1 はじめに
BC1430年、Egyptに住むGreece系移民が、Egyptから各地へ移住した。
1.1 Manethoの記述
AD1世紀の歴史家Josephusは、BC3世紀の歴史家Manethoの著作から引用して、次のように伝えている。
「Misphragmuthosis王の治世中、Egypt各地から追放された人々は、城壁で囲まれ、24万人の兵士が守るAuarisという場所に包囲された。籠城していた人々は、Egyptから出て行くという条件で解放された。Auarisから解放された人々は、家族を伴って、Egyptを去り、砂漠を越えてSyriaへ逃れた。」[1]
AD3世紀の歴史家Sextus Julius Africanusは、Manethoが記したEgypt第18王朝の歴代のファラオの名前を伝えている。
それによれば、Misphragmuthosisは、第6代目のファラオであった。
つまり、Misphragmuthosisは、Egypt第18王朝の第6代ファラオThutmose IIIの別名と推定される。
Thutmose IIIは、古代Egyptを最大版図にした征服王であり、BC1425年に死亡した。[2]
1.2 推定
BC1430年当時、GreeceからEgyptへ移住した人々は、Sais、Thebes、Memphis、Chemmisの町に住んでいた。
Belusの子Danausは、Chemmisの町に住んでいた。[3]
Danausの部族と推定されるDanaya (Tanaju)は、Thutmose IIIに朝貢していた。[3-1]
以上のことから、次のように推定される。
NileDeltaに住んでいた人々が、Thutmose IIIに対して反乱を起こしたが、彼らの居住地から追放されて、Auaris (or Avaris, Athyria)に籠城した。
Auarisには、GreeceからEgyptへ移住した人々だけではなく、ユダヤ人も含まれていた。
ユダヤ人は、陸路で砂漠を越えて、Syria地方へ移住した。
GreeceからEgyptへ移住した人々は、DanausやAgenorに率いられて、海路で、Peloponnesus半島やSyria地方へ移住した。
Manethoの記述が正確であれば、このとき、Egyptから各地へ移住した人々は、数十万人ということになる。
2 Danausの移住
2.1 EgyptからArgosへの移住
Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの子Danausは、NileDeltaのChemmisの町に住んでいた。[4]
BC1430年、Danausは、Egypt出港後、Rhodes島のLindusの町に上陸して住民の歓迎を受けた。[5]
Rhodes島の住民は、150年前にArgosの町を治めるPhorbasの子TriopasがRhodes島へ入植させた人々の子孫であった。[6]
Danausは、Rhodes島で娘3人を亡くし、Athena神殿を建立した。[7]
約850年後、Greeceの7賢人の一人に数えられる、Rhodes島のLindusの町のCleobulusは、古くなっていたAthena神殿を新築した。[8]
Cleobulusは、Heraclesの後裔と伝えられている。[9]
Argosの町からRhodes島へ移住して、Lindus, Ialysos, Kameirosを建設した、Temenosの子Ceisusの子Althaemenesの後裔と思われる。[10]
Cleobulusは、DanausがHeraclesの先祖であり、したがって、Danausが自分の先祖であることを知っていたと思われる。[11]
Danausの移民団はRhodes島を出航し、Peloponnesus半島のArgolic Gulfに入った。
移民団はArgolis地方とLaconia地方の境のThyrea地方のPyramia付近に上陸して、Danausの叔父Lelexは、そこから内陸へ進んだ。[12]
Danausは、そこから航海を続けてLernaの近くのApobathmiに上陸して、Argosの町へ向かった。[13]
当時、Argosの町は、Sthenelasの子Gelanorが治めていた。[14]
Danausは、Gelanorに共住を申し込んだが拒否された。Argosの町に内乱が起こって、Gelanorは町を追われ、Danausは共住者として受け入れられた。[15]
Gelanorは、共通の先祖を持つSicyonの町に亡命した。[16]
2.2 Danausの同行者の移住
Danausの移民団にはDanausの娘たちの他に、叔父のLelex、弟と思われるOrus、双子の兄弟Aegyptusと彼の息子たちが含まれていた。
2.2.1 Lelex
Libyaの子Lelexは、Laconia地方のEurotas川中流域に、彼の息子Mylesを入植させた後、自らはさらに土地を求めて、Megara地方へ移住した。そこは、彼より12世代前にPhoroneusの子CarがArgosの町から移住した土地であった。[17]
その後、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Greece北西部のEchinades諸島へ移住した。
Teleboasの父もDanausと共に渡来した者で、Lacedaemonの町の近くにTherapneの町を創建した。[18]
2.2.2 Orus
Danausの弟と思われるOrusは、Argolis地方の沿海地方に後にTroezenの町となるOraeaの町を創建した。[19]
2.2.3 Aegyptus
Danausの双子の兄弟Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部に居を定めた。Aroe(後のPatrae)の町にBelusの子Aegyptusの墓があった。[20]
2.2.4 Aegyptusの息子たち
2.2.4.1 Lynceus
Aegyptusの子Lynceusは、Danausの娘Hypermnestraと結婚して、Danausの跡を継いで、Argosの町を治めた。[21]
2.2.4.2 Eumelus
Aegyptusの子Eumelusは、Danausの娘Phylodameiaと結婚して、Aroeの町に住んだ。[22]
2.2.4.3 Antimachus
Antimachusは、Danausの娘Mideaと結婚して、息子Amphianaxが生まれた。[23]
2.2.5 ArgosとSicyonの戦い
BC1408年、Danausの跡を継いだLynceusが死に、まだ幼い彼の息子AbasがLynceusの跡を継いだ。Sicyonの町に亡命していたGelanorの子LamedonがArgosの町を攻め、AbasをArgosの町から追放した。[24]
Abasは、Phocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[25]
BC1407年、Danausの娘たちの夫たち、ArchanderとArchitelesは、LamedonをArgosの町から追放した。Lamedonは、Sicyonの町に逃れ、Argosの町とSicyonの町の戦いになり、Argosの町が勝利した。[26]
2.2.6 ArgosからEgyptへの移住
Abasは、Abaeの町からArgosの町へ帰還し、Achaeusの息子たちはArgosの町へ移住して、Abasの後見人になった。[27]
Abasが成年に達すると、Achaeusの子ArchanderはEgyptへ移住し、Nile DeltaにArchandropolisの町を創建した。[28]
Archandropolisの町は、Archanderの妻であるDanausの娘Scaeaが幼少期を過ごしたChemmisの町の近くであった。[29]
2.3 Danausの名前
Pausaniasは彼の著書の中の5か所で、Lelexの子Polycaonと結婚したMesseneの父は、Triopasであったと記している。[30]
Triopasは、名声と権力で当時のGreeksの指導者であり、Argosの町に住んでいた。[31]
PolycaonがMesseneの結婚した頃、Argosの町を治めていたのはDanausであり、Triopasは、Danausの別名、あるいは、本名であったと思われる。
Thutmose IIIの年代記に、Greeksと推定されるDanaya (Tanaju)の土地から貢納があったと記されている。[32]
Danayaは、Danausの父Belusの種族名で、Danausは、その種族名から人の名前のように作られた造語かもしれない。
あるいは、Danausは、Belusの父であり、Belusの母Libyaの夫であり、孫が祖父の名前で呼ばれていたのかもしれない。
Danausの双子の兄弟Aegyptusの名前も、Egyptを人の名前のように作った造語のように思われる。
3 Agenorの子Phoenixの移住
Agenorの子Phoenixは、EgyptのThebesの町からPhoenicia地方のTyreの町へ移住した。[33]
Phoenixが住んでいたThebesの町は、上Egyptではなく、Nile Deltaにあったと推定される。[34]
Phoenixは、移住より前に、Oeneusの娘Perimedeを妻に迎えていた。[35]
Oeneusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの曾孫で、Tyreの町に住んでいたと推定される。[36]
4 Agenorの移住
Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Agenorは、Egyptから船出し、陸地を右手に見ながら航行して、Phoenicia地方のSidonの町に移住した。[37]
Cadmus率いる移民団の中に彼の母Telephassaがいたことから、AgenorはSidonの町で死去したと思われる。[38]
5 Macerisの移住
5.1 Agenorの息子と思われるMaceris
Macerisは、Agenorと共にEgyptからPhoenicia地方へ移住した。[39]
当時、Tyreの町には、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousが住んでいた。[40]
後に、Astynousの子Sandocusは、Cilicia TracheiaにCelenderisの町を創建した。[41]
Macerisは、Tyreの町でAstynousの一族から航海術を学んだと推定される。[42]
Macerisは、その後、EgyptのHeliopolisの町でActis (or Auges、Atlas)から天体の知識を学んだ。[43]
Rhodosの子Actisは、Rhodes島のHeliadaeの一人で、EgyptのHeliopolisの町の創建者であった。[44]
天体の知識を航海術に取り入れたMacerisは、海洋民族Phoeniciansにとっては、神のような存在であった。Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれた。[45]
Tyreの町の他に、Iberia半島のTartessusの町、EgyptのCanopusの町、Thasos島にもHeraclesの神域や神殿があった。[46]
2世紀の歴史家Arrianは、Tartessusの町で信仰されているHeraclesは、Tyreの町のHeraclesと同じだと見なしていた。[47]
Agenorの子PhoenixはTyreの町に住み、Agenorの子Cillixの子ThasusはThasos島に住んでいた。[48]
Macerisは、Iberia半島の南部にHeracleia(後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建して、その地で死んだ。[49]
Heracleiaの町の近くには、Pillars of Herculesの北の柱(Calpe山)があった。[50]
5.2 Macerisの子Sardus
Macerisの子Sardusは、EgyptのCanopusの町からItaly半島西側のIchnussa(後のSardinia)へ移住した。[51]
Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、その付近がSardusの移住先であったと推定される。[52]
5.3 Macerisの後裔Geryones
Amphitryonの子Heraclesの第10の功業に登場するErytheiaの牛飼いGeryones(or Geryon)は、Macerisの後裔であったと推定される。
Geryonesは、Iberia半島のHeracleiaの町の北西のBaetis(古くはTartessus、現在のGuadalquivir)川を中心としたTartessus地方に住んでいた。[53]
Baetis川の河口付近のGadeira(現在のCadiz)の町および向かい合う島は、まとめてErytheiaと呼ばれ、Geryonesはそこで牛を飼っていた。[54]
5.4 Geryonesの孫Norax
Geryonesの娘Erytheiaの子Noraxは、Sardinia島へ移住して、島の南端に最古の町Nora(現在のPula岬付近)を創建した。[55]
NoraxがSardinia島へ入植したのは、Amphitryonの子Iphiclesの子Iolausの入植よりも前であった。[56]
Noraxの入植地は、Macerisの子Sardusの入植地のすぐ近くであった。[57]
6 Agenorの子Cilixの移住
BC1425年、Agenorの子Cilixは、Sidonの町からTroas地方のIda山の南側に移住して、Thebeの町を創建した。[58]
Cilixと共に移住した人々はCiliciansと呼ばれ、彼らの住む地方はCiliciaと呼ばれた。[59]
Cilixの娘Thebeは、Ida山の近くに住んでいたCorybasに嫁いだ。[60]
Cilixの子Thasusは、Thebeの町からThasus島へ移住した。[61]
7 Agenorの子Cadmusの移住
7.1 SidonからRhodesへ
BC1425年、Agenorの子Cadmusは、Phoenicia地方から移住希望者を募り、新天地を求めてSidonの町を出発した。Cadmusの一行には、PhoeniciansやArabiansも含まれていた。[62]
CadmusはAegean Seaを左回りに航行し、Rhodes島北東部のIalysusの町に上陸した後、島の南東部Lindusの町に再上陸した。その町には、Danausが創建したAthena神殿があり、CadmusはPhoenicia文字の刻まれた青銅の大釜を奉納した。[63]
7.2 Cadmusの協力者
Tyreの町のPhaethonの子Astynousは、Cadmusの移民団に船を供出し、Cadmusの移民団をThracia地方に送り届けてからTyreの町に戻った。[64]
これは、Megassaresの娘PharnaceとAstynousの子Sandocusとの結婚からの推定である。[65]
Megassaresの妻は、Arcadia地方のOrchomenusの町の創建者Orchomenusの娘Alcyoneであった。[66]
Megassaresは、Troy王家の始祖Dardanusと共に、Arcadia地方からSamothrace島に移住して住んでいた。[67]
Astynousに同行していた彼の息子Sandocusは、Samothrace島で、Megassaresの娘Pharnaceと出会った。AstynousとSandocusは、Cadmusの移民団をThracia地方に上陸させた後で、Pharnaceを連れてTyreの町へ帰還した。[68]
その後、Sandocusは、Cilicia Tracheiaへ移住して、Celenderisの町を創建した。[69]
7.3 Phoenixの娘Europaの結婚
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Tegeatesの子Cydonと結婚した。
BC1430年、CydonはArcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住し、Cydoniaの町を創建していた。[70]
7.4 Phoenixの娘Astypalaeaの結婚
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Crete島北西部のApteraの町に住むAcmon(or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[71]
Astypalaeaは、Acmonと共にOlympiaへ行き、その後、Rhodes島対岸のCaria地方へ移住した。[72]
Astypalaeaの子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[73]
Lelegesは、Cariansと混血したGreeksであった。[74]
Astypalaeaの後裔は、Rhodes島からやや北にあるSamos島やCos島を領した。[75]
7.5 CadmusのThera島寄港
その後、CadmusはCalliste(後のThera)島に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusを指導者にして入植希望者を島に残した。この時の入植者の後裔は、SpartaからAutesionの子Therasが島に入植するまで、8世代にわたって島で暮らしていた。[76]
Therasは、Cadmusを祖とする10代目の直系の子孫であった。Therasは、Membliarusの支配権は自分の父祖Cadmusが与えたものだと主張して、支配権を得た。[77]
7.6 CadmusのSamothrace島寄港
Cadmusは島々を巡りながら北上し、Aegean Seaの島々で最も高い山があるSamothrace島に上陸した。島には、BC1430年にArcadia地方のMethydrium の町から移住してきたDardanusやMegassaresが住んでいた。
Samothrace島で、CadmusはDardanusの妹Harmoniaと結婚した。[78]
7.7 CadmusのThracia上陸
Cadmusは、Samothrace島を後にして、Thracia地方に上陸してChalcidice半島北方のPangaeus山付近に居を定めた。Cadmus には、Telchinesが同行し、行く先々で探鉱活動をしていたと思われ、Pangaeus山で探し当てた金鉱でCadmusは富を成した。[79]
Cadmusの母Telephassaは、Thracia地方で死んだ。[80]
7.8 Cadmeiaの創建
BC1420年、Cadmusの移民団が入植したThracia地方沿岸部を津波が襲い、Cadmusは再び、移民団を率いてThessaly地方へ南下して、Boeotia 地方へ侵入した。[81]
当時、Boeotia 地方にはTemmix(Temmikes)、Hyantes、Ectenes、そしてAoniansがおり、激しい戦いとなった。最初は、侵入したCadmusの集団が先住民に負け続けていたが、戦術を変えることによって勝利した。[82]
Thebes周辺に居住していたHyantesは、西へ追われた。[83]
それ以前にThebesの町周辺に居住していたEctenesは、160年ほど前にHyantesから追い出されて、大部分はAttica地方に移住していた。残ったEctenesはCadmusに追われて、Attica地方へ移住した。 [84]
Thebesの町の北東約11kmの所にあるGlissas周辺に居住していたAonianは、引き続き居住することを許された。[85]
Cadmusは、Hyantesが立ち退いた土地の後にThebesの町のAcropolisとなる高い場所に館を構えて、周りに人々を住ませて町を創建し、Cadmeiaと呼ばせた。[86]
Phoenicia地方から来たGephyraeansは、Tanagra周辺に定住した。[87]
また、Cadmusの集団に含まれていたArabiansはEuboea島へ渡って定住した。[88]
7.9 CadmusのIllyria移住
BC1390年、Aeolusの子AthamasがThessaly地方からBoeotia地方のCopais湖の東側に移住して来た。[89]
Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来て、Copais湖周辺に定住していたEncheleansは、Illyria地方へ再移住した。Encheleansは、Illyria地方の先住部族に圧迫されて、Cadmusに援助を要請した。[90]
Cadmusは、Encheleansの求めに応じて、Illyria地方へ再移住し、その地で没した。[91]
Cadmus 終焉の地は、Illyria地方のButhoe(現在のBudua)であった。Cadmusは、妻Harmoniaと共にRizous川の近くに葬られた。[92]
Cadmusの娘Agaveの夫Lycothersesも、Encheleanであった。[93]
Cadmus から7世代後、Encheleansは、ArgivesによってThebesの町を追われたEteoclesの子Laodamasを迎え入れた。[94]
7.10 Sparti
Cadmusの移民団の中に、Cadmusに次ぐ実力を持つSparti(or Spartos)と呼ばれる者たちがいた。[95]
Spartiは、会戦前に戦列を跪かせ、敵と十分な間合いとなったときに、雄たけびを上げて立ち上がり、敵を驚かせて委縮させる戦法を編み出した指導者のことであった。[96]
Boeotia地方に侵入した当初、Cadmusは、先住民に負け続けていたが、Spartiの指揮のもとで、この戦法により、先住民を駆逐した。Spartiは、竜の歯を播いた後に、地から這い出て来た者たちという逸話がある。敵方から見たとき、Cadmus の兵は大地から湧き出たように見えることから、この逸話が誕生したと思われる。[97]
Echion、Udaeus (or Ladon)、Pelorus、Hyrieus (or Chthonius)、そしてHyperenor (or Anthas)、という5人のSparti の名が伝えられているが、EchionとUdaeusは、Pelorusの息子たちと推定される。[98]
7.10.1 Echion
Echionはその勇敢さをCadmusに認められ、Cadmusの娘Agaveと結婚した。[99]
Agaveの誕生は、CadmusのBoeotia地方侵入前後であり、Echionも侵入時には成年に達しておらず、他のSparti、恐らくPelorusの息子であったと思われる。
7.10.2 Udaeus (or Ladon)
UdaeusもCadmusのBoeotia地方侵入時には成年に達しておらず、他のSparti、恐らくPelorusの息子であったと思われる。
Udaeusの後裔であるEveresの子Tiresiasは、EpigoniのThebes攻めの時代の人物であった。[100]
このTiresiasはHeraclesと同時代と思われるが、Heraclesの母の1世代前にも不思議な力を持つ女性Historisの父として登場する。[101]
この後者のTiresiasは、EveresとHistorisの父であり、Tenerusの息子であった。[102]
Tenerus は、Thebesの町の西方にあるthe sanctuary of the Cabeiriの北側にTenerusの名に因んだ平原があり、近くのPtous山近くの神託所の予言者であった。[103]
Tenerusには兄弟のIsmenusがいて、その父はAsopus河神とされるSicyonの町のEpopeusと推定され、母はLadonの娘Metopeであった。[104]
Tenerusは、母Metopeの父Ladonから予言術を学んだ。Ladonの別名は、Udaeus であった。[105]
Thebesの町の東側を流れる川は、Ladon川と呼ばれていたが、Ismenusの時代の後で、Ismenus川と呼ばれるようになった。[106]
7.10.3 Pelorus
Pelorusは、Cadmusと共にBoeotia地方へ侵入したSpartiであり、EchionとUdaeusの父と思われる。
7.10.4 Hyrieus (or Chthonius)とHyperenor (or Anthas)
HyrieusとHyperenorは、Cadmusと一緒に移住して来たMegassaresとAlcyoneの息子たちであった。[107]
Alcyoneの父Orchomenusは、Pelasgusの子Lycaonの息子で、Arcadia地方の中央部にOrchomenusの町とMethydriumの町を創建した。[108]
BC1430年、Arcadia地方中央部で発生した河川の氾濫により居住地を失ったMegassaresは、妻子と一緒に、Coritusの子Dardanusと共にSamothrace島へ移住した。[109]
BC1425年、Cadmusの移民団がSamothrace島に立ち寄り、Megassaresは家族と共にCadmusらの移民団に参加した。[110]
Megassaresの娘Pharnaceは、Astynousの子Sandocusに連れられてTyreの町へ移住した。[111]
7.11 Cadmusの移住により生じた移住
7.11.1 Thraciaからの移住
Strymon川流域のEdoniが、Dryasの子Lycurgusの子Tereusに率いられて、Phocis地方のDaulis付近に移住した。[112]
Tereusは、第5代Athens王Pandionの娘Procne(or Progne)と結婚した。[113]
7.11.2 Thessalyからの移住
Deucalionの子Hellenの子Dorusは、Thessaly地方北部からOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[114]
また、Hellen の子Xuthusの子Achaeusは、Phthiotis地方のMelitaeaの町からAegialus地方へ移住した。[115]
Achaeusは、彼の父Xuthusが追放されたMelitaeaの町へ帰還して住んでいた。[116]
7.11.3 PeloponnesusからCreteへの移住
Dorusの子Tectamusは、Dorians、Pelasgians、Aeoliansを率いて、Crete島へ移住した。[117]
Cadmus率いる大集団の通過により居住地を追われて、Crete島へ移住を希望した人は、ものすごい数であった。[118]
Tectamusが率いた移民団の定住地は、島の東部であった。[119]
おわり |