて、彼らの王Laodamasが移住したIllyriaを目指した。彼らの一部は、Acarnania地方とAetolia地方との境になっているAchelous川の河口付近に定住した。そこには、Astacusという名前の町が創建された。[316]
Tydeusの子DiomedesがAlcmaeonと共にCalydonの町を追放された彼の祖父Oeneusの仇を討った後で、AlcmaeonがAcarnania地方に入植したという伝承がある。[317]
しかし、Diomedesの遠征に協力したのは、 Capaneusの子Sthenelusであったという伝承もあり、こちらの方がDiomedesとSthenelusの親友関係から考えても妥当と思われる。[318]
次のことから、AlcmaeonがDiomedesと共に遠征したとは思われない。
1) Oeneusを追放したのは、Pleuronの町のParthaonの子Agriusとその息子たちであった。
2) Alcmaeonの祖父Oecleusの妻Hypermnestraは、Pleuronの町のThestiusの娘であった。
3) AlcmaeonとAgriusとその息子たちは、従兄弟の孫同士の関係にあった。
Alcmaeonは、彼の弟AmphilochusやArgosの町から率いて来た人々とArcadia地方に入植した。AlcmaeonとMantoとの間には、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[319]
10.2 Mantoや捕虜たちのAsia Minor入植
Alcmaeonは入植先で新たにCallirhoeを妻に迎え、Mantoは他の捕虜たちと新天地への移住を希望した。[320]
Thebesの町の近郊にも捕虜となった人々がいて、彼らも他の住人との軋轢で、新天地への移住を希望した。[321]
Alcmaeonは、Mantoや移住を希望する捕虜たちの望みを叶えてやるように、Thebesの町のThersanderに依頼した。ThersanderにとってAlcmaeonは、妻Demonassaの兄弟であると同時に、自らをThebes王に即位させてくれた恩人でもあった。[322]
Thersanderは、EpigoniのThebes攻めに参加したParthenopaeusの子Tlesimenesの出身地MysiaにMantoたちを連れて行くことにした。[323]
Thersanderが率いる移民団の水先案内人は、Tlesimenesが担当し、無事にMysiaに到着したが、その地でThersanderが死去した。[324]
Mantoたちは、さらに南へ航海し、Colophonの町のCretansに受け入れられて、彼らと共住した。[325]
11 Thersanderの子Tisamenusの時代 (1196-1150 BC)
Tisamenusの時代に、AchaeansによるTroy遠征があった。
Pausaniasは、Tisamenusは、戦士の年齢に達していなかったため、遠征には参加しなかったと伝えている。[326]
Argosの町で生まれたThersanderや、彼の息子Tisamenusに、Thebesの町の住人を従わせる強力なリーダーシップはなかったと思われる。
Troy遠征に、Thebesの町の住人は、参加しなかったと推定される。
11.1 ThraciansのBoeotia侵入
BC1188年、ThraciansがOrchomenusの町に侵入し、追い出された住人の一部は、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosの町へ移住した。[327]
Teosの町は、少し前にMantoたちが居を定めたColophonの町のすぐ西側にあった。[328]
その120年後、Athensの町のMelanthusの曾孫Apoecusに率いられたIoniansと共に、BoeotianのGeresが率いるBoeotiansがTeosの町に入植した。[329]
また、Orchomeniansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[330]
Orchomeniansを追い出したThraciansとは、かつて、Boeotiaの代名詞であったHyantesであった。彼らは、Cadmusに追われて西へ追いやられ、当時はPhocis地方のHyampolisの町に住んでいて、帰還の機会を狙っていた。[331]
Thraciansは、Thebesの町をも占領して、捕虜にした住人を連れ去った。Thebansは、Haliartusの町で、Thraciansから捕虜たちを奪い返した。[332]
Thebansは、この出来事を記念して、Proetidian gateの近くに、Dionysus surnamed Lysios (Deliverer)の神殿を建立した。[333]
11.2 PelasgiansのBoeotia侵入
BC1188年、PelasgiansがCoroneiaの町に侵入した。追い出された住人は、Thessaly地方のArneの町へ移住した。[334]
Coroneiaの町には、Amphionの時代に、Arneの町からBoeotia地方へ移住して来たBoeotiansが住んでいた。Boeotiansは、Boeotia地方の広範囲に居住していたが、Coroneiaの町は、その中心地であった。[335]
BC1186年、Thessaly地方へThesproteansが侵入し、Arneの町のBoeotiansは、予言者PeripoltasやPeneleosの子Opheltesに率いられて、Boeotia地方に帰還した。しかし、Coroneiaの町を奪い返すことができずに、Phocis地方に近い土地に定住した。[336]
その地は、Arneの町と呼ばれたが、後にChaeroneiaの町と改められた。[337]
12 Tisamenusの子Autesionの時代 (1150-1126 BC)
12.1 Boeotiansの帰還
BC1126年、Thessaly地方のArneの町に、penestaiと呼ばれる奴隷身分となって残留していたBoeotiansは、Thessaliansによって追い出された。[338]
Arneの町を追われたBoeotiansは、先に帰還してArne (後のChaeroneia)の町に住んでいたBoeotiansと合流した。彼らは、Peneleosの子Opheltesの子Damasichthonを指導者として、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansを追い出した。[339]
この時、Athensの町のMunychiaに避難していたOrchomeniansも帰還した。
OrchomeniansとBoeotiansは共同して、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出して、町を奪還した。[340]
12.2 Thebesの支配者の交代
Damasichthon率いるBoeotiansは、Thebesの町を攻めた。
Tisamenusの子Autesionは、Boeotiansに対抗できず、町を明け渡した。[341]
Cadmusが創建したThebesの町は、約300年後、Aeolisの支族Boeotiansが支配することになった。
Thebesの町を出たAutesionは、CadmusやEteoclesの子Laodamasが行ったIllyria地方や、祖母の故郷Argosの町へは行かなかった。
Illyria地方には、Autesionの祖父が追放したLaodamasの後裔が住んでいた。
Argosの町は、Autesionの祖母の家系は絶え、Orestesの子Tisamenusに支配されていた。
Autesionは、Doriansの地へ移住した。[342]
12.3 Dorisへの移住
Epicnemidian LocrisとOpuntian Locrisとの間にあるDoris地方のPindusの町には、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの子Aristomachusが住んでいた。[343]
Heraclesの死後、Doriansの王Aegimiusは、Heraclesの子Hyllusを養子にし、Hyllusは、Doriansの3部族の一つHylleisの王になった。[344]
Heraclesは、離縁した妻Megaraの父Creonから憎まれて、Thebesの町とは絶縁状態であった。しかし、Heraclesの父Amphitryonの母Hipponomeは、Cadmusの後裔Menoeceusの娘であり、Heraclesの後裔もAutesionもCadmusを共通の先祖としていた。
AutesionがDoriansの地へ移住した頃、Aristomachus率いるDoriansのPeloponnesusへの侵入があった。Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れて戦死した。
Autesionの移住が、この戦いの前であれば、戦力を増強するため、戦いの後であれば、損失を補充するために、Heraclesの後裔はAutesionを喜んで迎え入れたと思われる。[345]
その後、Autesionの娘Argeiaは、Aristomachusの子Aristodemusと結婚して、Sparta王になる双子の息子たち、EurysthenesとProclesを産んだ。[346]
13 Opheltesの子Damasichthonの時代 (1126-1115 BC)
Damasichthonは、Thebesの町を手に入れ、Boeotia地方全域の支配者になった。
それまで、Coroneiaの町を中心に局地的に用いられていたBoeotia地方という呼び名が、Boeotia地方全域を指すようになった。
Damasichthonの時代、AeolisによるAsia Minor植民が盛んになり、Boeotia地方のAulis港は、移民を運ぶ船で賑わった。[347]
BC1120年、Mycenaeの町のOrestesの子Penthilus率いる移民団にBoeotiansも参加して、Aeolis地方に入植した。[348]
14 Ptolemyの子Xanthusの時代 (1115-1111 BC)
Damasichthonの跡を、Damasichthonの子Ptolemyの子Xanthusが継いだ。[349]
BC1111年、Xanthusは、土地の問題で争い、Atheniansと戦って死んだ。[350]
係争地は、MelaenaeともOinoeとも伝えられる。[351]
また、Xanthusと戦った相手も、Athens王Melanthusとも、その父Andropompusとも、Melanthusの前のAthens王Thymoetesとも伝えられる。[352]
Xanthusの死後、Thebesの町では、300年以上続いた王制が廃止された。[353]
15 王制廃止後のThebes
15.1 ThebesとSparta
BC1070年、Spartaの町のDoriansは、Achaeansが住むAmyclaeの町を攻略できず、Thebesの町からTimomachusを招いて軍事指導をさせた。[354]
初代Sparta王の後見人Therasの父Autesionは、Thebesの町を追われた身であり、奇異な感じもする。
15.2 Thebesの植民活動
BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔Philotasは、Thebesの町から移民団を率いて、Samos島対岸に入植し、Prieneの町を再建した。[355]
Prieneの町は、少し前に、Codrusの子Neileusの子Aepytusが率いる植民団が創建した町であった。[356]
15.3 Thessaliansとの戦い
BC594年、Lattamyas率いるThessaliansがBoeotia地方に侵入したが、ThebansはThespiae付近で戦って、Thessaliansを撃退した。[357]
Phocis地方のCirrha攻略のためにAmphictyonsの一員として参加したThessaliansがBoeotia地方へも侵入したものであった。[358]
15.4 Pausanias訪問時のThebes
AD2世紀にPausaniasがThebesの町を訪問したとき、住人は、Acropolis (昔のCadmeia)に住み、それ以外の土地は無人となっていた。つまり、Thebesの町は、昔のCadmeiaと同じくらいの規模の町になっていた。[359]
おわり |