第23章 アルゴリス地方の青銅器時代の歴史

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1 はじめに
Argolis地方にGreeksがはじめて住んだのは、BC1750年に発生した「Ogygus時代の大洪水」の時であった。Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
Inachusの2人の息子たち、Aegialeus(or Aezeius)とPhoroneusに率いられた人々はPeloponnesus半島へ移動した。
Aegialeusは半島北部の海岸地方に、Phoroneusはさらに南に進んで平野の端の小高い丘(後のLarisa)の東側に定住した。[1]
Aegialeusは、Aegialus(後のSicyon)の町を創建し、Phoroneusは、Phoroneus(後のArgos)の町を創建した。[2]

2 Asine
2.1 Asineの創建
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃れた。Eurystheusは、彼らをNaupliaの町の近くの土地に住まわせ、DryopiansはAsineの町を創建した。[3]

2.2 Asineの破壊
BC745年、Argos王Eratusは、Spartansとの戦いの後で、Spartansに味方したAsineの町を攻撃して破壊した。[4]
Asineの町に住んでいたDryopiansは、Lacedaemonに逃げ込み、Messenia地方の沿海の地を与えられた。[5]

3 Cleonae
3.1 Cleonaeの創建
BC1251年、Pelopsの子Atreusは、Mideiaの町から北北西へ約20kmの所へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[6]
AtreusがCleonaeの町を創建したのは、HeraclesがThebesの町から、父Amphitryonの旧領Tirynsの町に移住した頃であった。[7]
Atreusの移住は、Heraclesと共にThebesの町に住んでいたLicymniusが、彼の父Electryonが住んでいたMideiaの町へ移住して来たことが原因と思われる。

3.2 Heraclesへの加勢
BC1243年、Heraclesは、Eleia地方のHyrminaの町からIsthmusの町へ向かう途中のActorの2人の息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeの町で襲撃して殺した。[8]
この時、CleonaeansがHeraclesに加勢した。[9]
当時、Cleonaeの町を治めていたのは、Atreusであり、彼がHeraclesに協力したと思われる。
Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母Alcmenaの母Lysidice(or Eurydice)の父であった。[10]
つまり、AtreusはHeraclesの祖母の兄弟であった。

3.3 Crete島からの嫁入り
BC1237年、Atreusの子Plisthenesは、Crete島のMinosの子Catreusの娘Aerope(or Eriphyle)を妻に迎えた。[11]
当時、AtreusやPlisthenesは、Cleonaeの町に住んでいた。[12]
Cleonaeの町から約10km離れたPhliusの町には、Minosの娘Ariadneの子Phliasus(or Phlias)が住んでいた。PhliasusはAeropeのいとこであり、この親戚関係が、Cleonaeの町に住むPlisthenesとCrete島に住むAeropeの遠距離婚を成立させたと推定される。

3.4 Mycenaeへの移住
BC1217年、Mycenaeの町のEurystheusがHeracleidaeとの戦いで死に、AtreusがEurystheusの跡を継いでMycenaeの町へ移住した。[13]
Cleonaeの町は、Atreusの兄弟Cleonymus (or Cleones)に任せられ、この時、町の名前がCleonaeに変わったと推定される。[14]

3.5 Athensへの移住
BC1109年、Heracleidaeの一人、Heraclesの子Ctesippusの曾孫AgamedidasがCleonaeの町の支配者になった。[15]
Colophonの町のParalus (or Parphorus)は、Chios島の対岸の本土にClazomenaeの町を創建した。その町の住人は、Heracleidaeに追われて、Cleonaeの町やPhliusの町からAthensの町へ逃れた人々であった。[16]

3.6 Mycenaeからの亡命
BC468年、Argosの町はMycenaeの町を占領した。[17]
Mycenaeの町の住人の一部はCleonaeの町に逃げ込んだ。[18]
したがって、Heracleidaeの帰還後もCleonaeの町には、Achaeansが住んでいたと推定される。

4 Corinth
4.1 Corinthの創建
Sicyonの町の西側のAegialus地方には、Hellenの子Xuthusに率いられて、Thessaly地方からAttica地方を経由して移住して来た人々が住んでいた。[19]
BC1407年、Xuthusの子Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Sicyonの町のLamedonと戦い、Sicyonの町に勝利した。[20]
Archanderに加勢したAeolusの子Sisyphusは、Sicyonの町の東側の土地へ移住して、Ephyra (後のCorinth)の町を創建した。[21]
Sisyphusは、Archanderの父Achaeusの父Xuthusの兄弟Aeolusの息子であった。

4.2 Colchisへの移住
BC1390年、Aegean Seaに発生した大津波によって、Corinthの町も被災した。
Sisyphusの子Aeetesは、被災した人々を率いて、黒海東岸のPhasis川付近のColchis地方へ移住した。[22]
Aeetesは、黒海を航海した最初のGreeksであった。

4.3 Alcidameaの子Bunus
Sisyphusの子Aeetesの跡を継いだのは、Bunusであった。[23]
Bunusは、Corinthの町にHera神殿を創建した。[24]
Sisyphusの家系はThessaly地方のDeucalionの後裔で、Hera信仰には縁が薄かった。
恐らく、Bunusの母Alcidameaは、ArgosのHera神殿の巫女であり、一時、Argosの町を占拠していたGelanorの子Lamedonの娘と思われる。
Sicyonの町とArgosの町の戦いの後で、Alcidameaは、Sisyphusの子Almusに嫁ぎ、息子Bunusが生まれたと推定される。

4.4 Aloeusの子Epopeus
Bunusの跡をEpopeusが継いだ。[25]
EpopeusはSicyon王として、Sicyonの町に住んでいて、Corinthの町をも支配した。[26]
Epopeusには、多くのAsopus河神の娘たちがいたが、息子は、Marathonのみが知られている。[27]

4.5 Epopeusの子Marathon
MarathonはAttica地方へ移住した。Pausaniasは移住の原因を、Epopeusの横暴だと伝えている。[28]
しかし、Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚しており、その結婚が原因であった。[29]
そして、その結婚は、BC1352年のErechtheusとEumolpusの子Immaradusとの戦いに、MarathonがSicyonから駆け付けたのが縁であった。[30]
Marathonには、2人の息子たち、SicyonとCorinthusが生まれた。[31]
Marathonの跡をCorinthusが継ぎ、Ephyraeaの町は、Corinthの町と呼ばれるようになった。[32]

4.6 Corinthusの継承者
Marathonの子CorinthusがCorinthを継承した。[33]
Pausaniasは、Corinthusに跡継ぎがなかったため、CorinthiansはJasonの妻Medeaを迎えたと伝えている。[34]
しかし、系図を作成すると、CorinthusとMedeaの生年差は、65年ある。
Apollodorosは、Medeaと同時代のGlauceの父、Corinth王Creonの名前を伝えている。[35]
恐らく、Corinthusの跡をCreonが継ぎ、Creonの跡をMedeaが継承したと思われる。[36]
Lycaethusの子Creonは、Epopeusの兄弟の孫と推定される。[37]

4.7 MedeaとJasonの時代
4.7.1 Thessalyからの移住
BC1247年、MedeaはThessaly地方からCorinthの町へ移住した。
CorinthiansがMedeaを招いたのは、MedeaがCorinthの町の創建者Sisyphusの後裔であったからであった。
Corinthiansに招かれたのは、Medeaであったが、Corinthの町を治めたのは、Medeaの夫Jasonであった。[38]

4.7.2 Lyciaへの移住
BC1243年、Sisyphusの子Glaucusの子Bellerophontes (or Hipponus, Bellerophon)は、Corinth地方のIsthmusの町からLycia地方のXanthusの町へ逃れた。彼は、Xanthusの町を治めるIobatesの娘Philonoeと結婚した。[39]
これより前に、Pandionの子LycusがLycia地方へ移住していた。[40]
Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、周辺の異民族(Solymi)に対抗するためにBellerophontesを呼び寄せたと思われる。[41]
Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。[42]
つまり、BellerophontesとPhilonoeは又従兄妹であった。

4.7.3 Corcyraへの移住
JasonとMedeaがCorinthの町に住んでから10年後、Medeaは死んだ。[43]
BC1237年、JasonはHeraclesと共にGreece北西部へ遠征して、Scheria (後のCorcyra)島へ移住した。[44]

4.8 Aeolusの子Sisyphusの時代
Jasonの跡をAeolusの子Sisyphusが継承した。[45]
Sisyphusの子Ornytionの妻の名前を伝えている史料はない。
しかし、Corinthの町の外港に名前を与えた、2人の息子たち、LechesとCenchriasの母PeireneがOrnytionの妻であったと推定される。[46]
Pausaniasは、Peireneの父がOebalusであり、PeireneはAchelous河神の娘であったと伝えている。[47]
BC1237年、OrnytionはCorinthiansを率いて、Jasonの移民団が無事に入植できるように、Jasonに同行した。Ornytionは遠征中、Acarnaia地方のAchelous川近くに住んでいたTelonの子Oebalusの娘Peireneを妻にした。[48]

4.9 Sisyphusの子Ornytionの時代
4.9.1 LechaeumとCenchreaeの創建
Ornytionは、Corinthian gulfに面したLechaeumの町と、Saronic Gulfに面したCenchreaeの町を創建し、彼の2人の息子たちに因む名前を付けた。[49]
2つの町の建設は、BC1230年頃と推定される。

4.9.2 Phocisへの移住
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、Corinthの町からPhocis地方へ移住し、Tithoreaの町の南東の地にDaulisの町を創建した。[50]

4.10 Ornytionの子Thoasの時代
Corinthの町は、Homerの『軍船目録』で、Mycenaeの指揮下にある町として登場する。[51]
しかし、史実としてはTroy遠征に参加していないと思われる。

4.11 Heracleidaeの帰還
4.11.1 Doriansとの戦い
BC1075年、Corinthの町は、Heracleidaeの一人、Hippotasの子Aletes率いるDoriansに攻められた。Thoasの子Damophonの子Propodasの2人の息子たち、DoridasとHyanthidasが王位にあったが、王位をAletesに譲って、彼らは町に住み続けた。
しかし、Corinthの町の主な住人であったAeolisは抵抗し、AletesはSolygiaの丘に陣を構えて戦い、抵抗した住人を町から追い出した。Corinthの町は、Aeolisの町からDoriansの町になった。[52]

4.11.2 共住者Melas
Aletesは、Achaia地方のGonussaの町からCorinth攻略に協力したAntasusの子Melasを共住者とした。BC657年にCorinthの町の僭主となったEetionの子Cypselusは、Melasの後裔であった。[53]
また、Melasは、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの後裔であった。[54]

4.11.3 Megaraの創建
BC1074年、Peloponnesusへの帰還を完了したHeracleidaeは、Athensの町の勢力伸長を危惧して、HeracleidaeはAthensの町に侵攻した。Athens王Melanthusの子Codrusは戦死したが、Athensの町は勝利した。[55]
Heracleidaeは、Athensの町から帰る途中、Megara地方に住んでいたIoniansを追い出して、DoriansのMegaraの町を建設した。[56]
このとき、Corinthの町のAletesがDoriansの遠征隊を率いたとも伝えられる。[57]
しかし、Aletesの父Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖であった。Doriansの遠征隊を率いたのはAletesではないと思われる。

4.12 Doriansの支配
Aletesの後、Corinthiansを支配したのは、Ixionから、Agelas、Prymnis、Bacchisへと続くHeracleidaeであった。[58]
Bacchisは、足が不自由であったが、政治的才能があり、3人の娘たちと、7人の息子たちがいた。[59]
Bacchisの後裔は、Heracleidaeではなく、Bacchiadaeと呼ばれるようになった。[60]
Bacchisの後、Agelas、Eudemus、Aristomedes、Agemon、Alexander、Telestes、AutomenesがCorinthiansを支配した。[61]
Automenesの後、90年間、毎年1人を選んで、町を委ねていたが、Prytanesのときに、Cypselusによって、Bacchiadaeは追放された。[62]

4.13 Eetionの子Cypselusの時代
BC657年、Eetionの子Cypselusは、Corinthの町の僭主になった。[63]
Cypselusは、Aletes率いるDoriansに協力して、Corinthの町に住んでいたAntasusの子Melasの後裔であった。
また、MelasはSicyonの娘Gonussaの後裔であった。[64]
つまり、Cypselusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの後裔であり、Aeolisであった。

4.14 脱落がない系譜
HeracleidaeがPeloponnesus半島への帰還を果たした後、Argosの町やSpartaの町などの支配者の系譜には、BC11世紀前後に4世代ほどの脱落がある。
しかし、Corinthの町の支配者の系譜は、Aletesの後も矛盾なく、BC7世紀のCypselusの時代まで続いている。
Athens王の系譜以外で、唯一、Corinthの町の支配者の系譜は、BC11世紀以降でも脱落がない。
これには、Corinthの町の創建者Sisyphusから続く支配層や、Gonussaの町のMelasがDoriansと共住していたことが影響していると思われる。
また、この完全な系譜には、叙事詩人Amphilytusの子Eumelusの存在が大きかった。彼はBacchiadaeに所属し、彼の祖父の祖父は、Prymnisの子Bacchisであった。
Eumelusは、Corinthの町の創建時からの歴史を「Corinthian History」にまとめた人物であり、AletesからBacchisに至る系譜も調べることができたと推定される。

5 Epidaurus
5.1 Epidaurusの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Epidaurusは、Argosの町から東側の海の近くへ移住して、Epidaurusの町を創建した。[65]
それ以前、Epidaurusの町は、Epicarusと呼ばれるCariansの住む町であった。[66]

5.2 Tirynsの支配
BC1368年、Abasの子Proetusは、Acrisiusとの戦いで、Argolis地方の沿海地方を領することになったが、それにはEpidaurusの町も含まれていたと思われる。[67]
それまで、Epidaurusの町はArgosの町の支配下にあったが、Tirynsの町の支配下になったと思われる。

5.3 Mycenaeの支配
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[68]
Perseusは、Tirynsの町とMideaの町も支配していたが、Epidaurusの町もMycenaeの町の支配下にあったと思われる。
しかし、Perseusには多くの息子たちがいたが、Epidaurusの町に住んでいたものはいなかった。

5.4 Aeginaからの移住
BC1285年、Actorの子Aeacusは、Thessaly地方のDiaの町からAegina島へ移住した。このとき、Aegina島に住んでいたのは、Attica地方のOenoeの町から島に入植したIoniansであった。彼らは、Xuthusの子Ionの後裔に率いられて、Epidaurusの町へ移住した。[69]

5.5 Asclepiusの誕生
BC1263年、医神Asclepiusが、IschysとPhlegyasの娘Coronisの息子として誕生した。
Pausaniasは、AsclepiusがEpidaurusの町で生まれたと記している。[70]
Epidaurusの町は、Phlegyasの先祖の地であった。[71]
恐らく、Phlegyasの母がEpidaurusの町の出身で、後に、その町でAsclepius信仰が盛んになって、AsclepiusがEpidaurusの町で生まれたという伝承が生まれたと思われる。
Straboは、AsclepiusがThessaly地方のTriccaの町を流れるLethaeus川の畔で生まれたと伝えている。[72]

5.6 Trojan War時代
Trojan War時代、Epidaurusの町はArgosの町の支配下にあった。[73]

5.7 Perinthusの創建
BC1148年、Epidaurusの町のPerinthusは、Orestesの遠征に参加して、Perinthusの町を創建した。その町は、Thracia地方のPerinthusの町とは違う町であった。[74]
Orestesの遠征には、Amyclaeの町のPeisanderも参加して、Tenedos島へ移住している。[75]

5.8 Athensへの移住
BC1102年、Antimachusの子Deiphontesは、Argosの町からDoriansを率いてEpidaurusの町を攻めた。Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Deiphontesに町を譲り渡した。[76]
Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensの町へ移住した。[77]
Deiphontesは、Attica地方のTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusの町に定住させた。[78]

5.9 Tirynsからの移住
BC468年、Tirynsの町は、Argosの町に攻められて、住人の一部は、Epidaurusの町へ移住した。[79]

6 Heraeum
6.1 Hera神殿の創建
BC1610年、Niobeの子Argusの子Peiras (or Pirantos)は、Hera神殿を創建した。[80]
Niobeの子Argusは、Tirynsの町に自生していた梨の樹でHera神像を作った。[81]
Peirasは、彼の娘Callithyia (or Callithias)をHera神殿の最初の巫女にした。[82]

6.2 Eleusisへの移住
BC1580年、Callithyiaの子Trochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。Trochilusは、Eleusisの町にHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[83]

6.3 Iasusの時代
Triopasの子Iasusの娘Ioも、Hera神殿の巫女であった。[84]
BC1560年、Ioは、彼女の父Iasusと共にEgyptへ移住した。[85]
Ioは、Egyptでは、Isisと呼ばれた。[86]

6.4 Danausの時代
BC1430年、Ioの後裔Danausは、Egyptから移住して来て、Argosの町を支配した。[87]
Danausの娘HypermnestraはHera神殿の巫女になった。[88]

6.5 Lamedonの時代
BC1408年、Danausによって追放されたGelanorの子LamedonがSicyonの町からArgosの町に攻め込んで、町を支配した。[89]
Lamedonの娘Alcidameaは、Hera神殿の巫女になった。[90]
Alcidameaの子Bunusは、Sisyphusの子AeetesからCorinth王を継承して、Corinthの町にHera神殿を建立した。[91]

6.6 Proetusの時代
BC1368年、Abasの子Proetusは、Acrisiusと和解して、Tiryns、Heraeum、Mideia、およびArgolis地方の沿海地方を領することになった。[92]
Proetusは、Sicyonの町の海岸の近くにHera神殿を創建した。[93]

6.7 Perseusの時代
BC1332年、Perseusは、Seriphus島から帰国して、Tirynsの町を占拠した。[94]
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[95]
このときから、Heraeumの町は、Argosの町を支配下から、Mycenaeの町の支配下に置かれたと推定される。

6.8 Sthenelusの時代
Perseusの子Sthenelusが父からMycenaeの町を継承した。[96]
Sthenelusの娘Alcyoneは、Hera神殿の巫女になった。[97]

6.9 Eurystheusの時代
Sthenelusの子Eurystheusが父からMycenaeの町を継承した。[98]
Eurystheusの娘Admeteは、Hera神殿の巫女になった。[99]
Argosの町とMycenaeの町は、Hera神殿をめぐって争っていたが、少なくともEurystheusの時代まではMycenaeの町の管轄にあった。[100]

7 Hermione
7.1 Hermioneの創建
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの町から南東の海の近くに移住して、Hermioneの町を創建した。[101]
Hermioneの町は、Peloponnesus内で、Sicyon、Argos、Mycenaeに次ぐ古い町であった。
それ以前、そこには、Cariansが住んでいた。[102]

7.2 Parnassus近くからの移住
BC1230年、Parnassus山近くに住んでいたDryopiansの一部は、Heraclesに追われて、Hermioneの町付近に移住して、新しいHermioneの町を創建した。[103]

8 Midea (or Mideia)
8.1 Mideaの創建
Mideaの町の創建者は、不明である。
確認されるMideaの町の最初の支配者は、Perseusの子Electryonであった。[104]
Electryonの最初の妻は、PhrygianのMideaであり、Electryonが町を創建し、妻の名前に因んで、Mideaの町と名付けたと思われる。[105]
しかし、Pausaniasは、Perseusの祖父Acrisiusの時代に、既にMideaの町があったように伝えている。[106]
その頃は、Mideaではなく、異なる名前で呼ばれていたものと思われる。
ElectryonがMideaの町の創建者であるとすれば、町の創建は、BC1300年頃である。

8.2 Hippodamiaの亡命
BC1290年、Pelopsの妻Hippodamiaが夫に追放されて、Pisaの町からMideaの町へ逃れて来た。[107]
Electryonの2人目の妻Lysidice (or Eurydice)は、Hippodamiaの娘であった。[108]
HippodamiaはMideaの町で死んだ。後に、Hippodamia遺骨はOlympiaに埋葬された。[109]

8.3 Electryon一族
BC1277年、Electryonは、彼の兄弟Heliusや彼の甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征した。[110]
この遠征で、Electryonと彼の息子たちが死に、息子Licymniusと娘Alcmenaが残された。[111]
Amphitryonは従兄弟たち、LicymniusとAlcmenaをThebesの町に呼び寄せて、Alcmenaを彼の妻にした。[112]
Mycenaeの町のSthenelusは、Mideaの町をPelopsの2人の息子たち、AtreusとThyestesに治めさせた。[113]

8.4 Licymniusの帰還
BC1251年、Heraclesは、Thebesの町から彼の父Amphitryonの旧領Tirynsの町へ移住した。このとき、Licymniusも彼の父Electryonの旧領Mideaの町へ帰還したと推定される。[114]
HeraclesがTirynsの町からPheneusの町へ移住したとき、Heraclesの同行者の中に、Licymniusの名前はなかった。[115]
Licymniusが帰還するまでMideaの町に住んでいたPelopsの子Atreusは北へ移住して、Cleonaeの町を創建した。[116]

8.5 Heracleidaeの帰還
BC1215年、Heracleidaeは、Eurystheusとの戦いの後、Hyllusを指揮官として、Corinth地峡を通って陸路でPeloponnesus半島へ侵入した。[117]
Heraclesの母Alcmenaや彼女の弟Licymniusが、幼少期を過ごしたMideiaの町への帰還であった。[118]
Licymniusは、Mideaの町で死に、Tirynsの町に埋葬された。[119]
Tirynsの町のAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。[120]

8.6 Trojan War後のMidea
Mideaの町は、Homerの軍船目録に登場しない。また、Heracleidaeの最終帰還の伝承にも登場しない。しかし、Straboは、Tirynsの町と共にMideaの町もArgosの町によって滅ぼされたと記している。[121]
Mycenaeの町がArgosの町によって滅ぼされた、BC468年のことであった。[122]

9 Nauplia
9.1 Naupliaの創建
BC1405年、Danausの娘Amymoneの子Naupliusは、Tirynsの町の近くにNaupliaの町を創建した。[123]
Naupliaの町の住人は、Danausと共にEgyptから移住して来た人々であった。[124]

9.2 町の名前の由来
Straboは、Naupliaの名前は、町の位置に由来しており、Naupliusは町の名前を元に創作された人物だと記している。Straboは、HomerがNaupliaの町やPalamedesに言及していないことを、その証拠としている。また、Straboは、Amymoneの子NaupliusがTrojan Warの時代に生きているはずがないと記している。[125]
しかし、Trojan Warの時代のNaupliusは、Amymoneの子Naupliusの子Proetusの子Lernusの子Naubolusの子Clytonaeusの息子であり、Straboの誤りである。[126]

9.3 Trojan Warの時代
Homerの軍船目録にNaupliaの町は登場しない。しかし、別の伝承では、Naupliusの子Palamedesは、Cormosから30隻の船を率いてAulis港で遠征隊に合流している。[127]
BC1178年、Agamemnonの子Orestesが、Aegisthusと戦ったとき、Naupliusの息子たちは、Aegisthusに味方して殺されたという伝承がある。[128]

9.4 Argosによる占領
BC669年、Naupliaの町はArgivesに攻められて、Argos領になった。Naupliansは、SpartansがMesseniansに勝利した後で、Messenia地方南西部のMothoneの町を与えられた。[129]

10 Nemea
10.1 Nemeaの創建
BC1247年、Argosの町に内紛が起こって、Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[130]
このとき、Talausの子Pronaxは、Argosの町からSicyonの町とCorinthの町の境を流れるNemea川の上流に移住して、町を創建した。[131]
Pronaxは、Corinthの町のAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[132]

10.2 Hypsipyleの嫁入り
Pronaxは、Thoasの娘Hypsipyleを2人目の妻として迎えた。
Thoasは、Crete島のMinosの娘Ariadneの息子で、Lemnos島を与えられていた。[133]
何らかの原因でHypsipyleは孤児になり、Phliusの町に住む彼女の叔父Phliasus (or Phlias)のもとで育てられていた。[134]

10.3 Hypsipyleの子Euneus
多くの史料は、Hypsipyleの子Euneusの父がJasonだと伝えている。[135]
しかし、実際は、PronaxがEuneusの父であり、EuneusはNemeaの町で生まれ、その町で育った。Nemeaの町の近くには、Cleonaeの町があって、その町の影響を受けていた。[136]
Euneusは、4km離れたCleonaeの町に住むAtreusの孫Agamemnonとは同年代であり、幼馴染であった。[137]
Euneusは、Agamemnonの援助でLemnos島の支配者の地位に復帰させられた。[138]
当時、Lemnos島には、Thoasと共に移住した人々の他に、Iolcusの町を追われて島に逃げ込んだMinyansが住んでいた。
Euneusは、両方の住人を従わせるために、彼の父がJasonであるという噂を広めたと推定される。

11 Orneae
11.1 Orneaeの創建
BC1275年、Aegeusに追われたOrneusは、Athensの町からArgolis地方のPhliusの町の近くへ移住して、Orneaeの町を創建した。[139]
Pausaniasは、Orneusの父をErechtehusだと伝えている。[140]
Orneusの父が第6代Athens王Erechtehusであるとすれば、Orneusの子Peteusの子Menestheusは、Cecropsの子Pandionの養子Aegeusと同時代である。しかし、Trojan War時代のMenestheusの同時代人は、Aegeusではなく、彼の孫であった。したがって、ここでのErechtehusは、第8代Athens王Pandionの別名と思われる。したがって、OrneusはAegeusの義兄弟であった。

11.2 Trojan War時代
Trojan War時代、Orneaeの町はMycenaeの町の支配下であった。[141]
その後、Orneaeの町はArgosの町の支配下になった。[142]

11.3 Orneaeの滅亡
BC415年、Lacedaemoniansは、Orneaeの町にArgosの町から亡命した貴族派を居住させた。[143]
その後、ArgivesはOrneaeの町を攻め、町を完全に破壊した。[144]

12 Phlius
12.1 Phliusの創建
Phliusの町は、Homerの作品にはAraethyreaの町という名前で登場する。[145]
しかし、Straboは、Araethyreaの町から約6kmの所にPhliusの町が建設されたと記しており、同じ町ではなかった。[146]
Araethyreaの町より前の時代の町もあり、最初の町の創建者は、Arasであった。[147]
Arasが創建した町は、Phliusの町から1km離れた、後にCeleaeの町となる場所にあったと思われる。そこには、Arasの墓があつた。[148]
Arasが町を建設したのは、BC1350年頃と推定される。

12.2 Arasの系譜
Arasの娘Araethyreaの子Phliasの妻は、Epopeusの子Marathonの子Sicyonの娘Chthonophyleであった。[149]
つまり、Arasの父は、Aloeusの子Epopeusと同時代の人物であった。
恐らく、Arasの父は、Epopeusの兄弟、Hopleus、または、Nireusのいずれかと推定される。[150]
彼らの父Aloeusは、Corinthの町の創建者Sisyphusの息子であった。[151]

12.3 Sicyonからの嫁入り
BC1305年、Araethyreaの子Phliasは、Sicyonの町からSicyonの娘Chthonophyleを妻に迎えた。[152]

12.4 Naxosからの婿入り
BC1250年、Dionysusの儀式を伝える一行がPeloponnesusを訪問した。[153]
訪問団を率いたのは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusと彼の妻Ariadneであった。
彼らを招いたのは、Argosの町のAmythaonの子Melampusであった。[154]
その頃、Phliasの子Polybusは、彼の母方の祖父Sicyonの跡を継いで、Sicyonの町に住んでいた。Phliasの跡を継いだ息子がいたが、彼には娘Chthonophyleしかいなかったため、Phliusの町を継ぐ者がいなかった。
そこで、Melampusは、Ariadneの子Phlias (or Phliasus)をChthonophyleに婿入りさせたと推定される。[155]
Chthonophyleの伯父Polybusの娘Lysianassaの夫Talausの伯父は、Melampusであった。
つまり、Melampusは甥Talausの妻の従姉妹Chthonophyleの婿として、Phliasを紹介したと思われる。
また、PhliasとChthonophyleには血縁関係もあった。
Phliasの父Oenarusの父Otus (or Ephialtes)の父Aloeusの父は、Corinthの町の創建者Sisyphusの息子Aloeusであった。
Chthonophyleの父Sicyonの父Marathonの父Epopeusの父も、Sisyphusの子Aloeusであった。[156]
つまり、Ariadneの子Phliasが、Phliusの町を継承できたのは、彼がArasの親族であったからであった。

12.5 PhliusとNaxosの関係
Phliasの父Oenarusは、Boeotia地方のAnthedonの町からNaxos島へ移住した、Aloeusの子Otus、あるいは、彼の兄弟Ephialtesの息子であった。[157]
OtusとEphialtesは、当時、Strongyleと呼ばれていた島に移住して、島名をDia島と改名した。[158]
Diaは、女神Heraの娘Hebeの別名で、Phliusの町やSicyonの町で信奉されていた。[159]

12.6 Phliasの息子たちの時代
BC1243年、Phliasの子Dameonは、HeraclesのElis攻めに参加して、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[160]
その後、Dameonの兄弟Androdamasは、Sicyonの町へ移住したようである。[161]
Pausaniasは、HeracleidaeがPhliusの町にDoriansを連れて来る前のPhliusの町の住人は、Argivesであったと記している。[162]
恐らく、Phliusの町はArgosの町の支配下になったと思われる。

12.7 Heracleidaeの帰還
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、Argosの町とSicyonの町のDoriansを率いてPhliusの町へ遠征し、住民から受け入れられてPhliusの町の王となった。
Doriansとの共住に反対したPhliusの町の指導者Hippasusは、Samos島に移住した。[163]
また、Phliusの町の住人の一部は、Cleonaeansと共に、Asia Minorに渡り、Chios島の対岸の本土にClazomenaeの町を創建した。[164]

12.8 Samosへの移住
BC6世紀の哲学者Pythagorasの父Marmacusの父Hippasusの父Euthyphroの父Cleonymusは、Phliusの町からSamos島に移住した。[165]
Cleonymusの移住は、BC660年頃であった。

13 Sicyon
13.1 Aegialus (後のSicyon)の創建
BC1750年、Inachusの子Aegialeus (or Aezeius)は、Parnassus山近くのCephisus川上流からPeloponnesus半島へ北部の海岸地方に移住して、Aegialusの町を創建した。[166]
Aegialeusの兄弟Phoroneusは、さらに南に進んで、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[167]

13.2 Argosとの戦い
AegialeusとPhoroneusは兄弟であったが、お互いに戦った。
AegialeusとPhoroneusの戦いは、彼らの息子たちの世代まで続いた。Aegialeusの子Telchin (or Telchis)率いるTelchinesにはCaryatiiが味方し、Phoroneusの子ApisにはParrhasiansが味方した。[168]

13.3 Creteへの移住
BC1690年、TelchinはApisに敗れて、Telchinの子CresはCrete島へ移住した。[169]
Cresの後裔の一部は、Telchinesを率いて、Ophiussa島に渡り、島はTelchines(後のRhodes)島と呼ばれるようになった。[170]

13.4 Apisの支配
Apisは、SicyonとArgos、つまり、当時、Peloponnesus半島にあったすべての町を支配して、PeloponnesusはApisの名に因んでApiaと呼ばれるようになった。[171]
Peloponnesusには梨(Apia)が多くあったからApiaと呼ばれたとも伝えられるが、Apisの名に因むApiaから梨の名前になったと思われる。[172]
Apisは、25年間、Sicyonの町を支配したが、ThelxionとTelchisに謀殺された。[173]

13.5 Argosからの亡命
BC1430年、Plemnaeusの子Orthopolisの時代に、DanausがEgyptからArgosの町へ移住して来た。[174]
Danausによって、Argosの町を追われたSthenelasの子GelanorがSicyonの町へ亡命して来た。[175]

13.6 Argosへの帰還
BC1408年、Danausの跡を継いだLynceusが死ぬと、Gelanorの子LamedonはSicyonの町のOrthopolisの協力を得て、Argosの町を占領した。[176]
Lynceusの跡を継いだ彼の息子Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[177]

13.7 Argosとの戦い
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町からLamedonを追い出した。[178]
Sicyonの町のOrthopolisは、Lamedonに味方して、Archanderと戦った。Archanderに味方したのは、Locris地方のDeucalionの子MarathoniusやThessaly地方のAeolusの子Sisyphusであった。[179]

13.8 戦いの結果
Orthopolisは、彼の娘Chrysortheの婿として、Deucalionの子Marathoniusを迎えることで和睦した。Aeolusの子Sisyphusは、Sicyonの町の東隣にEphyra(後のCorinth)の町を創建した。[180]
Phocis地方へ逃れていたLynceusの子Abasは、Argosの町へ帰還した。

13.9 Ephyra (Corinth)の支配
BC2世紀の年代記作者Castorは、Sicyon王の系譜を伝えている。Castorは、Sicyonの町は、Orthopolis、Marathonius, Marathus, Echyreus, Corax, Epopeus, Laomedon、そして、Marathonの子Sicyonへと順に継承されたと伝えている。
しかし、Pausaniasは、Sicyonの町の支配権がAloeus, Epopeus, Marathonへと順に継承されたと伝えている。[181]
Castorによれば、OrthopolisとSicyonの間の王たちの統治期間の合計は、210年である。[182]
しかし、系図を作成すると、OrthopolisとSicyonの間の生年差は、110年しかなく、CastorのSicyon王の系譜は信用できない。
Sicyon王の系譜については、Pausaniasの記述が信用できる。
Orthopolisの後、Marathonの子Sicyonまでは、Sicyonの町に住んでいたAloeusの後裔が、Corinthの町をも支配していた。[183]

13.10 Chrysortheの結婚
Pausaniasは、Orthopolisの娘ChrysortheがApolloとの間に息子Coronusを産んだと伝えている。[184]
このApolloは、Corinthの町の創建者Sisyphusの子Thersanderであり、Coronusは、Boeotia地方に住むSisyphusの兄弟Athamasの養子になった。[185]

13.11 Orthopolisの後のSicyon
Argosの町との戦いに敗れた後、Sicyonの町の支配者は、Corinthの町に住むAeolusの子Sisyphusの子Aloeusになった。
Aloeusの跡を、彼の息子Epopeusが継いだ。[186]
EpopeusはSicyonの町に住み、Corinthの町をも支配していた。[187]

13.12 Epopeusの妻Metope
13.12.1 Metopeの系譜
Thebesの町のすぐ東側を南から北へ流れるIsmenus川の名付け親は、Meliaの子Ismenusであり、それ以前は、Ladon川と呼ばれていた。[188]
また、Phlius地方のAsopus河神はLadonの娘Metopeと結婚し、Boeotia地方の川の名親となった息子Ismenusが生まれた。[189]
Ladonの娘Metope (or Melia)には、もう一人の息子Tenerus (or Pelasgus, Pelagon)がいた。[190]
Tenerusは、祖父Ladonから予言術を授けられて、Copais湖の東方Ptous山に神託所を開設した。[191]
Thebes攻め時代のThebesの町の予言者Everesの子Teiresiasは、Cadmus時代のSpartiの一人Udaeusの後裔であった。[192]
また、Thebesの町で、Amphitryonの妻Alcmenaの出産に立ち会ったTeiresiasの娘Historisも、予言者であった。彼女の父Teiresiasは、Everesの息子ではなく、Metopeの子Tenerusの息子と思われる。[193]
以上のことから、Metopeの父Ladonは、Everesの子Teiresiasの先祖であり、Ladonの父は、Cadmusと共にCadmeiaに住み着いたSpartiの一人Udaeusと推定される。[194]

13.12.2 Metopeの夫
Metopeの夫は、つぎの理由からEpopeusと推定される。

1) Metopeの夫は、Phlius地方からSicyonの町に流れ込むAsopus川の河神であった。Metopeの結婚適齢期にSicyonの町を支配していたのは、Aloeusの子Epopeusであった。
Epopeusは、Asopus河神であり、Metopeの夫と推定される。[195]

2) Metopeの息子Ismenusは、Epopeusが住んでいたPhlius地方からBoeotia地方へ移住して、Ismenus川の近くに定住した。[196]

3) Epopeusの娘Harpina (or Harpine)は、Arcadia地方西部のHeraeaの町に嫁いだが、その町の近くを流れる川の名前はLadonであった。[197]
つまり、Harpinaが嫁ぎ先の美しい川に、彼女の母Metopeの故郷の川と同じ名前を付けたと推定される。

13.13 EpopeusとAntiopeについて
13.13.1 史料出現
Homerの作品に、AmphionとZethusの母としてAntiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[198]
Herodotusの著作には、AntiopeもEpopeusも登場しない。
Apollonius of Rhodesの著作には、AmphionとZethusの母としてAntiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[199]
年代記作者CastorやJeromeの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[200]
Diodorusの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[201]
Hyginusの著作には、Epopeusではなく、Antiopeと結婚して、Lycusに殺されるEpaphusが登場する。[202]
Apollodorosの著作には、AntiopeがSicyonの町のEpopeusのもとへ逃れて結婚し、Thebesの町のLycusがSicyonの町を攻めて、Epopeusを殺したと伝えている。[203]
Isaac Newtonは、Pausaniasと同じように伝えている。[204]

13.13.2 Pausaniasの記述
Pausaniasは、Sicyonの町のEpopeusと彼の子Marathonについて、つぎのように記している。
Corinth王Bunusが死ぬと、Sicyon王EpopeusがCorinthの町をも支配した。[205]
EpopeusがAntiopeを誘拐したので、ThebansはSicyonの町へ攻め込んだ。Nycteusはこの時負傷したが、Epopeusは負傷したが、勝利した。
Nycteusは負傷者し、死に臨んで兄弟のLycusに復讐を頼んだ。
Antiopeは、Thebansによって、Thebesの町まで連れて行かれる途中でAmphionとZethusを産んだ。[206]
Heliusの子Aloeusの子Epopeusの子Marathonが、父の無法と横暴を逃れてAttica地方の海沿いの地へ移住した。そして、Epopeusが死ぬとMarathonは、彼の息子たちに王国を分け与え、再びAttica地方へ帰った。[207]
EpopeusとAntiopeの伝承は、意図的に、Thebesの町の基礎を築いたAmphionとZethusをSicyonの町に結び付けようとしているようである。

13.14 EpopeusとThessaly
Pausaniasは、「EpopeusがThessalyから来て王国を獲得した」と伝えている。[208]
系図を作成すると、同じ頃に、Thessaly地方のArneの町に、ItalyからAeolusの娘Melanippeの子Boeotusが帰還している。[209]
Epopeusは、Aeolusの娘Canaceの息子であり、Boeotusと同じく、Arneの町のAeolusの孫であった。[210]
恐らく、Epopeusは、Aeolusの跡継ぎとしてArneの町で育ち、Boeotusが帰って来たために、ThessalyからSicyonの町へ戻ったものと思われる。

13.15 Atticaからの移住
BC1321年、Epopeusが死ぬと、彼の息子Marathonは、Attica地方からSicyonの町に戻り、Sicyonの町とCorinthの町を継承した。
Marathonの2人の息子たち、SicyonとCorinthusは、Asopiaの町とEphyraeaの町を分け与えられて、それぞれの町は、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[211]
Marathonの妻は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[212]

13.16 Teneaからの移住
BC1276年、Marathonの子Sicyonの跡を、彼の娘Chthonophyleの子Polybusが継いだ。[213]
Polybusは、Corinth地方のTeneaの町に住んでいたが、町を彼の養子Oedipusに任せて、Sicyonの町へ移住した。[214]

13.17 Argosへの嫁入り
BC1263年、Polybusの娘Lysianassaは、Argosの町のBiasの子Talausのもとへ嫁ぎ、息子Adrastusが生まれた。

13.18 Talausの子Adrastus
BC1247年、Argosの町のTalausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命して来た。[215]
Polybusは、Adrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[216]
BC1236年、Polybusが死に、Polybusの娘婿Adrastusは、Sicyonの町の人々から招かれて、町を治めた。[217]
BC1232年、Adrastusは、Sicyonの町に4年間住んだ後で、Argosの町へ帰還した。[218]

13.19 Adrastus後のSicyon
Adrastusが去った後のSicyon王の系譜は、2通り存在する。

13.19.1 Castorの記述
Adrastusの跡をPolypheides、Pelasgus、Zeuxippusが王になり、その後、Apollo Carneiusの司祭がSicyonの町を支配した。[219]
Castorは、3人の王の統治期間の合計を82年とし、BC1150年からDorinasの支配が始まったように伝えている。

13.19.2 Pausaniasの記述
Adrastusの後にIaniscus、Phaestus、Zeuxippus、Hippolytus、Lacestadesが王になった。Lacestadesの時代に、Temenusの子Phalcesに攻められたが、LacestadesもHeracleidaeの一人であったので、共住したという。[220]
Pausaniasは、PhaestusをHeraclesの息子だと記しているが、それであれば、Mycenaeの町のEurystheusに追い出されない訳がない。Phaestusは、母の名前も不明であり、Heraclesの息子ではないと思われる。[221]
Castorは、史料からAdrastus以降のSicyon王を見つけ出して、系譜を作成したが、2人くらい抜けていたようである。
Pausaniasは、Sicyon王の系譜や事績を記した史料に基づいての記述と思われ、信用できる。
Dorinasの支配になってからは、王の支配ではなく、司祭がSicyonの町を支配した。[222]
Dorinasの支配になったのは、BC1109年であった。
Sicyon王の統治期間を、Castorの年代記は、959年、Jeromeの年代記は、962年、Suda辞典は、981年であったと記している。[223]
しかし、実際は、BC1750年からBC1109年までの641年間であった。

14 Tenea
14.1 Teneaの創建
Teneaの町の最初の住人は、Phliasの子Polybusであった。[224]
Polybusの母は、Sicyonの娘Chthonophyleであることから、Phliasの父方がCorinthの町の系譜に繋がっていたと思われる。
したがって、Teneaの町の創建者は、Polybus本人か、彼の父方の先祖と推定される。

14.2 Thebesからの移住
BC1286年、Laiusの子Oedipusが、Polybusの養子になって、Thebesの町からTeneaの町へ移住して来た。[225]
恐らく、Polybusの妻Periboeaは、Laiusの娘であり、跡継ぎがないPolybusが妻の弟を養子に迎えたものと思われる。[226]

14.3 Sicyonへの移住
BC1276年、Polybusは祖父の跡を継いでSicyon王になり、Corinth地方のTeneaの町からSicyonの町へ移住した。[227]
Oedipusは、Polybusの跡を継いでTeneaの町を治めた。

14.4 Thebesへの移住
BC1238年、Boeotia地方でSphinxの反乱が起こり、Oedipusは、Corinthiansを率いて反乱を鎮圧して、Thebesの町へ帰還した。[228]

14.5 Tenedosからの移住
OedipusのThebesへの移住には、Teneaの町の住人も同行したと思われる。
彼らが去った後、Teneaの町は、西隣のCleonaeの町のAtreusに支配下になったと推定される。
BC1188年、Atreusの孫Agamemnonは、Troy沖のTenedos島の住民をTeneaの町に住まわせた。[229]
このとき、町の名前が、Tenedos島の支配者Cycnus (or Cygnus)の子Tenes (or Tennes)に因んで、Teneaと名付けられた。[230]

14.6 Sicilyへの移住
BC733年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasは、Sicily島南東部へ移住してSicelsを追い出してSyracuseの町を創建した。[231]
Archiasが率いた移民のほとんどは、Teneaの町の住人であった。[232]
つまり、Syracuseの町の初期の住人は、Trojansであった。

15 Tiryns
15.1 Tirynsの創建
BC1645年、Niobeの子Argusの子Tirynsは、Argosの町から南東方向の海に近いところにTirynsの町を創建した。[233]
BC1610年、Tirynsの兄弟Peirasは、Argosの町のHera神殿を創建し、そこに安置するHera神像は、Tirynsの町に自生していた梨の樹から作った。[234]
このとき、Tirynsの町はArgosの町の支配下にあった。

15.2 Tirynsの居住者の変遷
BC1387年、Abasの子ProetusはArgosの町からAcrisiusを追放して、Tirynsの町はProetusの支配下に入った。[235]
BC1370年、Abasの子AcrisiusがArgosの町からProetusを追放して、Tirynsの町はAcrisiusの支配下に入った。[236]
BC1368年、Proetusは、彼の妻Steneboeaの父Amphianaxの援助を得て、Tirynsの町を占拠した。[237]
その後、ProetusとAcrisiusは戦い、Tirynsの町はProetusの支配下に入った。[238]
ProetusはLycia地方からCyclopesを招いてTirynsの町の城壁を強化した。[239]
BC1343年、Acrisiusの孫Perseusは、Proetusを殺害して、Seriphus島へ逃れた。[240]
BC1339年、Acrisiusが死に、Proetusの子Megapenthesは、Tirynsの町からArgosの町へ移り住んだ。[241]

15.3 Perseusと彼の後裔の居住
BC1334年、Perseusは、Seriphus島から帰還して、Tirynsの町を占拠した。[242]
BC1330年、PerseusはMycenaeの町を創建して、Tirynsの町にはPerseusの子Alcaeusが住んだ。[243]
Alcaeusの死後、彼の息子AmphitryonがTirynsの町を継承した。
BC1287年、Amphitryonは、Arcadia地方のPheneusの町のGuneusの娘Laonomeを妻に迎えて、息子Iphiclesが生まれた。[244]
BC1278年、Amphitryonは、Thebesの町のSpartiから招かれて、Tirynsの町からThebesの町へ移住した。[245]
BC1251年、Amphitryonの子Heraclesは、Thebesの町からTirynsの町へ移住した。 [246]
BC1243年、HeraclesはTirynsの町からArcadia地方のPheneusの町へ移住した。[247]

15.4 Rhodesへの移住
BC1215年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeがPeloponnesusに帰還するが、翌年、Attica地方のTricorythusの町へ撤収した。[248]
Peloponnesusに残留していたHeraclesの母Alcmenaの兄弟Licymniusは死に、Heraclesの子TlepolemusはTirynthiansを率いて、Rhodes島へ移住した。[249]
Tirynsの町のAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていたことから、Licymniusの墓は、そこにあったと推定される。[250]
Homerは、TirynthiansがMycenaeansではなく、Argivesの指揮下にTroyに遠征したと伝えている。[251]
しかし、Perseusの時代からTirynsの町は、Argosの町の支配下になったことはなく、Mycenaeansの町として記されるべきである。

15.5 Tirynsの滅亡
BC468年、Tirynsの町は、Mycenaeの町と共にArgosの町に滅ぼされた。[252]
Tirynthiansは、Epidaurusの町や、Argolis湾入り口東側のHalieisの町へ移住した。[253]

16 Troezen
16.1 Troezenの創建
BC1430年、Danausと共に、EgyptからGreeceに移住して来たOrusは、Argolis地方の南東部に定住し、その地方はOraeaと呼ばれるようになった。[254]
その後、Orusの娘Leisの子Althepus、Saron、Alcyoneの2人の息子たち、HyperesとAnthas、Anthasの子Aetiusが町を支配した。
Aetiusの時代に、Pelopsの2人の息子たち、PittheusとTroezenは、Pisaの町からAetiusのもとへ移住して来て、彼と共住した。[255]
Pittheusは人々を集めて町を作り、彼の兄弟の名前に因んで、その町をTroezenと名付けた。[256]
PittheusがTroezenの町を創建したのは、BC1285年と推定される。[257]

16.2 Atticaからの亡命
BC1264年、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されたPandionの養子Aegeusは、Troezenの町のPittheusのもとへ亡命した。[258]
Pittheusは、Aegeusの2人目の妻Chalciopeの父Chalcodonの兄弟Canethusの妻Heniocheの父であった。つまり、Aegeusは妻Chalciopeを通して、義姉弟の父Pittheusを頼ったものと思われる。[259]
また、Megaraの町のAlcathousが、自分の兄弟Pittheusを紹介したのかもしれない。[260]
BC1263年、AegeusとPittheusの娘Aethraとの間に、息子Theseusが誕生した。[261]
Aegeusは、当時55歳と推定され、AegeusとAethraとは正式な結婚ではなかったと思われる。[262]

16.3 Atticaへの移住
BC1262年、Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得てAthensの町へ帰還した。[263]
Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusは、Attica地方にAnaphlystusの町とSphettusの町を創建した。[264]
BC1256年、Aegeusの子Theseusは、Troezenの町のPittheusの屋敷で、Pittheusを訪問したHeraclesを見た。[265]
Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Nicippeの兄弟であった。
BC1247年、Theseusは、Troezenの町からAthensの町へ移住した。[266]
Theseusは、Pittheusの跡継ぎとして、Troezenの町に住んでいたが、Aegeusに跡継ぎがいなくなって、TheseusがAthensの町へ呼び寄せられたと推定される。

16.4 Athensからの移住
BC1241年、Theseusは自分の代わりに、Antiopeから生まれた息子HippolytusをPittheusの跡継ぎにするためにTroezenの町へ送った。[267]
Hippolytusは、戦車の手綱が野生オリーブ樹に引っ掛かって、戦車が転覆して死んだと伝えられている。[268]
しかし、Hippolytusは、Argosの町のDiomedesと共にEpigoniに参加して戦死したと思われる。[269]
HippolytusとDiomedesとは同世代であり、Troezenの町には、Diomedesが創建したHippolytusの神苑があった。

16.5 Asia Minorへの植民
BC1070年、Alcyoneの子Anthasの子Aetiusの後裔Anthesは、Troezenの町から移民団を率いてCaria地方へ移住して、Halicarnassusの町とMyndusの町を創建した。[270]
Anthesの移民団は、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesが率いた移民団に含まれていた。[271]
Althaemenesの移民団はRhodes島に居を定めた後で、HalicarnassusやCnidus、Cosに分散した。[272]

おわり