1 はじめに
Greeceの中でBoeotia地方だけが3つの海に出る港があったと、BC4世紀の歴史家CymeのEphorusが述べている。つまり、ItalyやSicily方面への海、MacedoniaやHellespont方面への海、CyprusやEgypt方面への海であった。[1]
20世紀初頭の英国の詩人で考古学者のStanley Cassonは、Cephisus川が流れ込むCopais湖を中心としたBoeotia地方はGreece発祥の地であり、豊かな土壌のため他に依存しない自己完結型の地方であったと記している。[2]
2 Cadmus移住前のBoeotia
BC1750年、Parnassus山の北側を西から東へ流れるCephisus川の上流で、長期間にわたる大洪水が発生した。Ogygus時代の大洪水と呼ばれる天災であった。[3]
Cephisus川の流域に長い間住んでいた人々は、新たな土地を求めて、各地へ移住した。
Ogygus率いるEctenesは、Cephisus川の河口近くにできた大きな湖の南側の地に定住した。[4]
Ectenesの居住地の範囲は、西はHelicon山の北麓から、東はEuripus海峡近くまでの広範囲に及んだ。[5]
後のThebesの町の北にある一番古いOgygian gateにOgygusの名が残っている。[6]
BC1580年、Ogygusから6世代目のとき、Thrace地方からHyantes、Attica地方南東端Sunium岬付近からTemmicesが移住して来た。それにAonesに圧迫されて、Ectenesは、Thebesの町の北の地に一部が残留し、大部分の人々はAttica地方やThessaly地方、そして、海を渡ってEgyptへと移住した。[7]
Thessaly地方へ向かった人々を率いたのは、Hellenesに名を与えたHellenの父Deucalionの父であった。Egyptへ向かった人々の中には、初代Athens王となるCecropsも含まれていた。
第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。
第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaは、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。
これらの結婚は、Thessaly地方へ向かった人々とEgyptへ向かった人々との親戚関係を証明している。[8]
Boeotia地方の住人は、Ectenesの名前で呼ばれていたが、Hyantes、あるいはAoniansと呼ばれるようになった。[9]
Egyptへ移住したOgygusの子孫は、Cecropsを指導者として、Attica地方に再移住した。
Cecropsの甥と思われるCranausは、Cecropsより遅れてEgyptから渡来した。
Cranausは、Ogygusがかつて住んでいたBoeotia地方のTriton川の近くに居住した。[10]
当時、Cranausの娘Atthisは、Athenaの異名を持つ幼子であった。[11]
Triton川のほとりには、Cecropsが建設したEleusisの町とAthensの町があったが、Copais湖に水没した。[12]
しかし、BC4世紀にAlexander the Greatの命を受けたChalcisの町の鉱山師Cratesが地下水路の詰まり物を除去して、水位が下がったCopais湖の中からAthensの町が現れたという。[13]
3 Thebesの歴史
3.1 Cadmusの時代
3.1.1 Cadmeiaの建設
BC1420年、Agenorの子CadmusがBoeotia地方へ侵入した。当時、AoniansはThebesの町の北東方のGlisasの町周辺に、HyantesはEctenesを追い出して、Onchestusの町周辺に住んでいた。Hyantesに追われたEctenesはThebesの町の北側に住んでいた。[14]
Cadmusは先住部族と戦って勝ち、AoniansはそのままGlisasの町周辺への居住を許された。[15]
Ectenesは抗戦したが敗れ、Attica地方へ移住した。Hyantesも西へ追いやられた。[16]
Hyantesの一部は、Aetolia地方へ移住した。[17]
BC1320年にEndymionの子AetolusがElisの町からAetolia地方へ移住したときに、その地にいた先住者Curetesは、名前を変えたHyantesと推定される。[18]
Cadmusは、後にThebesの町のAcropolisとなる土地に、Cadmeiaの町を創建した。Aoniansは、村落単位で住んでいたが、Cadmusと移住した人々は、Cadmeiaの町に寄り集まって暮らした。[19]
3.1.2 Cadmusと共に移住して来た人々
3.1.2.1 Pelasgians
3.1.2.1.1 Hyria (Euboea)の創建
Cadmusが移民団を率いて立ち寄ったSamothrace島には、少し前に、Dardanusに率いられてArcadia地方から移住して来たPelasgiansがいた。彼らの中に、Megassares一家もいて、Cadmusの移民団に参加した。Megassaresの妻Alcyoneは、Cadmusの妻Harmoniaの母Electraの妹であった。[20]
Megassaresは、Euboea島への渡り口付近のBoeotia地方の土地に定住して、Euboeaと呼ばれる町を創建した。Megassaresの息子と思われるHyrieus(or Chthonius)は父の跡を継いで、町の名前を自身の名前に因んでHyriaと名付けた。[21]
MegassaresをHyrieusの父と推定したのは、つぎの理由からである。
Megassaresの名前は、ApollodorosがSyriaからCiliciaへ移住して、Celenderisの町を創建したSandocusの妻Pharnaceの父であり、Hyriaの王として伝えているだけである。
Sandocusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseから5代目の子孫であった。[22]
Athens王の在位から逆算するとCecropsは、BC1596年生まれと推定され、1世代間を男25年、女20年とすれば、Sandocusは、BC1445年生まれと推定される。
したがって、Sandocusの妻Pharnaceの父Megassaresは、BC1465年生まれと推定される。
一方、NycteusはHyrieusの息子であり、Nycteusの娘Nycteisの夫は、Cadmusの子Polydorusであった。[23]
つまり、NycteusはCadmusと同世代であり、 Nycteusの父Hyrieusは、Cadmus時代のSpartiのひとりで、Chthoniusとも呼ばれていた。[24]
また、Nycteusが建設したHysiaeの町は、Hyriaの町の植民市であったことから、Nycteusの父Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたと思われる。[25]
以上のことから、Hyrieusの父は、ApollodorosがHyriaの王として伝えているPharnaceの父Megassareと推定される。[26]
Boeotia地方のHyriaの町のMegassaresの娘PharnaceとCilicia地方のCelenderisの町の創建者Sandocusとの結婚を可能にしたのは、つぎのような状況と推定される。
Hyriaの町とCelenderisの町とは、直線距離で、約900km離れているが、出会いの場は、Samothrace島であった。Sandocusの父Astynousは、Syria地方のSidonの町の住人であった。[27]
Astynousは、Cadmusの植民団に船を提供し、Sidonの町からThracia地方まで、息子Sandocusと共にCadmusに同行した。[28]
Megassareの妻Alcyoneは、Atlasの娘Pleioneを母として、Arcadia地方のCylleneで生まれた。[29]
Alcyoneの姉妹Electraの子Dardanusは、Cadmusより前にArcadia地方からSamothrace島に移住しており、Alcyoneや、彼女の夫Megassareや子供たちも一緒であった。[30]
Sandocusは、島にいたMegassareの娘Pharnaceと出会い、Cadmusの植民団に同行して、Thracia地方まで行った。その後、Pharnaceを妻にもらい、父Astynousと共にSidonの町に帰還し、その後、Cilicia地方へ移住してCelenderisの町を創建した。[31]
3.1.2.1.2 Hysiaeの創建
BC1390年、大津波がEuripus海峡近くの町を襲い、Hyriaの町も被災した。Hyrieusの2人の息子たち、NycteusとLycusは、内陸部に新天地を求めて、Hyriaの町から南西方へ約33km離れたCithaeron山麓にHysiaeの町を創建した。[32]
NycteusとLycusがPhlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaの町に逃れたという伝承がある。[33]
Hyriaは、Hysiaeを指した呼び名だとも伝えられ、このEuboeaは島ではなく、Aulis付近の地名で、恐らく、Hyriaの町の古い名前と思われる。[34]
この島ではないEuboeaと同じものにつぎのEuboeaがある。
1) Naxos(Strongyle)島のThraciansが襲撃したが撃退されたEuboea。[35]
2) Orionが帰り着いたというEuboea。[36]
NycteusはPolyxoと結婚して、2人の娘たち、NycteisとAntiopeが生まれた。[37]
Nycteusの娘Nycteisは、Cadmusの子Polydorusと結婚した。Polydorusが幼い息子Labdacusを残して死んだ後、NycteusはCadmeiaの町へ移り住み、彼の孫Labdacusの後見人となった。[38]
Nycteusが死んだ後で、彼の弟LycusがLabdacusの後見職を引き継いだ。[39]
Lycusの館は、Thebesの町にあるCadmusの娘Semeleの墓の近くにあった。[40]
3.1.2.1.3 Italy半島への移住
BC1372年、Hyrieusの息子と思われるMessapusがHyriaの町から移民団を率いて、Italy半島東南部のPeucetia地方へ移住した。[41]
Messapusの移住は、Archanderの子AristaeusがSardinia島へ移住したことと関連があり、BC1390年の大津波と、その後を襲った悪疫の流行によるものと思われる。[42]
Messapusが入植したItaly半島東南部は、Messapia地方と呼ばれた。[43]
Minosの時代に、その地方へCretansの移民団が入植し、Hyriaの町を創建したという伝承もあるが、Messapusが創建して出身地の名前を付けたと考えられる。[44]
3.1.2.1.4 Anthedonの創建
Megassaresのもう一人の息子Anthasは、Hyriaの町から北西方の海辺へ移住して、Anthedonの町を創建した。[45]
Anthasは、Hyperenorとも呼ばれるSpartiで、GreeceにCabeiriの密儀をもたらした人物と思われる。Anthedonの町には、Cabeiriの神域があった。[46]
Thebesの町のNeistan gateから西へ5kmほどの所にthe sanctuary of the Cabeiriがある。
EpigoniのThebes攻めの後で、その神域で祭司をしていたPelargeの父Potnieusは、Anthedonの町のAnthasの後裔と推定される。[47]
3.1.2.1.5 Eleutheraeの創建
Megassaresの娘Aethusaの子Eleutherは、Hyriaの町からCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeの町を創建した。[48]
Eleutherには、息子Iasiusがいたが、Eleutherの妻の名前は不明である。[49]
つぎの理由で、Eleutherの妻は、Nycteusの娘Antiopeであったと推定される。
1) Antiopeが双子の息子たち、AmphionとZethusをEleutheraeの町で産んだこと。[50]
2) AntiopeがEleutherの母方の従兄弟Nycteusの娘であった。[51]
つまり、Antiopeは、Eleutherの又いとこであり、年代的にも夫婦として妥当である。
Antiopeは、Hysiaeの町に住む父NycteusのもとからCithaeron山を越えたEleutheraeの町のEleutherに嫁いだというのが史実であろう。[52]
Antiopeについては、Sicyonの町のEpopeusにまつわる伝承が多いが、いずれも後世の詩人たちによる作り話である。
3.1.2.2 Telchines
Telchinesは、Thebesの町の北東約8kmの土地(後のTeumessus)に定住して、a sanctuary of Telchinian Athenaを造営した。Pausaniasは、彼らをCyprus島に住んでいたTelchinesであろうと推測している。彼らは、Telchines (後のRhodes)島からSamothrace島を経て、Cadmusの移民団に加わった人々と思われる。 [53]
3.1.2.3 Gephyraeans (Phoeniciansの支族)
Cephisus率いるGephyraeansは、後のTanagraの町の周辺に定住した。[54]
彼らがその地に住んで間もなく、Eumolpus率いるThraciansに追われたAtheniansが逃れてきて、Gephyraeansは彼らを受け入れ、しばらくの間、共住した。[55]
GephyraeansとAtheniansは、これを機に交流して、Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaと第6代Athens王Erechtheusの婚姻が成立している。[56]
BC1200年、Gephyraeansは、Tanagraの町のChaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensの町へ移住した。[57]
3.1.2.4 Arabians
Arabiansは、Euboea島へ入植した。[58]
3.1.3 CadmusのIllyriaへの移住
Cadmusと共にBoeotia地方に移住して来た人々のうち、一部は、Copais湖付近に居住した。Encheleansと呼ばれる人々であるが、その一部は、Illyria地方へ再移住した。[59]
Boeotia地方に残ったEncheleansは、Cadmeiaの町の隣にEncheliaの町を作った。[59-1]
Encheleansの再移住の原因は、Aeolusの子Athamasの入植であったと思われる。[60]
Encheleansは移住先のIllyria地方で、先住民からの圧迫に苦しんだ。彼らに援助を乞われたCadmusは、息子たちにCadmeiaの町を託して、妻Harmoniaと共にIllyria地方へ再移住した。[61]
彼らの旅には、Cadmusの娘AgaveがEchionとの間に産んだ娘Epirusも同行していたとも伝えられる。[62]
Cadmus終焉の地は、Illyria地方の海辺の町Butoe(or Buthoe, now Budva)であった。[63]
3.2 Cadmusの子Polydorusの時代
Polydorusは、SpartiのひとりChthonius (別名Hyrieus)の子Nycteusの娘Nycteisと結婚して、息子Labdacusが生まれた。[64]
Cadmusの跡を継いだPolydorusの治世は、極めて短かったようで、息子Labdacusがまだ5歳の頃に、Polydorusは死んだ。[65]
Polydorusは、Cadmusの娘Agaveの子Pentheusに殺されたとも伝えられている。[66]
そのPentheusも、Semeleの子Dionysusに殺されたと伝えられるが、恐らく、Polydorusの妻の父Nycteusも殺害に関与していたと思われる。[67]
3.3 Polydorusの子Labdacusの時代
Labdacusの父Polydorusが死んだとき、彼は5歳であったので、彼の母Nycteisの父Nycteusが後見人になった。[68]
その後、Labdacusも1歳の彼の息子Laiusを残して死んだ。彼は、狂乱した女たちに殺されたとも伝えられるが、普通の死に方でないことは確かであろう。[69]
3.4 Labdacusの子Laiusの時代
3.4.1 Laiusの後見人Lycusの時代
Laiusの父Labdacusが死んだとき、彼は1歳であったので、彼の祖父Nycteusの弟Lycusが後見人になった。[70]
Laiusがまだ子供のときに、AmphionとZethusが、Thebesの町を攻めたが、Lycusに撃退された。AmphionとZethusはLocris地方へ亡命した。[71]
AmphionとZethusがLycusを攻めた理由は明白ではないが、恐らく、Laiusの地位を守るためであったと思われる。[72]
AmphionとZethusにとって、Lycusは母Antiopeの叔父であったが、Laiusは、母Antiopeの姉の孫、言い換えると、彼らの従兄弟の息子であった。[73]
AmphionとZethusの亡命先は、Locris地方のThermopylae近くのAntheiaの町に住むAmphictyonの子Aetolusの子Physciusのもとであった。[74]
Physciusは、Zethusの妻Thebeの父であった。[75]
BC1325年、AmphionとZethusは再び軍勢を集めて、Thebesの町を攻めてLycusを殺した。[76]
AmphionとZethusには、Physciusの子Locrusや、Thessaly地方のArneの町のBoeotusも援軍を出した。[77]
Boeotusは、Physciusの兄弟Itonusの息子であり、LocrusやThebeの従兄弟であった。[78]
この遠征の後で、Boeotusの子Itonusは、Thessaly地方のArneの町からBoeotia地方のCoroneiaの町の近くへ移住した。恐らく、高台にあったCoroneiaの町の下手、Copais湖の岸辺に、湖に沈んだと伝えられるArneの町を創建したものと思われる。[79]
そこには、the sanctuary of Itonian Athenaが造営され、Boeotiansの同盟集会がそこで開催された。[80]
Coroneiaの町の住人が、Itonusらの移住を受け入れたのは、Coroneiaの町やHaliartusの町もAmphionとZethusに協力したからと思われる。Coroneiaの町の創建者CoronusとHaliartusは、Zethusの妻Thebeの母Maeraの父Proetusの兄弟であった。[81]
AmphionがLaiusを追い出したとする伝承もある。しかし、AmphionはLaiusの後見人となって、Laiusは引き続きThebesの町にいたと思われる。[82]
3.4.2 Laiusの後見人AmphionとZethusの時代
3.4.2.1 AmphionとZethusの誕生
伝承では、AmphionとZethusは、Sicyonの町のEpopeusがNycteusの娘Antiopeに産ませた息子たちだということになっている。[83]
しかし、彼らの誕生時のこと以外に、彼らとSicyonの町やEpopeusに関係する話がまったく見当たらない。後世の詩人たちが意図的に、Thebesの町の基礎を築いたAmphionとZethusをSicyonの町に結び付けようとしているように見える。[84]
前述したように、AmphionとZethusが生まれたのは、Eleutheraeの町に間違いないと思われることから、つぎのように推定される。[85]
当時、Eleutheraeの町には、Cadmusと共にBoeotia地方に移住して来たMegassaresの娘Aethusaの子Eleutherがおり、Eleutheraeの町の創建者であった。[86]
Eleutheraeの町からCithaeron山を北に越えたHysiaeの町には、Nycteusの娘Antiopeがいた。[87]
Eleutherは、母方の従兄弟の娘Antiopeと結婚し、AmphionとZethusが生まれた。[88]
Thebansとしては、Eleutherの血筋の者たちが、Thebesの町の基礎を作ったとは認めたくないので、父親の名は敢えて記録に残さなかったものと思われる。
古くはEleutheraeの町は、Cadmusの移民団に含まれていた者たちの後裔によって建設された町で、Boeotia地方であった。その後、Eleutheraeの町からTanagra地方へ進出したChaeresilausの子Poemanderの後裔がTroy遠征への参加を拒否した。その時から、Thebesの町とEleutheraeの町との間に対立が生じ、後に、Eleutheraeの町は、積極的にAttica地方に属することにした。[89]
Adrastusが率いるArgivesのThebes攻めで戦死した将兵の遺体は、TheseusがThebesの町から引き取り、将官はEleusisの町に、兵士はEleutheraeの町に埋葬された。[90]
既に、この頃からEleutheraeの町は、Athensの町に好意を寄せていた。
3.4.2.2 Eutresisの町の建設
BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて移住した。
彼らは、Thebesの町をHypsistan gateから出てLeuktraの町へ向かって約14km進んだ所にEutresisの町を創建した。[91]
Eutresisの町から北東へ約7kmの所にthe sanctuary of the Cabeiriがあった。[92]
Samothrace島からBoeotia地方へ持ち込まれたCabeiri信仰は、「神々の母」「山の母」「Phrygiaの大女神」などと呼ばれるCybele信仰と同じようなものになっていた。[93]
恐らく、AmphionとTantalusの娘Niobeは、その聖域で出会ったものと思われる。[94]
NiobeとCybele信仰との繋がりは、つぎのことから推定される。
1) Niobeの兄弟Broteasが、神々の母の一番古い神像を作った。[95]
2) TantalusがTrosの子Ilusによって、Ida山近くから追放されたとき、Tantalusは、Phrygia地方のPessinusの町へ避難した。[96]
Pessinusの町には、Tantalusの旧領近くのIda山からCorybasの母CybeleがTantalusより前に移り住んでいた。[97]
3) Niobeの兄弟Pelopsと共にGreeceへ移住して来たPhrygiansがCybeleを讃えていた。[98]
3.4.2.3 Thebesの町の建設
AmphionとZethusは、まだ幼いLaiusの後見人となり、Cadmeiaの町に居住した。彼らは、Cadmeiaの町の隣にあったEncheliaの町の跡地に居住地を広げて町を作り、Zethusの妻Thebeに因んで、Thebesの町と呼ばせた。[99]
さらに、近くに住む横暴なPhlegyesから町を守るため、幾つかの門を持つ城壁を造った。[100]
Homerは、建設当初から7つの門があったように伝えている。[101]
しかし、最初は、12の門があったという伝承もある。[101-1]
7つの門の名前と由来はつぎのとおりである。
1) Electran gateは、Cadmusの姉妹Electraに因む。[102]
2) Proetidian gateは、Thebeの母Maeraの父Proetusに因む。[103]
Proetusの父は、HaliartusとCoroneiaの創建者たちの父Thersandorusであった。[104]
3) Neistan gateは、Zethusの子Neisに因む。[105]
4) Crenaean gateは、近くにCrenaeの泉があったことに因む。[106]
5) Hypsistan gateは、近くにZeus surnamed Hypsistusの神域があったことに因む。[107]
6) Ogygian gateは、門の向いた方角にOgygusが住んでいたことに因む。[108]
7) Homoloid gateは、EpigoniのThebes攻めでThessaly地方のHomoleへ避難した人々が帰還の際に潜ったことに因む。[109]
したがって、最後の門の名前は、EpigoniのThebes攻めの後に名付けられた。それ以前は別な名前であったか、あるいは、最初は、6つの門で新たに門が設けられたかのいずれかと思われる。[110]
また、Amphionの歌に合わせて城壁を築く石が寄ってきたというが、実際は、城壁を築く人々へ労賃の代わりに、歌を聴かせたことからそのような伝承が生まれたとする説もある。[111]
3.4.2.4 AmphionとZethusの死
Zethusは、妻Thebeが過失で息子Neisを死なせた後で、悲嘆のあまり死去した。[112]
Amphionは、家族と共に悪疫のために死んだ。[113]
Amphionの子供たちの墓はProetidian gateの近くにあり、息子たちと娘たちとは別々の墓になっていた。[114]
また、AmphionとZethusの墓も別になっていた。[115]
Thebesの町の住人は、BC7世紀の予言者Bacisが告げた神託を信じて、墓に見張りを置いた。
その神託とは、「AmphionとZethusの墓から土を取ってTithoreaにあるAntiopeの墓に運べば、Tithoreaの大地には穀物が稔り、Thebesでは収穫がなくなるだろう」というものであった。[116]
BacisもThebansも、Phocis地方のTithoreaの町にある墓の主AntiopeがAmphionとZethusの母であると勘違いしていた。墓の主は、Sisyphusの子Ornytionの子Phocusの妻Antiopeであり、AmphionとZethusの母Antiopeより、150年以上後の人物であった。[117]
3.4.2.5 Ptous山の神託所の開設
Meliaの子TenerusがPtous山に神託所を開設した。[118]
Tenerusの後裔は、Teiresias、Manto、Mopsusへと続く、予言者の系譜であった。Mantoは、Ionia地方のColophonの町の近くの海辺のClarusの町に、Apollonの神託所を開設し、息子Mopsusが継承した。[119]
Mopsusの娘Rhodeは、Lycia地方のRhodia(Rhodiapolis)の名祖であり、近くのTelmessus出身で、Alexander the Greatの遠征に従軍した予言者Aristanderも、Mopsusの後裔と思われる。[120]
Persian Warのとき、Caria語で神託を告げたPtous山の女司祭もTenerusの後裔で、Asia MinorにいるMopsusの後裔と交流があったものと思われる。[121]
Ptous山の神託所はAlexander the GreatがThebesの町を破壊するまで、約1000年続いた。[122]
3.5 Labdacusの子Laiusの時代
3.5.1 Phlegyesによる占領
BC1300年、Amphionが死んで、Laiusの時代になると、Eurymachus率いるPhlegyesがThebesの町に攻め入って、町を占領した。[123]
Laiusは、後見人であったAmphionの妻Niobeの兄弟Pelopsを頼って、Eleia地方のPisaの町へ亡命した。[124]
Laiusは、Pelopsから軍勢を借りて、Thebesの町を奪還した。[125]
3.5.2 Laiusの結婚
Laiusは、Menoeceusの娘Jocasta (or Iocasta, Epicasta)と結婚した。[126]
Menoeceusは、彼の息子Creonの子Haemonの子MaeonがSpartiであったことから、SpartiのEchionの子Pentheusの孫と推定される。[127]
また、このMenoeceusは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの妻Hipponomeの父であり、AmphitryonをThebesの町へ招いた人物であった。[128]
3.5.3 Oedipusの養子縁組
LaiusとJocastaから、Oedipusが生まれた。[129]
Oedipusには、先に生まれた兄弟が数人いたため、彼は養子に出された。[130]
養父は、Corinth地方のTeneaの町に住むPolybusであった。[131]
OedipusとPolybusとの系譜上の繋がりはなく、恐らく、Polybusの妻PeriboeaがOedipusの年の離れた異母姉弟なのではないかと思われる。[132]
Polybusには、後にArgosの町のTalausと結婚した娘Lysianassaしか子供が知られておらず、Oedipusを跡継ぎとするために養子にした。[133]
3.5.4 Haliartusの町との戦い
Cadmusより少し遅れてBoeotia地方に入植したAeolisとThebesの町との衝突は、必然的なものであり、両者の境のHaliartusの町で起きた。[134]
Haliartusの町の指導者はAlopecusで、彼はAthamasの養子となったThersandorusの子Haliartusの孫と推定される。[135]
その頃、Aegeusによって追放されたPandion (or Deion, Deioneus, Deione)の子CephalusがAttica地方のThoricusの町からThebesの町へ逃れて来た。[136]
Laiusは、CephalusにAlopecusと戦わせ、Cephalusは勝利した。[137]
3.5.5 Amphitryonの招致
BC1278年、Laiusは、AmphitryonをThebesの町へ招致した。それを仲介したのはSpartiのMenoeceus (or Menoecus)であった。[138]
Menoeceusは、Amphitryonの母Hipponomeの父、つまり、Amphitryonの祖父であった。[139]
Amphitryonは、叔父であるHeliusやElectryonから、Greece北西部への遠征参加を求められた。すでに、Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建していたが、新たな土地を求め、それにElectryonが協力しようとしたものであった。[140]
この遠征には、亡命中のCephalusや、Thebesの町からは、若き日のCreonも参加した。[141]
HeliusとCephalusは遠征先に入植したが、Electryonと息子たちは、遠征先での現地民との戦いで死んだ。Amphitryonは、Mideaの町に残っていたElectryonの息子Licymniusと娘AlcmenaをThebesの町に呼び寄せ、後に、Alcmenaを彼の妻とした。[142]
3.5.5 Laiusの死
3.5.5.1 Laiusの死の原因
Laiusは息子Oedipusによって、彼の父とは知らずに殺されたという伝承がある。
しかし、Laiusの死後、跡を継いだのはCreonであると伝えられており、Laiusが死んだとき、OedipusはまだCorinthの町に住んでいた。[143]
また、Laiusの墓の伝承はなく、Laiusを埋葬したのはPlataeaの町のDamasistratusであった。Laiusは、Phocis地方のPanopeusの町の近くで死んだと伝えられていることから、Phlegyansとの戦いで戦死したと推定される。[144]
3.5.5.2 Laiusを埋葬したDamasistratus
Damasistratusは、Asopus河神の娘Tanagraと同年代で、彼の妻はTanagraの姉妹Plataeaで、彼はPlataeaの町の創建者であった。[145]
Damasistratusは、Tanagraの町を創建したPoemanderの父Chaeresilausの兄弟であり、Eleutheraeの町に住むEleutherの子Iasiusの息子と思われる。
これより前に、Iasiusの息子と思われるAmphionは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Thebesの町の西南西約14kmの所にEutresisの町を創建していた。
Damasistratusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Eutresisの町へ半分くらいの所にPlataeaの町を創建した。[146]
Damasistratusの叔父Amphionは、Laiusの後見人であった。[147]
伝承では、Damasistratusが偶然、Laiusの死体を見つけたことになっているが、Damasistratusは、Laiusと共に行動していたと推定される。
3.6 Menoeceusの子Creonの時代
Laiusが死に、Creonが跡を継いだと伝えられている。[148]
しかし、CreonとLaiusの子Oedipusとは同年代であり、Oedipusの上には数人の兄がいて、名前の伝わらないOedipusの兄がLaiusの跡を継いだと思われる。[149]
3.6.1 MinosとAthensとの戦い
BC1264年、Minosの子AndrogeusがLaiusの葬送競技会参加のためにThebesの町へ行く途中で殺害された。[150]
この事件が、MinosとAthensの町との戦いの原因であると伝えられる。しかし、Athensの町のAegeusの政敵Pallasの息子たちにMinosが加担したというのが、史実のようである。[151]
AegeusはAthensの町を追われ、Megaraに逃げ込んだがMinosに攻められ、さらにTroezenの町のPittheusのもとへ亡命した。Minosの攻撃が、Athensの町に対してではなく、Megaraに対する伝承しか残っていないのがこの推定を裏付けている。[152]
この戦いでのThebesの町の動静は不明であるが、つぎの理由で、Minosに味方したと思われる。
1) Minosが、彼の息子AndrogeusをThebesの町のLaiusの葬儀に行かせていること。[153]
2) この戦いの後で、Minosの兄弟Rhadamanthysが、Boeotia地方に入植したこと。[154]
3) Rhadamanthysの入植地は、Megaraに味方したMegareusの領地であったこと。[155]
4) Amphitryonの死後、RhadamanthysがThebesの町に住んでいたAlcmenaを妻に迎えていること。[156]
3.6.2 Chalcodonとの戦い
BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むAbasの子ChalcodonがBoeotia地方に侵入した。
AmphitryonはThebesの町の北東のProetidian gate付近で武具を身に着けて進軍し、Aulisの町方向へ約10kmのTeumessusの村近くでの戦いでChalcodonを討ち取った。[157]
これより前に、Euboea島に住むCriusの息子がDelphi周辺を荒らして討ち取られていた。[158]
3.6.3 Orchomenusとの戦い
BC1256年、Orchomenus王、Presbonの子Clymenusが、Onchestusの町でCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺されるという事件が起きた。[159]
Onchestusの町は、Laiusの時代にAlopecusとの戦いがあったHaliartusの町からさらにThebesの町寄りにあった。[160]
Clymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、戦いに勝って、Thebesの町は20年間の貢納を課された。[161]
当時、Amphitryonは彼の息子Heraclesを連れてPeloponnesus各地を旅していた。
7歳のTheseusがTroezenの町のPittheusの家で、獅子の皮を敷いて座っているHeraclesを見たのは、この旅のときであった。[162]
Pittheusは、Amphitryonの妻Alcmenaの母Nicippeの兄弟であり、Amphitryonにとっては、義理の伯父であった。[163]
Amphitryonは、Thebesの町へ帰るとErginusとの戦いの準備をして軍勢を集めた。その中には、Corinth地方のTeneaの町へ養子に出されていたOedipusもいた。
Thebansは、Orchomenusの町まで攻め込んで勝利したが、Amphitryonは戦死した。[164]
また、Oedipusの2人の息子たち、PhrastorとLaonytusも戦死した。[165]
この戦いには、Ocaleaeの町のRhadamanthysもThebes側で参加したと思われ、Amphitryonの未亡人Alcmenaを妻に迎えた。[166]
3.6.4 Sphinxとの戦い
BC1238年、多数の船がAnthedon沖に現れ、船から上陸した者たちは、Anthedonの町から西南西へ約27kmの所にある標高約550mの山に拠点を置いて周辺を荒らしまわった。その集団は、Sphinxと呼ばれ、人々に「なぞなぞ」を問いかけたと伝えられている。彼らは、地元の住人に通じない言葉を話していたものと思われる。[167]
これより前、Euboea島から2度に渡って本土に侵入して荒らされたことはあったが、多数の船に乗って、各地を荒らす行為は見受けられず、遠方から渡来した「海の民」の一部と思われる。[168]
SphinxはThebesの町にも迫り、Creonは軍勢を差し向けたが、Creonの子HaemonやLaiusの息子たちは戦死した。[169]
恐らく、Thebesの町にも攻め込まれ、Creonは援軍を求めた。
その頃、Thebesの町から妻を得たRhadamanthysは世を去っていた。Athensの町はAegeusが支配していたが、Thebesの町との関係は良好とは言えず、内輪の紛争の種を抱えていた。Creonが娘Megaraを与えたHeraclesは、不幸な出来事の後で、Megaraを離縁し、それ以来、Heraclesは、Thebesの町を忌避していた。[170]
結局、Creonは、Laiusの息子で、Corinth地方のTeneaの町に住むPolybusのもとへ養子に出されていたOedipusに援軍を要請した。[171]
当時、Polybusのもとには、Argosの町を追われたAdrastusがいた。[172]
Adrastusの母Lysianassaは、Polybusの娘であった。[173]
Sphinxとの戦いにはAdrastusも参加したと思われ、Corinth勢を率いたOedipusは、Sphinxに勝利した。[174]
当時、Corinthの町は、Aesonの子Jasonの支配下にあり、この戦いには、Jasonや彼の息子Mermerusや、Sisyphusの子Ornytionも参加していたと思われる。[175]
このとき、Jasonは各地を荒らしていたSphinxからCorcyra島付近の土地の豊さを聞き及んだと推定される。[176]
この戦いから数年後、Jasonは、Heraclesに協力を要請して、Thesprotiansの地へ遠征して、Corcyra島へ移住した。[177]
3.7 Laiusの子Oedipusの時代
Sphinxとの戦いで勝利したLaiusの子Oedipusは、Thebesの町の王になった。[178]
LaiusとOedipusの間のThebesの町の支配者は、Creonではなく、名前の伝わらないLaiusの息子と思われる。Laius死亡時、立派に成人したOedipusの兄たちがいたはずであり、CreonがLaiusの跡を継ぐことはないと思われる。[179]
3.7.1 Oedipusの妻たち
Oedipusには、少なくとも3人の妻がいた。
3.7.1.1 Jocasta
1人目は、Hyperphasの娘Jocasta (or Iocasta)であった。[180]
OedipusがJocastaと結婚したのは、彼の養父PolybusがSicyon王となって、Corinth地方のTeneaの町からSicyonの町に移住した頃であった。[181]
恐らく、HyperphasはOedipusのTeneaの町の継承を正当化するために必要であった人物で、Corinthの町のCreonの兄弟と推定される。[182]
JocastaとOedipusの間には、2人の息子たち、PhrastorとLaonytusがいたが、MinyansのErginusとの戦いで戦死した。[183]
Jocastaの名前は、Oedipusの母であるMenoeceusの娘Jocastaと同じであったため、Oedipusが母を妻にしたという伝承が生まれた。[184]
3.7.1.2 Euryganeia
この戦いの1年後、Oedipusは最初の妻Jocastaの妹Euryganeia(or Eurygania)を娶った。[185]
EuryganeiaとOedipusの間には、2人の息子たち、EteoclesとPolyneices(or Polynices)、それに2人の娘たち、Ismene、Antigona(or Antigone)が生まれた。[186]
3.7.1.3 Astymedusa
そして、Thebesの町に帰還してから、老年になったOedipusは、Sthenelusの娘Astymedusaを妻に迎えた。[187]
このSthenelusは年代が合致することと、つぎのことからMycenaeの町のEurystheusの父と推定される。
1) Oedipusが幼い頃から住んでいたTeneaの町は、Mycenaeの町の隣の町であり、Astymedusaと面識があったと思われる。
2) Epigoniの捕虜になったMantoがAsia Minorへ移住したとき、Mycenaeの町出身のLebesの子Rhaciusと出会った。Rhaciusは、MantoからThebesの町が陥落したことを聞いて、大いに動揺し、悲しんだと伝えられる。Rhaciusは、Astymedusaの縁者と思われる。[188]
3.7.2 Oedipusの亡命
OedipusがAstymedusaを娶ったことで、息子たちとの間に不和が生じた。
Creonは娘Megaraを離縁したHeraclesに強い敵意を抱いていた。Creonは、Mycenaeの町の創建者Perseusを共通の先祖とするHeraclesと同族であるAstymedusaとOedipusとの結婚に反対し、OedipusをThebesの町から追放した。
Oedipusの息子たち、EteoclesとPolyneicesも父を助けようとはしなかった。[189]
Oedipusの娘Antigoneは、息子Maeonを連れて父に同行してAthensの町へ移住した。[190]
Heracleidaeの帰還の頃、Thebesの町にAthensの町のAegeusの血筋の者がいたと伝えられている。それは、Athensの町でAegeusの孫娘を娶り、後にThebesの町に帰還したAntigoneの子Maeonの後裔であったと思われる。[191]
3.7.3 Oedipusの死
BC1223年、Oedipusは、71歳で死んだ。[192]
彼と同じ年に、Heraclesも52歳で、この世を去った。[193]
Oedipusが死んだのは、Thebesの町ともAthensの町とも伝えられているが、葬儀が行われたのは、Thebesの町であった。Polyneicesの妻Argea(or Argia or Argeia)がArgosの町から葬儀に出席した。[194]
Oedipusの葬送競技会がThebesの町で開催され、8年後にThebes攻めで戦死することになるTalausの子Mecisteusが参加した。[195]
Mecisteusの母方の祖父Polybusは、Oedipusの養父であり、Mecisteusの義理の伯父であった。MecisteusはArgeaの護衛役でもあった。[196]
また、Oeclesの子Amphiarausも彼らに同行した。Amphiarausは、Oedipusの埋葬にも参加した。[197]
Oedipusが死んだとき、息子PolyneicesはArgosの町のAdrastusのもとへ亡命中で、Polyneicesは父の葬儀に妻Argeaを出席させた。[198]
OedipusはThebesの町に埋葬されたが、その後、Athensの町に改葬された。[199]
3.8 Oedipusの子Eteoclesの時代
3.8.1 Thebes攻めの背景
Oedipusの跡をEteoclesが継いだ。
BC6世紀の思想家Pherecydesは、PolyneicesはEteoclesによって無理矢理追放されたと伝えている。[200]
また、BC5世紀の歴史家Hellanicusは、Polyneicesは財産の一部を受け取り、王位はEteoclesに譲ったと伝えている。[201]
PolyneicesとEteoclesの兄弟同士の争いは、ArgivesのThebes攻めへと発展するが、その決定的な動機が不明である。
唯一考えられるのは、Polyneicesが正当な王位継承者であったことである。DiodorusはEteoclesが兄であったと伝えているが、PolyneicesがEteoclesの兄であったのかもしれない。[202]
Polyneicesには、EpigoniのThebes攻めに参加した3人の息子たち、Thersander、Adrastus、Timeasが知られている。Eteoclesの息子は、Laodamasしか伝えられていない。[203]
Polyneicesは、父Oedipusの養父Polybusの娘の子Adrastusを頼ってArgosの町へ行った。
Adrastusの娘Argiaと結婚し、少なくとも3人の子供をもうけるのには、かなりの年数が必要である。[204]
恐らく、Polyneicesは父Oedipusが追放された直後にThebesの町から追放されたと思われる。そこには、Creonを味方に付けたEteoclesとPolyneicesの間の権力闘争があったと推定される。[205]
追放された後も、Oedipusの葬儀に妻を参列させるなどしており、武力に訴えるまでの対立はなかった。その後、Polyneicesが、Eteoclesに招かれてThebesの町へ戻ったときに、PolyneicesにThebesの町の支配層に対する憎しみが沸いたものと思われる。それは、Polyneicesが彼の妻の父Adrastusを納得させることができた大儀であったようだ。[206]
3.8.2 ArgivesのThebes攻め
PolyneicesがTalausの子Adrastusに懇願してThebesの町を攻めるために集められた者は、つぎのとおりである。[207]
Oeneusの子Tydeus - Adrastusの娘Deipyla(or Deipyle)の夫
Hipponousの子Capaneus - Adrastusの姉妹Astynomeの息子
Iphisの子Eteoclus - Adrastusの姉妹Astynomeの子Capaneusの妻Evadneの兄弟
Mnesimachusの子Hippomedon - Adrastusの姉妹Metidiceの息子
Oeclesの子Amphiaraus - Adrastusの姉妹Eriphyleの夫
Talausの子Mecisteus - Adrastusの兄弟
Talausの子Parthenopaeus - Adrastusの兄弟
以上は、Adrastusの縁者であったが、Arcadia地方からもHippomenesとAtalantaの間の子Parthenopaeusが参加した。[208]
ParthenopaeusがArgivesに協力したのは、つぎの理由からであった。
Thebesの町から北北東へ約12kmの所にあるSchoinosの町に住んでいたParthenopaeusの母Atalantaの父Schoenusは、Erginusとの戦いに勝利したThebesの町に圧迫されていた。[209]
同じ頃、Minosとの戦いで父Megareusを失ったOnchestusの町のHippomenesもThebesの町に圧迫されていた。[210]
Hippomenesは、Schoenus一家と共にArcadia地方へ移住し、Schoinosの町を創建した。[211]
Parthenopaeusは、Thebesの町によって居住地を奪われた両親の恨みをはらすためにThebes攻めに参加したと思われる。[212]
Pausaniasは、Arcadiansの他に、Messeniansも遠征に参加したと伝えている。[213]
これに対して、Thebesの町はPhocis地方からの傭兵やMinyansの地方からPhlegyansの助けを受けた。[214]
Homerは、PolyneicesとTydeusがMycenaeの町を訪問して、遠征への参加を求められて受諾したが、後に、不吉な前兆により援軍を出さないことになったと伝えている。[215]
しかし、Mycenaeの町は、Perseusが創建した時からArgosの町とは、敵対関係にあった。
また、Mycenaeの町は、EurystheusがAthensの町に攻め込んで壊滅的な損害を被った後であり、遠征に参加する余裕はなかった。PolyneicesとTydeusによるMycenaeの町の訪問は、作り話と思われる。[216]
3.8.3 ArgivesのThebes攻めの結果
BC1215年、Adrastusらは、Argosの町を出発して陸路で、Cithaeron山を越え、Electran gateの外で待ち受けるThebansと一戦を交えた。Thebansが城壁の中に籠ると、Argivesは、7つの門に兵を分散した。[217]
悲劇詩人Aeschylusによれば、各門の配置はつぎのようであった。
(Hypsistan) gate --- Oeneusの子Tydeus
Electran gate --- Hipponousの子Capaneus
Neistan gate --- Iphisの子Eteoclus
Ogygian gate --- Mnesimachusの子Hippomedon
Northern(Proetidian) gate --- Atalantaの子Parthenopaeus
Homoloid gate --- Oeclesの子Amphiaraus
(Crenaean) gate --- Oedipusの子Polyneices
結局、Argivesは、Adrastus以外の将たちは戦死した。[218]
この戦いの原因であったPolyneicesとEteoclesは、両人ともに戦死した。[219]
Thebesの町は王を失い、戦利品もない「a Cadmean victory」であった。[220]
Creonは、Adrastusからの遺体の引き取りの要求を拒否し、Thebansにも遺体の埋葬を許さなかった。Adrastusは、Athensの町のTheseusのもとへ嘆願に行き、Theseusは使節を派遣して、Thebesの町から遺体の引き取りの許しを得た。[221]
BC4世紀の弁論家Isocratesは、Athensの町がThebesの町に脅しをかけたと伝えている。[222]
少し前に、Eurystheus率いるMycenaeansを撃破したAtheniansの実力をThebansが恐れた結果であった。
Adrastusは、Cithaeron山を越えたEleutheraeの町に兵士たちの遺体を埋葬し、将官の遺体は、Eleusisの町に埋葬した。[223]
BC319年のOrkyniaの戦いの時、Eumenesは、Antigonusとの戦いで戦死した将官と兵士を別々に火葬している。身分で分ける慣習は、古くから行われていたようだ。[224]
Eleutheraeの町は、当時はまだAttica地方ではなかったが、その頃からThebesの町に反感を持っていて、埋葬を許したものと思われる。Eleutheraeの町は、後にAttica地方になった。[225]
CreonがArgivesの遺体に非道な仕打ちをしたのは、町が攻められ、Eteoclesを奪われたことばかりが原因ではなかった。
Creonは、娘MegaraをAmphitryonの子Heraclesに嫁がせたが、HeraclesはMegaraを離縁した。[226]
古代の伝承の中で、離縁された女性はあまり例がない。離縁は、女性や彼女の親にとって、不名誉なことであったと思われる。
Megaraを離縁した後で、Heraclesは、Thebesの町を避けるように居住地を変えた。Heraclesの死後、彼の息子たちが、Eurystheusの圧力でTrachisの町から追い出されたときも、彼らは、Thebesの町へ行かず、Athensの町へ亡命した。[227]
Creonは、Heraclesや彼の息子たちに憎悪を抱き、そこから、Argivesに対しても悪感情を持っていたものと思われる。
3.8.4 実際のThebes攻め
Thebesの町の城壁は100年ほど前に築かれ、Phlegyes、Minyans、Sphinxからの3度に及ぶ攻撃を受け、その都度、補強していたと思われ、正攻法では攻略することは不可能であった。
BC429年、1万人以上のPeloponnesus同盟勢は、城壁内に500人に満たない兵が籠るPlataeaの町を攻め落とすことができなかった。[228]
Adrastusの遠征軍を、数で勝るThebansは、Electran gateの前で待ち構え、最初の戦いで、Argivesは壊滅したと推定される。[229]
BC1368年、Abasの双子の息子たち、Argosの町のAcrisiusとTirynsの町のProetusは、城壁を持つ町を攻めず、町の外で戦っている。[230]
3.8.5 Amphiaraus受難の場所
Amphiarausは、Boeotia地方東部のOropus(or Harma)で戦車ごと大地に呑み込まれたと伝えられている。[231]
その伝承は、Amphiarausが討ち取ったAstacusの子Melanippusの墓がThebesの町からChalcisの町へ行く街道沿いにあったことからできたと思われる。[232]
しかし、Melanippusの墓があった場所は、Melanippusが討ち取られた場所ではなく、Melanippusの屋敷があった場所であった。[233]
Pausaniasは、Thebesの町と1.8km南のPotniaeの町との間で、Amphiarausが大地に呑み込まれたと記しているが、そこは、最初の戦いがあったthe Ismenian sanctuaryの近くであった。[234]
the Ismenian sanctuaryには、Lydia王CroesusがAmphiarausの勇武と受難に感銘して奉納した黄金の楯と槍があったとHerodotusが記している。[235]
3.9 Eteoclesの子Laodamasの時代
Eteoclesの跡をLaodamasが継ぎ、Creonが後見人となった。[236]
3.9.1 EpigoniのThebes攻め
BC1205年、AdrastusのThebes攻めから10年後、Amphiarausの子Alcmaeonを指揮官とするArgivesは、再び、Thebesの町に向かった。[237]
Argivesには、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansが味方した。[238]
Messeniansの参加者は、不明である。
Arcadia地方からの参加者は、父であるAtalantaの子Parthenopaeusの仇を討つために参加した息子たち、TlesimenesとBiantesであった。彼らの他に、Phegiaの町に住むPhegeusの2人の息子たち、TemenusとAxionも参加した。[239]
彼らは、Alcmaeonの最初の妻Alphesiboea(or Arsinoe)の兄弟であった。[240]
Corinthの町からの参加者は、Melampusの子Abasの子Coeranusの子Polyidusの2人の息子たち、EuchenorとCleitusであった。[241]
Coeranusは、Adrastusと同じ頃にArgosの内紛でCorinthの町へ移住していた。
Megaraの町は、当時、Telamonの子Ajaxが治めていたが系譜上で、彼とAdrastusやArgosの町との繋がりは見つからない。恐らく、Adrastusと同じ頃にArgosの内紛でMegaraに移住したArgivesと思われ、後にTroy遠征に参加する予言者、Melampusの子Abasの子Idmonの子Thestorの子Calchasではないかと思われる。[242]
この他に、Troezenの町からもTheseusの子Hippolytusが参加したと思われる。Hippolytusは、戦車の手綱が木に引っ掛かり転覆して引きずられて死んだという伝承がある。[243]
Troezenの町にDiomedes創建のHippolytusの神苑があり、HippolytusとDiomedesと同世代であった。Thebes攻めの後で、Troezenの町がDiomedesの支配下にあったことから、HippolytusはEpigoniのThebes攻めに参加して戦死したと思われる。[244]
これに対して、Thebesの町へは周辺の町から援軍があった。[245]
3.9.2 Mysiaからの参加
Hyginusは、Parthenopaeusの子TlesimenesをMysianだと伝えている。[246]
Parthenopaeusは、Augeの子Telephusと共にArcadia地方からAsia MinorのMysiaへ移住した。[247]
ParthenopaeusとTelephusは、同年代であり、Tegeaの町のすぐ東側のParthenius山付近に住んでいた。[248]
Telephusの父は、Heraclesではなく、Parthenopaeusの母Atalantaの兄弟、Schoeneusの子Clymenusであった。Telephusは、彼の母AugeとClymenusの甥Parthenopaeusと共にMysiaへ移住した。[249]
Mysia地方のPergamusの町の住人は、Telephusと共にArcadia地方から移住して来た人々の後裔であった。[250]
Parthenopaeusは、AdrastusのThebes攻め前に帰国して、遠征に参加して戦死した。
Tlesimenesは、EpigoniのThebes攻めの話を聞いて、父の仇を討つためにMysiaから駆け付けて遠征に参加した。[251]
3.9.3 Epigoniの将たち
Amphiarausの子Alcmaeonを指揮官として、Polyneicesの子ThersanderをThebesの町の王とするために、つぎの将たちが参加した。[252]
Adrastusの子Aegialeus、Talausの子Parthenopaeusの子Promachus、Hippomedonの子Polydorus、Amphiarausの子Amphilochus、Tydeusの子Diomedes、Capaneusの子Sthenelus、Mecisteusの子Euryalus、それに、Polyneicesの2人の息子たち、AdrastusとTimeas。[253]
3.9.4 戦いとその後
Alcmaeon率いるArgivesは海路でAulisの町に着き、そこから、陸路でThebesの町を目指した。[254]
Laodamasは、Argivesを迎え撃つためにThebesの町から出陣して、Glisasの町に陣を敷いた。[255]
そこで、Adrastusの子Aegialeusや、Parthenopaeusの子Promachusなど多くの者が戦死する大きな戦いがあり、Argivesが勝利した。[256]
Thebesの町の住人は、Alalcomenaeの町の近くのTilphossaeumへ逃れた。[257]
Thebesの町の予言者Teiresiasはその地で死に、彼の娘Mantoは、Argivesの捕虜になった。[258]
Laodamasは、希望する者たちを率いて、Illyriaへ移住した。[259]
途中で分かれて、Thessaly地方へ向かい、Peneius河口右岸のHomoleの町に住み着いた人々もいた。[260]
また、Euboea島へ移住して、島の北西部にHistiaeaの町を創建した人々もいた。[261]
Homerは、Histiaeaの町を「ブドウ豊かな」と表現している。[262]
しかし、大部分の住人は、Haliartusの町近くのTilphossaeum山に逃げ込み、Argivesがいなくなるのを待っていた。[263]
Tanagraの町の周辺に居住していた、Gephyraeansはしばらく残留していたが、少し後にBoeotiansに追われてAthensの町へ移住した。[264]
3.9.5 Eriphyleの首飾り
BC352年、Phocisの僭主Theotimusの子PhayllusがDelphiのthe temple of Athena Forethoughtから略奪した品の中に、Eriphyleの首飾りがあった。[265]
その首飾りは、戦いで勝利したEpigoniがDelphiに奉納した戦利品の中の一つであった。
後に、Delphiでその首飾りを見た人物が、Thebesの町にあった首飾りがDelphiに奉納されるに至るまでを物語にした。あらすじはつぎのとおりである。
Polyneicesは、Adrastusの娘Eriphyleの夫AmphiarausをThebes攻めの遠征に参加させようとして、Eriphyleに首飾りを贈った。[266]
その首飾りは、Cadmusの妻Harmoniaの代から続く由緒ある品であった。[267]
Amphiarausの子Alcmaeonは、EpigoniのThebes攻めの後で、父の遺言に従って母Eriphyleを殺害して首飾りを手に入れた。その後、Alcmaeonは、Arcadia地方のPhegiaの町に住むPhegeusの娘Alphesiboeaを妻にして、彼女に首飾りを贈った。[268]
その後、AlcmaeonはAcarnania地方へ移住して、Callirhoeを妻にした。[269]
CallirhoeからEriphyleの首飾りを手に入れるよう頼まれたAlcmaeonは、Phegiaの町へ行き、そこで殺された。[270]
Alcmaeonを殺したPhegeusの息子たちは、首飾りをDelphiに奉納した。[271]
という、相当無理のある物語であるが、Homerによっても信じられ、Eriphyleは高価な黄金のために夫を売ったと伝えている。[272]
しかし、Eriphyleの首飾りと伝えられるものは、黄金の鎖ではなかったようだ。
Phayllusが神殿から首飾りを略奪する4年前に、同じ神殿からPhayllusの兄弟PhilomelusがCroesus奉納の黄金の丸楯などを略奪していた。Eriphyleの首飾りが黄金製であれば、Philomelusが見逃すはずがなく、首飾りは価値のない品物であったと思われる。[273]
Apollodorosは、戦利品の一部と、Teiresiasの娘MantoをDelphiに送ったと伝えている。[274]
3.10 Polyneicesの子Thersanderの時代
Thersanderは、Thebesの町を支配下に置くと、各地へ避難した人々を呼び戻した。その際、Thessaly地方のHomoleの町から帰還した人々が町へ入るときに潜った門は、Homoloid gateと呼ばれるようになった。[275]
つまり、Amphiarausが攻めたと伝えられているHomoloid gateという名前の門は、AdrastusのThebes攻めのときも、EpigoniのThebes攻めのときも存在していなかった。
3.10.1 Alcmaeonと捕虜たちのAcarnaia入植
Amphiarausの子Alcmaeonは、捕虜となった人々を引き連れて、彼らの王Laodamasが移住したIllyriaを目指した。彼らの一部は、Acarnaia地方とAetolia地方との境になっているAchelous川の河口付近に定住した。そこには、Astacusという名前の町が創建された。[276]
一部の史料では、AlcmaeonがTydeusの子Diomedesに誘われてAetolia地方へ遠征して、Calydonの町を追われた祖父Oeneusの仇を討った後で、AlcmaeonはAcarnaia地方に入植したと伝えている。[277]
しかし、HygniusはDiomedesの遠征に協力したのは、 Capaneusの子Sthenelusであると伝え、こちらの方がDiomedesとSthenelusの親友関係からも妥当と思われる。[278]
Oeneusの敵、Pleuronの町のParthaonの子Agriusとその息子たちは、Alcmaeonの祖父Oecleusの妻であるPleuronの町のThestiusの娘を通して、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係にあった。Diomedesの祖父Oeneusの敵は、Alcmaeonの親族であり、Alcmaeonが親族相手の戦いに協力したとは思えない。
Alcmaeonは、彼の弟AmphilochusやArgosの町から率いて来た人々とArcadia地方に入植し、捕虜のMantoとの間に息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[279]
3.10.2 Mantoや捕虜たちのAsia Minor入植
Alcmaeonは入植先で新たにCallirhoeを妻に迎え、Mantoは他の捕虜たちと新天地への移住を希望した。Thebesの町の近郊にも捕虜となった人々がいて、彼らも他の住人との軋轢で、新天地への移住を希望した。[280]
Alcmaeonは、Mantoや移住を希望する捕虜たちの望みを叶えてやるように、Thebesの町のThersanderに依頼した。ThersanderにとってAlcmaeonは、妻Demonassaの兄弟であると同時に、自らをThebes王に復位させてくれた恩人でもあった。[281]
Mantoたちは、Greeceから遠く離れたAsia Minorを移住先として希望した。
Thersanderは、EpigoniのThebes攻めに参加したParthenopaeusの子Tlesimenesの出身地MysiaにMantoたちを連れて行くことにした。[282]
Thersanderが率いる移民団には、Tlesimenesが水先案内人をつとめたと思われ、無事にMysiaに着くが、その地でThersanderが死去した。[283]
Mantoたちは、さらに南へ航海し、Colophonの町のCretansに受け入れられて、彼らと共住した。[284]
3.11 Thersanderの子Tisamenusの時代
Tisamenusの時代にTrojan Warがあったが、戦士の年齢に達していなかったため、遠征には参加しなかった。[285]
3.11.1 ThraciansのBoeotia侵入
Thraciansは、Orchomenusの町に侵入し、追い出された住人は、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosの町へ移住した。[286]
Teosの町は、少し前にMantoたちが居を定めたColophonの町のすぐ西側にあった。[287]
その120年後、Athensの町のMelanthusの曾孫Apoecusに率いられたIoniansと共に、BoeotianのGeresが率いるBoeotiansがTeosの町に入植した。[288]
また、Orchomeniansの一部は、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[289]
Orchomeniansを追い出したThraciansとは、かつて、Boeotiaの代名詞であったHyantesであった。彼らは、Cadmusに追われて西へ追いやられ、当時はPhocis地方のHyampolisの町に住んでいて、帰還の機会を狙っていた。[290]
Thraciansは、Thebesの町をも占領して、住人を捕虜にして、Haliartusの町まで連れて行ったが奪い返された。[291]
3.11.2 PelasgiansのBoeotia侵入
PelasgiansはCoroneiaの町に侵入し、追い出された住人は、Thessaly地方のArneの町へ移住した。[292]
Coroneiaの町は、Amphionの時代に、Arneの町からBoeotia地方に移住して来て以来、徐々に居住範囲を広げていたBoeotiansの中心の町であった。[293]
2年後、Thessaly地方へThesproteansが侵入し、Arneの町のBoeotiansは、予言者PeripoltasやPeneleosの子Opheltesに率いられて、Boeotia地方に帰還した。しかし、Coroneiaの町を奪い返すことができずに、Phocis地方に近い土地に定住した。[294]
その地は、Arneの町と呼ばれたが、後にChaeroneiaの町と改められた。[295]
3.13 Tisamenusの子Autesionの時代
BC1126年、Thessaly地方のArneの町にpenestaiと呼ばれる奴隷身分となって残留していたBoeotiansは、Thessaliansに追い出された。[296]
Arneの町を追われたBoeotiansは、先に帰還してChaeroneiaの町に住んでいたBoeotiansと合流した。彼らは、Peneleosの子Opheltesの子Damasichthonを指導者として、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansを追い出した。[297]
この時、Athensの町のMunychiaに避難していたOrchomeniansも帰還し、Boeotiansと共同で、Orchomenusの町を占拠していたThraciansを追い出した。[298]
Damasichthon率いるBoeotiansは、Thebesの町をも攻めた。Tisamenusの子Autesionは、Cadmusから約300年続いた先祖の町を、Aeolisの支族Boeotiansに明け渡した。[299]
Autesionは、CadmusやEteoclesの子Laodamasが行ったIllyriaや、Orestesの子Tisamenusの支配下にあった祖母の故郷Argosの町へは行かずに、Doriansの地へ移住した。[300]
Epicnemidian LocrisとOpuntian Locrisとの間にあるDoris地方のPindusの町には、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの子Aristomachusが住んでいた。[301]
Heraclesの死後、Doriansの王Aegimiusは、Heraclesの子Hyllusを養子にし、Hyllusは、Doriansの3部族の一つHylleisの始祖となっていた。[302]
Heraclesは、離縁した妻Megaraの父Creonから憎まれて、Thebesの町とは絶縁状態であった。しかし、Heraclesの父Amphitryonの母Hipponomeは、Cadmusの血を引くMenoeceusの娘であり、Heraclesの後裔もAutesionもCadmusを共通の先祖としていた。
AutesionがDoriansの地へ移住した頃、Aristomachus率いるDoriansのPeloponnesus侵入があった。Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れて戦死した。
Autesionの移住が、この戦いの前であれば、戦力を増強するため、戦いの後であれば、損失を埋めるために、同族を喜んで迎え入れたと思われる。[303]
その後、Autesionの娘Argeiaは、Aristomachusの子Aristodemusの妻となり、Spartaの始祖となる双子の息子たち、EurysthenesとProclesを産んだ。[304]
3.14 Opheltesの子Damasichthonの時代
Damasichthonは、Thebesの町を手に入れたことでBoeotia地方全域の支配者になった。
それまで、Coroneiaの町を中心に局地的に用いられていたBoeotia地方という呼び名が、Boeotia地方全域を指すようになった。[305]
その頃、AeolisによるAsia Minor植民が開始され、Boeotia地方のAulis港は、移民を運ぶ船で賑わっていた。[306]
Boeotiansも、Mycenaeの町のOrestesの子Penthilusに率いられて植民に参加し、Aeolis地方に入植した。[307]
3.15 Ptolemyの子Xanthusの時代
Damasichthonの跡を、彼の息子Ptolemyの子Xanthusが継いだ。[308]
BC1111年、Xanthusは、Athensの町と土地の問題で争い、一騎打ちをして死んだ。[309]
Xanthusが争った土地は、MelaenaeともOinoeとも伝えられる。[310]
また、一騎打ちの相手も、その戦いでAthens王となったMelanthusとも、その父Andropompusとも、先代のAthens王Thymoetesとも伝えられる。[311]
Xanthusの死後、Thebesの町では、300年以上続いた王制が廃止された。[312]
3.16 ThebesとSparta
BC1070年、Spartaの町のDoriansは、Achaeansが住むAmyclaeの町を攻略できず、Thebesの町からTimomachusを招いて軍事指導をさせた。[313]
初代Sparta王の後見人Therasの父Autesionは、Thebesの町を追われた身であり、奇異な感じもするが、当時、Thebesの町の軍事力が有名であったとも思われる。
3.17 Thebesの植民活動
BC1043年、Xanthusの孫の時代に、Hippalcimusの子Peneleusの後裔Philotasが、Thebesの町から移民団を率いて、Samos島対岸に入植し、Prieneの町を再建した。[314]
Prieneの町は、少し前にCodrusの子Neileusの子Aepytusが率いる植民団が創建した町であった。[315]
3.18 Thessaliansとの戦い
BC594年、Lattamyas率いるThessaliansがBoeotia地方に侵入したが、ThebansはThespiae付近で戦って、Thessaliansを撃退した。[316]
Phocis地方のCirrha攻略のためにAmphictyonsの一員として参加したThessaliansがBoeotia地方へも侵入したものであった。[317]
4 Orchomenusの歴史
Cadmusの入植から30年遅れて、AeolisがBoeotia地方へ入植した。
それまで、Boeotia地方に住んでいたGreeksは、Arcadiansを含むPelasgiansだけであった。
4.1 AthamasとAndreusの入植
4.1.1 Athamasの入植
Boeotia地方へ初めて入植したAeolisは、Hellenの子Aeolusの子Athamasであった。AthamasはThessaly地方のArneの町に住んでいた彼の父AeolusのもとからPagasetic Gulf西岸へ移住して、Halusの町を創建した。その後、BC1390年に発生した大津波でHalusの町を洗い流され、Athamasは、Copais湖付近へ移住した。[318]
AthamasはCopais湖東岸にAcraephniumの町を創建し、Athamasの子Ptousは近くの山に名を残した。[319]
Pausaniasは、Acraephniumの町からCopais湖へ直接通じる道の先にあるthe Athamantian PlainにAthamasが住んでいたと伝えている。[320]
Athamasが入植したとき、Copais湖周辺にはCadmusと共に移住して来たEncheleansが居住していた。[321]
Encheleansは一部の人々を残して、新天地を求めてIllyria地方へ移住し、その後、Cadmusも子供たちを残してその地方へ移住した。[322]
入植した時、55歳と推定されるAthamasとCadmusの娘Inoとの物語は、多くの人々によって語られているが、まったくの作り話と思われる。[323]
Athamasの子Phrixusは、Ephyraeaの町(後のCorinthの町)のSisyphusの子Aeetesが、津波で被災した人々と共に新天地へ向かう遠征に参加した。Aeetesは、Phrixusの従兄弟であった。
移民団の中にはAeetesの娘Chalciopeがいて、PhrixusとChalciopeは結婚した。[324]
Athamasの子Schoeneusは、Thebesの町からAnthedonの町の方へ約12kmのところにSchoenusの町を創建した。[325]
4.1.2 Aeolusの子Andreusの入植
Orchomenusの町の創建者について、2つの伝承がある。
一つは、Peneius河神の子Andreusが創建し、当時の町の名前はAndreisであったというもの。[326]
もう一つは、かつてDeucalionが住んでいた、Iolcusの町がある地方から、Aeolusの子MinyasがCadmusの地と境を接する土地にOrchomenusの町を創建したというもの。[327]
以上の伝承から、Orchomenusの町の創建者は、Thessaly地方北部を流れるPeneius川付近を領していたAeolusの息子で、Minyasとも呼ばれるAndreusであったと推定される。
また、このMinyasは、BC5世紀の神話学者Pherecydesが伝えているNeleusの妻Chlorisの父Amphionの母の母Persephoneの父Minyasと同一人物と思われる。[328]
4.1.3 AthamasとAndreusの入植時期
Pausaniasによれば、Andreusは後から来たAthamasに土地を与えたというが、逆と思われ、Copais湖東岸に先住していたAthamasが後から来たAndreusに土地を分け与えたと理解した方が妥当である。[329]
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であったが、Andreusの父をAthamasの父、つまり、AndreusとAthamasを兄弟とするのは無理である。というのは、AndreusがAthamasの孫娘を妻にしているからである。[330]
Andreusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの息子であり、AndreusにとってAthamasは、曾祖父Mimasの兄弟であった。
奇異な感じがするが、Andreusは成年に達したばかりであったが、Athamasは結婚適齢期に達した孫のいる老人であり、両者の間には、2世代の差があった。[331]
後にOrchomenusの町の名声が高まり、AndreusがAthamasに土地を与えたという逆の逸話ができたと思われる。
4.1.4 Andreisの町の位置
Athamasが入植した当時、Copais湖周辺にはEncheleansの他に、Cadmusに追われたHyantesも居住していた。[332]
また、Phocis地方にはThraciansが居住していた。[333]
Aeolisは、Athamasが入植したAcraephiumの町から徐々にCopais湖西側へ居住範囲を広げて行った。Athamasのすぐ後に入植したAndreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の近くにあったと思われる。[334]
Straboは、古いOrchomenusの町がCopais湖に沈み、Copais湖の西側のAcontius山の近くに新しい町を建設したと伝えている。
恐らく、Andreisの町は、Acraephiumの町の北側にあったと思われる。[335]
4.2 Andreusの子Eteoclesの時代
4.2.1 Olmonesの創建
Andreusの子Eteoclesは、Sisyphusの子AlmusにCopais湖北岸の土地を分け与えた。[336]
Eteoclesは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子であり、Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子であった。つまり、Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
AlmusとEteoclesの関係は、かなり疎遠である。もしかすると、Almusは、Eteoclesではなく、Athamasを頼って移住してきたのかもしれない。
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Almusの叔父であった。
これも、後にOrchomenusの町の名声が高まり、EteoclesがAlmusに土地を与えたという逆の逸話ができたと思われる。
Almusが作った町は、Almonesと呼ばれていたが、後にOlmonesと呼ばれるようになった。
[337]
4.2.2 HaliartusとCoroneiaの創建
Athamasは、跡継ぎにしようとしていた息子Leuconが病死し、甥Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusを養子に迎えた。[338]
CoronusはCopais Lakeの南西岸にCoroneiaの町を創建した。[339]
Haliartusは、Coroneiaの町からThebesの町寄りの地にHaliartusの町を創建した。[340]
4.2.3 Phrixusの子Presbonの帰還
Colchisへ移住したAthamasの子PhrixusのもとからPhrixusの子Presbonが祖父Athamasのもとへ帰還した。[341]
これより少し前に、Athamasは養子、HaliartusとCoronusを迎えていたが、彼らに与えた土地以外のAthamasの土地をPresbonが相続することになった。[342]
4.3 Chryseの子Phlegyasの時代
Andreusの子Eteoclesが跡継ぎを残さずに死ぬと、Almusの娘Chryseの子PhlegyasがEteoclesの跡を継いだ。[343]
4.3.1 Phlegyasの創建
Phlegyasは、Phlegyasの町を建設して、Greece中から戦士を集め、彼らはPhlegyansと呼ばれるようになった。[344]
Phlegyansは、Phlegyasの祖父Almusと共にCorinthの町からBoeotia地方へ移住して来たThessaly地方出身のAchaeansであった。
当時、Andreisの町とThebesの町との間に争いは認められず、Phlegyasは、まだ近くで勢力を保っていたHyantesから収穫物を守ろうとして戦士を集めたと思われる。[345]
Phlegyasの町の建設は、Tirynsの町の城壁築造より10年以上前であり、外敵から守りやすい小高い丘の上に収穫物の貯蔵庫を作り、まわりに柵を廻らした程度であったと思われる。
4.3.2 Gla (or Glas)の遺跡
19世紀後半にBoeotia地方のCopais湖が干拓されて、謎の古代遺跡Glaが姿を現したと言われている。しかし、1805年12月27日、イギリス王立協会会員、William Martin Leakeは、Glaの遺跡の近くを通って、「要塞化された島」(Glaの遺跡)を目にしていた。[346]
Leakeは、その島を、Pausaniasが記しているthe Athamantian PlainがAcraephiumの町の北側にあったAeolusの子Athamasの館があった場所だと推定した。[347]
しかし、Pausaniasは、Acraephiumの町からまっすぐ湖へ進むとthe Athamantian Plainがあると記しており、Athamasの館は、町の南西の平原にあった。[348]
Athamasは彼を頼って、Thessaly地方のArneの町から出て来た若者Andreusを町の北側に住まわせ、彼の孫娘EuippeとAndreusを結婚させた。[349]
Andreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の北側の低地にあったが、Copais湖に水没して、湖の西側へ新たな町Orchomenusを建設した。[350]
Chryseの子PhlegyasがPhlegyasの町を建設したのは、彼がAndreisの町に住んでいた時であり、Phlegyasの町はAndreisの町の近くにあったと推定される。
つまり、「要塞化された島」Glaの古代名は、Phlegyasと推定される。
4.4 Chrysogeneiaの子Chrysesの時代
Phlegyasの跡をAlmusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesが継いだ。[351]
Chrysesの時代にCopais湖の水位が上がってAndreisの町は人が住めなくなった。Andreisの町の住人は、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しい町(後のOrchomenus)を建設した。[352]
4.5 Chrysesの子Minyasの時代
4.5.1 Copais湖の排水工事
Minyasは、Copais湖の水を海へ流す地下水路を掘削した。自然にできた地下水路の入り口がCopais湖の北東のCopaeの町の近くにあり、その水路の流れを良くするために掘削したものであった。[353]
Copais湖に沈んだ町として、Athensの町やEleusisの町、Andreis(古いOrchomenus)の町がある。[354]
また、Arneの町やMideiaの町もCopais湖に沈んだとStraboが伝えている。[355]
Alexander the Greatは、Chalcisの町の鉱山師Cratesに命じて、湖の水を排出する地下水路を塞いでいる詰まり物を除去させた。[356]
その結果、湖水に沈んでいたAthensの町が姿を現した。[357]
4.5.2 Minyansの宝庫
Minyasの時代、Minyansは黄金期を迎え、初めて宝庫が建てられた。[358]
Cephisus川が流入するCopais湖周辺の土地からの収穫が如何に多かったかを物語っている。
Herodotusは、EgyptのRhampsinitus王の宝庫を建てた職人の息子たちが、宝庫から財宝を盗み出す逸話を伝えている。[359]
Pausaniasもほぼ同じ逸話を伝えているが、宝庫の持ち主はHyrieusであり、場所はLebadeiaの近くであった。[360]
また、王はAugeasとする伝承もあり、その土地の昔の支配者を逸話に取り入れているようである。[361]
恐らく、莫大な富を築いたMinyansの宝庫と近くにあるTrophoniusの神域から生まれた逸話が各地で語られたものと思われる。[362]
HerodotusはTrophoniusについては触れずに、Egyptでの物語として伝えている。
4.5.3 Minyansの広がり
Minyansの富は広く知れ渡り、Cretheusの子NeleusもMinyansのIasiusの子Amphionの娘Chlorisを妻に迎えるほどであった。[363]
古代Greeceでは、娘が嫁ぐ際に持参金を用意したようであり、Homerは娘の持参金の代わりに自作の叙事詩「Cypria」を婿のStasinusに贈った。[364]
Cretheusの跡を継いだIolcusの町のNeleusの双子の兄弟Peliasも、Orchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを娶った。[365]
また、Peliasの兄弟Aesonも、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeを娶っているが、ClymeneもIolcusの町の近くのPhylaceの町のPhylacusに嫁いでいた。[366]
さらに、Peliasの兄弟Pheresも、Minyasの娘Periclymeneを娶っていた。[367]
Pelias、Phylacus、そして、Pheresに嫁いだ花嫁には多くのMinyansが同行して移住しており、Iolcusの町の周辺には、多くのMinyansが住むことになった。[368]
4.6 Minyasの子Orchomenusの時代
Minyasの子Orchomenusの時代に、Andreisの町の名前が、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[369]
4.6.1 Hyettusの創建
Argosの町のHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺して、Boeotia地方へ移住して来た。
彼は、Minyasの子OrchomenusからCopais湖の北側の土地を譲られてHyettusの町を創建した。[370]
Hyettusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの子Biasの息子と思われる。[371]
Orchomenusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Almusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesの子Minyasの息子であった。[372]
つまり、Hyettusは、Hellenesとして同族のOrchomenusを頼って、Boeotia地方へ移住した。[373]
4.7 Presbonの子Clymenusの時代
Pausaniasは、Minyasの子Orchomenusが子供を残さずに死んで、Sisyphusの子Almusの王統は絶えたと伝えている。[375]
しかし、Orchomenusには、娘Elara (or Elare)や、少なくとも5人の姉妹たちがいた。[376]
また、Orchomenusには、Phocis地方にCyparissusの町を創建した彼の兄弟Cyparissusもいた。[377]
Orchomenusの町を継承したのは、Acraephiumの町に住むAthamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusであった。[378]
Clymenusは、初代Orchomenus王Andreusの妻Euippeの従兄妹Presbonの息子であった。[379]
ClymenusがOrchomenusの町を継承したのは、Minyasの家系が断絶したためではなく、別な事情があったと思われる。
Clymenusは、Onchestusの町のPoseidonの神域で、Thebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[380]
しかし、次のことから、この事件は、Orchomenusの町とThebesの町の最初の武力衝突であったと推定される。 1) Athamasの後裔ClymenusがOrchomenusの町を継承し、Boeotia地方に、2大勢力(OrchomenusとThebes)が誕生した。 2) Onchestusの町は、Orchomenusの町とThebesの町の境界付近にあった。 3) Clymenusの死後、MinyansとThebansとの大きな戦いに発展した。
4.8 Clymenusの子Erginusの時代
4.8.1 Thebansとの戦い
父を殺されたClymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、Thebansに貢納を課した。[381]
その後、Amphitryon率いるThebansは、Orchomenusの町を攻撃して、Erginusは敗北した。[382]
この戦いの結果、Orchomenusの町に味方した町の住人が他へ移住した。
Onchestusの町に住んでいたMegareusの子Hippomenesや、Schoinosの町に住んでいたSchoeneusは、Arcadia地方へ移住した。[383]
また、Onchestusの町に住んでいたOnchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Copais湖対岸へ移住してCopaeの町を創建した。[384]
4.8.2 Erginusの息子たち
伝承では、Amphitryonとの戦いで敗北した後で、Erginusに2人の息子たち、TrophoniusとAgamedesが生まれた。彼らはDelphiの神殿を建設する名工になり、TrophoniusはLebadeiaの大地が裂けた穴に呑み込まれ、神になったと伝えられている。[385]
しかし、神になったTrophoniusには子供たちがいたとも伝えられ、Erginusの跡を彼の兄弟Azeusの後裔が継いだことと矛盾する。[386]
Erginusの息子たちは、逸話に合わせて創作されたもので、本当は跡継ぎがなかったと思われる。
4.9 AscalaphusとIalmenusの時代
Erginusが死ぬと、彼の兄弟Azeusの子Actorの娘Astyoche (or Pernis)の2人の息子たち、AscalaphusとIalmenusがOrchomenusの町を継承した。[387]
4.9.1 Thraciansによる占領
AscalaphusとIalmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いてTroyへ遠征した。[388]
戦士たちがいなくなったOrchomenusの町にThraciansが侵入して、町を占領した。
Orchomeniansの一部は、Athensの町へ逃れて、Munychiaに住んだ。[389]
また、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられたOrchomeniansは、Ionia地方へ移住してTeosの町を創建した。[390]
Teosの町のすぐ東にあるColophonの町には、EpigoniのThebes攻めの捕虜たちが、少し前に、その地へ移住していた。[391]
この時、Teosの町へ移住したOrchomeniansの後裔は、BC4世紀にPhilipによって帰還させられた。[392]
4.9.2 Sauromataeへの移住
AscalaphusはTroyで戦死して、Ialmenusは、Orchomenusの町の状況を知って、Sauromataeへ移住した。[393]
Ialmenusの母Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。[394]
Presbonは、Colchis地方で生まれ、祖父の跡を継ぐためにBoeotia地方へ移住して来たが、その後、両地方の間で交流があったと思われる。[395]
Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の2人の息子たち、PersesとAeetesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)とColchis地方を支配していた。[396]
また、Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Sauromatiansの王のもとへ嫁いでいた。[397]
Presbonの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。
4.10 Trojan Warの後の時代
Orchomenusの町は、60年以上、Thraciansによって占拠されていた。
BC1126年、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansは、Athensの町のMunychiaから帰還したOrchomeniansと共にOrchomenusの町からThraciansを追放した。[398]
この時、Orchomenusの町には、Boeotiansも多く移住したようであり、Straboは、BoeotiansがOrchomenusの町を併合したと伝えている。[399]
Orchomenusの町の住人の一部は、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの娘Theroの子Chaeronと共にBoeotiansが退去したArne(後のChaeroneia)の町へ移住した。[400]
Phylasの妻であるIolais (or Iolaus)の娘Leipephilene (or Leipephile)は、Orchomenusの町がThraciansによって占拠された時に、Athensの町へ避難したOrchomenianと思われる。
その後、Orchomenusの町は、Thebesの町を中心としたBoeotia地方の一つの町になった。
BC424年のThe Battle of Deliumでは、Boeotia地方の一員として、Orchomeniansは、Atheniansと戦った。[401]
5 Alalcomenaeの歴史
Homerは、Athenaの名前にAlalcomenaeを冠しているが、Alalcomenaeの町はAthena生誕の地であった。[402]
CecropsがAlalcomenaeの町の近くを流れるTriton川のほとりにAthensの町とEleusisの町を創建したと伝えられるが、実際にその地に住んだのはCranausであったと思われる。[403]
Cranausの娘Atthis(別名、Athena)は、Triton川のほとりで育った。[404]
BC86年、Romeの将軍Sullaは、Alalcomenaeの町を破壊し、Athena神殿にあった象牙造りのAthena神像を略奪した。[405]
Pausaniasの時代には、崩れた神殿はツタに覆われていた。[406]
Alalcomenaeの町は、山の急斜面にある小さな町で、その下の平地にAthena神殿があった。[407]
6 Anthedonの歴史
BC1420年、Atlasの娘Alcyoneの子Anthasは、Anthedonの町を創建した。[408]
Alcyoneには、2人の息子たち、HyrieusとHyperenorがいた。[409]
Hyrieusは、Hyriaの町に住んでいたことから、Anthedonの町のAnthasとは、Hyperenorの別名であったと思われる。[410]
Anthas (別名Hyperenor)の父は、Arcadia地方からSamothrace島を経由してBoeotia地方へ移住して来たMegassaresと思われる。したがって、Anthedonの町に最初に住んだGreeksは、Arcadiansであった。[411]
その後、AeolisであるSisyphusの子Aloeusの子Aloeusが、Sicyonの町からAnthedonの町へ移住して来たと推定される。
推定の根拠の一つは、AloeusとIphimedeiaの2人の息子たち、OtusとEphialtesの墓がAnthedonの町にあったと伝えられていることである。[412]
もう一つは、Aloeusの妻Iphimedeiaと娘のPancratisがThraciansによって、Thessaly地方のPhthiotisの近くから拉致されたと伝えられることである。
彼女たちが拉致された場所は、Sicyonの町ではなくAnthedonの町と思われることである。[413]
この当時、Thebesの町から北北東へ約12kmの所に、Athamasの子Schoenusが創建したSchoinosの町があったが、Anthedonの町は、そこからさらに北東へ約12kmの海岸の近くにあった。[414]
Athamasの子Schoenusは、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusにとっては、父の従兄弟であった。[415]
また、Aloeusの父の兄弟であるSisyphusの子Aeetesは、Colchisへ移住しており、Anthedonの町は、Colchisへ向けての航海に適した位置にあった。[416]
7 Aspledonの歴史
BC1350年、Athamasの子Orchomenusの子Aspledonは、Copaic Lake北東にAspledonの町を創建した。[417]
Pausaniasは、水不足のために住民はAspledonの町を見捨てたと伝えているが、Straboは、Aspledonの町を川の近くにあり、気候に恵まれた町だと伝えている。[418]
Orionの父Hyrieusの時代には、Aspledonの孫と思われるHymenaeusがAspledonの町に住んでいた。[419]
また、Boeotiansが50隻で参加しているTroy遠征に、Orchomenusの町とAspledonの町からは30隻参加している。Aspledonの町にもかなりの数の住民が住んでいたものと思われる。[420]
AD1世紀のPlinyも、Boeotia地方の町の名前にAspledonを記している。[421]
8 Chaeroneiaの歴史
BC1186年、Thessaly地方のArneの町に住んでいたBoeotiansは、Greece北西部からThessaly地方に侵入したThesproteansに追われて、Boeotia地方へ移住した。
予言者PeripoltasやPeneleosの子Opheltesに率いたBoeotiansは、Boeotia地方の西部辺境の地に定住して、町をArneと呼んだ。[422]
BC1126年、Opheltesの子Damasichthonは、Thebesの町に住むCadmusの後裔Autesionを追い出し、Orchomenusの町をも併合して、Boeotia地方全域を支配下に置いた。[423]
このとき、Orchomenusの町の一部の住人は、Theroの子Chaeronに率いられて、Boeotiansが退去したArneの町に移住して、町の名前をChaeroneiaに変えた。[424]
Chaeroneiaの町は、亡命中のAthensの町から帰還したOrchomeniansが創建したと思われ、Theroの祖父Iolais(or Iolaus)は、Presbonの子Clymenusの後裔であったと思われる。[425]
Iolaisの時代にTrojan Warがあり、Orchomenusの町からも遠征に参加した。Iolaisは戦士の年齢に満たないためにOrchomenusの町に残っていた。手薄になった町を狙って、Thraciansが侵入し、Orchomeniansの一部はAeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられてIonia地方のTeosへ移住した。[426]
また一部のOrchomeniansは、Athensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[427]
Iolaisの娘Leipephilene(or Leipephile)は、Antiochusの子Phylasと結婚し、娘Theroが生まれた。[428]
Antiochusは、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子で、Athensの町の名祖の一人であった。[429]
したがって、Theroの子Chaeronと共にChaeroneiaの町の創建者となった住人は、3世代に渡ってAthensの町で亡命生活をしていたOrchomeniansであった。
しかし、Chaironeiaの町の近くのLebadeiaの町やStirisの町には、Athensの町からの移住者が住んでおり、Orchomenusの町とAthensの町の対立にChaironeiaの町も巻き込まれた。[430]
BC424年、Chaironeiaの町は、Boeotia領Orchomenusの町の管轄下にあった。
Atheniansは、Chaironeiaの町の内部から反乱を起こさせようとしたが失敗し、Chaironeiaの町はBoeotiansによって救われた。[431]
9 Coroneiaの歴史
9.1 Trojan War以前
BC1371年、Thersanderの子CoronusがCopais Lakeの南西にCoroneiaの町を創建した。CoronusはAthamasの養子となって、領地を分け与えられたと伝えられるが、Athamasが彼の兄弟Sisyphusの子Thersanderの子Coronusを呼び寄せて、入植させたものと思われる。[432]
このCoronusはSicyonの町のOrthopolisの娘Chrysortheの子Coronusと同一人物で、Chrysortheの夫はSisyphusの子Thersanderであった。[433]
BC1325年、AmphionとZethusのThebes攻めのときに、Boeotusの子Itonusと共にCoroneiaの町の住人も参加したと思われる。
Thebes攻めには、Locris地方のPhysciusとMaeraとの間の子Locrusも姉妹Thebeの夫Zethusとの縁で参加した。Maeraの父Proetusは、Coroneiaの町の創建者Coronusの兄弟であった。[434]
Coroneiaの町の近くには、Itonian Athenaの神域があった。[435]
Itonian Athenaは、Amphictyonの子Itonusに由来するもので、Coroneiaの町付近以外では、Thessaly地方のItonusの町や、Pheraeの町とLarisaの町との間、そして、Arneの町の近くにあった。[436]
Arneの町は、Boeotusが祖父Aeolusから受け継いだ町であり、Itonusの町は、Boeotusの父Itonusが創建した町であった。[437]
AmphionとZethusのThebes攻めの後で、Coroneiaの町の住人は、Boeotiansを共住者として迎え、Coronusの後裔は、Sicyonの町へ移住したようである。
BC1世紀の年代記作者CastorのSicyon王の系譜には、Coronusの2人の息子たち、CoraxとLamedonが登場する。[438]
また、Amphictyonの子Aetolusの子Physciusの子Locrus率いるLelegesもAmphionとZethusのThebes攻めに参加した。[439]
戦いの後で、Locris地方のLelegesも、Boeotiansと共にCoroneiaの町の共住者となったと思われる。Aristotleは、LelegesがBoeotia地方を領したと伝えている。[440]
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々のことだと、Dionysius of Halicarnassusが記している。[441]
Argives、Thebans、Arcadians、Pisaeans、それに、Phthiansが、Locriansと共にOpusの町を建設して混住し、Lelegesと呼ばれるようになった。[442]
Aristotleが記しているLelegesは、そのLocriansにBoeotiansが加わった人々のことを意味しているようである。
BC1188年、Troy遠征で手薄になったCoroneiaの町に、Pelasgiansが侵入して住民を追い出し、町を追われた人々は父祖の地であるThessaly地方のArneの町へ逃れた。[443]
2年後、Arneの町はThesprotiansの侵入を受けて、住民の一部は、Peneleusの子Opheltesと共にBoeotia地方へ帰還した。しかし、彼らはCoroneiaの町を奪還することができずに、後のChaeroneiaの町となる土地に定住して、Arneの町を創建した。[444]
Thessaly地方のArneの町には多くの住人が、penestaiと呼ばれる奴隷身分となって残留し、3代目まで住み続けた[445]
9.2 Trojan War以後
Trojan Warの60年後、Thessaly地方のArneの町に残留していた人々も町を追い出され、Boeotia地方へと逃れた。彼らは、先に帰還していた人々と共に、Opheltesの子Damasichthonを指導者として、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansを追い出し、近くのOrchomenusの町をも併合した。[446]
さらに、Damasichthonは、Tisamenusの子AutesionをThebesの町から追い出して、その後、Boeotia地方と呼ばれる地方全域を支配下に置いた。[447]
Damasichthonは、Boeotiansの名祖であるAeolusの娘Melanippeの子Boeotusの後裔であり、Boeotiansの総領であった。地方の名称がBoeotiaとなったのは、彼がThebesの町の主となった後のことであった。[448]
10 Haliartusの歴史
10.1 Trojan War以前
Cadmusの娘Semeleの子Dionysusは、Haliartusの町にあるCissusaの泉で生まれてすぐ乳母に洗われたと伝えられている。[449]
後に、Thraciansの捕虜となったThebansが、Haliartusの町でDionysus神に助けられたとも伝えられ、DionysusのHaliartus生誕地説に真実味を与えている。[450]
しかし、Dionysus誕生時、Haliartusの町は創建されておらず、そこにはHyantesが住んでいた。[451]
恐らく、CadmusとHyantesとの戦いは、長期にわたり、SemeleはHyantesの捕虜となってDionysusを生んだと思われる。[452]
Haliartusの町の創建者は、Athamasの養子になったThersanderの子Haliartusであった。[453]
Haliartusの町の創建は、BC1371年と推定される。
Thebesの町からHaliartusの町のAlopekosとの戦いを任せられた、Attica地方のThoricusの町に住むDeion (or Deioneus)の子Cephalusは、Alopekosに勝利した。Cephalusは、Minosの将CynasをAlopekosに差し向けた。[454]
このAlopekosは、Thersanderの子Haliartusの孫で、Minosとの戦いで死んだHippomenes (or Oncestus)の子Megareusの従兄弟と思われる。[455]
10.2 Trojan War以後
Pausaniasは、Persian WarでHaliartusの町がGreece側に味方したため、Persiansによって破却されたと伝えている。[456]
しかし、Herodotusは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかったのは、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansだと伝えている。[457]
Herodotusは、ThebansがPlataeaの町とThespiaeの町は敵方だと進言したために、Persia軍に焼かれたと伝えている。[458]
Herodotusは、Persian Warについて詳細に伝えているが、まったく、Haliartusの町について言及していない。また、Xerxesが主力部隊を率いてBoeotia地方に侵入したとき、Amyntasの子Alexanderは、町に危害が加えられないようにMacedonia兵を各町に配置した。
Pausaniasは、Plataeaの町かThespiaeの町のことをHaliartusの町の出来事と勘違いしたのではないかと思われる。
BC424年、The Battle of Deliumで、Haliartusの町はAthensの町に敵対してBoeotiansの戦列の中央でCoronaeansやCopaeansと共に戦った。[459]
BC395年、SpartansとThebansとの戦いの舞台となったHaliartusの町には、Spartiがいた。
Trojan Warの60年後にThessaly地方のArneの町から移住して来たBoeotiansがThebesの町の支配者になった後で、Haliartusの町もその支配下に入ったと思われる。[460]
BC171年、MacedoniaとRomeの戦いで、Haliartusの町はMacedoniaに味方したため、Romeの執政官Lucretiusによって町は破壊された。Haliartusの町の住民約2,500人は奴隷として売られ、町の領土はAthensの町に与えられた。[461]
Pausaniasは、Haliartusの町にPandionの子Cecropsの英雄廟があったと記している。Haliartusの町がAthens領になってから、町が古くからAthensの町の支配下にあったかのように見せるために造営したと思われる。[462]
しかし、Cecropsは一般的な伝承ではErechtheusの息子である。英雄廟の造営者は、BC1世紀のCastorの年代記を参照したものと思われる。[463]
Castorは、第7代Athes王Cecropsを第5代Athes王Pandionの子Erechtheusの兄弟と記している。[464]
11 Lebadeia (古名:Mideia)の歴史
11.1 Lebadeiaの創建
BC1340年、Athamasの子Orchomenusの子Aspledonは、Copaic Lake東岸に母の名前に因んだMideiaの町を創建した。[465]
Straboは、Mideiaの町は湖に沈んだと述べているが、別なMideiaがあったのかもしれない。[466]
BC1260年、Athensの町から来たLebadusが高台にあったMideiaの町の下方にLebadeiaの町を創建し、Mideiaの町の住人はLebadeiaの町へ移り住んだ。[467]
Lebadeiaの町の西南西11kmのPhocis地方のStirisの町は、Athensの町のAegeusに追われたOeneusの子Peteusが創建した町であった。LebadusはPeteusの兄弟で、彼と同じ時期に、Aegeusに追われて移住したものと推定される。[468]
BC1209年、Orneusの子Peteusの子MenestheusがAegeusの子Theseusを追い出してAthens王になると、Atheniansは、Lebadeiaの町からAthensの町へ戻ったと思われる。[469]
Trojan Warの時代、Lebadeiaの町にはBoeotiansが住んでいたようであり、Boeotusの子Itonusの子Archilycusの子Arcesilausは、Boeotiansを率いてTroyへ遠征して戦死した。[470]
Arcesilausの従兄弟Lacritusの子LeitusがArcesilausの遺骨を持ち帰って、Lebadeiaの町に埋葬した。
したがって、Lebadeiaの町は、Orchomenusの町やCoroneiaの町とは異なり、ThraciansやPelasgiansに占領されなかったものと思われる。[471]
11.2 Trophoniusの神域
Lebadeiaの町は、Trophonius神に捧げられた町であった。[472]
このTrophoniusはOrchomenus王Erginusの息子で、Agamedesと兄弟であり、Delphiの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[473]
しかし、Erginusの死後、TrophoniusやAgamedesではなく、Erginusの兄弟の後裔が王位を継承しているので、Erginusの息子たちは、創作された人物と思われる。[474]
Trophoniusには子供たちがいて、娘の名前はHercynaであった。[475]
Trophoniusの神域がいつ頃からあったのかは定かではないが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。
第2次Messenia戦争で、Aristomenesが紛失した楯をTrophoniusの神域から取戻し、後にAristomenesはLebadeiaに楯を奉納したという伝承がある。[476]
また、BC6世紀にLydia王Croesusが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、Trophoniusの神託所も名前が挙がっていた。[477]
BC1世紀、Romeの将軍SullaがLebadeiaの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[478]
Pausaniasが伝えているLebadeiaの町にあったTrophoniusの木彫神像がMinosと同時代のDaedalusの作品に間違いなければ、Trophoniusは既にBC13世紀には神として崇められていたことになる。[479]
12 Leuctraの歴史
Leuctraの町の名付け親は、BC371年のLeuctraの戦いより前の時代に、その地でLacedaemoniansに乱暴されて自害したことで有名になった娘の父Leuctrusだと伝えられる。[480]
それ以外に、Leuctraの戦いより前の時代のLeuctraの町についての記録は残っていない。
恐らく、AmphionとZethusが創建したEutresisの町か、Thespiaeの町の人々が住んでいた小さな集落であったと思われる。[481]
13 Ocaleaeの歴史
BC1263年、MinosとAthensの町との戦いで、Haliartusの町のMegareusがMegaraの町に加勢して戦死した。[482]
この戦いの後で、Minosの兄弟RhadamanthysがOcaleaeの町へ移住した。[483]
このとき、Crete島から移住した人々は大きな集団であったと思われる。
Haliartusの町には、Crete島産のstorax-shrubの群生があったという。[484]
BC1256年、MinyansとThebansとの戦いでは、Rhadamanthysは、Thebesの町に加勢して、勝利に貢献したと思われる。この戦いで戦死したAmphitryonの妻AlcmenaがRhadamanthysと再婚していることからも推定される。[485]
BC4世紀にSparta王Agesilausは、Rhadamanthysの妻Alcmenaの墓をSpartaの町へ改葬した。
その時、Alcmenaの墓に、Egypt文字に似た古代文字が書かれた青銅板があるのを発見した。[486]
Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidosに託して、Egyptの王Nectanabisに送って解読した。[487]
14 Onchestusの歴史
古くは、Hyantesが後のOnchestusの町を中心に広く住んでいたが、Cadmusによって追い出された。[488]
Onchestusの町はHaliartusの町に隣接し、系図を作成するとHaliartusの町の創建者Haliartusと、Onchestusの町に住むMegareusとの間は、1世代の余白がある。
Megareusの父の名前は、HippomenesともOnchestusとも伝えられるが、Haliartusの町を出て、Onchestusの町を創建した人物と思われる。[489]
BC1263年、父からOnchestusの町を継承したMegareusは、Minosとの戦いで、Megaraの町のNisusに援軍として駆け付けて戦死した。Nisusは、Megareusの妻Iphinoeの父であり、Megareusの姉妹Habroteの夫でもあった。[490]
BC1256年、Minyansの王Clymenusが、Onchestusの町でThebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[491]
Clymenusの子Erginusは、Thebesの町に攻め込み勝利するが、その後の戦いで、Thebesの町に敗れた。[492]
Onchestusの町を父Megareusから継承したHippomenesは、Thebans、あるいは、Rhadamanthysと共に移住して来たCretansに圧迫されて、Arcadia地方へ移住した。[493]
また、Onchestusの子Plataeusの子Copaeusも、Copais湖対岸へ移住してCopaeの町を創建した。[494]
15 Plataeaの歴史
15.1 Trojan War以前
Plataeaの町の創建者は、Thebesの町のLabdacusの子Laiusの遺体を葬ったPlataea王Damasistratusと推定される。[495]
Plataeaの町の名前は、Asopus河神の娘Plataeaに因むとされる。Plataeaは、同じAsopus河神の娘と伝えられるTanagraと同年代と思われる。[496]
Tanagraの夫は、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderで、Cithaeron山の南麓のEleutheraeの町に住んでいた。[497]
Damasistratusは、Chaeresilausの弟で、Cithaeron山を北に越えた所にPlataeaの町を創建したものと思われる。
これより先に、Eleutherの子と推定されるAmphionとZethusがEleutheraeの町からCithaeron山を北に越えて、Thebesの町の西南西約14kmの所にEutresisの町を創建していた。[498]
Amphionは、Laiusの後見人であり、Damasistratusの伯父であった。伝承では、Damasistratusが偶然Laiusの遺体に出会ったように伝えられているが、Laiusと共に行動していたものと思われる。[499]
Damasistratusの先祖Aethusaは、Hyriaの町のHyrieusの妹であり、Plataeaの町の住人は、Arcadia地方に祖先を持つPelasgiansであった。[500]
Plataeaの町には、Androcrates、Leucon、Pisandrus、Damocrates、Hypsion、Actaeon、Polyidus、Cylaeusという支配者がいたようであるがいつの時代かは不明である。[501]
15.2 Trojan War以後
BC1126年、Thessaly地方のArneの町から移住して来たBoeotiansがThebesの町の主となると、Plataeaの町もBoeotiansの支配下に置かれたようである。[502]
これ以後のPlataeaの町とThebesの町との抗争を考えると、住民はBoeotiansに追い出されずに、そのままであったと推定される。
BC517年、Plataeaの町はThebesの町との間に土地の境界をめぐって争いがあったが、同盟を結んだAthensの町の力で、Asopus川をThebesの町との間の境にした。[503]
この恩に報いるため、BC490年、Arimnestusは、Plataeans 1,000人を率いてAthensの町へ駆け付けて、Marathonの戦いに参加し、Athens軍の左翼を守った。[504]
Plataeansがいなければ、Athensの町のMiltiadesはSpartaからの援軍を待つことになり、戦いの趨勢は予想が付かなくなっていたかもしれない。[505]
BC480年、ThebansがPersia軍にPlataeaの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町と共にPersia軍に焼かれた。[506]
BC479年、Greece軍は、Plataeaの戦いでPersia軍に勝利し、Cleombrotusの子Pausaniasは、Plataeaでの戦勝を記念して、Plataeaの領土の不可侵を宣言した。[507]
Plataeansは、Plataeaの戦いでAtheniansの戦列の中にいたと思われる。[508]
BC431年、Leontiadesの子Eurymachusは、Thebansを率いてPlataeaの町を占領しようとして失敗し、捕虜になって処刑された。[509]
BC429年、Plataeaの町は、Peloponnesus同盟勢に包囲された。[510]
籠城者は、Plataeans 400人、Athenians 80人、婦女子 110人であった。[511]
BC427年、Plataeans 212人が包囲を脱してAthensの町へ避難したが、残りの籠城者は、食糧が尽きて投降した。Plataeans 200人以上、Athenians 25人は処刑され、婦女子は奴隷として売られた。[512]
BC421年、Athensの町に避難中のPlataeansに、Athensの町が奪ったChalcidice半島のScioneの町が与えられた。[513]
Scioneの町のPlataeansは、SpartaのLysanderによってChalcidice半島を追われてAthensの町へ戻った。[514]
これは、Athensの町がPeloponnesus同盟に降伏したBC404年からBC395年にLysanderが死去する間のことと推定される。
BC387年、PlataeansはAntalcidasの和約によりPlataeaの町へ帰還することができた。[515]
BC374年、Plataeaの町はThebansに占領され、住人はAthensの町へ避難した。[516]
BC338年、Chaeroneaの戦いの後で、Macedonia王Philipは、Thebansに追放されてAthensの町へ避難していたPlataeansを町へ帰還させた。[517]
Alexander the Greatは、Plataeaの戦いの際に、Plataeansが領土をGreece軍に献じた行いを賞賛して、Plataeansに返還することを宣言した。[518]
BC316年、Antipaterの子CassanderがThebesの町を再建し、帰還したThebansはPlataeansと和解した。[519]
Thebansが執拗にPlataeansを攻撃したのは、Argosの町がMycenaeの町を破壊した理由と同じく、嫉妬によるものかもしれない。[520]
16 Tanagraの歴史
16.1 Trojan War以前
16.1.1 Gephyraeansの渡来
Phoenicia地方から新天地を求めてCadmusに同行したGephyraeansは、Tanagra周辺を割り当てられて定住した。[521]
Gephyraeansの定住地は、Boeotia地方を西から東へ流れるAsopus川の下流域であった。[522]
16.1.2 Eunostusの英雄廟
BC6世紀のAnthedonの女流詩人Myrtisが書いた抒情詩は、Tanagraの町にあった英雄廟の主Eunostusのことを伝えている。[523]
Eunostusの父Cephisusは、第6代Athens王Erechtheusの妻Praxitheaの母Diogeniaの父と推定される。Erechtheusの時代、Tanagraの町はまだ創建されておらず、Gephyraの町と呼ばれていた。[524]
Gephyraの町には、Cadmusと共にBoeotia地方に渡来したPhoeniciansの支族Gephyraeansが住んでいた。[525]
BC1415年、Attica地方に侵入したEumolpusに追われて、Athensの町の住人は、Gephyraの町の近くへ避難して、Gephyraeansに受け入れられた。[526]
この避難が、ErechtheusとPraxitheaとの婚姻を成立させたと思われ、Praxitheaの父Cephisusは、Gephyraeansの首領であったと思われる。[527]
Praxitheaの嫁入りに伴って、一緒に移住したGephyraeansもいて、彼らがPhoenician lettersをAthensの町へもたらした。[528]
その後、Phoenician lettersから、Homerの師Pronapidesの時代まで使用されていたPelasgic lettersが発明された。[529]
古代のAtheniansは、Pelasgiansであった。[530]
BC6世紀のMyrtisの時代には、Eunostusの英雄廟の由緒を伝えるPhoenician lettersで記された銘板があったのかもしれない。[531]
16.1.3 Tanagraの創建
BC1270年、Chaeresilausの子PoemanderがCithaeron山南麓のEleutheraeの町からGephyraと呼ばれていた地方へ移住して来て、彼の妻の名前に因んだTanagraの町を創建した。[532]
16.1.4 Hyrieusの子Orion
Hyrieusの子Orionは、Euripus海峡近くのHyriaの町で生まれた。[533]
Orionの子Dryasは、AdrastusのThebes攻めのとき、Tanagraの町から弓兵1000人を率いて、Thebesの町へ駆け付けた。[534]
Orionの娘Mecionice(or Mecionica, Menodice)とDryopia地方に住むTheiodamasとの間の息子の一人HylasはHeraclesの侍童であった。彼らのもう一人の息子Euphemusの妻Laonomeは、Heraclesの姉妹であった。[535]
Euphemusの後裔Polymnestusの子Battusは、LibyaにあるCyreneの町の創建者となった。[536]
Orionの墓は、Tanagraの町にあった。[537]
星座に名前を与えたOrionは、Crete島のMinosの娘Euryaleの子Orionだとする伝承もあるが、Tanagraの町に関係するHyrieusの子Orionの方が妥当と思われる。[538]
恐らく、Tanagraの町周辺に定住したPhoeniciansがBabiloniansから伝えられた「天の狩人(the heavenly hunter)」という星座をGreeksに伝え、それにOrionが当てはめられたものと思われる。
16.1.5 GephyraeansのAthensへの移住
Tanagraの町周辺に定住していたGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われ、Athensの町へ移住した。[539]
EpigoniのThebes攻めによって、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来た人々の後裔が他に移住して、新参のBoeotiansとの間の勢力の均衡が崩れた結果であった。
AtheniansがGephyraeansを受け入れたのは、Eumolpusに追われたときの恩返しでもあった。第6代Athens王Erechtheusの姻戚関係によって、AtheniansとGephyraeansは、古くから交流があったと推定される。[540]
16.1.6 Troy遠征への不参加
Plutarchは、Peleusの子AchillesがAchaeansを率いてTroyへの遠征参加を拒否したTanagraの町を攻撃したことを伝えている。[541]
恐らく、Tanagraの町はTroy遠征に参加しなかった。
Homerの『軍船目録』にBoeotia地方からの軍勢にGraeaの町の名前が挙がっており、その町が、Tanagraの町の別名だとする説もある。[542]
つまり、極めて長生きしたTanagraの町の名祖TanagraをGraea(老女)と呼んだことから町の名前も一時その名前で呼ばれたというのである。[543]
しかし、好んで古い名前を使用したHomerが一時的な名前を採用したとは思えない。
Tanagraの町を古い名前で呼ぶのであれば、Homerは、Tanagraより古い時代の名称Gephyraと呼んでいたであろう。[544]
16.2 Trojan War以後
BC456年、BoeotiansとAtheniansとの戦いにTanagraeansも参加して敗れ、町の城壁は破壊され、Tanagraの町はAthensの町の支配下に入った。[545]
Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町だけであった。[546]
17 Thespiaeの歴史
17.1 Trojan War以前
BC1275年、Athensの町のPandionの子TeuthrasがAegeusから逃れてBoeotia地方へ移住してThespiaeの町を創建した。[547]
その地には、BC1325年、AmphionとZethusのThebes攻めに協力してThessaly地方からBoeotia地方へ移住して来たBoeotusの子Itonusの後裔を指導者とするBoeotiansが住んでいた。Troy遠征にItonusの子Areilycusの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorがThespiaeの町から参加した。[548]
Boeotiansは、Thebesの町のCadmusの後裔たちとの間に争いがあったので、Teuthrasと共に移住して来たAtheniansを共住者として、歓迎した。しかし、後にBoeotiansがThebesの町の主となると、この共住が紛争の原因になった。恐らく、Atheniansを祖先とする住人が多くなり、Thebesの町から攻撃されることになった。[549]
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusが、Macedonia地方のPieriaからThespiaeの町へ移住して来た。[550]
BC1248年、ThespianのHagniasの子Tiphys、Thespiae領のSiphaeの町からArgonautsの遠征に参加した。[551]
BC1236年、Heraclesは、Thespiusの娘たちの息子らを甥Iolausに率いらせて、Sardinia島へ植民させた。[552]
この植民には、Atheniansも参加して、Sardinia島北東部にOlbiaの町を創建した。[553]
Iolausの植民団はAthensの町が単独で送り出した最初の遠征隊であり、Prytaneumから出発したAthens公認の正式な植民団であった。[554]
Amphitryonの子Heraclesは、Thespiaeの町の近くの牛飼場にいたことがあり、Teuthrasの子Thespiusとは親交があった。[555]
BC1188年、Itonusの子AreilycusとTheobulaの2人の息子たち、ArcesilausとProthoenorがThespiaeの町からTroy遠征に参加した。[556]
17.2 Trojan War以後
BC594年、Boeotia地方に侵入したLattamyas率いるThessaliansが、Thespiaeの町の近くでの戦いで、Thebansに敗れ、Lattamyasは戦死した。[557]
このThessaliansは、少し前にAmphictyonsの一員として、Phocis地方のCirrhaの町攻略に参加した人々であった。彼らは、Boeotia地方に侵入し、Thespiansが逃げ込んだCeressusを攻めたが攻略できなかった。[558]
このThessaliansの侵入は、Leuctraの戦いの200年以上前のことであった。[559]
BC506年、Athensの町とBoeotiansの戦いでは、ThespiansはBoeotians側で戦った。[560]
BC480年、Boeotiansの中でPlataeansとThespiansは、Persia大王Xerxesに土と水を献じなかった。[561]
Thermopylaeの戦いには、Thebansが400名参加したのに対して、Thespiansは700名が参加した。[562]
Diadromesの子Demophilusに率いられたThespiansは、ThermopylaeでSpartansと運命を共にし、Harmatidesの子Dithyrambosが勇武で名を馳せた。[563]
ThebansがPersiansに、Thespiaeの町は敵方だと進言したために、Thespiaeの町はPlataeaの町と共にPersia軍に焼かれた。[564]
このとき、ThespiansはPeloponnese半島へ退避していた。[565]
BC479年、1800人のThespiansが、Plataeaの戦いに参加した。[566]
BC424年、Tanagraの町近くのDeliumでのAthensの町との戦いに、ThespiansはBoeotians側で参加して勝利に貢献したが、Thespiansは壊滅した。[567]
BC423年、Thebansは以前からAtheniansと親しかったThespiaeの町の城壁を取り壊した。[568]
BC414年、Thespiansの民衆派が政権奪取に失敗して、一部はThebansに捕まり、他はAthensの町へ亡命した。[569]
BC413年、LacedaemoniansのSicily遠征にThespiaeの町からHegesanderが参加した。[570]
BC374年、ThebansはPlataeaの町を占領し、Thespiaeの町を略奪した。[571]
BC371年、ThespiansはLeuctraの戦いの前に戦列を離れて帰還したので、戦いの後で、Thebansによって町から追放された。[572]
しかし、Boeotia地方で、Rome時代まで存続していたのは、Tanagraの町とThespiaeの町であったという。[573]
おわり |