第44章 残りのギリシアの青銅器時代の歴史

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Create:2023.8.30, Update:2025.5.22

1 はじめに
Egypt (Lybia)、Phoenicia、黒海周辺、Illyria、Thesprotia、Molossia、Iberiaについて記述する。
Anatolia半島については、「Anatoliaの青銅器時代の歴史」に記述している。
Thracia、Macedonia、Paeonia地方については、「Thraciaの青銅器時代の歴史」に記述している。
Italyについては、「Italyへの移住」に記述している。

2 Egypt (Lybia)
2.1 Boeotiaからの移住
BC1750年、Parnassus山の北側を流れるCephisus川の上流で、大洪水が発生した。Ogygusに率いられたEctenesは、Boeotia地方へ移住した。その後、Ectenesは、Hyantesなどの他種族から圧迫を受けて、Boeotia地方から各地へ移住した。[1]

2.1.1 Thebesの創建
BC1580年、Ectenesの一部はOgygusに率いられてBoeotia地方からEgyptへ移住し、Thebesの町を創建した。[2]
町の名前は、Ogygusの娘Thebeに因んで名付けられた。[3]
このThebesの町は、上EgyptのThebes (現在のLuxor)ではなく、NileDeltaにあり、Agenorの子Cadmusが住んでいた町であった。[4]
Thebeの父Ogygusは、大洪水時代のOgygusの後裔であった。[5]

2.1.2 Saisの創建
BC1580年、Ogygusと共にEgyptへ移住した、Telegonusの父は、Saisの町を創建した。[6]
初代Athens王Cecropsは、Telegonusの兄弟であった。[7]

2.2 Athensへの移住
BC1562年、Cecropsは、Saisの町からAttica地方へ移住して、初代Athens王になった。[8]
Cecropsは、ギリシア語の他に、移住先で覚えた言葉も話した。
Cecropsに付けられたDiphyes (two-formed)という呼び名は、「2つの言葉を話す」という意味であった。[9]

2.3 Argosからの移住
BC1560年、Triopasの子Iasusは、移民団を率いて、Argosの町からEgyptへ移住した。[10]
Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚して、Epaphusが生まれた。[11]

2.4 Athensへの移住
BC1535年、Cranausは、Saisの町からAttica地方へ移住して、第2代Athens王になった。[12]
Cranausは、Ioの息子と推定される。[13]
古い時代のAtheniansはPelasgiansであり、Cranausの時代、AtheniansはCranaansという名前で呼ばれていた。[14]
Iasusの娘Ioと共に、Argosの町からEgyptへ移住したPelasgiansが、Ioの子Cranausと共にAthensの町へ移住した。[15]

2.5 Memphisの創建
BC1535年、Telegonusの子Epaphusは、Saisの町から移住して、Memphisの町を創建した。[16]

2.6 Athensへの移住
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、Saisの町からAthensの町へ移住して、Amphictyonを追放して、第4代Athens王に即位した。[17]
Erichthoniusには、Cranausの子Rharusも同行して、Athensの町へ移住した。[18]
Rharusではなく、ErichthoniusがAthens王になったのは、Erichthoniusの父がCecropsの子Erysichthonの息子であったからと推定される。[19]

2.7 各地への移住
BC1430年、NileDeltaに住んでいた人々は、第18王朝のファラオThutmose IIIに対して反乱を起こして、Egyptから追放された。
NileDeltaに住んでいた数十万人が、陸路あるいは海路で、Egyptから各地へ移住した。

2.7.1 Greeceへの移住
Belusの子Danausは、Argosの町へ移住した。[20]
Danausの兄弟Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部のAroe (後のPatrae)の町へ移住した。[21]
Danausの兄弟Orusは、Argolis地方へ移住して、Oraea (後のTroezen)の町を創建した。[22]
Danausの叔父Lelexは、Laconia地方へ移住した。[23]
その後、Lelexは、Megara地方へ移住した。[24]

2.7.2 Phoeniciaへの移住
Libyaの子Agenorは、Phoenicia地方のSidonの町へ移住した。[25]
その後、Agenorの子Cadmusは、Boeotia地方へ移住して、Cadmeia (後のThebes)の町を創建した。[26]
Agenorの子Phoenixは、Phoenicia地方のTyreの町へ移住した。[27]

2.7.3 Colchisへの移住
黒海東岸のColchis地方へ移住した人々もいた。[28]
40年後、Sisyphusの子AeetesがColchis地方へ移住したのは、彼らと繋がりがあったからと推定される。

2.8 Rhodesからの移住
BC1415年、Rhodosの子Actis (or Auges, Atlas)は、Rhodes島からEgyptへ移住して、Heliopolisの町を創建した。[29]
Actisは、CanopusのMaceris (Egyptian Heracles、または、Phoenician Heracles)に星の知識を伝授した。[30]

2.8.1 LibyaやIberiaへの移住
航海術に優れ、世界の果てまでを知り尽くしたMacerisは、海洋民族Phoeniciansにとっては、神のような存在であった。Iberia半島のTartessusの町やPhoenicia地方のTyreの町の他に、EgyptのCanopusの町やThasos島にもHeraclesの神域があった。[31]
Macerisは、Agenorの息子であり、Cadmusの兄弟であったと推定される。
BC1410年、Macerisは、後のCarthageの近くに、Capsaの町を創建した。[31-1]
BC1400年、Macerisは、Iberia半島最南端へ移住して、Heracleia (後のCalpe)の町を創建した。[31-2]

2.9 Argosからの移住
BC1402年、Achaeusの子Archanderは、Argosの町からEgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisの町を創建した。[32]
Archandropolisの町の近くに、Archanderの妻であるDanausの娘Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町があった。[33]
Archanderには、Thessaly地方で結婚したCyreneと息子Aristaeusも同行した。[34]

2.10 Aegean Seaの大津波
BC1390年、Crete島の北に浮かぶThera (現在のSantorini)島で大噴火があり、Aegean Seaに大津波が発生した。[35]
大津波は、EgyptのNileDeltaを襲い、被災した人々は、各地へ移住した。

2.10.1 Anatoliaへの移住
BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのArchandropolisの町の住人を率いてArchanderの子Belusは、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近へ移住した。[36]
Belusの入植地はEthiopia、そこに住む人々はEthiopiansと呼ばれた。[37]
Belusの移民団には、Corinthの町からColchis地方へ移住したAeetes、Athensの町からThracia地方へ移住したBoreas、Eleusisの町からThracia地方へ移住したCeryxの移民団も同行していた。
Belusと共にEgyptを出発した人々の一部は、Colchis地方へも入植しており、BelusとAeetesが行動を共にしていたことを証明している。[38]

2.10.2 Sardiniaへの移住
BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのCanopusの町の住人を率いてMacerisの子Sardusは、Sardinia島へ移住した。[39]
Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、その付近がSardusの移住先であったと思われる。[40]

2.11 Argosからの移住
BC1387年、Lynceusの子Abasの死後、Abasの子Proetusは、双子の兄弟AcrisiusをArgosの町から追放した。[41]
AcrisiusとProetusは、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、彼らの支持者による争いであった。
Acrisiusは、Argosの町からEgyptへ移住した。
Egyptには、Acrisiusの父Abasの後見人であったAchaeusの子Archanderが15年前に移住していた。
Archanderが建設したArchandropolisの町は、大津波で被災していた。Acrisiusは、Chemmisの町に住んだ。[42]
Acrisiusは、ArchanderとDanausの娘Scaeaとの間の娘と推定されるAganippeと結婚して、娘Danaeが生まれた。[43]

2.12 Sardiniaへの移住
BC1372年、Cyreneの子Aristaeusは、EgyptからSardinia島へ移民団を率いて、移住した。[44]
Aristaeusは、Sardinia島の南部にCaralisの町を創建した。[45]
Caralisの町は、少し前に、Egyptから入植したSardusの居住地の近くにあった。

2.13 Argosへの移住
BC1370年、Abasの子Acrisiusは、EgyptからArgosの町へ帰って、彼の兄弟Proetusを追放した。[46]
Acrisiusの妻Aganippeと、彼らの娘Danaeは、EgyptのChemmisの町に残された。Danaeには、息子Perseusが生まれた。[47]

2.14 Argosへの移住
BC1349年、後継ぎのないAcrisiusは、Egyptに残して来た彼の娘Danaeのもとから、彼女の息子Perseusを自身の後継者とするためにArgosの町へ呼び寄せた。Perseusは、母Danaeのもとから無理やり連れ去られたという伝承もある。しかし、Danaeには、Perseusの他に、Daunusという名前の息子もいた。[48]

2.15 Italyへの移住
BC1341年、Acrisiusの娘Danaeは、Egyptから植民団を率いてSardinia島へ向かった。Danaeは、航海途中で暴風に遭遇して、Italy半島西海岸に漂着し、Ardeaの町を建設した。[49]
Danaeの子Daunusは、Ardeaの町を継承した。[50]
BC1182年、Aeneasと戦って死んだRutuliの首領Turnusは、Daunusの後裔であった。[51]

2.16 Creteからの移住
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Amphithemisは、Crete島からLibyaへ移住した。[52]

2.17 Theraからの移住
BC630年、Polymnestusの子Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaへ移住して、Cyreneの町を創建した。[53]

2.17.1 移住先の決定
Battusは、神託によって、LibyaにCyreneを創建したと伝えられている。[54]
しかし、Acacallisの子AmphithemisがLibyaへ移住した後で、Crete島のOaxosの町とLibyaの間に交流があったと推定される。
Oaxosの町は、Amphithemisの兄弟Oaxosによって創建された。[55]
Battusの母Phronimeの父Etearchusは、Oaxosの町の支配者であった。[56]
Phronimeの結婚に際して、Oaxosの町からThera島へ移住した人々の中に、Libyaの良さを知り、Battusに移住先として、Libyaを勧めた者がいたと思われる。

2.17.2 Cyrene建設の参加者
Cyreneの町の建設には、Spartaの町からも参加者があった。その中には、Olympiadの優勝者Chionisも含まれていた。[57]
また、Rhodes島のLindusの町からPancisの息子たちもCyreneの町の建設に参加した。[58]

3 Phoenicia
3.1 Egyptからの嫁入り
BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensの町へ行く途中、あるいは、それ以前に、Phoenicia地方のTyreの町に嫁いだ。[59]

3.2 Egyptからの移住
BC1430年、NileDeltaに住んでいた人々は、第18王朝のファラオThutmose IIIに対して反乱を起こして、Egyptから追放された。
NileDeltaに住んでいた数十万人が、陸路あるいは海路で、Egyptから各地へ移住した。

3.2.1 Tyreへの移住
BC1430年、Agenorの子Phoenixは、Phoenicia地方のTyreの町へ移住した。[60]
Phoenixは、移住より前に、Oeneusの娘Perimedeを妻に迎えていた。[61]
Oeneusは、Tyreの町に嫁いだCecropsの娘Herseの曾孫と思われる。[62]

3.2.2 Sidonへの移住
BC1430年、Libyaの子Agenorは、Phoenicia地方のSidonの町へ移住した。[63]
Agenorが移住先としてSidonの町を選んだのは、彼の息子Phoenixがその地方から妻Perimedeを迎えていたからであった。[64]

3.3 Thraciaへの移住
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Sidonの町から移民団を率いて出航した。[65]
Cadmusの移民団に船を供出したのは、Tyreの町に住むHerseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousであった。Astynousは、息子Sandocusと共にCadmus率いる移民団をSamothrace島経由で、Thracia地方に送り届け、Tyreの町に戻った。[66]
BC1425年、Cadmusは、Thracia地方のChalcidice半島北側へ移住した。[67]

3.4 Callisteへの移住
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPoecilesの子Membliarusは、一部の人々と共にCalliste (後のThera)島に上陸して、その島に定住した。[68]
BC1099年、Autesionの子TherasはLacedaemonから移民団を率いて、Calliste島へ移住した。[69]
Cadmusの時代からTherasの時代までの間に、少なくとも2度、島の火山が噴火した。しかし、Membliarusと共に島に入植した人々の子孫は、生き延びていた。[70]

3.5 Creteへの嫁入り
3.5.1 Phoenixの娘Europa
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydoniaの町に住むTegeatesの子Cydonと結婚した。Cydonは、BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住し、Cydoniaの町を創建していた。[71]

3.5.2 Phoenixの娘Astypalaea
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Apteraの町に住むAcmon (or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[72]
Astypalaeaは、Acmonと共にOlympiaへ移住し、その後、Rhodes島の近くのCaria地方へ移住した。[73]
Astypalaeaの子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[74]

4 黒海周辺の歴史
4.1 Peloponnesusからの移住
BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、大津波で被災したEphyraea (後のCorinth)の町の住人を率いて、黒海東岸のColchis地方へ移住した。[75]
Aeetesは、Egyptから移民団を率いたBelusと行動を共にしていた。
Belusの移民団の中には、BC1420年に、EgyptからColchis地方へ移住した人々も含まれていて、Colchisまでの航路を知っていたと思われる。[76]

4.2 Troadへの嫁入り
BC1375年、Aeetesの娘Chalciope (or Iophossa, Euenia)の娘は、Colchis地方からTroad地方に住むMinosの子Asteriosのもとへ嫁入りした。[77]
BC1390年、大津波で被災したAsteriosは、父Minosと共に、Crete島からTroad地方へ移住した。[78]
Asteriosは、Aeetesと共に移住先を探して、AsteriosはTroad地方へ、AeetesはColchis地方へ入植していた。

4.3 Troadからの移住
BC1370年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Troad地方からColchis地方へ移住した。[79]
Asteriosの移住には、Ida山近くに住んでいたIdaean Dactyliも同行した。彼らは、Troad地方のAbydusの町近くのAstyraで金の採掘をしていた。[80]
Colchis地方は金銀の産出量が多かった。[81]
Asteriosの移住によって、Phrixusの3人の息子たち、Presbon、Melas、Cytissorusは、Colchis地方を去って、各地へ移住した。
後に、Sisyphusの子Aeetesの後裔MedeaがCorinthの町に迎えられているので、AsteriosとAeetesの孫たちとの間に戦いはなかったと思われる。[82]
恐らく、Phrixusの息子たちと周辺異民族との戦いに、彼らの義兄弟AsteriosがTroad地方から応援に駆け付けたと推定される。

4.3.1 Boeotiaへの移住
BC1370年、Phrixusの子Presbonは、兄弟Melasと共にColchis地方からBoeotia地方の祖父Athamasのもとへ移住した。[83]
Presbonの子Clymenusは、Minyasの子Orchomenusの跡を継いでMinyansの王になった。[84]

4.3.2 黒海南岸への移住
BC1370年、Phrixusの子Cytissorus (or Cylindrus, Cytisorus, Cytorus)は、Colchis地方から黒海南岸へ移住してCytorusの町を創建した。[85]
Phrixusは、Boeotia地方のAthamasの息子であったが、妻Chalciopeと共に、妻の父Aeetesの移民団に参加して、Colchis地方へ移住した。

4.4 Thraciaからの移住
BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Thracia地方からHyperboreansの地へ移住した。[86]
Hyperboreansの地とは、後に、Alexander the GreatがThracia地方へ遠征したときに、Triballiansが逃げ込んだ川の中に浮かぶ島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster (現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいSacred Mouthと呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、Peuce島という名前で呼ばれていた。[87]
Triballiansは、Alexander the Greatと友好関係を結んだ後も、島への上陸を許さなかった。[88]

4.5 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住
BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[89]

4.6 Tauric Chersoneseへの嫁入り
BC1336年、Asteriosの孫娘Perseisは、Colchis地方からTauric Chersoneseに住むPhineusの息子のもとへ嫁入りした。[90]
Perseisの夫は、Polymedes、あるいは、Clytiusのいずれかと思われる。

4.7 Colchisへの移住
BC1300年、Perseisの子Aeetesは、Tauric ChersoneseからColchis地方へ移住して、Colchis地方を継承した。[91]

4.8 Troadへの嫁入り
BC1297年、Perseisの娘Pasiphaeは、Tauric ChersoneseからTroad地方に住んでいたLycastusの子Minosのもとへ嫁いだ。[92]
Perseisの祖父Asteriosの父は、Europaの子Minosであった。
つまり、PasiphaeとMinosは、Europaの子Minosを共通の先祖としていた。

4.9 Colchisへの嫁入り
BC1296年、Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Tauric ChersoneseからColchis地方に住んでいたPerseisの子Aeetesのもとへ嫁いだ。[93]
Aeetesは、Hecateの父の兄弟であった。

4.10 Sauromataeへの嫁入り
BC1276年、Perseisの子Aeetesの娘Circeは、Colchis地方からSauromataeに住んでいたSauromatiansの王のもとへ嫁いだ。[94]

4.11 Thessalyからの遠征
BC1268年、Aesonの子Jasonは、Thessaly地方のIolcusの町に住んでいたMinyansと共にColchis地方へ遠征した。[95]
Jasonの叔父PeliasがOrchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、多くのMinyansがIolcusの町に移り住んでいた。[96]
Phrixusの子PresbonがColchis地方からBoeotia地方へ帰った後も、Colchis地方との交流があったと思われる。Jasonの遠征は、Colchis地方への航路を知っていたMinyansが可能にした。

4.12 Thessalyへの嫁入り
この遠征で、Jasonは、Aeetesの娘Medeaと結婚した。[97]
Argonautsの遠征よりも20年前の出来事であった。
AD2世紀、ローマ帝国のCappadocia総督Arrianは、Colchis地方でArgo船の錨を見せられたが、それ以外にJasonの航海の痕跡はなかったと伝えている。[98]

4.13 Sinopeへの移住
BC1260年、Thessaly地方のTriccaの町のDeimachusの子Autolycusは、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[99]
Autolycusは、BC1268年にJasonの遠征に参加して、その方面を知っていたと思われる。[100]
Autolycusは、Peneiusの娘Triccaの子孫で、Triccaの町の最初の住人は、Doriansであった。[101]
Autolycusは、Triccaの町の近くのOechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus (or Eilatus)の子Ischysに追い出されたと推定される。[102]

4.14 Sauromataeへの移住
BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Antenorの息子たちに敗れて、各地へ逃れた。
Orchomenusの町のAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、故郷へ帰らずに、Sauromataeへ移住した。[103]
Sauromatiansは、Maeotis湖の周辺に住んでいた。[104]
Ialmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いていた。[105]
Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。
Presbonは、Colchis地方で生まれ、祖父の跡を継ぐためにBoeotia地方へ移住して来たが、その後、両地方の間で交流があったと思われる。[106]
Phrixusの後裔Perseis (or Perse)の子Aeetesの娘Circeの夫は、Sauromatiansの王であった。[107]
Phrixusの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。

5 Illyria
5.1 Boeotiaからの移住
BC1390年、Encheleansは、Boeotia地方のCopais湖付近からIllyria地方へ移住した。[108]
Agenorの子Cadmusは、Cadmeiaの町を創建した後で、Encheleansからの求めに応じて、Illyria地方へ移住したと伝えられている。[109]
しかし、Cadmusは、Cadmeiaの町から追放されて、Illyria地方へ移住したとも伝えられている。[110]
Cadmusの子PolydorusやPolydorusの子Labdacusの時代に、Cadmeiaの町で内紛があったことを考慮すると、Cadmusは、内紛によって、Cadmeiaの町から追放されたと思われる。
CadmusとEncheleansの定住地は、Epidamnosの町から北北西へ陸路で3日行程のRizous川の近くであった。[111]
Cadmusは、Illyria地方のButoe (or Buthoe, now Budva)で死に、彼の妻Harmoniaと共にRizous川の近くに葬られた。[112]

5.2 Boeotiaへの移住
BC1380年、Polydorusは、成人した息子たちと共に、Illyria地方からCadmeiaの町へ帰還した。[113]
Polydorusと共にEncheleansの一部が、Illyria地方から移住して、Cadmeiaの町の近くに定住した。彼らの町は、Encheliaと呼ばれ、後に、Cadmeiaの町と併せてThebesの町になった。[114]

5.3 Thebesからの移住
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、Thebesの町からIllyria地方のEncheleansのもとへ移住した。[115]
Laodamasは、Epigoni率いるArgivesとの戦いに敗れて、Polyneicesの子ThersanderにThebesの町を明け渡した。[116]
Eteoclesは、Cadmusの子Polydorusの子Labdacusの子Laiusの子Oedippusの息子であった。

6 Thesprotia
6.1 Thessalyからの移住
BC1480年、Pelasgiansは、Thessaly地方のScotussaの町の近くにあったZeusの神託所をThesprotia地方へ移した。[117]
Haemonの子Thessalusは、DodonaにZeusの神託所や神殿を造営した。[118]
神託所の引越しには、Scotussaの町の女人たちが同行した。Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[119]
Thessalusの父Haemonの父Pelasgusの母は、Argosの町からThessaly地方へ移住したTriopasの子Pelasgusの娘Larisaであった。[120]

6.2 Thessalyからの移住
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Pelasgiansの大部分は、Dodona周辺に住み着いた。[121]
Dodona周辺に住んでいた人々は、Thessaly地方から逃れて来たPelasgiansを同族として受け入れた。[122]

6.3 Ephyraの創建
Thessaly地方からDodona周辺へ移住した人々の中に、Thessaly地方のEphyra (後のCrannon)の町の創建者Crannonの後裔Thesprotusがいた。
BC1390年、Lycaonの子Thesprotusは、Dodonaの南西にEphyraの町を創建した。Thesprotusの一族は、Thesprotiansと呼ばれた。[123]

6.4 Ambraciaの創建
BC1385年、Thesprotusの子Ambraxは、Ephyraの町からAmbracia湾の北側へ移住して、Ambraciaの町を創建した。[124]

6.5 Eleusisへの援軍
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子ImmaradusとAthens王Erechtheusとの戦いが起きた。[125]
その戦いに、Scirusは、DodonaからEleusisの町の応援に駆け付けて、戦死した。[126]
Scirusは、Thessaly地方からDodona周辺へ移住したPelasgianと推定される。[127]

6.6 Thessalyからの移住
BC1246年、Aeanianiansは、Ixionの子Peirithous率いるLapithsに追われて、Dotiumから各地へ移住した。[128]
Aeanianiansの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。
その後、彼らは、Molossia地方のAuas川付近へ移住して、Parauaeiと呼ばれるようになった。[129]
Lapithsに追われたCentaursの一部は、Peneius川源流のAethicesの地方へ移住したとも伝えられることから、CentaursはAeanianiansの支族であったと推定される。[130]

6.7 HeraclesのEphyra遠征
BC1237年、Heraclesは、Thesprotia地方へ遠征して、Ephyraの町を占領した。[131]
Heraclesの遠征に参加したJasonの子Pheresは、Ephyraの町に住んだ。[132]
Laertesの子OdysseusがEphyraの町を訪問したとき、Pheresの子Mermerusの子Ilusが町を治めていた。[133]

6.8 Italyからの移住
BC1200年、Italy半島北東部のRavennaの町に住んでいたPelasgiansは、Tyrrheniansに追われて、Thesprotia地方へ移住した。[134]
彼らは、BC1390年にThessaly地方からRavennaの町へ移住した人々の後裔であった。[135]

6.9 Thessalyへの移住
BC1186年、Heraclesの後裔に率いられたThesprotiansがThessaly地方に攻め込んだ。[136]
Achaeans、Perrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[137]
Perrhaebians、Magnesiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[138]
Phociansは、ThesprotiansがThessaly地方から侵入するのを防ぐために城壁を造った。[139]

7 Molossia (Epirus)
7.1 ThessalyやTroadからの移住
BC1186年、NeoptolemusはTroyからThessaly地方へ帰らず、Molossiansの地へ移住した。[140]
Neoptolemusには、Priamの子Helenus、Hectorの妻Andromache、それにHectorの息子たちがTroad地方から同行した。[141]
Neoptolemusの居住地は、Dodona北東の湖 (現在のPamvotis湖)近くのIoannina平原であった。[142]
Neoptolemusと共にPriamの子ChaonもTrojansを率いてMolossiansの地へ移住した。彼らは、Chaoniansと呼ばれた。[143]
Chaoniansは、Epeirotesの14種族の一つで、Molossiansと共に大勢力であった。[144]
Neoptolemusと共へ移住したMyrmidonsの後裔が住む町は、BC167年、Rome軍によって略奪され、住民は奴隷として売られた。[145]

7.2 Troadへの移住
BC1170年、Hectorの息子たちが成人すると、Priamの子Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。Hectorの息子たちは、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。[146]
この時、多くのTrojansがAsia Minorへ移住した結果、ChaoniansがMolossiansより勢力が弱くなった。Straboは、最初、ChaoniansがMolossiansより勢力が強かったが、後に、Molossiansの勢力が強くなったと述べている。[147]

7.3 Asia Minorへの移住
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheを連れて、EpirusからAsia Minorへ移住してPergamonの町を創建した。[148]
Pergamonの町は、Andromacheが生まれたThebeの町のすぐ近くにあった。

8 Iberia
8.1 Heracleiaの創建
BC1400年、Macerisは、EgyptのCanopusの町から地中海の西の外れへ移住して、Heracleia (後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建した。[149]
Heracleiaの町の近くにあるCalpe山は、Herculesの柱の北側の柱であった。[150]
Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれ、Heracleiaの町で死んだ。[151]

8.2 Sardiniaへの移住
BC1240年、Geryones (or Geryon)の娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住して、島の南端に最古の町Nora (現在のPula岬付近)を創建した。[152]
Noraxは、Macerisの後裔であったと推定される。[153]
Noraxの出身は、Heracleiaの町の北西のBaetis (古くはTartessus、現在のGuadalquivir)川を中心としたTartessus地方であった。[154]
Baetis川の河口付近のGadeira (現在のCadiz)の町および向かい合う島はまとめてErytheiaと呼ばれていた。Noraxの祖父Geryonesは、Erytheiaで牛を飼っていた。[155]
Noraの町は、Macerisの子Sardusの入植地のすぐ近くにあった。[156]

おわり