1 はじめに 
      この章では、Egypt (Libya)、Phoenicia、黒海周辺、Illyria、Thesprotia、Molossia、Iberiaについて記述する。 
      Macedonia、Paeonia地方については、「Thraciaの青銅器時代の歴史」に記述している。 
      2 Egypt (Lybia) 
        2.1 Boeotiaからの移住 
        BC1750年、Parnassus山の北側を流れるCephisus川の上流で、大洪水が発生した。Ogygusに率いられたEctenesは、Boeotia地方へ移住した。 
        BC1580年、Ectenesは、Hyantesなどの他種族から圧迫を受けて、Boeotia地方から各地へ移住した。[1] 
        Ectenesの一部は、Ogygusに率いられて、Boeotia地方からEgyptへ移住した。 
      2.1.1 Thebesの創建 
        Ogygusは、EgyptにThebesの町を創建した。[2] 
        町の名前は、Ogygusの娘Thebeに因んで名付けられた。[3] 
        このThebesの町は、上EgyptのThebes (現在のLuxor)ではなく、NileDeltaにあり、Agenorの子Cadmusが住んでいた町であった。[4] 
        Thebeの父Ogygusは、大洪水時代のOgygusの後裔であった。[5] 
      2.1.2 Saisの創建 
        Ogygusと共にEgyptへ移住した、Telegonusの父は、Saisの町を創建した。[6] 
        初代Athens王Cecropsは、Telegonusの兄弟であった。[7] 
      2.2 Athensへの移住 
        BC1562年、Cecropsは、Saisの町からAttica地方へ移住して、初代Athens王になった。[8] 
        Cecropsは、ギリシア語の他に、移住先で覚えた言葉も話した。 
        Cecropsに付けられたDiphyes (two-formed)という呼び名は、「2つの言葉を話す」という意味であった。[9] 
      2.3 Argosからの移住 
        BC1560年、Triopasの子Iasusは、移民団を率いて、Argosの町からEgyptへ移住した。[10] 
        Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚して、Epaphusが生まれた。[11] 
      2.4 Athensへの移住 
        BC1515年、Cranausは、Saisの町からAttica地方へ移住して、第2代Athens王になった。[12] 
        Cranausは、Ioの息子と推定される。[13] 
        古い時代のAtheniansはPelasgiansであり、Cranausの時代、AtheniansはCranaansという名前で呼ばれていた。[14] 
        Iasusの娘Ioと共に、Argosの町からEgyptへ移住したPelasgiansが、Ioの子Cranausと共にAthensの町へ移住した。[15] 
      2.5 Memphisの創建 
        BC1535年、Telegonusの子Epaphusは、Saisの町から移住して、Memphisの町を創建した。[16] 
      2.6 Athensへの移住 
        BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、Saisの町からAthensの町へ移住して、Amphictyonを追放して、第4代Athens王に即位した。[17] 
        Erichthoniusには、Cranausの子Rharusも同行して、Athensの町へ移住した。[18] 
        Rharusではなく、ErichthoniusがAthens王になったのは、Erichthoniusの父がCecropsの子Erysichthonの息子であったからと推定される。[19] 
      2.7 各地への移住 
        BC1430年、NileDeltaに住んでいた人々は、Egypt第18王朝のファラオThutmose IIIに対して反乱を起こして、Egyptから追放された。 
        NileDeltaに住んでいた数十万人が、陸路あるいは海路で、Egyptから各地へ移住した。 
      2.7.1 Greeceへの移住 
        Belusの子Danausは、Argosの町へ移住した。[20] 
        Danausの兄弟Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部のAroe (後のPatrae)の町へ移住した。[21] 
        Danausの兄弟Orusは、Argolis地方へ移住して、Oraea (後のTroezen)の町を創建した。[22] 
        Danausの叔父Lelexは、Laconia地方へ移住した。[23] 
        その後、Lelexは、Megara地方へ移住した。[24] 
      2.7.2 Phoeniciaへの移住 
        Libyaの子Agenorは、Phoenicia地方のSidonの町へ移住した。[25] 
        その後、Agenorの子Cadmusは、Boeotia地方へ移住して、Cadmeia (後のThebes)の町を創建した。[26] 
        Agenorの子Phoenixは、Phoenicia地方のTyreの町へ移住した。[27] 
      2.7.3 Colchisへの移住 
        黒海東岸のColchis地方へ移住した人々もいた。[28] 
        40年後、Sisyphusの子AeetesがColchis地方へ移住したのは、彼らと繋がりがあったからと推定される。 
      2.8 Rhodesからの移住 
        BC1415年、Rhodosの子Actis (or Auges, Atlas)は、Rhodes島からEgyptへ移住して、Heliopolisの町を創建した。[29] 
        Actisは、CanopusのMaceris (Egyptian Heracles、または、Phoenician Heracles)に星の知識を伝授した。[30] 
      2.8.1 LibyaやIberiaへの移住 
        航海術に優れ、世界の果てまでを知り尽くしたMacerisは、海洋民族Phoeniciansにとっては、神のような存在であった。Iberia半島のTartessusの町やPhoenicia地方のTyreの町の他に、EgyptのCanopusの町やThasos島にもHeraclesの神域があった。[31] 
        Macerisは、Agenorの息子であり、Cadmusの兄弟であったと推定される。 
        BC1410年、Macerisは、後のCarthageの近くに、Capsaの町を創建した。[31-1] 
        BC1400年、Macerisは、Iberia半島最南端へ移住して、Heracleia (後のCalpe)の町を創建した。[31-2] 
        Macerisは、Tartessusの川から産出される錫を目当てに移住したとも思われる。[31-3] 
      2.9 Argosからの移住 
        BC1402年、Achaeusの子Archanderは、Argosの町からEgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisの町を創建した。[32] 
        Archandropolisの町の近くに、Archanderの妻であるDanausの娘Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町があった。[33] 
        Archanderには、Thessaly地方で結婚したCyreneと息子Aristaeusも同行した。[34] 
      2.10 Aegean Seaの大津波 
        BC1390年、Crete島の北に浮かぶThera (現在のSantorini)島で大噴火があり、Aegean Seaに大津波が発生した。[35] 
        大津波は、EgyptのNileDeltaを襲い、被災した人々は、各地へ移住した。 
      2.10.1 Anatoliaへの移住 
        BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのArchandropolisの町の住人を率いてArchanderの子Belusは、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近へ移住した。[36] 
        Belusの入植地はEthiopia、そこに住む人々はEthiopiansと呼ばれた。[37] 
        Belusの移民団には、Corinthの町からColchis地方へ移住したAeetes、Athensの町からThracia地方へ移住したBoreas、Eleusisの町からThracia地方へ移住したCeryxの移民団も同行していた。 
        Belusと共にEgyptを出発した人々の一部は、Colchis地方へも入植しており、BelusとAeetesが行動を共にしていたことを証明している。[38] 
      2.10.2 Sardiniaへの移住 
        BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのCanopusの町の住人を率いてMacerisの子Sardusは、Sardinia島へ移住した。[39] 
        Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、その付近がSardusの移住先であったと思われる。[40] 
      2.11 Argosからの移住 
        BC1387年、Lynceusの子Abasの死後、Abasの子Proetusは、双子の兄弟AcrisiusをArgosの町から追放した。[41] 
        AcrisiusとProetusは、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、彼らの支持者による争いであった。 
        Acrisiusは、Argosの町からEgyptへ移住した。 
        Egyptには、Acrisiusの父Abasの後見人であったAchaeusの子Archanderが15年前に移住していた。 
        Archanderが建設したArchandropolisの町は、大津波で被災していた。Acrisiusは、Chemmisの町に住んだ。[42] 
        Acrisiusは、ArchanderとDanausの娘Scaeaとの間の娘と推定されるAganippeと結婚して、娘Danaeが生まれた。[43] 
      2.12 Sardiniaへの移住 
        BC1372年、Cyreneの子Aristaeusは、EgyptからSardinia島へ移民団を率いて、移住した。[44] 
        Aristaeusは、Sardinia島の南部にCaralisの町を創建した。[45] 
        Caralisの町は、少し前に、Egyptから入植したSardusの居住地の近くにあった。 
      2.13 Argosへの移住 
        BC1370年、Abasの子Acrisiusは、EgyptからArgosの町へ帰って、彼の兄弟Proetusを追放した。[46] 
        Acrisiusの妻Aganippeと、彼らの娘Danaeは、EgyptのChemmisの町に残された。Danaeには、息子Perseusが生まれた。[47] 
      2.14 Argosへの移住 
        BC1349年、後継ぎのないAcrisiusは、Egyptに残して来た彼の娘Danaeのもとから、彼女の息子Perseusを自身の後継者とするためにArgosの町へ呼び寄せた。Perseusは、母Danaeのもとから無理やり連れ去られたという伝承もある。しかし、Danaeには、Perseusの他に、Daunusという名前の息子もいた。[48] 
      2.15 Italyへの移住 
        BC1341年、Acrisiusの娘Danaeは、Egyptから植民団を率いてSardinia島へ向かった。Danaeは、航海途中で暴風に遭遇して、Italy半島西海岸に漂着し、Ardeaの町を建設した。[49] 
        Danaeの子Daunusは、Ardeaの町を継承した。[50] 
        BC1182年、Aeneasと戦って死んだRutuliの首領Turnusは、Daunusの後裔であった。[51] 
      2.16 Creteからの移住 
        BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Amphithemisは、Crete島からLibyaへ移住した。[52] 
      2.17 Theraからの移住 
        BC630年、Polymnestusの子Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[53] 
      2.17.1 移住先の決定 
        Battusは、神託によって、LibyaにCyreneを創建したと伝えられている。[54] 
        しかし、Acacallisの子AmphithemisがLibyaへ移住した後で、Crete島のOaxosの町とLibyaの間に交流があったと推定される。 
        Oaxosの町は、Amphithemisの兄弟Oaxosによって創建された。[55] 
        Battusの母Phronimeの父Etearchusは、Oaxosの町の支配者であった。[56] 
        Phronimeの結婚に際して、Oaxosの町からThera島へ移住した人々の中に、Libyaの良さを知り、Battusに移住先として、Libyaを勧めた者がいたと思われる。 
      2.17.2 Cyrene建設の参加者 
        Cyreneの町の建設には、Spartaの町からも参加者があった。その中には、Olympiadの優勝者Chionisも含まれていた。[57] 
        また、Rhodes島のLindusの町からPancisの息子たちもCyreneの町の建設に参加した。[58] 
      3 Phoenicia 
        3.1 Egyptからの嫁入り 
        BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensの町へ行く途中、あるいは、それ以前に、Phoenicia地方のTyreの町に嫁いだ。[59] 
      3.2 Egyptからの移住 
        BC1430年、NileDeltaに住んでいた人々は、第18王朝のファラオThutmose IIIに対して反乱を起こして、Egyptから追放された。 
        NileDeltaに住んでいた数十万人が、陸路あるいは海路で、Egyptから各地へ移住した。 
      3.2.1 Tyreへの移住 
        BC1430年、Agenorの子Phoenixは、Phoenicia地方のTyreの町へ移住した。[60] 
        Phoenixは、移住より前に、Oeneusの娘Perimedeを妻に迎えていた。[61] 
        Oeneusは、Tyreの町に嫁いだCecropsの娘Herseの曾孫と思われる。[62] 
      3.2.2 Sidonへの移住 
        BC1430年、Libyaの子Agenorは、Phoenicia地方のSidonの町へ移住した。[63] 
        Agenorが移住先としてSidonの町を選んだのは、彼の息子Phoenixがその地方から妻Perimedeを迎えていたからであった。[64] 
      3.3 Thraciaへの移住 
        BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Sidonの町から移民団を率いて出航した。[65] 
        Cadmusの移民団に船を供出したのは、Tyreの町に住むHerseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousであった。Astynousは、息子Sandocusと共にCadmus率いる移民団をSamothrace島経由で、Thracia地方に送り届け、Tyreの町に戻った。[66] 
        BC1425年、Cadmusは、Thracia地方のChalcidice半島北側へ移住した。[67] 
      3.4 Callisteへの移住 
        BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPoecilesの子Membliarusは、一部の人々と共にCalliste (後のThera)島に上陸して、その島に定住した。[68] 
        BC1099年、Autesionの子TherasはLacedaemonから移民団を率いて、Calliste島へ移住した。[69] 
        Cadmusの時代からTherasの時代までの間に、少なくとも2度、島の火山が噴火した。しかし、Membliarusと共に島に入植した人々の子孫は、生き延びていた。[70] 
      3.5 Creteへの嫁入り 
        3.5.1 Phoenixの娘Europa 
        BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydoniaの町に住むTegeatesの子Cydonと結婚した。Cydonは、BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住し、Cydoniaの町を創建していた。[71] 
      3.5.2 Phoenixの娘Astypalaea 
        BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Apteraの町に住むAcmon (or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[72] 
        Astypalaeaは、Acmonと共にOlympiaへ移住し、その後、Rhodes島の近くのCaria地方へ移住した。[73] 
        Astypalaeaの子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[74] 
      3.6 Ciliciaへの移住 
        BC1425年、Agenorの子Cilixは、Ida山近くのCilicia地方へ移住して、Thebeの町を創建した。[74-1] 
        BC1402年、Cilixの娘Thebeは、Ida山近くに住むCybeleの子Corybasへ嫁いだ。[74-2] 
      3.7 Cilicia Tracheiaへの移住 
        BC1410年、Astynousの子Sandocusは、Tyreの町からCilicia Tracheiaへ移住して、Celenderisの町を創建した。[74-3] 
        Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[74-4] 
      3.8 Cyprusへの移住 
        BC1410年、Pygmalionは、Cyprus島北東部へ移住して、Carpasiaの町を創建した。[74-5] 
        Pygmalionの娘MetharmeとSandocusの子Cinyrasが結婚していることから、Pygmalionは、Sandocusと一緒に、Tyreの町から移住したと推定される。[74-6] 
      4 黒海周辺の歴史 
        4.1 Peloponnesusからの移住 
        BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、大津波で被災したEphyraea (後のCorinth)の町の住人を率いて、黒海東岸のColchis地方へ移住した。[75] 
        Aeetesは、Egyptから移民団を率いたBelusと行動を共にしていた。 
        Belusの移民団の中には、BC1430年に、EgyptからColchis地方へ移住した人々も含まれていて、Colchisまでの航路を知っていたと思われる。[76] 
        Aeetesの町は、Cytaという名前であった。[76-1] 
      4.2 Troadへの嫁入り 
        BC1375年、Aeetesの娘Chalciope (or Iophossa, Euenia)の娘は、Colchis地方からTroad地方に住むMinosの子Asteriosのもとへ嫁入りした。[77] 
        BC1390年、大津波で被災したAsteriosは、父Minosと共に、Crete島からTroad地方へ移住した。[78] 
        Asteriosの結婚は、Hellespontosを通過する交易を通じて、成立したと思われる。 
      4.3 Troadからの移住 
        BC1370年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Troad地方からColchis地方へ移住した。[79] 
        Asteriosの移住には、Ida山近くに住んでいたIdaean Dactyliも同行した。彼らは、Troad地方のAbydusの町近くのAstyraで金の採掘をしていた。[80] 
        Colchis地方は金銀の産出量が多かった。[81] 
        Asteriosの移住によって、Phrixusの3人の息子たち、Presbon、Melas、Cytissorusは、Colchis地方を去って、各地へ移住した。 
        後に、Sisyphusの子Aeetesの後裔MedeaがCorinthの町に迎えられているので、AsteriosとAeetesの孫たちとの間に戦いはなかったと思われる。[82] 
        恐らく、Phrixusの息子たちと周辺異民族との戦いに、彼らの義兄弟AsteriosがTroad地方から応援に駆け付けたと推定される。 
      4.3.1 Boeotiaへの移住 
        BC1370年、Phrixusの子Presbonは、兄弟Melasと共にColchis地方からBoeotia地方の祖父Athamasのもとへ移住した。[83] 
        Presbonの子Clymenusは、Minyasの子Orchomenusの跡を継いでMinyansの王になった。[84] 
      4.3.2 黒海南岸への移住 
        BC1370年、Phrixusの子Cytissorus (or Cylindrus, Cytisorus, Cytorus)は、Colchis地方から黒海南岸へ移住してCytorusの町を創建した。[85] 
        Phrixusは、Boeotia地方のAthamasの息子であったが、妻Chalciopeと共に、妻の父Aeetesの移民団に参加して、Colchis地方へ移住した。 
      4.4 Thraciaからの移住 
        BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Thracia地方からHyperboreansの地へ移住した。[86] 
        Hyperboreansの地とは、後に、Alexander the GreatがThracia地方へ遠征したときに、Triballiansが逃げ込んだ川の中に浮かぶ島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster (現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいSacred Mouthと呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、Peuce島という名前で呼ばれていた。[87] 
        Triballiansは、Alexander the Greatと友好関係を結んだ後も、島への上陸を許さなかった。[88] 
      4.5 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住 
        BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北部のTauric Chersoneseへ移住した。[89] 
      4.6 Tauric Chersoneseへの嫁入り 
        BC1336年、Asteriosの孫娘Perseisは、Colchis地方からTauric Chersoneseに住むPhineusの息子のもとへ嫁入りした。[90] 
        Perseisの夫は、Polymedes、あるいは、Clytiusのいずれかと思われる。 
      4.7 Colchisへの移住 
        BC1300年、Perseisの子Aeetesは、Tauric ChersoneseからColchis地方へ移住して、Colchis地方を継承した。[91] 
      4.8 Troadへの嫁入り 
        BC1297年、Perseisの娘Pasiphaeは、Tauric ChersoneseからTroad地方に住んでいたLycastusの子Minosのもとへ嫁いだ。[92] 
        Perseisの祖父Asteriosの父は、Europaの子Minosであった。 
        つまり、PasiphaeとMinosは、Europaの子Minosを共通の先祖としていた。 
      4.9 Colchisへの嫁入り 
        BC1296年、Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Tauric ChersoneseからColchis地方に住んでいたPerseisの子Aeetesのもとへ嫁いだ。[93] 
        Aeetesは、Hecateの父の兄弟であった。 
      4.10 Sauromataeへの嫁入り 
        BC1276年、Perseisの子Aeetesの娘Circeは、Colchis地方からSauromataeに住んでいたSauromatiansの王のもとへ嫁いだ。[94] 
      4.11 Thessalyからの遠征 
        BC1268年、Aesonの子Jasonは、Thessaly地方のIolcusの町に住んでいたMinyansと共にColchis地方へ遠征した。[95] 
        Jasonの叔父PeliasがOrchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、多くのMinyansがIolcusの町に移り住んでいた。[96] 
        Phrixusの子PresbonがColchis地方からBoeotia地方へ帰った後も、Colchis地方との交流があったと思われる。Jasonの遠征は、Colchis地方への航路を知っていたMinyansが可能にした。 
      4.12 Thessalyへの嫁入り 
        この遠征で、Jasonは、Aeetesの娘Medeaと結婚した。[97] 
        Argonautsの遠征よりも20年前の出来事であった。 
        AD2世紀、ローマ帝国のCappadocia総督Arrianは、Colchis地方でArgo船の錨を見せられたが、それ以外にJasonの航海の痕跡はなかったと伝えている。[98] 
      4.13 Sinopeへの移住 
        BC1260年、Thessaly地方のTriccaの町のDeimachusの子Autolycusは、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[99] 
        Autolycusは、BC1268年にJasonの遠征に参加して、その方面を知っていたと思われる。[100] 
        Autolycusは、Peneiusの娘Triccaの子孫で、Triccaの町の最初の住人は、Doriansであった。[101] 
        Autolycusは、Triccaの町の近くのOechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus (or Eilatus)の子Ischysに追い出されたと推定される。[102] 
      4.14 Sauromataeへの移住 
        BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Antenorの息子たちに敗れて、各地へ逃れた。 
        Orchomenusの町のAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、故郷へ帰らずに、Sauromataeへ移住した。[103] 
        Sauromatiansは、Maeotis湖の周辺に住んでいた。[104] 
        Ialmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いていた。[105] 
        Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。 
        Presbonは、Colchis地方で生まれ、祖父の跡を継ぐためにBoeotia地方へ移住して来たが、その後、両地方の間で交流があったと思われる。[106] 
        Phrixusの後裔Perseis (or Perse)の子Aeetesの娘Circeの夫は、Sauromatiansの王であった。[107] 
        Phrixusの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。 
      5 Illyria 
        5.1 Boeotiaからの移住 
        BC1390年、Encheleansは、Boeotia地方のCopais湖付近からIllyria地方へ移住した。[108] 
        Agenorの子Cadmusは、Cadmeiaの町を創建した後で、Encheleansからの求めに応じて、Illyria地方へ移住したと伝えられている。[109] 
        しかし、Cadmusは、Cadmeiaの町から追放されて、Illyria地方へ移住したとも伝えられている。[110] 
        Cadmusの子PolydorusやPolydorusの子Labdacusの時代に、Cadmeiaの町で内紛があったことを考慮すると、Cadmusは、内紛によって、Cadmeiaの町から追放されたと思われる。 
        CadmusとEncheleansの定住地は、Epidamnosの町から北北西へ陸路で3日行程のRizous川の近くであった。[111] 
        Cadmusは、Illyria地方のButoe (or Buthoe, now Budva)で死に、彼の妻Harmoniaと共にRizous川の近くに葬られた。[112] 
      5.2 Boeotiaへの移住 
        BC1380年、Polydorusは、成人した息子たちと共に、Illyria地方からCadmeiaの町へ帰還した。[113] 
        Polydorusと共にEncheleansの一部が、Illyria地方から移住して、Cadmeiaの町の近くに定住した。彼らの町は、Encheliaと呼ばれ、後に、Cadmeiaの町と併せてThebesの町になった。[114] 
      5.3 Thebesからの移住 
        BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、Thebesの町からIllyria地方のEncheleansのもとへ移住した。[115] 
        Laodamasは、Epigoni率いるArgivesとの戦いに敗れて、Polyneicesの子ThersanderにThebesの町を明け渡した。[116] 
        Eteoclesは、Cadmusの子Polydorusの子Labdacusの子Laiusの子Oedippusの息子であった。 
      6 Thesprotia 
        6.1 Thessalyからの移住 
        BC1480年、Pelasgiansは、Thessaly地方のScotussaの町の近くにあったZeusの神託所をThesprotia地方へ移した。[117] 
        Haemonの子Thessalusは、DodonaにZeusの神託所や神殿を造営した。[118] 
        神託所の引越しには、Scotussaの町の女人たちが同行した。Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[119] 
        Thessalusの父Haemonの父Pelasgusの母は、Argosの町からThessaly地方へ移住したTriopasの子Pelasgusの娘Larisaであった。[120] 
      6.2 Thessalyからの移住 
        BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Pelasgiansの大部分は、Dodona周辺に住み着いた。[121] 
        Dodona周辺に住んでいた人々は、Thessaly地方から逃れて来たPelasgiansを同族として受け入れた。[122] 
      6.3 Ephyraの創建 
        Thessaly地方からDodona周辺へ移住した人々の中に、Thessaly地方のEphyra (後のCrannon)の町の創建者Crannonの後裔Lycaonの子Thesprotusがいた。 
        BC1390年、Thesprotusは、Dodonaの南西にEphyraの町を創建した。Thesprotusの一族は、Thesprotiansと呼ばれた。[123] 
      6.4 Ambraciaの創建 
        BC1385年、Thesprotusの子Ambraxは、Ephyraの町からAmbracia湾の北側へ移住して、Ambraciaの町を創建した。[124] 
      6.5 Eleusisへの援軍 
        BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子ImmaradusとAthens王Erechtheusとの戦いが起きた。[125] 
        その戦いに、Scirusは、DodonaからEleusisの町の応援に駆け付けて、戦死した。[126] 
        Scirusは、Thessaly地方からDodona周辺へ移住したPelasgianと推定される。[127] 
      6.6 Thessalyからの移住 
        BC1246年、Aeanianiansは、Ixionの子Peirithous率いるLapithsに追われて、Thessaly地方のDotiumから各地へ移住した。[128] 
        Aeanianiansの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。 
        その後、彼らは、Molossia地方のAuas川付近へ移住して、Parauaeiと呼ばれるようになった。[129] 
        BC5世紀末、Parauaeaの王は、Oroedusであった。[129-1] 
        その後、Parauaeaは、Macedonia地方に属するようになった。[129-2] 
        Lapithsに追われたCentaursの一部は、Peneius川源流のAethicesの地方へ移住したとも伝えられることから、CentaursはAeanianiansの支族であったと推定される。[130] 
      6.7 HeraclesのEphyra遠征 
        BC1237年、Heraclesは、Thesprotia地方へ遠征して、Ephyraの町を占領した。[131] 
        Heraclesの遠征に参加したJasonの子Pheresは、Ephyraの町に住んだ。[132] 
        Laertesの子OdysseusがEphyraの町を訪問したとき、Pheresの子Mermerusの子Ilusが町を治めていた。[133] 
      6.8 Italyからの移住 
        BC1200年、Italy半島北東部のRavennaの町に住んでいたPelasgiansは、Tyrrheniansに追われて、Thesprotia地方へ移住した。[134] 
        彼らは、BC1390年にThessaly地方からRavennaの町へ移住した人々の後裔であった。[135] 
      6.9 Thessalyへの移住 
        BC1186年、Heraclesの後裔に率いられたThesprotiansがThessaly地方に攻め込んだ。[136] 
        Achaeans、Perrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[137] 
        Perrhaebians、Magnesiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[138] 
        Phociansは、ThesprotiansがThessaly地方から侵入するのを防ぐために城壁を造った。[139] 
      7 Molossia (Epirus) 
        7.1 ThessalyやTroadからの移住 
        BC1186年、Achillesの子NeoptolemusはTroyからThessaly地方へ帰らず、Molossiansの地へ移住した。[140] 
        Neoptolemusには、Priamの子Helenus、Hectorの妻Andromache、それにHectorの息子たちがTroad地方から同行した。[141] 
        Neoptolemusの居住地は、Dodona北東の湖 (現在のPamvotis湖)近くのIoannina平原であった。[142] 
        Neoptolemusと共にPriamの子ChaonもTrojansを率いてMolossiansの地へ移住した。彼らは、Chaoniansと呼ばれた。[143] 
        Chaoniansは、Epeirotesの14種族の一つで、Molossiansと共に大勢力であった。[144] 
        Myrmidonsの後裔が住む町は、BC167年、Rome軍によって略奪され、住民は奴隷として売られた。[145] 
      7.2 Troadへの移住 
        BC1170年、Hectorの息子たちが成人すると、Priamの子Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。Hectorの息子たちは、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。[146] 
        この時、多くのTrojansがAsia Minorへ移住した結果、ChaoniansがMolossiansより勢力が弱くなった。Straboは、最初、ChaoniansがMolossiansより勢力が強かったが、後に、Molossiansの勢力が強くなったと述べている。[147] 
      7.3 Asia Minorへの移住 
        BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheを連れて、EpirusからAsia Minorへ移住してPergamonの町を創建した。[148] 
        Pergamonの町は、Andromacheが生まれたThebeの町のすぐ近くにあった。 
      8 Iberia 
        8.1 Heracleiaの創建 
        BC1400年、Macerisは、EgyptのCanopusの町から地中海の西の外れへ移住して、Heracleia (後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建した。[149] 
        Heracleiaの町の近くにあるCalpe山は、Herculesの柱の北側の柱であった。[150] 
        Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれ、Heracleiaの町で死んだ。[151] 
      8.2 Sardiniaへの移住 
        BC1240年、Geryones (or Geryon)の娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住して、島の南端に最古の町Nora (現在のPula岬付近)を創建した。[152] 
        Noraxは、Macerisの後裔であったと推定される。[153] 
        Noraxの出身は、Heracleiaの町の北西のBaetis (古くはTartessus、現在のGuadalquivir)川を中心としたTartessus地方であった。[154] 
        Baetis川の河口付近のGadeira (現在のCadiz)の町および向かい合う島はまとめてErytheiaと呼ばれていた。Noraxの祖父Geryonesは、Erytheiaで牛を飼っていた。[155] 
        Noraの町は、Macerisの子Sardusの入植地のすぐ近くにあった。[156] 
      おわり  |