第51章 テルキニア人の系譜

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Create:2023.4.13, Update:2026.2.16

1 はじめに
BC1750年、パルナッソス山の北を流れるケピソス川の上流で大洪水が発生した。[1]
イナコスの2人の息子たち、ポロネオスとアイギアレオス (または、アイゼイオス)に率いられた人々は、南へ移動して、ペロポネソス半島に定住して、ポロネオス (後のアルゴス)の町とアイギアレイア (後のシキュオン)の町を創建した。[2]
BC1690年、ポロネオスの子アピスは、アイギアレイア (後のシキュオン)の町をポロネオスの町に併合して、ペロポネソスの支配者になった。

2 名祖テルキン (または、テルキス, テルケス)
BC2世紀の年代記作者カストールは、初期のシキュオン王たちの名前を次のように伝えている。
アイギアレオス、エウロプス、テルキン、アピス、テルキオン、… [3]
AD2世紀の地理学者パウサニアスは、アイギアレオスの子エウロプスの子テルキスの子アピスという系譜を伝えている。[4]
カストールは、シキュオン王たちの親子関係を記していないが、パウサニアスは、父から息子へ継承されたと解釈していたようである。
しかし、エウロプスとアピスは、アイギアレオスの兄弟ポロネオスの息子たちであった。[5]
アイギアレオスには、跡継ぎがいなかった。[6]
アイギアレオスが死ぬと、アイギアレオスの兄弟ポロネオスは、彼の息子エウロプスをシキュオン王にした。
シキュオンの町のテルキンは、エウロプスの王位を簒奪した。[7]
アルゴス王ポロネオスは、パッラシア人と共に、テルキン率いるテルキネス族を攻めたが、撃退された。[8]
BC1690年、ポロネオスの子アピスは、テルキンを破って、シキュオンの町をアルゴスの町に併合した。[9]
BC1665年、テルキンは、彼の息子テルキオンと共に、アピスを殺して、25年間のアルゴスの町の支配からシキュオンの町を独立させた。[10]

3 クレタへの移住
BC1690年、アピスとの戦いに敗れたテルキネス族の一部は、テルキンの子クレスに率いられて、クレタ島へ移住した。[11]
クレスはクレタ島西部のレウカ山の北側の海に近い土地(後のアプテラの町)に定住した。[12]
テルキネス族は、エテオクレタ人に名前を変え、クレスは、クレタ島のエテオクレタ人の王になった。[13]
クレタ島は テルキニア、島に住む人々は テルキネス族 と呼ばれた。[14]
AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、クレタ島を最初に統治したのは、クレスであり、クレスの名前に因んで、クレタ島と呼ばれるようになったと伝えている。[15]

3.1 テルキネス族について
3.1.1 鉄の発見者
BC1438年、クレタ島のイダ山に発生した山林火災で、偶然、鉄が発見された。[16]
テルキネス族は、アプテラの町で、初めて鉄を加工し、イダ山のダクテュロスと呼ばれるようになった。[17]

3.1.2 金属加工技師
テルキネス族は、鉄の鍛錬方法を発明した。[17-1]
また、テルキネス族は、初めて、鉄と銅を加工した。[17-2]

3.1.3 鉱山師
テルキネス族は、カドモスに同行して、パンガイオン山付近で金鉱を発見し、カドメイアの町で銅を見つけた。[17-3]
また、テルキネス族は、エウボイア島のカルキスの町で銅鉱床を見つけた。[17-4]

3.1.4 線文字Bの発明者
線文字Bはギリシア語であり、最古の使用は、BC1450年頃だそうである。[17-5]
線文字Bは、未解読の線文字Aをもとにして、クレタ島で発明されたと推定されている。
テルキネス族の次にクレタ島へ移住したギリシア人は、BC1450年にアルカディア地方からクレタ島へ移住したペラスゴイ人であった。[17-6]
しかし、アルカディア地方に住んでいたペラスゴイ人が、線文字Bを発明したとは、考えられない。
彼らより前に、クレタ島に住んでいて、線文字Aの書き手から知識を得ることができたテルキネス族が、線文字Bを発明したと推定される。

3.2 クレタからロドスへの移住
テルキネス族によるクレタ島からロドス島への移住は、少なくとも2回あった。
1) エリュシクトンより前の移住
テルキネス族の一部は、クレタ島からオピウッサ (後のロドス)島へ移住して、島はテルキニス島と呼ばれるようになった。[18]
テルキネス族がクレタ島からロドス島へ移住したのは、BC1690年からBC1470年までの間と推定される。[19]
2) エリュシクトンの移住
BC1450年、エリュシクトンは、クレタ島東部のプラソスの町からロドス島へ移住した。[20]
エリュシクトンの移住は、アルカディア地方のテゲアの町からテゲアテスの子ゴルテュスに率いられたペラスゴイ人のクレタ島入植が原因と推定される。[21]
エリュシクトンは、ハリアの娘ロドスと結婚し、ヘリアダイと呼ばれる7人の息子たちが生まれた。[22]
ハリアは、先住民テルキネス族の一人であった。[23]
エリュシクトンと共に、クレタ島から入植した人々は、テルキネス族と共住した。
エリュシクトンは、BC1690年にシキュオンの町からクレタ島へ移住したクレスの後裔であり、エテオクレタ人 (テルキネス族)であった。[24]

3.2.1 ロドスから各地への移住
BC1425年、ヘリアダイとテルキネス族との間で争いが生じて、テルキネス族は島を追われて、各地へ移住した。[25]
テルキネス族の一人リュコスは、リュキア地方のクサントス川近くへ移住した。[26]
ロドス島には、ヘリアダイに名前を変えたテルキネス族が残った。
テルキネス族の一部は、サモトラケ島へ移住し、その後、近くのレムノス島にも住むようになった。[27]

3.2.1.1 サモトラケからボイオティアへの移住
BC1420年、サモトラケ島に住んでいたテルキネス族は、カドモスの移民団に参加して、ボイオティア地方へ移住して、テウメッソスの町に定住した。[28]
途中、テルキネス族は、トラキア地方のカルキディケ半島北方のパンガイオン山付近で金鉱を発見した。[29]
テルキネス族は、カドモスが創建したカドメイアの町で、カドメアと名付けられる銅鉱石を発見した。[30]

3.2.1.2 スパルトイ
カドメイアの町でカドモスに次ぐ権力を持っていたスパルトイは、大蛇の歯を播いた土から這い出てきたと伝えられている。旅の途中、テルキネス族が各地で鉱石を探して試掘をしている様子から、この伝承が誕生したと思われる。スパルトイの中には、テルキネス族がいたと推定される。[31]
スパルトイは、大蛇を象徴にしているが、テルキネス族の島テルキニス (後のロドス)の大蛇に関連していると思われる。
スパルトイは、カドモスの後裔たちがテバイの町を去った後も、予言者あるいは将軍として、指導的地位を1000年以上も保ち続けた。[32]

3.2.2 ロドスから各地への移住
BC1415年、ヘリアダイ (オキモス、ケルカポス、マカレウス、トリオパス、アクティス、カンダロス、テナゲス)の間で、争いが生じて、ヘリアダイの一部は、各地へ移住した。
マカレウス (または、マカル)は、レスボス島へ移住した。[33]
カンダロスは、コス島へ移住した。[34]
アクティス (または、アウゲス, アトラス)は、エジプトへ移住して、ヘリオポリスの町を創建した。[35]
トリオパスは、カリア地方へ移住して、トリオピオン (または、トリオピア)の町を創建した。[36]

3.3 クレタからトロアスへの移住
BC1435年、アプテラの町に住んでいたテルキネス族は、テウクロスに率いられて、クレタ島からトロアス地方へ移住して、イダ山近くに定住した。[37]
テウクロスの移民団には、BC1450年に、アルカディア地方からクレタ島へ移住して、キュドニアの町に住んでいたペラスゴイ人 (アルカディア人)も含まれていたと思われる。[38]
BC1420年、サモトラケ島から移住して来たダルダノス率いるペラスゴイ人 (アルカディア人)は、テウクロスと共住した。[39]
BC1327年、ダルダノスの子エリクトニオスの子トロスの子イロスは、ウィルサ王になった。[40]
テルキネス族は、ペラスゴイ人やウィルサの人々と混血して、トロイ人に名前を変えた。
プリアモスの富は、イダ山近くのアステュラの金鉱から生れたと伝えられている。[41]
その採掘には、イダ山近くで、鉄の加工をしていたイダ山のダクテュロス (テルキネス族)が従事していたと推定される。[42]

3.3.1 トロアスからリュディアへの移住
BC1325年、イダ山近くに住んでいたタンタロスは、イリオンの町のイロスから攻められて、リュディア地方のシピュロス山近くへ移住した。[43]
タンタロスの移住には、テルキネス族も同行し、シピュロス山周辺で金を採掘した。[44]
タンタロスの子孫の富は、シピュロス山一帯の鉱床から生れた。[45]

3.3.1.1 リュディアからイタリアへの移住
BC1318年、アテュスの子テュッレノス率いるマイオニア人は、ヒッタイトに追われて、リュディア地方からレムノス島へ逃れた。
BC1300年、テュッレノスは、レムノス島からイタリア半島の西海岸へ移住した。[46]
テュッレノスには、シピュロス山周辺に住んでいたテルキネス族も同行した。イタリア半島とキュルノス島の間に浮かぶ銅や鉄を産出するエルバ島には、アイタリアと名前が付けられていた。アイタリアは、レムノス島の古い名前であった。[47]

3.3.2 トロアスからシシリーへの移住
BC1295年、イロスの子ラオメドンは、パイノダマス (または、ヒッポテス)によって、イリオンの町から追放された。ラオメドンは、ヒッタイトの援助で、イリオンの町を奪還した。
この戦いで、パイノダマスは死に、戦いに敗れたトロイ人は、パイノダマスの娘たちと共に、シシリー島へ逃れた。[48]
シシリー島で、パイノダマスの娘エゲスタに息子アイゲストス (または、アケステス)が生まれた。[49]

3.3.3 トロアスから各地への移住
BC1244年、トロスの子アッサラコスの後裔は、エゲスタの子アイゲストスをシシリー島から呼び寄せて、ラオメドンの子プリアモスを追放して、イリオンの町を占領した。[50]
プリアモスは、ヒッタイトの援助で、イリオンの町を奪還した。
この戦いに敗れたトロイ人は、各地へ移住した。

3.3.3.1 トロアスからシシリーへの移住
BC1244年、アッサラコスの子カピュスの子アンキセスに率いられたトロイ人は、アイゲストスに案内されてシシリー島へ移住した。[51]
アンキセスの子アイネアスは、シシリー島で生まれた。[52]
BC1184年、アイネアスは、トロイ人を率いて、シシリー島からイタリア半島中西部のラウレントゥムの町の近くへ移住した。[53]
トロイ人は、エウアンドロスと共に、移住して来たアルカディア人や、先住民のラテン人と混血して、ローマ人に名前を変えた。

3.3.3.2 トロアスからパイオニアへの移住
BC1244年、アッサラコスの子カピュスの子アイシュエテスの子アンテノールに率いられたトロイ人は、パイオニア地方へ移住した。[54]
アンテノールには、ミュシア・オリュンペネに住んでいたミュグドン率いるミュグドニア人も同行した。[55]
アンテノールの妻は、ミュグドンの子キッセウスの娘テアノであった。[56]
ミュグドニア人は、テッサリア地方からプリュギア地方のアスカニア湖付近へ移住して、ドリオネスに名前を変えたペラスゴイ人であった。
ミュグドニア人には、イダ山に住んでいたイダ山のダクテュロス (テルキネス族)も同行していた。[57]
後に、彼らは、マケドニア地方のベルミオス山周辺からミダスの富を掘り出す技術者になった。[58]
ミダスは、ミュグドンの後裔であり、ミュグドニア人の王であった。[59]
BC1188年、アンテノールの息子たちは、トロイ人を率いて、トロアス地方へ移住した。
アンテノールの息子たちは、プリアモスの子ヘクトールをイリオンの町から追放して、町を占領した。[60]

3.3.4 トロアスから各地への移住
BC1186年、イリオンの町を奪還するため、プリアモスの子ヘクトールは、アカイア人と共に、アンテノールの息子たちと戦った。ヘクトールが戦死して、トロイ人は各地へ移住した。

3.3.4.1 トロアスからモロッソス人の地へ移住
BC1186年、トロイ人は、プリアモスの子ヘレノスと共に、アキレスの子ネオプトレモスに率いられて、モロッソス人の地へ移住した。[61]
ヘレノスには、彼の兄弟カオンやヘクトールの息子たちが同行していた。[62]
カオンに率いられたトロイ人は、カオニア人に名前を変えた。[62-1]
BC1170年、ヘクトールの息子たちは、トロイ人を率いて、イリオンの町を攻撃して、アンテノールの息子たちを追放して、町を奪還した。
BC1156年、モロッソス人の地に残っていたトロイ人は、ヘクトールの妻アンドロマケの子ペルガモスに率いられて、ミュシア地方へ移住して、ペルガモンの町を創建した。[63]

3.4 クレタからエレイアへの移住
BC1420年、アクモン (または、イダ山のヘラクレス)は、クレタ島からエレイア地方のオリュンピアの町へ移住した。[64]
アクモンは、イダ山のダクテュロスの一人であった。[65]
つまり、クレタ島からエレイア地方へ移住した人々は、テルキネス族であった。
アクモンが去った後も、オリュンピアの町には、テルキネス族が残っていた。
BC1345年、アクモンの孫クリュメノスは、クレタ島のキュドニアの町からオリュンピアの町へ移住した。[66]
BC1344年、クリュメノスは、エリスの町に住むアイトリオスの子エンデュミオンによって、オリュンピアの町から追放された。[67]
クリュメノスの移住先は、トロアス地方のイダ山近くと思われる。[68]

3.5 クレタからカリアへの移住
BC1416年、アクモンは、カリア地方のケッロネソスへ移住して、カリア人を追い出して、5つの町を創建した。[69]
アクモンと共に、カリア地方へ移住した人々は、カリア人と混血して、テルキネス族からレレゲスに名前を変えた。
アクモンの子アンカイオスは、レレゲスの王になった。[70]

3.5.1 レレゲスの居住地域
BC1404年、アンカイオスは、ケッロネソスからマイアンドロス川の近くへ拠点を変えて、レレゲイス (後のミレトス)の町を創建した。[71]
レレゲスは、アナトリア半島中央部から小アジアへ勢力を伸ばすヒッタイトと戦った。
レレゲスは、ヒッタイトの勢力が強いときは、サモス島などへ逃れ、ヒッタイトの勢力が弱まると本土へ進出した。
トロイ戦争時代、レレゲスは、カリア地方からトロアス地方まで、広範囲に居住していた。[72]

4 シキュオンのテルキネス族
アピスを殺したテルキオンがシキュオン王になり、テルキオンの跡をアイギュドロス、アイギュドロスの跡をトゥリマコスが継いだ。[73]

4.1 アルゴスの内紛
BC1635年、アルゴスの町で、イナコスの子ポロネオスが所属していた部族(以下、イナキア人)とパッラシア人との争いが起きた。
イナキア人に属するニオベの子アルゴスの息子たち、テュリンスとエピダウロスは、アルゴスの町から移住して、テュリンスとエピダウロスの町を創建した。[74]

4.2 ミュケナイへの嫁入り
BC1601年、トゥリマコスの娘イスメネは、ミュケナイの町に住むアルゴスに嫁いだ。[75]
アルゴスは、ポロネオスの娘ニオベの子アルゴスの子エクバソスの子アゲノールの息子であった。[76]
アルゴスは、アルゴスの町に住むパッラシア人との戦いに敗れて、当時、テルキネス族が住んでいたミュケナイの町へ移住して、彼らと共住した。ミュケナイの町は、アルギオンと呼ばれるようになった。[77]
アルゴスとイスメネには、息子メッサポスが生まれた。[78]

4.3 ミュケナイへの嫁入り
トゥリマコスの跡を、彼の息子レウキッポスが継いだ。[79]
BC1576年、レウキッポスの娘カルキニアは、ミュケナイの町に住むメッサポスに嫁いだ。[80]
メッサポスは、カルキニアの従兄であった。

4.4 アルゴスの占領
ミュケナイ王メッサポスは、シキュオン王になった。[81]
メッサポスは、第7代シキュオン王トゥリマコスの孫であり、第8代シキュオン王レウキッポスの娘婿であった。
BC1560年、メッサポスは、彼の父アルゴスを追放したアルゴスの町を攻めて、町を占領した。
アルゴスの町に住んでいたパッラシア人 (ペラスゴイ人)は、各地へ移住した。[82]

4.5 テルキネス族の黄金時代
この戦いの後で、メッサポスは、アルカディア地方に住むペラスゴイ人を除いて、ペロポネソス半島に住む人々の大半を支配することになった。
メッサポスの身近には、イナキア人 (ペラスゴイ人)がいたが、大部分の住人は、テルキネス族であった。
テルキネス族が住むシキュオンの町は、ミュケナイ、アルゴス、テュリンス、エピダウロスの町と共に、繁栄した。

4.6 ダナオスの出現
BC1430年、プレムナイオスの子オルトポリスの時代に、ダナオスがエジプトからアルゴスの町へ移住して来た。[83]
ダナオスは、BC1560年にアルゴスの町から追われたイアソスの娘イオの後裔であった。
アルゴスの町を支配していたステネラスの子ゲラノールは、ダナオスに追われて、シキュオンの町へ逃れた。[84]
このとき、ミュケナイの町は、ゲラノールの兄弟エウリュステウスが支配していた。[85]
ミュケナイの町も、ダナオスによって破壊され、ミュケナイの町に住んでいたテルキネス族は、シキュオンの町へ逃れた。

4.7 アルゴスの占領
BC1408年、シキュオンの町へ亡命していたゲラノールの子ラメドンは、アルゴスの町を攻めて、町を占領した。[86]
ダナオスの跡を継いだリュンケウスが死に、リュンケウスの子アバス (または、トリオパス)が父の跡を継いでから、5年目であった。[87]
アルゴスの町は、再び、テルキネス族の町になった。

4.8 シキュオンからの移住
BC1407年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスに率いられたアカイア人は、アルゴスの町を占拠していたラメドンを追い出した。[88]
さらに、アカイア人は、アイオロスの子シシュッポスと共に、シキュオンの町のテルキネス族を追放して、シキュオンの町の東隣に、コリントスの町を創建した。[89]

4.9 テルキネス族の行方
ミュケナイの町やシキュオンの町から追われたテルキネス族は、メッセニア地方西部へ逃れて、イクライナの町を創建したと推定される。

4.9.1 空白地帯
パウサニアスは、BC1405年にラケダイモンの町のレレクスの子ポリュカオンが、アンダニアの町を創建したとき、メッセニア地方は、無人であったと記している。[90]
その後、BC1280年にペリエレスの子アパレウスが、アレネの町を創建するまで、メッセニア地方西部の状況は、まったく不明である。[91]
BC1280年より前のメッセニア地方西部は、伝承が残っていない空白地帯であった。

4.9.2 イクライナの創建者
最近の考古学調査で、BC1405年にアンダニアの町の創建されたとき、メッセニア地方西部に、イクライナの町が存在していたことが判明した。[92]
イクライナの町の遺跡から、その頃の線文字Bが記された粘土板が出土している。[93]
BC1330年にペルセウスが創建する前のミュケナイの町の状況は、ギリシアの伝承から知ることはできない。しかし、実際は、アルゴスの町やシキュオンの町を支配下に置いたミュケナイの町が存在していた。
これと同じように、ギリシアの伝承には記されていないイクライナの町が、メッセニア地方西部に存在していた。
イクライナの町は、ミュケナイの町やシキュオンの町から逃れたテルキネス族が創建した町であったと思われる。

4.9.3 イクライナの創建年
イクライナの創建年は、ミュケナイの町から、直接、メッセニア地方へ逃れたテルキネス族が町を創建したとすれば、BC1430年と思われる。
また、ミュケナイの町からシキュオンの町を経由して、メッセニア地方へ逃れたテルキネス族が町を創建したとすれば、BC1407年と思われる。

4.9.4 イクライナの古名
ペリエレスの子アパレウスは、メッセニア地方の西海岸に、アレネの町を創建した。[94]
また、アパレウスの息子たちは、パパイの町に住んでいて、その町の植民市がクレタ島にあったとも伝えられている。[95]
BC1405年にアンダニアの町が創建されてから、BC1280年にアレネの町が創建されるまでの間に、イクライナの町は、アンダニアの町の支配下に入ったと推定される。
パパイは、イクライナの町の古名であったと思われる。

4.9.5 イクライナの破壊者
イクライナの町は、BC1200年頃に破壊されたようである。[96]
破壊者は、ネレウスの子ネストルであったと推定される。
BC1209年、ネストルは、エレイア地方南部のピュロス・レプレアティコスの町からメッセニア地方へ移住して、イクライナの町の近くにピュロスの町を創建した。[97]
パウサニアスは、ネストルが、アパレウスの子イダスの跡を継いだと記している。[98]
しかし、ネストルは、イダスが住んでいたアレネの町に居住せずに、ピュロスの町を創建していることから、武力でメッセニア地方西部を獲得したと推定される。

4.9.6 線文字Bの書き手
線文字Bの書き手は、ミュケナイの町からイクライナの町へ移住し、その後、イクライナの町からピュロスの町へ移住したと推定される。

5 テルキネス族の居住地の広がり
BC1700年、テルキネス族は、ペロポネソス北部のアイギアレイア (後のシキュオン)の町で誕生した。
BC1690年、アイギアレイアの町に住んでいたテルキネス族は、クレタ島北西部へ移住して、エテオクレタ人、あるいは、テルキネス族に名前を変えた。
BC1690年からBC1470年までの間、クレタ島に住んでいたテルキネス族は、ロドス島へ移住した。
BC1560年、ペロポネソスに残ったテルキネス族は、シキュオン、ミュケナイ、アルゴスの町に住み、黄金時代を迎えた。
BC1450年、クレタ島に住んでいたエテオクレタ人は、ロドス島へ移住して、ヘリアダイに名前を変えた。
BC1435年、クレタ島に住んでいたテルキネス族は、トロアス地方へ移住して、トロイ人に名前を変えた。
BC1430年、アルゴスの町やミュケナイの町に住んでいたテルキネス族は、シキュオンの町へ移住した。
BC1416年、クレタ島に住んでいたテルキネス族は、カリア地方へ移住して、レレゲスに名前を変えた。
BC1415年、ロドス島に住んでいたヘリアダイは、エジプトへ移住して、ヘリオポリスの町を創建した。
BC1407年、シキュオンの町に住んでいたテルキネス族は、シキュオンの町から追放された。
BC1244年、トロアス地方に住んでいたトロイ人は、シシリー島へ移住した。
BC1184年、シシリー島に住んでいたトロイ人は、イタリア半島中西部へ移住して、ローマ人に名前を変えた。

6 ギリシア暗黒時代
テルキネス族から名前を変えたエテオクレタ人がクレタ島に、エテオクレタ人から名前を変えたトロイ人がトロアス地方に、トロイ人から名前を変えたローマ人がイタリア半島に住んでいた。

おわり