1 はじめに
Greeceの中でBoeotia地方だけが3つの海に出る港があったと、BC4世紀の歴史家Ephorusが述べている。つまり、ItalyやSicily方面への海、MacedoniaやHellespont方面への海、CyprusやEgypt方面への海であった。[1]
20世紀初頭の英国の詩人で考古学者のStanley Cassonは、Cephisus川が流れ込むCopais湖を中心としたBoeotia地方はGreece発祥の地であり、豊かな土壌のため、他に依存しない自己完結型の地方であったと記している。[2]
ここでは、次の町の歴史について記述する。
Alalcomenae, Anthedon, Ascra, Aspledon, Chaeroneia (Arne), Copae, Coroneia, Eleutherae, Eutresis, Haliartus, Hyria (Euboea), Hysiae, Lebadeia (Mideia), Leuctra, Medeon, Ocaleae, Onchestus, Orchomenus (Andreis), Plataea, Schoenus, Tanagra, Thespiae.
なお、Acraephnium、Hyettus、Olmones (Almones)、Phlegyasについては、Orchomenusの中で記述する。
2 Cadmus移住前のBoeotia
2.1 Ectenesの定住
BC1750年、Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流で、長期間にわたる大洪水が発生した。Ogygus時代の大洪水である。[3]
Cephisus川の流域で暮らしていた人々は、新たな土地を求めて、各地へ移住した。
Ogygus率いるEctenesは、Cephisus川の河口近くにできた大きな湖の南側へ移住した。[4]
Ectenesの居住地の範囲は、西はHelicon山の北麓から、東はEuripus海峡近くまでの広範囲に及んだ。[5]
Thebesの町の一番古いOgygian gateの名前は、Ogygusに因んで付けられた。[6]
2.2 Ectenesの各地への移住
BC1580年、Ogygusから6世代目のとき、Hyantes、Temmices、Aonesに圧迫されて、Ectenesは、一部を残して、各地へ移住した。Ectenesは、Attica地方やThessaly地方、そして、海を渡ってEgyptへ移住した。[7]
Thessaly地方へ向かった人々を率いたのは、Hellenesに名を与えたHellenの父Deucalionの父であった。Egyptへ向かった人々の中には、初代Athens王となるCecropsも含まれていた。
第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。
第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaは、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。
これらの結婚は、Thessaly地方へ向かった人々とEgyptへ向かった人々との親戚関係を証明している。[8]
Ectenesの名前で呼ばれていたBoeotia地方の住人は、Ectenesが去った後で、Hyantes、あるいはAoniansと呼ばれるようになった。[9]
2.3 Ectenesの再定住
Egyptへ移住したOgygusの子孫は、Cecropsを指導者として、Attica地方に再移住した。
Cecropsの甥と思われるCranausは、Cecropsより遅れてEgyptから渡来した。
Cranausは、Ogygusが昔住んでいたBoeotia地方のTriton川の近くに居住した。[10]
当時、Cranausの娘Atthisは、Athenaの異名を持つ幼子であった。[11]
Triton川のほとりには、CecropsがCranausに命じて建設させたEleusisの町とAthensの町があったが、Copais湖に水没した。[12]
しかし、BC4世紀にAlexander the Greatの命を受けたChalcisの町の鉱山師Cratesが地下水路の詰まり物を除去した。水位が下がったCopais湖の中からAthensの町が現れた。[13]
3 Alalcomenaeの歴史
Homerは、Athenaの名前にAlalcomenaeを冠しているが、Alalcomenaeの町はAthena生誕の地であった。[14]
CecropsがAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川のほとりにAthensの町とEleusisの町を創建したと伝えられるが、実際にその地に住んだのはCranausであったと思われる。[15]
Cranausの娘Atthis(別名、Athena)は、Triton川のほとりで育った。[16]
BC86年、Romeの将軍Sullaは、Alalcomenaeの町を破壊し、Athena神殿にあった象牙造りのAthena神像を略奪した。[17]
Pausaniasの時代には、崩れた神殿はツタに覆われていた。[18]
Alalcomenaeの町は、山の急斜面にある小さな町で、その下の平地にAthena神殿があった。[19]
4 Anthedonの歴史
BC1420年、Atlasの娘Alcyoneの子Anthasは、Anthedonの町を創建した。[20]
Alcyoneには、2人の息子たち、HyrieusとHyperenorがいた。[21]
Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたことから、Anthedonの町のAnthasとは、Hyperenorの別名であったと思われる。[22]
Anthas (別名Hyperenor)の父は、Arcadia地方からSamothrace島を経由してBoeotia地方へ移住して来たMegassaresと思われる。したがって、Anthedonの町に最初に住んだGreeksは、Arcadiansであった。[23]
その後、AeolisであるSisyphusの子Aloeusの子Aloeusが、Sicyonの町からAnthedonの町へ移住して来たと推定される。
推定の根拠の一つは、AloeusとIphimedeiaの2人の息子たち、OtusとEphialtesの墓がAnthedonの町にあったと伝えられていることである。[24]
もう一つは、Aloeusの妻Iphimedeiaと娘のPancratisがThraciansによって、Thessaly地方のPhthiotisの近くから拉致されたと伝えられることである。
彼女たちが拉致された場所は、Sicyonの町ではなくAnthedonの町と思われることである。[25]
この当時、Thebesの町から北北東へ約12kmの所に、Athamasの子Schoenusが創建したSchoinosの町があったが、Anthedonの町は、そこからさらに北東へ約12kmの海岸の近くにあった。[26]
Athamasの子Schoenusは、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusにとっては、父の従兄弟であった。[27]
また、Aloeusの父の兄弟であるSisyphusの子Aeetesは、Colchisへ移住しており、Anthedonの町は、Colchisへ向けての航海に適した位置にあった。[28]
5 Ascraの歴史
BC1320年、Ascraの子Oeoclusは、Aloeusの2人の息子たち、OtusとEphialtesと共に、Asopus川源流付近にAscraの町を創建した。[29]
Oeoclusの母Ascraは、Sisyphusの子Aloeusの娘で、Ascraの夫は、Sisyphusの子Thersanderの子Haliartusであったと思われる。
Haliartusは、Athamasの養子で、Haliartusの町の創建者であった。[30]
Oeoclusは、Haliartusの町から南へ移住して、Ascraの町を創建した。
Oeoclusに協力した、Aloeusの息子たちとは、Sisyphusの子Aloeusを共通の祖父とする従兄弟同士であったと推定される。
6 Aspledonの歴史
BC1350年、Athamasの子Orchomenusの子Aspledonは、Copaic Lake北東にAspledonの町を創建した。[31]
Pausaniasは、水不足のために住民はAspledonの町を見捨てたと伝えているが、Straboは、Aspledonの町を川の近くにあり、気候に恵まれた町だと伝えている。[32]
Orionの父Hyrieusの時代には、Aspledonの孫と思われるHymenaeusがAspledonの町に住んでいた。[33]
また、Boeotiansが50隻で参加しているTroy遠征に、Orchomenusの町とAspledonの町からは30隻参加している。Aspledonの町にもかなりの数の住民が住んでいたものと思われる。[34]
AD1世紀のPlinyも、Boeotia地方の町の名前にAspledonを記している。[35]
7 Chaeroneia (Arne)の歴史
BC1186年、Thessaly地方のArneの町に住んでいたBoeotiansは、Greece北西部からThessaly地方に侵入したThesproteansに追われて、Boeotia地方へ移住した。
予言者PeripoltasやPeneleosの子Opheltesに率いられたBoeotiansは、Boeotia地方の西部辺境の地に定住して、町をArneと呼んだ。[36]
BC1126年、Opheltesの子Damasichthonは、Thebesの町に住むCadmusの後裔Autesionを追い出し、Orchomenusの町をも併合して、Boeotia地方全域を支配下に置いた。[37]
このとき、Orchomenusの町の一部の住人は、Theroの子Chaeronに率いられて、Boeotiansが退去したArneの町に移住して、町の名前をChaeroneiaに変えた。[38]
Chaeroneiaの町は、亡命中のAthensの町から帰還したOrchomeniansが創建したと思われ、Theroの祖父Iolais(or Iolaus)は、Presbonの子Clymenusの後裔であったと思われる。[39]
Iolaisの時代にTrojan Warがあり、Orchomenusの町からも遠征に参加した。Iolaisは戦士の年齢に満たないためにOrchomenusの町に残っていた。手薄になった町を狙って、Thraciansが侵入し、Orchomeniansの一部はAeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosへ移住した。[40]
また一部のOrchomeniansは、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[41]
Iolaisの娘Leipephilene(or Leipephile)は、Antiochusの子Phylasと結婚し、娘Theroが生まれた。[42]
Antiochusは、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子で、Athensの町の名祖の一人であった。[43]
したがって、Theroの子Chaeronと共にChaeroneiaの町の創建者となった住人は、3世代に渡ってAthensの町で亡命生活をしていたOrchomeniansであった。
しかし、Chaironeiaの町の近くのLebadeiaの町やStirisの町には、Athensの町からの移住者が住んでおり、Orchomenusの町とAthensの町の対立にChaironeiaの町も巻き込まれた。[44]
BC424年、Chaironeiaの町は、Boeotia領Orchomenusの町の管轄下にあった。
Atheniansは、Chaironeiaの町の内部から反乱を起こさせようとしたが失敗し、Chaironeiaの町はBoeotiansによって救われた。[45]
8 Copaeの歴史
BC1256年、Orchomenusの町とThebesの町の戦いがあり、Orchomenusの町が敗れた。[46]
Onchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Onchestusの町から追い出されてCopais湖の北へ移住して、Copaeの町を創建した。[47]
9 Coroneiaの歴史
9.1 Trojan War以前
BC1371年、Thersanderの子CoronusがCopais湖の南西にCoroneiaの町を創建した。CoronusはAthamasの養子になって、領地を分け与えられたと伝えられる。Athamasが彼の兄弟Sisyphusの子Thersanderの子Coronusを呼び寄せて、入植させたものと思われる。[48]
BC1325年、AmphionとZethusのThebes攻めのときに、Boeotusの子Itonusと共にCoroneiaの町の住人も参加したと思われる。
Thebes攻めには、Locris地方のPhysciusとMaeraとの間の子Locrusも姉妹Thebeの夫Zethusとの縁で参加した。Maeraの父Proetusは、Coroneiaの町の創建者Coronusの兄弟であった。[49]
Coroneiaの町の近くには、Itonian Athenaの神域があった。[50]
Itonian Athenaは、Amphictyonの子Itonusに由来するもので、Coroneiaの町付近以外では、Thessaly地方のItonusの町や、Pheraeの町とLarisaの町との間、そして、Arneの町の近くにあった。[51]
Arneの町は、Boeotusが祖父Aeolusから受け継いだ町であり、Itonusの町は、Boeotusの父Itonusが創建した町であった。[52]
また、Amphictyonの子Physciusの子Locrus率いるLelegesもAmphionとZethusのThebes攻めに参加した。[53]
戦いの後で、Locris地方のLelegesも、Boeotiansと共にCoroneiaの町の共住者となったと思われる。Aristotleは、LelegesがBoeotia地方を領したと伝えている。[54]
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々のことだと、Dionysius of Halicarnassusが記している。[55]
Argives、Thebans、Arcadians、Pisaeans、それに、Phthiansが、Locriansと共にOpusの町を建設して混住し、Lelegesと呼ばれるようになった。[56]
Aristotleが記しているLelegesは、そのLocriansにBoeotiansが加わった人々のことを意味しているようである。
BC1188年、Troy遠征で手薄になったCoroneiaの町に、Pelasgiansが侵入して住民を追い出し、町を追われた人々は父祖の地であるThessaly地方のArneの町へ逃れた。[57]
2年後、Arneの町はThesprotiansの侵入を受けて、住民の一部は、Peneleusの子Opheltesと共にBoeotia地方へ帰還した。しかし、彼らはCoroneiaの町を奪還することができずに、後のChaeroneiaの町となる土地に定住して、Arneの町を創建した。[58]
Thessaly地方のArneの町には多くの住人が、penestaiと呼ばれる奴隷身分となって残留し、3代目まで住み続けた[59]
9.2 Trojan War以後
Trojan Warの60年後、Thessaly地方のArneの町に残留していた人々も町を追い出され、Boeotia地方へと逃れた。彼らは、先に帰還していた人々と共に、Opheltesの子Damasichthonを指導者として、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansを追い出し、近くのOrchomenusの町をも併合した。[60]
さらに、Damasichthonは、Tisamenusの子AutesionをThebesの町から追い出して、その後、Boeotia地方と呼ばれる地方全域を支配下に置いた。[61]
Damasichthonは、Boeotiansの名祖であるAeolusの娘Melanippeの子Boeotusの後裔であり、Boeotiansの総領であった。地方の名称がBoeotiaとなったのは、彼がThebesの町の主となった後のことであった。[62]
10 Eleutheraeの歴史
BC1370年、Aethusaの子Eleutherは、Hyriaの町からCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeを創建した。[63]
Eleutheraeの町は、Cadmusの移民団に含まれていた者たちの後裔によって建設された町で、Boeotia地方にあった。[64]
その後、Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderが東へ移住して、Tanagraの町を創建した。[65]
後に、Thebesの町の支配者は、Cadmusの後裔から、Boeotiansになったが、Eleutheraeの町の住人は、彼らに従わなかったようである。
Homerの軍船目録に、Eleutheraeの町やTanagraの町は、登場しない。
Adrastusが率いるArgivesによるThebes攻めのとき、戦死した将兵の遺体は、TheseusがThebesの町から引き取り、将官はEleusisの町に、兵士はEleutheraeの町に埋葬された。[66]
既に、この頃からEleutheraeの町は、Athensの町に好意を寄せており、後に、Attica地方の町になった。[67]
11 Eutresisの歴史
BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて移住した。
彼らは、Thebesの町をHypsistan gateから出てLeuktraの町へ向かって約14km進んだ所にEutresisの町を創建した。[68]
12 Haliartusの歴史
12.1 Trojan War以前
Cadmusの娘Semeleの子Dionysusは、Haliartusの町にあるCissusaの泉で生まれてすぐ乳母に洗われたと伝えられている。[69]
後に、Thraciansの捕虜となったThebansが、Haliartusの町でDionysus神に助けられたとも伝えられ、DionysusのHaliartus生誕地説に真実味を与えている。[70]
しかし、Dionysus誕生時、Haliartusの町は創建されておらず、そこにはHyantesが住んでいた。[71]
恐らく、CadmusとHyantesとの戦いは、長期にわたり、SemeleはHyantesの捕虜となってDionysusを生んだと思われる。[72]
Haliartusの町の創建者は、Athamasの養子になったThersanderの子Haliartusであった。[73]
Haliartusの町の創建は、BC1371年と推定される。
Thebesの町からHaliartusの町のAlopekosとの戦いを任せられた、Attica地方のThoricusの町に住むDeion (or Deioneus)の子Cephalusは、Alopekosに勝利した。Cephalusは、Minosの将CynasをAlopekosに差し向けた。[74]
このAlopekosは、Thersanderの子Haliartusの孫で、Minosとの戦いで死んだHippomenes (or Oncestus)の子Megareusの従兄弟と思われる。[75]
12.2 Trojan War以後
Pausaniasは、Persian WarでHaliartusの町がGreece側に味方したため、Persiansによって破却されたと伝えている。[76]
しかし、Herodotusは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかったのは、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansだと伝えている。[77]
Herodotusは、ThebansがPlataeaの町とThespiaeの町は敵方だと進言したために、Persia軍に焼かれたと伝えている。[78]
Herodotusは、Persian Warについて詳細に伝えているが、まったく、Haliartusの町について言及していない。また、Xerxesが主力部隊を率いてBoeotia地方に侵入したとき、Amyntasの子Alexanderは、町に危害が加えられないようにMacedonia兵を各町に配置した。
Pausaniasは、Plataeaの町かThespiaeの町のことをHaliartusの町の出来事と勘違いしたのではないかと思われる。
BC424年、The Battle of Deliumで、Haliartusの町はAthensの町に敵対してBoeotiansの戦列の中央でCoronaeansやCopaeansと共に戦った。[79]
BC395年、SpartansとThebansとの戦いの舞台となったHaliartusの町には、Spartiがいた。
Trojan Warの60年後にThessaly地方のArneの町から移住して来たBoeotiansがThebesの町の支配者になった後で、Haliartusの町もその支配下に入ったと思われる。[80]
BC171年、MacedoniaとRomeの戦いで、Haliartusの町はMacedoniaに味方したため、Romeの執政官Lucretiusによって町は破壊された。Haliartusの町の住民約2,500人は奴隷として売られ、町の領土はAthensの町に与えられた。[81]
Pausaniasは、Haliartusの町にPandionの子Cecropsの英雄廟があったと記している。Haliartusの町がAthens領になってから、町が古くからAthensの町の支配下にあったかのように見せるために造営したと思われる。[82]
しかし、Cecropsは一般的な伝承ではErechtheusの息子である。英雄廟の造営者は、BC1世紀のCastorの年代記を参照したものと思われる。[83]
Castorは、第7代Athens王Cecropsを第5代Athens王Pandionの子Erechtheusの兄弟と記している。[84]
13 Hyria (Euboea)の歴史
13.1 Euboeaの創建
Cadmusが移民団を率いて立ち寄ったSamothrace島には、少し前に、Dardanusに率いられてArcadia地方から移住して来たPelasgiansがいた。彼らの中に、Megassares一家もいて、Cadmusの移民団に参加した。Megassaresの妻Alcyoneは、Cadmusの妻Harmoniaの母Electraの妹であった。[85]
Megassaresは、Euboea島への渡り口付近のBoeotia地方の土地に定住して、Euboeaと呼ばれる町を創建した。
Apollodorosは、Hyrieusの息子たち、NycteusとLycusは、Phlegyasを殺害して、「Euboea」から「Hyria」へ逃亡したと伝えている。[86]
次のことから、「Euboea」は、Aulisの町近くのHyriaの町の古い名前で、「Hyria」は、Cithaeron山麓のHysiaeの町と推定される。
1) Hyrieusの息子たちは、Hyrieusの名前に因むHyriaの町に住んでいた。[87]
2) Cithaeron山麓のHysiaeは、Hyriaとも呼ばれていた。[88]
13.2 Hyriaの創建
Megassaresの息子と思われるHyrieus (or Chthonius)は父の跡を継いで、Euboeaの町のすぐ近くにHyriaの町を創建した。[89]
MegassaresをHyrieusの父と推定したのは、つぎの理由からである。
Megassaresの名前は、ApollodorosがSyriaからCiliciaへ移住して、Celenderisの町を創建したSandocusの妻Pharnaceの父であり、Hyriaの王として伝えているだけである。
Sandocusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseから5代目の子孫であった。[90]
Athens王の在位から逆算するとCecropsは、BC1596年生まれと推定され、1世代間を男25年、女20年とすれば、Sandocusは、BC1445年生まれと推定される。
したがって、Sandocusの妻Pharnaceの父Megassaresは、BC1465年生まれと推定される。
一方、NycteusはHyrieusの息子であり、Nycteusの娘Nycteisの夫は、Cadmusの子Polydorusであった。[91]
つまり、NycteusはCadmusと同世代であり、 Nycteusの父Hyrieusは、Cadmus時代のSpartiのひとりで、Chthoniusとも呼ばれていた。[92]
また、Nycteusが建設したHysiaeの町は、Hyriaの町の植民市であったことから、Nycteusの父Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたと思われる。[93]
以上のことから、Hyrieusの父は、ApollodorosがHyriaの王として伝えているPharnaceの父Megassareと推定される。[94]
13.3 Italyへの移住
BC1390年、Messapusは、Hyriaの町からItaly半島東南部へ移住した。[95]
Messapusは、MegassaresとOrchomenusの娘Alcyoneとの息子Hyrieusの息子と推定される。[96]
Messapusが入植したPeucetia地方は、Messapia地方と呼ばれるようになった。[97]
Messapia地方には、Hyriaの町があった。Herodotusは、その町の創建者をDaedalusの子Iapyxと伝えているが、Messapusが創建した町と思われる。[98]
14 Hysiaeの歴史
BC1390年、大津波がEuripus海峡近くの町を襲い、Hyriaの町も被災した。Hyrieusの2人の息子たち、NycteusとLycusは、内陸部に新天地を求めて、Hyriaの町から南西方へ約33km離れたCithaeron山麓にHysiaeの町を創建した。[99]
NycteusとLycusがPhlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaの町に逃れたという伝承がある。[100]
Hyriaは、Hysiaeを指した呼び名だとも伝えられ、このEuboeaは島ではなく、Aulis付近の地名で、恐らく、Hyriaの町の古い名前と思われる。[101]
15 Lebadeia (Mideia)の歴史
15.1 Lebadeiaの創建
BC1340年、Athamasの子Orchomenusの子Aspledonは、Copaic Lake東岸に母の名前に因んだMideiaの町を創建した。[102]
Straboは、Mideiaの町は湖に沈んだと述べているが、別なMideiaがあったのかもしれない。[103]
BC1260年、Athensの町から来たLebadusが高台にあったMideiaの町の下方にLebadeiaの町を創建し、Mideiaの町の住人はLebadeiaの町へ移り住んだ。[104]
Lebadeiaの町の西南西11kmのPhocis地方のStirisの町は、Athensの町のAegeusに追われたOeneusの子Peteusが創建した町であった。LebadusはPeteusの兄弟で、彼と同じ時期に、Aegeusに追われて移住したものと推定される。[105]
BC1209年、Orneusの子Peteusの子MenestheusがAegeusの子Theseusを追い出してAthens王になると、Atheniansは、Lebadeiaの町からAthensの町へ戻ったと思われる。[106]
Trojan Warの時代、Lebadeiaの町にはBoeotiansが住んでいたようであり、Boeotusの子Itonusの子Archilycusの子Arcesilausは、Boeotiansを率いてTroyへ遠征して戦死した。[107]
Arcesilausの従兄弟Lacritusの子LeitusがArcesilausの遺骨を持ち帰って、Lebadeiaの町に埋葬した。
したがって、Lebadeiaの町は、Orchomenusの町やCoroneiaの町とは異なり、ThraciansやPelasgiansに占領されなかったものと思われる。[108]
15.2 Trophoniusの神域
Lebadeiaの町は、Trophonius神に捧げられた町であった。[109]
このTrophoniusはOrchomenus王Erginusの息子で、Agamedesと兄弟であり、Delphiの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[110]
しかし、Erginusの死後、TrophoniusやAgamedesではなく、Erginusの兄弟の後裔が王位を継承しているので、Erginusの息子たちは、創作された人物と思われる。[111]
Trophoniusには子供たちがいて、娘の名前はHercynaであった。[112]
Trophoniusの神域がいつ頃からあったのかは定かではないが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。
第2次Messenia戦争で、Aristomenesが紛失した楯をTrophoniusの神域から取戻し、後にAristomenesはLebadeiaに楯を奉納したという伝承がある。[113]
また、BC6世紀にLydia王Croesusが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、Trophoniusの神託所も名前が挙がっていた。[114]
BC1世紀、Romeの将軍SullaがLebadeiaの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[115]
Pausaniasが伝えているLebadeiaの町にあったTrophoniusの木彫神像がMinosと同時代のDaedalusの作品に間違いなければ、Trophoniusは既にBC13世紀には神として崇められていたことになる。[116]
16 Leuctraの歴史
Leuctraの町の名付け親は、BC371年のLeuctraの戦いより前の時代に、その地でLacedaemoniansに乱暴されて自害したことで有名になった娘の父Leuctrusだと伝えられる。[117]
それ以外に、Leuctraの戦いより前の時代のLeuctraの町についての記録は残っていない。
恐らく、AmphionとZethusが創建したEutresisの町か、Thespiaeの町の人々が住んでいた小さな集落であったと思われる。[118]
17 Medeonの歴史
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaの町から東へ移住して、Phocis地方にMedeonの町を創建した。[119]
Homerは、軍船目録の中で、Boeotia地方のMedeonの町の名前を挙げているが、その町はAgamemnonの時代には存在していなかった。[120]
Boeotia地方のMedeonの町の名前は、Phocis地方のMedeonの町の名前に因んで名付けられた。[121]
18 Ocaleaeの歴史
BC1263年、MinosとAthensの町との戦いで、Haliartusの町のMegareusがMegaraの町に加勢して戦死した。[122]
この戦いの後で、Minosの兄弟RhadamanthysがOcaleaeの町へ移住した。[123]
このとき、Crete島から移住した人々は大きな集団であったと思われる。
Haliartusの町には、Crete島産のstorax-shrubの群生があったという。[124]
BC1256年、MinyansとThebansとの戦いでは、Rhadamanthysは、Thebesの町に加勢して、勝利に貢献したと思われる。この戦いで戦死したAmphitryonの妻AlcmenaがRhadamanthysと再婚していることからも推定される。[125]
BC4世紀にSparta王Agesilausは、Rhadamanthysの妻Alcmenaの墓をSpartaの町へ改葬した。
その時、Alcmenaの墓に、Egypt文字に似た古代文字が書かれた青銅板があるのを発見した。[126]
Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidosに託して、Egyptの王Nectanabisに送って解読した。[127]
19 Onchestusの歴史
古くは、Hyantesが後のOnchestusの町を中心に広く住んでいたが、Cadmusによって追い出された。[128]
Onchestusの町はHaliartusの町に隣接し、系図を作成するとHaliartusの町の創建者Haliartusと、Onchestusの町に住むMegareusとの間は、1世代の余白がある。
Megareusの父の名前は、HippomenesともOnchestusとも伝えられるが、Haliartusの町を出て、Onchestusの町を創建した人物と思われる。[129]
BC1263年、父からOnchestusの町を継承したMegareusは、Minosとの戦いで、Megaraの町のNisusに援軍として駆け付けて戦死した。Nisusは、Megareusの妻Iphinoeの父であり、Megareusの姉妹Habroteの夫でもあった。[130]
BC1256年、Minyansの王Clymenusが、Onchestusの町でThebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[131]
Clymenusの子Erginusは、Thebesの町に攻め込み勝利するが、その後の戦いで、Thebesの町に敗れた。[132]
Onchestusの町を父Megareusから継承したHippomenesは、Thebans、あるいは、Rhadamanthysと共に移住して来たCretansに圧迫されて、Arcadia地方へ移住した。[133]
また、Onchestusの子Plataeusの子Copaeusも、Copais湖対岸へ移住してCopaeの町を創建した。[134]
20 Orchomenus (Andreis)の歴史
20.1 AthamasとAndreusの入植
20.1.1 Athamasの入植
Cadmusの入植から30年遅れて、AeolisがBoeotia地方へ入植した。
Boeotia地方へ初めて入植したAeolisは、Hellenの子Aeolusの子Athamasであった。Athamasは、Thessaly地方のArneの町からPagasetic Gulf西岸へ移住して、Halusの町を創建した。
BC1390年、Halusの町が大津波によって洗い流され、Athamasは、Copais湖の近くへ移住した。[135]
20.1.2 Acraephniumの創建
Athamasは、Copais湖東岸にAcraephniumの町を創建し、Athamasの子Ptousは近くの山に名を残した。[136]
Athamasは、Acraephniumの町とCopais湖の間にあるAthamantian平野に住んでいた。[137]
Athamasが入植したとき、Copais湖周辺にはCadmusと共に移住して来たEncheleansが住んでいた。[138]
20.1.3 Athamasの子供たち
AthamasとCadmusの娘Inoが結婚して2人の息子たち、Learchus と Melicertesが生まれたと多くの伝承が伝えているが、作り話である。[139]
AthamasがBoeotia地方へ移住して来たとき、彼は55歳と推定され、多くの子供たちがいた。
Athamasの子Phrixusは、Ephyraea (後のCorinth)の町のSisyphusの子Aeetesが、津波で被災した人々と共に新天地へ向かう遠征に参加した。Aeetesは、Phrixusの従兄弟であった。
移民団の中にはAeetesの娘Chalciopeがいて、Phrixusは、Chalciopeと結婚した。[140]
Athamasの子Schoeneusは、Thebesの町とAnthedonの町の間に移住して、Schoenusの町を創建した。[141]
20.1.4 Andreis (後のOrchomenus)の創建
Orchomenusの町の創建者について、次の2つの伝承がある。
1) Orchomenusの町は、Peneius河神の子Andreusが創建し、当時の町の名前はAndreisであった。[142]
2) 昔、Deucalionが住んでいた、Iolcusの町がある地方から、Aeolusの子MinyasがCadmusの地と境を接する土地にOrchomenusの町を創建した。[143]
以上の伝承から、Orchomenusの町の創建者は、Thessaly地方北部を流れるPeneius川付近を領していたAeolusの息子で、Minyasという別名を持つAndreusであったと推定される。
また、このMinyasは、BC5世紀の神話学者Pherecydesが伝えているNeleusの妻Chlorisの父Amphionの母の母Persephoneの父Minyasと同一人物と思われる。[144]
Aeolusの子Andreusが、Thessaly地方のArneの町から移住して、Andreis (後のOrchomenus)の町を創建したのは、BC1380年と推定される。[145]
20.1.5 AthamasとAndreusの入植時期
Pausaniasによれば、Andreusは後から来たAthamasに土地を与えたというが、逆であったと思われる。Copais湖東岸に先住していたAthamasが、後から来たAndreusに土地を分け与えたと理解した方が妥当である。[146]
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であったが、Andreusの父をAthamasの父、つまり、AndreusとAthamasを兄弟とするのは無理である。というのは、AndreusがAthamasの孫娘を妻にしているからである。[147]
Andreusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの息子であり、AndreusにとってAthamasは、曾祖父Mimasの兄弟であった。
奇異な感じがするが、Andreusは成年に達したばかりであったが、Athamasは結婚適齢期に達した孫のいる老人であり、両者の間には、2世代の差があった。[148]
後にOrchomenusの町の名声が高まり、AndreusがAthamasに土地を与えたという逆の逸話ができたと思われる。
20.1.6 Andreisの位置
Athamasが入植した当時、Copais湖周辺にはEncheleansの他に、Cadmusに追われたHyantesも居住していた。[149]
また、Phocis地方にはThraciansが居住していた。[150]
Aeolisは、Athamasが入植したAcraephiumの町から徐々にCopais湖西側へ居住範囲を広げて行った。Athamasのすぐ後に入植したAndreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の近くにあったと思われる。[151]
Straboは、古いOrchomenusの町がCopais湖に沈み、Copais湖の西側のAcontius山の近くに新しい町を建設したと伝えている。
Andreisの町は、Acraephiumの町の北側にあったと推定される。[152]
20.2 Andreusの子Eteoclesの時代
20.2.1 Olmonesの創建
BC1365年、Sisyphusの子Almusは、Corinthの町からCopais湖の北へ移住して来た。[153]
Pausaniasは、EteoclesがAlmusに土地を分け与えたと伝えている。[154]
Pausaniasは、AndreusがAthamasに土地を分け与えたと、逆に記していたが、ここでも、逆のように記している。
Eteoclesは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子であり、Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子であった。つまり、Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
一方、Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Almusの叔父であった。
Almusは、Eteoclesではなく、叔父Athamasを頼って移住してきたと考えた方がよい。
Almusが創建した町は、Almonesと呼ばれていたが、後にOlmonesと呼ばれるようになった。
[155]
20.2.2 HaliartusとCoroneiaの創建
Athamasは、跡継ぎにしようとしていた息子Leuconが病死し、彼の甥Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusを養子に迎えた。[156]
BC1370年、CoronusはCopais湖の南西にCoroneiaの町を創建した。[157]
Haliartusは、Coroneiaの町からThebesの町寄りの地にHaliartusの町を創建した。[158]
20.2.3 Phrixusの子Presbonの帰還
BC1370年、Colchis地方へ移住したAthamasの子PhrixusのもとからPhrixusの子Presbonが祖父Athamasのもとへ帰還した。[159]
Athamasは、HaliartusとCoronusを養子にしたが、彼らに与えた土地以外のAthamasの土地をPresbonが相続することになった。[160]
20.3 Chryseの子Phlegyasの時代
Andreusの子Eteoclesが跡継ぎを残さずに死ぬと、Almusの娘Chryseの子PhlegyasがEteoclesの跡を継いだ。[161]
20.3.1 Phlegyasの創建
Phlegyasは、Phlegyasの町を建設して、戦士たちを集めた。彼らは、Phlegyansと呼ばれるようになった。[162]
Phlegyansは、Phlegyasの祖父Almusと共にCorinthの町からBoeotia地方へ移住して来たThessaly地方出身のAchaeansであった。
Phlegyasは、まだ近くで勢力を保持していたHyantesから収穫物を守るために、戦士たちを集めたと思われる。
Phlegyasの町の建設は、Tirynsの町の城壁築造より10年以上前であった。[163]
その町は、外敵から守りやすい小高い丘の上に収穫物の貯蔵庫を作り、まわりに柵を廻らした程度であったと思われる。
20.3.2 Gla (or Glas)の遺跡
19世紀後半にBoeotia地方のCopais湖が干拓されて、謎の古代遺跡Glaが姿を現したと言われている。しかし、1805年12月27日、イギリス王立協会会員、William Martin Leakeは、Glaの遺跡の近くを通って、「要塞化された島」(Glaの遺跡)を目にしていた。[164]
Leakeは、その島を、Pausaniasが記しているAeolusの子Athamasの館があった場所だと推定した。[165]
しかし、Pausaniasは、Copais湖とAcraephiumの町の間のAthamantian平野にAthamasの館があったと記している。[166]
Athamasは、彼を頼ってThessaly地方のArneの町から出て来た若者Andreusに土地を与えて、彼の孫娘EuippeとAndreusを結婚させた。[167]
Andreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の北側の低地にあったが、Copais湖に水没して、湖の西側へ新たな町Orchomenusを建設した。[168]
Chryseの子PhlegyasがPhlegyasの町を建設したのは、彼がAndreisの町に住んでいた時であり、Phlegyasの町はAndreisの町の近くにあったと推定される。
つまり、「要塞化された島」Glaの古代名は、Phlegyasと推定される。
20.4 Chrysogeneiaの子Chrysesの時代
Phlegyasの跡をAlmusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesが継いだ。[169]
Chrysesの時代にCopais湖の水位が上がってAndreisの町は人が住めなくなった。
BC1350年、Andreisの町の住人は、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しい町(後のOrchomenus)を建設した。[170]
20.5 Chrysesの子Minyasの時代
20.5.1 Copais湖の排水工事
Minyasは、Copais湖の水を海へ流す地下水路を掘削した。自然にできた地下水路の入り口がCopais湖の北東のCopaeの町の近くにあり、その水路の流れを良くするために掘削したものであった。[171]
地下水路は、Cadmeiaの町にもあり、既にCadmusの時代から工事が行われていた。[172]
Copais湖に沈んだBoeotia地方の町には、Athensの町やEleusisの町、Andreis(古いOrchomenus)の町がある。[173]
また、Arneの町やMideiaの町もCopais湖に沈んだとStraboが伝えている。[174]
Alexander the Greatは、Chalcisの町の鉱山師Cratesに命じて、Copais湖の水を排出する地下水路を塞いでいる詰まり物を除去させた。[175]
その結果、湖水に沈んでいたAthensの町が姿を現した。[176]
20.5.2 Minyansの宝庫
Minyasの時代、Minyansは黄金期を迎え、初めて宝庫が建てられた。[177]
Cephisus川が流入するCopais湖周辺の土地からの収穫が如何に多かったかを物語っている。
Herodotusは、EgyptのRhampsinitus王の宝庫を建てた職人の息子たちが、宝庫から財宝を盗み出す逸話を伝えている。[178]
Pausaniasもこれに似た逸話を伝えているが、宝庫の持ち主はHyrieusであり、場所はLebadeiaの町の近くであった。[179]
また、王はAugeasとする伝承もあり、その土地の昔の支配者を逸話に取り入れているようである。[180]
恐らく、莫大な富を築いたMinyansの宝庫と近くにあるTrophoniusの神域から生まれた逸話が各地で語られたものと思われる。[181]
Herodotusは、Trophoniusについては触れずに、Egyptでの物語として伝えている。
20.5.3 Minyansの広がり
Minyansの富は広く知れ渡り、Cretheusの子NeleusもIasiusの子Amphionの娘ChlorisをMinyansから妻に迎えるほどであった。[182]
古代Greeceでは、娘が嫁ぐ際に持参金を用意したようであり、Homerは娘の持参金の代わりに自作の叙事詩「Cypria」を婿のStasinusに贈った。[183]
Thessaly地方のIolcusの町のNeleusの双子の兄弟Peliasも、Orchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えた。[184]
また、Peliasの兄弟Aesonも、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeを娶っている。
Minyasの娘Clymeneは、Iolcusの町の近くのPhylaceの町のPhylacusに嫁いでいた。[185]
さらに、Peliasの兄弟Pheresも、Minyasの娘Periclymeneを娶っていた。[186]
Pelias、Phylacus、そして、Pheresに嫁いだ花嫁には多くのMinyansが同行して移住しており、Iolcusの町の周辺には、多くのMinyansが住むことになった。[187]
また、Neleusの妻Chlorisに同行したMinyansは、Eleia地方にも住むことになった。[188]
20.6 Minyasの子Orchomenusの時代
Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継いだ。Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[189]
20.6.1 Hyettusの創建
BC1275年、Argosの町のHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺して、Boeotia地方へ移住して来た。[190]
Hyettusは、Minyasの子OrchomenusからCopais湖の北側の土地を譲られてHyettusの町を創建した。[191]
Hyettusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの子Biasの息子と思われる。[192]
Orchomenusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Almusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesの子Minyasの息子であった。[193]
つまり、Hyettusは、Hellenの子Aeolusを共通の先祖とするOrchomenusを頼って、Boeotia地方へ移住したと思われる。
20.7 Presbonの子Clymenusの時代
Pausaniasは、Minyasの子Orchomenusが子供を残さずに死んで、Sisyphusの子Almusの王統は絶えたと伝えている。[194]
しかし、Orchomenusには、娘Elara (or Elare)や、少なくとも5人の姉妹たちがいた。[195]
また、Orchomenusには、Phocis地方にCyparissusの町を創建した彼の兄弟Cyparissusもいた。[196]
しかし、Orchomenusの跡を継いだのは、Acraephiumの町に住むAthamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusであった。[197]
Clymenusは、初代Orchomenus王Andreusの妻Euippeの従兄Presbonの息子であった。[198]
ClymenusがOrchomenusの跡を継いだのは、Minyasの家系が断絶したためではなく、別な事情があったと思われる。
Athamasの後裔Clymenusが継承したことによって、Orchomenusの町は、Athamasの支配領域を含めて、Copais湖周辺を支配することになった。
これによって、Orchomenusの町は、Thebesの町に対抗する勢力になった。
そのような状況下で、両者の武力衝突の端緒となる事件が発生した。
Onchestusの町のPoseidonの神域で、ClymenusがThebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[199]
20.8 Clymenusの子Erginusの時代
20.8.1 Thebansとの戦い
父を殺されたClymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、Thebansに貢納を課した。[200]
その後、Amphitryon率いるThebansは、Orchomenusの町を攻撃して、Erginusは敗北した。[201]
この戦いの結果、Orchomenusの町に味方した町の住人が各地へ移住した。
Onchestusの町に住んでいたMegareusの子Hippomenesや、Schoinosの町に住んでいたSchoeneusは、Arcadia地方へ移住した。[202]
また、Onchestusの町に住んでいたOnchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Copais湖対岸へ移住してCopaeの町を創建した。[203]
20.8.2 Erginusの息子たち
伝承では、Amphitryonとの戦いで敗北した後で、Erginusに2人の息子たち、TrophoniusとAgamedesが生まれた。彼らはDelphiの神殿を建設する名工になり、TrophoniusはLebadeiaの大地が裂けた穴に呑み込まれ、神になったと伝えられている。[204]
しかし、神になったTrophoniusには子供たちがいたとも伝えられ、Erginusの跡を彼の兄弟Azeusの後裔が継いだことと矛盾する。[205]
Erginusの息子たちは、逸話に合わせて創作されたもので、本当は跡継ぎがなかったと思われる。
20.9 AscalaphusとIalmenusの時代
Erginusの跡を、彼の兄弟Azeusの子Actorの娘Astyoche (or Pernis)の2人の息子たち、AscalaphusとIalmenusが継いだ。[206]
20.9.1 Thraciansによる占領
AscalaphusとIalmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いてTroyへ遠征した。[207]
戦士たちがいなくなったOrchomenusの町にThraciansが侵入して、町を占領した。
Orchomeniansの一部は、Athensの町へ逃れて、Munychiaに住んだ。[208]
また、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられたOrchomeniansは、Ionia地方へ移住してTeosの町を創建した。[209]
Teosの町のすぐ東にあるColophonの町には、EpigoniのThebes攻めで捕虜になった人々が、少し前に、その地へ移住していた。[210]
この時、Teosの町へ移住したOrchomeniansの後裔は、BC4世紀にAmyntasの子Philipによって帰還させられた。[211]
20.9.2 Sauromataeへの移住
Ascalaphusは、Troyで戦死したが、Ialmenusは、Sauromataeへ移住した。[212]
Ialmenusの母Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。[213]
Presbonは、Colchis地方で生まれ、Boeotia地方へ移住して祖父Athamasの跡を継いだ。
その後、Colchis地方とBoeotia地方の間には交流があったと思われる。[214]
Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の子Persesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)を支配していた。[215]
Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Sauromatiansの王のもとへ嫁いだ。[216]
Presbonの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。
20.10 Trojan Warの後の時代
Orchomenusの町は、60年以上、Thraciansによって占拠された。
BC1126年、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansは、Athensの町のMunychiaから帰還したOrchomeniansと共に、Orchomenusの町からThraciansを追放した。[217]
この時、Orchomenusの町には、Boeotiansも多く移住したようであり、Straboは、BoeotiansがOrchomenusの町を併合したと伝えている。[218]
その後、Orchomeniansの一部は、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの娘Theroの子Chaeronに率いられて、Arne(後のChaeroneia)の町へ移住した。[219]
Phylasの妻であるIolais (or Iolaus)の娘Leipephilene (or Leipephile)は、Orchomenusの町がThraciansによって占拠された時に、Athensの町へ避難したOrchomeniansの一人と思われる。
その後、Orchomenusの町は、Thebesの町を中心としたBoeotia地方の一つの町になった。
21 Plataeaの歴史
21.1 Trojan War以前
Plataeaの町の創建者は、Thebesの町のLabdacusの子Laiusの遺体を葬ったPlataea王Damasistratusと推定される。[220]
Plataeaの町の名前は、Asopus河神の娘Plataeaに因むとされる。Plataeaは、同じAsopus河神の娘と伝えられるTanagraと同年代と思われる。[221]
Tanagraの夫は、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderで、Cithaeron山の南麓のEleutheraeの町に住んでいた。[222]
Damasistratusは、Chaeresilausの弟で、Eleutheraeの町からCithaeron山を北に越えた土地にPlataeaの町を創建した。
これより前に、Eleutherの2人の息子たち、AmphionとZethusがEleutheraeの町からCithaeron山を北に越えて、Eutresisの町を創建していた。[223]
Amphionは、Laiusの後見人であり、Damasistratusの伯父であった。伝承では、Damasistratusが偶然Laiusの遺体に出会ったように伝えられているが、Laiusと共に行動していたものと思われる。[224]
Damasistratusの先祖Aethusaは、Hyriaの町のHyrieusの妹であり、Plataeaの町の住人は、Arcadia地方に祖先を持つPelasgiansであった。[225]
Plataeaの町には、Androcrates、Leucon、Pisandrus、Damocrates、Hypsion、Actaeon、Polyidus、Cylaeusという支配者がいたようであるがいつの時代かは不明である。[226]
21.2 Trojan War以後
BC1126年、Thessaly地方のArneの町から移住して来たBoeotiansがThebesの町を獲得した。[227]
Boeotiansは、Boeotia地方全域に居住範囲を広げたが、Plataeaの町の住人は、Boeotiansに追い出されずに、そのままであったと推定される。[228]
BC517年、Plataeaの町は、Thebesの町との間に土地の境界をめぐって争ったが、同盟を結んでいたAthensの町の助力によって、Asopus川をThebesの町との間の境にした。[229]
この恩に報いるため、BC490年、Arimnestusは、Plataeans 1,000人を率いてAthensの町へ駆け付けて、Marathonの戦いに参加し、Athens軍の左翼を守った。[230]
Plataeansがいなければ、Athensの町のMiltiadesは、Spartaからの援軍を待つことになり、戦いの趨勢は予想が付かなくなっていたかもしれない。[231]
BC480年、ThebansがPersia軍にPlataeaの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町と共にPlataeaの町はPersia軍に焼かれた。[232]
BC479年、Greece軍は、Plataeaの戦いでPersia軍に勝利し、Cleombrotusの子Pausaniasは、Plataeaでの戦勝を記念して、Plataeaの領土の不可侵を宣言した。[233]
Plataeansは、Plataeaの戦いでAtheniansの戦列の中にいたと思われる。[234]
BC431年、Leontiadesの子Eurymachusは、Thebansを率いてPlataeaの町を占領しようとして失敗し、捕虜になって処刑された。[235]
BC429年、Plataeaの町は、Peloponnesus同盟勢に包囲された。[236]
籠城者は、Plataeans 400人、Athenians 80人、婦女子 110人であった。[237]
BC427年、Plataeans 212人が包囲を脱してAthensの町へ避難したが、残りの籠城者は、食糧が尽きて投降した。Plataeans 200人以上、Athenians 25人は処刑され、婦女子は奴隷として売られた。[238]
BC421年、Athensの町に避難していたPlataeansに、Athensの町が奪ったChalcidice半島のScioneの町が与えられた。[239]
その後、Scioneの町に住んでいたPlataeansは、SpartaのLysanderによってChalcidice半島を追われてAthensの町へ戻った。[240]
この出来事は、Athensの町がPeloponnesus同盟に降伏したBC404年からLysanderが死去したBC395年の間と推定される。
BC387年、PlataeansはAntalcidasの和約によりPlataeaの町へ帰還することができた。[241]
BC374年、Plataeaの町はThebansに占領され、住人はAthensの町へ避難した。[242]
BC338年、Chaeroneaの戦いの後で、Macedonia王Philipは、Thebansに追放されてAthensの町へ避難していたPlataeansを町へ帰還させた。[243]
Alexander the Greatは、Plataeaの戦いの際に、Plataeansが領土をGreece軍に献じた行いを賞賛して、Plataeansに返還することを宣言した。[244]
BC316年、Antipaterの子Cassanderは、Alexander the Greatによって破壊されたThebesの町を再建した。Thebesの町へ帰還したThebansは、Plataeansと和解した。[245]
Thebansが執拗にPlataeansを攻撃したのは、Argosの町がMycenaeの町を破壊した理由と同じく、嫉妬によるものかもしれない。[246]
22 Schoenusの歴史
BC1380年、Athamasの子Schoeneusは、Thebesの町とAnthedonの町の間にSchoenusの町を創建した。[247]
Schoenusの町の創建者をAthamasの子Schoeneusと明示している伝承はない。
次のことから、推定される。
1) Schoenusの町の中をSchoenus川が流れていた。[248]
2) Schoenus川は、Athamasの子Schoeneusに因んで名付けられた。[249]
BC1256年、Orchomenusの町とThebesの町の戦いがあり、Orchomenusの町が敗れた。[250]
Athamasの子Schoeneusの後裔Schoeneusは、Schoenusの町から追い出されてArcadia地方へ移住した。[251]
23 Tanagraの歴史
23.1 Trojan War以前
23.1.1 Phoeniciaからの移住
Phoenicia地方からCadmusに同行したGephyraeansは、Tanagra周辺を割り当てられて定住した。[252]
Gephyraeansの定住地は、Boeotia地方を西から東へ流れるAsopus川の下流域であった。
23.1.2 Eunostusの英雄廟
BC6世紀のAnthedonの女流詩人Myrtisが書いた抒情詩は、Tanagraの町のCephisusの子Eunostusのことを伝えている。[253]
Eunostusの父Cephisusは、第6代Athens王Erechtheusの妻Praxitheaの母Diogeniaの父と推定される。Erechtheusの時代、Tanagraの町はまだ創建されておらず、Gephyraの町と呼ばれていた。[254]
Gephyraの町には、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たPhoeniciansの支族Gephyraeansが住んでいた。[255]
BC1415年、Attica地方に侵入したEumolpusに追われて、Atheniansは、Gephyraの町の近くへ避難して、Gephyraeansに受け入れられた。[256]
この避難が、ErechtheusとPraxitheaとの婚姻を成立させたと思われ、Praxitheaの父Cephisusは、Gephyraeansの首領であったと思われる。[257]
Praxitheaに同行してAthensの町へ移住したGephyraeansは、Athensの町へPhoenician lettersをもたらした。[258]
その後、Phoenician lettersから、Homerの師Pronapidesの時代まで使用されていたPelasgic lettersが発明された。[259]
古代のAtheniansは、Pelasgiansであった。[260]
Myrtisの時代、Tanagraの町のEunostusの英雄廟には、その由緒が記された銘板があったのかもしれない。[261]
23.1.3 Tanagraの創建
BC1270年、Chaeresilausの子PoemanderがCithaeron山南麓のEleutheraeの町からGephyraと呼ばれていた地方へ移住して、彼の妻の名前に因んだTanagraの町を創建した。[262]
23.1.4 Hyrieusの子Orion
Hyrieusの子Orionは、Euripus海峡近くのHyriaの町で生まれた。[263]
Orionの子Dryasは、AdrastusのThebes攻めのとき、Tanagraの町から弓兵1000人を率いて、Thebesの町へ駆け付けた。[264]
Orionの娘Mecionice(or Mecionica, Menodice)とDryopia地方に住むTheiodamasとの間の息子の一人Hylasは、Heraclesの侍童であった。Hylasの兄弟Euphemusの妻Laonomeは、Heraclesの姉妹であった。[265]
Euphemusの後裔Polymnestusの子Battusは、LibyaのCyreneの町の創建者となった。[266]
Orionの墓は、Tanagraの町にあった。[267]
星座に名前を与えたOrionは、Crete島のMinosの娘Euryaleの子Orionだとする伝承もあるが、Tanagraの町に関係するHyrieusの子Orionの方が妥当と思われる。[268]
Tanagraの町に定住したPhoeniciansが、Babiloniansから伝えられた「天の狩人(the heavenly hunter)」という星座をGreeksに伝え、Greeksは、Orionをその星座の名前にしたと思われる。
23.1.5 Athensへの移住
BC1200年、Tanagraの町周辺に定住していたGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われ、Athensの町へ移住した。[269]
EpigoniのThebes攻めによって、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来た人々の後裔が他に移住して、新参のBoeotiansとの間の勢力の均衡が崩れた結果であった。
AtheniansがGephyraeansを受け入れたのは、Eumolpusに追われたときの恩返しでもあった。第6代Athens王Erechtheusの姻戚関係によって、AtheniansとGephyraeansは、古くから交流があった。[270]
23.1.6 Achaeansの攻撃
Plutarchは、Peleusの子Achilles率いるAchaeansが、遠征参加を拒否したTanagraの町を攻撃したことを伝えている。[271]
この遠征は、Troy遠征とは異なる遠征と思われ、Thessaly地方のPhthiaの町に住むAchillesの影響力が、Boeotia地方にまで及んでいたことが分かる。
23.1.7 Troy遠征
恐らく、Tanagraの町は、Troy遠征に参加しなかった。
Homerの『軍船目録』にBoeotia地方からの軍勢にGraeaの町の名前が挙がっており、その町が、Tanagraの町の別名だとする説もある。[272]
つまり、極めて長生きしたTanagraの町の名祖TanagraをGraea(老女)と呼んだことから町の名前も、一時期、その名前で呼ばれたというのである。[273]
しかし、好んで古い名前を使用したHomerが一時的な名前を採用したとは思えない。
Tanagraの町を古い名前で呼ぶのであれば、Homerは、Tanagraより古い時代の名称Gephyraと呼んでいたであろう。[274]
23.2 Trojan War以後
BC456年、BoeotiansとAtheniansとの戦いにTanagraeansも参加して敗れ、町の城壁は破壊され、Tanagraの町はAthensの町の支配下に入った。[275]
Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町だけであった。[276]
24 Thespiaeの歴史
24.1 Trojan War以前
24.1.1 Athensからの移住
BC1275年、第8代Athens王Pandionの子Teuthrasは、義兄弟Aegeusから逃れてBoeotia地方へ移住してThespiaeの町を創建した。[277]
その地には、BC1325年、Thessaly地方からBoeotia地方へ移住して来たBoeotusの子Itonusの後裔を指導者とするBoeotiansが住んでいた。Troy遠征にItonusの子Areilycusの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorがThespiaeの町から参加した。[278]
Boeotiansは、Thebesの町のCadmeansとの間に争いがあったので、Teuthrasと共に移住して来たAtheniansを共住者として、歓迎した。しかし、後にBoeotiansがCadmeansに代わってThebesの町の支配者になると、この共住が争いの原因になった。恐らく、Atheniansを祖先とする住人がBoeotiansより多くなり、Thebesの町から攻撃されることになった。[279]
24.1.2 Macedoniaからの移住
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusが、Macedonia地方のPieriaからThespiaeの町へ移住して来た。[280]
Pierusは、有名な詩人Orpheusの父Oeagrusの父であった。[281]
PierusのことをStraboは、Helicon山をMusesの神域にしたThraciansと伝えている。[282]
24.1.3 Sardiniaへの移住
BC1236年、Heraclesは、Thespiusの孫たちを甥Iolausに率いらせて、Sardinia島へ植民させた。[283]
この植民には、Atheniansも参加して、Sardinia島北東部にOlbiaの町を創建した。[284]
Iolausの植民団はAthensの町が単独で送り出した最初の遠征隊であり、Prytaneumから出発したAthens公認の正式な植民団であった。[285]
Heraclesは、Thespiaeの町の近くの牛飼場にいたことがあり、Teuthrasの子Thespiusとは親交があった。[286]
BC1188年、Itonusの子Areilycusの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorは、Thespiaeの町からTroy遠征に参加した。[287]
24.2 Trojan War以後
24.2.1 Thessaliansの侵入
BC594年、Lattamyas率いるThessaliansがBoeotia地方に侵入した。
Lattamyasは、Thespiaeの町の近くでThebansと戦い、戦死した。[288]
このThessaliansは、少し前にAmphictyonsの一員として、Phocis地方のCirrhaの町攻略に参加した人々であった。
この時、Thespiansは、Ceressusに逃げ込んで難を逃れた。[289]
Thessaliansが侵入したのは、Leuctraの戦いの200年以上前のことであった。[290]
24.2.2 Persiansの侵入
BC480年、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかった。[291]
Thermopylaeの戦いには、Thebansが400名参加したのに対して、Thespiansは700名が参加した。[292]
Diadromesの子Demophilusに率いられたThespiansは、ThermopylaeでSpartansと運命を共にし、Harmatidesの子Dithyrambosが勇武で名を馳せた。[293]
ThebansがPersiansに、Thespiaeの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町はPlataeaの町と共にPersia軍に焼かれた。[294]
このとき、ThespiansはPeloponnese半島へ退避していた。[295]
24.2.3 その他
BC479年、1800人のThespiansが、Plataeaの戦いに参加した。[296]
BC424年、Thespiansは、Tanagraの町近くのDeliumの戦いに参加して、Atheniansと戦った。Thespiansは、戦いの勝利に貢献したが、全滅した。[297]
BC423年、Thebansは、以前からAtheniansと親しかったThespiaeの町の城壁を取り壊した。[298]
BC414年、Thespiansの民衆派が政権奪取に失敗して、一部はThebansに捕まり、他はAthensの町へ亡命した。[299]
BC413年、LacedaemoniansのSicily遠征にThespiaeの町からHegesanderが参加した。[300]
BC374年、ThebansはPlataeaの町を占領し、Thespiaeの町を略奪した。[301]
BC371年、Thespiansは、Leuctraの戦いの前に戦列を離れて帰還したため、戦いの後で、Thebansによって町から追放された。[302]
しかし、Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町であったという。[303]
おわり |