1 はじめに
古代ギリシア人は、多くの島々に住んだ。
ここでは、つぎの島について記述している。
Ceos、Cephallenia、Corcyra、Cos、Crete、Cyprus、Cythera、Delos、Echinades、Icos、Imbros、Ithaca、Lemnos、Lesbos、Leucas、Melos、Naxos、Paros、Peparethos、Rhodes、Samothrace、Sciathos、Seriphus、Syme、Taphos、Tenedos、Thasus、Thera。
Lipara、Sardinia、Sicilyは、「Emigration to Italy」に記述。
Aegina、Euboea、Salamis、Scyrosは、「Bronze Age History of Attica」に記述。
Chios、Samosは、「Asia Minor Colony」に記述。
2 Ceos
BC1390年、Achaeusの子Archanderと、Hypseusの娘Cyreneとの息子AristaeusがCeos島へ移住した。[1]
Archanderがどこから移住したのかは不明であるが、彼の移住には、Arcadia地方に住むParrhasiansも参加していた。[2]
BC1372年、AristaeusはCeos島から両親が住むEgyptへ帰り、Egyptから移民団を率いてSardinia島へ移住した。[3]
AristaeusはCeos島を去るとき、島に子孫を残した。[4]
BC1264年、MinosはCeos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[5]
Dexitheaは、Hypseusの娘Cyreneの子AristaeusがCeos島に残した子供たちの子孫と思われる。[6]
Straboは、Neleusの子NestorがTroyから帰還途中にCeos島に立ち寄ってNedusian Athenaの神域を造営したと伝えている。[7]
しかし、Homerは、NestorがTroyからEuboea島を経由して、Argosの町の近くに到着するまで、4日を要したと伝えている。[8]
後に、Messenia湾に注ぐNedon川近くの住人がCeos島に移住して、自分たちが造営した神域を由緒あるものにみせようとして、造営主をNestorにしたものと推定される。
3 Cephallenia
3.1 Laconiaからの移住
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Laconia地方のTherapneの町からAcarnania地方へ移住した。[9]
Lelexは、Argosの町からEgyptへ移住したIasusの娘Ioの後裔であった。Teleboasが率いた人々は、Pelasginasであったが、Lelexの名前に因んで、Lelegesと呼ばれた。[10]
Teleboasには、22人の息子たちがいた。彼らの住人はTeleboansと呼ばれるようになり、Acarnania地方全域に居住地を広げた。[11]
Teleboansは、Cephallenia島にも住み着いたと推定される。
3.2 Atticaからの移住
BC1277年、Deionの子Cephalusは、 Teleboansの地へ遠征して、Ionian Seaで最大の島に入植し、Cephallenia島と呼ばせた。[12]
Cephalusは、Attica地方のThoricusの町の王であったが、Aegeusに追われて、Thebesの町へ移住し、そこからHeraclesの父Amphitryonの遠征に参加した。[13]
Cephalusは、既に島に住んでいたTeleboansと戦って、捕虜にしたPterelasの娘Euryodeiaを妻にして、息子Arcesius(or Arcisius)が生まれた。[14]
Cephalusによって、Cephallenia島から追い出されたDeioneusの子Pterelasの3人の息子たち、Ithacus、Neritus、Polyctorは、Ithaca島へ移住した。[15]
3.3 Eleiaからの移住
BC1244年、Eleia地方のElisの町からAugeasの子PhyleusがDulichiumに入植した。[16]
そのDulichiumは、HomerやStraboが伝えているEchinades諸島に属する島を指しているようにも思われる。[17]
しかし、つぎの理由から、PhyleusがElisの町から移り住んだDulichiumは、Cephallenia島にあったと推定される。
Pausaniasは、Cephallenia島のPaleisの町がEleanのLampisの子Timoptolisの像をOlympiaに奉納したと伝えている。また、彼は、Paleansが昔、Dulichiansと呼ばれていたとも伝えている。[18]
したがって、Cephallenia島のDulichiumの町がAugeasの子Phyleusの移住先と推定される。
Cephallenia島に先住していたCephalusとPhyleusとの間の接点は不明で、Phyleusが適地を探して、Cephallenia島を移住先に選んだと思われる。
4 Corcyra
BC1237年、Aesonの子Jasonは、Amphitryonの子Heraclesと共にThesprotia地方へ遠征して、Scheria(後のCorcyra)島へ入植した。[19]
Jasonの移住は、Corinthの町で一緒に暮らしていた妻Medeaの死の後であった。
Jasonは、Corinthの町をAeolusの子Sisyphusに託すと共に、彼の娘Corcyraを妻にして移住した。[20]
JasonとMedeaとの間の息子Mermerusは、Heraclesが占領したEphyraの町に住んだ。
Trojan Warの少し前、Laertesの子Odysseusは、Ephyraの町に住むJasonの子Mermerusの子Ilusを訪問した。[21]
Corcyra島は、JasonからPhaeaxに継承され、島民は、Phaeaciansと呼ばれた。[22]
Phaeaxの跡を継いだ、彼の息子Alcinousは、吟遊詩人を抱えるほどになった。
Amyclaeの町出身のDemodocusもその一人であり、Argosの町のAutomedesやPerimedesに師事して吟遊詩人となり、Pythian gamesで賞を獲得した。[23]
Alcinousの娘Nausicaaは、Odysseusの子Telemachusと結婚した。[24]
その後、Euboea島のEretriaの町が勢力を増してくると、Eretriansは、Corcyra島に植民した。
BC734年、Corinthの町からの移民団がCorcyra島に植民して、Eretriansを追放した。
Eretriansは、故郷のEuboea島のEretriaの町へ上陸しようとしたが阻止されて、Macedonia地方のMethoneの町に住み着いた。[25]
5 Cos
5.1 Rhodesからの移住
BC1415年、Erysichthonの子Candalusは、Rhodes島からCos島へ移住した。[26]
CandalusはHeliadaeの一人であったが、内紛によりRhodes島を去った。[27]
5.2 Lesbosからの移住
BC1340年、Macareusの子Neandrusは、Lesbos島からCos島へ移住した。[28]
5.3 Heraclesの遠征
Heraclesは、Troyからの帰路、流されてCos島に立ち寄ったと伝えられる。[29]
HeraclesのCos島訪問が創作でないとすれば、つぎのようであったと推定される。
BC1244年、Cos島の支配者Meropsは、娘ClytiaのもとにMiletusの町から婿入りしたEurypylusによって島から追い出されて、Heraclesに援助を求めた。HeraclesはMeropsを帰還させようとしたが、Eurypylusに妨害されて、戦いとなった。この時、Heraclesを負傷させたChalcodon(or Chalcon)は、Eurypylusの息子であった。[30]
Meropsは、Lesbos島からCos島へ移住したMacareusの子Neandrusの後裔と推定される。[31]
5.4 Trojan War
Heraclesは、Cos島のEurypylusの娘Chalciopeとの間に、息子Thessalus(or Thettalus)をもうけ、Thessalusの2人の息子たち、Pheidippus(or Phidippus)とAntiphusは、Cos島の人々を率いてTroyに出征し、2人ともHectorに討ち取られた。[32]
Cos島のSisyphusがTroy遠征に従軍して記録を残し、それを基にして、HomerがIliadを書いたと伝えられている。[33]
5.5 Asclepiusの後裔との関係
彼らの後裔は、その後もCos島に住み続け、医学の父と呼ばれるBC4世紀初頭のHippocratesは、Heraclesから20代目の子孫であった。[34]
BC1186年、Troy陥落後、Agamemnon率いるTroy遠征軍の軍医を務めたAsclepius(or Aesculapius)の子Podalirusは、Asia Minorを放浪した。そして、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定されるDamaethusが治めるCaria地方のBybastusの町で、Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。Podalirusは、妻の名に因んだSyrnusの町を創建した。[35]
Cos島は、Syrnusの町のすぐ近くにあり、Cos島に住むHeraclesの子Thessalusの後裔が、Syrnusの町からAsclepiusの子Podalirusの後裔を妻に迎えたものと推定される。[36]
5.6 Argosからの移住
BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてRhodes島へ入植した。[37]
その後、Althaemenesの移民団の一部は、Rhodes島からCos島へ渡った。[38]
6 Crete
6.1 最初のギリシア人
Peloponnesus半島のArgosの町とSicyonの町との間に戦いがあった。
Argosの町のPhoroneusの子Apisは、Sicyonの町のAezeiusの子Europsの子Telchinを戦いで破り、2つの町を支配した。[39]
BC1690年、Telchinの子Cresは海を渡ってAeria島へ移住した。[40]
Aeria島は、Cresの名前に因んで、Crete島と呼ばれるようになった。[41]
AD5世紀の神学者聖Jeromeは、CresとSicyonの町のTelchinの子Thelxionを同世代だと記している。[42]
Cresの後裔はTelchinesと呼ばれ、Ophiussa(後のRhodes)島に渡って、島を本拠地にして、Aegean Seaを支配した。[43]
Cresの入植地は、Crete島北西部のApteraの町の近くであったと推定される。[44]
Telchinesと同一視されるIdaean Dactylsは、Apteraの町で最初に鉄の活用手段を発明した。[45]
6.2 Arcadiaからの移住
BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町に住むTegeatesの3人の息子たち、Cydon、Gortys、ArchediusはCrete島へ移住して、Cydonia、Gortyna、Catreusの町を創建した。[46]
深刻な食糧不足が移住の原因であった。[47]
6.3 Hierapytnaの創建
BC1450年、Cnossusの町に住んでいたCyrbasは、島の南東岸に移住して、Hierapytnaの町を創建した。[48]
Cyrbasの移住は、Tegeatesの息子たちの移住により、Crete島内に動乱が発生した結果と思われる。
6.4 Rhodesへの移住
BC1450年、Erysichthonは、Crete島のPrasusの町からRhodes島へ移住した。[49]
Erysichthonの移住は、Prasusの町がHierapytnaの町によって破却された結果と思われる。[50]
Erysichthonは、Rhodes島でTelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが生まれた。[51]
Rhodosの息子たちは、Heliadaeと呼ばれるようになった。[52]
6.5 鉄の発見
AD1世紀の哲学者Thrasyllusによれば、「Idaの大火による鉄の発見」は、「洪水」から73年目であった。[53]
また、Thrasyllusによれば、「7将によるThebes攻め」は、「洪水」から293年目であった。[54]
Adrastusが率いたArgivesによるThebes攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」は、BC1508年となる。
その「洪水」は、BC1511年にAthens王が、CecropsからCranaus に代わった年に発生したThessaly地方の大洪水と推定される。[55]
したがって、鉄の発見は、BC1438年と推定される。
Parian Marbleには、Athens王がPandionの治世(BC1442-02)に、鉄が発見されたと記されているので、妥当と思われる。[56]
6.5.1 Idaean Dactylsの誕生
Ida山の大火災の後で、Celmis(or Kelmis, Scelmis)とDamnameneus(or Damnaneus)は偶然、鉄を発見し、その後、鉄の鍛鉄法を発明した。[57]
2人はTelchinesであり、Idaean Dactylsと呼ばれ、人々に鉄の製錬と焼き戻しを教えた。[58]
2人は、Apteraの町の創建者Apterasの息子Melisseusの息子たちで、Troy王国の始祖Teucrusの母Ida (or Idothea)の兄弟と推定される。[59]
6.6 Creteからの移住
BC1435年、Teucrus(or Teucer, Teukros)は移民団を率いて、Crete島のApteraの町を出港し、Troas地方のHamaxitus付近に上陸した。[60]
Teucrusは、Crete島での最初の鉄の発見者Celmis(or Kelmis)とDamnameneusの姉妹Ida(or Idothea)の息子であった。[61]
Teucrusには、Idaean Dactylsが同行し、Hamaxitusから北へ鉱脈を探索して、Ida山周辺に定住した。[62]
6.7 Cadmusの来島
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団が、Crete島に立ち寄った。[63]
この移民団の中にいたCadmusの異母兄弟Phoenixの2人の娘たちに重要な出会いがあった。
6.7.1 Europa
Cydoniaの町に住むCydonは、Phoenixの娘Europaと結婚して、2人の息子たち、MinosとCardysが生まれた。[63-1]
6.7.2 Astypalaea
Apteraの町に住むIdaean Heraclesは、Phoenixの娘Astypalaeaと結婚して、2人の息子たち、AncaeusとPericlymenusが生まれた。[63-2]
6.8 CydonとEuropa
6.8.1 大津波の襲来
BC1420年、Crete 島北部を襲った大津波でCydonは死に、Europaは2人の息子たちと共に生き残った。[63-3]
6.8.2 Dorisからの移住
BC1420年、大津波でThracia地方を追われたCadmus率いる移民団やThraciansがThessaly地方を通過した。その大集団に圧迫されて、Hellenの子DorusはDoriansを率いて、Thessaly地方北部からOeta山とParnassus山の間に移住した。その後、Dorusの子TectamusはDoriansの他にAeoliansやPelasgiansを率いてCrete島へ移住して来た。[63-4]
Tectamusは、Crete島東部のCnossusの町に居を定めた。
Straboは、Crete島南東部のHierapytnaの町の近くにLarisaの町があったと伝えている。[63-5]
そのLarisaの町は、Tectamusと共に移住したPelasgiansが建設した町であったと思われる。
AD5世紀の神学者Jeromeは、Asteriusの前のCrete島の支配者として、Lapisの名前を記している。[63-6]
6.8.3 Europaの再婚
Tectamusの子Asteriusは航海の途中で立ち寄ったCydoniaの町で、Phoenixの娘Europaと結婚した。[64]
Minosは、母Europaの連れ子としてCnossusの町へ移住せず、Crete島中南部Phaistosの町からAndrogeneiaを娶り、息子Asteriosが生まれた。[65]
その後、Tectamusの子AsteriusがEuropaとの間に子なくして世を去り、Cnossusの町のDoriansは、MinosをCnossusの町に呼び寄せ、Lyctusの娘Itoneと結婚させて、Asteriusの跡を継がせた。Lyctusは、Cnossusの町の南東にあるLyctusの町の創建者と推定される。また、Thessaly地方のItonusの町の名前を連想させる娘の名前から推測して、Lyctusは、Asteriusの母方の祖父Cretheusの息子と思われる。MinosとItoneの間には、息子Lycastusと娘Ideaが生まれた。[66]
6.8.4 Minosの移住
BC1390年、Lycastusが生まれて間もなくCrete島北部を大津波が襲い、Minosが住むCnossusの町も被災した。
Minosは、Cydoniaの町に住む弟Cardysのもとへ避難した。しかし、その地も同様に津波の被害を受けていた。MinosはApteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうApteraの町のTelchinesらの移民団に加わり、Troas地方へ移住した。[67]
少し後に、CardysはCydoniaの町へ帰ったが、Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。
その頃、Dardanusに連れられて海を渡ったDardanusの弟Iasionの遺児Corybasは、Ida山の近くで、母Cybeleとともに暮らしていた。Corybasは、Agenorの子Cilixの娘Thebeと結婚して、娘Ideが生まれた。Minosには息子Lyctiusが生まれた。LyctiusとIdeは後に結婚した。[68]
LyctiusとIdeとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の祖とする同族であった。
Minosの後裔は、Dardanusの町の近くのAstyraの金鉱採掘によって富を蓄え、Crete島へ帰還した。彼らは多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島を支配してAegean Seaの制海権を手に入れた。[69]
Crete島へ帰還したのは、2人目のMinosであったと推定される。
Platoは、『Gorgias』の中で、MinosとRhadamanthysはAsia生まれだと記している。[70]
また、MinosとPerseisの娘Pasiphaeとの結婚も、PasiphaeがColchis地方からCrete島へ嫁いだと考えるよりも、Troas地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[71]
MinosがCrete島へ帰還したのは、Pasiphaeとの結婚の後で、BC1290年頃と推定される。
6.8.5 Minosの子Asterios
Asteriosは、父Minosと共にCnossusの町で暮らさず、少し離れたAmnisosの町で育った。[72]
Amnisosの町も津波の被害を受け、Asteriosも父と共にTroas地方へ移住した。
Peloponnesus半島のCorinthの町から黒海の東岸のColchis地方への交易路がTroas地方の近くを通っており、Asteriosは父のもとからColchis地方へ移住した。[73]
この移住の前に、Asteriosは、Cleochusの娘Ariaと結婚して、2人の息子たち、MiletosとCaunosが生まれていた。Asteriosは、Colchis地方で新たに妻を娶り、娘Perseis(or Perse)が生まれた。[74]
Perseisは、Phineusの息子Polymedes、または、Clytius(or Plexippus、または、Pandion)のもとへ嫁いだ。Phineusの息子たちは、黒海の南西岸のSalmydessusの町から黒海の北岸のTauric Chersonese(現在のCrimea半島)へ移住して住んでいた。[75]
Perseisには2人の息子たち、PersesとAeetes、それに、2人の娘たち、CirceとPasiphaeが生まれた。[76]
Persesは、父の跡を継ぎ、Aeetesは、後継者の絶えたColchis地方に移り住み、Persesの娘Hecateを妻に迎えた。[77]
Pasiphaeは、Troas地方に住んでいた2人目のMinosのもとへ嫁いだ。[78]
AsteriosがColchis地方で結婚した女性は、Sisyphusの子Aeetesの娘Chalciopeと、Athamasの子Phrixusの間に生まれた娘と思われる。[79]
後に、Perseisの子Aeetesの娘Medeaが、Corinthiansから招かれて町を任せられたのは、Corinthの町の創建者Sisyphusの後裔であったからであった。
6.9 Idaean HeraclesとAstypalaea
6.9.1 Idaean Heracles
Idaean HeraclesはIdaean Dactylsであり、Apteraの町の生まれと推定される。[80]
Olympiaの町で競技会を開催して、Elisの町のAethliusの子Endymionによって追放されたCardysの子Clymenusは、Idaean Heraclesの子孫であった。[81]
ClymenusはBC1395年生まれで、鉄が発見されたBC1438年との間は、43年間しかない。つまり、Idaean Heraclesは、Cardysの父、あるいは、Cardysの妻の父である。しかし、CardysはCydoniaの町に住んでいたことから、ClymenusはIdaean Heraclesの娘の息子と推定される。
また、CardysとCydoniaの町の創建者Cydonとの間は、1世代しかなく、CardysはCydonの息子と推定される。
6.9.2 Eleiaへの移住
BC1420年、Idaean Heraclesは、大津波に襲われた人々を率いてEleia地方へ移住した。
彼が、移住先をEleia地方にしたのは、Apteraの町の隣に、Arcadia地方から移住して来てCydoniaの町を創建したCydonから聞いていたと思われる。[82]
BC1419年、Idaean Heraclesは兄弟たち共に、Olympiaの町で競技会を初めて開催した。[83]
6.9.3 Cherronesusへの移住
BC1416年、Idaean Heraclesは、Rhodes島対岸のCaria地方のCherronesusに居住して、Cariansを追い出して、5つの町を創建した。[84]
Idaean HeraclesとAstypalaeaとの間の息子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[85]
Lelegesは、Cariansの一部族とされるが、Cariansと混血したGreeksと推定される。[86]
Cherronesusで育ったIdaean Heraclesの娘は、Crete島のCydoniaの町に住むCardysと結婚した。この遠距離婚を可能にしたのは、親戚関係であった。
つまり、Idaean Heraclesの妻は、Phoenixの娘Astypalaeaであり、Cardysの母Phoenixの娘Europaとは姉妹であり、CardysとIdaean Heraclesの娘は、いとこ同士であった。[87]
6.10 Eleiaへの移住
BC1339年、Cardysの子Clymenusは、Crete島のCydoniaの町からEleia地方のOlympiaの町へ移住した。Clymenusは、Idaean Heraclesの子孫であり、Olympiaで競技会を開催した。[88]
Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionに追われて、Troas地方へ移住した。[89]
6.11 2人目のMinosの時代
6.11.1 Cariaへの移住
BC1280年、Cleochusの娘Ariaの子Miletusは、Crete島からCaria地方のMaeander川の近くへ移住して、Miletusの町を創建した。[90]
6.11.2 Lyciaへの移住
BC1280年、Minosの兄弟Sarpedonは、Crete島からMilyas(後のLycia)地方へ移住した。 [92]
6.12 Athensとの戦い
6.12.1 戦いの原因と結果
BC1264年、Minosの子Androgeusは、Thebesの町で開催されるLabdacusの子Laiusの葬送競技会へ行く途中、Cithaeron山麓のOenoeの町で殺害された。[93]
Diodorusは、AndrogeusがAegeusの政敵Pallasの息子たちと親密であったため、その意図を疑われて殺害されたと伝えている。[94]
Hyginusは、AegeusとMinosとの戦闘中にAndrogeusが死んだと伝えている。[95]
恐らく、Aegeusと義兄弟との戦いの後で、その次の世代であるPallasの息子たちがAndrogeusを通して、Minosの援助を得て、Aegeusに戦いを挑んだものと思われる。[96]
Minosは戦いに勝利した。Athensの町は、9年ごとに若い男女7人ずつを人質として島へ送ることになった。[97]
6.12.2 Aeginaへの移住
BC1264年、MinosはAtheniansとの戦いの後で、Aegina島にCretansを入植させた。[98]
Cretansの入植によって、Aegina島に住んでいたAeacusの息子たちは、島を出て移住した。[99]
Trojan War時代、CretansはSalamis島へも居住地を広げて、Telamonの後裔は、Attica地方に住んだ。[100]
6.12.3 Ceosとの戦い
BC1264年、MinosはCeos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[101]
Dexitheaは、Hypseusの娘Cyreneの子AristaeusがCeos島に残した子供たちの子孫と思われる。[102]
6.12.4 Boeotiaへの移住
BC1264年、Minosの兄弟Rhadamanthysは、Boeotia地方のOnchestusの町へ移住した。[103]
Onchestusの町は、Megaraの町のPandionの子Nisusに加勢して戦死したHippomenesの子Megareusが領していた。[104]
6.13 Asia Minorへの移住
BC1260年、Rhadamanthysの子ErythrusはCrete島から移民団を率いて、Chios島の対岸に移住してErythraeの町を創建した。[105]
Erythraeの町には、Cretansに友好的なCariansや、少し前に、Minosに追い出されて、Sarpedonと共に移住して、Lyciansと呼ばれていた人々が共住した。[106]
6.14 MinosのSicily遠征 (逸話)
Minosは、Sicily島西南部のCamicus川付近で、Sicaniの支族Camicの王Cocalusに殺害されたと伝えられる。[107]
TheseusとPhaedraが結婚したとき、Crete島の支配者はDeucalionであったことから、MinosはBC1245年頃に死んだと推定される。[108]
Herodotusは、Minosの死から2世代後にTrojan Warがあったと伝えているので、概ね合致する。[109]
MinosのSicily島への遠征は、Daedalusを連れ戻すためであったが、Minos本人が遠征する根拠に乏しい。Minosは、当時、70歳と推定される。[110]
MinosのSicily島遠征は、Daedalusの子IapyxのItaly移住から生まれた創作と思われる。[111]
IapyxのItaly移住は、Minosの死から15年後であった。
6.15 結婚による同盟
Minosの跡を継いだDeucalionは、Athensの町と同盟を結ぶために、彼の姉妹PhaedraをAegeusの子Theseusに嫁がせたと伝えられている。[112]
同じ時期に、Peloponnesusの2つの町にDeucalionの2人の姪たちが嫁いでいる。
Minosの死後、Cnossusの町に住むMinosの後裔たちの周囲には敵がいたようである。
6.15.1 Athensへの嫁入り
BC1241年、Minosの娘Phaedraは、Athensの町に住むAegeusの子Theseusのもとへ嫁いだ。[113]
Phaedraと共に、Minosの娘Ariadneの子Ceramusは、Naxos島からAthensの町へ移住して、Cerameicus区の名祖になった。[114]
Ceramusと共に、多くの陶工たちがCrete島から移住し、Ceramicus区は、Potters Quarter(陶工たちの区)になった。[115]
6.15.2 Cleonaeへの嫁入り
BC1233年、Minosの子Catreusの娘Aerope(or Eriphyle)は、Cleonaeの町に住むAtreusの子Plisthenesのもとへ嫁いだ。[116]
当時、Cleonaeの町から約10km離れたPhliusの町にはPhliasusが住んでいた。
Phliasusは、Minosの娘Ariadneの息子であり、Aeropeは彼のいとこであった。[117]
PlisthenesとAeropeの遠距離婚は、Phliasusが仲介したと推定される。
6.15.3 Naupliaへの嫁入り
BC1231年、Minosの子Catreusの娘Clymeneは、Naupliaの町に住むClytonaeusの子Naupliusのもとへ嫁いだ。[118]
6.16 ItalyやMacedoniaへの移住
BC1230年、Crete島からItaly半島方面への大規模な移住があった。
これより前の婚姻関係や、この移住から推測して、Crete島内で戦乱があったと推定される。
6.16.1 Iapyxの移住
Daedalusの子Iapyxが率いる移民団は、Italy半島東南部に入植した。[119]
Iapyxが入植したHyriaの町の近くを流れる川はIapyx川、地方はIapygia地方、岬はIapygian Cape(現在のCapo di Leuca)、住民はIapygians(or Iapyges)と呼ばれた。[120]
6.16.2 Cleolausの移住
Minosの子Cleolausが率いる移民団は、Italy半島東南部Apulia地方に入植した。Cleolausは自分の部族を息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばせた。[121]
Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Aetoliansを率いてApulia地方へ来たTydeusの子Diomedesと結婚した。[122]
6.16.3 Bottonの移住
Bottonが率いる移民団は、Adriatic Seaに入ると、Iapyxが率いる移民団と別れて、陸路でMacedonia地方へ移住した。[123]
Bottonの入植地は、Thermaic Gulfへ注ぐ、Axius川の西方、Haliacmon川の北方の土地であった。[124]
後のPellaの町の少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusが75年前に創建したEuropusの町があった。[125]
Bottonの移民団には、Aegeusの時代にAthensの町からCrete島に送られたAtheniansの子孫が含まれていた。[126]
また、Europusの町の住人には、Oreithyiaの嫁入りに伴って、Athensの町から移住した人々の子孫がいた。
Bottonは、Europusの母Oreithyiaの父Cecropsの子Pandionの娘Merope(or Alcippe)の子Daedalusの息子であった。[127]
つまり、Europusは、Bottonの祖母の従兄妹であった。
Bottonと共に旅をしていた人々は、異郷の地で、言葉の通じる住人に出会って驚いたと思われる。
6.17 Asia Minorへの移住
BC1213年、Heraclesの子TlepolemusはTirynthiansを率いて、Argolis地方からRhodes島へ移住した。[128]
Tirynthiansの中には、Eurystheusの一族であるLebesも含まれていた。Lebesは、Tlepolemusと共にRhodes島まで行かずに、Crete島に定住した。[129]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ渡ってColophonの町を創建した。[130]
Rhaciusは、Tiresiasの娘MantoからEpigoniに攻められてThebesの町が陥落した話を聞いて涙を流した。LebesはMycenaeanであり、Sthenelusの子Iphitusの息子と推定される。[131]
Iphitusの姉妹Astymedusaは、Thebesの町のLaiusの子Oedipusに嫁いでいた。[132]
6.18 Troy遠征
BC1188年、Minosの子Deucalionの子Idomeneusと、Minosの子Molusの子Merionesは、Cretansを率いて、Troy遠征に参加した。[133]
彼らには、Dictysが従軍し、"Journal of the Trojan War"をPhoenician languageで記録した。[134]
その記録は、Homerも書き写したと伝えられている。[135]
Dictysは、Laertesの子Odysseusを通して情報を得たと記している。[136]
6.19 Trojan Warの後のCrete
Troy陥落後、IdomeneusとMerionesは、無事にCnosusの町に帰還した。[137]
その後、Crete島では、飢饉と疫病により、多くの人々が死に、少しの住人が生き残った。[138]
6.20 Argosからの移住
BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島へ植民した。[139]
Althaemenesの移民団には、Megaraの町に住んでいたDoriansも参加していた。[140]
PolisとDelphosが率いる移民団はGortynの町を攻略して、先住民と共住した。[141]
Gortynの町は、BC1430年にArcadia地方のTegeaの町から移住したTegeatesの子Gortysによって創建された町であった。[142]
PolisとDelphosが率いたのは、Amyclaeの町に住んでいたPhilonomusの後裔のMinyansであった。[143]
6.21 Sicilyへの移住
BC688年、Cratonの子EntimusはCretansを率いて、Sicily島南東部へ移住してGelaの町を創建した。[144]
Rhodes島からLindiansを率いたAntiphemusは、Entimusに協力した。[145]
Geloの先祖TelinesもRhodes島北西のTelos島からGelaの町の創建に参加した。[146]
Gelaの町の創建は、Syracuseの町の創建から45年目であった。[147]
7 Cyprus
7.1 Creteからの移住
BC1430年、Celmis(or Kelmis, Scelmis)とDamnameneus(or Damnaneus)は、Crete島からCyprus島へ移住して、鉄を発見した。彼らはCrete島で最初に鉄を発見し、その後、広い範囲で探鉱活動をしていたと思われる。[148]
7.2 Phoeniciaからの移住
BC1410年、Pygmalionは、Cyprus島の北東部にCarpasiaの町を創建した。[149]
Pygmalionは、Phoenicia地方のTyreの町に住むAstynousの子Sandocusの親族と思われる。Sandocusは、Cilicia地方にCelenderisの町を創建している。[150]
Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[151]
7.3 Ciliciaからの移住
BC1385年、SandocusとPharnaceとの間の息子Cinyrasは、Celenderisの町からCyprus島に渡り、島の南西海岸付近にPalaepaphosの町を創建した。[152]
CinyrasはPygmalionの娘Metharmeを妻に迎えて、娘Laogore(or Laodice)が生まれた。[153]
7.4 Arcadiaへの嫁入り
BC1360年、Cinyras娘Laogoreは、Palaepaphosの町からArcadia地方に住むArcasの子Elatusのもとへ嫁入りした。[154]
ElatusとLaodiceの結婚は、Arcadia生まれのLaogoreの祖母Pharnaceの縁であろうと推定される。
Pharnaceの父Megassaresは、Dardanusと共に、Arcadia地方からSamothrace島へ移住し、そこから、Cadmusの移民団に参加して、Boeotia地方へ移住した。[155]
7.5 TeucerとAgapenorの移住
BC1205年、Telamonの子Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住した。Teucerは、Palaepaphosの町のCinyrasの娘Euneと結婚した。[156]
恐らく、Teucerは、Amathusの町で産出される貴重な鉱石を求めて、Cyprus島へ移住したと思われる。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[157]
Cinyrasは、Amathusの町で産出される貴重な鉱石により、Midas王と並び称される富豪の代名詞になった。[157-1]
7.5.1 Paphosの創建
BC1200年、Ancaeusの子AgapenorはArcadia地方のTegeaの町からCyprus島へ移住して、Palaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建した。[157-2]
Agapenorの移住は、Teucerよりも後であり、彼の移住の目的は、銅の採掘であった。[157-3]
恐らく、TeucerもAgapenorも、銅の交易に従事していたと思われる。
7.5.2 Salamisの創建
BC1186年、Teucerは、Achillesと共にTroyへ遠征したAjaxを助けるためにCyprus島からIliumの町へ駆け付けるが勝敗は決した後であった。[157-4]
Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ戻り、Salamisの町を創建した。[157-5]
7.6 Ciliciaへの移住
BC1160年、Ajaxは、Cyprus島からCilicia Tracheiaへ移住してOlbe一帯を支配した。[158]
Ajaxは、Salamisの町のTelamonの子Teucerの息子と思われる。
8 Cythera
BC1203年、Atreusの2人の孫たち、AgamemnonとMenelausは、Lacedaemonの町からMycenaeの町に帰還した。彼らは、Pelopsの子Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に幽閉した。[159]
Thyestesは、Cythera島で死んだ。[160]
BC1187年、Aegisthusは島を出てMycenaeの町に帰還して、町を掌握した。[161]
TroyからItalyへ向かう途中、Anchisesの子AeneasがCythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営したという伝承がある。[162]
直前まで、Mycenaeansが住んでいたことを考慮すると創作と思われる。
9 Delos
BC1525年、初代Athens王Cecropsの息子Erysichthonは、Delos島にTemple of Apolloを建立した。[163]
BC1515年、 Cecropsの子Erysichthonは、Delos島での祭儀を終えて、Athensの町へ帰る途中で死去した。[164]
BC1241年、Aegeusの子Theseusは、Crete島からAthensの町へ帰る途中、Delos島に立ち寄った。[165]
当時のDelos島の支配者は、Theseusの父Aegeusの父Scyrius(or Chiron)の子Carystusの子Petraeusの子Zarexであった。つまり、Theseusの従兄弟がDelos島を治めていた。
Zarexの子Aniusは、Troy陥落後、Italyへ向かう途中でDelos島に立ち寄ったAnchisesの子Aeneasを歓待したという伝承がある。[166]
Aniusの父ZarexとAchillesは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であり、この伝承は創作と思われる。
10 Echinades
BC1277年、Perseusの子Heliusは、兄弟Electryonや甥Amphitryonと共にGreece北西部へ遠征して、HeliusはEchinades諸島へ移住した。[167]
Heliusは、Argolis地方にHelosの町を創建していたが、新天地を求めての遠征であった。[168]
BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からLeucas半島近くの島に移住してTaphosの町を創建した。[169]
BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島のDulichiumの町からEchinades諸島の一番大きな島へ移住して、Dulichiumの町を創建した。[170]
11 Icos
BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からIcos島に植民した。[171]
12 Imbros
BC1431年、Idaean DactylsとCabeiriは、Troas地方からImbros島、Samothrace島と共にLemnos島へ移住した。[172]
Idaean Dactylsは探鉱のため、Cabeiriは信仰を広めるために島を訪れた。
BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansが内乱を起こして、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[173]
Minyansは、Colchis地方への航海をしていたが、Lemnos島やImbros島は、Thessaly地方からHellespontos海峡までの最短経路に位置していた。
BC1115年、PelasgiansはAtheniansによって、Athensの町から追放されて、Imbros島へ移住した。[174]
Pelasgiansによって、島を追い出されたMinyansは、Lemnos島のMinyansと共に、Laconia地方へ移住した。[175]
13 Ithaca
BC1277年、Deioneusの子Pterelasの3人の息子たち、Ithacus、Neritus、Polyctorは、Deionの子Cephalusに追われて、Cephallenia島からIthaca島へ移住した。[176]
彼らは、Cephallenia島に先住していたTeleboansであった。
Pterelasの息子たちは、Ithaca島にIthacaの町を創建した。[177]
BC1256年、Ithacusの娘Chalcomedusaは、Cephallenia島に住むCephalusの子Arcesius (or Arcisius)のもとへ嫁入りした。[178]
Arcesiusの母Euryodeiaは、Ithacusの姉妹で、ChalcomedusaとArcesiusは従兄妹同士と推定される。[179]
BC1237年、Heracles率いる遠征隊が、Thesprotia地方へ遠征した。[180]
Cephallenia島に住むCephalusの子Arcesius (or Arcisius)も遠征隊に参加して、Teleboansと戦い、Ithaca島に住むTeleboansを追い出した。[181]
BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、Parnassus山近くに住むAutolycusの娘Anticliaを妻に迎えた。[182]
Laertesが住むIthaca島から遠く離れたParnassus山近くに住む娘との結婚を可能にしたのは、血縁関係であった。
Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、第8代Athens王Pandionであった。
また、Anticliaの父Autolycusの母Philonis(or Chione)の父もPandionであった。
つまり、LaertesとAnticliaは又従兄妹であった。
LaertesとAnticliaの間に、息子Odysseusが生まれた。[183]
BC1220年、Arcesiusの子Laertesは、Cephalleniansを率いてLeucas半島のNericusを攻略した。[184]
BC1237年、Heraclesの遠征隊に追い出されて、Telonの子OebalusはTeleboansを率いてAcarnania地方からItaly半島西海岸のCapreae(near Neapolis)へ移住している。[185]
Leucas半島には、まだ、Cephalusの後裔に敵対するTeleboansが残っていたものと思われる。
BC1188年、Laertesの子Odysseusは、Ithaca島や周辺の島々の住人を率いてTroy遠征に参加した。[186]
14 Lemnos
14.1 Idaean DactylsとCabeiriの移住
BC1431年、Idaean DactylsとCabeiriは、Troas地方からImbros島、Samothrace島と共にLemnos島へ移住した。[187]
Idaean Dactylsは探鉱のため、Cabeiriは信仰を広めるために島を訪れた。
14.2 Italyへの移住
BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Lydia地方を含むArzawa地方を征服した。[188]
Atysの子Tyrrhenusが率いるMaeoniansは、Lydia地方からItaly半島の西海岸地方に移住した。[189]
しかし、Tyrrhenusの移住には、18年間のタイムラグがあり、つぎのことから、彼らはLemnos島に一時、定住していたと推定される。
1) Tyrrhenia海の島(現在のElba島)は、Lemnos島の古い名前、Aethaliaと呼ばれていた。[190]
2) 古代世界に4つあったとPlinyが記している迷宮が、Egypt とCrete島以外に、Lemnos島とEtruriaに迷宮があった。[191]
3) Lemnos島は、Tyrhenia島とも呼ばれていた。[192]
BC1300年、Atysの子Tyrrhenusは、Maeoniansと共にItaly半島の西海岸地方に移住した。[193]
彼らには、Lemnos島に住んでいたIdaean Dactylsも同行したと推定される。
Idaean Dactylsは、Tyrrhenia海のAethalia島へ渡って銅山を発見した。[194]
島の鉱山は、銅が枯渇した後、鉄鉱石も産出するようになった。[195]
14.3 Creteからの移住
BC1250年、Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住した。[196]
Thoasには、娘Hypsipyleがいた。[197]
Hypsipyleは、Nemeaの町に住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[198]
14.4 Thessalyからの移住
BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansが内乱を起こして、Thessaly地方から追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[199]
Minyansは、Colchis地方への航海をしていたが、Lemnos島やImbros島は、Thessaly地方からHellespontos海峡までの最短経路に位置していた。
14.5 Argolisからの移住
BC1190年、Hypsipyleの子Euneusは、Nemeaの町からLemnos島へ移住した。[200]
Euneusは、Lemnos島をTroy遠征軍の補給基地にしようとするAgamemnonによって、島の支配者として送られたと推定される。Euneusの祖父Thoasは、Lemnos島の支配者であった。[201]
Agamemnonは、当時、Lemnos島に住んでいたMinyansがEuneusに従わせるために、Euneusは、JasonとHypsipyleの間の息子だという噂を広めた。[202]
14.6 Athensからの移住
BC1115年、Pelasgiansは、Athensの町から追放されて、Lemnos島へ移住して来た。[203]
Pelasgiansは、Atheniansから居住を許されて、Athensの町の城壁を築造したり、土地の開墾に尽力したが、Atheniansに嫉妬されて追放された。[204]
14.6.1 Sintians
PelasgiansはAtheniansを恨んで、Attica地方のBrauronの町から乙女たちを略奪して、Lemnos島へ連れ帰った。[205]
それ以降、Lemnos島の住人は、「sinesthai」(害する)という意味のあるSintiansと呼ばれるようになった。[206]
Straboは、Thrace地方のThraciansがLemnos島へ渡って、Sintiansと呼ばれるようになったと記している。[207]
Straboは、HomerやThucydidesから情報を得て、そのように理解したようである。
Homerは、SintiansをLemnos島の原住民のように伝えている。[208]
Thucydidesは、Paeonia地方の隣りにSintiansが住んでいたと記している。[209]
しかし、Straboは逆に認識しており、Lemnos島でSintiansと呼ばれたPelasgiansが、Chalcidice半島を経由して、Paeonia地方の近くへ移住したと思われる。
14.6.2 The stele of Kaminia
Lemnos島で発見された石碑、The stele of Kaminiaの製作者は、つぎのような経過をたどってLemnos島に移住して来た人々であったと推定される。二通り、考えられる。
14.6.2.1 Athensからの移住者
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisa率いるPelasgiansは、Argosの町からThessaly地方へ移住した。[210]
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansの一部は、Italy半島へ移住した。[211]
BC1300年、Italy半島に住んでいたPelasgiansの一部は、Sicily島へ移住した。[212]
BC1240年、Sicily島に住んでいたPelasgiansは、Acarnania地方へ移住した。[213]
BC1188年、Acarnania地方に住んでいたPelasgiansは、Boeotia地方へ移住してCoroneiaの町に定住した。[214]
BC1126年、Boeotia地方に住んでいたPelasgiansは、Athensの町へ移住した。[215]
BC1115年、Athensの町に住んでいたPelasgiansは、Lemnos島へ移住した。[216]
その後、Pelasgiansは、620年間、Lemnos島に住み続けた。
BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Chalcidice半島へ移住して、Cleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusに定住した。[217]
その後、Pelasgiansは、Scyros島やPaeonia地方の近くへ移住したと推定される。[218]
つまり、石碑の製作者は、BC1390年から90年間にEtruscan languageに似た言語を学習したPelasgiansであったと推定される。
あるいは、Pelasgiansと共にLemnos島に移住した、Etruscan languageに似た言語を話す人々であったと推定される。
14.6.2.2 Italyからの移住者
BC1300年にAtysの子Tyrrhenusと共にLemnos島からItaly半島の西海岸地方に移住したMaeonians(Pelasgians)は、Tyrrheniansと呼ばれるようになった。[219]
Tyrrhenusの移住の後で、Lemnos島とItaly半島の西海岸地方との交易や、TyrrheniansのLemnos島への移住もあったと思われる。
Cimonの子Miltiadesに追われるまで、Pelasgiansは、620年間、Lemnos島を支配した。
Lemnos島の住人がSintiansと呼ばれたのは、Brauronの町の出来事ばかりではなく、Tyrrheniansと同様に海賊行為をしていたからと推定される。[220]
AeoliansやIoniansのAsia Minorへの植民活動の時、Lemnos島は対象外であった。
Lemnos島のSintiansは、手に負えない人々であった。
この場合、石碑の製作者は、Tyrrhenians(Pelasgians)であったと推定される。
14.7 Laconiaへの移住
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansはPelasgiansに追われてLaconia地方へ移住した。[221]
Lacedaemoniansの王、Orestesの子Tisamenusは、Dioscuriと一緒にArgonautsの遠征に参加した人々の子孫であるという理由でMinyansを受け入れた。[222]
Dioscuriは、Tisamenusの母Hermioneの母Helenの兄弟であった。[223]
14.7.1 Philonomus
この時、移住したMinyansの中に、Philonomusがいた。[224]
PhilonomusはTisamenusの側近となり、Heracleidaeの帰還時には、彼らと裏取引して、TisamenusにAchaia地方への移住を説得した。[225]
Tisamenusが退去した後、Laconia地方は、EurysthenesとProclesに割り当てられた。[226]
Philonomusは、彼らからAmyclaeの町を任せられた。[227]
14.7.2 Leukophanesの後裔
この時、移住したMinyansの中に、Leukophanesの後裔がいた。[228]
Leukophanesは、Dryopes地方のTheiodamas (or Theodamas)の子EuphemusとLamacheとの間の息子であった。[229]
Leukophanesの後裔は、Lacedaemoniansに受け入れられて、Therasの移民団に参加して、Thera島へ入植した。[230]
Euphemus から17世代目の子孫、Polymnestusの子Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaへ移住してCyreneの町を創建した。[231]
14.8 Chalcidiceへの移住
BC495年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住し、Cleonae, Olophyxis, Acrothoi, Dium, Thyssusの町に定住した。 [232]
この後、5つの町に定住したPelasgiansの一部は、Scyros島へ渡った。[233]
また、Pelasgiansの一部は、Paeonia地方の近くへ移住したと推定される。
BC429年、Paeoniansの隣には、Sintiansが住んでいた。[234]
Straboは、Thracia地方のSintiansがLemnos島に住みついたと記しているが、逆のようである。[235]
15 Lesbos
15.1 Argosからの移住
BC1560年、Triopasの子Xanthusは、Argosの町からLesbos島へ入植した。当時、島は無人で、Issa島と呼ばれていた。島は、Pelasgiaと呼ばれるようになった。[236]
15.2 Rhodesからの移住
BC1415年、Erysichthonの子Macarは、Rhodes島からLesbos島へ移住した。[237]
Macarの移住は、Heliadaeと呼ばれる、Erysichthonの息子たちの兄弟間の争いが原因であった。[238]
15.3 Peloponnesusからの移住
BC1390年、Lesbos島は大津波に襲われて荒廃した。[239]
BC1389年、Olenusの町に住むAeolusの子Macareusは、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、Pelasgia島に移住した。[240]
IoniansはAchaia地方に住んでいて津波の被害を受けた人々であり、PelasgiansはDeucalionの息子たちによってThessaly地方を追われた人々であった。[241]
15.4 島々への移住
Macareusは近隣の島々に息子たちを移住させて勢力範囲を広げ、Pelasgia島はMacareusの家と呼ばれるようになった。[242]
BC1370年、Macareusの長男は、Chios島に入植した。[243]
BC1370年、Macareusの子Cydrolausは、Samos島に入植した。[244]
BC1340年、Macareusの子Leucippusは、Rhodes島に入植した。[245]
BC1340年、Macareusの子Neandrusは、Cos島に入植した。[246]
15.5 Ozolian Locrisへの嫁入り
BC1356年、Macareusの娘Amphissaは、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住むPhytiusの子Oineusのもとへ嫁いだ。[247]
Macareusは、Oineusの父Phytiusの父Orestheusの姉妹Protogeniaの息子であった。[248]
つまり、AmphissaはOineusの又従兄妹であった。
15.6 Thessalyからの移住
BC1340年、Lapithusの子Lesbosは移民団を率いて、Thessaly地方からLesbos島へ移住して、Macareusの娘Methymaと結婚した。[249]
15.7 Trojan War時代
BC1188年、Troyに味方したPhorbasは、Achillesに攻められて殺され、彼の娘Diomedeaは捕虜になった。[250]
Phorbasの子Ilioneusは、Iliumでの戦いでPeneleosに討たれた。[251]
15.8 Achaeansによる植民
BC1126年、Orestesの子PenthilusはBoeotia地方のAulis港を出港し、Lesbos島を占領して植民した。[252]
BC1055年、Archelausの子Grasは、Granicus川まで遠征し、Lesbos島を再占領して、Mysia地方とIonia地方の間のAeolis地方を領有した。[253]
Lesbos島でAchillesに殺されたHypsipylusの兄弟Helicaonの妻は、Priamの娘Laodiceであった。Lesbos島の住人は、Trojansとの繋がりが強く、Achaeansに激しく抵抗したものと思われる。[254]
16 Leucas
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Laconia地方のTherapneの町からAcarnania地方へ移住した。[255]
Teleboasには、22人の息子たちがいて、その一部は、Leucasに住んだ。[256]
Teleboasの息子が入植したLeucasは、島ではなく、半島であった。[257]
Teleboansが最初にLeucas半島に入植したのは、BC1365年頃と推定される。
BC1220年、Arcesiusの子LaertesはCephalleniansを率いてLeucas半島のNericusの町を攻略した。[258]
Nericusの町には、Therapneの子Teleboasの息子たちの後裔が住んでいたと推定される。[259]
BC657年、Leucas半島に入植したCorinthiansが本土と切り離して、Leucasは島になった。[260]
17 Melos
BC1186年、Ilium陥落後、第11代Athens王Menestheusは、Athensの町へ帰ろうとしたが、Theseusの子Demophonに追い返されてMelos島へ移住した。
BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[261]
BC1070年、Apodasmos率いる移民団は、Melos島に入植した。[262]
Apodasmosは、Heracleidaeと裏取引きして、Amyclaeの町を手に入れたPhilonomusの息子と思われる。[263]
HerodotusやThucydidesは、Melos島民をLacedaemonからの植民者と記している。[264]
18 Naxos
18.1 最初のギリシア人
Strongyle島と呼ばれていたNaxos島で最初に確認されるギリシア人は、Boreasの子Butesである。[265]
Boreasは、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟で、Athensの町の神官になったButesの息子と推定される。[266]
Boreasは、Samothrace島対岸の内陸部に住んでいた。[267]
18.2 Boeotiaからの拉致
BC1320年、Butesの跡を継いだAgassamenusは、Aloeusの妻Iphimedeiaと娘のPancratisを拉致して、島に連行した。[268]
Iphimedeiaの夫は、Sicyonの町からAnthedonの町へ移住したSisyphusの子Aloeusの子Aloeusであった。[269]
18.3 Boeotiaからの移住
Iphimedeiaの2人の息子たち、OtusとEphialtesは、Strongyle島に攻め込んで、母と妹Pancratisを救出して、島を奪って、島名をDia島と改名した。[270]
Diaは、Sicyonの町で祀られている神の名前であった。[271]
彼らは、島にDionysusの儀式とブドウ栽培を持ち込んだ。
18.4 Asia Minorからの移住
BC1285年、Asia MinorのMiletusの町の近くのLatmia地方からPolemonの子Naxosが島へ移住して来て、島名をNaxosに変えた。[272]
Naxosの父Polemonは、Europaの子Minosの子Asteriosの子Miletusの息子と推定される。Naxosは、MinosからNaxos島を任せられて移住したと推定される。
Crete島のMinosがAegean Seaの島々からCariansを追い出して、支配を広げている時期にCyclades諸島最大の島を見逃すはずがないと思われる。
18.5 Creteからの嫁入り
BC1278年、Minosの娘Ariadneは、Naxos島のDionysusの神官Oenarusのもとへ嫁いだ。[273]
OenarusはDionysusの神官であったことから、OtusあるいはEphialtesの息子と思われる。後に、OenarusとAriadneの息子Phliasus(or Phlias)は、後継者の絶えたPhliusの町を継承していることからも、Oenarusは、Sicyonの町の創建者Sisyphusの後裔と推定される。[274]
18.6 Lemnosへの移住
BC1250年、Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島に移住した。[275]
18.7 Chiosへの移住
BC1250年、Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島に移住した。[276]
18.8 Peloponnesusへの遠征
BC1250年、OenarusとAriadneはDionysusの儀式を広めるため、Peroponessusへ遠征した。[277]
遠征隊には、Oenarusの娘たちとNaxosの子Leucippusの娘たちがいた。[278]
彼らを招いたのは、Argosの町のAmythaonの子Melampusであった。[279]
Ariadneは旅の途中で死に、Argosの町に埋葬された。[280]
遠征隊の中にいたChoreaの墓もArgosの町にあった。Choreaは、Leucippusの娘と推定される。[281]
18.9 Peparethosへの移住
BC1245年、Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からEuboea島の北にあるPeparethos島へ移住した。[282]
Staphylusの妻Chrysothemisは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnの勝利者であった。[283]
Chrysothemisの父Carmanorは、Crete島西南部のTarrhaの町に住んでいた。[284]
18.10 Cariaへの移住
BC1240年、Ariadneの子Enyeusは、Naxos島からRhodes島対岸のCyrnusの町へ移住した。[285]
Trojan Warのとき、EnyeusはTroyに味方したため、Cyrnusの町はAchillesに攻められて、Enyeusは戦死して、彼の娘Iphisは捕虜になった。[286]
19 Paros
BC1430年、DardanusやTegeatesの息子たちと一緒にDelos島の南の島Parosへ移住した人々もいた。Paros島の名前は、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusに因むと伝えられるが、ParusもArcadiaのParrhasiaから移住に参加したと思われる。[287]
Paros島は、Minosに征服されて、一時的にMinoiaと呼ばれた。[288]
Paros島には、Minosの息子たち、Eurymedon、Nephalion、Chryses、Philolausが住んでいたが、Heraclesによって滅ぼされた。[289]
20 Peparethos
BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からPeparethos島へ移住した。[290]
後に、Staphylusは島を兄弟のPeparethusに託して、Staphylus自身はCaria地方のBybastusの町へ移住した。[291]
21 Rhodes
21.1 最初の住人
史料に残っているRhodes島の最初の住人は、Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasによって、Argosの町からRhodes島へ植民された人々であった。[292]
Pelasgiansの入植は、BC1580年と推定される。
21.2 Creteからの移住
島に現在の名前を与えた女性Rhodosの母Haliaは、Telchinesであった。[293]
Telchinesは、Aegialeia(後のSicyon)の町のAezeiusの子Europsの子Telchinに因む名前で、PeloponnesusからCrete島へ渡った部族であった。
Haliaの父がCrete島からOphiussa(or Stadia)島と呼ばれていたRhodes島へ移住したのは、BC1500年と推定される。[294]
Telchinesが入植後、島はTelchinisと呼ばれるようになった。[295]
21.3 Creteからの移住
BC1456年、Erysichthonは、Crete島東部のPrasusの町からRhodes島へ移住した。[296]
Erysichthonは、島に住んでいたTelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが生まれた。[297]
21.4 Lyciaへの移住
BC1425年、Erysichthonの息子たちとTelchinesとの間で争いが生じて、Telchinesは島を追われた。[298]
TelchinesのLycusは、Lycia地方のXanthus川近くへ移住した。[299]
Telchinis島は、Heliadaeの母の名前に因んで、Rhodes島と呼ばれるようになった。[300]
21.5 1回目の大津波の襲来
BC1420年、Telchinesが島を追われて、Erysichthonの息子たちの時代に、島は大津波に襲われて、水たまりが生じた。太陽の熱で、大地は元通りになった。人々は、ErysichthonをHeliosと同一視して、彼の息子たちは、Heliadae(or Heliads)と呼ばれた。[301]
21.6 内紛の発生
BC1415年、Erysichthonの息子たちの間で争いがあってTenagesは殺され、OchimusとCercaphusを残して、他の息子たちは島から他へ移住した。
21.6.1 Lesbosへの移住
Erysichthonの子Macarは、Lesbos島へ移住した。[302]
Lesbos島は、BC1390年に大津波に襲われて荒廃した。[303]
21.6.2 Cosへの移住
Erysichthonの子Candalusは、Cos島へ移住した。[304]
21.6.3 Egyptへの移住
Erysichthonの子Auges(or Actis, Actics, Atlas)は、Rhodes島からEgyptへ移住して、Heliopolisの町を創建した。[305]
Augesは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれたMacerisに星の知識を伝授した。[306]
21.6.4 Cariaへの移住
Erysichthonの子Triopasは、Caria地方のCherronesusのMelisseusのもとへ逃れた。[307]
Melisseusは、Crete島からCherronesusへ移住した5人のCuretesの一人と推定される。[308]
BC1410年、Triopasは、Ialysusの娘Symeの子Chthoniusが無人のMetapontis(後のSyme)島に入植するのを援助した。[309]
BC1390年、Triopasは、Deucalionの息子たちがThessaly地方からPelasgiansを追放するのを援助して、Dotium平原を分け与えられた。[310]
BC1388年、Triopasは、先住民との争いが原因で、Caria地方のCherronesusへ戻り、Triopiumの町を創建した。[311]
Triopiumの町は、後のCnidusの町の外れの岬にあった。[312]
TriopasはCnidusの町の創建者として像が作られ、その像は、後にDelphiに奉納された。[313]
21.7 2回目の大津波の襲来
BC1390年、Cercaphusの3人の息子たちの時代にRhodes島を再び大津波が襲った。[314]
BC1389年、Cercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、大津波の被害から回復した大地に、3つの町を創建して自分たちの名前を付けた。[315]
21.8 Lesbosからの移住
BC1340年、Macareusの子Leucippusは、Lesbos島からRhodes島に移住した。[316]
21.9 Thessalyからの移住
BC1320年、Lapithesの子Phorbasは、Thessaly地方からRhodes島へ移住した。[317]
伝承では、Phorbasは神託に従ってRhodiansから蛇退治のために招かれたことになっている。しかし、実際は、先住者との争いで同族から植民者を呼び寄せたものであった。
PhorbasをRhodes島へ招いたのは、Macareusの子Leucippusであり、彼とPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟であった。
21.10 Argolisからの移住
BC1213年、Heraclesの子Tlepolemusは、Rhodes島へ移住した。
Tlepolemusは、Mycenaeの町のEurystheusの死後、Hyllus率いるHeracleidaeの一員として、Argolis地方へ帰還した。その後、HeracleidaeはAttica地方へ戻ったが、Tlepolemusは、祖母の弟Licymniusと残留した。Licymniusが死んで、TlepolemusはTirynthiansを率いて、Rhodes島へ移住した。
TlepolemusはRhodes島で3つの町を創建したと伝えられるが、それらは、Cercaphusの息子たちが創建した町の名前と同じであった。[318]
21.11 Argosからの移住
BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島へ植民後、Althaemenes自身は、Rhodes島へ入植した。[319]
Althaemenesの移民団の中のDoriansには、Megaraの町に住んでいたDoriansも含まれていた。[320]
Rhodes島の支配者は、Telchines、Heliadae、Phoenicians、それからCariansになっていたが、Doriansがこれに代わった。[321]
Greeceの7賢人の一人、Rhodes島のLindosの町のCleobulusは、Althaemenesの後裔と推定される。[322]
21.12 Sicilyへの移住
BC688年、Antiphemusは、Rhodes島からLindiansを率いて、Sicily島南東部へ移住してGelaの町を創建した。[323]
Cratonの子EntimusはCretansを率いて、Gelaの町を創建に参加した。[324]
Geloの先祖TelinesもRhodes島北西のTelos島からGelaの町の創建に参加した。[325]
22 Samothrace
22.1 Arcadiaからの移住
BC1430年、Arcadia中央部に長期的な洪水が発生し、Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusも被災した。Dardanusの居住地は、祖父Orchomenusが創建したMethydriumの町と思われる。Methydriumの町は、標高1,000m程の高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[326]
Dardanusは息子たちの一人Deimasに住民の半分を残し、Dardanus自らは残りの住民を率いてPeloponnesus半島を後にして、Aegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のMelas Gulfの沖合に浮かぶSamothrace島に移住した。[327]
Dardanusの母の姉妹Alcyoneも、彼女の夫Megassaresや2人の息子たち、HyperenorやHyrieus、それに娘Pharnaceと共に、Dardanusの移民団に参加した。[328]
Dardanusの兄弟Iasion (or Iasus)は、Cybeleと結婚した。[329]
Cybeleは、これより少し前に、Crete島からTroas地方に移住して来たCabeiriの一人であった。Cybeleは、探鉱活動をしていたIdaean Dactylsと共に、Cabeiri信仰を広めるために、Troas地方からSamothrace島に渡った。
22.2 Cadmusの来島
BC1425年、Agenorの子Cadmusは移民団を率いてSamothrace島に立ち寄り、Dardanusの姉妹Harmoniaと結婚した。[330]
Megassares一家はCadmusの移民団に参加して、Boeotia地方へ移住して、Hyriaの町を創建した。[331]
Megassaresの2人の息子たち、HyrieusとHyperenorは、Cadmusに次ぐ実力者Spartiになった。[332]
22.3 Troasへの移住
BC1420年、Samothrace島を大津波が襲い、Dardanusの妻Chryseと彼の兄弟Iasionは死んだ。[333]
Dardanusは、Cybeleと彼女の息子Corybasを連れて島を去って本土へ渡り、Troas地方のIda山の麓にDardanusの町を創建した。[334]
DardanusがTroas地方に渡ったとき、その地には、少し前にCrete島から移住して来ていたTeucrians(or Gergis)の王Teucrusがいた。Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚してTeucrusの後継者となり、Troy王国の始祖となった。[335]
DardanusをTroas地方に導いたのは、Cybeleであった。彼女と一緒にCrete島から移住して来た人々がその地に住んでいた。
CybeleとCorybasはIda山に住み、Cybeleは女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼んで踊りを伝えた。[336]
22.4 Samosからの移住
BC1065年、Samos島の住人がIoniansに対して陰謀を企んでいるという理由で、Androclus率いるEphesiansが島に攻め込んだ。Samos島の住民の一部は、Samothrace島へ移住した。[337]
22.5 Thraciaへの移住
BC1060年、Samothrace島のSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerinthusの町を創建した。[338]
その後、DariusIの時代までの間に、Strymon流域に住むPaeoniansはPerinthusの町を攻略した。[339]
22.6 Samosへの移住
BC1055年、Samos島から追い出された人々は、Samos島からEphesiansを追い出して、島を奪い返した。[340]
23 Sciathos
Thrace地方のPelasgiansがScyros島に渡って来て、定住した。[341]
BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島に移住した。[342]
その後まもなく、Pelasgiansは、Chalcidice半島からSciathos島へ渡ったと推定される。[343]
24 Seriphus
BC1343年、Danaeの子Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れて、Dictysと彼の妻Clymeneの庇護を受けた。[344]
Apollodrosによれば、Dictysと彼の兄弟PolydectesがSeriphusの町を創建したことになっている。[345]
系図を作成すると、その創建の時期は、PerseusがProetusを殺したのと同じ頃である。
PolydectesとDictysは、Perseusに協力してProetusを殺し、Perseusと共にSeriphus島に逃げ込んだと推定される。[346]
彼らは、Danausの娘たちを先祖に持つ、親戚であった。
Dictysは、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの息子であった。[347]
Perseusは、Danausの娘Hypermnestraの子Abasの子Acrisiusの娘Danaeの息子であった。
BC1332年、PerseusはSeriphus島からPeloponnesusへ帰り、Tirynsの町を奪取した。 [348]
Pausaniasは、各地でPerseusを英雄として祀っているが、Seriphus島で一番盛大に祀られていると伝えている。[349]
25 Syme
BC1410年、Ialysusの娘Symeの子ChthoniusはTriopasと共に、無人のMetapontis(後のSyme)島に入植した。[350]
Chthoniusは、Erysichthonの子Triopasの従兄弟で、Triopasと共にRhodes島からCaria地方のCherronesusへ移住して、そこからSyme島に入植したと推定される。
BC1188年、Chthoniusの後裔である、CharopsとAglaiaとの間の息子Nireusは、3隻の船を率いて、Agamemnonと共にTroyへ遠征した。Homerの軍船目録の中で、最小の船数である。Nireusが、遠征軍の中で、Achillesに次ぐ美男であり、当時の有名人であったと思われる。[351]
しかし、NireusはAeneasに討ち取られて、島に帰ることはなかった。[352]
Trojan Warの後、Syme島は、Cariansによって占拠されたが、干ばつの後で、Cariansは島からいなくなった。[353]
LacedaemoniansとArgivesの遠征隊が到着するまで、Syme島は無人であった。[354]
26 Taphos
TeleboansはLeucas半島に住んでいたが、その近くのTaphosにも居住していたと思われる。[355]
BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からLeucas半島近くの島に移住してTaphosの町を創建した。[356]
Taphiusの子Anchialusは、Troy遠征に参加して、Hectorに討たれた。[357]
Taphosの町は、Anchialusの子Mentesに継承された。[358]
27 Tenedos
BC1200年、Cycnus(or Cygnus)の息子Tenes(or Tenes)は、Troas地方の沖に浮かぶLeucophrys島へ移住して、島の名前をTenedos島に変えた。Cycnusは、Hecatoの娘Calyceの息子で、Iliumの町の南にあるColonaeの町を治めていた。[359]
BC1188年、Tenedos島から本土のTroy地方まで、最短約5kmと近く、AgamemnonはTenedos島を前進基地とするために、島を急襲した。[360]
TenesはAchillesに討ち取られ、島の住人はPeloponnesus半島のCorinthの町とMycenaeの町の間にあるTenea(or Genea)の町へ強制移住させられた。[361]
Teneaの町の西方約10kmの所には、Agamemnonが生まれ育ったCleonaeの町があった。[362]
Tenedos島の住人の移送は、Lemnos島のEuneusが担当した。Euneusは、Teneaの町の近くのNemeaの町の出身であった。[363]
BC750年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasに率いられて、Sicily島に建設されたSyracuseの町への移民のほとんどはTeneaの町の住人であった。[364]
BC1148年、Agamemnonの子Orestes率いる遠征隊が、Trojan Warの後、ほぼ無人であったTenedos島を訪問した。Amyclaeの町のPeisanderが島に入植して、Tenedosの町を創建した。[365]
Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[366]
BC4世紀の歴史家Nymphodorusは、『アジア周航記』の中で、Tenedos島を美女の島だと記している。[367]
28 Thasus
BC1400年、Agenorの子Cilixの子Thasusは、Ida山近くのThebeの町からThasus島に入植した。[368]
Thasusの目的は、島での金の採掘であった。[368-1]
Herodotusは、Thasus島の入植からAmphitryonの子Heracles誕生まで5世代であったと記している。[369]
Thasusは、Cilixの兄弟Cadmusの子Polydorusと同時代である。
Heraclesは、Polydorusの子Labdacusの子Laiusの子Oedipusと同時代である。
つまり、ThasusからHeraclesまでは、3世代しかない。しかし、推定される年代から計算すると、1世代は25年となる。Herodotusの時代には、BC2世紀の年代記作者Castor of Rhodesが書いた年代記よりも遥かに古い年代記が存在していたのかもしれない。
BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島から対岸の本土に移住して、Galepsusの町を創建した。[370]
Galepsusの目的は、Scapte-Hyleでの金の採掘であった。[370-1]
BC5世紀の歴史家Thucydidesは、Scapte-Hyleの金の採掘権を持っていたが、そこで暗殺された。[370-2]
29 Thera
BC1425年、Agenorの子Cadmusが率いる移民団は、Calliste島(後のThera島)に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusを指導者とする人々を島に定住させた。[371]
BC1099年、Autesionの子Therasは、移民団を率いてSpartaの町からCalliste島へ移民した。[372]
当時、島には、Cadmusの移民団から離れて、島に定住した人々の後裔が住んでいた。[373]
彼らは、Therasを彼らの指導者として受け入れ、島はThera島と呼ばれるようになった。[374]
Therasの移民団は、LacedaemoniansとLemnos島からPelasgiansに追われてLaconia地方へ逃げ込んだMinyansの一部とで構成された。[375]
2人のSparta王EurysthenesとProclesは、お互いに対立していたが、Therasの植民に関しては、協力して支援した。[376]
Therasは、彼らの叔父であり、後見人であった。[377]
BC630年、Polymnestusの子Battusは、Thera島から移民団を率いてLibyaに渡り、Cyreneの町を創建した。[378]
Olympiadのsingle-stade raceで4回、double-stade raceで3回優勝したLacedaemonianのChionisは、Cyreneの町の建設に協力した。[379]
おわり |