第49章 ペラスゴイ人の系譜

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Create:2023.3.10, Update:2026.2.16

1 はじめに
BC1750年、パルナッソス山の北を流れるケピソス川の上流で大洪水が発生した。[1]
イナコスの子ポロネオスに率いられた人々は、新天地を求めて、ペロポネソス半島へ移動して、平野の端に定住して、ポロネオス (後のアルゴス)の町を創建した。[2]
BC1690年、ポロネオスの子アピスは、アイギアレイア (後のシキュオン)の町をポロネオスの町に併合して、ペロポネソスの支配者になった。

2 名祖ペラスゴス
ニオベの子ペラスゴスは、ペラスゴイ人の名祖であった。[3]
しかし、ペラスゴスの名前は、BC2世紀の年代記作者カストールのアルゴス王たちの名前の中にない。[4]
ペラスゴスの名前に因んで、ポロネオスの後裔がペラスゴイ人と呼ばれるようになったのには、つぎのような事情があったと推定される。
アピスは、アイギアレイアの町をポロネオスの町に併合して、彼の甥ペラスゴスにアイギアレイアの町を統治させた。アイギアレイアの町には、テルキスを首領とするテルキネス族が住んでいた。[5]
そのテルキネス族と区別するために、ペラスゴスと共に、ポロネオスの町からアイギアレイアの町へ移住した人々は、ペラスゴスの名前に因んで、ペラスゴイ人と呼ばれた。[6]
つまり、ペラスゴイ人が誕生したのは、アルゴスの町ではなく、シキュオンの町であった。

3 アイギアレイアからアルゴスへの移住
BC1665年、テルキネス族との戦いで、アピスが死んで、シキュオンの町は、アルゴスの町から独立した。[7]
この戦いでペラスゴスも死に、シキュオンの町に住んでいたペラスゴイ人は、ペラスゴスの子リュカオンに率いられて、アルゴスの町へ移住した。
アピスの跡を、アピスの姉妹ニオベの子アルゴスが継いだ。[8]
ポロネオスの町は、アルゴスの名前に因んで、アルゴスと呼ばれるようになった。[9]

4 アルゴスの内紛
BC1635年、アルゴスの町に住んでいたイナキア人とパッラシア人が、それぞれ、アルゴスの息子たちを味方に付けて争った。
この争いの結果、アルゴスの町から各地へペラスゴイ人が移住した。

4.1 テュリンスとエピダウロスの創建
アルゴスの子テュリンスは、アルゴスの町から南東へ移住して、テュリンスの町を創建した。[10]
アルゴスの子エピダウロスは、アルゴスの町から東へ移住して、エピダウロスの町を創建した。[11]

4.2 イタリアへの移住
BC1635年、オイノトロスとペウケティウスは、アルゴスの町からイタリア半島へ移住した。[12]
オイノトロスとペウケティウスの移住も、アルゴスの町の内紛が原因であったと思われる。
オイノトロスとペウケティウスは、アルゴスの兄弟ペラスゴスの子リュカオンの息子たちであった。[13]
オイノトロスに率いられたペラスゴイ人は、オイノトロイ人 (または、オイノトリ)に名前を変えた。[14]
ペウケティウスに率いられたペラスゴイ人は、ペウケティイ人 (または、ペウケティイ, ポイディクリ)に名前を変えた。[15]

4.3 王位簒奪
BC1601年、アルゴスの子クリアソスの子ポルバスは、アルゴスの子ペイラソスの子トリオプスから王位を簒奪した。
トリオプスに味方したアルゴスの子エクバソスの子アゲノールの子アルゴスは、アルゴスの町からミュケナイの町へ移住した。町はアルギオンと呼ばれるようになった。[16]
アルゴスが移住する前、ミュケナイの町には、テルキネス族が居住していたと思われる。
アルゴスと第7代シキュオン王トゥリマコスの娘イスメネとの結婚により、さらに、シキュオンの町からテルキネス族が、ミュケナイの町へ移住した。[17]
恐らく、ミュケナイの町の住人は、ペラスゴイ人より、テルキネス族の方が多かったと推定される。

5 アルゴスからの大移動
BC1560年、ミュケナイの町のアルゴスの子メッサポスは、アルゴスの町を攻めて、住人を追放した。
トリオパスの子アゲノールの子ペラスゴス率いるペラスゴイ人は、アルゴスの町から西南西のアルカディア地方のリュカイオス(標高1,421m)山麓へ移住した。[18]
アルカディア地方へ移住したペラスゴイ人は、ペラスゴスの後裔カリストの子アルカスに因んで、アルカディア人に名前を変えた。[19]
アゲノールの子ペラスゴスの後裔については、『アルカディア人の系譜』で記述する。
この他、アルゴスの町に住んでいたペラスゴイ人 (パッラシア人)は、各地へ移住した。[20]

5.1 アルゴスからエジプトへの移住
BC1560年、ニオベの子アルゴスの子クリアソスの子ポルバスの子トリオパスの子イアソスに率いられたペラスゴイ人は、アルゴスの町からエジプトへ移住した。[21]
イアソスの娘イオは、エジプトのサイスの町に住んでいたテレゴノスと結婚した。[22]
イオの息子エパポスは、メンフィスの町を創建した。 [23]
また、イオには、クラナオスという名前の息子もいた。[24]

5.1.1 エジプトからアテナイへの移住
BC1515年、イオの子クラナオスはペラスゴイ人を率いて、エジプトからアッティカ地方へ移住した。[25]
クラナオスは、第2代アテナイ王になり、ペラスゴイ人は、クラナオイ人と呼ばれるようになった。[26]
BC1492年、クラナオスの娘アッティスの子エリクトニオスは、ペラスゴイ人を率いて、エジプトからアテナイの町へ移住した。[27]
ペラスゴイ人は、先住していたエクテネスと共住して、アテナイ人に名前を変えた。
アテナイ人の系譜については、『アテナイ人の系譜』で記述する。

5.1.2 エジプトからペロポネソスへの移住
イオの子エパポスの娘リビュアには、3人の息子たち、アゲノール、ベロス、レレクスが生まれた。[28]
BC1430年、ベロスの息子たちとレレクスに率いられたペラスゴイ人は、ペロポネソスへ移住した。
その後、ペロポネソスに住んでいたペラスゴイ人は、テッサリア地方から移住して来たアカイア人と共住した。

5.1.2.1 エジプトからアルゴスへの移住
BC1430年、ベロスの子ダナオスに率いられたペラスゴイ人は、ペロポネソスへ移住して、アルゴスの町に定住した。[29]
アルゴスの町は、130年前に、ダナオスの先祖が追放された町であった。

5.1.2.2 エジプトからラケダイモンへの移住
BC1430年、レレクスに率いられたペラスゴイ人は、エウロタス川の中流付近へ移住した。[30]

5.1.2.3 エジプトからメガラへの移住
その後、レレクスは、ペラスゴイ人を率いて、メガラ地方へ移住した。そこは、レレクスより12世代前にポロネオスの子カアがアルゴスの町から移住した土地であった。[31]

5.1.2.4 エジプトからトロイゼンへの移住
BC1430年、ベロスの息子と思われるオロスに率いられたペラスゴイ人は、ペロポネソス東部へ移住して、オライア (後のトロイゼン)の町を創建した。[32]

5.1.2.5 エジプトからパトライへの移住
BC1430年、ベロスの子アイギュプトスに率いられたペラスゴイ人は、ペロポネソス北西部へ移住して、アロエ (後のパトライ)の町に定住した。[33]

5.2 アルゴスから小アジアへの移住
BC1560年、イアソスの兄弟クサントスに率いられたペラスゴイ人は、リュキア地方に植民後、イッサ (後のペラスギア、レスボス)島へ移住した。[34]
クサントスに同行していたキュルノスに率いられたペラスゴイ人は、カリア地方へ移住して、キュルノスの町を創建した。[35]

5.3 アルゴスからメガラへの移住
BC1560年、トリオパスの子アゲノールの子クロトポスに率いられたペラスゴイ人は、メガラ地方のゲラネイア山麓へ移住して、トリポディスキオンの町を創建した。[36]
メガラ地方へは、BC1725年にポロネオスの子カアが、アルゴスの町から移住していた。[37]

5.4 アルゴスからテッサリアへの移住
BC1560年、トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサに率いられたペラスゴイ人は、テッサリア地方へ移住した。[38]
ペラスゴイ人は、テッサリア地方北部のペネイオス河畔のラリッサの町を中心にして、広い地域に定住した。[39]
BC1511年、ラリッサの子ペラスゴスの時代に、テッサリア地方北部を震源とする大地震が発生した。テンペと呼ばれる山々が裂けてテンペ渓谷ができ、沼の水がペネイオス川に注いで沼地が干上がってドティオンという平原になった。ペラスゴイ人は、ドティオンへ居住地を広げた。[40]

5.4.1 テッサリアからドドナへの移住
BC1480年、ハイモンの子テッサロスはペラスゴイ人を率いて、テッサリア地方のスコトッサの町からドドナへ移住した。[41]
テッサロスは、スコトッサの町にあった神託所も移して、ドドナに神殿を造営した。[42]
この移住には町のほとんどの女人が同行し、ドドナの神託所で予言を担当する巫女は代々、彼女たちの子孫であったと伝えられる。[43]

6 テッサリアからの大移動
ペラスゴスの娘ラリッサに率いられて、アルゴスの町から移住したペラスゴイ人は、テッサリア地方に6世代住み続けた。その間、ペラスゴイ人の人口は、肥沃な大地の恵みを受けて、急激に増加した。[44]
BC1390年、エーゲ海に発生した大津波は、テッサリア地方沿岸部に住むペラスゴイ人の町を襲った。居住地を失ったペラスゴイ人は内陸へ大挙して移動し、パガサイ湾西岸のイトノスの町を襲った。
イトノスの町には、デウカリオーンの子アンピクテュオンの子イトノスと彼の妻メラニッペが住んでいた。
メラニッペは、テッサリア地方のアルネの町に住むヒッポテスの子アイオロスの娘であった。[45]
アンピクテュオンとアイオロスは同族を結集して、ペラスゴイ人をテッサリア地方から追い出した。[46]
テッサリア地方を追われたペラスゴイ人は、新たな土地を求めて四散した。

6.1 テッサリアからドドナへの移住
BC1390年、テッサリア地方を追われたペラスゴイ人の大部分は、ドドナ周辺へ逃げ込んだ。[47]
ドドナ周辺から、ペラスゴイ人の一部は、イタリア半島へ渡ったが、多くのペラスゴイ人は、故郷テッサリア地方へ帰還する日を待ちながら山地で暮らした。[48]
彼らの指導者は、ペラスゴスの子リュカオンであり、リュカオンの子テスプロトスの名前に因んで、ペラスゴイ人からテスプロティア人に名前を変えた。[49]
テスプロティア人が住む地方は、テスプロティア地方と呼ばれるようになった。
テスプロトスの子エピュロスは、ドドナ南西の海の近くにエピュラ (後のキキュロス)の町を創建した。[50]
エピュラは、テッサリア地方のスコトッサの町の近くにあるクランノンの町の古い名前であった。[51]

6.1.1 テスプロティアからテッサリアへの帰還
BC1186年、テスプロティア人は、テスプロティア地方からテッサリア地方へ攻め込んで占領した。[52]
テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人の後裔は、彼らの先祖がテッサリア地方を追放されてから、204年後に故郷へ帰還した。

6.1.1.1 帰還前のテッサリアの状況
BC1246年、ラピタイに追われて、ドティオン平原に居住していたアイニアネス人はオイタ山北側に移住した。その後、アイニアネス人の一部はオリュンポス山南西のキュポスの町付近に移住した。
また、ギュルトンの町周辺に居住していたペッライボイ人の一部は、ペネイオス川上流のドドナ近くのラクモス山周辺に移住した。しかし、多くのペッライボイ人は、ラピタイに隷属して共住した。[53]
BC1227年、ラピタイはギュルトンの町を中心に、マグネシア地方やパガサイ湾周辺に居住範囲を広げ、ペネイオス川を越えてドーリス人の居住地をも圧迫するようになった。しかし、ドーリス人に味方したヘラクレスによって、ラピタイは攻め滅ぼされた。[54]
これより少し前、イオルコスの町の周辺に住んでいたミニュアス人は、ペリアスの子アカストスの横暴に抵抗して反乱を起こし、プティア地方のペレウスによって追い出されていた。[55]
トロイ戦争時代のテッサリア地方は、中心的な町であったイオルコスが破壊され、ラピタイもヘラクレスとの戦いに敗れて、プティアの町が大きな力を持つようになった。
ペレウスの子アキレスの時代には、プティアの町は、スキュロス島やボイオティア地方にまで影響力を持っていた。[56]

6.1.1.2 帰還の端緒
BC1190年、イタリア半島北東部のラウェンナの町の住人は、テュレニア人に追われて、テスプロティア地方へ移住した。[57]
彼らは、テッサリア地方を追われたペラスゴイ人の後裔であった。[58]
ストラボンは、彼らがテッサリア地方へ帰還したと伝えている。[59]
しかし、彼らは、ラウェンナの町からテッサリア地方へ帰還したのではなく、アドリアス海を渡って、テスプロティア地方へ移住して来たと思われる。
彼らの出現は、テスプロティア人を刺激して、テッサリア地方侵入の引き金になったと推定される。
これより前、ギリシア北西部へは、次のように各地からの入植があった。
1) アイトリアへの入植
BC1320年、エリスの町のエンデュミオンの子アイトロスは、アイトリア地方のクレテスの土地に移住して、プレウロンの町とカリュドンの町を創建した。[60]
アイトロスの入植の後、ギリシア北西部は、人気のある移住先となり、その地への入植が盛んになった。[61]
2) ケパレニアや島々への入植
BC1277年、アルカイオスの子アンピュトリオンは、デイオンの子ケパロスと共にテレボアイ人の地へ遠征した。[62]
遠征隊は、アカルナニア地方西方のイオニア海に浮かぶ島々からテレボアイ人を追い出して植民した。[63]
ケパロスは、イオニア海で最大の島に入植し、島をケパレニアと名付けた。[64]
アルカイオスの兄弟ヘリオスは、エキナデス諸島に入植した。[65]
3) ケパレニアへの入植
BC1244年、アウゲアスの子ピュレウスは、エリスの町からケパレニア島のドウリキオンに入植した。[66]
4) アカルナニアへの入植
BC1240年、ペラスゴイ人が、シシリー島からアカルナニア地方へ移住して来た。[67]
このペラスゴイ人は、BC1390年にテッサリア地方を追われて、イタリア半島へ渡り、ローマ近くのレジス・ヴィラの町に住んでいた。彼らは、BC1300年にリュディア地方から渡来したテュレニア人に追われてシシリー島へ移住していた。[68]
5) エピュラの攻略
BC1237年、アンピュトリオンの子ヘラクレスは、テスプロティア地方へ遠征して、エピュラの町を攻略した。[69]
トロイ戦争時代、イアソンの子メルメロスの子イロスは、エピュラの町に住んでいた。[70]
6) コルキュラへの入植
BC1237年、ヘラクレスと共に遠征したアイソンの子イアソンは、スケリア (後のコルキュラ)島へ入植した。[71]
7) アカルナニアへの入植
BC1237年、ヘラクレスの遠征に参加したオイバロスの子イカリオスは、アカルナニア地方に入植した。
イカリオスの2人の息子たち、アリュゼウスとレウカディオスは、アカルナニア地方に自分たちの名前を付けた町を創建した。[72]
8) タポスへの入植
BC1237年、ヘラクレスの遠征に参加したペルセウスの子ヘリオスの子タピウスは、エキナデス諸島からタポス島に入植した。[73]
9) エキナデスへの入植
BC1237年、ヘラクレスの遠征に参加したピュレウスの子メゲスは、ケパレニア島からエキナデス諸島の最大の島へ移住して、故郷と同じドウリキオンと呼んだ。[74]
10) アンブラキア湾近くへの入植
BC1204年、アンピアラオスの子アルクマイオンは、アルゴスの町からアンブラキア湾の東側へ移住して、アルゴス (後のアルゴス・アンピロキコン)の町を創建した。[75]

6.1.1.3 指導者の誕生
BC1237年のヘラクレスの遠征で捕虜になったエピュラの町のピュレウスの娘アステュオケとヘラクレスとの間には、息子たち、トレポレモスとデクサメノスが生まれた。[76]
ヘラクレスとアステュオケには、ハイモンという息子もいた。[77]
ハイモンは、テスプロティア人の指導者になった。

6.1.1.4 テッサリアの無防備状態の出現
BC1188年、アキレスに率いられて、テッサリア地方に住んでいた戦闘可能な男たちは、トロイへ遠征した。
トロイ戦争時代、テッサリア地方は、外敵の侵入を防ぐことができない、無防備な状態であった。

6.1.1.5 帰還の状況
テスプロティア人が最初にテッサリア地方へ侵入したのは、BC1186年であったと推定される。[78]
テッサリア地方のアルネの町に住んでいたボイオティア人は、ヘラクレスの子ハイモンに敗れた。ボイオティア人の一部はボイオティア地方へ移住したが、大部分のボイオティア人は、ペネスタイと呼ばれる農奴となって残留した。[79]
その後、テスプロティア人は、アカイア人、ペッライボイ族、そしてマグネシア人と戦った。
アカイア人も、当初ペネスタイとして住み続けることを許されたが、アルネの町のボイオティア人と共に、3世代目に追い出された。
結局、ペッライボイ人とマグネシア人がテスプロティア人に従属してテッサリア地方に住み続けた。[80]
ペッライボイ人は、800年後のアミュンタスの子ピリッポスの時代も、テッサリア地方北部に住んでいた。[81]
テッサリア地方の支配者になったテスプロティア人は、テッサリア人に名前を変えた。

7 テッサリアからイタリアへの移住
BC1390年、テッサリア地方を追われたペラスゴイ人の一部は、ドドナを経由して、イタリア半島各地へ移住した。

7.1 イタリア半島北部への移住
ドドナを出発したペラスゴイ人は、イタリア半島北東部へ移住して、パドゥス川の河口の南にスピナの町を創建した。[82]
また、スピナの町の少し南にも、ラウェンナの町を創建した。[83]

7.2 イタリア半島中部への移住
テッサリア地方北部のペッライビア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ヤヌスに率いられて、イタリア半島東海岸からアペニン山脈を越えて西側へ移動した。[84]
ヤヌスは、ラリッサの子ペラスゴスの子プラストールの子アミュントルの子テウタミデスの子ナナスの息子と推定される。[85]
ヤヌスは、レアティネ地方のクティリアの町の近くで、アウソネスに受け入れられて、彼らと共住した。アウソネスは、ヤヌスが現れる少し前にウンブリア人やシケルを追い出してクティリアの町の近くに定住していた。 [86]
ヤヌスの娘オリステネは、古代ローマ王たちを輩出したサビニの名祖となったサンコスの子サボスと結婚した。[87]
ヤヌスの子アイテクスの子ファウヌスは、ウンブリア人を追い出し、トラシメネ湖一帯を支配した。[88]

7.2.1 イタリア半島からシシリーへの移住
BC1300年、ファウヌスの子アルノスは、リュディア地方から移住してきたアテュスの子テュッレノス率いるテュレニア人によって、トラシメネ湖周辺から追い出された。[89]
さらに、ローマの西北西方の海岸近くのレジス・ヴィラの地に住んでいた、サボスの子ヤヌスの子マレオスも、テュレニア人によって追い出された。[90]
テュレニア人に追われたペラスゴイ人は、シシリー島へ移住した。[91]
ペラスゴイ人は、シシリー島から次のように移住を繰り返した。
1) シシリーからアカルナニアへの移住
BC1240年、シシリー島に住んでいたペラスゴイ人は、イタリア半島から移住してきたシケルに追われて、アカルナニア地方へ移住した。[92]
2) アカルナニアからボイオティアへの移住
BC1188年、アカルナニア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ボイオティア地方へ移動した。彼らは、コロネイアの町に住んでいたボイオティア人を追い出して、町を占拠した。[93]
3) ボイオティアからアテナイへの移住
BC1126年、コロネイアの町を占拠していたペラスゴイ人は、テッサリア地方のアルネの町から帰還したオペルテスの子ダマシクトン率いるボイオティア人によってボイオティア地方から追放された。
ペラスゴイ人は、アグロラスとヒュペルビオスに率いられて、アテナイの町に逃げ込み、ヒュメットス山麓の不毛な土地に住むことを許された。[94]
4) アテナイからレムノスへの移住
BC1115年、ヒュメットス山麓に住んでいたペラスゴイ人は、不毛な土地が立派に開墾されたのを見たアテナイ人に嫉まれて、アテナイの町から追放されて、レムノス島へ移住した。[95]
レムノス島のペラスゴイ人は、アッティカ地方のブラウロンの町から乙女たちを略奪して島へ連れ去り、シンティエスと呼ばれるようになった。[96]
5) レムノスからカルキディケへの移住
BC495年、レムノス島に住んでいたペラスゴイ人は、キモンの子ミルティアデスに追われて、カルキディケ半島へ移住して、クレオナイ、オロピュクシス、アクロトオイ、ディオン、テュッソスの町に定住した。[97]
BC1390年にテッサリア地方からイタリア半島へ移住したヤヌスの後裔は、約900年後、皮肉にも先祖が昔住んでいた土地の近くに戻って来た。

7.3 イタリア半島南部への移住
BC1390年、テッサリア地方のイトノスの町から、アンピクテュオンの子イトノスの妻メラニッペを拉致したディオスは、ペラスゴイ人を率いて、イタリア半島南部のメタポンティオンの町へ移住した。[98]
メタポンティオンの町でメラニッペは2人の息子たち、アイオロスとボイオトスを産んだ。[99]

8 テッサリアからプリュギアへの移住
BC1390年、テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の一部は、シレノスの子ドリオンに率いられて、ヘレスポント近くのプリュギア地方のアスカニア湖の近くへ移住した。[100]
その後、ペラスゴイ人は、ドリオネスに名前を変えて、西へ移動し、キュジコスの町周辺に広く居住するようになった。[101]
BC5世紀の歴史家ヘロドトスの時代、キュジコスの町の東側のプロポンティスの岸辺のプラキアの町とスキュラケの町には、ペラスゴイ人が住んでいた。[102]
ドリオンから5世代目のアイネオスの子キュジコスは、キュジコスの町に住み、トロイ王プリアモスの妻アリスベの姉妹クレイテを妻に迎えた。キュジコスは、町の近くに停泊したミニュアス人の船が、昔、先祖が追い出されたテッサリア地方から来たと知って、彼らを襲撃した。[103]
また、イダ山中にもテッサリア地方のラリッサの町から移住して来たガルガロスに因んで名付けられた町があった。
トロイ戦争時代、イリオンの町の南のコロナイの町に住んでいた、ヘカトの娘カリュケの子キュクノス (または、キュグノス)は、ガルガロスの後裔と推定される。[104]

8.1 プリュギアからパイオニアへの移住
また、オリュンポス山近くのミュシア地方に居住していたミュグドニア人もテッサリア地方から移住したペラスゴイ人であったと思われる。
BC1244年、ミュグドンは、ラオメドンの子プリアモスと戦っていたアンテノールに味方して、居住地を追われた。ミュグドンは、ミュグドニア人を率いて、パイオニア地方へ移住した。[105]
その後、ミュグドンの後裔は、パイオニア地方からマケドニア地方へ移住して、ミュグドニア人からブリゲス族 (または、ブリガンズ)に名前を変えた。[106]
BC670年、ミュグドンの後裔ゴルディアスの子ミダスはブリゲス族を率いて、マケドニア地方のベルミオス山近くから、先祖の地プリュギア地方へ移住した。[107]
ブリゲス族は、プリュギア人に名前を変えた。[108]
ミダスは、ミュグドニア人の王であった。[109]

8.2 キュジコスからアンタンドロスへの移住
BC1115年、レムノス島に住んでいたミニュアス人の一部は、アナトリア半島北西部のキュジコスの町へ移住した。[110]
キュジコスの町を追われたドリオネスは、イダ山南側のアンタンドロスの町へ移住した。[111]
ペルシア戦争時代、アンタンドロスの町には、ペラスゴイ人が住んでいた。[112]

9 テッサリアからレスボスへの移住
BC1390年、テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の一部は、アイオロスの子マカレウスの移民団に参加してペラスギア (後のレスボス)島へ移住した。[113]
その後、マカレウスの息子たちは、近隣の島々(キオス、サモス、ロドス、コス)へ入植したが、その中にはペラスゴイ人も含まれていたと思われる。[114]

9.1 レスボスからヘルモス流域への移住
トロイ戦争の時代、ヘルモス川流域には、テウタモスの子レトスの2人の息子たち、ヒッポトオスとピュライオスを指導者とするペラスゴイ人の大部族が居住していた。[115]
ペラスゴイ人の大部族は、小アジアに影響力を及ぼしていたヒッタイトの属国になって、セハ川の地という名前で呼ばれていた。[116]
ヒッタイトやペラスゴイ人の勢力が弱まった頃、ロクリス地方からアイオリスの移民団を率いたマラオスがヘルモス川の河口近くへ移住して来て、キュメ・プリコニスの町を創建した。[117]
アイオリスに追われたテウタモスの後裔が率いるペラスゴイ人は、イタリア半島へ移住して、テュレニア人が住むピサエの町に定住した。[118]
ピサエの町に住んでいたテュレニア人は、小アジアから移住して来たペラスゴイ人を同族として受け入れて共住した。

10 テッサリアからレムノスへの移住
BC1390年、テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の移住先の中にレムノス島の名前はない。しかし、ペラスゴイ人はヘレスポント付近の多くの島々へ渡ったと伝えられており、その中にレムノス島も含まれていたと思われる。[119]
BC3世紀の歴史家アンティクレイデスは、レムノス島の最初の住民は、ペラスゴイ人であったと伝えている。[120]

10.1 レムノスからリュディアへの移住
レムノス島のペラスゴイ人の一部はアテュスの子テュッレノスに率いられてイタリア半島へ移住した。[121]
アテュスは、マネスの子コテュスの息子であった。[122]
このことから、リュディア地方のマイオニア人の始祖マネスは、BC1390年にテッサリア地方を追い出されたペラスゴイ人の指導者であったと推定される。[123]
マネスは、テッサリア地方からレムノス島を経由して本土へ渡り、トモロス山の周辺に定住した。[124]
つまり、マイオニア人は、テッサリア地方からリュディア地方へ移住して、名前を変えたペラスゴイ人であった。
マネスは、ヒッタイト文書に記されたアルザワ王クパンタ・クルンタと推定される。[125]

10.1.1 リュディアからレムノスへの移住
BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世とウハジティ (タンタロス)との戦いで、マネスの後裔は、ウハジティに味方した。[126]
ヒッタイトとの戦いに敗れたマイオニア人 (ペラスゴイ人)は、アテュスの子テュッレノスに率いられて、リュディア地方からレムノス島へ逃れた。
ヘロドトスは、テュッレノスがスミュルナの町からウンブリアの土地へ移住したと伝えているが、当時、スミュルナの町は存在していなかった。[127]
テュッレノスがイタリアに現れたのは、BC1300年頃であり、18年間のタイムラグがあり、その間、彼らはレムノス島にいたと推定される。

10.1.1.1 新たな移住先の選定
テュッレノスの移住後、さらに多くの移住者を受け入れたレムノス島は、人口過多になり、テュッレノスは、イタリア半島へ移住することになった。
当時、イタリア半島中部のアギュラの町は、デルポイに宝庫を奉納する程に繁栄していて、その噂はギリシア世界全体に広まっていた。[128]
アギュラの町を創建したのは、テッサリア地方を追われたペラスゴイ人であった。レムノス島のペラスゴイ人は、同族としての交流からその繁栄ぶりを知っていたと思われる。また、両者の始祖が創建したドドナへの奉納や神託を受けるための参拝などを通して、アギュラの町の情報を知り得たものと思われる。[129]

10.1.1.2 レムノスからイタリアへの移住
BC1300年、テュッレノスは、マイオニア人を率いて、イタリア半島西海岸中部に上陸した。マイオニア人は、ラティウム地方へ侵入しようとして、ロミスに撃退された。[130]
しかし、その後、マイオニア人は多くの先住民を追い出して、イタリア半島北部に居住範囲を広げた。マイオニア人はテュッレノスに因んで、テュレニア人に名前を変えた。彼らの居住地はテュレニア地方、イタリア半島西側の海はテュレニア海と呼ばれるようになった。[131]
テュレニア人に追い出された先住民の多くは、90年前にテッサリア地方を追い出されたペラスゴイ人であったが、彼らの間で言葉は通じなかった。[132]

10.1.2 リュディアからミュシアへの移住
BC1318年、マネスの子コテュスの子アテュスの子ミュソスは、リュディア地方からミュシア・ペルガメネ地方へ移住した。[133]
ミュソスの移住の原因は、彼の兄弟テュッレノスと同じく、ヒッタイトとの戦いであった。
BC1230年、ミュソスの子ディオメデスの子テウトラスは、アルカディア人を率いて移住して来たテレパスの母アウゲと結婚した。[134]
ペラスゴイ人から名前を変えたマイオニア人は、アルカディア人と共住して、ミュシア人に名前を変えた。

11 テッサリアからキオスへの移住
BC1390年、テッサリア地方から逃れたペラスゴイ人の一部は、キオス島へ移住した。[135]

12 ペラスゴイ人の居住地の広がり
BC1690年、ペラスゴイ人は、ペロポネソス北部のアイギアレイア (後のシキュオン)の町で誕生した。
BC1665年、アイギアレイアの町に住んでいたペラスゴイ人は、アルゴスの町へ移住した。
BC1560年、アルゴスの町に住んでいたペラスゴイ人は、アルカディア地方へ移住して、アルカディア人に名前を変えた。
BC1560年、アルゴスの町に住んでいたペラスゴイ人は、エジプトへ移住した。
BC1515年、エジプトに住んでいたペラスゴイ人は、アテナイの町へ移住した。
BC1492年、エジプトに住んでいたペラスゴイ人は、アテナイの町へ移住した。
BC1430年、エジプトに住んでいたペラスゴイ人は、アルゴスの町へ移住した。
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ドドナ周辺へ移住して、テスプロティア人に名前を変えた。
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、リュディア地方へ移住して、マイオニア人に名前を変えた。
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ヘレスポント近くのプリュギア地方へ移住して、ドリオネスやミュグドニア人に名前を変えた。
BC1300年、リュディア地方に住んでいたマイオニア人は、イタリア半島北部へ移住して、テュレニア人に名前を変えた。
BC1300年、イタリア半島に住んでいたペラスゴイ人は、シシリー島へ移住した。
BC1244年、プリュギア地方に住んでいたミュグドニア人は、マケドニア地方へ移住して、ブリゲス族に名前を変えた。
BC1240年、シシリー島に住んでいたペラスゴイ人は、アカルナニア地方へ移住した。
BC1188年、アカルナニア地方に住んでいたペラスゴイ人は、ボイオティア地方へ移住した。
BC1186年、ドドナ周辺に住んでいたテスプロティア人は、テッサリア地方へ移住して、テッサリア人に名前を変えた。
BC1126年、ボイオティア地方に住んでいたペラスゴイ人は、アテナイの町へ移住した。
BC1115年、アテナイの町に住んでいたペラスゴイ人は、レムノス島へ移住した。

13 ギリシア暗黒時代
ペラスゴイ人は、アルカディア地方、テッサリア地方、イタリア半島北部、レムノス島、アナトリア半島北西部のプラキア、スキュラケ、アンタンドロスの町に住んでいた。

おわり