1 はじめに 
      Myrmidonsの名前の由来については、蟻に因んだ説があるが、名前に因んだ作り話である。 
      Straboは、島の住人が蟻のように土を掘っていたから、そのような名前で呼ばれたと記している。[1] 
      しかし、Myrmidonsは、Eurymedusaの子Myrmidonの子孫の総称である。 
      Myrmidonの本名は、Triopasであった。[2] 
      Homerは、Iliadの中で、Peleusの子Achillesに率いられた人々をMyrmidonsと呼んでいる。[3] 
      Achilles配下の5人の将は、すべてMyrmidonの後裔であった。 
      Achilles指揮下の第4隊を率いたAchillesの育ての親Phoenixは、種族としてはLapithsであった。[4] 
      しかし、Phoenixの父Amyntor (or Armenius)の父Ormenus (or Ormenius)の母Eupolemeiaは、Myrmidonの娘であった。[5] 
      2 始祖Myrmidon 
        2.1 Myrmidonの母の故郷 
        Myrmidonの母は、Achelaus河神の娘Eurymedusaと伝えられる。[6] 
        Achelaus河神とは、Cletor (or Clitor)であった。[7] 
        次の事から、このAchelaus川は、Acarnania地方とAetolia地方の境になっている川ではない。[8] 
        1) Myrmidonは、Aeolusの娘Pisidiceと結婚して、AntiphusとActorが生まれた。[9] 
        2) Actorの子Eurytionは、Phthiaの町からCalydonian boar huntに参加した。[10] 
        3) Eurytionの娘Antigoneは、Aeacusの子Peleusの妻であった。[11] 
        つまり、Myrmidonの母の故郷は、Thessaly地方南部のLamiaの町の近くのParacheloitaeと呼ばれる土地を流れて、Spercheius川に合流するAchelaus川付近と推定される。[12] 
        Paracheloitaeは、Phthia地方にあった。[13] 
      2.2 Phthiaの歴史 
        Phthia、あるいは、Phthiotisは地方名と町の名前、両方で使用されている。 
        BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larissa一家がArgosの町のPelasgiansを率いて、Thessaly地方北東部のDotium平原周辺に入植した。[14] 
        Larissaの息子たちの一人Phthiusが居住した地方は、Phthiotisと呼ばれた。[15] 
        BC1390年、Larissaの後裔たちに率いられたPelasgiansは、Deucalionの息子たちによって、Thessaly地方から追放された。[16] 
        Deucalionには4人の息子たち、Amphictyon、Orestheus、Marathonius、Pronousがいた。[17] 
        Amphictyonは、Locris地方のThermopylae付近にAntheiaの町を創建した。[18] 
        Orestheus (or Oreius)は、Ozolian Locris地方へ移住した。[19] 
        Marathoniusは、Sicyonの町へ移住した。[20] 
        Pronousは、PelasgiansがいなくなったThessaly地方のDotium平原周辺へ移住した。[21] 
        Thessaly地方のDotium平原に名前を与えたのは、Hellenの子Neonusの子Dotusであると伝えられる。このHellenは、Pronousの息子と推定される。[22] 
      2.3 Myrmidonの父 
        Myrmidonの子Actorの子Eurytionの娘Antigoneの夫Peleusから系図で逆算すると、Myrmidonが生まれたのは、BC1345年である。 
        また、系図を作成すると、Hellenの子NeonusはBC1370年生まれである。 
        Thessaly地方南部のParacheloitaeに住むCletorの娘Eurymedusaは、Dotium平原近く、恐らく、Phthiaの町に住むHellenの子Neonusに嫁いだと推定される。[23] 
        したがって、Myrmidonの父は、Hellenの子Neonusと推定される。 
      2.4 Cletorの母 
        系図を作成すると、Eurymedusaの父CletorはBC1405年生まれである。 
        その頃、Cletorが住むParacheloitaeの近くのSpercheius川付近にはDryopes (or Dryopians)の先祖が住んでいた。[24] 
        Peneius河神とDanausの娘Polydoreとの間の息子Dryopsであった。[25] 
        系図を作成すると、Polydoreの子DryopsはBC1410年生まれになる。 
        DryopsとCletorは兄弟で、Cletorは父のもとからParacheloitaeへ移住したと思われる。 
        したがって、Cletorの母は、Danausの娘Polydoreと推定される。 
      2.5 Cletorの父 
        Cletorの父を推定するための手掛かりが2つある。 
        1) 1つ目の手掛かり 
        Cletorの父が、Danausの娘Polydoreの夫Peneius河神だと伝えられていることである。[26] 
        Peneius川はThessaly地方とEleia地方にあった。 
        Eleia地方のPeneius川は、Aeolusの子AethliusがThessaly地方から移住して、Elisの町を創建した後で名付けられ、それは、BC1385年以降であった。[27] 
        Cletorの父の時代には、Thessaly地方にのみ、Peneius川があった。 
        したがって、Cletorの父は、Thessaly地方北部のPeneius川近くに住んでいたと推定される。 
        2) 2つ目の手掛かり 
        Thessaly地方北部のPeneius川近くに住む者とArgosの町に住む者の遠距離婚がどのようにして実現したかである。 
        BC1420年、Peneius川付近に居住していたHellenの子Dorusは、Thracia地方から南下して来たCadmusやThraciansの大集団に圧迫されて、Parnassus山近くへ移住した。[28] 
        このとき、Dorusと共へ移住しないで、Peneius川付近に残留した人々もいた。 
        その中には、Dorusの娘Iphthime一家もいた。[29] 
        Iphthimeには、3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいたが、その中の一人がDanausの娘Polydoreの夫となり、息子Dryopsが生まれた。[30] 
        Cletorの両親の遠距離婚を可能にしたのは、Polydoreの姉妹ScaeaとAutomateと、Achaeusの息子たちとの結婚であったと推定される。[31] 
        BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Peloponnesus北部のAegialus地方からThessaly地方のMelitaeaの町へ移住した。[32] 
        BC1420年、Achaeusは、CadmusやThraciansの大集団に圧迫されて、Aegialus地方へ帰還した。その後、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町のDanausの娘たちを妻に迎えた。[33] 
        彼らの結婚が、PolydoreとIphthimeの息子を結び付けたものと思われる。 
        Polydoreは、Thessaly地方のPeneius川付近に住むIphthimeの息子のもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、DryopsとCletorが生まれた。 
        BC1390、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。 
        Iphthimeの一家は、Iphthimeの父Dorusの移住先の近くであるSpercheius川の近くへ移住した。[34] 
        したがって、Cletorの父は、Iphthimeの3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosの中のいずれかと推定される。 
      3 Myrmidonの後裔 
        Myrmidonの父Neonusの父Hellenの父Pronousの父Deucalionの父は、Hellenの子Dorusであることから、MyrmidonはDoriansの支族であった。 
        Myrmidonの母Eurymedusaの父Cletorの父の母Iphthimeの父は、Doriansの始祖Dorusであった。[35] 
        Myrmidonは、Aeolusの娘Pisidiceと結婚した。[36] 
        Aeolusは、Lapithusの息子であり、Myrmidonの妻は、Lapithsであった。[37] 
        Myrmidonには3人の息子たち、Actor、Antiphus、Erysichthon、そして、娘Eupolemeiaがいた。[38] 
        BC1300年、Myrmidonの子Actorが父からPhthiaの町を継承した頃には、彼らの種族は、Myrmidonsと呼ばれるようになっていた。 
      3.1 Myrmidonの子Antiphus (or Antippus) 
        Antiphusには、娘Hippeaがいた。[39] 
        Hippeaは、Peneius川近くに住むLapithusの子Periphasの子Elatusに嫁いだ。[40] 
      3.2 Myrmidonの子Actor 
        Actorには2人の妻たち、Sicyonの娘Aeginaと、Damocrateiaがいた。[41] 
        Actorには、多くの子供たちが生まれた。 
      3.2.1 Actorの娘Alope 
        Alopeは、叔母Eupolemeiaの義理の息子Erytus (or Echion)と結婚した。[42] 
      3.2.2 Actorの子Aeacus 
        3.2.2.1 Aeacusの妻たち 
        Aeacusには2人の妻たち、Psamatheと、Endeis (or Endais)がいた。[43] 
        PsamatheとEndeisは姉妹であり、彼女たちの父は、Athens王Aegeusの実父Scyrius (or Sciron, Chiron, Scirus)であった。[44] 
        つまり、AeacusとAegeusは、義兄弟であった。 
        Aeacusは、Pandionの死後、Pandionの子NisusとPandionの娘婿ScironとがMegaraの継承権を争ったときに、争いを仲裁した。[45] 
        Aeacus、Nisus、それに、Scironが、Aegeusを通して、義兄弟であったからであった。 
        当時、Aeacusは敬虔な人物として有名であった。[46] 
      3.2.2.2 Aegina島への移住 
        BC1287年、Aeacusは、Thessaly地方からSaronic Gulfに浮かぶOenone島へ移住し、後に島は彼の母の名前に因んでAegina島と呼ばれるようになった。 
        Aeacusが生まれたPhthiaの町から遠く離れたAegina島を結び付けたのは、つぎのように推定される。 
        Aeacusの母Aeginaの姉妹Salamisは、Salamis島に住むScyriusに嫁いだ。[47] 
        Aeacusは、彼の叔母Salamisの嫁ぎ先近くのAegina島に入植したと思われる。 
        Aeacusは、Aegina島へ移住する前に、Diaの町を創建していた。[48] 
        Aeacusは、Diaの町からMyrmidonsを率いて島へ移住し、島はMyrmidoniaとも呼ばれた。[49] 
        Aeacusの2人の妻たちは、Salamis島のScyriusの最初の妻から生まれた娘たちであり、Aeacusの叔母Salamisの義理の娘たちであった。 
        つまり、Aeacusの2人の妻たちは、Aeacusの義理の従兄妹であった。 
        AeacusとPsamatheの間には、息子Phocus (or Phoeus)が生まれた。[50] 
        また、AeacusとEndeisの間には、2人の息子たち、PeleusとTelamonが生まれた。[51] 
      3.2.2.3 Aeacusの後裔 
        Aeacusの息子たちと、彼らの後裔については後述する。 
      3.2.3 Actorの子Echecles 
        Echeclesは、Dryopia地方に住むPhylasの娘Polymeleと結婚して、息子Eudorusが生まれた。[52] 
        Eudorusは、Achilles指揮下の第2隊を率いた。[53] 
      3.2.4 Actorの子Menoetius 
        BC1262年、Menoetiusは、Phthiaの町からLocris地方のOpusの町へ移住した。Locrusの子Opusが、ThermopylaeとEuripus海峡の中ほどの地に町を建設する際に、Menoetiusが参加したものであった。Opusは、Menoetiusが気に入り、自分の息子Cynusに町を譲らず、Menoetiusに町を継がせた。Opusの子Cynusは、Opusの町の近くに、Cynusの町を創建した。[54] 
        BC1224年、Menoetiusは、HeraclesのEurytus攻めに参加した。[55] 
        Melaneusの子Eurytusは、Euboea島のOechaliaの町に住んでいた。[56] 
      3.2.4.1 Menoetiusの子Abderos 
        Abderosは、Heraclesのお気に入り(minion)であった。[57] 
      3.2.4.2 Menoetiusの子Patroclus 
        Menoetiusは、Phthiaの町からPeleusの娘Philomela (or Polymele)を娶って、息子Patroclusが生まれた。[58] 
        Patroclusは、Amphidamasの子Clitonymusを殺害して、Opusの町からPhthiaの町の彼の母方の祖父Peleusのもとへ亡命した。[59] 
        Phthiaの町には、Peleusの子Achillesがいた。AchillesはPatroclusより少し年下であったが、Patroclusの叔父であった。[60] 
        Patroclusは、Achillesと共にTroyへ遠征して、戦死した。[61] 
      3.2.4.3 Menoetiusの娘Myrto 
        Menoetiusの娘MyrtoがHeraclesと結婚して、娘Eucleiaが生まれたという伝承がある。[62] 
        MenoetiusはHeraclesの友人であったが、Heraclesの義父であったとする伝承はない。[63] 
      3.2.5 Actorの子Ceyx 
        BC1250年、Ceyxは、Phthiaの町からSpercheius川をDryopia地方の方へ越えたOeta山の麓へ移住し、Trachisの町を創建した。[64] 
        BC1246年、Thessaly地方北東部のDotium平原に古くから住んでいたAenianiansが、Ixionと彼の息子Peirithous率いるLapithsに追われて、Oeta山周辺に逃げ込んで来た。[65] 
        後に、HeraclesがTrachisの町へ移住して来たとき、Ceyx支配下のTrachisの町の住人は、Malians (or Melians)であった。[66] 
        恐らく、Maliansの首領の娘がCeyxに嫁ぎ、CeyxがMaliansを率いることになったものと推定される。[67] 
        次の事から、Maliansは、Aenianiansの支族であったと推定される。 
        1) Maliansは、Malian Gulf北側のOthrys山麓のEchinusの町にも住むようになった。[68] 
        2) AenianiansがOeta山付近からOthrys山麓のEchinusの町まで居住範囲を広げた。[69] 
        Ceyxには、息子Hippasusと娘Themistinoeがいた。[70] 
        CeyxにPhthiaの町から同行したMyrmidonsは、Aenianiansの支族Maliansと混血して、Maliansに名前を変えた。 
        Maliansは、Trachisの町から東側のMalian Gulf周辺へ居住地を広げた。 
      3.2.5.1 Ceyxの息子Hippasus 
        Hippasusは、Heraclesと共にEuboea島のOechaliaの町の支配者Eurytusとの戦いに参加して、戦死した。[71] 
        Hippasusの子Hypsenorは、Troy遠征に参加した。[72] 
      3.2.5.2 Ceyxの娘Themistinoe 
        Themistinoeは、Pagasetic Gulf北西にあるItonusの町のCycnus (or Cygnus)の妻であったとする伝承もあるが、作り話と思われる。[73] 
        Cycnusは、Themistinoeの母の一族を追い出したLapithsの一員であった。Cycnusは、Heraclesと戦って、戦死した。[74] 
      3.2.6 Actorの子Daedalion 
        AD1世紀の詩人Ovidiusは、DaedalionがTrachisの町のCeyxの兄弟だと伝えており、DaedalionもActorの息子であったと思われる。[75] 
      3.2.6.1 Daedalionの息子たち 
        BC5世紀の歴史家Pherecydesは、Deionの娘Philonisには、PhilammonとAutolycusがいたと伝えている。[76] 
        BC1世紀の神学者Cononは、Philammonが、Attica地方のThoricusの町に住んでいたHeosphorosとCleoboiaの娘Philonisの息子であったと伝えている。[77] 
        Heosphoros (or Eosphorus)は、Dawn-bringerのことで、人間としての名前は、Pherecydesが伝えているDeionと思われる。[78] 
        OvidiusとHyginusは、PhilammonとAutolycusをDaedalionの娘Chioneの息子たちだと伝えている。[79] 
        しかし、Pausaniasは、AutolycusをDaedalionの息子だと伝えている。[80] 
        系図を作成すると、PhilammonとAutolycusは、Daedalionの娘の息子たちではなく、Daedalion本人の息子たちとする方が妥当である。 
      3.2.6.2 Daedalionの妻 
        以上のことから、Daedalionの妻Philonis (or Chione)は、Thoricusの町に住むDeionの娘であった。 
        つぎのことから、Thoricusの町に住むDeionは、第8代Athens王Pandionであったと推定される。 
        1) Deionの子Cephalusは、Atheniansの王であった。[81] 
        2) Deioneusの子Cephalusは、Thoricusの町に住んでいた。[82] 
        3) Deionの子Cephalusは、Attica地方のThoricusの町で、Erechtheusの娘Procrisと結婚した。[83] 
        4) Hyginusは、多くの伝承がPandionの息子だと伝えているMegara王NisusをDeionの息子だと伝えている。[84] 
        つまり、Cephalusは、Deion (or Deioneus)という別名を持つAthens王Pandionの息子であったと推定される。 
        つまり、Daedalionの妻は、Athens王Pandionの娘であった。 
      3.2.6.3 Daedalionの子Autolycus 
        Autolycusは、Parnassus山の近くに住んでいた。[85] 
        Autolycusは、Amphitheaと結婚して、息子Aesimusと娘Anticliaが生まれた。[86] 
      3.2.6.3.1 Autolycusの子Aesimus 
        Aesimusは、Anticliaの兄弟で、Aesimusの子Sinonは、Odysseusの従兄弟であった。[87] 
        SinonはArgosの町に住み、Troy遠征に参加した。[88] 
        Homerの物語では、Sinonは、Achaeansが去った後、木馬と一緒にIliumの町に残され、Trojansを欺く役目を果たした。[89] 
      3.2.6.3.2 Autolycusの娘Anticlia 
        Anticliaは、Ithaca島に住むArcesiusの子Laertesと結婚した。[90] 
        AnticliaとLaertesの遠距離婚を可能にしたのは、血縁関係であった。 
        Laertesは、Pandionの子Cephalusの子Arcesiusの息子であり、Anticliaは、Laertesの又従兄妹であった。 
      3.2.6.4 Daedalionの子Philammon 
        Philammonは、Charopsの娘Argiopeと結婚して、息子Thamyrisが生まれた。[91] 
        Philammonと彼の息子Thamyrisは詩人であり、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[92] 
      3.2.7 Actorの子Haemon 
        Haemonの子Laercesの子Alcimedonは、Achilles指揮下の第5隊を指揮した。また、第3隊を指揮したPeisanderの父Maemalusも、Haemonの息子であったと思われる。[93] 
      3.2.8 Actorの子Pyttius 
        BC1280年、Pyttiusは、Phthiaの町からPeloponnesus半島のEleia地方へ移住して、Enipeus川近くのSalmoneの町の近くにBuprasiumの町を創建した。[94] 
        Pyttiusの子Amaryncesの子Dioresの子AutomedonはTroy遠征に参加して、Achillesの戦車の御者をした。このことから、PyttiusもMyrmidonの系譜につながる者で、Actorの息子であったと推定される。[95] 
      3.2.8.1 Pyttiusの子Amarynces 
        Amaryncesは父の跡を継いで、Elisの町の支配下にあったBuprasiumの町を治め、HeraclesのElis攻めのときは、Elis王Augeasから将に任命された。[96] 
        Amaryncesには2人の息子たち、HippostratusとDioresがいた。[97] 
        Hippostratusは、父の跡を継いだ。[98] 
        Dioresは、Eleia地方の軍勢の一部を率いて、Troy遠征に参加した。[99] 
        Dioresの子Automedonは、Achillesの戦車の御者をした。[100] 
      3.2.9 Actorの子Eurytion 
        Eurytionは、父の跡を継いでPhthiaの町を治め、娘Antigoneをもうけた。 
        BC1256年、Eurytionは、Aeacusの子PeleusをAntigoneの婿に迎えた。 
        Peleusは、Eurytionの甥であった。[101] 
        Antigoneは、従兄Peleusと結婚し、娘Polydoraが生まれた。[102] 
        Polydoraは、Phthiaの町からSpercheius川の近くに住んでいたPerieresの子Borusのもとへ嫁いだ。[103] 
      3.2.10 Actorの子Ctimenus (or Irus) 
        BC1275年、Ctimenusは、Phthiaの町からDolopia地方のXynian湖近くへ移住し、Ctimeneの町を創建した。[104] 
        CtimenusとDemonassaの間の2人の息子たち、EurydamasとEurytionは、Argonautsの遠征の物語に登場する。[105] 
        DolopesのAmyntorとPeleusが戦ったと伝えられるが、そのAmyntorもCtimenusの息子と思われる。Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、彼の盾持ちにした。[106] 
        しかし、AmyntorはPeleusの従兄弟と思われ、彼らの間に戦いがあったかは疑問である。 
      3.3 Myrmidonの子Erysichthon 
        Erysichthon (or Aethon)には、娘Mestraがいた。[107] 
        Erysichthonは、Dotiumの近くに住んでいた。[108] 
        BC1272年、Mestraは、Tricaの町に住むDeimachusの子Autolycusに嫁いだ。[109] 
        BC1260年、Autolycusは、Triccaの町から黒海南岸のSinopeの町へ移住した。[110] 
        Mestraと共にDotiumの近くからTriccaの町へ移住したMyrmidonsもSinopeの町への移住に参加した。[111] 
      3.4 Myrmidonの娘Eupolemeia (or Eupolemia) 
        Eupolemeiaは、彼女の母Pisidiceの弟Cercaphusと結婚した。Cercaphusは、Itonusの町に住んでいた。[112] 
      4 Aeacusの子Phocus 
        Phocusは、義兄弟のPeleusとTelamonに殺されたという伝承があるが、作り話である。[113] 
        BC1264年、MinosがMegara地方を攻めたときに、Aegina島も巻き込まれた。[114] 
        戦いは、Minosが勝利して、Aegina島にはCretansが移住して、Aeacus一族と共住した。[115] 
        BC1256年、Aeacusの子Phocusは、Myrmidonsを率いて、Aegina島からPhocis地方北部のNaubolenses (後のDrymaea)の町の近くへ移住した。[116] 
        その町は、Lynceusの子Abasの子Deucalionの子Lynceusの子Ornytusの子Naubolusによって、少し前に創建されていた。[117] 
        Phocusには2人の息子たち、PanopeusとCrisusがいた。[118] 
      4.1 Phocusの子Panopeus 
        Panopeusは、父のもとからBoeotia地方との境近くへ移住して、Panopeusの町を創建した。[119] 
        Panopeusには、息子Epeius (or Epeus)と娘Aegleがいた。[120] 
        Epeiusは、Troy遠征物語に木馬の製作者として登場する。[121] 
        Aegleは、Athens王Theseusと結婚した。[122] 
      4.2 Phocusの子Crisus 
        BC1240年、Crisusは、Naubolensesの町の近くからDelphiの西側へ移住して、Cirra (後のCrisa)の町を創建した。[123] 
        Crisusは、Naubolusの娘Antiphateiaと結婚して、息子Strophiusが生まれた。[124] 
        Strophiusは、Agamemnonの姉妹Kydragoraと結婚して、息子Pyladesと娘Astydameiaが生まれた。[125] 
      5 Aeacusの子Telamon 
        BC1256年、TelamonはAegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[126] 
        その後、Telamonは、Alcathousの娘Eriboea (or Periboea)と結婚した。[127] 
        Telamonには2人の息子たち、Ajax (or Aias)とTeucerがいた。[128] 
      5.1 Telamonの子Ajax 
        Ajaxは、Lysidiceと結婚して、Philaeus (or Philius)が生まれた。[129] 
        Lysidiceは、LapithsのElatusの子Caeneusの後裔であった。[130] 
        Ajaxは、彼の母Eriboeaの父Alcathousが死ぬと、Megara地方を継承した。[131] 
        Ajaxは、Troy遠征中に死去し、Achillesの子Neoptolemusによって埋葬された。[132] 
        Ajaxには、Troy遠征中に2人の息子たち、AeantidesとEurysacesが生まれた。 
      5.1.1 Ajaxの子Philaeus 
        Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと推定される。 
        その理由は、つぎのとおりである。 
        1) PhilaeusがMegara王である父Ajaxと共に住んでいたと思われるMegaraの町にIphigeniaの英雄廟があった。[133] 
        2) Philaeusは、Attica地方のBrauronの町へ移住した。[134] 
        3) Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女となり、Brauronの町で死んだと推定される。[135] 
        4) Iphigeniaの兄弟Hyperionは、Megara王を継承した。[136] 
        Philaeusの子孫には、BC6世紀にChersoneseに城壁を築いたCypselusの子Miltiadesがいた。[137] 
        Pausaniasは、このMiltiadesをMarathonの将軍だと記しているが、HerodotusやPherecydesは、Cypselusの息子だと伝えている。[138] 
      5.1.2 Ajaxの子Aeantides 
        Aeantidesは、AjaxがIliumの町の南にあるColonaeの町のCycnus (or Cygnus)との戦いで捕虜にしたCycnusの娘Glauceに産ませた息子であった。[139] 
        Aeantidesは、Aeantisの名祖で、Marathon近くに住んでいたと思われる。[140] 
        BC479年のPlataeaの戦いでは、Greece側の死者1360人のうち、Atheniansは52人であったが、そのすべてが、Aeantis出身者であった。[141] 
      5.1.3 Ajaxの子Eurysaces 
        Ajaxは、Chersoneseの町からHellespontを越えたPhrygia地方を襲い、Teuthrasと戦って殺し、彼の娘Tecmessaを捕虜とした。[142] 
        Eurysacesは、AjaxとTecmessaとの間に生まれた息子であった。[143] 
        Eurysacesは、Attica地方のMeliteの町に住み、そこには、Eurysacesのsanctuaryがあった。[144] 
      5.2 Telamonの子Teucer 
        5.2.1 Cyprusへの移住 
        BC1225年、Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住して、Cinyrasの娘Euneと結婚した。[145] 
        Cinyrasは、Cyprus島のPalaepaphosの町の創建者Cinyrasの後裔であった。[146] 
        Cinyrasの母は、Cyprus島の銅の産地Amathusの町の名付け親であった。Teucerの移住の目的は、Amathusの町で産出される貴重な鉱石の交易のためであった。[147] 
        Cinyrasは、Midas王と共に、富豪の代名詞とされる人物であった。[148] 
      5.2.2 Salamisの創建 
        BC1186年、Teucerは、Troyへ遠征中の彼の兄弟Ajaxに加勢するために、Cyprus島からIliumの町へ駆け付けた。TeucerがIliumの町に着いたとき、Ajaxは戦死して、Achaeansが戦いに敗れた後であった。[149] 
        Teucerは、移住を希望したTrojansを連れて、Cyprus島へ帰還して、Salamisの町を創建した。[150] 
      5.2.3 Teucerの子Ajax 
        BC1170年、Teucerの子Ajaxは、Cyprus島の北側のCilicia Tracheiaへ移住して、Olbeの町周辺を支配した。[151] 
        BC6世紀、Athensの町のSolonは、Cilicia地方のAipeiaの町に住むPhilocyprusを説得して、町の下方の平原にSoliの町を建設するのに協力した。そのPhilocyprusは、Teucerの子Ajaxの後裔と思われる。[152] 
        Aipeiaの町は、堅固なばかりで、痩せた土地であったと伝えられ、Alexander the Greatが財貨保管場所にしたCyinda (or Quinda)であったと推定される。[153] 
      6 Aeacusの子Peleus 
        6.1 Phthiaへの移住 
        BC1256年、PeleusはAegina島からPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。Peleusは、Eurytionの娘Antigoneと結婚して、娘Polydoraが生まれた。[154] 
        Antigoneの父Eurytionの父Actorは、Peleusの父Aeacusの父であり、Antigoneは、Peleusの従妹であった。 
        Eurytionの死後、PeleusがEurytionの跡を継いだ。[155] 
      6.2 Phthiaの所在 
        BC5世紀の歴史家Pherecydesは、PeleusがPharsalusの町とThetideionの町に住んでいたと伝えている。[156] 
        そのPharsalusの町は、StraboがPalaepharsalusの町と記している古い町であると思われる。Straboは、Peleusの妻Thetisに因んで名づけられたThetideionの町は、Pharsalusの町とPalaepharsalusの町の近くにあったと述べている。[157] 
        19世紀の英国王立協会員Leakeは、Palaepharsalusの町がPharsalusの町のacropolisから東へ半マイルの距離にあったと推定している。[158] 
        Pharsalusの町の東側をEnipeus川が流れている。Palaepharsalusの町、つまり、Phthiaの町は、Pharsalusの町の東側のEnipeus川の近くにあったと推定される。 
      6.3 Centaursとの戦い 
        AD1世紀の詩人Ovidiusは、Peleusは、Phthiaの町の西側のDolopia地方のCtimenusの子Amyntorと戦って征服したと伝えている。[159] 
        しかし、AmyntorはPeleusの従兄弟と思われ、戦いがあったかは疑問である。 
        BC1247年、PeleusはAmyntorから彼の息子Crantorを預かって、彼の盾持ちにした。[160] 
        BC1246年、LapithsとCentaursの戦いが起きると、Peleusは、Lapithsに味方して、Centaursと戦った。[161] 
        Peleusの父Aeacusの父Actorの母Pisidiceは、Lapithsであった。[162] 
      6.4 Iolcusの内乱 
        BC1236年、Iolcusの町で内乱が発生して、Peliasの子Acastusが殺害された。Peleusは反乱を起こしたMinyansをThessaly地方から追放した。[163] 
        この戦いで、Peleusは、Thetisを助け出して、Phthiaの町へ連れ帰った。Thetisは、Acastusの息子の妻であったと推定される。[164] 
        Peleusは、Thetisと結婚して、息子Achillesが生まれた。[165] 
      6.5 Phoenix 
        BC1230年、Amyntorの子Phoenixは、Ormeniumの町からPhthiaの町のPeleusのもとへ亡命した。Peleusは、PhoenixにDolopia地方を与えた。[166] 
        Phoenixは、彼の父Amyntorの又従兄弟Peleusを頼って亡命した。 
      6.6 Thetisの家系 
        6.6.1 Thetisについての伝承 
        Thetisの家系を推測するための伝承は、つぎの2つである。 
        1) Pausaniasは、Peleusの異母兄弟Phocusの母は、Thetisの姉妹であったと伝えている。[167] 
        Pausaniasは、Phocusの母がNereusの娘Psamatheだとも伝えている。彼は、海神Nereusを介して、彼女たちが姉妹だと述べているようにも思われる。[168] 
        2) Crete島のDictysは、Thetisの父はChironであったと伝えている。 
        Dictysは、そのChironはCentaurとは記しておらず、Nereusと同じであるように記している。[169] 
      6.6.2 CentaurのChiron 
        ThetisがCentaurのChironの娘であったと記している史料はない。 
        それにもかかわらず、Thetisの父Chironが、Centaurと結び付けられたのは、BC5世紀の抒情詩人PindarとBC3世紀の叙事詩人Apollonius of Rhodesの影響と思われる。 
        Pindarは、PeleusとThetisの祝いの宴がPelion山であったように記している。[170] 
        Apolloniusは、Pelion山のPhilyraの子Chironの妻が、Peleusの子Achillesを抱いていたと伝え、CentaurのChironがAchillesの祖父であるかのように記している。[171] 
        しかし、Lapithsによって、CentaursがThessaly地方から追い出されたのは、BC1246年であり、Iolcusの町が破壊され、PeleusとThetisが結婚したのは、BC1236年である。 
        PindarやApolloniusが伝えている出来事の頃、CentaursはPelion山に住んでいなかった。 
      6.6.3 Thetisの父 
        Thetisは、「海の老人」あるいは「海神Nereus」の娘だと伝えられている。[172] 
        DictysがThetisの父であると伝えているChironがPelion山に住むCentaurであるとすれば、「海」とは関係がない。 
        Hyginusは、PeleusとTelamonの母Endeisの父がChironであったと伝えている。[173] 
        ApollodorosやPausaniasやPlutarchは、「Chiron」を「Sciron」と伝えている。[174] 
      6.6.4 海神Nereus 
        Plutarchは、Aegeusの子Theseusと同じ世代に、Salamis島のScirusの娘の子Menesthesがいたと伝えている。[175] 
        つまり、Argonautsの一員であるPeleusやTheseusは同世代であり、彼らの祖父の代にScirusという名前の人物がSalamis島にいたことになる。 
        この人物は、Aegeusの実の父であり、Euboea島の北に浮かぶScyros島に名前を与えたScyriusと同一人物と推定される。[176] 
        Aegeusの時代のAtheniansには船の舵取りをする技術がなかったので、Salaminiansが舵取りをしたと伝えられ、当時のSalaminiansは海の民であった。[177] 
        したがって、Salamis島のScyriusがThetisの父であり、海神Nereusであったと推定される。 
        つまり、Thetisの父Chironは、Aegeusの父であり、PeleusやTelamonの母方の祖父Scyriusであった。 
      6.6.5 Scyriusの父 
        Cecropsの子Pandionが、Scyriusの子Aegeusを養子にして、AegeusがPandionの跡を継いで、Athens王になっていることから、つぎのように推定される。[178] 
        Cecropsには、Pandionの他に、CychreusとScyrius (or Sciron, Chiron, Scirus)という息子たちがいた。 
        Cecropsと彼の息子たちは、異母兄弟Metionとの争いによって、Athensの町から追放された。[179] 
        Cychreusは、Salamis島へ移住した。[180] 
        Cychreusは、Athensの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[181] 
        Scyriusは、Athensの町からScyros島へ移住した。[182] 
        Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの婿であり、彼らの娘Endeis (or Endais)は、Aeacusの妻であった。[183] 
        Salamis島のCychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[184] 
        Scyriusの息子にはAegeusもいたが、Pandionの養子になった。[185] 
        Scyros島には、Aegeusの領地があった。[186] 
      6.7 Peleusの死 
        PeleusがTrojan Warの後で、Acastusによって、Thessaly地方から追い出されたという伝承がある。その時、PeleusやAcastusが生きていれば、100歳くらいの年齢になる。[187] 
        BC1230年に、Amyntorの子PhoenixがPeleusのもとへ移住して、PeleusがPhoenixにDolopia地方を与えた。[188] 
        恐らく、この出来事が信頼できるPeleusの最後の消息である。 
        BC1227年、HeraclesはAegimiusからの要請でLapithsとの戦いを開始する。 
        この戦いに、当時、53歳と推定されるPeleusは登場しない。Peleusは、Phoenixを受け入れた後、しばらくして、彼は死んだと推定される。[189] 
        Peleusが死んだ時、彼の息子Achillesは7歳くらいであり、Phoenixに育てられた。[190] 
        Achillesは、Phoenixの3従兄弟であった。 
      6.8 Peleusの娘Philomela (or Polymele) 
        PeleusとPerieresの娘Polydoraとの娘Philomelaは、Opusの町のActorの子Menoetiusへ嫁いで、息子Patroclusが生まれた。[191] 
        Patroclusは、Achillesより年上であったが、Achillesの甥であった。[192] 
      6.9 Peleusの娘Polydora 
        PeleusとEurytionの娘Antigoneとの娘Polydoraは、Spercheius川近くに住むPerieresの子Borusと結婚して、息子Menesthiusが生まれた。[193] 
        Menesthiusは、Achilles配下の第1隊を率いた。[194] 
      6.10 Peleusの子Achilles 
        Achillesは、PeleusとThetisの息子としてPhthiaの町で生まれた。[195] 
        Achillesは、Troyで戦死した時、47歳であったと推定される。 
        Thermopylaeの英雄Leonidasや、Alexander the Greatの最強部隊Argyraspidesのように、60歳以上でも戦士であったことを考慮すると、Achillesは若い戦士であった。 
        Achillesは、Scyros島のLycomedesの娘Deidamiaと結婚した。[196] 
        Achillesには、2人の息子たち、Neoptolemus (or Pyrrhus)とOneirosがいた。[197] 
      6.10.1 Achillesの子Oneiros 
        Oneirosは、Phocis地方でAgamemnonの子Orestesに殺された。[198] 
        恐らく、NeoptolemusがDelphiansと戦って死んだときに、Oneirosも戦死したと思われる。Orestesの親友Pyladesは、Delphiの近くのCirrhaの町に住んでいた。[199] 
      6.10.2 Achillesの子Neoptolemus 
        6.10.2.1 Trojan War時代 
        Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaの息子として生まれた。[200] 
        Achillesの死後、Neoptolemusは神託によって、Troyの戦場へ招致されたと伝えられている。[201] 
        しかし、系図を作成すると、AchillesがTroyへ遠征した時、Neoptolemusは26歳であった。 
        Neoptolemusは、父Achillesと共に、Priamの子Hectorに味方するために、Achaeansを率いてTroyへ遠征した。AchillesやHectorが戦死すると、Achaeansは、Troad地方から各地へ移住した。Neoptolemusは、Hectorの兄弟HelenusとHectorの妻Andromacheを連れて、Molossiansの地へ移住した。[202] 
        Myrmidonsは、Molossiansに名前を変えた。 
      6.10.2.2 Neoptolemusの定住地 
        NeoptolemusがMolossiansの地へ行って定住したのは、Dodonaの北にある現在のPamvotis湖近くのIoannina平原であった。[203] 
        Thucyides の「The History of the Peloponnesian War」やArrian の「The Anabasis of Alexander」にEpirusの王宮があった具体的な町の名は登場しない。 
        恐らく、知名度のない集落が数多く散在していたものと思われる。 
      6.10.2.3 Neoptolemusの最期 
        BC1175年、Neoptolemusは、Delphiを略奪しDelphiansのDaetasの子Machaereusとの戦いで戦死した。[204] 
        Neoptolemusは、Orestesに殺されたとも伝えられる。Orestesは、Cirrhaの町に住んでいたPyladesと共にDelphiansに味方してNeoptolemusと戦ったと思われる。[205] 
      7 Epirus 王国 
        7.1 Epirusの継承 
        Helenusは、Dodonaの西方の海岸近くにButhrotumの町を創建した。[206] 
        Leakeは、NeoptolemusがButhrotumの町に住んでいたと考えていた。[207] 
        しかし、NeoptolemusはHellopia地方に住み、HelenusがButhrotumの町に住んでいたと推定される。 
        Neoptolemusの死後、Epirusの王権はHelenusが引き継いだ。[208] 
        その後、Helenusは、Neoptolemusの子MolossusをButhrotumの町に呼び寄せて、後を継がせた。[209] 
        HelenusとAndromacheとの間の息子Cestrinusは、Buthrotumの町から少しAmbrasian Gulf寄りの土地へ移住して、Cestriaの町を創建した。[210] 
        Molossusの死後、Epirus の王統は、Hellopia地方に住むNeoptolemusの子Pielusに継承され、彼の後裔が代々Epirus を支配した。[211] 
      7.2 Molossiansの最期 
        BC2世紀、Myrmidonsの後裔が住むEpirusは、RomeとMacedoniaとの戦いで、Macedoniaに味方した。 
        BC167年、執政官Aemilius Paullus率いるRome軍によって、Epirusの70の町は、略奪され、住民15万人が奴隷として売られた。それらの町のほとんどはMolossiansの町であった。[212] 
      8 Myrmidonsの居住地の広がり 
        BC1300年、Myrmidonsは、Thessaly地方のPhthiaの町で誕生した。 
        BC1287年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Aegina島へ移住した。 
        BC1280年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Eleia地方へ移住した。 
        BC1275年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Dolopia地方へ移住した。 
        BC1262年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Locris地方へ移住した。 
        BC1260年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Triccaの町を経由して、黒海南岸のSinopeの町へ移住した。 
        BC1256年、Aegina島に住んでいたMyrmidonsは、Phocis地方、Phthiaの町、Salamis島へ移住した。 
        BC1250年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Thessaly地方南部のTrachisの町へ移住して、Maliansに名前を変えた。 
        その後、Trachisの町に住んでいたMaliansは、Malian Gulf北側のOthrys山麓のEchinusの町へ居住地を広げた。 
        BC1225年、Salamis島に住んでいたMyrmidonsは、Cyprus島へ移住した。 
        BC1186年、Phthiaの町に住んでいたMyrmidonsは、Dodonaの近くへ移住して、Molossiansに名前を変えた。 
        BC1170年、Cyprus島に住んでいたMyrmidonsは、Cilicia Tracheiaへ移住した。 
      9 ギリシア暗黒時代 
        Myrmidonsから名前を変えたMolossiansは、Epirus地方に住んでいた。 
        Myrmidonsから名前を変えたMaliansは、Malian Gulf周辺に住んでいた。 
        また、Myrmidonsは、黒海南岸のSinopeの町、Cyprus島のSalamisの町、Cilicia Tracheiaにも住んでいた。 
      おわり  |