第35章 アナトリア半島の青銅器時代の歴史

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Create:2024.5.13, Update:2024.5.13
Anatolia

1 はじめに
青銅器時代のAnatolia半島には、Hittiteが存在していた。しかし、古代ギリシアの史料には、Hittiteの名前ばかりではなく、Hittiteの存在を暗示しているような記述もない。
Hittiteの首都Hattusaから北東へ約125km離れたAmaseia出身のStraboでさえ、Hittiteについて、まったく記述していない。Straboは、Hattusaがあった地域がGalatiansの支族Trocmiの支配地域で、Taviumの砦があったとしか記していない。[1]
古代ギリシア人の系譜から、年代順に出来事を考察すると、Hittiteの影響がAnatolia半島のギリシア人入植地に及んでいるのが理解できる。
古代ギリシア人はHittiteの勢力が衰退すると、Asia Minorなどへ進出し、Hittiteの勢力が増すと沿海の島々へ逃れていたようである。
この章では、古代ギリシアの史料とHittite文書から得られた情報を基に青銅器時代のAnatolia半島の歴史を記述する。
なお、次の事柄については、別途記述している。
1) Anatolia半島近海の島々 - 「ギリシアの島々の青銅器時代の歴史」
2) Trojan Warの詳細 - 「史実としてのTrojan War」
3) Hittite文書に登場するギリシア人の名前 - 「Hittite文書に記された古代ギリシア人」
4) IoniansやAeoliansの植民時代 - 「Asia Minor植民」

2 BC16世紀のAnatolia
BC1595年、Hittite古王国は、Mursili IがBabylon王国を滅ぼして絶頂期を迎えた。[2]
その後、Mursili Iの姉妹の夫Hantili Iは、彼の娘婿Zidantaに騙されてMursili Iを殺して、Hittite王となった。[3]
Hantili Iの跡を継いだZidanta Iは、彼の息子Ammunaに殺された。[4]
BC16世紀中頃のHittiteは、古王国の衰退期に入っていた。

2.1 ArgosからLyciaへの入植
Anatolia半島での古代ギリシア人の最初の入植地は、Lycia地方であった。
BC1560年、Triopasの子Xanthusは、Argosの町からLycia地方へ移民団を率いて、植民した。[5]
Xanthusより前に、BC1580年、Xanthusの父Triopasは、Rhodes島へ植民団を派遣していた。[6]
また、同じ頃、Boeotia地方に住んでいたEctenesの一部は、Egyptへ移住して、Saisの町を創建した。[7]
Ectenesは、Atheniansの先祖Ogygusが属していた部族であった。[8]
後に、EgyptからGreeceへ移住したDanausやCadmusもRhodes島を経由しており、Lycia地方は、GreeceとEgyptを結ぶ航路の重要な中継地点であった。[9]
Xanthusの移民団が入植したのは、Lycia地方のSirbis (後のXanthus)川の流域であった。
入植者の中には、Xanthusの娘Lyciaも含まれていた。
BC1530年、Lyciaの子Patarusは、Xanthus川の河口近くにPataraの町を創建した。[10]

2.2 ArgosからCariaへの入植
Lycia地方へ植民した後で、Xanthusは移民団を率いて、北上した。
Xanthusに同行していたCyrnusは、Rhodes島対岸のCherronesusにCyrnusの町を創建した。[11]
Cherronesusは、Caria地方のCnidos半島にあった。[12]

2.3 ArgosからLesbosへの入植
その後、Xanthus自身は、無人のIssa (後のLesbos)島に植民した。[13]
Issa島は、Xanthusが率いたPelasgiansに因んで、Pelasgia島と呼ばれるようになった。[14]
また、Lesbos島には、Xanthusという名前の町があった。[15]
当時の島の名前や、町の名前が伝えられており、Xanthus入植後もArgosの町と交易があったと思われる。

3 BC15世紀後半のAnatolia
最初の入植から125年後、ギリシア人は相次いで、Anatolia半島へ入植した。
Hittiteは、中王国が衰退して、新王国が興る頃で、HittiteによるAsia Minorへの影響力は薄れていた。

3.1 CreteからTroadへの入植
BC1435年、Teucrus (or Teucer, Teukros)は移民団を率いて、Crete島のApteraの町を出港し、Troad地方のHamaxitus付近に上陸した。[16]
Teucrusは、Crete島で最初に鉄を発見したCelmis (or Kelmis)とDamnameneusの姉妹Ida (or Idothea)の息子であった。[17]
Teucrusに同行したIdaean Dactylsは、Hamaxitusから北へ鉱脈を探索して、Ida山周辺に定住した。[18]
Teucrusは、Hellespontus海峡近くにTeucrusの町を創建した。[19]
当時、Troad地方には、Hittite王Hattusili I (BC1650-20)の時代から存在していたWilusaという王国があった。[20]

3.2 EgyptからTroadへの入植
BC1425年、Cadmusと共に移住先を探していた、Agenorの子Cilixは、Ida山南東部へ移住して、Thebeの町を創建した。[21]
町の名前は、Ida山のCorybasと結婚したCilixの娘Thebeの名前に因んでいる。[22]
Cadmusは、Egyptで生まれ、彼の父Agenorと共にSidonへ移住した後で、兄弟と共に新天地を求めて、移民団を率いた。[23]
Cilixと共に移住した人々はCiliciansと呼ばれ、彼らの住む地方はCiliciaと呼ばれた。[24]
Ciliciaの名前は、Thebeの町近くの支配者Cillusに因んでいるという異説もある。[25]

3.3 RhodesからLyciaへの移住
BC1425年、TelchinesのLycusは、Rhodes島からLycia地方のXanthus川近くに移住し、Apollo Lyciusの神殿を奉納した。[26]
Telchinesは、古くからRhodes島に住んでいたが、Heliadaeと呼ばれるRhodosの息子たちに追放された。[27]

3.4 SamothraceからTroadへの入植
BC1420年、 Dardanusは、大津波に襲われたSamothrace島からTroad地方へ移住した。[28]
BC1430年、Dardanusは、洪水に襲われたArcadia地方のMethydriumの町からSamothrace島へ移住して住んでいた。[29]

3.4.1 Dardanusの創建
Dardanusは、Dardanusの町を創建したと伝えられるが、Teucrusが創建した町の名前を変更したものであった。[30]
したがって、Dardanusと共にSamothrace島から移住した人々は、Teucrusと共にCrete島から移住した人々と共住したことになる。

3.4.2 Dardanusの住人
Teucrusと共にCrete島から移住した人々は、BC1690年にTelchinの子Cresに率いられて、Sicyonの町からCrete島へ移住した人々であった。彼らは、Inachusの後裔であったが、Pelasgiansではなく、Telchinesであった。
Dardanusと共にSamothrace島から移住した人々は、Arcadia地方からSamothrace島へ移住したArcadians (Pelasgians)であった。
つまり、Dardanusの住人は、Ogygusの後裔ではなく、Inachusの後裔であった。

3.5 CreteからCariaへの入植
BC1416年、Crete島の5人のCuretesは、Rhodes島対岸のCherronesusに住むCariansを追い出して、5つの町を創建した。[31]
Cherronesusには、BC1560年に創建されたCyrnusの町があったが、Cariansによって住人が追い出されて、町は存在していなかったと思われる。
CuretesもIdaean Dactylsも同じものであり、この5人のCuretesは、Olympiaで競技会を初めて開催したIdaean Heracles兄弟と推定される。[32]
Idaean Heraclesは、Phoenixの娘Astypalaeaの夫と推定され、彼らの息子はAncaeusであった。[33]
Idaean Heraclesの本名は、Acmonであった。[34]

3.5.1 Ancaeus
AncaeusはLelegesの王であり、彼の妻は、Maeander河神の娘Samiaであった。[35]
Maeander川は、Miletusの町の近くを流れて海に出る。[36]
Miletusの町は、Cherronesusから北北西へ直線距離で約100kmの位置にあった。
古い時代には、Miletusの町はLelegeisと呼ばれて、Lelegesの居住地であった。[37]
以上のことから、Ancaeusは、Miletusの町を支配していたと推定される。
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[38]
つまり、Ancaeusが支配した人々は、先住民のCariansと共住して、混血したGreeksであった。[39]

3.6 SyriaからCilicia Tracheiaへの入植
BC1410年、Astynousの子Sandocusは、Syria地方からCilicia Tracheia地方へ移住して、Celenderisの町を創建した。[40]

3.6.1 Astynousの先祖
Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[41]
Cecropsは、EgyptからAthensの町へ移住しており、彼の娘Herseは、Phoenicia地方のTyreの町に住む男性と結婚したと推定される。[42]

3.6.2 Sandocusの妻
Sandocusの妻は、Boeotia地方のHyriaの町のMegassaresの娘Pharnaceであった。[43]
Hyriaの町とCelenderisの町とは、直線距離で、約900km離れている。
SandocusとPharnaceとの遠距離婚を実現させたのは、次のような事情であったと推定される。
彼らが出会ったのは、Samothrace島であった。Sandocusの父Astynousは、Syria地方のSidonの町の住人であった。[44]
Astynousは、Cadmusの植民団に船を提供し、Sidonの町からThracia地方まで、息子Sandocusと共にCadmusに同行した。[45]
Megassareの妻Alcyoneは、Atlasの娘Pleioneを母として、Arcadia地方のCylleneで生まれた。[46]
Alcyoneの姉妹Electraの子Dardanusは、Cadmusより前にArcadia地方からSamothrace島に移住していた。Alcyoneや、彼女の夫Megassareや子供たちもDardanusと共に島へ移住した。[47]
Sandocusは、島にいたMegassareの娘Pharnaceと出会い、結婚した。[48]

3.6.3 Thasusへの移住
BC1400年、Cilixの子Thasusは、Thebeの町からThasus島へ移住した。[49]
Thasusの移住の原因は、次に述べるHittiteとの戦いであったと推定される。

3.7 Hittiteとの戦い
3.7.1 Assuwansの反乱
BC1400年頃、Hittiteに対するAssuwansの反乱が起こった。
この反乱には、Wilusaの他にDardanusの町やThebeの町が参加していたと思われる。[50]
反乱はHittiteにより鎮圧され、王と彼の息子Kukkuliが捕虜になったが、Kukkuliは解放されてHittiteの家臣になった。その後、Kukkuliは再び反乱を起こして殺され、Assuwa同盟は崩壊した。[51]

3.7.2 Ahhiyawaの支援
Ahhiyawaは、Assuwansの反乱を支援したと思われる。[52]
この反乱と同じ頃、AhhiyawaのAttarisiyaは、Hittiteの支配地域に攻め込んで撃退された。[53]
Attarisiyaは、Rhodes島対岸のCherronesusからMiletusの町へ支配地域を広げたLelegesの王Ancaeusと推定される。[54]

3.7.3 Ancaeus支配下の人々
Ancaeus (Attarisiya)の支配下には、つぎの人々がいたと推定される。
1) Ancaeusの父Acmonが兄弟たちと共に、Cherronesusに建設した5つの町の住人。
Cretans (Telchines)。
2) Ancaeusが征服したMiletusの町の住人。恐らく、Carians。
3) CherronesusからMiletusの町の住人。恐らく、Carians。
4) Acmonの娘と、Cydonの子Cardysとの結婚後、Crete島から移住して来たCydoniaの町の住人。Arcadians (Pelasgians)。

3.7.4 Ancaeusの子Anax
AncaeusはHittiteに敗れた後で近隣の島へ逃れた。島は、恐らく、Ancaeusの子Samusに因んで名付けられたSamos島であったと思われる。[55]
その後、Ancaeusの子AnaxはMiletusの町へ戻り、町はAnaxの名前に因んで、Anactoriaと呼ばれるようになった。[56]

4 BC1390年の大津波
BC1390年、Aegean Seaで発生した大津波は、各地を襲った。津波の影響で、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansが居住地を追い出され、人々の大移動が発生した。
Hittiteは、新王国が誕生して勢力を盛り返していたが、古代ギリシア人は、次々とAnatolia半島へ押し寄せた。

4.1 EgyptからCyzicus近くへの移住
Archanderの子Belusは、EgyptからCyzicus手前のAesepus川河口近くへ移住した。その後、Belusの入植地はEthiopiaと呼ばれるようになった。[57]
Achaeusの子Archanderは、Argosの町からEgyptへ移住してArchandropolisの町を創建していた。[58]
つまり、EthiopiansはAchaeansであった。
Belusの子Cepheusの娘Andromedaは、Danaeの子Perseusと結婚した。

4.1.1 黒海への進出
Belusと共に、Corinthの町から移民団を率いていたSisyphusの子Aeetesは、黒海東岸のColchis地方へ入植した。[59]
Belusの子Phineusは、Dardanusの娘Idaeaと結婚した。[60]
BC1380年、Phineusは、Aesepus川河口近くから黒海南西岸へ移住して、Salmydessusの町を創建した。[61]
BC1360年、Phrixusの子Cytissorusは、Colchis地方から黒海南岸へ移住してCytorusの町を創建した。[66]
その後、Cytissorusは、Cytorusの町の東側にも町を創建して、彼の妻Sinopeの名前を付けた。[67]
BC1350年、Phineusの子Mariandynusは、Salmydessusの町から黒海南岸の土地(後のHeraclea)へ移住した。[62]
BC1350年、Phineusの子Paphlagon (or Paphlagonus)は、Salmydessusの町からPaphlagonia地方へ移住した。[63]
BC1345年、Phineusの2人の息子たち、PolymedesとClytius(or PlexippusとPandion)は、Salmydessusの町からPontus Euxinus北岸のTauric Chersoneseへ移住した。[64]
Polymedes、あるいは、Clytiusは、BC1325年、Colchis地方からPerseisを妻に迎えて、2人目のAeetesが生まれた。AeetesはColchis地方の王になった。[65]
つまり、50年間で、古代ギリシア人は、黒海沿岸に居住地を広げた。

4.2 ThessalyからMysia of Olympeneへの移住
Magnesia地方に住んでいたPelasgiansの一部は、Nanasの兄弟Silenus子Dolionに率いられて北へ向かった。彼らはPropontis海に注ぐAscanius川の岸辺に定住した。[68]
その後、PelasgiansはDolionesと名前を変えて、居住地も西へ移動し、Cyzicusの町周辺に広く居住するようになった。[69]
Cyzicusの町の東側のPropontis海南岸のPlaciaの町とScylaceの町は、Herodotusの時代にもPelasgiansが住んでいた。[70]

4.3 ThessalyからTroadへの移住
Thessaly地方のLarissaの町に住んでいたGargarusは、Troad地方へ移住して、Ida山の山頂近くにGargaraの町を創建した。[71]
Ida山は、Gargarusとも呼ばれていた。[72]

4.4 CreteからTroadへの移住
Crete島のCnossusの町に住んでいたEuropaの子Minosは、Troad地方へ移住した。[73]
Minosには息子Lyctiusが生まれ、Lyctiusは、Corybasの娘Ideと結婚した。[74]
Corybasは、Ida山の近くに住んでいたCybeleの息子であった。[75]

4.5 ThessalyからMysia of Pergameneへの移住
Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Lesbos島へ渡り、その後、本土へ居住範囲を広げた。[76]
Trojan War時代、Hermus川流域には、Teutamusの子Lethusの2人の息子たち、HippothousとPylaeusを指導者とするPelasgiansの大部族が住んでいた。[77]
この大部族は、Hittiteの属国となり、Seha River Landという名前で呼ばれていた。[78]

4.6 ThessalyからLydiaへの移住
Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Silenusの子Manesに率いられてLydia地方へ移住した。[79]
当時、その地方は、Arzawaと呼ばれていたが、強力な指導者がいなかった。[80]
Pelasgiansは、先住民と共住し、Manesがその地方の王になった。
Manesは、Hittite文書ではArzawa王Kupanta-Kuruntaという名前で登場する。[81]
Manesは、Hittite王Tudhaliya IやArnuwanda Iと戦って敗れた。[82]
Manesは、Hittiteの家臣Madduwattaとも戦い、彼に自分の娘を嫁がせた。[83]
Arzawaは、Manesの跡をMadduwattaが継ぎ、Madduwattaの跡をMadduwattaの息子が継いだ。[84]

5 BC14世紀のAnatolia
Hittite王Tudhaliya IIの治世(BC1360-44)は、周辺の敵対勢力との戦いで、Hittiteは疲弊していた。Tudhaliya IIの子Suppiluliuma Iの治世(BC1344-22)には、Hittiteは勢力を回復して絶頂期を迎えた。

5.1 Cilicia TracheiaからCyprusへの移住
BC1385年、Sandocusの子Cinyrasは、Cilicia Tracheia地方のCelenderisの町からCyprus島の南西海岸に移住して、Palaepaphosの町を創建した。[85]
Hittite文書には、Hittiteの勢力圏内にあったAlasiya (Cyprus)をAhhiyawaのAttarsiyaとMadduwattaが攻撃したと記されている。[86]
Attarsiyaのギリシア名が、Astypalaeaの子Ancaeusであるという私の推測が正しければ、AttarsiyaとSandocusの間には、次のような繋がりがあった。
1) Astypalaeaの父Phoenixは、Phoenicia地方のTyreの町の王であった。[87]
2) Phoenixの妻Perimedeは、Cecropsの娘Herseの子孫と思われ、SandocusとAstypalaeaは、従兄弟同士、あるいは、又従兄弟同士であった。[88]
Cinyrasが創建したPalaepaphosの町は、200年後のTelamonの子Teucerの時代にも存在していた。Teucerは、Palaepaphosの町のCinyrasの娘Euneと結婚した。[89]
Cinyrasは、Midas王と共に、富豪の代名詞とされた人物であった。[90]
Cinyrasの富の源は、Amathusの町で産出される貴重な鉱石であった。Cinyrasの母は、Amathusの町の名付け親であった。[91]

5.2 ColchisからPaphlagoniaへの移住
BC1360年、Phrixusの子Cytissorus (or Cylindrus, Cytisorus, Cytorus)は、Colchis地方から黒海南岸のPaphlagonia地方へ移住してCytorusの町を創建した。[106]
Phrixusは、Boeotia地方のAthamasの息子であったが、妻Chalciopeと共に、妻の父Aeetesの移民団に参加して、Colchis地方へ移住した。[107]
BC1335年、Cytissorusは、Cytorusの町の東側にSinopeの町を創建した。[108]

5.3 ThraciaからBithyniaへの移住
BC1350年、黒海南西岸のSalmydessusの町からPhineusの息子たちに率いられた人々がAnatolia半島北西部の各地へ移住した。
Phineusは、Belusの息子であり、Aesepus川河口近くへ入植したCepheusの兄弟であった。[92]
1) Phineusの子Mariandynusは、黒海南岸の土地(後のHeraclea)へ移住した。[93]
その地方の住人はMariandyniansと呼ばれるようになった。[94]
2) Phineusの子Bithynusは、Bithynia地方へ移住した。[95]
その地方は最初にBebrycia、その後、Mygdoniaと呼ばれていたが、Bithynusの名前に因んでBithyniaと呼ばれるようになった。[96]
3) Phineusの子Paphlagon (or Paphlagonus)は、Paphlagonia地方へ移住した。[97]
4) Phineusの子Thynusは、Phrygia地方のAscania湖の南西のOlympus山付近に移住した。[98]
その地方の住人はThyniansと呼ばれるようになった。[99]
Thynusの母Idaeaは、Troyの始祖Dardanusの娘であった。Thynusの子Eioneusの子Cisseus (or Dymas)の娘Hecba (or Hecbe)は、TroyのPriamの妻になった。[100]

5.4 LyciaからArgolisへの移住
BC1348年、Lycia地方に住んでいたCyclopesは、Tirynsの町のProetusに招かれて、Argolis地方へ移住して城壁を築造した。 [101]
Cyclopesは7人で、Tirynsの町の隣のNaupliaの町の近くの洞窟を住んでいた。[102]

5.5 OlympiaからTroadへの移住
BC1344年、Cardysの子Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionによって、Olympiaの町から追放された。[103]
Clymenusは、Crete島のCydoniaの町の出身で、Idaean Heracles (Acmon)の孫であり、Ancaeusの子Anaxは従兄弟であった。[104]
Clymenusが従兄弟Anaxを頼ってMiletusの町へ行ったかは不明である。
Clymenusの子Tantalusは、Troad地方のIda山の近くに住んでいた。[105]

5.6 Hittiteとの戦い
BC1340年、Arzawa王Tarhuntaraduは、Hittite領のTuwanuwa (Tyana)の町まで侵攻した。[109]
TarhuntaraduはGreat Kingと呼ばれ、Egyptとも交流していた。[110]
Tarhuntaraduの遠征と同じ頃、Danaeの子Perseusは、Lycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征していた。[111]
Perseusは、祖父Acrisiusの後継者として、Argosの町に住んでいたが、BC1343年、Acrisiusの兄弟Proetusを殺して、Asia Minorへ渡った。[112]
BC1335年、Perseusは、Cyzicus近くに住んでいたCepheusの娘Andromedaと結婚した。[113]
Perseusは、Andromedaの父Cepheusの父Belusの父Archanderの子Metanastesの子Pilumnusの息子であった。[114]
つまり、PerseusとAndromedaとは又従兄妹であった。

6 HittiteとArzawaとの戦い
BC1338年、Arzawa王Tarhuntaraduが死んで、彼の兄弟Anzapahhaduが跡を継いだ。Anzapahhaduの跡は、Tarhuntaraduの子Maskhuiluwaが継いだ。[115]

6.1 Pelopsの父Tantalus
6.1.1 Tantalusの居住地
Tantalusの領地は、BC334年にAlexander the GreatがPersia軍を破ったGranicus川が流れるBerecyntesの地(後のAdrasteia平原)であった。[116]
Tantalusの父Clymenusは、Crete島のCydonia出身であり、そのすぐ東のApteraの町はBerecynthus地方にあった。Tantalusは、Berecyntesの首領であったと思われる。[117]

6.1.2 TantalusとCepheusとの関係
Tantalusの領地の東側には、Belusの子Cepheusが支配するEthiopiansが住んでいた。
BC1335年、Argosの町から亡命して来たDanaeの子PerseusがCepheusの娘Andromedaと結婚した。[118]
後に、Perseusの3人の息子たちは、Tantalusの子Pelopsの娘たちと結婚した。[119]
つまり、TantalusとCepheusは、領地が隣同士であったと共に、Perseusを通じても親しい関係にあった。Perseusは、BC1332年にPeloponnesusへ帰還した。

6.1.3 TantalusとTroyとの関係
BC1341年、Tantalusは、Trosの娘Eurythemisteと結婚した。[120]
BC2世紀の弁論家Dio Chrysostomによれば、Atreusの後裔は、Pelopsを通じて、Troy王家と繋がりがあった。[121]
つまり、Pelopsの母は、Troy王家の娘であった。
Euripidesの『Orestes』の古註によれば、Pelopsの母Eurythemisteの父は、Xanthusであった。[122]
Xanthusは、Iliumの町の近くを流れるScamander川の古い名前であり、河神と推定される。[123]
その河神は、Tantalus時代のTroy王Trosであり、Pelopsの母EurythemisteはTrosの娘であったと思われる。

6.2 Ilusの王位簒奪
TantalusとTrosの娘Eurythemisteとの結婚は、Dardanusの町からCyzicus近くまでの間に住んでいた人々を団結させた。[124]
古くからTroad地方に住んでいたWilusaの王は、危機感を抱いて、娘の一人をTrosの子Ilusに娘を嫁がせた。[125]
BC1330年、Ilusは、妻の父が死ぬと、Wilusaの王位を簒奪した。[126]
娘婿が王位を継承することは、Hittite王の系譜にもあり、HittiteはIlusをWilusa王として承認した。
Hittiteは、Wilusaが小競り合いを続けていた周辺の町を抑え込んで、強力な属国になったと認識した。
Troy王国は、Hittiteへの朝貢の義務を負ったものの、Hittiteと同盟関係になった。[127]
Wilusa王の息子たちは、Ilusに殺され、彼らの一族は、Iliumの町から追放され、Dardanusの町から多くの住人がIliumの町へ移住した。
Dardanusの町は、Trosの死後、彼の息子Assaracus (or Asarakos)が継承した。[128]
IlusがWilusaの王位を簒奪したことにより、約100年間、別々に存在していたWilusaとTroyは同じものになった。

6.3 Wilusa (Troy)の東方への領土拡張
Ilusは、Hittiteの強力な後ろ盾を得て、東方へ領土を拡張した。
BC1325年、Ilusは、Ida山北側に住んでいたTantalusを追放した。[129]
BC1300年、Ilusは、Aesepus川河口近くにあるEthiopiaを攻撃して、EthiopiaをTroyの支配下に置いた。[130]
その後、Ilusは、さらに東方のMysia of Olympeneに進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[131]

6.4 Berecyntesの地からLydiaへの移住
Tantalusは、Ilusの兄弟Ganymedesを死なせたために、Ilusによって居住地を追われたと伝えられている。[132]
恐らく、Ganymedesは、Tantalusとの戦いで死んだと思われる。
Tantalusは、Phrygia地方のPessinusの町に逃れたが、Ilusによって、その町からも追われた。[133]
Tantalusは、Ilusに追われてLydia地方のSipylus山へ移住した。[134]

6.5 Arzawa王Tantalus (Uhha-Ziti)
Tantalusが移住した地方は、Arzawaの支配地域であった。
当時、Arzawa王は、Anzapahhaduの跡を継いだTarhuntaraduの子Maskhuiluwaであった。[135]
Tantalusは、Sipylus山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を蓄積した。[136]
TantalusのLydia地方への移住には、Ida山周辺に住んでいたIdaean Dactylsも参加していたと推定される。
BC1322年、Tantalusは財力と、Manesの後裔を指導者とするMaeoniansの支持を得て、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。[137]
ManesとTantalusは、Argosの町のInachusを共通の先祖としていた。
Tantalusは、Hittite文書に登場するUhha-Zitiであると推定される。

6.6 Hittiteとの戦い
Arzawaから追放されたMaskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[138]
Suppiluliuma Iと、彼の跡を継いだArnuwanda IIは疫病で死去した。[139]
Hittiteは、すぐには、Arzawaに対して軍事行動を起こすことができなかった。
Arnuwanda IIの跡を継いだMursili IIは、治世3年目にArzawaと戦うことになった。[140]
戦いの端緒は、Attarimma、Huwarsanassa、Surudaの人々がArzawaへ逃げ込み、Mursili IIがTantalus (Uhha-Ziti)に対して、彼らの引き渡しを要求したことであった。[141]
Tantalusは彼らの引き渡しを拒否したため、Mursili IIは、Tantalusが拠点としていたApasas (Ephesus)へ向けて進軍した。Tantalusは、彼の息子Broteas (Piyama-Kurunta)にHittite軍を迎撃させるが、Broteasは敗れた。[142]
その後、Hittite軍がApasasに着く前に、Tantalusは病気になって近くの島へ逃れた。[143]
BC1318年、Tantalusは病気が悪化して死んだ。[144]
Tantalusの子Pelops (Tapalazunauli)は、島から本土へ渡って、Mursili IIの軍と戦ったが、敗れて包囲された。Pelopsは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[145]
Broteas (Piyama-Kurunta)は、島から本土へ渡って、Mursili IIと交渉するが、Hattusaへ送られた。[146]
Broteasが製作した神々の母の神像がLydia地方のSipylus山の近くの岩の上にあった。[147]
また、Broteasには、息子Tantalusがいたかもしれない。Argosの町にTantalusの遺骨が納められた容器があったと伝えられている。[148]

6.7 PelopsのGreeceへの移住
BC1315年、PelopsはAsia MinorからPeloponnesusへ渡った。その時、Pelopsは彼の息子Chrysippusと一緒であった。[149]
Pelopsは、Mursili IIとの戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほどAsia Minorにいたが、その望みを断念して、Peloponnesusへ渡ったと推定される。
Ida山南東のThebeの町の近くには、Pelopsの御者Cillusの大きな墓があった。Cillusは、その地方の支配者であった。[150]
Pelopsの行動範囲は、その地方にまで、及んでいたと思われる。

6.8 TyrrhenusのItalyへの移住
Tantalusと共にHittiteと戦ったMaeoniansは、Lydia地方から追放された。
BC1318年、ArzawaがHittiteに征服されてから、Atysの子Tyrrhenusに率いられたMaeoniansがItaly半島に現れたのは、18年後であった。その間、Maeoniansは、Lemnos島に住んでいたと推定される。
Lemnos島とItaly半島を結び付けるものに、つぎのものがある。
1) Tyrrhenia海の島(後のElba島)が、Lemnos島の古い名前と同じAethaliaと呼ばれていた。[151]
2) Plinyが記述している古代の4つの迷宮のうち、Egypt とCrete島以外に、Lemnos島とItaly半島のEtruriaに迷宮があった。[152]
3) Lemnos島は、Tyrrhenia島とも呼ばれていた。[153]
BC1300年、Maeoniansは、Lemnos島からItaly半島へ移住して、Tyrrheniansと名前を変えた。[154]

6.9 Miletusの陥落
Miletusの町は、Anaxの跡を継いだ彼の息子Cleochusが治めていた。[155]
Uhha-Ziti (Tantalus)は、Millawanda (Miletus)のAhhiuwa王と同盟を結んだ。[156]
そのAhhiuwa王とは、Anaxの子Cleochusであったと思われる。
BC1318年、Miletusの町は、Hittite軍に占領され、牛や羊と共に住人は、Hattusaへ連行された。[157]
Anaxの子Asteriusは、Miletusの町の前に浮かぶLade島近くの島へ逃れて死に、島に埋葬された。[158]
CleochusはUhha-Zitiと合流して、Hittite軍と戦ったが、捕虜になって、Hattusaへ送られた。[159]
Cleochusの遺骨は、後に、Miletusの町の近くのDidymaeumに埋葬された。[160]
Cleochusの娘Ariaは、Crete島へ逃れ、息子Miletusが生まれた。[161]

7 Wilusa (Troy)の王位継承争い
7.1 戦いの経過
BC1296年、Ilusが死に、彼の息子Laomedonが王位を継承した。[162]
その後、Laomedonは、彼の兄弟と思われるPhaenodamas (or Hippotes)によって、Iliumの町から追放された。[163]
Laomedonは、Hittite軍やHittiteの属国の軍を味方にして、Iliumの町を攻めた。[164]
戦いに敗れたPhaenodamasは、彼の息子たちと共に殺された。[165]
残されたPhaenodamasの3人の娘たちは、Sicily島へ逃れた。[166]
Sicily島で、Phaenodamasの娘Egestaに息子Aegestus (or Acestes)が生まれた。[167]

7.2 Phaenodamasの支援者
IlusがWilusaの王位を簒奪して、Dardanusの町からIliumの町へ移った後で、Dardanusの町はTrosの子Assaracusが継承した。[168]
Ilusの子Laomedonの子Priamには、47人の息子たちがいた。[169]
Priamと同世代のAntenorには、19人の息子たちがいた。[170]
しかし、Ilusの息子は、Laomedonのみ、Assaracusの息子は、Capysのみしか伝承には登場しない。[171]
Ilusの後継者争いに、Assaracusの息子たちがPhaenodamasを支援して、激しい戦いがあり、IlusやAssaracusの多くの息子たちは死んだのではないかと思われる。

7.3 Piyama-Raduの参戦
Ilusの後継者争いには、Piyama-RaduもIlusの子Laomedonの敵として参加した。[172]
Hittite軍に敗れたPiyama-Raduは、Lazpa (Lesbos島)へ渡った。[173]
当時、島にはSeha River LandのManapa-Tarhuntaの部下がいたが、Piyama-Raduの軍に合流した。[174]
Seha River Landは、Hermus川流域の地域であり、Pelasgiansの大部族が住んでいた。[175]
Piyama-Raduのギリシア名や系譜については、「ヒッタイト文書に記された古代ギリシア人」に記述している。

8 BC13世紀前半のAnatolia
BC1295年、Hittite王Mursili IIが死に、Muwatalli IIが即位した。Muwatalli IIが即位して間もなくHittiteは、首都を移転させる混乱期にあった。[176]

8.1 CreteからMiletusへの移住
BC1295年、Cleochusの娘Ariaの子Miletusは、Crete島からAnactoriaへ移住して、Miletusの町を再建した。[177]
Hittite軍に攻められて陥落したMillawanda (Miletus)にはCariansが住んでいたが、Miletusは、Cariansと共住した。[178]
Ariaの子Miletusは、Hittite文書に登場するMillawandaのAtpaと推定される。
Atpaは、Piyama-Raduの娘と結婚した。[179]

8.2 CreteからLyciaへの移住
Miletusの町の再建には、Lycastusの子Sarpedonも協力した。[180]
BC1289年、Sarpedonは、Miletusの町からLycia地方へ移住した。[181]
その地方は、Solymiと呼ばれていたが、Sarpedonに従ってCrete島から移住して来た人々に因んでTermilaeと呼ばれるようになった。[182]
後に、Solymiは、Bellerophontes (or Bellerophon, Hipponus)や彼の息子Peisander (or Isander)によって、高地へ追い払われた。[183]

8.3 AthensからLyciaへの移住
BC1277年、Pandionの子Lycusは、彼の義兄弟Aegeusに追われて、Athensの町からLycia地方のSarpedonのもとへ移住した。[184]
Lycusが住む地方はTermilaeと呼ばれていたが、彼の名前に因んでLyciaと呼ばれるようになった。[185]

8.4 Minyansの遠征
系図を作成すると、Thessaly地方に住んでいたAesonの子Jasonと、黒海の東岸のColchis地方に住んでいたAeetesの娘Medeaとの結婚は、BC1268年と推定される。[186]
BC1268年、JasonはMinyansと共にColchis地方へ航海して、Medeaと結婚した。
Minyansは、Boeotia地方のOrchomenusの町から移住して、Iolcusの町に住んでいた。[187]
MinyansがColchis地方への航路を知っていたのは、次の出来事があったからであった。
Sisyphusの子Aeetesは、Ephyraea (後のCorinth)の町からColchis地方へ移住した。[188]
Aeetesの孫Presbonは、Colchis地方からBoeotia地方へ移住した。[189]
Presbonの子Clymenusは、Minyansの王となって、Orchomenusの町に移住した。[190]

8.4.1 遠征への参加者
Jasonの航海には、次の人たちが参加したと思われる。
1) Triccaの町のDeimachusの子Autolycus
2) Phylaceの町に住むIphiclusの子Protesilaus
3) Magnesia地方に住んでいたPoeasの子Philoctetes

8.4.2 黒海沿岸との交易の活発化
BC1268年のJasonの航海の後で、Hellespontを利用する黒海沿岸との交易が活発になった。
BC1260年、Deimachusの子Autolycusが黒海南岸のSinopeの町へ移住すると、黒海沿岸とThessaly地方との交易は、さらに活発になった。[191]

8.5 Wilusaの独立
BC1265年、HittiteのMursili IIIは、彼の叔父Hattusili IIIと戦って敗れた。[192]
この戦いを機に、それまでHittiteの属国であったWilusa (Troy)は独立した。[193]
TroyのLaomedonは、Hittiteに対抗するために、彼の娘HesioneをMillawanda (Miletus)のMiletusの子Erginusへ嫁がせた。[194]

8.6 Cyzicusの創建
BC1260年、Aeneusの子Cyzicusは、Propontis海のHerron島にCyzicusの町を創建した。[195]
Cyzicusの町の住人は、Aeoliansに追われてThessaly地方から移住して来たPelasgiansであった。[196]
Aeneusの子Cyzicusは、Rhyndakos川周辺の支配者Meropsの娘Cleiteと結婚して、さらに勢力を拡大した。[197]
Cleiteの姉妹Arisbeは、Laomedonの子Priamの妻であった。[198]
Meropsは、Adresteia平野の名付け親Adrastusの孫と思われる。[199]

8.7 ThessalyからSinopeへの移住
BC1260年、Thessaly地方のTriccaの町のDeimachusの子Autolycusは、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[200]
Autolycusは、BC1268年にJasonの遠征に参加した後で、Autolycus自身がTriccaの町の住人を率いて、移住したものであった。[201]
Autolycusは、Triccaの町の創建者、Peneiusの娘Triccaの子孫で、Triccaの町の最初の住人は、Doriansであった。[202]
Autolycusは、Triccaの町の近くのOechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus (or Eilatus)の子Ischysによって追い出されたと推定される。[203]

9 BC13世紀後半のAnatolia
BC1265年にHattusili IIIがHittite王に即位するまで、内紛によって、Hittite国内は混乱していた。BC1259年、EgyptのRamesses IIと平和条約を締結した後、Hittiteの統治は安定していた。[204]

9.1 Lukka (Lycia)の反乱
9.1.1 EleiaからLyciaへの移住
BC1250年、Eleia地方南部のLepreusの町に住んでいたCauconesは、その町の支配者Lepreusの横暴に耐え切れずにLycia地方へ移住した。[205]
恐らく、Cauconesの移住を契機に、Lycia地方でギリシア人と先住民(恐らく、Solymi, Cariaans)との戦いが起きたと思われる。
Hittiteに対して反抗活動をしていたPiyama-Raduは、ギリシア人を支援した。
Piyama-Raduに追い出された人々は、Tawagalawaのもとへ逃げ込んだ。[206]

9.1.2 Tawagalawaの居住地
Tawagalawaのギリシア名は、Miletusの子Caunosと推定される。
Caunosは、Miletusの町から東南東へ移住して、Lycia地方との境近くのCaria地方にCaunusの町を創建した。[207]
Caunosの兄弟Erginusは、Miletusの町を治めていた。
当時、Millawanda (Miletus)は、Hittiteの属国であり、CaunosもまたHittite側の人間であった。

9.1.3 Heraclesの支援
HeraclesがLydia地方のOmphaleの下で3年間奉仕したという伝承がある。[208]
HeraclesがLydia地方にいたのは、BC1248年からBC1246年までであった。
この間、HeraclesはPiyama-Raduと共に行動していたのではないかと推定される。
Piyama-Radu (Celaeneus)の妹Alcmenaは、Heraclesの母であり、CelaeneusはHeraclesの伯父であった。

9.2 AmazonsのPhrygia侵入
BC1250年、Laomedonの子Priamは、Amazonsに攻められた彼の母Leucippeの祖国Phrygia地方へ援軍として駆け付けた。[209]

9.3 Cyzicus事件
BC1248年、Minyansの船がCyzicusの町に逗留した。
Cyzicusの町の支配者Aeneusの子Cyzicusは、彼らが先祖を追い出したThessaly地方の住人だと知って闇討ちしたが、逆襲されて、Cyzicusは戦死した。[210]
Cyzicusは、BC1390年にThessaly地方から追い出されたPelasgiansが名前を変えたDolionesに属していた。[211]
この事件は、Argonautsの遠征物語の時代設定と同じ頃であり、物語は、この事件と、その20年前のJasonとMinyansの遠征を題材にして書かれたと推定される。
Cyzicusの妻Cleiteは、TroyのPriamの妻Arisbeの姉妹であり、CyzicusはPriamの義兄弟であった。[212]
系図を作成するとCyzicusの死亡は、この頃であり、この事件は、史実と思われる。

9.4 第1回Trojan War (1244 BC)
Troyが戦場となった戦いは、数多くあったと思われるが、Achaeansが参加した戦いは、少なくとも、3回あった。
BC1244年、Ilusの子Laomedonが死に、彼の息子Priam (or Podarces)がWilusa (Troy)を継承した。[213]
Capysの子AnchisesとAntenorの父Aesyetesは、Priamを追放して、Wilusaの王位を簒奪した。[214]
Priamは、Miletusの町へ嫁いだ彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusの町へ亡命した。[215]
Priamは、HittiteやHittiteの属国の軍の支援を受けて、Iliumの町を奪還した。
BC1265年のHittiteの内紛を契機に、Wilusaは独立していたが、PriamはHittiteの援助を受けたことで再びHittiteの属国になった。[216]

9.4.1 Hellespontの支配者
Trosの子Ilusが、Wilusaの王位を簒奪して、Dardanusの町からIliumの町へ移った後、Dardanusの町は、Capysの父Assaracus (or Asarakos)が継承した。[217]
また、Antenorの父AesyetesもDardania地方に住んでいた。[218]
当時、Hellespontに面したDardania地方には、Capysの子AnchisesとAntenorの父Aesyetesが住んでいた。
つまり、BC1244年より前、Hellespontを支配していたのは、AnchisesとAesyetesであった。

9.4.2 Achaeansの参加
AnchisesとAesyetesは、Hellespontを通り、黒海沿岸の町と交易を行っていたThessaly地方の次の人たちと親交があったと推定される。
1) Phylaceの町のIphiclusの子Protesilaus
Protesilausの妻は、黒海への航路を知っているMinyansが住むIolcusの町のAcastusの娘Laodamiaであった。[219]
また、Iphiclusの母Clymeneは、Minyansの王Minyasの娘であり、Phylaceの町にもClymeneと共に移住したMinyansが住んでいた。[220]
さらに、Phylaceの町の近くに住んでいたErysichthon (or Aethon)の娘Mestraは、Triccaの町のDeimachusの子Autolycusの妻になり、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[221]
Autolycusの移住の後で、Thessaly地方と黒海沿岸の交易が盛んになり、Protesilausも交易を行っていたと推定される。
2) Magnesia地方のPoeasの子Philoctetes
Philoctetesは、Thessaly地方北部のPeneius川の河口近くのMeliboeaの町に住んでいた。[222]
AnchisesとAesyetesは、ProtesilausとPhiloctetesからの協力を得た。

9.4.3 Heraclesの関与
HeraclesのTroy遠征を多くの史料が伝えている。[223]
HeraclesがLydia地方のOmphaleのもとからTirynsの町へ帰り、Elis攻めをする前に、HeraclesがIliumの町を攻略したという伝承である。[224]
つまり、BC1246年からBC1243年の間であった。
Priamの王位継承争いがあった頃と時期的には一致する。
Laomedonの父Ilusが支配下に置いたEthiopiaは、Perseusの妻Andromedaの出身地であり、Perseusの子Persesが住んでいた。[225]
Persesは、Heraclesの父Amphitryonの父Alcaeusの兄弟であった。[226]
Heraclesが、ProtesilausやPhiloctetesと共に遠征に参加した可能性はあるが、両者の参加理由は一致しない。

9.4.4 Mygdonの関与
Mysia of Olympene地方に住んでいたMygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[227]
Mygdonは、Antenorの妻Theanoの父Cisseusの父であったと推定される。[228]
Mygdonの移住には、Ida山に住んでいたIdaean Dactyliも参加して、Mygdonと共にPaeonia地方に定住した。[229]
彼らは、後に、Macedonia地方のBermius山周辺でMidasの富を掘り出す技術者となった。[230]
後に、Mygdonの後裔は、Troyへ援軍として駆け付けているが、Antenorの息子たちに味方するためであった。[231]

9.5 ArgolisからLyciaへの移住
BC1241年、Glaucusの子Bellerophontesは、Argolis地方のIsthmusの町からLycia地方のXanthusの町へ移住して、Iobatesの娘Philonoeと結婚した。[232]
Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、Xanthusの町の近くに住んでいたSolymiに対抗するためにBellerophontesを呼び寄せたと思われる。
Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。
つまり、Bellerophontesは、Philonoeの又従兄妹であった。

9.6 LyciaからTroadへの移住
BC1235年、Bellerophontesは、Troad地方へ侵入したAmazonsと戦うために遠征した。[233]
恐らく、Lycia地方のBellerophontesが住む町もHittiteの支配下に入り、Wilusa (Troy)への応援のために派遣されたものと思われる。この結果、Lyciansの一部は、Aesepus川近くのZeleiaの町周辺に定住して、Troad地方にもLyciaが誕生した。[234]

9.7 LyciaからPaphlagoniaへの移住
Bellerophontesの遠征には、Eleia地方からLycia地方へ移住したCauconesも含まれていたと思われる。Cauconesは、Paphlagonia地方のParthenius川の河口近くに定住した。[235]
Cauconesの定住地の近くには、100年前にPhrixusの子Cytissorusによって創建されたCytorusの町があった。[236]
Eleia地方からLycia地方へ移住したCauconesは、Hittiteとの戦いに巻き込まれて、Hittiteの属国の民となった。[237]
CauconesがTrojan WarでTroyの援軍として駆け付けたと物語られているのは、Troyと同じくHittiteの属国であったからと思われる。

10 Hittiteの衰退期のAnatolia
BC1237年、Hittite王Tudhaliya IVは、Assyria王Sulmanu-asared Iと戦って敗れた。[238]
この戦いの後で、Asia MinorへのHittiteの影響力は少なくなった。

10.1 ArcadiaからMysia of Pergameneへの移住
BC1230年、Telephusは、母Augeと共にArcadia地方からMysia of Pergamene地方へ移住した。 [239]
TelephusはTegeaの町のすぐ東側のParthenius山付近に住んでいた。[240]
Telephusの父は、Schoeneusの子Clymenusで、AugeはClymenusの横暴に耐えられず、息子Telephusに連れられてMysia地方へ移住した。[241]
Telephusの移住には、Telephusの父Clymenusの姉妹Atalantaの子Parthenopaeusも同行した。[242]
Parthenopaeusは、AdrastusのThebes攻め前に帰国していて遠征に参加して戦死した。[243]
Mysia of Pergamene地方は、Hittiteの属国Seha River Landの領土であったが、最早Hittiteの支配は及んでいなかったと思われる。

10.2 Mysia of PergameneからThebes攻めに参加
BC1205年、Mysia地方で生まれたParthenopaeusの子Tlesimenesは、Mysia地方からEpigoniのThebes攻めに参加した。[244]
BC1196年、Tlesimenesは、EpigoniのThebes攻めで一緒に戦ったPolyneicesの子Thersanderから依頼を受けて、Mysia地方へ案内した。ThersanderはMysia地方で死んだ。ThersanderはTiresiasの娘Mantoを含むEpigoniの捕虜たちをAsia Minorへ移住させようとしていた。[245]
これを基にして、Troy遠征軍が誤ってMysia地方に上陸しようとして、ThersanderがTelephusに殺されたという作り話が生まれた。[246]

10.3 CreteからEphesus近くへの移住
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からEphesusの町近くへ移住して、Colophonの町を創建した。[247]
Rhaciusは、Tiresiasの娘MantoからEpigoniに攻められてThebesの町が陥落した話を聞いて涙を流した。Lebesは、Mycenaeの町の出身であり、Sthenelusの子Iphitusの息子と推定される。[248]
Iphitusの姉妹Astymedusaは、Thebesの町のOedipusに嫁いでいた。[249]

10.4 BoeotiaからColophonへの移住
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoを含むEpigoniの捕虜たちは、Asia Minorへ移住し、Colophonの町のCretansに受け入れられて共住した。[250]
MantoはRhaciusと結婚して、Thestorの子Calchasを凌ぐ予言者となる息子Mopsusが生まれた。[251]
Mantoは、Colophonの町近くの海辺の町Clarusに、Apollonの神託所を開設し、彼女の息子Mopsusが継承した。[252]

10.5 第2回Trojan War (1188 - 1186 BC)
伝承では、Agamemnon率いるAchaeansはTroyを占領して、NeoptolemusはPriamの子HelenusやHectorの息子たちを連れて、Molossiansの地へ移住したことになっている。[253]
しかし、次のことから、AchaeansはTroyを占領できなかったと思われる。
1) AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と伝えている。[254]
2) Crete島のDictysは、直接、Trojan Warを体験した自身の記録の第5巻の最後に、最終的にIliumの町を掌握したのは、Antenorであったと記している。[255]
3) Herodotusは、Persiaによるギリシア侵攻に匹敵する悲惨な出来事が、Dariusより20世代前にあったと伝えている。[256]
Herodotusは、3世代を100年で計算しているので、667年前の出来事になる。[257]
Dariusが即位したBC522年を基準にすると、BC1189年頃に、その悲惨な出来事があったことになる。

10.5.1 戦いの構図と結果
Iliumの町には、Laomedonの子Priamや彼の息子たちが住んでいた。
BC1244年の王位継承争いの時、Dardania地方を支配していたAnchisesとAesyetesは、Priamに敗れ、Dardanusの町は破却された。Homerの作品にDardanusの町の名前は登場しない。その後、Hellespontは、Priamの支配下になっていた。
BC1188年、Iliumの町は、Antenorの息子たちによって占領された。
Iliumの町を追い出されたPriamの息子たちは、Hellespontを利用して黒海沿岸と交易していたAchaeansを味方に付けて、Iliumの町を奪還しようとしたが、敗れた。
Priamの子Hectorは死に、彼の妻と息子たちは、彼の兄弟HelenusやAchillesの子Neoptolemusに連れられて、Molossiansの地へ落ち延びた。[258]
Achaeansが戦った相手は、Priamの息子たちではなく、Antenorの息子たちであった。

10.5.2 Hittiteの関与
Iliumの町を追い出されたPriamの息子たちは、彼らの父Priamの時とは異なり、Hittiteには援助を求めなかったと思われる。
当時、Hittiteは、最後の王Suppiluliuma IIの治世であった。

10.5.3 Achaeansの放浪
BC1186年、Thesprotiansが侵入して、Thessaly地方が占拠された。[259]
Troyでの戦いに敗れ、帰る土地を失ったAchaeansは、各地へ四散した。
Anatolia半島の各地に定住したAchaeansは、次の通りである。
1) Bithyniaへの定住
Arcadia地方のMantineansは、Bithynia地方のBithyniumの町付近に定住した。[260]
Bithyniumの町は、ローマ皇帝Hadrianの寵臣Antinousの出身地であった。Hadrianは、Antinousの先祖の地であるArcadia地方のMantineiaの町に、Antinousの神殿を創建した。[261]
2) Elaeaへの定住
Menestheusが率いたAtheniansの一部は、Lesbos島対岸のCaicus川近くのElaeaの町に定住した。[262]
3) Colophonへの定住
Thessaly地方のGyrtonの町のPeirithousの子Polypoetesや、Argisaの町のCoronusの子Leonteusは、Colophonの町に定住した。[263]
4) Lydiaへの定住
Thessaly地方のMagnesiansは、最初、Delphiの町に定住した。BC1173年、MagnesiansはDelphiansと共にLydia地方に移住して、Magnesiaの町を創建した。[264]
5) Cariaへの定住
Asclepiusの子Podalirusは、Caria地方へ移住して、Bybastusの町の近くに、Syrnusの町を創建した。[265]
6) Pamphyliaへの定住
Thestorの子Calchasは、Pamphylia地方へ移住して、Selgeの町を創建した。[266]
Mantoの子Mopsusの娘Pamphiliaは、Colophonの町からSelgeの町へ嫁いだと推定される。彼女は、Pamphyliaの名付け親になった。[267]
後に、Selgeの町の住人は、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[268]

10.6 ColophonからCilicia Pediasへの移住
BC1175年、Mantoの子Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、Colophonの町からCilicia Pedias地方へ移住して、Mallusの町を創建した。[269]
BC333年、Issusの戦いの直前、Alexander the Greatは、Mallusの町に立ち寄り、800年以上前にその地で死んだAmphilochusに英雄としての供儀を捧げた。[270]
しかし、Mallusの町の創建者Amphilochusは、Argosの町のAmphiarausの息子ではなく、Amphiarausの子AlcmaeonとMantoとの間の息子であった。そのAmphilochusは、Argosの町に無縁であった。

10.7 第3回Trojan War (1170 BC)
BC1170年、Antenorの息子たちによって占領されたIliumの町を奪還するための戦いがあったと推定される。その根拠は、次の史料の記述である。
1) AD5世紀の神学者Jeromeは、「Antenorの子供たちが追放された後、Hectorの息子たちはIliumの町を奪還し、Helenusが彼らを援助した。」と記している。[271]
2) AD12世紀のイギリスの聖職者Geoffrey of Monmouthは、「Antenorの子孫が追放された後、Hectorの息子たちがTroyを統治した。」と記している。[272]

10.7.1 Hectorの息子たち
BC1188年にIliumの町は、Antenorの息子たちによって占領され、Priamの息子や孫たちは、Iliumの町を奪還できずに、各地へ移住した。[273]
Hectorの息子たちは、NeoptolemusやHelenusに連れられて、Molossiansの地へ移住した。[274]
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[275]
Hectorの息子たちの母Andromacheは、Neoptolemusと結婚していたが、Helenusと再婚した。[276]
Hectorには、少なくとも3人の息子たちがいた。
つまり、Scamandrius (or Astyanax)、Laodamas、Saperneiosであった。[277]
系図を作成するとHectorとAndromacheの年齢差が大きい。Hectorには、Andromacheと結婚する前に、別な妻との間に多くの息子たちがいたと推定される。

10.7.2 戦いの構図と結果
BC1188年、Iliumの町は、Antenorの息子たちによって占領された。
Priamの息子たちは、Achaeansの応援を得て、Iliumの町を奪還しようとするが、戦いに敗れて各地へ四散した。
BC1170年、Hectorの息子たちが成人すると、Priamの子Helenusは彼らに軍勢を与えて、Iliumの町を攻撃させた。その軍勢の中核は、AchillesやNeoptolemusの指揮下にあったMyrmidonsであった。しかし、軍勢の多くの者は、Thessaly地方からLocris地方へ逃れてNeoptolemusと共にMolossiansの地へ移住したAchaeansであった。
Hectorの息子たちは、各地からPriamの後裔を集めて戦力に加えて、Antenorの息子たちが占拠していたIliumの町を奪還した。[278]

11 Hittite滅亡後のAnatolia
BC1180年頃、Hittiteは、滅亡した。
BC1170年、Agamemnonの子Orestesは、Amyclaeの町のPeisander率いる移民団がTroad地方の沖合に浮かぶTenedos島に入植するのを援助した。[279]
この後、AeoliansやIoniansのAnatolia半島への入植活動が始まった。
彼らの入植活動についての詳細は、「Asia Minor植民」に記述している。

11.1 CyprusからCilicia Tracheiaへの移住
BC1160年、Telamonの子Teucerの息子と思われるAjaxは、Cyprus島からCilicia Tracheiaへ移住してOlbe一帯を支配した。[280]
Cilicia Pedias地方にSoliの町を創建したPhilocyprusは、このAjaxの後裔だと思われる。[281]

11.2 EpirusからMysia of Pergameneへの移住
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にEpirus地方からAsia Minorへ移住してPergamonの町を創建した。[282]
AndromacheとHectorの間に生まれた息子Scamandrius (別名Astyanax)は、Scepsisの町に住んでいた。[283]
Scepsisの町は、Pergamonの町から3日行程の距離にあった。Andromacheは、Scamandriusと再会した可能性が高い。

11.3 AmazonsのAsia Minor侵入
Amazonsは、黒海南岸のSinopeの町の東側のThermodon河口にThemiscyraの町を創建して住んでいた。[284]
このAmazonsの侵入は、Athens王Demophonの子Oxyntesの治世中の出来事であった。[285]
Amazonsは、Asia Minor各地にEphesus、Smyrna、Cyme、Myrineのような名前を残した。[286]
しかし、AeoliansやIoniansがAsia Minorへ植民した時、先住していたのは、Amazonsではなく、Cariansであった。
AmazonsがAsia Minorに住んでいたのは、短期間であったと思われる。

11.3.1 Ephesus創建
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsがEphesusの町に攻め込み、神殿を焼き払った。[287]
AmazonsのOtreraは、Ephesusの町に古代世界の7不思議に数えられる、Dianaの神殿を建立した。[288]
多くの史料が、AmazonsがEphesusの町を創建したと伝えている。[289]

11.4 CyzicusからTroadへの移住
BC1115年、Cyzicusの町の住人はTyrrheniansに追われて、Troad地方のAntandrosの町へ移住した。[290]
TyrrheniansはItaly半島の種族ではなく、Tyrrhenia島とも呼ばれたLemnos島に住んでいたMinyansと思われる。[291]
BC1115年、Athensの町を追われたPelasgiansは、Lemnos島へ移住した。[292]
その時、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Lacedaemonへ移住した。[293]
Minyansの一部は、昔、自分たちの先祖を襲撃したPelasgians (Doliones)が住むCyzicusの町へ移住して、彼らを追い出したと思われる。[294]

11.5 HalicarnassusとMyndusの創建
BC1070年、Alcyoneの子Anthasの子Aetiusの後裔Anthesは、Troezenの町から移民団を率いてCaria地方に移住して、Halicarnassusの町とMyndusの町を創建した。[295]
Anthesの移民団は、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesが率いた移民団に含まれていた。[296]
Althaemenesの移民団はRhodes島に定住した後で、HalicarnassusやCnidus、Cosへも移住した。[297]

12 BC8世紀以降のAnatolia
12.1 MegaraからBithyniaへの移住
BC712年、Megaraの町のZypoetesが移民団を率いてBithynia地方へ移住して、後にAstacusという名前になる町を創建した。[298]
BC434年、その町の住人は、近隣部族の攻撃を受けて、Athensの町へ移民団の派遣を求めた。それによって、Doedalsus率いるAtheniansが町に移住して来てから町は繁栄した。[299]
町の名前は、Thebesの町のSpartiの名前に因んで、Astacusになった。[300]
Astacusは、BC1200年にTanagraの町周辺からAthensの町へ移住したGephyraeansの指導者であった。[301]

12.2 Dascylusの子Gyges
BC680年、GygesがLydia王に即位した。[302]
Gygesの王権取得の経緯は、Herodotusが作り話を詳細に伝えている。[303]
しかし、実際は、Gygesの謀反であった。Caria地方のMylasaの町のArselisは、Gygesに味方して、軍勢を率いてCandaulesを滅ぼした。[304]

12.2.1 Gygesの系譜
Gygesの前のLydia王Candaulesは、近くのMagnesiaの町と戦っていたが、Gygesの支配は、遠くHellespontus地方まで及んでいた。Miletusの町は、Gygesの許可を得て、Propontisの近くに、Abydusの町を建設した。[305]
Gygesが1代で、版図を北へ広げることができたのは、彼がHellespontus地方のDascyliumの町の出身であったからと思われる。
Gygesは、BC13世紀のOtreusの子Dascylusの子孫であった。
Gygesは、Thessaly地方からAsiaへ移住したPelasgiansの後裔であった。[306]
Gygesの出身地Dascyliumの町周辺には、Trojan War後でOrestesの子Penthilusの子ArchelausがAchaeansを率いて植民活動をしていた。[307]
PelasgiansもAchaeansもIoniansとは、敵対関係にあり、Gygesの時代以降、LydiaがIonia地方の町を度々侵略した原因の一つであった。

12.2.2 Candaulesの系譜
Herodotusは、Lydia王の系譜を記している中で、Candaules (or Myrsilus)が、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronの後裔であったと伝えている。[308]
しかし、Alcaeusは、Heraclesの本名であり、BelusやNinusは、Assyria王の名前にあり、適当に作られた系譜と思われる。
Herodotusは、Candaulesが自分の妻の裸体を見せたGygesに王権を奪われた物語を記しているが、妻の名前は記していない。[309]
Herodotusは妻の名前を知っていたが、彼が愛した、彼の後継者Plesirrhousが自殺する原因となった忌まわしい女性の名前と同じであったために、名前を記さなかった。Candaulesの妻の名前は、Nysiaであった。[310]

12.3 MacedoniaからMysia of Olympeneへの移住
BC670年、BrigesのGordiasの子Midasは、Tirimmusの子Perdicasに追われて、Macedonia地方からPhrygia地方へ移住した。[311]
Tirimmusは、Macedonia王国の始祖Caranusの孫であった。[312]

12.3.1 Midasの居住地
PlutarchもAthenaeusも、Midasは、Celaenaeに住んでいたと伝えている。[313]
また、Pseudo-Plutarchは、Midasの領地の中にあるCelaenaeにMarsyas伝説があったとも伝えている。[314]
StraboやHerodotusは、このCelaenaeを、Greater Phrygiaの町のように記している。[315]
しかし、つぎの理由で、このCelaenaeはMysia of Olympeneにあったと推定される。
1) Plutarchは、Celaenaeに住むMidasがIdaean Zeusの祭壇に触って金に変えたと伝えている。Midasの居住地はIda山近くであったと思われる。[316]
2) Euripidesは、Marsyasが「Celaenae, in the farthermost region of Ida」に住んでいたと述べている。[317]
3) Marsyasは、Ida山の近くで、羊飼いをしていた。[318]
4) Midasは、Mygdoniaの王であった。[319]
Mygdoniansは、Cyzicus周辺にいた部族である。[320]

12.3.2 移住先の選定理由
Midasは移住する前、Macedonia地方のMt. Bermius近くに住んでいた。Midasの先祖は、Mysia of OlympeneからPaeonia地方へ移住したMygdonと思われる。[321]
Diodorusは、MygdonがIdaean Dactyliと共にEuropeへ渡ったと伝えている。[322]
Mygdonは、Laomedonの妻Leucippe (or Placia)の父Otreusの息子と推定される。[323]
つまり、Midasはかつて先祖が住んでいたMysia of Olympeneを移住先に選んだものであった。

12.3.3 MidasとGygesの戦い
Midasは、Lydia王Gygesに攻められて、Lydiaの支配下に入った。[324]
詳細は、後述の「GygesとMidasの戦い」に記述する。

12.3.4 Midasの死
Midasは、Cimmeriansの侵入の際に、雄牛の血を飲んで死んだと伝えられている。[325]
しかし、Lydia王Gygesは、Cimmeriansとの戦いで死んでいるので、Lydiaの支配下にあったMidasもCimmeriansとの戦いで死んだと思われる。[326]

12.3.5 Phrygiaへの移住
BC660年、Gygesとの戦いの後で、Midasの子GordiasはPhrygia地方のSangarius川上流のPessinusの町の近くへ移住した。Gordiasの子Midasは、後にAncyraの町を創建した。[327]

12.4 GygesとMidasの戦い
BC670年、Macedonia地方からMysia of Olympene地方へ移住して来たMidasは、富の力で勢力を広げた。Midasの居住地は、Gygesの出身地Dascyliumの町の近くであった。
BC660年、GygesはMidasを攻撃して、Lydiaの支配下に置いた。[328]
Herodotusは、Gygesより前に、Midasが自分の玉座をDelphiに奉納したと伝えている。
しかし、その玉座は、Gygesの奉納品と同じ場所にあったとも伝えている。[329]
GygesがMidasとの戦いで獲得した戦利品の一部として、Midasの玉座をDelphiに奉納したと考えられる。

12.5 Soliの創建
BC585年、Athensの町のSolonは、Cilicia Pedias地方にSoliの町を創建するのに貢献した。[330]
Soliの町の建設者は、Soliの町より上の方にあったAipeiaの町に住んでいたPhilocyprusであった。Philocyprusは、Teucerの子Ajaxの後裔と思われる。[331]
Aipeiaの町は、堅固なばかりで、痩せた土地であった。Aipeiaの町は、後に、Alexander the Greatが財貨保管場所にしたCyinda (or Quinda)であったと推定される。[332]
Soliの町の建設には、Rhodes島のLindusの町からAchaeansやRhodiansが参加した。[333]
Rhodes島からも参加者があったのは、SolonとGreeceの7賢人の一人Cleobulusの交友関係によるものであった。[334]
Euagorasの子Cleobulusは、Rhodes島のLindusの町の支配者であった。[335]

12.6 TarsusとIopolisの創建
Soliの町の建設に参加したRhodiansの中には、Tlepolemusと共にRhodes島へ移住したArgivesも含まれていた。彼らは、Triptolemusに率いられて、Soliの町の近くにTarsusの町を創建した。[336]
Triptolemusの子Gordysに率いられたArgivesは、Syria地方のOrontes川の近くに入植して、Iopolisの町を創建した。[337]
BC300年、Seleucus Nicatorは、Antioch on the Orontesを建設した時、Iopolisの町のArgivesを新市へ移住させて厚遇した。[338]
Iopolisの町のSilpion山にはPerseusが創建したという神殿があった。[339]
Tarsusの町は、Danaeの子Perseusが創建したという伝承もあった。[340]

12.7 Alyattes (or Odyartes)の子Croesus
12.7.1 Olympusでの猪狩り
BC552年、Lydia王Croesusは、Mysia地方のOlympus山北側のPrusaの町のPrusiasを攻めた。[341]
Prusiasは、Macedonia地方からMysia of Olympene地方へ移住して来たMidasの後裔と推定される。[342]
Gordiasの子Adrastusは、彼の兄弟Agathonを殺して故郷を追われ、Croesusのもとへ逃げ込んだ。[343]
Croesusは、Adrastusを追放した彼の兄弟Prusiasに対して、Adrastusを復帰させるという口実でPrusaの町に攻め込んだ。
その戦いで、Croesusの子Atysは戦死した。[344]
これを題材にして、Herodotusは、Olympus山での猪狩りで、Adrastusが誤ってAtysを殺したという物語を作った。[345]

12.7.2 CroesusとSolonの会見
Herodotusは、Greeceの7賢人の一人SolonがCroesusと会った逸話を記している。[346]
Plutarchもまた、Solonは、Athensの町のachonの任期を終えた後で、BC593年から10年間の旅の途中で、Croesusと会見したと伝えている。[347]
しかし、Herodotusは、Croesusが在位14年目(546 BC)に死んだと記しており、Solonが旅の途中で、玉座に座っているCroesusと会見することは不可能である。[348]

おわり