第23章 アルゴリス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.6.20, Update:2025.5.11

1 はじめに
Argolis地方にGreeksがはじめて住んだのは、BC1750年に発生した「Ogygus時代の大洪水」の時であった。Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
Inachusの2人の息子たち、Aegialeus (or Aezeius)とPhoroneusに率いられた人々はPeloponnesus半島へ移動した。
Aegialeusは半島北部の海岸地方に、Phoroneusはさらに南へ進んで平野の端の小高い丘(後のLarisa)の東側に定住した。[1]
Aegialeusは、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建し、Phoroneusは、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[2]
この章では、Asine、Cleonae、Corinth、Epidaurus、Heraeum、Hermione、Midea、Nauplia、Nemea、Orneae、Phlius、Tenea、Tiryns、Troezenについて記述している。

2 Asineの歴史
2.1 Asineの創建
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃れた。Eurystheusは、彼らをNaupliaの町の近くの土地に住まわせ、DryopiansはAsineの町を創建した。[3]

2.2 Asineの破壊
BC745年、Argos王Eratusは、Spartansとの戦いの後で、Spartansに味方したAsineの町を攻撃して破壊した。[4]
Asineの町に住んでいたDryopiansは、Lacedaemonに逃げ込み、Messenia地方の沿海の土地を与えられた。[5]

3 Cleonaeの歴史
3.1 Cleonaeの創建
BC1251年、Pelopsの子Atreusは、Mideiaの町から北北西へ約20kmの所へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[6]
AtreusがMideiaの町から移住したのは、HeraclesがThebesの町から、Heraclesの父Amphitryonの旧領Tirynsの町へ移住した頃であった。[7]
Atreusの移住は、Heraclesと共にThebesの町に住んでいたLicymniusが、Licymniusの父Electryonが住んでいたMideiaの町へ帰還したことが原因と思われる。

3.2 Heraclesへの加勢
BC1243年、Heraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中のActorの2人の息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeの町で襲撃して殺した。[8]
この時、Atreus率いるCleonaeansがHeraclesに加勢した。[9]
Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母Alcmenaの母Lysidice (or Eurydice)の父であった。[10]
つまり、AtreusはHeraclesの祖母の兄弟であった。

3.3 Crete島からの嫁入り
BC1235年、Atreusの子Pleisthenes (or Plisthenes)は、Crete島のMinosの子Catreusの娘Aerope (or Eriphyle)を妻に迎えた。[11]
Pleisthenesが住むCleonaeの町から約10km離れたPhliusの町には、Minosの娘Ariadneの子Phliasus (or Phlias)が住んでいた。[12]
Phliasusは、Aeropeの従兄であった。この親戚関係が、Cleonaeの町に住むPleisthenesとCrete島に住むAeropeの遠距離婚を成立させたと推定される。

3.4 Mycenaeへの移住
BC1217年、Mycenaeの町のEurystheusがHeracleidaeとの戦いで死んだ。[13]
Atreusは、Eurystheusの跡を継いでMycenaeの町へ移住した。[14]
Atreusは、Cleonaeの町を兄弟Cleonymus (or Cleones)に任せた。Cleonymusの名前に因んで、町はCleonaeと呼ばれた。[15]

3.5 Athensへの移住
BC1109年、Heracleidaeの一人、Heraclesの子Ctesippusの曾孫AgamedidasがCleonaeの町の支配者になった。[16]
Cleonaeの町の住人は、Athensの町へ逃れ、その後、Phliusの町から逃れた人々と共に、Asia Minorへの植民団に加わった。彼らは、Colophonの町のParalus (or Parphorus)に率いられて、Mimas半島にClazomenaeの町を創建した。[17]

3.6 Mycenaeからの亡命
BC468年、Argosの町がMycenaeの町を占領し、Mycenaeの町の住人の一部は、Cleonaeの町へ逃げ込んだ。[18]
Cleonaeの町には、Heracleidaeの帰還後もAchaeansが住んでいたと推定される。

4 Corinthの歴史
4.1 Corinthの創建
BC1407年、Xuthusの子Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Sicyonの町のGelanorの子Lamedonと戦って勝利した。[19]
Archanderに加勢したAeolusの子Sisyphusは、Sicyonの町の東側にEphyra (後のCorinth)の町を創建した。[20]
Sisyphusは、Achaeusの従兄弟であった。

4.2 Colchisへの移住
BC1390年、Aegean Seaに発生した大津波によって、Corinthの町も被災した。
Sisyphusの子Aeetesは、被災した人々を率いて、黒海東岸のPhasis川付近のColchis地方へ移住した。[21]

4.3 Alcidameaの子Bunus
Sisyphusの子Aeetesの跡を継いだのは、Bunusであった。[22]
Bunusは、Corinthの町にHera神殿を創建した。[23]
Sisyphusの家系はThessaly地方のDeucalionの後裔で、Hera信仰には縁がなかった。
恐らく、Bunusの母Alcidameaは、ArgosのHera神殿の巫女であり、一時、Argosの町を占拠していたGelanorの子Lamedonの娘と思われる。[24]
Sicyonの町とArgosの町の戦いの後で、Alcidameaは、Sisyphusの子Almusに嫁ぎ、息子Bunusが生まれたと推定される。[25]

4.4 Aloeusの子Epopeus
Bunusの跡を、Aloeusの子Epopeusが継いだ。[26]
Sicyon王Epopeusは、Corinthの町をも支配することになった。[27]
Epopeusの息子は、Marathonのみが知られている。[28]

4.5 Epopeusの子Marathon
MarathonはAttica地方へ移住した。Pausaniasは移住の原因を、Epopeusの横暴だと伝えている。[29]
しかし、Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚しており、その結婚が移住の原因であった。[30]
そして、その結婚は、BC1352年にErechtheusとEumolpusの子Immaradusとの戦いで、MarathonがErechtheusに味方したのが縁であった。[31]
Erechtheusの前のAthens王Pandionは、Xuthusの子Ionから支援を受けて、Eumolpusと戦った。[32]
Marathonは、Ionの父Xuthusの兄弟Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの息子であった。
MarathonとErechtheusの娘との間には、2人の息子たち、SicyonとCorinthusが生まれた。[33]

4.6 Corinthusの継承者
Marathonの子CorinthusがEphyraeaの町を継承して、町はCorinthと呼ばれるようになった。[34]
Pausaniasは、Corinthusに跡継ぎがいなかったため、CorinthiansはJasonの妻Medeaを迎えたと伝えている。[35]
しかし、系図を作成すると、CorinthusとMedeaの生年差は、60年以上ある。
Apollodorosは、Medeaと同時代のGlauceの父、Corinth王Creonの名前を伝えている。[36]
恐らく、Corinthusの跡をCreonが継承したと思われる。[37]
Lycaethusの子Creonは、Epopeusの兄弟の孫と推定される。[38]

4.7 MedeaとJasonの時代
4.7.1 Thessalyからの移住
Aesonの子Jasonの妻Medeaは、Thessaly地方のAesonis (or Aeson)の町に住んでいた。
Aesonisの町は、AesonがPagasetic Gulf近くに創建した町であった。[39]
BC1247年、MedeaはJasonと共に、Corinthiansから招かれて、Aesonisの町からCorinthの町へ移住した。[40]
CorinthiansがMedeaを招いたのは、MedeaがCorinthの町の創建者Sisyphusの後裔であったからであった。
Corinthiansに招かれたのは、Medeaであったが、Corinthの町を治めたのは、Medeaの夫Jasonであった。[41]

4.7.2 Lyciaへの移住
BC1241年、Sisyphusの子Glaucusの子Bellerophontes (or Hipponus, Bellerophon)は、Corinth地方のIsthmusの町からLycia地方のXanthusの町へ移住した。彼は、Xanthusの町を治めるIobatesの娘Philonoeと結婚した。[42]
これより前に、Pandionの子LycusがLycia地方へ移住していた。[43]
Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、周辺の異民族(Solymi)に対抗するためにBellerophontesを呼び寄せた。[44]
Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。[45]
つまり、Philonoeは、Bellerophontesの又従妹であった。

4.7.3 Corcyraへの移住
JasonとMedeaがCorinthの町に住んでから10年後、Medeaは死んだ。[46]
BC1237年、JasonはHeraclesと共にGreece北西部へ遠征して、Scheria (後のCorcyra)島へ移住した。[47]

4.8 Aeolusの子Sisyphusの時代
Jasonの跡をAeolusの子Sisyphusが継承した。[48]
Sisyphusの子Ornytionの妻の名前を伝えている史料はない。
しかし、Corinthの町の外港に名前を与えた、2人の息子たち、LechesとCenchriasの母PeireneがOrnytionの妻であったと推定される。[49]
Pausaniasは、Peireneの父がOebalusであり、PeireneはAchelous河神の娘であったと伝えている。[50]
BC1237年、OrnytionはCorinthiansを率いて、Jasonの遠征に参加した。Ornytionは遠征中、Acarnaia地方のAchelous川近くに住んでいたTelonの子Oebalusの娘Peireneを妻にした。[51]

4.9 Sisyphusの子Ornytionの時代
4.9.1 LechaeumとCenchreaeの創建
Ornytionは、Corinthian Gulfに面したLechaeumの町と、Saronic Gulfに面したCenchreaeの町を創建した。それらの町の名前は、Ornytionの2人の息子たち、LechesとCenchriasに因む名前であった。[52]
2つの町の建設は、BC1220年頃と推定される。

4.9.2 Phocisへの移住
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、Corinthの町からPhocis地方のTithoreaの町へ移住した。[53]

4.10 Ornytionの子Thoasの時代
Corinthの町は、Homerの『軍船目録』で、Mycenaeの指揮下にある町として登場する。[54]
しかし、Corinthiansは、AchaeansのTroy遠征に参加しなかったと思われる。

4.11 Heracleidaeの帰還
4.11.1 Doriansとの戦い
BC1075年、Corinthの町は、Heracleidaeの一人、Hippotasの子Aletes率いるDoriansに攻められた。そのとき、Ornytionの子Thoasの子Damophonの子Propodasの2人の息子たち、DoridasとHyanthidasがCorinthiansの王であった。DoridasとHyanthidasは、王位をAletesに譲って、彼らは町に住み続けた。
しかし、Corinthの町の主な住人であったAeolisは抵抗し、AletesはSolygiaの丘に陣を構えて戦い、抵抗した住人を町から追い出した。Corinthの町は、Aeolisの町からDoriansの町になった。[55]

4.11.2 Antasusの子Melas
Aletesは、Achaia地方のGonussaの町からCorinth攻略に協力したAntasusの子Melasを共住者にした。BC657年にCorinthの町の僭主となったEetionの子Cypselusは、Melasの後裔であった。[56]
また、Melasは、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの後裔であった。[57]

4.11.3 Megaraの創建
BC1074年、Peloponnesusへの帰還を完了したHeracleidaeは、Athensの町へ侵攻した。Athens王Melanthusの子Codrusは戦死したが、Athensの町は勝利した。[58]
Heracleidaeは、Athensの町から帰る途中、Megara地方に住んでいたIoniansを追い出して、DoriansのMegaraの町を建設した。[59]
このとき、Corinthの町のAletesがDoriansの遠征隊を率いたとも伝えられる。[60]
しかし、Aletesの父Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖であった。Doriansの遠征隊を率いたのはAletesではないと思われる。

4.12 Doriansの支配
Aletesの後、Corinthiansを支配したのは、Ixionから、Agelas、Prymnis、Bacchisへと続くHeracleidaeであった。[61]
Bacchisは、足が不自由であったが、政治的才能があり、3人の娘たちと、7人の息子たちがいた。[62]
Bacchisの後裔は、Bacchiadaeと呼ばれるようになった。[63]
Bacchisの後、Agelas、Eudemus、Aristomedes、Agemon、Alexander、Telestes、AutomenesがCorinthiansを支配した。[64]
Automenesの後、90年間、毎年1人を選んで、町を委ねていたが、Prytanesのときに、Cypselusによって、Bacchiadaeは追放された。[65]

4.13 Eetionの子Cypselusの時代
BC657年、Aetion (or Eetion)の子Cypselusは、Corinthの町の僭主になった。[66]
Cypselusの父方の先祖は、Aletes率いるDoriansに協力して、Corinthの町に住んでいたAntasusの子Melasであった。
MelasはSicyonの娘Gonussaの後裔であった。[67]
つまり、Cypselusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの後裔であり、Aeolisであった。

4.14 脱落がない系譜
Heracleidaeの帰還後、Argosの町やSpartaの町などの支配者の系譜には、BC10世紀頃に約4世代の脱落がある。
しかし、Corinthの町の支配者の系譜は、Aletesの後も矛盾なく、BC7世紀のCypselusの時代まで続いている。
Athens王の系譜以外で、唯一、Corinthの町の支配者の系譜は、BC11世紀以降でも脱落がない。
これには、Corinthの町の創建者Sisyphusから続く支配層が、町に住み続けていたことが影響していると思われる。
また、叙事詩人Amphilytusの子Eumelusの存在も大きかった。
EumelusはBacchiadaeに所属し、Eumelusの祖父の祖父は、Prymnisの子Bacchisであった。
「Corinthian History」を書いたEumelusは、AletesからBacchisに至る系譜も調べることができたと推定される。

5 Epidaurusの歴史
5.1 Epidaurusの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Epidaurusは、Argosの町から東側の海の近くへ移住して、Epidaurusの町を創建した。[68]
それ以前、Epidaurusの町は、Epicarusと呼ばれるCariansの住む町であった。[69]

5.2 Tirynsによる支配
BC1368年、Abasの子Proetusは、彼の兄弟Acrisiusとの戦いで、Heraeum, Mideia, Tirynsの町と共にArgolis地方の沿海地方を領することになった。[70]
それまで、Epidaurusの町はArgosの町の支配下にあったが、Tirynsの町の支配下になった。

5.3 Mycenaeによる支配
BC1330年、Danaeの子Perseusは、Mycenaeの町を創建して堅固な城壁で囲んだ。[71]
Perseusは、Tirynsの町とMideaの町も支配していたが、Epidaurusの町もMycenaeの町の支配下にあったと思われる。

5.4 Aeginaからの移住
BC1287年、Actorの子Aeacusは、Thessaly地方のDiaの町からAegina島へ移住した。[72]
このとき、Aegina島に住んでいたのは、Attica地方のOenoeの町から島に入植したIoniansであった。彼らは、Xuthusの子Ionの後裔に率いられて、Epidaurusの町へ移住した。[73]

5.5 Asclepiusの誕生
BC1263年、医神Asclepiusが、IschysとPhlegyasの娘Coronisの息子として誕生した。
Pausaniasは、AsclepiusがEpidaurusの町で生まれたと記している。[74]
Epidaurusの町は、Phlegyasの先祖の地であった。[75]
恐らく、Phlegyasの母がEpidaurusの町で生まれたと思われる。
後に、Epidaurusの町でAsclepius信仰が盛んになって、Epidaurusの町でAsclepiusが誕生したという伝承が生まれた。
Straboによれば、Asclepiusは、Thessaly地方のTriccaの町を流れるLethaeus川の畔で生まれた。[76]

5.6 Perinthusの創建
BC1170年、Epidaurusの町のPerinthusは、Orestesの遠征に参加して、Perinthusの町を創建した。そのPerinthusの町は、Thracia地方の町ではなかった。[77]
これより少し前、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansが、Doris地方からPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を破壊した。Doriansは、Epidaurusの町へも侵入して、土地が荒廃した。[78]

5.7 Athensへの移住
BC1102年、Antimachusの子Deiphontesは、Argosの町からDoriansを率いてEpidaurusの町を攻めた。Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Deiphontesに町を譲り渡した。[79]
Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensの町へ移住した。[80]
Deiphontesは、Attica地方のTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[81]

5.8 Tirynsからの移住
BC468年、Tirynsの町は、Argosの町に攻められて、住人の一部は、Epidaurusの町へ移住した。[82]

6 Heraeumの歴史
6.1 Hera神殿の創建
Niobeの子Argusは、Tirynsの町に自生していた梨の樹でHera神像を作った。[83]
BC1610年、Argusの子Peiras (or Pirantos)は、Hera神殿を創建した。[84]
Peirasは、彼の娘Callithyia (or Callithias)をHera神殿の最初の巫女にした。[85]

6.2 Eleusisへの移住
BC1580年、Callithyiaの子Trochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。Trochilusは、Eleusisの町にHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[86]

6.3 Iasusの時代
Triopasの子Iasusの娘Ioも、Hera神殿の巫女であった。[87]
BC1560年、Ioは、彼女の父Iasusと共にEgyptへ移住した。[88]
Ioは、Egyptでは、Isisと呼ばれた。[89]

6.4 Danausの時代
BC1430年、Ioの後裔Danausは、EgyptからArgosの町へ移住して来た。[90]
Danausの娘HypermnestraはHera神殿の巫女になった。[91]

6.5 Lamedonの時代
BC1408年、Danausによって、Argosの町から追放されたGelanorの子LamedonがSicyonの町からArgosの町に攻め込んで、町を支配した。[92]
Lamedonの娘Alcidameaは、Hera神殿の巫女になった。[93]
Alcidameaの子Bunusは、Corinthの町にHera神殿を建立した。[94]

6.6 Proetusの時代
BC1368年、Abasの子Proetusは、彼の兄弟Acrisiusと和解して、Tiryns、Heraeum、Mideiaの町、およびArgolis地方の沿海地方を領することになった。[95]
Proetusは、Sicyonの町の海岸の近くにHera神殿を創建した。[96]

6.7 Perseusの時代
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[97]
このときから、Heraeumの町は、Argosの町のProetusの子Megapenthesではなく、Mycenaeの町のPerseusの支配下に置かれたと推定される。

6.8 Sthenelusの時代
Perseusの子Sthenelusが父からMycenaeの町を継承した。[98]
Sthenelusの娘Alcyoneは、Hera神殿の巫女になった。[99]

6.9 Eurystheusの時代
Sthenelusの子Eurystheusは、父からMycenaeの町を継承した。[100]
Eurystheusの娘Admeteは、Hera神殿の巫女になった。[101]
Argosの町とMycenaeの町は、Hera神殿をめぐって争っていたが、少なくともEurystheusの時代まではMycenaeの町の管轄にあった。[102]

7 Hermioneの歴史
7.1 Hermioneの創建
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの町から南東の海の近くへ移住して、Hermioneの町を創建した。[103]
Hermioneの町は、Peloponnesus内で、Sicyon、Argos、Mycenaeの町に次いで古い町であった。それ以前、そこには、Cariansが住んでいた。[104]

7.2 Parnassus近くからの移住
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Hermioneの町へ移住して、新しいHermioneの町を創建した。[105]

8 Mideaの歴史
8.1 Mideaの創建
AD12世紀の修辞学者Tzetzesは、Danaeの子PerseusがMidea (or Mideia)の町を創建したと伝えている。[106]
しかし、Pausaniasは、Perseusの祖父Acrisiusの時代に、既にMideaの町があったように記している。[107]
恐らく、Perseusの子Electryonが住んだ頃は、Mideaの町は、別な名前で呼ばれていたと思われる。
Electryonの妻Mideaの名前に因んで、Mideaの町と呼ばれるようになったと思われる。[108]

8.2 Hippodamiaの亡命
BC1287年、Pelopsの妻Hippodamiaが夫に追放されて、Pisaの町からMideaの町へ逃れて来た。[109]
Electryonの妻Lysidice (or Eurydice)は、Hippodamiaの娘であった。[110]
HippodamiaはMideaの町で死んだ。後に、Hippodamiaの遺骨はOlympiaに埋葬された。[111]

8.3 Electryonの死
BC1277年、Electryonは、彼の兄弟Heliusや彼の甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。[112]
この遠征で、Electryonと彼の息子たちが死に、息子Licymniusと娘Alcmenaが残された。[113]
Amphitryonは、彼の従兄弟たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せて、Amphitryonは、Alcmenaと結婚した。[114]
Mycenaeの町のSthenelusは、Pelopsの2人の息子たち、AtreusとThyestesをMideaの町に住まわせた。[115]

8.4 Licymniusの帰還
BC1251年、Heraclesは、Thebesの町から彼の父の旧領Tirynsの町へ移住した。
Licymniusも彼の父の旧領Mideaの町へ帰還した。[116]
HeraclesがTirynsの町からPheneusの町へ移住したとき、Heraclesの同行者たちの中に、Licymniusの名前はなかった。[117]
それまでMideaの町に住んでいたPelopsの子Atreusは、北へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[118]

8.5 Heracleidaeの帰還
BC1215年、Heracleidaeは、Eurystheusとの戦いの後、Heraclesの子Hyllusに率いられて、Peloponnesus半島へ侵入した。[119]
Heraclesの母Alcmenaと彼女の弟Licymniusは、父の旧領Mideiaの町へ帰還した。[120]
Licymniusは、Mideaの町で死んだ。[121]

8.6 Trojan War後のMidea
Mideaの町は、Homerの軍船目録に登場しない。[122]
また、Heracleidaeの帰還の伝承にも登場しない。
しかし、Straboは、Tirynsの町と共にMideaの町もArgosの町によって滅ぼされたと記している。[123]
Tirynsの町がArgosの町によって破壊されたのは、BC468年のことである。[124]
BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansは、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[125]
このとき、Mideaの町もDoriansによって破壊され、その後、再建されたと思われる。

9 Naupliaの歴史
9.1 Naupliaの創建
BC1405年、Danausの娘Amymoneの子Naupliusは、Tirynsの町の近くにNaupliaの町を創建した。[126]
Naupliaの町の住人は、Danausと共にEgyptから移住して来た人々であった。[127]

9.2 町の名前の由来
Straboは、Naupliaの名前は、町の位置に由来しており、Naupliusは町の名前を元に創作された人物だと記している。Straboは、HomerがNaupliaの町やPalamedesに言及していないことを、その証拠としている。また、Straboは、Amymoneの子NaupliusがTrojan Warの時代に生きているはずがないと記している。[128]
しかし、Straboは、Naupliusが二人いることを知らなかった。
Trojan Warの時代のNaupliusは、Amymoneの子Naupliusの子Proetusの子Lernusの子Naubolusの子Clytonaeusの息子であった。[129]
Naupliaの名前は、町の創建者Naupliusの名前に因んで名づけられたと思われる。

9.3 Creteからの嫁入り
BC1234年、Clytonaeusの子Naupliusは、Crete島からCatreusの娘Clymeneを妻に迎えた。[130]
これより前に、Clymeneの姉妹Aerope (or Eriphyle)がAtreusの子Plisthenesと結婚していた。[131]
NaupliusとClymeneの遠距離婚は、PlisthenesとAeropeとの結婚が縁と思われる。

9.4 Euboeaへの移住
BC1225年、Clytonaeusの子Naupliusは、Achaeansに追われて、Euboea島のChalcisの町へ移住した。[132]
この時、Naupliusの子Palamedesも父と一緒にChalcisの町へ移住したと推定される。
これより少し前、Pelasgic lettersを発明した叙事詩人LinusがChalcisの町で死んだ。[133]
Palamedesは、Chalcisの町でPelasgic lettersを学んで、alphabetに新たな文字を追加した。[134]
NaupliusがTroyから帰還途中のAchaeansを欺いて、Euboea島近くで難破させたという逸話が作られたのは、NaupliusがEuboea島に住んでいたからと思われる。

9.5 Trojan Warの時代
Homerの軍船目録にNaupliaの町は登場しない。
Troy遠征物語で、Naupliusの子Palamedesが出発したのは、Naupliaの町ではなく、Cormosからであった。[135]
Trojan Warの時代、Naupliaの町は、町と呼ばれる規模ではなかったのかもしれない。

9.6 Argosによる占領
BC669年、Naupliaの町はArgivesに攻められて、Argos領になった。Naupliansは、SpartansがMesseniansに勝利した後で、Messenia地方南西部のMothoneの町を与えられた。[136]

10 Nemeaの歴史
10.1 Nemeaの創建
BC1247年、Argosの町に内紛が起こって、Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[137]
このとき、Talausの子Pronaxは、Argosの町からSicyonの町とCorinthの町の境を流れるNemea川の上流へ移住して、町を創建した。[138]
Pronaxは、Corinthの町のAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[139]
Pronaxの子Lycurgusは、Nemean Zeusの祭司であった。[140]

10.2 Hypsipyleの嫁入り
Pronaxは、Thoasの娘Hypsipyleを2人目の妻として迎えた。
Thoasは、Crete島のMinosの娘Ariadneの息子であった。[141]
Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住して、娘Hypsipyleが生まれた。[142]
Lemnos島で生まれたHypsipyleが、Nemeaの町のPronaxと結婚した経緯は、次のようであったと推定される。
Lemnos島で疫病が蔓延して、幼いHypsipyleを残して、彼女の両親が死んだ。[143]
Hypsipyleは、彼女の父Thoasと共にNaxos島からLemnos島への移住した人々に連れられて、Naxos島へ移住した。
BC1250年、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと彼の妻Ariadneは、Dionysusの儀式を広めるために、Peloponnesusへ遠征した。[144]
Hypsipyleは、OenarusとAriadneの孫娘であり、祖父母と共にPeloponnesus内の各地を廻った。
この遠征には、Ariadneの子Phliasus (or Phlias)も参加していた。Phliasusは、Argolis地方のPhliusの町のChthonophyleと結婚して、Phliusの町に住んだ。[145]
Hypsipyleの祖母Ariadneは、旅の途中、Argosの町で死に、Hypsipyleは、叔父Phliasusの養女になって、Phliusの町に住んだ。[146]
BC1233年、Hypsipyleは、Nemeaの町に住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[147]

10.3 Lemnosへの移住
BC1188年、Hypsipyleの子Euneusは、Nemeaの町からAchaeansのTroy遠征に参加した。AchaeansがIliumの町との戦いに敗れて、各地へ移住した後、Euneusは、Lemnos島に定住した。[148]
Euneusの祖父Thoasは、Lemnos島の支配者であった。[149]
Euneusは、当時、Lemnos島に住んでいたMinyansを従わせるために、自分は、JasonとHypsipyleの間の息子だという噂を広めた。[150]

11 Orneaeの歴史
11.1 Orneaeの創建
BC1275年、AegeusによってAthensの町から追われたOrneusは、Argolis地方のPhliusの町の近くへ移住して、Orneaeの町を創建した。[151]
Pausaniasは、Orneusの父をErechtehusだと伝えている。[152]
Orneusの父が第6代Athens王Erechtehusであるとすれば、Orneusの子Peteusの子Menestheusは、Cecropsの子Pandionの養子Aegeusと同時代である。しかし、Trojan War時代のMenestheusの同時代人は、Aegeusではなく、彼の孫であった。したがって、ここでのErechtehusは、第8代Athens王Pandionの別名と思われる。したがって、OrneusはAegeusの義兄弟であった。

11.2 Trojan War時代
Trojan War時代、Orneaeの町はMycenaeの町の支配下であった。[153]
その後、Orneaeの町はArgosの町の支配下になった。[154]

11.3 Orneaeの滅亡
BC415年、Lacedaemoniansは、Orneaeの町にArgosの町から亡命した貴族派を居住させた。[155]
その後、ArgivesはOrneaeの町を攻め、町を完全に破壊した。[156]
Straboの時代、Orneaeの町に住む人はいなかった。[157]

12 Phliusの歴史
12.1 Phliusの創建
Homerは、Phliusの町をAraethyreaの町と呼んでいる。[158]
しかし、Straboは、Araethyreaの町から約6kmの所にPhliusの町が建設されたと記している。[159]
Araethyreaの町より前の時代の町もあり、最初の町の創建者は、Arasであった。[160]
Arasが創建した町は、Phliusの町から1km離れた、後にCeleaeの町となる場所にあったと思われる。そこには、Arasの墓があった。[161]
Arasが町を建設したのは、BC1350年頃と推定される。

12.2 Arasの系譜
Arasの娘Araethyreaの子Phliasの妻は、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Chthonophyleであった。[162]
つまり、Arasの父は、Aloeusの子Epopeusの同時代人であった。
恐らく、Arasの父は、Epopeusの兄弟、Hopleus、または、Nireusのいずれかと推定される。[163]
彼らの父Aloeusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの息子であった。[164]

12.3 Sicyonからの嫁入り
BC1303年、Araethyreaの子Phliasは、Sicyonの町からSicyonの娘Chthonophyleを妻に迎えた。[165]

12.4 Naxosからの婿入り
BC1250年、Dionysusの儀式を伝える集団がPeloponnesusを訪問した。[166]
集団を率いたのは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと彼の妻Ariadneであった。
彼らを招いたのは、Argosの町のAmythaonの子Melampusであった。[167]
その頃、Phliasの子Polybusは、彼の母方の祖父Sicyonの跡を継いで、Sicyonの町に住んでいた。Phliasには、Polybusの他に、Phliasの跡を継いだ息子がいた。しかし、彼には娘Chthonophyleしかいなかったため、Phliusの町を継ぐ者がいなかった。
Oenarusの子Phliasus (or Phlias)は、Chthonophyleと結婚して、Phliusの町を継承した。[168]
PhliasusとChthonophyleは、Ephyra (後のCorinth)の町の創建者Sisyphusを共通の先祖としていた。
両者を仲介したのは、Melampusであったと思われる。
Melampusは、Chthonophyleの叔父Polybusの娘Lysianassaの夫Talausの伯父であった。

12.5 PhliusとNaxosの関係
Phliasの父Oenarusの父は、Aloeusの子Otus、あるいは、彼の兄弟Ephialtesであったと推定される。OtusとEphialtesは、Boeotia地方のAnthedonの町からNaxos島へ移住した。[169]
OtusとEphialtesは、当時、Strongyle (後のNaxos)と呼ばれていた島の名前をDiaに改名した。[170]
Diaは、女神Heraの娘Hebeの別名で、Phliusの町やSicyonの町で信奉されていた。[171]

12.6 Phliasの息子たちの時代
BC1243年、Phliasの子Dameonは、HeraclesのElis攻めに参加して、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[172]
その後、Dameonの兄弟Androdamasは、Sicyonの町へ移住した。[173]
Phliusの町には、Aeolisが住んでいたが、Argosの町の支配下になったと思われる。
Pausaniasは、Heracleidaeの帰還前のPhliusの町の住人は、Argivesであったと記している。[174]

12.7 Heracleidaeの帰還
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Argosの町とSicyonの町のDoriansを率いてPhliusの町へ遠征し、住民から受け入れられてPhliusの町の王となった。
Doriansとの共住に反対したPhliusの町の指導者Hippasusは、Samos島へ移住した。[175]
また、Phliusの町の住人の一部は、Cleonaeansと共に、Asia Minorへ渡り、Mimas半島にClazomenaeの町を創建した。[176]

13 Teneaの歴史
13.1 Teneaの創建
Teneaの町の確認できる最初の住人は、Phliasの子Polybusであった。[177]
Polybusは、Phliusの町に住んでいたが、東南東へ移住して、Teneaの町を創建したと推定される。[178]
Polybusが創建者であれば、Teneaの町の創建は、BC1282年頃であった。

13.2 Thebesからの嫁入り
BC1282年、Polybusは、Thebesの町からLaiusの娘Periboeaを妻に迎えた。[179]

13.3 Thebesからの移住
BC1279年、Laiusの子Oedipusが、Polybusの養子になって、Thebesの町からTeneaの町へ移住して来た。[180]
恐らく、跡継ぎがないPolybusが妻の弟を養子に迎えたものと思われる。[181]

13.4 Sicyonへの移住
BC1276年、Polybusは祖父の跡を継いでSicyon王になり、Teneaの町からSicyonの町へ移住した。[182]
Oedipusは、Polybusの跡を継いでTeneaの町を治めた。

13.5 Thebesへの移住
BC1238年、Boeotia地方でSphinxの反乱が起こり、Oedipusは、Corinthiansを率いて反乱を鎮圧して、Thebesの町へ移住した。[183]

13.6 Tenedosからの移住
OedipusのThebesへの移住には、Teneaの町の住人の一部も同行したと思われる。
Oedipusが去った後、Teneaの町は、西隣のCleonaeの町のAtreusの支配下になった。
BC1186年、Atreusの孫Agamemnonは、Troad地方のTenedos島から逃れて来たTrojansをTeneaの町に住まわせた。[184]
このとき、町の名前が、Tenedos島の支配者Cycnus (or Cygnus)の子Tenes (or Tennes)に因んで、Teneaと名付けられた。[185]

13.7 Tenedosへの移住
BC1170年、Agamemnonの子Orestesは、Amyclaeの町のPeisanderと共にTenedos島へ遠征して、Peisanderは島に入植した。[186]
このとき、Teneaの町の住人の一部は、Orestesに同行して、Tenedos島へ帰還したと思われる。

13.8 Sicilyへの移住
BC733年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasは、Sicily島南東部へ移住してSicelsを追い出してSyracuseの町を創建した。[187]
Archiasが率いた移民のほとんどは、Teneaの町の住人であった。[188]
つまり、Syracuseの町の初期の住人は、Trojansであった。

14 Tirynsの歴史
14.1 Tirynsの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Tirynsは、Argosの町から南東の海の近くへ移住して、Tirynsの町を創建した。[189]
BC1610年、Tirynsの兄弟Peirasは、Argosの町のHera神殿を創建した。[190]
Hera神像は、Niobeの子ArgusがTirynsの町に自生していた梨の樹から作った。[191]

14.2 Tirynsの支配者の変遷
BC1387年、Abasの子Proetusは、Argosの町からAcrisiusを追放して、Tirynsの町はProetusの支配下に入った。[192]
BC1370年、Abasの子Acrisiusは、Argosの町からProetusを追放して、Tirynsの町はAcrisiusの支配下に入った。[193]
BC1368年、Proetusは、彼の妻Steneboeaの父Amphianaxの援助を得て、Tirynsの町を占拠した。[194]
Proetusは、Acrisiusは戦い、Tirynsの町はProetusが領した。[195]
ProetusはLycia地方からCyclopesを招いてTirynsの町の城壁を強化した。[196]
BC1343年、Acrisiusの孫Perseusは、Proetusを殺害して、Seriphus島へ逃れた。[197]
BC1339年、Acrisiusが死に、Proetusの子Megapenthesは、Tirynsの町からArgosの町へ移り住んだ。
BC1332年、Perseusは、Seriphus島から帰還して、Tirynsの町を占拠した。[198]
BC1330年、Perseusは、Mycenaeの町を創建して、Tirynsの町を彼の息子Alcaeusに任せた。[199]
BC1287年、Amphitryonは、Arcadia地方のPheneusの町のGuneusの娘Laonomeを妻に迎えた。[200]
BC1280年、Alcaeusが死に、彼の息子AmphitryonがTirynsの町を継承した。
BC1278年、Amphitryonは、Thebesの町のSpartiから招かれて、Tirynsの町からThebesの町へ移住した。[201]
BC1251年、Amphitryonの子Heraclesは、Thebesの町からTirynsの町へ移住した。 [202]
BC1243年、HeraclesはTirynsの町からArcadia地方のPheneusの町へ移住した。[203]
この後、Mycenaeの町のEurystheusの息子が、Tirynsの町を治めたと思われる。

14.3 Rhodesへの移住
BC1215年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeがPeloponnesusに帰還するが、翌年、彼らはAttica地方のTricorythusの町へ撤収した。[204]
Peloponnesusに残留したHeraclesの母Alcmenaの兄弟Licymniusは死に、Heraclesの子TlepolemusはTirynthiansを率いて、Rhodes島へ移住した。[205]
Homerは、TirynthiansがMycenaeansではなく、Argivesの指揮下にTroyに遠征したと伝えている。[206]
しかし、Perseusの時代からTirynsの町は、Argosの町の支配下になったことはない。

14.4 Tirynsの滅亡
BC468年、Tirynsの町は、Mycenaeの町と共にArgosの町に滅ぼされた。[207]
Tirynthiansは、Epidaurusの町や、Argolis湾入り口東側のHalieisの町へ移住した。[208]

15 Troezenの歴史
15.1 Troezenの創建
BC1430年、Danausと共に、EgyptからGreeceへ移住して来たOrusは、Argolis地方の南東部に定住し、その地方はOraeaと呼ばれるようになった。[209]

15.2 Pisaからの移住
BC1287年、Pelopsの2人の息子たち、PittheusとTroezenは、Pisaの町からAetiusのもとへ移住して来て、Anthasの子Aetiusと共住した。[210]
Pittheusは人々を集めて町を作り、彼の兄弟の名前に因んで、その町をTroezenと名付けた。[211]

15.3 Athensからの亡命
BC1264年、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されたPandionの養子Aegeusは、Troezenの町のPittheusのもとへ亡命した。[212]
Pittheusは、Aegeusの2人目の妻Chalciopeの父Chalcodonの兄弟Canethusの妻Heniocheの父であった。つまり、Aegeusは妻Chalciopeを通して、義姉弟の父であるPittheusを頼って亡命したと思われる。[213]
また、Megaraの町のPelopsの子Alcathousが、自分の兄弟Pittheusを紹介したのかもしれない。[214]

15.4 Theseusの誕生
BC1263年、AegeusとPittheusの娘Aethraとの間に、息子Theseusが誕生した。[215]
Aegeusは、当時55歳と推定され、AegeusとAethraとは正式な結婚ではなかった。[216]

15.5 Atticaへの移住
BC1262年、Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得てAthensの町へ帰還した。[217]
Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusは、Attica地方にAnaphlystusの町とSphettusの町を創建した。[218]

15.6 Heraclesの訪問
BC1256年、Troezenの町で養育されていたAegeusの子Theseusは、Pittheusの屋敷で、Pittheusを訪問したHeraclesを見た。[219]
Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Nicippeの兄弟であった。

15.7 Athensへの移住
BC1247年、Theseusは、Troezenの町からAthensの町へ移住した。[220]
Theseusは、Pittheusの跡継ぎとして、Troezenの町に住んでいたが、Aegeusに跡継ぎがいなくなり、AegeusはTheseusをAthensの町へ呼び寄せた。

15.8 Athensからの移住
BC1241年、Theseusは、Antiopeから生まれた息子HippolytusをPittheusの跡継ぎにするためにTroezenの町へ移住させた。[221]

15.9 EpigoniのThebes攻め
伝承では、Hippolytusは、戦車の手綱が野生オリーブ樹に引っ掛かって、戦車が転覆して死んだと伝えられている。[222]
しかし、次のことから、Hippolytusは、Diomedesと共に、BC1205年、EpigoniのThebes攻めに参加して戦死したものと推定される。[223]
1) Troezenの町にDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。[224]
2) Hippolytusは、Diomedesと同世代であった。
3) Trojan War時、Troezenの町は、Diomedesの支配下にあった、

15.10 Heracleidaeの帰還
BC1107年、Aristomachusの子Temenus率いるDoriansは、Argosの町を占領した。[225]
Argosの町の支配下にあったTroezenの町は、Doriansを共住者として受け入れた。[226]

15.11 Asia Minorへの植民
BC1070年、Alcyoneの子Anthasの子Aetiusの後裔Anthesは、Troezenの町からCaria地方へ移住して、Halicarnassusの町とMyndusの町を創建した。[227]
彼らの移住の原因は、Peloponnesosに発生した飢饉であった。[228]
Anthesの移民団は、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesが率いた移民団に含まれていた。[229]
Althaemenesの移民団は、Rhodes島の3つの町、Lindus、Ialysus、Cameirusや、Cnidusの町、Cos島にも入植した。[230]
これらの町と、Halicarnassusの町を含めた6つの町は、Doric Hexapolisと呼ばれるようになった。[231]

おわり