1 はじめに
Egyptから左回りに、Iberiaまで、つぎの順序で記述する。
Egypt、Asia、黒海周辺、Thracia、Macedonia、Illyria、Thesprotia、Molossia、Iberia。
但し、Anatolia半島を除く。
Italyについては、「Italyへの移住」に記述している。
IoniaやAeolisへの植民時代は、「Asia Minor植民」に記述している。
Anatolia半島については、「Anatolia半島の青銅器時代の歴史」に記述している。
2 Egypt
2.1 Thebesの創建
BC1580年、Ectenesの一部はOgygusに率いられてBoeotia地方からEgyptへ移住し、Thebesの町を創建した。[1]
町の名前は、Ogygusの娘Thebeに因んで名付けられた。[2]
このThebesの町は、上EgyptのThebes(現在のLuxor)ではなく、NileDeltaにあり、Cadmusが住んでいた町と思われる。[3]
Thebeの父Ogygusは、大洪水があった時代のOgygusの後裔であった。[4]
2.2 Saisの創建
BC1580年、Ogygusと共にEgyptへ移住した、Telegonusの父は、Saisの町を創建した。[5]
Telegonusは、Argosの町からEgyptへ移住して来たIasusの娘Ioと結婚して、第2代Athens王となるCranausが生まれた。[6]
初代Athens王Cecropsは、Telegonusの兄弟であった。[7]
2.3 Athensへの移住
BC1562年、Cecropsは、Saisの町からAttica地方へ移住して、初代Athens王になった。[8]
Cecropsが率いて来た人々は、Cecropsが子供の頃にBoeotia地方からEgyptへ移住した人々の子供たちであった。
Cecropsは、幼い頃に覚えたギリシア語の他に、移住先で覚えた言葉も話した。
Cecropsに付けられたDiphyes(two-formed)という呼び名は、「2つの言葉を話す」という意味であった。[9]
BC1525年、Cranausは、Saisの町からAttica地方へ移住した。[10]
Herodotusは、古い時代のAtheniansはPelasgiansであり、その頃は、Cranaansという名前で呼ばれていたと記している。[11]
Iasusの娘Ioと共に、Argosの町からEgyptへ移住したPelasgiansが、Ioの子Cranausと共にAthensの町へ移住した。
BC1492年、Cranausの孫Erichthoniusは、Saisの町からAthensの町へ移住して、Amphictyonを追放して第4代Athens王に即位した。[12]
2.4 Argosからの移住
BC1560年、Triopasの子Iasusは、移民団を率いて、Argosの町からEgyptへ移住した。[13]
Iasusの娘Ioは、Saisの町のTelegonusと結婚して、Epaphusが生まれた。[14]
2.5 Memphisの創建
BC1535年、Telegonusの子Epaphusは、Saisの町からNileDeltaより上流へ移住して、Memphisの町を創建した。[15]
2.6 Greeceへの移住
BC1430年、NileDeltaに住むGreece系移民は、第18王朝のファラオThutmose IIIによって圧迫されて、Egyptから脱出した。[16]
詳細については、「Greece系移民のEgypt脱出」に記述している。
2.7 Rhodesからの移住
BC1415年、Rhodosの子Auges (or Actis, Actics, Atlas)は、Rhodes島からEgyptへ移住して、Heliopolisの町を創建した。[17]
Augesは、Maceris (Egyptian Heracles、または、Phoenician Heracles)に星の知識を伝授した。[18]
2.8 Argosからの移住
BC1402年、Achaeusの子Archanderは、Argosの町からEgyptへ移住して、NileDeltaにArchandropolisの町を創建した。[19]
その町から北東へ約40kmの所に、Archanderの妻であるDanausの娘Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町があった。[20]
Archanderには、Thessaly地方で結婚したCyreneと息子Aristaeusも同行した。[21]
2.9 Ethiopiaへの移住
BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのArchandropolisの町の住人を率いてArchanderの子Belusは、Anatolia半島北西部のAesepus川の河口付近へ移住した。[22]
Belusの入植地はEthiopia、そこに住む人々はEthiopiansと呼ばれた。[23]
Belusの移民団には、Corinthの町からColchis地方へ移住したAeetes、Athensの町からThracia地方へ移住したBoreas、Eleusisの町からThracia地方へ移住したCeryxの移民団も同行していた。
Belusと共にEgyptを出発した人々の一部は、Colchis地方へも入植しており、BelusとAeetesが行動を共にしていたことを証明している。[24]
2.10 Sardiniaへの移住
BC1390年、大津波で被災したNileDeltaのCanopusの町の住人を率いてMacerisの子Sardusは、Sardinia島へ移住した。[25]
Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、その付近がSardusの移住先であったと思われる。[26]
2.11 Argosからの移住
BC1387年、Lynceusの子Abasの死後、Abasの子Proetusは、双子の兄弟AcrisiusをArgosの町から追放した。[27]
AcrisiusとProetusは、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、彼らの支持者による争いであった。
AcrisiusはArgosの町からEgyptへ移住した。
Egyptには、Acrisiusの父Abasの後見人であったAchaeusの子Archanderが15年前へ移住していた。
Archanderが建設したArchandropolisの町は大津波で被災しており、Acrisiusが住んでいたのは、Chemmisの町があった。[28]
Acrisiusは、ArchanderとScaeaとの娘と推定されるAganippeと結婚し、娘Danaeが生まれた。[29]
2.12 Sardiniaへの移住
BC1372年、Cyreneの子Aristaeusは、EgyptからSardinia島へ移住した。[30]
Aristaeusは、Sardinia島の南部にCaralisの町を創建した。[31]
Caralisの町は、少し前に入植したSardusの居住地の近くであった。
2.13 Argosへの移住
BC1370年、AcrisiusはEgyptからArgosの町へ帰って、Proetusを追放した。[32]
Acrisiusの妻Aganippeと、彼らの娘DanaeはEgyptのChemmisの町に残り、DanaeにはPerseusが生まれた。[33]
2.14 Argosへの移住
BC1349年、後継ぎのないAcrisiusは、Egyptに住むDanaeの息子Perseusを自身の後継者とするためにArgosの町に連れ帰った。Perseusは、母Danaeのもとから無理やり連れ去られたという伝承もあるが、DanaeにはDaunusという息子もいた。[34]
2.15 Italyへの移住
BC1341年、Acrisiusの娘Danaeは、Egyptから植民団を率いてSardinia島へ向かう途中で暴風に遭ってItaly半島西海岸に漂着し、Ardeaの町を建設した。[35]
Danaeの子DaunusがArdeaの町を継承した。[36]
BC1182年、Aeneasと戦って死んだRutuliの首領TurnusはDaunusの後裔であった。[37]
3 Asia (Anatolia半島を除く)
3.1 EgyptからTyreへの嫁入り
BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensの町への旅の途中で、あるいは、それ以前に、Phoenicia地方のTyreの町に嫁いだ。[38]
3.2 EgyptからTyreへの移住
BC1430年、Agenorの子Phoenixは、EgyptのThebesの町からPhoenicia地方のTyreの町へ移住した。[39]
Phoenixは、移住より前に、Oeneusの娘Perimedeを妻に迎えていた。[40]
Oeneusは、Tyreの町に嫁いだCecropsの娘Herseの曾孫と思われる。[41]
3.3 EgyptからSidonへの移住
BC1430年、Libyaの子Agenorは、EgyptのThebesの町からPhoenicia地方のSidonの町へ移住した。[42]
移住の原因は、Danausと同じく、Egypt王朝からの圧迫であったと思われる。
Agenorが移住先としてSidonの町を選んだのは、彼の息子Phoenixがその地方から妻Perimedeを迎えていたからであった。[43]
3.4 SidonからThraciaへの移住
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Sidonの町から移民団を率いて出航した。[44]
Cadmusの移民団に船を供出したのは、Tyreの町に住むHerseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousであった。Astynousは、息子Sandocusと共にCadmus率いる移民団をSamothrace島経由で、Thracia地方に送り届け、Tyreの町に戻った。[45]
Cadmusは、Thracia地方のChalcidice半島北側へ移住した。[46]
3.5 SidonからCalliste島への移住
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPoecilesの子Membliarusは、一部の人々と共にCalliste (後のThera)島に上陸して、その島に定住した。[47]
BC1099年、Autesionの子TherasはLacedaemonから移民団を率いて、Calliste島へ移住した。[48]
Cadmusの時代からTherasの時代までの間に、少なくとも2度、島の火山が噴火した。しかし、Membliarusと共に島に入植した人々の子孫は、生き延びていた。[49]
3.6 SidonからCreteへの嫁入り
3.6.1 Phoenixの娘Europa
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Tegeatesの子Cydonへ嫁いだ。Cydonは、BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住し、Cydoniaの町を創建していた。[50]
3.6.2 Phoenixの娘Astypalaea
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Apteraの町に住むAcmon (or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[51]
Astypalaeaは、Acmonと共にOlympiaへ移住し、その後、Rhodes島対岸のCaria地方へ移住した。[52]
Astypalaeaの子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[53]
4 黒海周辺 (Anatolia半島とThraciaを除く)
4.1 Colchisへの移住
BC1390年、大津波で被災したEphyraea (後のCorinth)の町からSisyphusの子Aeetesは、黒海東岸のColchis地方へ移住した。[54]
Aeetesは、黒海沿岸へ移住した最初のギリシア人であった。
4.2 Hyperboreansの地への移住
BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Hyperboreansの地へ移住した。[55]
Hyperboreansの住む島は、後に、Alexander the GreatがThracia地方に攻め寄せたときに、Triballiansが逃げ込んだ川中島であった。その島は、黒海西岸に注ぐIster(現在のDanube)川の7つの河口のうち、一番大きいSacred Mouthと呼ばれる河口から22km遡上した所にあった。その島は、周囲が崖になっていて、Peuce島という名前で呼ばれていた。[56]
Triballiansは、Alexander the Greatと友好関係を結んだ後も、島への上陸を許さなかった。[57]
4.3 Colchisへの移住
BC1360年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Colchis地方へ移住した。[58]
4.3.1 MinosとPasiphaeの遠距離婚
2人目のMinosは、Colchis地方のAeetesの姉妹Pasiphaeを妻に迎えた。[59]
Crete島とColchis地方は、1,600km以上離れている。
この2人の結婚は、つぎのようにして成立したと推定される。
Asteriosは、幼少期Crete島のAmnisosの町で育った。[60]
BC1390年、Asteriosは大津波で被災し、父Minosと共にTroad地方へ移住した。[61]
Asteriosは、Hellespontos海峡を通過するColchisの船が縁で、Colchis地方に住むAeetesの娘Chalciope (or Iophossa, Euenia)の娘と結婚して、Perseis (or Perse)が生まれた。[62]
Perseisは、Tauric Chersoneseに住むPhineusの息子と結婚して、Pasiphaeが生まれた。[63]
Phineusの父Belusは、Perseisの曽祖父Aeetesの移民団にいた人物であった。
2人目のMinosの妻Pasiphaeの母方の祖父Asteriosは、最初のMinosの息子であった。
Pasiphaeの兄弟Aeetesは、Colchis地方のCytaea (or Cyta)に住んでいた。[64]
4.3.2 黄金の国Colchis
AsteriosがColchis地方へ移住した時、Idaean Dactyliも同行した。彼らは、Troad地方のAbydusの町近くのAstyraで金の採掘をしていた。[65]
Colchis地方は金銀の産出量が多く、Argonautsの遠征の物語を生んだ。[66]
4.3.3 Asterios移住の影響
Asteriosの移住によって、Phrixusの3人の息子たち、Presbon、Melas、Cytissorusは、Colchis地方を去って、各地へ移住した。
後に、Sisyphusの子Aeetesの後裔MedeaがCorinthの町に迎えられているので、AsteriosとAeetesの孫たちとの間に戦いがあったとは思われない。[66-1]
恐らく、Phrixusの息子たちの移住は、周辺異民族との戦いが原因と思われる。
4.4 Boeotiaへの移住
BC1360年、Phrixusの子Presbonは兄弟Melasと共にColchis地方からBoeotia地方の祖父Athamasのもとへ移住した。[67]
Presbonの子Clymenusは、Minyasの子Orchomenusの跡を継いでMinyansの王になった。[68]
しかし、この王位継承はPresbonの次の世代の出来事であり、Presbonの移住の原因は、Minosの子AsteriosのColchis移住であったと推定される。[69]
4.5 Cytorusの創建
BC1360年、Phrixusの子Cytissorus (or Cylindrus, Cytisorus, Cytorus)は、Colchis地方から黒海南岸へ移住してCytorusの町を創建した。[75]
Phrixusは、Boeotia地方のAthamasの息子であったが、妻Chalciopeと共に、妻の父Aeetesの移民団に参加して、Colchis地方へ移住した。
4.6 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住
BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[70]
BC1325年、彼らの一人は、Colchis地方からPerseisを妻に迎えた。[71]
Perseisの子Persesは、父の跡を継いだ。[72]
Perseisの子Aeetesは、Colchis地方を継承した。[73]
Perseisの娘Pasiphaeは、Crete島のMinosのもとへ嫁いだ。[74]
4.7 Colchisへの遠征
BC1268年、Jasonは、Minyansと共にColchis地方へ遠征した。[76]
Jasonの叔父PeliasがOrchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、多くのMinyansがIolcusの町に移り住んだ。[77]
Phrixusの子PresbonがColchis地方からBoeotia地方へ帰った後も、Colchis地方との交流があったと思われる。Jasonの遠征は、Colchis地方への航路を知っていたMinyansが可能にしたと推定される。
この遠征で、Jasonは、Aeetesの娘Medeaと結婚した。[78]
Argonautsの遠征よりも20年前の出来事であった。
AD2世紀、Colchis地方を訪問したローマ帝国のCappadocia総督Arrianは、Argo船の錨を見せられたが、それ以外にJasonの航海の痕跡はなかったと伝えている。[79]
4.8 Sinopeへの移住
BC1260年、Thessaly地方のTriccaの町のDeimachusの子Autolycusは、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[80]
Autolycusは、BC1268年にJasonの遠征に参加して、その方面を知っていた。[81]
Autolycusは、Triccaの町の創建者、Peneiusの娘Triccaの子孫で、町の最初の住人は、Doriansであった。[82]
Autolycusは、Triccaの町の近くのOechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus (or Eilatus)の子Ischysに追い出されたと推定される。[83]
4.9 Sauromataeへの移住
BC1185年、Orchomenusの町のAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、Troyから故郷へ帰らずに、Sauromataeへ移住した。[84]
Sauromatiansは、Maeotis湖の周辺に住んでいた。[85]
Ialmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いていた。[86]
Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。
Presbonは、Colchis地方で生まれ、祖父の跡を継ぐためにBoeotia地方へ移住して来たが、その後、両地方の間で交流があったと思われる。[87]
Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の2人の息子たち、PersesとAeetesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)とColchis地方を支配していた。[88]
また、Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeは、Sauromatiansの王のもとへ嫁いでいた。[89]
Presbonの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。
5 Thracia
5.1 Phoeniciaからの移住
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Phoenicia地方のSidonの町からChalcidice半島北方へ移住した。Cadmusは、Pangaeus山付近で金鉱を発見した。[90]
Cadmusの母Telephassaは、その地で死んだ。[91]
5.2 Boeotiaへの移住
BC1420年、大津波に襲われたCadmusは、Boeotia地方へ移住してCadmeia (後のThebes)の町を創建した。[92]
5.3 Phocisへの移住
BC1420年、Strymon川流域のEdoniの一部がTereusに率いられて、Phocis地方のDaulis付近へ移住した。[93]
Tereusは、Dryasの子Lycurgusの息子であった。[94]
Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne (or Progne)と結婚した。[95]
5.4 Athensからの移住
BC1390年、大津波に襲われたAthensの町から、Boreasが移民団を率いて、Samothrace島対岸の内陸へ移住した。[96]
Boreasは、Hebrus (現在のMaritsa)川を遡上し、支流のRheginia (現在のErgene)川を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山のすそ野にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[97]
Boreasの居住地は、現在のTurkey北西部のIpsalaの町の近くであったと推定される。
5.5 Eleusisからの移住
BC1390年、Eumolpusの子Ceryxは、Boreasの移民団に参加して、Eleusisの町からThracia地方へ移住した。[98]
CeryxはBoreasの娘Chioneを娶り、息子Eumolpusが生まれた。[99]
5.6 Salmydessusの創建
BC1380年、Belusの子Phineusは、Cyzicusの町近くのEchiopiansの地から黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[100]
Belusは、Boreasと共に移民団を率いて航海し、Boreasと別れてAegean SeaからHellespontos海峡の奥へ侵入した。Belusは、Propotis海に入り、陸地を右に見て岸伝いに進み、Cyzicusの手前のAesepus川河口付近に入植した。[101]
Phineusは、Danaeの息子Perseusの妻Andromedaの父Cepheusの兄弟であった。[102]
Salmydessusの町は、Boreasの居住地を流れるRheginia川の源流近くにあった。
BC1370年、Boreasの娘Cleopatraは、Phineusに嫁いだ。[103]
5.7 Galepsusの創建
BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島から対岸の本土へ移住して、Galepsusの町を創建した。[104]
5.8 Eleusisへの移住
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子ImmaradusとAthensの町のErechtheusとの戦いがあった。[105]
Boreasの娘Chioneの子Eumolpusは、Thracia地方からEleusisの応援に駆け、そのまま、Eleusisに定住した。[106]
Eumolpusの父は、Boreasと共にThracia地方へ移住したEleusisの町のCeryxであった。[107]
5.9 Salmydessusから各地への移住
BC1350年、Phineusの息子たちが、Salmydessusの町から各地へ移住した。
1) Bithyniaへの移住
Phineusの子Bithynusは、Bithynia地方へ移住した。[108]
その地方は最初にBebrycia、その後、Mygdoniaと呼ばれていたが、Bithynusの名前に因んでBithyniaと呼ばれるようになった。[109]
2) Mariandyniaへの移住
Phineusの子Mariandynusは、Salmydessusの町からBithynia地方の黒海南岸へ移住した。[110]
そこの住人はMariandyniansと呼ばれるようになり、その地は、後にHeracleaの町になった。[111]
3) Paphlagoniaへの移住
Phineusの子Paphlagon (or Paphlagonus)は、Salmydessusの町からPaphlagonia地方へ移住した。[112]
4) Phrygiaへの移住
Phineusの子Thynusは、Salmydessusの町からPhrygia地方のAscania湖の南西のOlympus山付近へ移住した。[113]
そこの住人はThyniansと呼ばれるようになった。[114]
Thynusの母Idaeaは、Troyの始祖Dardanusの娘であり、Thynusの子Eioneusの子Cisseus(or Dymas)の娘Hecba(or Hecbe)は、TroyのPriamの妻であった。[115]
5.10 Tauric Chersonese (現在のCrimea半島)への移住
BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius (or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町から黒海北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[116]
5.11 Ethiopiaからの嫁入り
BC1332年、Belusの入植地Ethiopiaに住むBenthesicymeの娘Daeiraは、Thracia地方に住むChioneの子Eumolpusのもとへ嫁いだ。[117]
5.12 Chiosからの移住
BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThracia地方のIsmarusの町へ移住した。[118]
5.13 Maroneiaの創建
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、Ismarusの町の近くにMaroneiaの町を創建した。[119]
その後、Maronの子Macedonは、Macedonia地方へ移住した。[120]
6 Macedonia (Paeoniaを含む)
6.1 Thessalyからの移住
BC1350年、Aeolusの2人の息子たち、MagnesとMacedonは、Thessaly地方のArneの町からOlympus山近くへ移住した。Macedonは、Macedonia地方に住んだ最初のギリシア人であり、彼は、Macedoniaの名付け親になった。[121]
6.2 Methoneの創建
BC1330年、Magnesの子Methoneは、Olympus山近くからThermaic Gulf北西岸へ移住して、Methoneの町を創建した。[122]
但し、当時は集落程度で、Methoneの町と呼ばれるようになったのは、Eretriansが共住するようになってからと思われる。Eretriansは、Trojan War時代にCorcyra島に入植していたが、BC734年、Corinthiansによって島から追放された。Eretriansは、故郷のEuboea島のEretriaの町へ行ったが、上陸を阻止された。Thracia方面へ向かう途中、Methoneの町に住み着いた。[123]
6.3 Elisからの移住
BC1320年、Endymionの子Paeonは、Elisの町からPaeonia地方へ移住した。[124]
Paeonは、Methoneの父Magnesの父Aeolusの子Aethliusの子Endymionの息子であった。つまり、Paeonは、父の従兄弟Methoneを頼って移住したと思われる。
6.4 Europusの創建
BC1305年、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusは、Olympus山近くからLudias川とAxius川の間の土地(後のPellaの少し北)へ移住し、Europusの町を創建した。[125]
6.5 Pieriaの創建
BC1300年、Magnesの子Pierusは、Olympus山の北側にPieriaの町を創建した。[126]
6.6 MiezaとBeroeaの創建
BC1295年、Macedonia地方にMiezaの町とBeroeaの町が創建された。MiezaとBeroeaは、Aeolusの子Macedonの子Beresの娘たちの名前であった。[127]
6.7 Boeotiaへの移住
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusは、Pieriaの町からBoeotia地方のThespiaeの町へ移住した。[128]
Pierusは、Helicon山にムーサ諸女神の神域を造営して、ムーサ女神を9柱と定めた。[129]
Pierusは、有名な詩人Orpheusの祖父であった。[130]
6.8 Mygdonの入植
BC1244年、Mysia of Olympene地方に住んでいたMygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[131]
Mygdonと一緒にIdaean Dactyliも、Europeに渡り、Mygdonの後裔Midasの富を掘り出す技術者となった。[132]
Troyan War時、Mygdonの後裔は、Troyの援軍として戦いに参加した。[133]
BC490年、Paeoniansの一部(Siropaeonians, Paeoplians)は、Dariusの将Megabyzusによって、Asiaへ移住させられた。[134]
6.9 Creteからの移住
6.9.1 Bottonの入植地
BC1230年、Bottonを指導者とするCrete島の移民団がMacedonia地方に定住した。[135]
Bottonは、Athensの町からCrete島のMinosのもとへ亡命したDaedalusの息子であった。[136]
Bottonは、兄弟Iapyxと共へ移住先を探してCrete島を出航した。
Iapyxは、Italy半島東南部へ入植した。[137]
Bottonは、一部の人々を率いて、Macedonia地方へ移住した。[138]
Bottonの入植地は、Thermaic Gulfへ注ぐAxius川の西方、Haliacmon川の北方の土地であった。[139]
6.9.2 先住者
後のPellaの町の少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaとの息子Europusが創建したEuropusの町があった。[140]
Bottonの移民団には、Aegeusの時代にAthensの町からCrete島へ送られたAtheniansが含まれていた。[141]
また、Europusの町の住人には、Oreithyiaの嫁入りに伴って移住したAtheniansが含まれていた。
Bottonは、Europusの母Oreithyiaの父Cecropsの子Pandionの娘Merope (or Alcippe)の子Daedalusの息子であった。[142]
つまり、Europusは、Bottonの祖母の従兄妹であった。
6.9.3 その後
Bottonの入植地はBottiaea地方、そこの住人はBottiaeansと呼ばれるようになった。[143]
BC6世紀頃、Bottiaeansは、勢力を増したArgeadaeに追われてChalcidiansの地に隣接した土地へ移住した。[144]
Bottiaeansは、Bithynia地方のAscania湖東岸に入植して、Ancoreの町を創建した。[145]
6.10 Thraciaへの移住
Strymon川流域に住むPaeoniansはPropontis海の北岸へ遠征してPerinthusの町を攻略した。[146]
Perinthusの町は、Samos島を追い出されて、Samothrace島へ逃れたSamiansの一部が、BC1060年に創建した町であった。[147]
このPaeoniansは、Mysia of OlympeneからPaeonia地方へ移住したMygdonの後裔と推定される。Perinthusの町は、昔、Mygdoniaと呼ばれていた。[148]
このPaeoniansの遠征は、Perinthusの創建からDarius Iの時代までの間の出来事であった。[149]
6.11 Caranusの入植
BC750年、Pheidonの子Caranusは、Argosから移民団を率いて、Mt. Bermius近くのEdessa (後のAegeae)と呼ばれていた土地へ移住した。[150]
CaranusがMt. Bermius近くを移住先に選んだのは、初めて度量衡を定めたPheidonの銀貨鋳造の影響があったと思われる。[151]
Mt. Bermiusには、Midasの富を生んだ鉱床があった。[152]
また、少し離れたPaeonia地方では、土地を耕していても金塊が見つるほどであった。[153]
Caranusは、近隣の土地に先住していたCisseusと戦って勝利した。[154]
このCisseusは、Iliadに登場するIphidamasの母方の祖父Cisseusの後裔と推定される。[155]
先祖のCisseusは、Macedonia地方に住んでいた。[156]
6.12 Pieriaへの進出
Caranusの後裔は、Pieria地方の先住民を追い出した。追い出されたPieriansは、Strymon川を越えてMt. Pangaeus付近へ移住した。[157]
6.13 Phrygiaへの移住 (Midas)
BC670年、Caranusの子Coenusの子Tirimmusの子Perdicasは、近隣の土地に先住していたGordiasの子Midasを追放した。MidasはBrigesを率いて、Phrygia地方へ移住した。[158]
7 Illyria
7.1 Boeotiaからの移住
BC1390年、Encheleansは、Boeotia地方のCopais湖付近からIllyria地方に入植した。[159]
Encheleansの居住地は、後のEpidamnosの町から北北西へ陸路で3日行程のRizous川の近くであった。[160]
Encheleansは、BC1420年にCadmusと共にPhoenicia地方からBoeotia地方へ移住して来た人々であった。
Encheleansの再移住は、Thessaly地方から移住して来たAeolusの子Athamasによって圧迫されたのが原因と思われる。[161]
Encheleansの名前は、Copais湖のウナギから名付けられた。[162]
7.2 Cadmeiaからの移住
BC1390年、Cadmusは、Boeotia地方のCadmeiaの町からIllyria地方へ移住した。彼より先に移住したEncheleansがCadmusに移住を求めたものであった。[163]
Cadmusは、Illyria地方のButoe (or Buthoe, now Budva)で死に、彼の妻Harmoniaと共にRizous川の近くに葬られた。[164]
7.3 Thebesからの移住
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、Thebesの町からIllyria地方のEncheleansのもとへ移住した。[165]
Laodamasは、EpigoniのThebes攻めに敗れて、Polyneicesの子ThersanderにThebesの町を明け渡した。[166]
8 Thesprotia
8.1 Thessalyからの移住
BC1480年、Pelasgiansは、Thessaly地方のScotussaの町の近くにあったZeusの神託所をThesprotia地方へ移した。[167]
Haemonの子Thessalusは、DodonaにZeusの神託所や神殿を造営した。[168]
神託所の引越しには、Scotussaの町の女人たちが同行した。Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[169]
Thessalusの父Haemonの父Pelasgusの母は、Argosの町からThessaly地方へ移住したTriopasの子Pelasgusの娘Larisaであった。[170]
8.2 Thessalyからの移住
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Pelasgiansの大部分は、Dodona周辺に住み着いた。[171]
Dodona周辺に住んでいた人々は、Thessaly地方から逃れて来たPelasgiansを同族として受け入れた。[172]
8.3 Ephyraの創建
BC1390年にThessaly地方からDodona周辺へ移住した人々の中に、Thessaly地方のEphyra (後のCrannon)の町の創建者Crannonの後裔であるLycaonの子Thesprotusがいた。Thesprotusは、Dodonaの南西の海の近くにEphyraの町を創建し、彼の一族は、Thesprotiansと呼ばれた。[173]
8.4 Ambraciaの創建
BC1385年、Thesprotusの子Ambraxは、Ephyraの町からAmbracia湾の北側へ移住して、Ambraciaの町を創建した。[174]
8.5 Eleusisへの援軍
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子ImmaradusとAthens王Erechtheusとの戦いが起きた。[175]
その戦いに、Scirusは、DodonaからEleusisの町の応援に駆け付けて、戦死した。[176]
Scirusは、Thessaly地方からDodona周辺へ移住したPelasgianと推定される。[177]
8.6 Thessalyからの移住
BC1246年、Aeanianiansは、Ixionの子Peirithous率いるLapithsに追われて、Dotiumから各地へ移住した。[178]
Aeanianiansの一部はPeneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。
その後、彼らは、Molossia地方のAuas川付近へ移住して、Parauaeiと呼ばれるようになった。[179]
Lapithsに追われたCentaursの一部は、Peneius川源流のAethicesの地方へ移住したとも伝えられることから、CentaursはAeanianiansの支族と推定される。[180]
8.7 HeraclesのEphyra遠征
BC1237年、HeraclesはThesprotia地方へ遠征して、Ephyraの町を占領した。[181]
Heraclesの遠征に参加したJasonの子Pheresは、Ephyraの町に住んだ。[182]
Odysseusが、Ephyraの町を訪問したとき、Pheresの子Mermerusの子Ilusが町を治めていた。[183]
8.8 Italyからの移住
BC1200年、Italy半島北東部のRavennaの町に住んでいたPelasgiansは、Tyrrheniansに追われてThesprotia地方へ移住した。[184]
彼らは、BC1390年にThessaly地方からRavennaの町へ移住した人々の後裔であった。[185]
8.9 Thessalyへの移住
BC1186年、Heraclesの後裔に率いられたThesprotiansがThessaly地方に攻め込んだ。[186]
AchaeansやPerrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[187]
Perrhaebians、Magnesiansは、penestae(農奴)としてThesprotiansに従属して住み続けた。[188]
Phociansは、ThesprotiansがThessaly地方から侵入するのを防ぐために城壁を造った。[189]
9 Molossia (Epirus)
9.1 ThessalyやTroadからの移住
BC1186年、NeoptolemusはTroyからThessaly地方へ帰らずにMolossiansの地へ移住した。[190]
Neoptolemusには、Priamの子Helenus、Hectorの妻Andromache、それにHectorの息子たちがTroad地方から同行した。[191]
Neoptolemusの居住地は、Dodona北東の湖(現在のPamvotis湖)近くのIoannina平原であった。[192]
Neoptolemusと共にPriamの子ChaonもTrojansを率いてMolossiansの地へ移住した。彼らの集団は、Chaoniansと呼ばれた。[192-1]
Chaoniansは、Epeirotesの14種族の一つで、Molossiansと共に大勢力であった。[192-2]
BC167年、Rome軍によって、Neoptolemusと共へ移住したMyrmidonsの後裔が住む町は略奪され、住民は奴隷として売られた。[193]
9.2 Troadへの移住
BC1170年、Hectorの息子たちが成人すると、Priamの子Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。Hectorの息子たちは、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。[194]
この時、多くのTrojansがAsia Minorへ移住した結果、ChaoniansがMolossiansより勢力が弱くなった。Straboは、最初、ChaoniansがMolossiansより勢力が強かったが、後に、Molossiansの方が勢力を強くなったと述べている。[194-1]
9.3 Asia Minorへの移住
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にEpirusからAsia Minorへ移住してPergamonの町を創建した。[195]
10 Iberia
10.1 Heracleiaの創建
BC1400年、Macerisは、EgyptのCanopusの町から地中海の西の外れへ移住して、Heracleia(後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建した。[196]
Heracleiaの町の近くにあるCalpe山は、Pillars of Herculesの北の柱である。[197]
Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれ、Heracleiaの町で死んだ。[198]
10.2 Sardiniaへの移住
BC1240年、Geryones (or Geryon)の娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住して、島の南端に最古の町Nora (現在のPula岬付近)を創建した。[199]
Noraxは、Macerisの後裔であったと推定される。[200]
Noraxの出身は、Heracleiaの町の北西のBaetis (古くはTartessus、現在のGuadalquivir)川を中心としたTartessus地方であった。[201]
Baetis川の河口付近のGadeira (現在のCadiz)の町および向かい合う島はまとめてErytheiaと呼ばれ、そこでGeryonesは牛を飼っていた。[202]
Geryonesが生まれたのはBaetis川の上流で、Heracleiaの町の近くであった。
Geryonesの孫NoraxがSardinia島へ入植したのは、Iolausの入植よりも前であったことを考慮すると、Noraxは、Amphitryonの子Heraclesとほぼ同年代と思われる。[203]
Noraxの入植地は、Macerisの子Sardusの入植地のすぐ近くであった。[204]
おわり |