1 はじめに
BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。[1]
Inachusの子Phoroneusに率いられた人々は、新天地を求めて、Peloponnesus半島へ移動して、平野の端に定住して、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[2]
BC1690年、Phoroneusの子Apisは、Aegialeia (後のSicyon)の町をPhoroneusの町に併合して、Peloponnesusの支配者になった。
2 名祖Pelasgus
Niobeの子Pelasgusは、Pelasgiansの名祖であった。[3]
しかし、Pelasgusの名前は、BC2世紀の年代記作者CastorのArgos王たちの名前の中にない。[4]
Pelasgusの名前に因んで、Phoroneusの後裔がPelasgiansと呼ばれるようになったのには、つぎのような事情があったと推定される。
Apisは、Aegialeiaの町をPhoroneusの町に併合して、彼の甥PelasgusにAegialeiaの町を統治させた。Aegialeiaの町には、Telchisを首領とするTelchinesが住んでいた。[5]
そのTelchinesと区別するために、Pelasgusと共に、Phoroneusの町からAegialeiaの町へ移住した人々は、Pelasgusの名前に因んで、Pelasgiansと呼ばれた。[6]
つまり、Pelasgiansが誕生したのは、Phoroneusの町ではなく、Aegialeia (後のSicyon)の町であった。
3 AegialeiaからArgosへの移住
BC1665年、Telchinesとの戦いで、Apisが死んで、Sicyonの町は、Phoroneusの町から独立した。[7]
この戦いでPelasgusも死に、Sicyonの町に住んでいたPelasgiansは、Pelasgusの子Lycaonに率いられて、Phoroneusの町へ移住した。
Apisの跡を、Apisの姉妹Niobeの子Argusが継いだ。[8]
Phoroneusの町は、Argusの名前に因んで、Argosと呼ばれるようになった。[9]
4 Argosの内紛
BC1635年、Argosの町に住んでいたInachiansとParrhasiansが、それぞれ、Argusの息子たちを味方に付けて争った。
この争いの結果、Argosの町から各地へPelasgiansが移住した。
4.1 TirynsとEpidaurusの創建
Argusの子Tirynsは、Argosの町から南東へ移住して、Tirynsの町を創建した。[10]
Argusの子Epidaurusは、Argosの町から東へ移住して、Epidaurusの町を創建した。[11]
4.2 Italyへの移住
BC1635年、OenotrusとPeucetiusは、Argosの町からItaly半島へ移住した。[12]
OenotrusとPeucetiusの移住も、Argosの町の内紛が原因であったと思われる。
OenotrusとPeucetiusは、Argusの兄弟Pelasgusの子Lycaonの息子たちであった。[13]
Oenotrusに率いられたPelasgiansは、Oenotrians (or Oenotri)に名前を変えた。[14]
Peucetiusに率いられたPelasgiansは、Peucetians (or Peucetii, Poedicli)に名前を変えた。[15]
4.3 王位簒奪
BC1601年、Argusの子Criasusの子Phorbasは、Argusの子Peirasusの子Triopsから王位を簒奪した。
Triopsに味方したArgusの子Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Argosの町からMycenaeの町へ移住した。町はArgionと呼ばれるようになった。[16]
Argusが移住する前、Mycenaeの町には、Telchinesが居住していたと思われる。
Argusと第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneとの結婚により、さらに、Sicyonの町からTelchinesが、Mycenaeの町へ移住した。[17]
恐らく、Mycenaeの町の住人は、Pelasgiansより、Telchinesの方が多かったと推定される。
5 Argosからの大移動
BC1560年、Mycenaeの町のArgusの子Messapusは、Argosの町を攻めて、住人を追放した。
Triopasの子Agenorの子Pelasgus率いるPelasgiansは、Argosの町から西南西のArcadia地方のLycaeus(標高1,421m)山麓へ移住した。[18]
Arcadia地方へ移住したPelasgiansは、Pelasgusの後裔Callistoの子Arcasに因んで、Arcadiansに名前を変えた。[19]
Agenorの子Pelasgusの後裔については、『Arcadiansの系譜』で記述する。
この他、Argosの町に住んでいたPelasgians (Parrhasians)は、各地へ移住した。[20]
5.1 ArgosからEgyptへの移住
BC1560年、Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusに率いられたPelasgiansは、Argosの町からEgyptへ移住した。[21]
Iasusの娘Ioは、EgyptのSaisの町に住んでいたTelegonusと結婚した。[22]
Ioの息子Epaphusは、NileDeltaの南へ移住して、Memphisの町を創建した。 [23]
また、Ioには、Cranausという名前の息子もいた。[24]
5.1.1 EgyptからAthensへの移住
BC1515年、Ioの子CranausはPelasgiansを率いて、EgyptからAttica地方へ移住した。[25]
Cranausは、第2代Athens王になり、Pelasgiansは、Cranaansと呼ばれるようになった。[26]
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、Pelasgiansを率いて、EgyptからAthensの町へ移住した。[27]
Pelasgiansは、先住していたEctenesと共住して、Atheniansに名前を変えた。
Cranausの後裔については、『Atheniansの系譜』で記述する。
5.1.2 EgyptからPeloponnesusへの移住
Ioの子Epaphusの娘Libyaには、3人の息子たち、Agenor、Belus、Lelexが生まれた。[28]
BC1430年、Belusの息子たちとLelexに率いられたPelasgiansは、Peloponnesusへ移住した。
その後、Peloponnesusに住んでいたPelasgiansは、Thessaly地方に起源を持つAchaeansと共住した。
5.1.2.1 EgyptからArgosへの移住
BC1430年、Belusの子Danausに率いられたPelasgiansは、Peloponnesusへ移住して、Argosの町に定住した。[29]
Argosの町は、130年前に、Danausの先祖が追放された町であった。
5.1.2.2 EgyptからLacedaemonへの移住
BC1430年、Lelexに率いられたPelasgiansは、Eurotas川の中流付近へ移住した。[30]
5.1.2.3 EgyptからMegaraへの移住
その後、Lelexは、Pelasgiansを率いて、Megara地方へ移住した。そこは、Lelexより12世代前にPhoroneusの子CarがArgosの町から移住した土地であった。[31]
5.1.2.4 EgyptからTroezenへの移住
BC1430年、Belusの息子と思われるOrusに率いられたPelasgiansは、Peloponnesus東部へ移住して、Oraea (後のTroezen)の町を創建した。[32]
5.1.2.5 EgyptからPatraeへの移住
BC1430年、Belusの子Aegyptusに率いられたPelasgiansは、Peloponnesus北西部へ移住して、Aroe (後のPatrae)の町に定住した。[33]
5.2 ArgosからAsia Minorへの移住
BC1560年、Iasusの兄弟Xanthusに率いられたPelasgiansは、Lycia地方に植民後、Issa (後のPelasgia、Lesbos)島へ移住した。[34]
Xanthusに同行していたCyrnusに率いられたPelasgiansは、Caria地方へ移住して、Cyrnusの町を創建した。[35]
5.3 ArgosからMegaraへの移住
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Crotopusに率いられたPelasgiansは、Megara地方のGeraneia山麓へ移住して、Tripodiskionの町を創建した。[36]
Megara地方へは、BC1725年にPhoroneusの子Carが、Argosの町から移住していた。[37]
5.4 ArgosからThessalyへの移住
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaに率いられたPelasgiansは、Thessaly地方へ移住した。[38]
Pelasgiansは、Thessaly地方北部のPeneius河畔のLarisaの町を中心にして、広い地域に定住した。[39]
BC1511年、Larisaの子Pelasgusの時代に、Thessaly地方北部を震源とする大地震が発生した。Tempeと呼ばれる山々が裂けてTempe渓谷ができ、沼の水がPeneius川に注いで沼地が干上がってDotiumという平原になってPelasgiansは居住地を広げた。[40]
5.4.1 ThessalyからDodonaへの移住
BC1480年、Haemonの子ThessalusはPelasgiansを率いて、Thessaly地方のScotussaの町からDodonaへ移住した。[41]
Thessalusは、Scotussaの町にあった神託所も移して、Dodonaに神殿を造営した。[42]
この移住には町のほとんどの女人が同行し、Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は代々、彼女たちの子孫であったと伝えられる。[43]
6 Thessalyからの大移動
Pelasgusの娘Larisaに率いられて、Argosの町から移住したPelasgiansは、Thessaly地方に6世代住み続けた。その間、Pelasgiansの人口は、肥沃な大地の恵みを受けて、急激に増加した。[44]
BC1390年、Aegean Seaに発生した大津波は、Thessaly地方沿岸部に住むPelasgiansの町を襲った。居住地を失ったPelasgiansは内陸へ大挙して移動し、Pagasetic Gulf西岸のItonusの町を襲った。
Itonusの町には、Deucalionの子Amphictyonの子Itonusと彼の妻Melanippeが住んでいた。
Melanippeは、Thessaly地方のArneの町に住むHippotesの子Aeolusの娘であった。[45]
AmphictyonとAeolusは同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追い出した。[46]
Thessaly地方を追われたPelasgiansは、新たな土地を求めて四散した。
6.1 ThessalyからDodonaへの移住
BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺へ逃げ込んだ。[47]
Dodona周辺から、Pelasgiansの一部は、Italy半島へ渡ったが、多くのPelasgiansは、故郷Thessaly地方へ帰還する日を待ちながら山地で暮らした。[48]
彼らの指導者は、Pelasgusの子Lycaonであり、Lycaonの子Thesprotusの名前に因んで、PelasgiansからThesprotiansに名前を変えた。[49]
Thesprotiansが住む地方は、Thesprotia地方と呼ばれるようになった。
Thesprotusの子Ephyrusは、Dodona南西の海の近くにEphyra (後のCichyrus)の町を創建した。[50]
Ephyraは、Thessaly地方のScotussaの町の近くにあるCrannonの町の古い名前であった。[51]
6.1.1 ThesprotiaからThessalyへの帰還
BC1186年、Thesprotiansは、Thesprotia地方からThessaly地方へ攻め込んで占領した。[52]
Thessaly地方に住んでいたPelasgiansの後裔は、彼らの先祖がThessaly地方を追放されてから、204年後に故郷へ帰還した。
6.1.1.1 帰還前のThessalyの状況
BC1257年、Lapithsに追われて、Dotion平原に居住していたAenianiansはOeta山北側に移住した。その後、Aenianiansの一部はOlympus山南西のCyphusの町付近に移住した。
また、Gyrtonの町周辺に居住していたPerrhaebiansの一部は、Peneius川上流のDodona近くのLacmus山周辺に移住した。しかし、多くのPerrhaebiansは、Lapithsに隷属して共住した。[53]
BC1227年、LapithsはGyrtonの町を中心に、Magnesia地方やPagasetic Gulf周辺に居住範囲を広げ、Peneius川を越えてDoriansの居住地をも圧迫するようになった。しかし、Doriansに味方したHeraclesによって、Lapithsは攻め滅ぼされた。[54]
これより少し前、Iolcusの町の周辺に住んでいたMinyansは、Peliasの子Acastusの横暴に抵抗して反乱を起こし、Phthia地方のPeleusによって追い出されていた。[55]
Trojan War時代のThessaly地方は、中心的な町であったIolcusが破壊され、LapithsもHeraclesとの戦いに敗れて、Phthiaの町が大きな力を持つようになった。
Peleusの子Achillesの時代には、Phthiaの町は、Scyros島やBoeotia地方にまで影響力を持っていた。[56]
6.1.1.2 帰還の端緒
BC1190年、Italy半島北東部のRavennaの町の住人は、Tyrrheniansに追われて、Thesprotia地方へ移住した。[57]
彼らは、Thessaly地方を追われたPelasgiansの後裔であった。[58]
Straboは、彼らがThessaly地方へ帰還したと伝えている。[59]
しかし、彼らは、Ravennaの町からThessaly地方へ帰還したのではなく、Adriatic Seaを渡って、Thesprotia地方へ移住して来たと思われる。
彼らの出現は、Thesprotiansを刺激して、Thessaly地方侵入の引き金になったと推定される。
これより前、ギリシア北西部へは、次のように各地からの入植があった。
1) Aetoliaへの入植
BC1320年、Elisの町のEndymionの子Aetolusは、Aetolia地方のCuretesの土地に移住して、Pleuronの町とCalydonの町を創建した。[60]
Aetolusの入植の後、Greece北西部は、人気のある移住先となり、その地への入植が盛んになった。[61]
2) Cephalleniaや島々への入植
BC1277年、Alcaeusの子Amphitryonは、Deionの子Cephalusと共にTeleboansの地へ遠征した。[62]
遠征隊は、Acarnania地方西方のIonian Seaに浮かぶ島々からTeleboansを追い出して植民した。[63]
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、島をCephalleniaと名付けた。[64]
Alcaeusの兄弟Heliusは、Echinades諸島に入植した。[65]
3) Acarnaniaへの入植
BC1246年、Pelasgiansが、Sicily島からAcarnania地方へ移住して来た。[66]
このPelasgiansは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Italy半島へ渡り、Rome近くのRegis Villaの町に住んでいた。彼らは、BC1300年にLydia地方から渡来したTyrrheniansに追われてSicily島へ移住していた。[67]
4) Cephalleniaへの入植
BC1244年、Augeasの子Phyleusは、Elisの町からCephallenia島のDulichiumに入植した。[68]
5) Ephyraの攻略
BC1237年、Amphitryonの子Heraclesは、Thesprotia地方へ遠征して、Ephyraの町を攻略した。[69]
Trojan War時代、Jasonの子Mermerusの子Ilusは、Ephyraの町に住んでいた。[70]
6) Corcyraへの入植
BC1237年、Heraclesと共に遠征したAesonの子Jasonは、Scheria (後のCorcyra)島へ入植した。[71]
7) Acarnaniaへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したOebalusの子Icariusは、Acarnania地方に入植した。
Icariusの2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusは、Acarnania地方に自分たちの名前を付けた町を創建した。[72]
8) Taphosへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したPerseusの子Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からTaphos島に入植した。[73]
9) Echinadesへの入植
BC1237年、Heraclesの遠征に参加したPhyleusの子Megesは、Cephallenia島からEchinades諸島の最大の島へ移住して、故郷と同じDulichiumと呼んだ。[74]
10) Ambracian Gulf近くへの入植
BC1204年、Amphiarausの子Alcmaeonは、Argosの町からAmbracian Gulfの東側へ移住して、Argos (後のArgos-Amphilochicum)の町を創建した。[75]
6.1.1.3 指導者の誕生
BC1237年のHeraclesの遠征で捕虜になったEphyraの町のPhyleusの娘AstyocheとHeraclesとの間には、息子Dexamenusが生まれた。
Dexamenusの子Ambraxは、Ambracian Gulf北部のAmbraciaの町を支配した。[76]
Dexamenusには、PheidonやHaimonという息子たちもいた。[77]
Dexamenusの息子たちは、Thesprotiansの指導者になった。
6.1.1.4 Thessalyの無防備状態の出現
BC1188年、Thessaly地方に住んでいた戦闘可能な男たちは、Troyへ遠征した。
Trojan War時代、Thessaly地方は、外敵の侵入を防ぐことができない、無防備な状態であった。
6.1.1.5 帰還の状況
Thesprotiansが最初にThessaly地方へ侵入したのは、BC1186年であったと推定される。[78]
Thessaly地方のArneの町に住んでいたBoeotiansは、Heraclesの子Dexamenusの子Haimonに敗れた。Boeotiansの一部はBoeotia地方へ移住したが、大部分のBoeotiansは、Penestaeと呼ばれる農奴となって残留した。[79]
その後、Thesprotiansは、Achaeans、Perrhaebi、そしてMagnesiansと戦った。
Achaeansも、当初Penestaeとして住み続けることを許されたが、Arneの町のBoeotiansと共に、3世代目に追い出された。
結局、PerrhaebiansとMagnesiansがThesprotiansに従属してThessaly地方に住み続けた。[80]
Perrhaebiansは、800年後のAmyntasの子Philipの時代も、Thessaly地方北部に住んでいた。[81]
Thessaly地方の支配者になったThesprotiansは、Thessaliansに名前を変えた。
7 ThessalyからItalyへの移住
BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの一部は、Dodonaを経由して、Italy半島各地へ移住した。
7.1 Italy半島北部への移住
Dodonaを出発したPelasgiansは、Italy半島北東部へ移住して、Padus川の河口の南にSpinaの町を創建した。[82]
また、Spinaの町の少し南にも、Ravennaの町を創建した。[83]
7.2 Italy半島中部への移住
Thessaly地方北部のPerrhaebia地方に住んでいたPelasgiansは、Janusに率いられて、Italy半島東海岸からApennines山脈を越えて西側へ移動した。[84]
Janusは、Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子Amyntorの子Teutamidesの子Nanasの息子と推定される。[85]
Janusは、Reatine地方のCutiliaの町の近くで、Ausonesに受け入れられて、彼らと共住した。Ausonesは、Janusが現れる少し前にUmbriansやSicelsを追い出してCutiliaの町の近くに定住していた。 [86]
Janusの娘Olisteneは、古代Rome王たちを輩出したSabinesの名祖となったSancusの子Sabusと結婚した。[87]
Janusの子Aethexの子Faunusは、Umbriansを追い出し、Trasimene湖一帯を支配した。[88]
7.2.1 Italy半島からSicilyへの移住
BC1300年、Faunusの子Arnusは、Lydia地方から移住してきたAtysの子Tyrrhenus率いるTyrrheniansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[89]
さらに、Romeの西北西方の海岸近くのRegis Villaの地に住んでいた、Sabusの子Janusの子Maleusも、Tyrrheniansによって追い出された。[90]
Tyrrheniansに追われたPelasgiansは、Sicily島へ移住した。[91]
Pelasgiansは、Sicily島から次のように移住を繰り返した。
1) SicilyからAcarnaniaへの移住
BC1246年、Sicily島に住んでいたPelasgiansは、Italy半島から移住してきたSicelsに追われて、Acarnania地方へ移住した。[92]
2) AcarnaniaからBoeotiaへの移住
BC1188年、Acarnania地方に住んでいたPelasgiansは、Boeotia地方へ移動した。彼らは、Coroneiaの町に住んでいたBoeotiansを追い出して、町を占拠した。[93]
3) BoeotiaからAthensへの移住
BC1126年、Coroneiaの町を占拠していたPelasgiansは、Thessaly地方のArneの町から帰還したOpheltesの子Damasichthon率いるBoeotiansによってBoeotia地方から追放された。
Pelasgiansは、AgrolasとHyperbiusに率いられて、Athensの町に逃げ込み、Hymettus山麓の不毛な土地に住むことを許された。[94]
4) AthensからLemnosへの移住
BC1115年、Hymettus山麓に住んでいたPelasgiansは、不毛な土地が立派に開墾されたのを見たAtheniansに嫉まれて、Athensの町から追放されて、Lemnos島へ移住した。[95]
Lemnos島のPelasgiansは、Attica地方のBrauronの町から乙女たちを略奪して島へ連れ去り、Sintiesと呼ばれるようになった。[96]
5) LemnosからChalcidiceへの移住
BC495年、Lemnos島に住んでいたPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島へ移住して、Cleonae、Olophyxis、Acrothoi、Dium、Thyssusの町に定住した。[97]
BC1390年にThessaly地方からItaly半島へ移住したJanusの後裔は、約900年後、皮肉にも先祖が昔住んでいた土地の近くに戻って来た。
7.3 Italy半島南部への移住
BC1390年、Thessaly地方のItonusの町から、Amphictyonの子Itonusの妻Melanippeを拉致したDiusは、Pelasgiansを率いて、Italy半島南部のMetapontiumの町へ移住した。[98]
Metapontiumの町でMelanippeは2人の息子たち、AeolusとBoeotusを産んだ。[99]
8 ThessalyからPhrygiaへの移住
BC1390年、Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Silenusの子Dolionに率いられて、Hellespont近くのPhrygia地方のAscanian Lakeの近くへ移住した。[100]
その後、Pelasgiansは、Dolionesに名前を変えて、西へ移動し、Cyzicusの町周辺に広く居住するようになった。[101]
BC5世紀の歴史家Herodotusの時代、Cyzicusの町の東側のPropontisの岸辺のPlaciaの町とScylaceの町には、Pelasgiansが住んでいた。[102]
Dolionから5世代目のAeneusの子Cyzicusは、Cyzicusの町に住み、Troy王Priamの妻Arisbeの姉妹Cleiteを妻に迎えた。Cyzicusは、Argonautsの遠征隊が、かつて、先祖が追い出されたThessaly地方から来たと知って、彼らを攻撃した。[103]
また、Ida山中にもThessaly地方のLarissaの町から移住して来たGargarosに因んで名付けられた町があった。
Trojan War時代、Iliumの町の南のColonaeの町に住んでいた、Hecatoの娘Calyceの子Cycnus (or Cygnus)は、Gargarosの後裔と推定される。[104]
8.1 PhrygiaからPaeoniaへの移住
また、Olympus山近くのMysia地方に居住していたMygdoniansもThessaly地方から移住したPelasgiansであったと思われる。
BC1244年、Mygdonは、Laomedonの子Priamと戦っていたAntenorに味方して、居住地を追われた。Mygdonは、Mygdoniansを率いて、Paeonia地方へ移住した。[105]
その後、Mygdonの後裔は、Paeonia地方からMacedonia地方へ移住して、MygdoniansからBriges (or Brigans)に名前を変えた。[106]
BC670年、Mygdonの後裔Gordiasの子MidasはBrigesを率いて、Macedonia地方のBermius山近くから、先祖の地Phrygia地方へ移住した。[107]
Brigesは、Phrygiansに名前を変えた。[108]
Midasは、Mygdoniansの王であった。[109]
8.2 CyzicusからAntandrosへの移住
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansの一部は、Anatolia半島北西部のCyzicusの町へ移住した。[110]
Cyzicusの町を追われたDolionesは、Ida山南側のAntandrosの町へ移住した。[111]
Persia War時代、Antandrosの町には、Pelasgiansが住んでいた。[112]
9 ThessalyからLesbosへの移住
BC1390年、Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Aeolusの子Macareusの移民団に参加してPelasgia (後のLesbos)島へ移住した。[113]
その後、Macareusの息子たちは、近隣の島々(Chios、Samos、Rhodes、Cos)へ入植したが、その中にはPelasgiansも含まれていたと思われる。[114]
9.1 LesbosからHermus流域への移住
Trojan Warの時代、Hermus川流域には、Teutamusの子Lethusの2人の息子たち、HippothousとPylaeusを指導者とするPelasgiansの大部族が居住していた。[115]
Pelasgiansの大部族は、Asia Minorに影響力を及ぼしていたHittiteの属国になって、Seha River Landという名前で呼ばれていた。[116]
HittiteやPelasgiansの勢力が弱まった頃、Locris地方からAeolisの移民団を率いたMalausがHermus川の河口近くへ移住して来て、Phryconian Cymeの町を創建した。[117]
Aeolisに追われたTeutamusの後裔が率いるPelasgiansは、Italy半島へ移住して、Tyrrheniansが住むPisaeの町に定住した。[118]
Pisaeの町に住んでいたTyrrheniansは、Asia Minorから移住して来たPelasgiansを同族として受け入れて共住した。
10 ThessalyからLemnosへの移住
BC1390年、Thessaly地方から逃れたPelasgiansの移住先の中にLemnos島の名前はない。しかし、PelasgiansはHellespont付近の多くの島々へ渡ったと伝えられており、その中にLemnos島も含まれていたと思われる。[119]
BC3世紀の歴史家Anticleidesは、Lemnos島の最初の住民は、Pelasgiansであったと伝えている。[120]
10.1 LemnosからLydiaへの移住
Straboは、Lemnos島のPelasgiansの一部はAtysの子Tyrrhenusに率いられてItaly半島へ移住したと伝えている。[121]
Atysは、Manesの子Cotysの息子であった。[122]
このことから、Lydia地方のMaeoniansの祖Manesは、BC1390年にThessaly地方を追い出されたPelasgiansの指導者であったと推定される。[123]
Manesは、Thessaly地方からLemnos島を経由して本土へ渡り、Tmolus山の周辺に定住した。[124]
つまり、Maeoniansは、Thessaly地方からLydia地方へ移住して、名前を変えたPelasgiansであった。
Manesは、Hittite文書に記されたArzawa王Kupanta-Kuruntaと推定される。[125]
10.1.1 LydiaからLemnosへの移住
BC1318年、Hittite王Mursili IIとUhha-Ziti (Tantalus)との戦いで、Manesの後裔は、Uhha-Zitiに味方した。[126]
Hittiteとの戦いに敗れたMaeonians (Pelasgians)は、Atysの子Tyrrhenusに率いられて、Lydia地方からLemnos島へ逃れた。
Herodotusは、TyrrhenusがSmyrnaの町からUmbriaの土地へ移住したと伝えているが、当時、Smyrnaの町は存在していなかった。[127]
TyrrhenusがItalyに現れたのは、BC1300年頃であり、18年間のタイムラグがあり、その間、彼らはLemnos島にいたと推定される。
10.1.1.1 新たな移住先の選定
Tyrrhenusの移住後、さらに多くの移住者を受け入れたLemnos島は、人口過多になり、TyrrhenusはItaly半島へ移住することになった。
当時、Italy半島中部のAgyllaの町は、Delphiに宝庫を奉納する程に繁栄していて、その噂はギリシア世界全体に広まっていた。[128]
Agyllaの町を創建したのは、Thessaly地方を追われたPelasgiansであった。Lemnos島のPelasgiansは、同族としての交流からその繁栄ぶりを知っていたと思われる。また、両者の始祖が創建したDodonaへの奉納や神託を受けるための参拝などを通して、Agyllaの町の情報を知り得たものと思われる。[129]
10.1.1.2 LemnosからItalyへの移住
BC1300年、Tyrrhenusは、Maeoniansを率いて、Italy半島西海岸中部に上陸した。Maeoniansは、Latium地方へ侵入しようとして、Romisに撃退された。[130]
しかし、その後、Maeoniansは多くの先住民を追い出して、Italy半島北部に居住範囲を広げた。MaeoniansはTyrrhenusに因んで、Tyrrheniansに名前を変えた。彼らの居住地はTyrrhenia地方、Italy半島西側の海はTyrrhenia海と呼ばれるようになった。[131]
Tyrrheniansに追い出された先住民の多くは、90年前にThessaly地方を追い出されたPelasgiansであったが、彼らの間で言葉は通じなかった。[132]
10.1.2 LydiaからMysiaへの移住
BC1318年、Manesの子Cotysの子Atysの子Mysusは、Lydia地方からMysia of Pergamene地方へ移住した。[133]
Mysusの移住の原因は、彼の兄弟Tyrrhenusと同じく、Hittiteとの戦いであった。
BC1230年、Mysusの子Diomedesの子Teuthrasは、Arcadiansを率いて移住して来たTelephusの母Augeと結婚した。[134]
Pelasgiansから名前を変えたMaeoniansは、Arcadiansと共住して、Mysiansに名前を変えた。
11 ThessalyからChiosへの移住
BC1390年、Thessaly地方から逃れたPelasgiansの一部は、Chios島へ移住した。[135]
12 Pelasgiansの居住地の広がり
BC1690年、Pelasgiansは、Peloponnesus北部のAegialeia (後のSicyon)の町で誕生した。
BC1665年、Aegialeiaの町に住んでいたPelasgiansは、Argosの町へ移住した。
BC1560年、Argosの町に住んでいたPelasgiansは、Arcadia地方へ移住して、Arcadiansに名前を変えた。
BC1560年、Argosの町に住んでいたPelasgiansは、Egyptへ移住した。
BC1515年、Egyptに住んでいたPelasgiansは、Athensの町へ移住した。
BC1492年、Egyptに住んでいたPelasgiansは、Athensの町へ移住した。
BC1430年、Egyptに住んでいたPelasgiansは、Argosの町へ移住した。
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Dodona周辺へ移住して、Thesprotiansに名前を変えた。
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Lydia地方へ移住して、Maeoniansに名前を変えた。
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Hellespont近くのPhrygia地方へ移住して、DolionesやMygdoniansに名前を変えた。
BC1300年、Lydia地方に住んでいたMaeoniansは、Italy半島北部へ移住して、Tyrrheniansに名前を変えた。
BC1300年、Italy半島に住んでいたPelasgiansは、Sicily島へ移住した。
BC1246年、Sicily島に住んでいたPelasgiansは、Acarnania地方へ移住した。
BC1244年、Phrygia地方に住んでいたMygdoniansは、Macedonia地方へ移住して、Brigesに名前を変えた。
BC1188年、Acarnania地方に住んでいたPelasgiansは、Boeotia地方へ移住した。
BC1186年、Dodona周辺に住んでいたThesprotiansは、Thessaly地方へ移住して、Thessaliansに名前を変えた。
BC1126年、Boeotia地方に住んでいたPelasgiansは、Athensの町へ移住した。
BC1115年、Athensの町に住んでいたPelasgiansは、Lemnos島へ移住した。
13 ギリシア暗黒時代
Pelasgiansは、Arcadia地方、Thessaly地方、Italy半島北部、Lemnos島、Anatolia半島北西部のPlacia、Scylace、Antandrosの町に住んでいた。
おわり
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