第12章 ドーリス人の系譜

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1 はじめに
BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父は、他の部族から圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。Deucalionは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川へ南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[1]
Deucalionには、2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[2]
Hellenは成人すると、Enipeus川の対岸付近にHellasの町を創建した。
BC1511年、大洪水に襲われたHellenは、父の住むPyrrhaの町へ再移住した。[3]
Hellenは、Phthiotis地方を治め、その地の人々はHellenesまたはHellasと呼ばれた。[4]

2 Doriansの誕生
Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[5]
Hellenの後裔は勢力を伸ばし、AeolusはAeolis、DorusはDoriansの始祖になった。
Xuthusの2人の息子たち、AchaeusはAchaeans、IonはIoniansの始祖になった。[6] BC1460年、Dorusは、Phthiotis地方の父のもとからEnipeus川沿いに下って、Peneius川との合流地点の北側へ移住した。その地方は、Doris地方と呼ばれるようになった。[7]
BC1420年、CadmusやThraciansの大集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方に侵入した。Doris地方に住んでいたDorusは一族を率いて南へ移動し、Greece中部のOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[8]
その地方は、後に、Doris地方と呼ばれるようになった。[9]

3 Dorusの子Tectamus
3.1 Dryopisへの移住
TectamusはHellenの子Dorusの息子として、Thessaly地方北部のDoris地方で生まれた。[10]
Tectamusは、父方の従兄弟であるAeolusの子Cretheusの娘を妻にして、息子Asteriusが生まれた。[11]
BC1420年、Tectamusは父Dorusと共にOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[12]

3.2 Creteへの移住
その後、Tectamusは、Doriansの他に、AeoliansやPelasgiansを率いてCrete島へ移住した。[13]
DanausのArgosの町への移住や、それに続くCadmusやThraciansの大集団の移住によって居住地を追われて、Crete島への移住を希望した人々は、ものすごい数であった。[14]
Tectamusを指導者とするDoriansの移住先は、Crete島東部のCnossusの町付近であった。[15]
Pelasgiansは、Crete島南東部のHierapytnaの町の近くに定住したと思われる。そこには、Larisaの町があった。[16]
Tectamusと共に、Dryopis地方から移住したDoriansは島の東部に定住した。[17]

3.3 Tectamusの子Asterius
Tectamusの子Asteriusは航海の途中で立ち寄ったCydoniaの町で、Phoenixの娘Europaと結婚した。[18]
Europaには前夫との間に息子Minosがいた。Asteriusは子供がないまま世を去り、Europaの息子MinosがAsteriusの跡を継いだ。[19]

3.4 Tectamusの息子と思われるPeneius
Diodorusは、Peneiusの娘StilbeがLapithsとCentaursの先祖になったと伝えている。[20]
このことから、StilbeはHippotesの子Aeolusの妻であり、PeneiusはHippotesと同世代であったと推定される。
Peneiusは、Thessaly地方のPeneius川に彼の名前を与えたと伝えているので、Peneiusは、Peneius川の近くに住んでいたと推定される。[21]
Peneiusは、Dorusの子Tectamusの息子で、父と一緒にDryopis地方へ移住しないで、Doris地方に残留したと思われる。
Peneiusには、息子Hypseusと、3人の娘たち、Stilbe、Iphis (or Iphys)、Triccaがいた。[22]

3.4.1 Peneiusの子Hypseus
Hypseusは父の跡を継いでPeneius川の近くに住み、彼には娘Astyaguiaがいた。
Astyaguiaは、Peneius川付近を領するLapithusの子Periphasに嫁いだ。[23]

3.4.2 Peneiusの娘Stilbe
Stilbeは、Arneの町のHippotesの子Aeolusに嫁いだ。[24]

3.4.3 Peneiusの娘Iphis
Iphisもまた、Arneの町のHippotesの子Aeolusに嫁いだ。[25]

3.4.4 Peneiusの娘Tricca
Triccaは、Doris地方から西へ移住して町を創建し、Triccaと名付けた。[26]
Argonautsの遠征の参加者、PhlogiusとDeileon (or Demoleon)の父Deimachusは、Triccaの後裔と思われる。[27]

4 Dorusの子Deucalion
Hellenの子Dorusの息子はTectamusのみが伝えられているが、Deucalionという名前の息子もいたと思われる。つまり、BC1390年の大津波の後でThessaly地方からPelasgiansを追い出した者たちの父Deucalionである。[28]
そのDeucalionは、BC1420年、父Dorusと共にThessaly地方北部のDoris地方からOeta山とParnassus山の間のDryopis地方へ移住した。[29]
BC1415年、Deucalionは、Dryopis地方から東側の海岸地方へ出て、南東方向、後にOpusの町が創建される土地の近くへ移住した。[30]
Deucalionには4人の息子たち、Marathonius、Amphictyon、Pronous、Orestheusと、2人の娘たち、Protogenia、Thyiaがいた。[31]

4.1 Deucalionの子Marathonius
BC1407年、Marathoniusは、Sicyonの町との戦いでArgosの町に加勢し、Sicyonの町のOrthopolisの娘Chrysortheを妻にした。[32]
BC2世紀の年代記作者Castorが伝えているMarathoniusから始まるSicyonの王統は名目上のものであった。[33]
実質的にSicyonの町を治めたのはAeolusの子Sisyphusの後裔であった。[34]

4.2 Deucalionの子Amphictyon
BC1410年、Amphictyonは、父Deucalionのもとから北西方向のThermopylae付近の海岸近くへ移住して、Antheia (or Anthela)の町を創建した。[35]
Amphictyonは、妻Chthonopatraとの間に、2人の息子たち、ItonusとAetolusが生まれた。[36]

4.2.1 Amphictyonの子Itonus
4.2.1.1 Itonusの創建
BC1392年、Itonusは、Locris地方からThessaly地方のPagasetic Gulf西岸に移住してItonusの町を創建した。[37]
少し前に同族のAeolusの子AthamasがItonusの町の近くにHalusの町を創建していた。[38]
Itonusは、Athamasの父Aeolusの兄弟Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの息子であった。つまり、AthamasはItonusの祖父の従兄弟であった。

4.2.1.2 Itonusの妻Melanippe
Itonusは、Itonusの町の西北西約60kmの所にあるCuarius川のほとりのArneの町からAeolusの娘Melanippeを妻に迎えた。[39]
BC1390年、大津波がThessaly地方の沿岸部に住むPelasgiansの町を襲い、Pagasetic Gulf の岸辺のHalusの町は津波によって洗い流された。[40]
Itonusの町は少し内陸にあったために津波の被害は免れたものの、住居を失ったPelasgiansはItonusの町を襲った。Itonusの妻MelanippeはPelasgiansのDiusの戦利品として連れ去られた。[41]
拉致されたMelanippeは、Dius率いるPelasgiansと共に西へ向かいDodonaを経由してItaly半島へ連れて行かれた。[42]
Melanippeは、Italy半島南部のMetapontiumの町まで連れて行かれ、その地で2人の息子たち、BoeotusとAeolusが生まれた。[43]
戦争捕虜となった娘から息子が生まれた例として、つぎのものがある。
OeneusとPeriboeaの息子Tydeus、HeraclesとAstyocheの息子Tlepolemus、HyllusとIoleの息子Cleodaeus、AlcmaeonとMantoの息子Amphilochus、PleuronとXanthippeの息子Thestiusなどがある。[44]

4.2.1.3 Pelasgiansの追放
Itonusの父AmphictyonはPelasgiansをThessaly地方から追い出すために同族を結集した。
参加した部族は、つぎのとおりであった。[45]
Deucalionの子Amphictyon率いるDorians
Aeolusの子Hypseusの子Deimachus率いるPelion山近くのMagnesians
拉致されたMelanippeの父Aeolus率いるPhthiotians
Hellenの子Xuthusの子Ionの息子たち率いるIonians
Delphi周辺に住むPhocians
ThermopylaeとOpusの町の中間のくぼ地に住むLocrians
Thessaly地方のMalians、Dolopes、Perrhaiboi、Aenianians
これらの部族は、後にArgosの町のAcrisiusによってAmphictyonsとして組織された。[46]
Deucalionの子Amphictyonに追われたPelasgiansは、Thessaly地方を去った。[47]
彼らは、BC1560年にArgosの町からPelasgusの娘Larisa家族に率いられてThessaly地方に移住して来て、170年間住んでいた。

4.2.2 Amphictyonの子Aetolusの子Physcus
Amphictyonの子Aetolusには、息子Physcusが生まれた。[48]
PhyscusはAntheiaの町に住み、Proetusの娘Maeraと結婚して、息子Locrusと娘Thebeが生まれた。[49]

4.2.2.1 Physcusの子Locrus
LocrusはAntheiaの町に住み、Cambyse (or Cabye, Protogeneia)と結婚して、息子Opusが生まれた。[50]
BC1325年、Locrusは、義兄弟であるAmphionとZethusと共にThebesの町を創建した。[51]
Locrusは、Lelegiansの指導者であった。[52]

4.2.2.1.1 Locrusの子Opus
BC1262年、OpusはAntheiaの町からThermopylaeとEuripus海峡との間に移住してOpusの町を創建し、息子Cynusをもうけた。[53]
Opusは、町の住人を各地から募集し、Argosの町やThebesの町、Arcadia地方の町やPisaの町から人々が移住して来た。Opusは、移住者の中で、Actorの子Menoetiusを最も尊敬し、自分の息子Cynusに町を譲らず、Menoetiusに跡を継がせた。[54]

4.2.2.1.2 Opusの子Cynus
BC1260年、Cynusは昔Dorusの父Deucalionが居を構えていたOpusの町の近くへ移住して、Cynusの町を創建した。[55]
Cynusの娘Larymnaは、Cynusの町から東側のBoeotia地方の町へ嫁ぎ、彼女の名前が町の名になった。[56]
Cynusの子Hodoedocus (or Odoedocus)は、Cynusの町を継承し、Hodoedocusは、彼の息子Ileusへと継承した。[57]
BC1250年、Ileusの兄弟Oileus (or Oeleus)は、Cynusの町から西方の内陸部に移住して、Narycusの町を創建した。[58]
BC1245年、IleusとOileusの腹違いの兄弟Calliarusは、Cynusの町の近くに自分の名に因んだCalliarusの町を創建した。[59]
OileusとRheneとの間の息子Ajax (or Aias)は、父の跡を継いでNarycusの町に住み、Locriansを率いてTroy遠征に参加した。[60]
Ajaxの兄弟Medonは継母Eriopisの縁者を殺害し、Narycusの町からThessaly地方のPhylaceの町に移住した。その後、MedonはMagnesiansを率いてTroy遠征に参加した。[61]

4.2.2.2 Physcusの娘Thebe
Thebeは、Thebesの町の近くにEutresisの町を創建したEleutherの子Zethusに嫁いで、息子Neisを産んだ。[62]
Zethusは、双子の兄弟Amphionと共に、Labdacusの子Laiusの後見人Lycusが統治するCadmeiaの町を攻めて攻略した。[63]
その後、Amphion一家は悪疫のために死に、Thebeも一人息子Neisを過失により失い、Zethusも悲しみのうちに死去した。[64]
ZethusがCadmeiaの町の下方につくった町は、Thebeに因んで、Thebesの町と呼ばれた。その町の7つの門のうちの一つに、Thebeの子Neisに因んで、Neistan gateという名前がついた。[65]
また、Proetidian gateは、Thebeの母Maeraの父Proetusの名前に因んで名付けられた。[66]

4.3 Deucalionの子Pronous
BC1390年、Pronousは、兄弟のAmphictyonと共にThessaly地方からPelasgiansを追い出し、そのままThessaly地方に住み着いた。[67]
Pronousの子Hellenの子Neonusの子Dotusは、Thessaly地方のDotium平原にあったDotionの町に自分の名前を与えた。[68]
Pelasgiansが去ったDotium平原には、Peneius川流域に住んでいたPerrhaiboiやAenianiansが移り住んだ。[69]
Pronousは、Argosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larisaの子Phthiusが創建したPhthiaの町に住んでいた。[70]

4.3.1 Pronousの子Hellenの子Neonus
Neonusは、Phthiaの町を継承し、Cletor (or Clitor)の娘Eurymedusaを妻に迎えて、DotusとMyrmidonが生まれた。[71]
Myrmidonの後裔については、「Myrmidonsの系譜」に別途記述。

4.3.2 Pronousの子Hellenの子Hippocoon
AD1世紀初期の著作家Hyginusは、Nestorの父Neleusの父の名前をHippocoonとしている。しかし、Neleusの父はAeolusの子Cretheusであり、Hippocoonは、Cretheusの妻Tyroの前夫の名前であったと推定される。[72]
HippocoonとTyroの息子Amythaonは、Eleia地方へ移住する前に、Thessaly地方のPylusの町に住んでいた。[73]
Pylusの町はThessaliotisにあり、PelasgianのCrannonが創建したCrannonの町の近くにあった。[74]
Pylusの町は、BC1390年にThessaly地方内に住んでいたPelasgiansが追い出されてから創建された町で、創建者はHippocoonと推定される。

4.4 Deucalionの子Orestheus
BC1405年、Orestheusは父DeucalionのもとからOzolian Locris地方へ移住した。[75]
Orestheusには息子Phytiusが生まれた。Phytiusの子Oineusは、Achaia地方のOlenusの町のMacareusの娘Amphissaと結婚して、息子Aetolusが生まれた。[76]
Aetolusの子Andraemonは、Calydonの娘Protogeniaと結婚して、Oxylusが生まれた。Aetolusの住む町は、母の名に因んでAmphissaと呼ばれた。[77]
Oxylusの息子Andraemonは、Calydonの町のOeneusの娘Gorges (or Gorge)と結婚して、息子Thoasが生まれた。[78]
Thoasは、Calydonの町やPleuronの町を領し、Aetoliansを率いてTroy遠征に参加した。
Thoasの子Haemonの子Oxylusは、HeracleidaeのPeloponnesus帰還時に案内役を務めた。[79]
したがって、Oxylusは、父方の血筋を遡れば、Hellenの子Dorusに辿り着くDoriansであったが、彼に従う人々はEpeiansであった。しかし、どちらの種族も先祖は、Hellenesであった。

4.5 Deucalionの娘Protogenia
Protogeniaは、Thessaly地方のArneの町に住むAeolusと結婚した。[80]
Protogeniaの3人の息子たち、Macareus、Aethlius、Perieresは、Aeolisとして初めてPeloponnesus半島西側へ居住地を広げた。[81]

4.6 Deucalionの娘Thyia
ThyiaもThessaly地方のArneの町に住むAeolusと結婚した。[82]
Thyiaの2人の息子たち、MagnesとMacedonは、Thessaly地方北部Olympus山付近に移住した。[83]
また、Thyiaの子Deionの子Phylacusは、Thessaly地方にPhylaceの町を創建した。[84]

5 Dorusの子Macednus
Dorusの子TectamusはCrete島へ移住し、もう一人のDorusの息子と思われるDeucalionもLocris地方へ移住した。[85]
Parnassus山近くに住み着いたDorusの後裔は、Macedniと呼ばれていたことから、Dorusの跡を継いだ息子はMacednusであったと思われる。[86]
Heraclesの子Hyllusの養父であるDorusの子Aegimiusの先祖はMacednusと推定される。[87]

6 Dorusの娘Iphthime
6.1 Doris地方のIphthime
Hellenの子Dorusが一族を引き連れてParnassus山近くへ移住した後、Peneius川近くのDoris地方に残っていた人々もいた。その中には、Dorusの娘Iphthime一家もいた。Iphthimeの夫については不明であるが、彼らの後裔がDoriansによって、Parnassus山近くの居住地から追い出されて、Argosの町の保護を受けていることや、Danausの娘と結婚していることから考えて、Pelasgiansであったと思われる。
Iphthimeには、3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[88]

6.2 Iphthimeの息子とDanausの娘の結婚
Iphthimeの息子の一人がDanausの娘Polydoreの夫となり、息子Dryopsが生まれた。[89]
Thessaly地方の北部に住むIphthimeの息子と、Argosの町に住むPolydoreの遠距離婚を可能にしたのは、つぎのような事情であったと推定される。
BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Aegialusの町からThessaly地方のPhthiotis地方のMelitaeaの町へ帰還した。[90]
BC1420年、CadmusやThraciansの大移動に圧迫されて、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesはAegialusの町へ帰還した。その後、彼らはArgosの町のDanausの娘たちと結婚した。[91]
彼らの結婚が、PolydoreとIphthimeの息子を結び付けたものと推定される。
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Iphthime一家を中心とする一族は、Iphthimeの父Dorusの移住先の近くであるSpercheius川の近くへ移住した。[92]

6.3 Polydoreの子Dryops
Dryopsは、Oeta山近くに住み、娘Dryopeが生まれた。[93]
Dryopeは、Andraemonと結婚して、息子Amphissusが生まれた。[94]
Andraemonは、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住むOrestheus (or Oreius)の子Phytius (or Oxylus)の息子であった。[95]
Orestheusは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの息子であった。[96]
つまり、DryopeとAndraemonは、Hellenの子Dorusを共通の祖とする、3従兄弟であった。
Dryopsの娘Dryopeの子Amphissusは、Oeta山の近くにOetaの町を創建し、彼らはDryopes (or Dryopians)と呼ばれた。[97]

7 HeraclesによるDoriansへの支援
7.1 Doriansの王Aegimius
Dorusの子Aegimiusは、Doris地方のPindusの町に住む、Doriansの首領であった。[98]
Aegimiusは、Hellenの子Dorusに連なる血統であったと思われる。
Thessaly地方北部のDorians発祥の地であり、古くはDoris地方と呼ばれていたHestiaeotis地方に住むDoriansにとっても、Aegimiusは一族の長であった。[99]
Pindusの町に住み続けたDoriansは、Hellasの支族のひとつであったが、他の支族との婚姻が見られず、同族結婚を繰り返していたものと思われる。
Doriansの系図は、Greeceに文字をもたらしたDanausやCadmusの系図に繋がらない。Hellenの子Dorusの息子と思われるMacednusから、Aegimiusの父Dorusまでの約160年間の系図は不明である。さらに、Aegimiusの息子たちの子孫の系図も不明である。

7.2 Lapithsの勢力拡大
Lapithsは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを始祖とし、Doriansとは、Deucalionの子Hellenを共通の祖としている。
Doriansは、Thessaly地方北部のDoris地方で生まれ、主として、Oeta山とParnassus山の間のDryopis地方やMaliac Gulf沿岸のLocris地方に居住地を広げた。[100]
一方、Lapithsは、Thessaly地方の中で居住地を広げた。
Lapithesは、BC1390年、Thessaly地方に長く住んでいたPelasgiansが追い出された後で、父Aeolusの住むArneの町を出た。Lapithesは、Curalius川を下り、Peneius川との合流点付近の北側に定住した。[101]
Lapithesの息子の一人、PeriphasはMagnesia地方を領するHypseusの娘Astyaguiaと結婚して、8人の息子たちがいた。[102]
Periphasは、Hypseusの跡を継いでMagnesia地方を治め、西側に隣接するPhthia地方とは、婚姻により関係を深めた。
Periphasの子Antionの子Phlegyasは、Dotium平原のBoebian lakeの近くのAmyrusの町に住んでいて、Periphasは、Ossa山とPelion山の間を領していたものと思われる。[103]
Lapithesの孫の代になるとLapithsの勢力は強大なものとなり、Periphasの子Antionの子Ixionは、Gyrtonの町のPerrhaebiaを追い出した。また、Ixionの子Peirithousは、Pelion山の方へ進出して、Centaursを追い払った。[104]
BC1248年のArgonautsの遠征への参加者の町を見ると、LapithsはPhthia地方を除いて、ほぼThessaly地方全般に居住地が広がっていた。[105]
Ixionの子PeirithousはLarissaの町。
Ischysの子AsclepiusはTriccaの町。
Ampycusの子MopsusはOechaliaの町。
Caeneusの子CoronusはGyrtonの町。
Cercaphusの子AethalidesはItonusの町。
Antianeiraの2人の息子たち、ErytusとEchionはAlopeの町。

7.3 DoriansとLapithsの戦い
Thessaly地方北部のDoris (後のHestiaeotisの一部)地方に住むDoriansもGyrtonの町から圧迫され、DoriansとLapithsの戦いが始まった。[106]
Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusは、Hestiaeotis地方のDoriansを攻めたため、DoriansはPindusの町のAegimiusに援助を要請し、Aegimiusが駆け付けるが、Coronus率いるLapithsに包囲された。[107]
Aegimiusは、Trachisの町のHeraclesに、Pindusの町を中心とするDoris地方の3分の1を割譲するという条件で、援軍要請した。HeraclesはArcadiansやTrachisの町のMeliansを率いて、Hestiaeotis地方へ遠征して、Lapithsを追い出した。[108]
Heraclesは、その後、Itonusの町のPelopiaの子Cycnusや、Ormeniumの町のOrmeniusと戦った。[109]
この後、HeraclesはEuboea島のOechaliaの町のEurytusを攻めた。[110]
HeraclesがEurytusを攻めた理由は、Eurytusが周辺の人々に貢納を強制してからであると伝えられる。[111]
しかし、Heraclesの一連の行動から、戦いの真の理由は、つぎのようであったと推測される。
Eurytusの素性を調べると、Eurytusの父Melaneusは、Lapithesの子Aeolusの息子と思われる。Eurytusは、種族的にはLapithsであった。Melaneusは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川に注ぐIon川を少し遡った所にOechaliaの町を創建した。
その後、MelaneusはPerieresから招かれてMessenia地方へ移住し、Andaniaの町の近くにOechaliaの町を創建した。[112]
Eurytusの時代になって、Spartaの町のTyndareusによって、EurytusはMessenia地方を追われてEuboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[113]
DoriansとLapithsの戦いが勃発すると、EurytusはThessaly地方のLapithsを応援したと思われる。Heraclesに攻められ、陥落した町からEuboea島のEurytusのもとへ逃げ込んだLapithsも多かったものと推定される。Oechalia攻めは激戦となり、それまでのLapithsとの戦いでは記されなかったHeracles側の犠牲者が記録されている。[114]
HeraclesはTrachisの町への帰路、Euboea島の北西端Cenaean岬にZeusの祭壇を築き、Lapithsとの戦いの終了を宣言した。[115]

8 Heracles死後のDorians
Heraclesの死後、Doriansの王Aegimiusは、Heraclesとの約束を守り、Heraclesの息子Hyllusを養子にして、領地の一部を割譲した。[116]
しかし、HyllusがHeracleidaeを率いて、Peloponnesus半島への帰還を試みて、Hyllusが戦死するまで、HeracleidaeはDoris地方に居住していなかった。[117]
Hyllusを失ったHeracleidaeは、それまで住んでいたAttica地方からDoris地方のAegimiusのもとへ行き、約束された土地を受け取って、Doriansと共住した。[118]
Heracleidaeに分け与えられた土地に住むDoriansは、Hyllusの名前に因んでHylleisと呼ばれた。[119]

9 Cadmusの後裔のDoris移住
9.1 移住の原因
Trojan Warで手薄になったBoeotia地方へ、ThraciansやPelasgiansが侵入して、Boeotia地方の住民は、Thessaly地方のArneの町などへ移住した。[120]
その後、Arneの町のBoeotiansは、Haimonに敗れて、一部はBoeotiaへ帰還し、一部はpenestaiと呼ばれる奴隷となって残留した。[121]
BC1126年、Arneの町に残っていたBoeotiansも、Heraclesの子Thessalusの子Pheidippusの子Aeatusに追われて、Boeotia地方へ帰還した。Boeotiansは、Coroneiaの町を奪取し、Orchomenusの町も併合した。[122]
Boeotiansに追われて、Thebesの町のCadmusの後裔Tisamenusの子Autesionは、Thebesの町からDoris地方へ移住した。[123]

9.2 移住先の決定
Tisamenusの母は、Argosの町のAmphiarausの娘Demonassaであり、Tisamenusの父Thersandorusは、Argivesの助けで、Thebesの町に戻ることができた。[124]
AutesionとArgosの町とは深い繋がりがあったが、当時のArgosの町にAutesionの祖母Demonassaの一族は住んでいなかった。さらに、Argosの町はMycenaeの町の支配下になっていた。[125]
また、Autesionは、Cadmusの時代から移住先となっていたIllyria地方のEncheleansのもとへの移住も考えたと思われる。しかし、その地には、少し前に、祖父ThersandorusがEpigoniと共にThebesの町から追い出したEteoclesの子Laodamasの孫たちが住んでいた。[126]
結局、Autesionは、Thebesの町で生まれたHeraclesの後裔が住むDoris地方へ移住することにした。[127]

9.3 Doris地方への移住
Doris地方のPindusの町には、Dorians 3部族の1つHylleisの首領であったCleodaeusの子Aristomachusが住んでいた。[128]
Aristomachusは、Thebesの町からの移住者を受け入れ、第4回目のPeloponnesus帰還を試みるが、Aristomachusは戦死し、遠征は失敗に終わった。[129]
Autesionの娘Argeiaは、Aristomachusの子Aristodemusと結婚して、Spartaの2王家の初代の王となる双子の息子たち、EurysthenesとProclesを産んだ。[130]
Autesionの子Therasは、姉妹Argeiaの息子たち、EurysthenesとProclesの後見人となって、HeracleidaeのPeloponnesus帰還に参加した。[131]
Sparta王家が誕生して、EurysthenesとProclesが成人すると、TherasはThera島へ移住した。[132]

10 PeloponnesusへのDoriansの移住
Heracleidaeに率いられたDoriansがPeloponnesusへ移住したのは、つぎの期間であった。
始まりは、Aetolia地方から海峡を渡ってPeloponnesus半島に上陸した、BC1112年春であった。[133]
終わりは、DoriansがCorinthの町からAeolisを追い出した、BC1075年であった。[134]
Straboは、HeracleidaeがPindusの町のあるDoris地方からPeloponnesusへ帰還したと伝えている。[135]
しかし、Doriansの移動で見ると、出発地はThessaly地方北部であり、最初の移動は、BC1186年であった。そのとき、Thessaly地方北部のDoris地方に住んでいたDoriansがThesprotiansに追われて、Parnassus山近くに移住した。
つまり、DoriansがThessaly地方北部からPeloponnesus半島へ移住を完了するまで、100年以上を要したことになる。
その移住の結果、Peloponnesus半島の住人は、Arcadia地方のArcadians、Eleia地方のEpeians、Achaia地方のAchaeansを除いて、Doriansになった。

11 Megaraの建設
BC1074年、 DoriansはAthensの町の攻撃に失敗して、Megara地方のIoniansを追い出して、Megaraの町を建設した。[136]
Megaraの町を建設したのは、Corinthの町のDoriansであった。[137]

12 Doriansの海外移住
12.1 CreteやRhodesへの移住
BC1070年、Argosの町のTemenosの子Ceisusの子Althaemenesは、DoriansとPelasgiansを率いてCrete島へ植民した。[138]
Spartaの町のDoriansと思われるPolisとDelphosは、Crete島へ移住して、Gortynの町の住人と共住した。[139]
Althaemenes自身は、Rhodes島に移住し、Lindos, Ialysos, Kameirosの町を建設した。[140]
Althaemenesの移民団には、Argosの町のDoriansだけではなく、Megaraの町のDoriansも含まれていた。[141]
Althaemenesの移住によって、それまで、Rhodes島の支配者は、HeliadaeからPhoeniciansに、それからCariansになっていたが、Doriansが島の支配者になった。[142]

12.2 Bithyniaへの移住
BC712年、Megaraの町のZypoetesはDoriansを率いてBithynia地方へ移住し、Astacusの町を創建した。[143]
BC434年にAtheniansが送った移民団がMegariansに合流してからAstacusの町は繁栄した。[144]
Astacusの町の名前は、SpartiのAstacusに因むと伝えられ、Atheniansの中にいたGephyraeansが命名したと思われる。[145]
Gephyraeansは、EpigoniのThebes攻めの少し後でBoeotiansに追われてAtnensの町へ移住していた。[146]
したがって、町の名前がAstacusになったのは、Atheniansが共住してからであり、最初の町の名前は、Lobsterであったと思われる。Arrianが「Bithynian history」の中で伝えている。[147]

13 おわりに
古代ギリシアの種族の中で、Doriansは最も系譜が不明な種族であった。
BC1420年、Hellenの子Dorusが、Thessaly地方からParnassus山近くのDoris地方へ移住し、彼の息子TectamusがCrete島へ移民団を率いた。[148]
BC1227年、Doris地方のDoriansの王Aegimiusが、Heraclesに援助要請をして、Lapithsと戦った。[149]
この間、約200年間、Doris地方のDoriansの動向は不明である。
AegimiusとHeraclesの友好関係がなければ、Doriansは歴史の表舞台に出ることはなく、DryopesやDolopesのような弱小種族になっていたと思われる。
AegimiusとHeraclesの友好関係がなければ、HeracleidaeやHeraclesに付き従っていたArcadiansがDoris地方に住むことはなかった。
HeracleidaeがDoris地方に住んでいなければ、Thebesの町を追われたTisamenusの子Autesion率いるCadmeiansがDoriansと合流することもなかった。
Thesprotiansに追われたThessaly地方のDorians、Heracleidae、それにAutesionの移住によって、それまで鎖国状態であったDoris地方のDoriansは刺激を受けた。
BC12世紀の終わり頃、Doris地方は人口過多になり、Heracleidaeを指導者にして、Peloponnesusへ大挙して移住した。
しかし、Doris地方にもDoriansは住み続けた。
BC458年、Spartaの町のDoriansは、Phociansに攻められたDoris地方のDoriansを助けるために軍を派遣した。[150]

おわり