1 はじめに
Straboによれば、Acarnaniansは、Ambracian GulfとAchelous川の間に住んでいた。
Straboは、Achelous川がThoas川とも呼ばれていたと記している。[1]
そのThoasは、Troy遠征に参加した、Andraemonの息子と思われる。Thoasと同時代のAlcmaeonの時代から、その川がAchelousと呼ばれたという伝承もある。[2]
つまり、Achelous川の東側に住むAetoliansはThoas川と呼び、西側に住むAcarnaniansはAchelous川と呼んでいたと思われる。
Achelous川が運ぶ大量の土砂は河口に堆積して、Thucydidesの時代には、いくつかの島が本土と陸続きになったものもあった。Thucydidesは、近い将来、諸島のすべての島が陸続きになると予想した。[3]
Pausaniasは、その予想が外れたのは、Achelous川流域に住む人がいなくなったからだと記している。Pausaniasは、「耕作地の泥が海に流れて堆積する」と考えていたようだ。[4]
2 Laconiaからの入植
2.1 Teleboasの入植
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Laconia地方のTherapneの町からAcarnania地方へ移住した。[5]
Aristotleは、古い時代に、Acarnania地方西部には、LelegesとTeleboansが住んでいたと伝えている。[6]
Teleboasが率いた移住者は、最初、Lelegesと呼ばれたが、Teleboasの後裔が治める人々は、Teleboansと呼ばれるようになったと推定される。
Lelegesの名称は、Danausと共にEgyptからPeloponnesusへ移住して来たLelexに因んだ名前であった。Lelexは、Laconia地方からMegara地方へ移住して、それらの地方の住人はLelegesと呼ばれた。[7]
2.2 Teleboasの息子たち
Teleboasには、22人の息子たちがいて、その一部は、Leucasに住んだ。彼らの3代後のTelonの子Oebalusは、Achelous川の近くに住んでいたので、TeleboansはAcarnania地方全域に居住していたと推定される。[8]
Teleboasの息子が入植したLeucasは、島ではなく、半島であった。BC657年、その地方へ入植したCorinthiansが本土と切り離して、Leucasは島になった。[9]
3 Amphitryonの遠征
BC1277年、Mycenaeans、Athenians、そしてThebansを含む遠征隊がTeleboansの地へ遠征した。[10]
3.1 Heliusの入植
この遠征の中心人物は、Perseusの子Helius (or Heleus)であった。Heliusは、既にArgolis地方にHelosの町を建設していたが、新天地を求めて遠征を計画した。[11]
Heliusは、兄弟Electryonや甥Amphitryonに協力を求めた。Amphitryonは、母の弟Creonや、Attica地方のThoricusの町からThebesの町へ逃れて来たDeionの子Cephalusを遠征に誘った。[12]
遠征隊は、Acarnania地方西部のIonian Seaに浮かぶ島々からTeleboansを追い出して植民した。[13]
Heliusは、Echinades諸島に入植した。[14]
3.2 Cephalusの入植
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、Cephallenia島と呼ばせた。[15]
伝承では、CephalusがPandionの娘Procrisを殺して、the Areopagusで裁かれて追放刑に処せられたことになっている。しかし、Cephalusは、Athens王Aegeusによって追放されたAegeusの義兄弟たちの一人であった。Hyginusは、Deionの子CephalusがAtheniansの王であったと伝えているが、CephalusはAttica地方のThoricusの町の王であった。[16]
Thoricusの町は、Aegeusの子Theseusが一つにまとめた12市の中の一つであった。[17]
Hyginusは、多くの伝承がPandionの息子だと伝えているMegara王NisusをDeionの息子だと伝えている。[18]
つまり、Cephalusは、Deion (or Deioneus)という別名を持つAthens王Pandionの息子であった。
3.3 遠征の結果
3.3.1 Amphitryon
この遠征中、Teleboansとの戦いで、Perseusの子Electryonと彼の息子たちが戦死した。[19]
Mideiaの町に残っていたElectryonの娘Alcmenaと息子Licymniusは孤児になった。
Amphitryonは2人をThebesの町に呼び寄せ、AmphitryonはAlcmenaと結婚した。[20]
Amphitryonは、Teleboansとの戦いで得た鼎をApollo Ismeniasの神殿に奉納した。[21]
3.3.2 Ithacaの創建
Cephallenia島に住んでいたDeioneusの子Pterelasの3人の息子たち、Ithacus、Neritus、Polyctorは、Cephalusによって、島から追い出された。彼らは、Cephallenia島の北東に隣接した島へ移住して、Ithacaの町を創建し、島をIthacaと呼んだ。[22]
Deioneusは、Teleboasの孫で、Cephallenia島に住んでいたTeleboansの首領であった。[23]
3.3.3 Cephalusの結婚
CephalusはEuryodeiaと結婚して、Arcesius (or Arcisius)が生まれた。EuryodeiaはPterelasの娘であり、Cephalusの捕虜であったと思われる。[24]
Pterelasの先祖は、Therapneの子Teleboasであり、Cephallenia島へ最初に入植したギリシア人であったと推定される。[25]
4 Eleiaからの入植
BC1244年、Eleia地方のElisの町からAugeasの子PhyleusがDulichiumに入植した。[26]
そのDulichiumは、HomerやStraboが伝えているEchinades諸島に属する島を指しているようにも思われる。[27]
しかし、つぎの理由から、PhyleusがElisの町から移り住んだDulichiumは、Cephallenia島にあったと推定される。
1) Pausaniasは、Cephallenia島のPaleisの町がEleanのLampisの子Timoptolisの像をOlympiaに奉納したと伝えている。[28]
2) また、Pausaniasは、昔、PaleansがDulichiansと呼ばれていたとも伝えている。[29]
したがって、Cephallenia島のDulichiumの町がAugeasの子Phyleusの移住先と推定される。
Cephallenia島に先住していたCephalusとPhyleusとの間の接点は不明で、Phyleusが適地を探して、Cephallenia島を移住先に選んだと思われる。
5 Sicilyからの移住
BC1240年、Sicily島に住んでいたPelasgiansが、Italy半島から島へ侵入して来たSicelsに追われて、Acarnania地方へ移住して来た。[30]
このPelasgiansは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Italy半島へ渡り、Rome近くのRegis Villaの町に住んでいた。しかし、BC1300年にLydia地方から移住して来たTyrrheniansに追われてSicily島へ移住していた。[31]
6 Heraclesの遠征
BC1237年、Heracles率いる遠征隊が、Thesprotia地方へ遠征した。[32]
6.1 Augeasの子Phyleusの遠征参加
これより少し前に、Heraclesは、Elisの町のAugeasと戦って、町を占領した。[33]
そのとき、HeraclesはAugeasの長男Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasに対して寛大な処置をした。[34]
Phyleusは、この時の恩に報いるために、Cephallenia島のDulichiumの町からDulichiansを率いてHeraclesの遠征に参加した。[35]
Phyleusは、Thesprotia地方のEphyraの町の近くを領するEuphetesから胸当てを贈られた。Euphetesは、Ephyraの町の支配者Phyleusの敵対者であったと推定される。[36]
6.2 Heliusの子Taphiusの遠征参加
Taphiusは、父HeliusがHeraclesの父Amphitryonの助けで、Echinades諸島に入植することができたことへの恩返しで遠征に参加した。[37]
Taphiusは、Echinades諸島から北西方向の島へ移住して、Taphosの町を創建し、島はTaphos島と呼ばれるようになった。[38]
6.3 Cephalusの子Arcesius (or Arcisius)の遠征参加
ArcesiusもTaphiusと同じく、Heraclesの父Amphitryonへの恩返しで遠征に参加し、Cephallenia島からIthaca島へ居住地を広げた。
Amphitryonの遠征のとき、CephalusはCephallenia島からTeleboansを追い出し、TeleboansはIthaca島へ移住した。[39]
そのとき、CephalusはTeleboanのPterelasの娘Euryodeiaを妻にして、息子Arcesiusが生まれた。[40]
Straboは、Ithaca島とTaphos島の住人は親しい関係だと伝えている。[41]
それらの島の住人が一緒にHeraclesの遠征へ協力したことと、Heraclesの父Amphitryonの助けで、両者ともこの地に入植できたからであった。
6.4 Oebalusの子Icariusの遠征参加
Oebalusの子Icariusは、この遠征に参加して、Laconia地方からAcarnania地方に入植した。[42]
Icariusの2人の息子たち、LeucadiusとAlyzeusはAcarnania地方に、彼らの名前に因んだ町を創建した。[43]
Icariusは、Calydonの町で遠征隊に合流し、途中、Pleuronの町でTyndareusに会い、Lacedaemonへ戻るように説得した。Spartaの町には、Icariusの子Perileos (or Perilaus)が残っていたが、未成年者であった。[44]
Tyndareusは、Aetolia地方からSpartaの町へ移住した。[45]
IcariusはTeleboansとの戦いで捕虜にしたLygaeusの娘Polycaste (or Polyboea)を妻にした。[46]
Lygaeusは、この遠征隊に追われてItalyへ移住したTelonの子Oebalusの兄弟と推定される。[47]
IcariusとPolycasteから、Odysseusの妻になる娘Penelopeが生まれた。[48]
6.5 Italyへの移住
Achelous川の近くに住んでいたTelonの子Oebalusは、Teleboansを率いてAcarnania地方からItaly半島西海岸のCapreae (near Neapolis)へ移住した。[49]
6.6 Corinthへの嫁入り
この遠征には、Corinthの町のSisyphusの子Ornytionも参加して、Telonの子Oebalusの娘Peireneを妻にした。[50]
Corinthの町の2つの外港、Corinthian gulfに面したLechaeumと、Saronic Gulfに面したCenchreaeの名前のもととなったLechesとCenchriasは、OrnytionとPeireneの息子たちであった。[51]
7 Parnassusからの嫁入り
BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、Parnassus山近くに住むAutolycusの娘Anticliaを妻に迎えた。[52]
Laertesが住むIthaca島から遠く離れたParnassus山近くに住む娘との結婚を可能にしたのは、血縁関係であった。
Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、第8代Athens王Pandionであった。
また、Anticliaの父Autolycusの母Philonis (or Chione)の父もPandionであった。
つまり、LaertesとAnticliaは又従兄妹であった。
LaertesとAnticliaの間に、息子Odysseusが生まれた。[53]
7.1 Odysseusの父
AD2世紀初期の著作家Plutarchは、Odysseusの父は、Laertesではなく、Sisyphusであると伝えている。[54]
Plutarchの参照元は、BC5世紀の悲劇詩人EuripidesやSophoclesであったようだ。[55]
Corinthの町とAthensの町は友好国であったが、BC459年頃、Corinthの町の植民市であったMegaraの町がAthensの町と同盟関係になってから、Corinthの町とAthensの町は敵対するようになった。ちょうど、Athensの町のEuripidesやSophoclesの時代であった。[56]
Athensの町の詩人たちは、HomerがCorinthの町の悪党として伝えているSisyphusをOdysseusの父とすることで、敵対するCorinthの町の信用を落とそうとしたと思われる。[57]
しかし、Sisyphusの子Glaucusの子Bellerophontesの子Hippolochusの子Glaucusは、Trojan War時代に生きていた。[58]
OdysseusがSisyphusの息子であれば、Trojan War時代より3世代前に生きていたことになる。
8 Echinadesへの移住
BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島からHeliusの子Taphiusが移住して、住人の少なくなったEchinades諸島へ移住した。Megesは、諸島の中で一番大きな島に定住して、故郷と同じDulichiumと呼んだ。[59]
9 Nericusの攻略
BC1220年、Arcesiusの子Laertesは、Cephalleniansを率いてLeucas半島のNericusの町を攻略した。[60]
Nericusの町には、Therapneの子Teleboasの息子たちの後裔が住んでいた。[61]
10 Alcmaeonの遠征
BC1204年、Amphiarausの子AlcmaeonはArgosの町からAcarnania地方へ遠征した。[62]
10.1 遠征の目的
10.1.1 誤った伝承
BC4世紀の歴史家Ephorus of Cymeは、Amphiarausの子AlcmaeonがTydeusの子Diomedesに協力してOeneusの復讐を果たした後で、Acarnania地方に進出したと伝えている。[63]
しかし、Alcmaeonの母Hypermnestraは、Pleuronの町のThestiusの娘であり、Alcmaeonが親族を相手の戦いに参加したとは思われない。[64]
Hygniusは、Capaneusの子SthenelusがDiomedesの遠征に協力したと伝えている。SthenelusはDiomedesの親友であり、Diomedesの遠征に協力したのは、Alcmaeonではなく、Sthenelusであった。[65]
10.1.2 本当の目的
AlcmaeonがAcarnania地方へ遠征した目的は、つぎのようであったと思われる。
当時、Alcmaeonは、EpigoniのThebes攻めで獲得したTiresiasの娘Mantoを含む捕虜たちを連れていた。[66]
後に、Mantoを含む捕虜たちの一部は、Asia Minorへ移住した。[67]
しかし、捕虜たちの最初に希望した彼らの移住先は、彼らの王であったEteoclesの子Laodamasが移住したIllyria地方であったと推定される。[68]
Alcmaeonは、捕虜たちが希望するIllyria地方を目指して遠征したと思われる。
10.2 Astacusの創建
遠征隊がAchelous川を越えて、Acarnania地方に入った所で、Alcmaeonが連れていた捕虜たちの一部がその土地への入植を希望して定住し、Astacusの町を創建した。あるいは、Amphilochian Argosの町を創建後、その植民市として、Astacusの町は創建されたかもしれない。[69]
Astacusは、Thebesの町のSpartiの名前で、捕虜たちの中にいたAstacusの後裔が命名したと思われる。[70]
10.3 Amphilochian Argosの創建
Alcmaeonは、Ambracian Gulfの近くに、Argos (後のAmphilochian Argos)の町を創建した。[71]
Illyria地方を目指していた捕虜たちをそこから見送った後で、Alcmaeonが移住の適地と判断して町を創建したと思われる。あるいは、Illyria地方まで行くのを断念した捕虜たちを中心にして、町が創建されたのかもしれない。
Amphilochian Argosの町の最初の住人の中には、Gephyraeans (Phoenicians)も含まれていたと推定される。BC430年、Ambraciansと共住したAmphilochiansは、初めてギリシア語を用いるようになったと伝えられる。[72]
10.4 Gephyraeansについて
BC1420年、GephyraeansはCadmusと共に、Phoenicia地方のSidonの町からBoeotia地方へ移住して来た。[73]
Gephyraeansは、Boeotia地方東部に住み着き、その地方はGephyra (後のTanagra)と呼ばれた。[74]
Gephyraeansの指導者Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaは、第6代Athens王Erechtheusと結婚した。[75]
BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入し、AtheniansがTanagraの町周辺に居住していたGephyraeansのもとへ避難し、GephyraeansはAtheniansを受け入れた。ErechtheusとPraxitheaとの結婚は、この出来事が縁であった。[76]
Praxitheaと共にAthensの町へ移住したGephyraeansは、AtheniansにPhoenician lettersを教え、Atheniansはそれを基にPelasgic lettersを発明した。[77]
星座になったHyrieusの子Orionの墓は、Tanagraの町にあり、GephyraeansがBabiloniansから得た星座に関する知識をギリシア人に伝えたと推定される。[78]
BC1204年、EpigoniのThebes攻めで捕虜になったGephyraeansは、Amphiarausの子Alcmaeonと共にAcarnania地方へ遠征した。[79]
Gephyraeansの一部は、Achelous川の河口近くにAstacusの町を創建した。[80]
また、Gephyraeansの一部は、AlcmaeonがAmbracian Gulfの近くに建設したAmphilochian Argosの町にも定住した。[81]
BC1200年、Tanagraの町周辺に居住していたGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensの町へ逃れた。AtheniansはGephyraeansを市民として受け入れた。[82]
BC1085年、Athensの町のEretria区のGephyraeansは、Euboea島へ移住して、Eretriaの町を創建した。[83]
BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusは、AristogitonとHarmodiusに暗殺された。[84]
AristogitonとHarmodiusは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[85]
Gephyraeansは、Euboea島のEretriaの町から移住して、Aphidnaの町に住んでいた。[86]
BC434年、Doedalsus率いるAtheniansは、Bithynia地方へ植民した。[87]
Bithynia地方には、BC712年にZypoetes率いるMegariansが建設した町があった。[88]
Zypoetesが創建した町の住人は周辺部族からの攻撃に苦しんで、Athensの町に植民団の派遣を要請し、彼らはAtheniansと共住した。[89]
Atheniansは、Thebesの町のSpartiの名前に因んで、町の名前をAstacusと名付けた。[90]
Atheniansの指導者Doedalsusは、Astacusの後裔、つまり、Gephyraeanであったと推定される。[91]
10.5 Amphilochusの移住
Thucydidesは、AmphilochusがTroy遠征に参加した後で、Amphilochian Argosの町の建設に参加したと伝えている。[92]
しかし、次の理由でAmphilochusは、Troy遠征に参加しなかったと推定される。
1) Amphilochusは、兄弟Alcmaeonと共にEpigoniのThebes攻めに参加した。[93]
そのすぐ後で行われたAlcmaeonの町の建設に、Amphilochusが参加していたと思われる。
2) AgamemnonからTroy遠征への参加を求められて、Alcmaeonが拒否したという伝承がある。[94]
Alcmaeonが拒否した遠征に、Amphilochusだけが参加したとは思われない。
3) Homerの作品に、Amphilochusが登場しない。
4) Homerの軍船目録に、Argosの将として3人の名前がある。[95]
当時、Argosの町には、3つの王家があったので、その3人の名前は、それぞれの王家の代表の名前であるべきである。
しかし、名前を挙げられたCapaneusの子Sthenelusは、Anaxagoras王家の代表。
Mecisteusの子Euryalusは、Bias王家であり、もう一人のDiomedesもBias王家の代表であった。Diomedesは、戦士の年齢に達していないAdrastusの子Aegialeusの子Cyanippusの代理であった。
もし、AmphilochusがTroy 遠征に参加したとすれば、Argos 3王家のひとつMelampus王家の代表として、名前が挙がっているはずである。
5) Alcmaeonには、3人の妻や多くの子供の名前が伝えている。しかし、Amphilochusの妻や子供たちについては不明であり、彼は、若くして、Argosの町から遠隔の地へ移住したと思われる。
6) Amphilochusは、多くの史料で、Colophonの町で生まれ、Cilicia地方のMallusの町で死んだ、彼の兄AlcmaeonとMantoの息子Amphilochusと混同されて伝えられている。
11 Pleuronからの嫁入り
BC1202年、Amphiarausの子Alcmaeonは、Pleuronの町のAchelousの娘Callirhoeを妻に迎えて、2人の息子たち、AcarnanとAmphoterusが生まれた。[96]
Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Aetolusの子Pleuronの後裔であった。Callirhoeの母方の先祖もPleuronであった。
12 Trojan War時代
Phyleusの子Megesは、DulichiumとEchinadesに住む人々を率いて、Troyへ遠征した。[97]
Megesの配下には、Elisの町の外港Cylleneの町の人々もいた。[98]
Laertesの子Odysseusは、Ithaca島や周辺の島々、および、本土に住む人々を率いて、Troyへ遠征した。[99]
13 Boeotiaへの移住
BC1188年、Sicily島から移住してAcarnania地方に住んでいたPelasgiansは、Boeotia地方へ移住して、Coroneiaの町を占拠した。[100]
Pelasgiansに追われたCoroneiaの町の住人は、Thessaly地方のArneの町へ移住した。[101]
14 Amphilochian Argosからの移住
Amphilochian Argosの町からArgosの町出身者を先祖に持つ住人が他へ移住して、新たに町を創建した。この時から、Amphilochian Argosの町の住人の中にギリシア語を話す者がいなくなったと推定される。[102]
14.1 Anaktorionの創建
BC1180年、Alcmaeonの子Acarnanは、Amphilochian Argosの町からAmbracian Gulfの南岸へ移住して、Anaktorionの町を創建した。[103]
14.2 Phoetiaeの創建
BC1175年、Alcmaeonの子Phoetiusは、Amphilochian Argosの町からAstacusの町の近くへ移住して、Phoetiaeの町を創建した。[104]
15 Oeniadaeの興亡
BC1105年、HeracleidaeがPeloponnesus半島に帰還して、Elisの町を先祖の故郷とするAetoliansは、Haemonの子Oxylusに率いられてElisの町へ移住した。[105]
Calydonの町やPleuronの町に残ったのは、Amphissaの町からThoasと共に移り住んだ人々と、Diomedesの子Amphinomusと共にItaly半島から移住してきた人々であった。
その後、両者の間で争いが生じて、Diomedesの後裔は、Achelous川の西側へ移住して、Oeniadaeの町を創建した。Diomedesの後裔は、自らをOeniadaeと呼び、Aetoliansではなく、Acarnaniansの一員となった。[106]
Calydonの町やPleuronの町の住人は、他のAetoliansと区別するために、自らをAeoliansと呼んでいた。[107]
BC331年、OeniadaeはAetoliansに攻められ、町は破壊され、住人は追放された。[108]
このAetoliansは、Achelous川を挟んで東側に住むCuretesと思われる。Strabonが列挙しているRome時代のAetoliansの種族の名前に、Curetesが見られる。[109]
このCuretesの攻撃は、Sparta王Agis IIIが主導するMacedoniaへの反乱に呼応した行動と思われる。[110]
BC324年、Alexander the greatが発した「追放者復帰王令」は、Oeniadaeを追放して自領としていたAetoliansが強く反発した。Aetoliansは、Samos島を市民に分け与えていたAtheniansと共に反Macedoniaの急先鋒となった。[111]
Rome時代にも、Oeniadaeの町の名前は残っていたようであるが、その住人については、詳しくは不明である。
16 Peloponnesian War時代
BC459年、Spartansに攻められてIthome山に籠城していたMesseniansは、Messenia地方を去って、Ozolian Locris地方のNaupactusの町へ移住した。[112]
Naupactusの町は、AtheniansがSpartansへの憎悪のため、Ozolian Locriansを追い出して手に入れ、Messeniansに提供したものであった。[113]
NaupactusのMesseniansは、Atheniansの好意に報いろうとして、Atheniansに敵対していたOeniadaeを包囲し、休戦の上、住人を退去させた。[114]
居住地を追われたOeniadaeは、他のAcarnaniansと共に町を包囲し、8か月後に町を奪還した。
BC455年、Athensの町のPericlesは、Oeniadaeを除くAcarnaniansを味方に引き入れ、翌年、Aetoliansを従えてOeniadaeを包囲したが、攻略できなかった。[115]
BC424年、Atheniansは最後まで加盟しないで残っていたOeniadaeを加えてAcarnanians同盟を結成した。[116]
BC405年、Aegospotamiの海戦でAtheniansに勝利したSpartansは、Naupactusの町からMesseniansを追放した。[117]
BC389年、Calydonの町に住むAchaeansが、AcarnaniansやBoeotiansと同盟しているAtheniansに圧迫されて、Spartansに援助を要請したと伝えられている。[118]
恐らく、BC405年にNaupactusの町からMesseniansを追い出したSpartansが、Calydonの町からも住人を追い出してAchaeansに与えたものと思われる。[119]
17 Acarnania地方の予言者の系譜
17.1 Carnus
BC1115年、HeracleidaeがPeloponnesusへ渡るための艦船を建造していたNaupactusの町にAcarnania出身の予言者Carnusが現れた。Carnusは、Heracleidaeの一人、Phylasの子Hippotesに殺された。[120]
Carnusは、Amphiarausの子Alcmaeonの孫と推定される。
17.2 Hesiodに予言術を伝授した予言者
Hesiodは、Acarnania出身の予言者から予言術を学んだ。[121]
Hesiodは、Naupactusの町に宿泊し、翌日、東へ15kmほど離れたOineonで、Ganyctorの息子たちに殺害された。[122]
この時、Hesiodは、Acarnania地方からBoeotia地方へ帰る途中だったのかもしれない。
17.3 Megistias
BC480年、Acarnania出身の予言者Megistiasは、Sparta王Leonidasと共にThermopylaeでPersiansと戦って、戦死した。[123]
Megistiasと親交のあったCeos島生まれの詩人Leoprepesの子Simonidesは、Megistiasの墓碑銘を作成した。[124]
Megistiasは、Melampusの後裔であり、Melampusに始まる予言者の系譜は、少なくとも800年続いたことになる。[125]
おわり |