第6章 トロイの勃興とペロプスの来航(BC14世紀)

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Create:2019.8.29, Update:2023.12.7
TroyPelops

1 はじめに
Anatolia半島では、BC17世紀に誕生したHittite帝国が勢力を拡大させていた。[1]
Anatolia半島北西部に初めて定住したGreekは、Crete島から移住したTeucrusであり、彼の移住は、BC1435年頃であった。
BC1390年以降、Propontisや黒海へGreeksが進出して、Hellespontus海峡に面したTroy王国は急速に発展した。
このTroyの勃興によって、PelopsがPeloponnesus半島へ移住することになった。

2 Troasへの各地からの入植
2.1 Creteからの入植 (Teucrus)
2.1.1 Creteでの鉄の発見
AD1世紀の哲学者Thrasyllusは、「洪水」からCrete島での「鉄の発見」までは73年であったと伝えている。彼は、さらに「鉄の発見」から「AdrastusのThebes攻め」まで、220年であったと伝えている。
AdrastusによるThebes攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」はBC1508年の出来事となる。[2]
Hellenの父Deucalion時代の大洪水は、つぎの理由からBC1511年に起こったと推定されるので、この「洪水」に一番近い。
BC2世紀の年代記作者Castorは、この洪水は初代Athens王Cecropsの時代に発生したと伝えている。AD2世紀の著述家Apollodorosは、第2代Athens王Cranausの時代であったと伝えている。つまり、初代Athens王Cecropsから第2代Athens王Cranausに代わった年に起こったものと推定される。[3]
CastorのAthens王たちの一覧をもとに、第1回Olympiad(BC776年)から逆算すると、CecropsからCranausに代わった年は、BC1511年となる。[4]
したがって、Crete島のIda山で鉄が発見された年は、Deucalion時代の「洪水」(BC1511年)から73年後のBC1438年と推定される。

2.1.2 Idaean Dactylsの誕生
Crete島で、最初に鉄を発見したのは、Celmis(or Kelmis)とDamnameneusと彼らの兄弟たちであった。[5]
BC5世紀の悲劇詩人Sophoclesは、Crete島のIda山麓に住む「ある人物」に5人の息子たちが生まれ、彼らが初めて鉄を発見したと伝えている。[6]
彼らは、さらに鉄の加工法を発明し、Crete島のBerecynthus地方にあるApteraの町で、鉄の製錬と焼き戻しを教え、彼らはIdaean Dactylsと呼ばれるようになった。[7]
「ある人物」とは、Amalthaea(or Althaea)、Melissa、Adrastia(or Adrasta)、Ida(or Idothea)の父Melisseusであり、Apteraの町の指導者であった。[8]

2.1.3 Idaean Dactylsの祖先
Crete島で、最初に鉄を発見したのはTelchinesであり、その一族から冶金術に優れたIdaean Dactylsが生まれた。[9]
Telchinesは、古代Aegean Sea世界に技術革新をもたらした超越した種族であった。彼らは航海術に優れた海の子であり、発明者であり、紹介者であり、時には科学的な知識を持った魔術師であった。[10]
BC1690年、Telchinesの始祖である、Sicyonの町のAegialeus(or Aezeius)の子Telchinは、Argosの町のApisと戦って敗れた。Telchinの子Cresは、Crete島へ移住した。[11]
Cresの子Talosの子Hephaestusは、Cabeiriの祖Cabeiroと結婚した。Telchinesには、宗教的な要素も加わり、TelchinesとCabeiriとIdaean Dactylsは同一視された。[12]

2.1.4 TeucrusのTroasへの移住
Crete島で最初に鉄を発見して、Idaean Dactylsと呼ばれたCelmis(or Kelmis)とDamnameneusは、Cyprus島でも鉄を発見した。彼らは、早い時期に各地で探鉱活動をしていたことが分かる。[13]
Celmisの姉妹Ida(or Idothea)には、息子Teucrus(or Teucer, Teukros)がいた。[14]
BC1435年、Teucrusは移民団を率いて、Apteraの町を出港し、Anatolia半島北西部Troas地方のHamaxitus付近に上陸した。[15]
Teucrusに同行したIdaean Dactylsは、Hamaxitusから北へ鉱脈を探索して、Ida山周辺に有望な場所を見つけた。彼らは、その地に定住し、沖合に浮かぶLemnos島などの島々へも探索範囲を広げた。CadmusがSamothrace島に寄港したときには、彼らは既にその島にいた。[16]
また、Teucrusの移民団には、Cabeiriも含まれていた。Cabeiriは、Cabeiri信仰を広めるために、Idaean Dactylsに同行して、Samothrace島へも渡った。
Teucrusは、Hellespontus海峡の近くにTeucrus(後のDardanus)の町を創建した。[17]

2.2 Arcadiaからの入植 (Dardanus)
2.2.1 Samothraceへの移住
BC1430年、Arcadia地方中央部に長期的な洪水が発生し、Methydriumの町に住んでいたLycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusも被災した。[18]
Methydriumの町は、標高約1,000mの高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[19]
Dardanusは住民を率いてPeloponnesus半島を去って、Aegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のMelas Gulfの沖合に浮かぶSamothrace島へ移住した。[20]

2.2.2 Troasへの移住
Dardanusの弟Iasionは、Cybeleと結婚して、息子Corybasが生まれた。[21]
Cybeleは、Teucrusの移民団の中にいて、Idaean Dactylsと共にCrete島からSamothrace島へ渡ったCabeiriの一人であった。
BC1425年、Cadmus率いる移民団がSamothrace島に滞在し、CadmusはDardanusの姉妹のHarmoniaと結婚した。[22]
Cadmusの移民団はさらにThrace地方へ向かって、Samothrace島を出航した。Cadmusには、島にいたIdaean DactylsやCabeiriも同行した。Cadmusは、Greece侵入前にThrace地方のChalcidice半島北方のPangaeus山付近で金鉱を発見している。この発見には冶金技術に優れたIdaean Dactylsが寄与していた。[23]
BC1420年、Samothrace島を突然大津波が襲った。このとき、IasionとDardanusの妻Chryse(or Chyse)は津波の犠牲になった。DardanusはCybeleと彼女の息子Corybasを連れて、Samothrace島を去った。[24]
DardanusがTroas地方へ渡ったとき、Teucrusの町には、少し前にCrete島から移住したTeucrusが住んでいた。[25]
Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚し、Teucrusの死後、Dardanusがその地方を継承した。[26]
Teucrusの町は、Dardanusの町と呼ばれるようになった。[27]

2.2.3 その後のCybeleとCorybas
Dardanusと共にTroas地方へ渡った、Iasionの妻CybeleとCorybasは、Idaean Dactylsと共にIda山麓に住んでいた。[28]
Ida山の山頂から北北西方向へ7kmほどの所のCorybissaに神域があったと伝えられるが、その付近に住んでいたと推定される。[29]
Cybeleは、女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼び、人々に踊りを伝えた。[30]
その踊りはCordaxと呼ばれ、武装して武具を打ち鳴らし、Aulos笛を吹き鳴らして叫び声をあげ、神がかりになって踊り狂うことで人々を驚かせ、怖れさせた。[31]
Aulos笛は、BerecyntianとかPhrygianと呼ばれ、Berecyntesの土地の支配者であったTantalusとも繋がりがあった。[32]
Corybasは、Ida山の南東約20kmのThebeの町からCilixの娘Thebeを妻に迎えて、娘Ideが生まれた。[33]
その後、Cybeleは、Phrygia地方のPessinusの町に移り住み、the Mother of the gods、the Mountain Mother、Phrygia the Great Goddess等と呼ばれるようになった。[34]

2.3 Creteからの入植 (Minos)
2.3.1 Cydoniaの創建
BC1430年、Arcadia地方のTegeaの町のTegeatesの子Cydon率いる一団が、Crete島北西部へ移住して、Apteraの町の近くにCydoniaの町を創建した。[35]
Cydonの移民団は、Samothrace島へ移住したDardanusの移民団と途中まで一緒に旅をした。[36]
CydonとDardanusは、Arcadia南部にLycosuraの町を創建したPelasgusの子Lycaonの子孫であった。Cydonは、Lycaonの子Tegeatesの息子であり、Dardanusは、Lycaonの子Orchomenusの娘Electraの息子であった。[37]
また、このCydonの移民団には、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusも参加しており、Arcadia地方のParrhasiaからParos島へ移住した。[38]

2.3.2 CydonとEuropaの結婚
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団がCydoniaの町に寄港し、移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydonと結婚した。[39]
CydonとEuropaは、Argosの町のPhorbas (or Peranthus、 Piras)の子Triopas(or Triops)を共通の先祖とするPelasgianであった。
CydonとEuropaの間には2人の息子たち、MinosとCardysが生まれた。[40]
BC1420年、Crete島北岸を大津波が襲ってCydoniaの町を破壊した。この津波でCydonは死んだ。Europaは、大津波の後でDryopia地方からCrete島へ移住してきたTectamusの子Asteriusと再婚した。Europaは、MinosとCardysをCydoniaの町に残して、Cnossusの町へ移り住んだ。[41]
Minosは、Crete島中南部のPhaistosの町からAndrogeneiaを妻に迎えて息子Asteriosが生まれた。[42]
Cardysは、Socosの子Acmon(別名Idaean Heracles)の娘と結婚して、息子Clymenusが生まれた。[43]
その後、Tectamusの子Asteriusが跡継ぎを残さずに死んだ。Cnossusの町のDoriansは、Europaの息子MinosをCnossusの町へ呼び寄せ、Lyctusの娘Itoneと結婚させて、Asteriusの跡を継がせた。[44]
Lyctusは、Cnossusの町の南東にあるLyctusの町の創建者で、Asteriusの母方の祖父Cretheusの息子と推定される。[45]

2.3.3 MinosのTroasへの移住
Europaの子Minosは、一人目のMinosと言われ、2人目のMinosとの生年差は、100年以上ある。しかし、その期間の記録が殆どない。その期間、Crete島に住んでいなかったことが理由と思われ、つぎのように推測される。
BC1390年、Crete島北部のCnossusの町は大津波に襲われ、Minosも被災した。[46]
Minosは、幼少期を過ごしたCydoniaの町に住む兄弟Cardysのもとへ避難した。しかし、Cardysも同様に津波の被害を受けていた。MinosとCardysはApteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうTelchinesの移民団に参加してTroas地方へ移住した。当時、Rhodes島のTelchinesがAegean Seaを自由に航海し、Crete島やLemnos島、および、対岸のTroas地方との間を行き来していた。
その後、Cardysは、Cydoniaの町へ帰ったが、Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。
その頃、Dardanusに連れられて海を渡ったDardanusの弟Iasionの子Corybasは、Ida山の近くで、母Cybeleとともに暮らしていた。Corybasは、Agenorの子Cilixの娘Thebeと結婚して、娘Ideが生まれた。Minosには息子Lyctiusが生まれた。LyctiusとIdeは後に結婚した。[47]
LyctiusとIdeとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の先祖とする同族であった。
Minosの後裔は、Dardanusの町の近くのAstyraの金鉱採掘によって富を蓄え、Crete島へ帰還した。彼らは多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島を支配してAegean Seaの制海権を手に入れた。[48]
その後、Minos一族はCrete島へ帰還したが、2人目のMinosの時代であった。
Platoは『Gorgias』の中で、MinosとRhadamanthysはAsia生まれだと記している。[49]
また、MinosとPerseisの娘Pasiphaeとの結婚も、PasiphaeがColchis地方からCrete島へ嫁いだと考えるよりも、Troas地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[50]

2.4 Egyptからの入植 (Belus)
BC1390年の津波は、Achaeusの子ArchanderがArgosの町から移住して、EgyptのNileDeltaに創建したArchandropolisの町にも及んだ。[51]
Archanderの子Belusは移民団を率いて、EgyptからArgosの町に来航した。Belusは、新天地を探す旅に出ようとしていたCorinthの町のSisyphusの子Aeetesの移民団と旅を共にすることになった。
AeetesとBelusは、Deucalionの子Hellenを共通の先祖とする同族であった。[52]
Aeolusの子Sisyphusが創建したばかりのCorinthの町、Athensの町、それに、Eleusisの町も津波の被害に遭っていた。
Athensの町のBoreasと、Eleusisの町のCeryxもAeetesの移民団と旅を共にすることになった。
移民団はAegean Seaを北上し、Ceryxは、Thasos島対岸のThracia地方に入植した。
Boreasは、Samothrace島対岸のHebrus川(現在のMaritsa川)を遡上し、支流のRheginia川(現在のErgene川)をさらに遡った土地に入植した。
AeetesとBelusは、Hellespontos海峡を抜けて、Propontisに入った。Egyptからの移民団を率いるBelusはCyzicus手前のAesepus川河口近くに適地を見つけて入植した。Aeetesは、Bosporos海峡を抜けて、黒海に入って岸を右に見ながら船を進め、東の端まで進んで、Phasis川の河口に入植した。[53]
Belusの入植地は、Ethiopiaと呼ばれるようになった。

2.5 Creteからの入植 (Clymenus)
BC1345年、Crete島のCydoniaの町からCardysの子ClymenusがPeloponnesus半島のOlympiaの町へ移住した。BC1344年、Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionに追放された。[54]
Clymenusは、Idaean Heraclesの孫であった。[55]
Clymenusの父Cardysは、Cydoniaの町に住んでいたが、その町の創建者Cydonとの世代差は、1世代しかないため、Cardysは、Cydonの息子と推定される。
したがって、Clymenusの母がIdaean Heraclesの娘であった。
Cardysは、兄弟のMinosと共に、Troas地方に住んでいたことがあった。
Cardysの息子Clymenusは、Troas地方で生まれ、そこで育ったとも思われる。
何らかの理由で、Cydoniaの町を去って、Olympiaの町に移住したClymenusは、その町を追われて、生まれ故郷のTroas地方へ行ったと推定される。
このClymenusは、Agamemnonの曾祖父Pelopsの父Tantalusの父であると推定される。その推定の根拠は、3つある。
1) Clymenusは、Crete島のCydonia出身であり、そのすぐ東のApteraの町は、Cabeirus山があるBerecynthus地方にあった。Tantalusの支配地は、Berecyntesの土地と呼ばれていた。[56]
2) Greeceに来航したTantalusの子Pelopsは、Clymenusが追われたOlympiaを領していたPisaの町を目的地にしていた。[57]
3) Pelopsは、Pisaの町のOenomausとの戦いを前に、Clymenusが造営したthe temple of Athena surnamed Cydonianに供犠した。[58]

2.6 Argosからの入植 (Perseus)
Argos王Acrisiusの娘Danaeの子Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れた。[59]
Perseusは、Seriphus島からTroas地方へ渡り、Belusの子Cepheusの娘Andromedaと結婚した。[60]
Belusの父Archanderには、Danausの娘Scaeaとの間に、Metanastesという息子もいた。[61]
Metanastesには、Danaeと結婚したPilumnusという息子もいた。[62]
つまり、PerseusとAndromedaは、又従兄妹同士であった。

3 Troyの勃興
3.1 Erichthoniusの時代 (BC1385?-60?)
Dardanusには、息子Erichthoniusが生まれた。彼の名に因んでthe Erechtheian plainと呼ばれる広大な牧草地で、3,000頭の牝馬が飼育されていた。[63]
BC1381年、Erichthoniusの姉妹Idaeaは、Cyzicusの町近くのEchiopiansの地に住むAchaeusの子Archanderの子Belusの子Phineusと結婚した。[64]
その後、Phineusは、黒海南西岸に移住して、Salmydessusの町を創建した。[65]
Erichthoniusの時代、Troy王家とEchiopiansは良好な関係であった。

3.2 Trosの時代 (BC1360?-30?)
Erichthoniusには、息子Trosが生まれた。Trosは、周辺部族をまとめて、自身の名に因んだTroyの町を建設した。[66]
Trosには3人の息子たち、Ilus (or Ilos)、Ganymedes (or Ganymede)、Assaracus (or Asarakos)、それに、娘Cleomestra (or Cleopatra)がいた。

3.2.1 Tantalusとの姻戚関係
Trosには、Eurythemisteという娘がいて、Tantalusと結婚して、Pelopsが生まれた。
BC2世紀の弁論家Dio Chrysostomは、Atreusの後裔は、Pelopsを通じて、Troy王家と繋がりがあったと述べている。[67]
Pelopsの父Tantalusは、Troy王家に関係がないので、Pelopsの母がTroy王家に関係する女性であったと思われる。
また、BC5世紀の歴史家Pherecydes of Athensは、Pelopsの母をXanthusの娘Eurythemisteと伝えている。[68]
Xanthusは、Troas地方を流れるScamanderの河神であり、Tantalusの1つ前の世代のTrosのことで、EurythemisteはTrosの娘と推定される。[69]
TantalusとEurythemisteの結婚は、BC1341年と推定される。
Trosの時代、Ida山周辺に住んでいたTantalusとTroy王家は良好な関係であった。

3.2.2 Achaeansの進出
BC1355年、Idaeaの息子たち、Thynus とPaphlagon (or Paphlagonus)は、Phrygia地方やPaphlagonia地方へ移住して、それぞれ、ThyniansやPaphlagoniansの始祖となった。[70]
Idaeaの息子たち、BithynusとMariandynusはBithynia地方へ移住して、それぞれ、BithyniansやMariandyniansの始祖となった。[71]
彼らは、Archanderの後裔であり、Thessaly地方から、Argosの町、Egyptを経由してAsia Minorへ移住したAchaeansであった。

3.3 Ilusの時代 (BC1330?-1297)
Trosの跡を継いだのは、彼の息子Ilusであった。

3.3.1 Wilusaの王位簒奪
Hittite文書によって、つぎのことが判明している。
1) Dardanusの町の近くのIliumには、Hittiteの属国Wilusaがあった。
2) Wilusaは、Hittite王Hattusili I (BC1650-20)の時代から存在していた。[72]
3) Wilusa王Kukkunniは、Suppiluliuma I (BC1344-22)と同時代であった。[73]
以上のことから、Trosの子Ilusは、Wilusa王の娘を妻に迎え、Wilusa王が死んだとき、正当な王位継承者から王位を簒奪したと推定される。
武力によるWilusaの征服ではなく、Wilusa王の娘婿として王位継承をHittiteは認めたと思われる。
Kukkunniには、Ilus、あるいは、Ilusの妻の父が該当するが、後述するAlaksanduの推定から、KukkunniはIlusと思われる。

3.3.2 東方への拡大
Wilusa王を継承して、Hittiteの後ろ盾を得たIlusは、Berecyntesの地に住んでいたTantalusを追放した。Tantalusが去った後の土地は、Ilusの妻Eurydiceの父Adrastusに与えられ、以後、その地方はAdrasteiaと呼ばれるようになった。[74]
その後、Ilusは、さらに東方のMysia地方に進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[75]
しかし、Mysia地方は、Troy領とはならず属国となって、Trojan War時、援軍として参戦している。[76]
Byzosは、Thessaly地方を追われて、Propontis海南東のAscania湖付近に住み着いたSilenusの子Dolionの後裔であった。Bebrycesは、Dolionを名祖とするDolionesの支族と思われる。[77]

3.4 Laomedonの時代 (BC1297-1236)
3.4.1 Hittite文書中の記述
Hittite文書の中に、Hittite王Mursili II(BC1321-1295)、および、Muwatalli II(BC1295-72)と同盟を締結したWilusa王Alaksanduが記されている。[78]
また、Muwatalli IIとAlaksanduが締結したAlaksandu条約にはつぎのような文章がある。「あなた(Alaksandu)の父親(Kukkunni)にした誓いのために、私(Muwatalli II)はあなたの助けを求める声に応え、あなたの代わりにあなたの敵たちを殺した。」[79]

3.4.2 王位継承争い
Hittite文書中のAlaksanduのギリシア名は、Ilusの子Laomedonと推定される。
BC1296年、Ilusの跡を、彼の息子Laomedonが王位を継承した。[80]
Laomedonは、即位時にMursili II(BC1321-1295)と条約を締結した。[81]
その後、Laomedonは競争者によって、Iliumの町を追放された。[82]
Laomedonを追放したのは、いずれも史料には、父の名前が残っていない、Phaenodamas(or Hippotes)とAesyetesであり、Ilusの息子たちであったと思われる。
Laomedonは、Hittite軍やHittiteの属国の軍を味方にして、Iliumの町を攻めた。
Laomedonを王位に復帰させたのは、Muwatalli IIであり、Iliumの町への攻撃は、BC1295年の出来事と推定される。[83]
この頃、Hittiteは、Lydia地方を中心としたArzawaを征服して属国にして、Asia Minorへも強大な影響力を持っていた。[84]
この戦いで、Aesyetesは戦死して、Iliumの町の高台に葬られた。[85]
Phaenodamasは、彼の息子たちと共に殺された。[86]
残されたPhaenodamasの3人の娘たちは、Sicily島へ逃れた。[87]

3.4.3 Laomedonの娘Hesione
3.4.3.1 Hesioneの嫁ぎ先
Hesioneは、Heraclesの第9番目の功業に登場する。Hesioneは、怪物への人身御供になるが、Heraclesに救われたというが、作り話である。[88]
史実としてのHesioneを知るための手がかりが4つある。
Priamの姉妹にTrambelusという息子がいた。[89]
Achillesが、Telamonの子Trambelusを殺した。[90]
Achillesが殺したTrambelusは、Miletusの町のLelegesの王であった。[91]
HeraclesのTroy遠征の時、HesioneはTelamonに与えられた。[92]
以上の手がかりから、Hesioneは、Miletusの町の王に嫁いだと推定される。

3.4.3.2 Hesioneの結婚の時期
Hittite文書によると、Hittite王Mursili IIIは、叔父(後のHattusili III)を攻撃して、敗れた。[93]
BC1265年、Wilusa(Troy)とAhhiyawa(Achaeans)はMursili IIIを支援した。
戦いの後、それまで、Hittiteに従属していたWilusaは独立した。[94]
独立したWilusaのLaomedonは、Ahhiyawaと同盟関係にあるMillawanda(Miletus)と婚姻関係を結ぼうとして、彼の娘HesioneをMiletusの町へ嫁がせた。[95]
Hesioneの結婚の時期は、Hattusili III(BC1265-35)の即位の数年後で、Laomedonにとって、Hittiteへの脅威が増して来た頃、BC1260年頃と推定される。

3.4.3.3 Hesioneの夫
Hesioneが嫁いだ相手は、Miletusの町のLelegesの王であった。[96]
Miletusの町の創建者は、Cleochusの娘Ariaの子Miletusであり、Hittite文書の中では、Atpaと呼ばれていた。[97]
Ariaの子Miletusには、Caria地方へ移住して、Caunusの町を創建したCaunosという息子がいたが、父からMiletusの町を継承した息子の名前は不明である。[98]
Hesioneの夫は、父からMiletusの町を継承したが、Hittite軍に攻められて敗れた。Miletusの町は、Hittiteの属国となり、Hesioneの夫は、許されてMiletusの町を任せられた。[99]

3.4.3.4 HesioneとTelamonの結婚伝承
多くの伝承が、HesioneとAeacusの子Telamonとの結婚を伝えている。[100]
この伝承は、Telamonの子TeucerをTroy王家の後継者にするための作り話と思われる。
Teucerは、Cyprus島へ移住して、Salamisの町を創建した。その時、町の住人は、Trojansであった。[101]
Teucerの後裔であるSalamisの町の支配者は、住民を従わせるため、自分たちがTroy王家の後裔であるという作り話を広めたと推定される。[102]

3.4.4 Priamの母
Laomedonは、Amazonsに攻められた妻Leucippe(or Placia)の祖国に援軍として駆け付けた。[103]
Leucippeの父Otreusは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Propontis海南東のAscania湖付近に住み着いたSilenusの子Dolionの後裔であった。Argonautsの遠征隊と戦って死んだCyzicusの父AeneusはOtreusの息子と思われる。[104]
Otreusは、Cyzicusの町周辺でAesepus川からRhyndacus川とDascylitis湖にかけて居住していたDolionesに属していた。Aeneusの子CyzicusもDolionianであった。[105]
Otreusは、Ascania湖付近から、Cyzicusの町の東方のPropontis海に面した土地に移住した。Otreusは、彼の娘Placiaの名前に因んだ町を創建した。Placiaは、Iliumの町のLaomedonに嫁ぎ、Priamの母となった。[106]

3.4.5 Ionia海への大遠征伝承
Herodotusは、TeucriansとMysiansは、Troas地方から遥か西方のIonia海への大遠征をしたと伝えている。[107]
この遠征は、Laomedonの時代と推定されるが、Laomedonは参加しておらず、単なるMysiansの移住であったと思われる。
この時、Mysiansの指導者は、Mygdonであった。[108]
この遠征には、Ida山に住んでいたIdaean Dactylsも参加していた。彼らの中には、Macedonia北部のPaeonia地方にMysiansと共に定住した人々もいた。[109]
BC7世紀に、Mygdonの後裔であるGordiasの子Midasは、Mt. Bermius近くから、かつてMygdonが住んでいたthe Mysia of Olympeneへ移住し、Celaenaeの町に定住した。[110]
Mygdonに従ったMysiansは、Mygdonesと呼ばれていた。[111]
この大遠征のときにPaeonia地方へ移住した人々の後裔は、Trojan Warの時に、Troyへ援軍を派遣した。[112]
Paeonia地方の移住者の子孫は、Persia大王DariusのGreece遠征の時にも住み続けていたが、その一部は、PersiansによってAsiaへ戻された。[113]

3.5 Priamの時代 (BC1236-1186)
3.5.1 王位継承争い
3.5.1.1 Walmuの亡命
Laomedonが死ぬと王位継承争いが起きた。王位継承争いに敗れたWilusaのWalmuがMilawata(Miletus)の町に逃げ込んだ。Hittite王は属国のMilawata王にWalmuをHittiteに引き渡し、Wilusaの王に据えることができるように要請した。[114]
このWalmuは、Laomedonの次のTroy王として登場するLaomedonの子Priam (or Podarces)と推定される。[115]
Priamは、Miletusの町へ嫁いだ彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusの町へ亡命したと思われる。

3.5.1.2 Walmuを追放した者たち
Walmuを追放したのは、Ilusが死んだ時に、Laomedonと王位を争った者たちの息子や孫であったと思われる。
つまり、Phaenodamasの孫Aegestus(or Acestes)やAesyetesの子Antenorである。
しかし、AegestusはSicily島に、Antenorは父の死後、Lesbos島に住んでいた。[116]
したがって、Iliumの町の内部にもWalmu追放に関与した者がいて、彼が首謀者と推定される。それは、後に、Aegestusと一緒に行動していることから、Aeneasの父Anchisesであったと思われる。[117]
Anchisesの父は、Trosの子Assaracus(or Asarakos)の子Capysであり、母は、Ilusの娘Themisteであった。
Anchisesは、AegestusやAntenorと協力して、Priamを追放して、一時、Iliumの町を掌握した。しかし、彼らは、Hittite軍の後ろ盾を得たPriamに攻撃されて、Iliumの町を放棄した。[118]

3.5.1.3 Anchisesらの移住
Iliumの町を去ったAnchisesは、Aegestusと共にSicily島へ移住した。[119]
Aesyetesの子Antenorは、Adriatic Seaの奥の地へ移住した。[120]
したがって、Anchisesの子Aeneasに関するSicily島より前の伝承は、すべて作り話であった。AeneasはSicily島で生まれた。Aeneasは、Anchisesの晩年に生まれた息子であった。[121]
AegestusやElymus (or Elyuius)は、Sicily島の北西部にAegesta (or Egesta)の町(現在のSegesta)とElyma (or Eryx)の町(現在のErice)を創建した。[122]
Elymus は、Anchisesの息子であった。[123]

3.5.2 Priamの妻Hecuba
Priamには、複数の女性たちとの間に多くの子供たちがいたが、正妻は、Hectorの母Hecuba (or Hecabe)であった。[124]
Hecuba は、Sangarius川の流れるPhrygia地方のEioneusの子Cisseus (or Dymas)の娘であった。[125]
Eioneusは、黒海の南西岸にSalmydessusの町を創建した、Belusの子Phineusの子Thynusの孫であった。Thynusは、Salmydessusの町から東へ移住し、Bosporus海峡を渡って、Ascania湖近くのPhrygia地方に定住した。[126]
Thynusの母は、DardanusとBateiaの娘Idaeaであり、Dardanusは、PriamとHecuba の共通の先祖であった。[127]
この結婚によって、Troyの支配は、黒海沿岸地方にまで及んだ。

4 Pelopsの来航
4.1 Tantalus
TantalusとTrosの娘Eurythemisteとの間に息子Pelopsが生まれた。[128]
Trosの時代、TantalusとTroy王家は良好な関係であった。
しかし、Trosの子IlusがHittiteの属国Wilusaの王位を継承した後で、Ilusは、周辺に領土を拡張した。[129]
BC1325年、TantalusはIlusに追われてPhrygia地方のSangarius川の源流付近にあるPessinusの町へ逃れた。[130]
IlusはPessinusの町に攻め込んで、TantalusはLydia地方のSipylus山近くへ移住した。[131]
Sipylus山の北側のMagnesiaの町の近くに有名なSipylusの町があり、古くはTantalisと呼ばれていた。[132]
その後、Tantalusは、Sipylus山およびTmolus山一帯の鉱床からの採掘で財をなした。[133]
Tmolus山を源流とするPactolus川は、BC6世紀のCroesusの時代まで大量の砂金を流していた。[134]

4.2 Tantalusの娘Niobe
Tantalusには、娘Niobeがいた。[135]
Niobeは、Boeotia地方のThebesの町のAmphionの妻であった。[136]
Niobeの結婚が、PelopsのGreeceに来る前と、来た後、2通りの伝承がある。

1) PelopsがGreeceに来た後とする伝承
PelopsがGreeceに来た後で、姉妹NiobeをAmphionに嫁がせた。その後、Boeotia地方から人を連れて来て、Laconia地方にThalamiの町を創建した。[137]
2) PelopsがGreeceに来る前とする伝承
AmphionとNiobeが子供たちと共に死に、娘Chlorisが一人だけ生き残った。ChlorisはPelopsとHippodamiaの婚礼の宴で行われた徒競走に参加した。[138]

系図を作成すると、AmphionはPelopsより1世代前の人物である。また、PelopsはGreeceに来た時、既に息子Chrysippusがいた。したがって、Pelopsより後にNiobeがAmphionと結婚したとは考えられず、PelopsがGreeceに来る前に結婚していたと考えた方が妥当である。
しかし、Niobeの結婚をPelopsがGreeceに来る前とした場合は、Greeceから遠く離れたAsiaに住む者同士の結婚に疑念が生ずる。
Niobeの祖父TantalusはIliumの町のIlusに追われて、Cybele信仰の中心地であるPessinusの町へ逃れた。Pessinusの町はCybele信仰とは深い関係があった。[139]
また、Pelopsと一緒にGreeceに来たPhrygiansがthe Mountain Mother Cybeleを讃えていた。[140]
Cybele信仰と同じ起源を持つthe sanctuary of the CabeiriがThebesの町のNeistan gateから西へ約5kmの所にあった。[141]
その神域から南西へ7kmほどの所にあるEutresisの町にAmphionが住んでいた。[142]
Amphionは、呪文で石を動かしたと伝えられるほど、宗教的な雰囲気を漂わせており、Cabeiri信仰が2人を結び付けたと推定される。[143]

4.3 Tantalusの子Pelops
Pelopsは、Iliumの町のIlusに攻められて、Greeceへの亡命を余儀なくされた。[144]
PelopsのGreece最初の上陸地は、つぎのことからLaconia地方であったと思われる。

1) Eurotas川の河口近くのAcriaeの町に、Peloponnesus半島内で最も古い神々の母の神像があった。[145]
2) Acriaeの町の創建者Acriasは、Pisaの町のOenomausに殺された12人の中で、唯一、当時実在していたと思われる人物である。彼は、PelopsのOenomaus攻めに参加して戦死したと思われる。[146]
3) Pelopsと共にGreeceに来たPhrygiansの墓がPeloponnesus半島のいたる所にあったが、特にSpartaの町に大きなものがあった。[147]
Spartaの町のCynortasの子Oebalusの最初の妻Batiaは、Pelopsと一緒に渡来したPhrygiansの娘であったと推定される。彼女と共に多くのPhrygiansがSpartaの町に住み着いた。[148]
4) Pelopsは、Oenomausとの戦いの前に、Pisaの町から5km以上内陸にあるPhrixaで供犠した。Pelopsは、Eurotas川を遡り、Alpheius川を下って、山側からPisaの町に至ったと推定される。[149]

Pelopsは、祖父Clymenusが追われたOlympiaを奪還するために、Amyclaeの町やSpartaの町、Arcadia地方で兵を増やした。当時、Olympiaを支配していたPisaの町のOenomausと戦って、彼を討ち取り、彼の娘Hippodamiaを捕虜とし、自らの妻とした。[150]
伝承では、Oenomausは娘Hippodamiaの求婚者と、Pisaの町からCorinth地峡まで戦車競走をして、求婚者が逃げ切れなければ、求婚者は殺された。Pelopsがその競走に挑戦してHippodamiaを獲得したことになっている。[151]
しかし、戦車競走の距離は240km以上あり、持久力のない馬が走破可能な距離ではない。また、この競争でOenomausに殺された者たちも素性の分からない者が多い。素性が判明した者でも、Porthaonの子Alcathusのように、当時は、まだ生まれていない者や、Athamasの子Leuconの子Erythrasのように、すでに老齢の者もいた。
Pelopsよりだいぶ後の時代に、この逸話が創作されたと推定される。[152]
実際は、PelopsはArcadia側から西へ進撃し、OenomausはPisaの町から西へ逃れた。
Olympiaの神域からCladeus川を渡ったAlpheius川の近くで戦いとなり、Pelopsが槍でOenomausを殺した。その場所に、Oenomausの墓があった。[153]
Pelopsは、Asiaから莫大な富を持って、貧しい人々の暮らすGreeceにやってきて、富によって勢力を拡大した。当時のPeloponnesusの有力氏族であったDanausの子孫Perseusの息子たちに自分の娘たちを嫁がせて、各地に支配権を確立した。[154]
Pelopsの死についての詳細は明らかではないが、埋葬場所はPisaの町であった。[155]
Pisaの町にPelopsの神苑があり、他の英雄たちのものに比べて、別格であった。[156]
Trojan War時、Pelopsの遺骨を迎えれば、Troyが陥落するであろうという神託に従い、Pelopsの遺骨から肩甲骨がTroyに運ばれた。Troyから帰還する際にEuboea島附近で船が難破し、遺骨は海底に没した。その後、遺骨が漁師の網にかかり、Pelopsのものであるとの神託があった。[157]
BC480年、Persia大王Dariusの子Xerxesは、自らの大帝国の一地方の太守に過ぎないPelopsがGreeceに覇権を打ち立てたことに刺激されて、Greece遠征を企てた。[158]
また、XerxesがGreeceの神殿を焼き払ったのは、Ionia地方の反乱で、Sardisの町にあったCybele女神の神殿が焼失したことへの報復であった。[159]

4.4 Pelopsの妻Hippodamia
Hippodamiaは、Pelopsの長子Chrysippusの死に関与したとしてPelopsの怒りを買い、Pisaの町から追放され、Argolis地方のMideaの町へ亡命した。[160]
Mideaの町には、Perseusの子Electryonに嫁いだ、彼女の娘Eurydice(or Lysidice)がいた。[161]
HippodamiaはMideaの町で死去し、後にEleansは神託に従って、Hippodamiaの遺骨をOlympiaの町まで運んだ。[162]

4.5 Hittite文書の中のTantalusとPelops
Hittite文書に登場するUhha-Zitiと彼の2人の息子たち、Piyama-KuruntaとTapalazunauliは、Tantalusと彼の2人の息子たち、BroteasとPelopsのことであると推定される。
Hittite文書に記されたUhha-Zitiと息子たちの行動から、Lydia地方へ逃れた後のTantalus一家の消息はつぎのようになる。

4.5.1 Arzawaの支配権の奪取
Tantalusが移住した地方は、Lydia地方を中心とするArzawaの支配地域であった。
当時、Arzawa王は、Tarhuntaraduの跡を継いだ彼の息子Maskhuiluwaであった。[163]
Tantalusは、Sipylus山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を蓄積した。[164]
TantalusのLydia地方への移住には、Ida山周辺で採掘に従事していたIdaean Dactylsも参加していたと推定される。
Tantalusは財力と、ArgosのInachusを共通の先祖とするManesの後裔を指導者とするMaeoniansの支持を得て、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。

4.5.2 Hittiteとの戦い
Arzawaから追放されたMaskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[165]
Suppiluliuma Iと、彼の跡を継いだArnuwanda IIは疫病で死去して、Hittiteは、すぐには、Arzawaに対する軍事行動を起こすことができなかった。
Arnuwanda IIの跡を継いだMursili IIは、治世3年目にArzawaと戦うことになった。[166]
戦いの端緒は、Attarimma、Huwarsanassa、Surudaの人々がArzawaに逃げ込み、Mursili IIがTantalusに彼らの引き渡しを要求したことであった。[167]
Tantalusは彼らの引き渡しを拒否したため、Mursili IIは、Tantalusが拠点としていたApasas(Ephesus)へ向けて進軍した。Tantalusは、BroteasにHittite軍を迎撃させるが、Broteasは敗れた。[168]
その後、Hittite軍がApasasに着く前にTantalusは病気になって、近くの島へ逃れた。[169]
BC1318年、Tantalusは病気が悪化して死んだ。[170]
Tantalusの子Pelopsは、島から本土へ渡って、Mursili IIの軍と戦ったが、敗れて包囲された。Pelopsは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[171]
Broteasは、島から本土へ渡って、Mursili IIと交渉するが、Hattusaへ送られた。[172]

4.5.3 PelopsのGreece移住
その後、PelopsはAsia MinorからPeloponnesusへ渡った。その時、Pelopsは彼の息子Chrysippusを連れていた。[173]

Pelopsは、Mursili IIとの戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほどAsia Minorにいたが、その望みを断念して、Peloponnesusへ渡ったと推定される。

おわり