第46章 ドリュオペス人の系譜

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Create:2023.4.14, Update:2025.8.2

1 はじめに
BC1750年、Parnassus山の北を流れるCephisus川の上流で大洪水が発生した。
Ogygusに率いられたEctenesは、Cephisus川の下流へ移住して、Copais湖の南東に定住した。[1]
BC1580年、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられたEctenesの一部は、Hyantesなどの他の部族によって圧迫されて、Boeotia地方から北へ移動した。DeucalionはThessaly地方北部を流れるPeneius川に南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[2]
Deucalionには、2人の息子たち、HellenとAmphictyonがいた。[3]
Hellenは、Phthiotis地方を治め、その地方の人々はHellenesまたはHellasと呼ばれた。[4]
Hellenには、3人の息子たち、Aeolus、Xuthus、Dorusがいた。[5]
BC1460年、Dorusは、Melitaeaの町からEnipeus川沿いに下って、Peneius川との合流地点の北側へ移住した。その地方は、Doris地方と呼ばれ、住人は、Doriansと呼ばれるようになった。[6]
BC1420年、Cadmus率いる大集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方に侵入した。Doris地方に住んでいたDorusは、Doriansを率いて南へ移動し、Oeta山とParnassus山の間に定住した。[7]
その地方は、Doris地方と呼ばれるようになった。[8]

2 始祖Dryops
2.1 Peneius河神の子Dryops
Dryopians (or Dryopes)の始祖は、Peneius河神とDanausの娘Polydoreの息子Dryopsであり、Spercheius川の近くに住んでいた。[9]
Danausの娘Polydoreが結婚適齢期になった頃、Thessaly地方のPeneius川近くに住んでいたのは、Hellenの子Dorusを始祖とするDoriansであった。
Dorusには、娘Iphthimeがおり、Iphthimeには、3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[10]
Iphthimeの息子たちは、Polydoreと同世代であり、彼らの一人がPolydoreと結婚したPeneius河神であったと思われる。
Polydoreの結婚は、Hellenの子DorusがParnassus山近くへ移住した後であり、Dorusの娘Iphthimeは、父の移住に参加せずにPeneius川近くに残っていたと推定される。

2.2 Polydoreの遠距離婚
BC1407年、Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreが結婚した。彼らには息子Dryopsが生まれた。[11]
Thessaly地方の北部に住むIphthimeの息子と、Argosの町に住むPolydoreの遠距離婚を可能にしたのは、つぎのような事情であったと推定される。
BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Peloponnesus北部のAegialus地方からThessaly地方のMelitaeaの町へ帰還した。[12]
BC1420年、Cadmusに率いられた大集団の移動に圧迫されて、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesはAegialus地方へ帰還した。その後、ArchanderとArchitelesはArgosの町のDanausの娘たち、ScaeaとAutomateと結婚した。[13]
彼らの結婚が、Scaeaの姉妹Polydoreと、Thessaly地方に住むIphthimeの息子を結び付けたものと推定される。

2.3 Spercheius近くへの移住
BC1390年、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Dorusの子Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。Polydoreの子Dryopsは、彼の祖母Iphthimeの父Dorusが移住したParnassus山近くのSpercheius川付近へ移住した。[14]
その後、Spercheius川近くに住む人々は、Dryopsの名前に因んで、Dryopiansと呼ばれるようになった。[15]

3 Dryopsの娘Dryope
Dryopsには、娘Dryopeがいた。[16]
BC1362年、Dryopeは、Andraemonと結婚した。彼らには息子Amphissusが生まれた。[17]
Andraemonは、Ozolian Locris地方のAmphissaの町に住むOrestheus (or Oreius)の子Phytius (or Oxylus)の息子であった。[18]
Orestheusは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの息子であった。[19]
つまり、DryopeとAndraemonは、Hellenの子Dorusを共通の祖とする、3従兄妹同士であった。

4 Dryopeの子Amphissus
BC1340年、Amphissusは、Oeta山の近くにOetaの町を創建した。[20]
Oetaの町の建設には、Spercheius川近くに住んでいたDryopiansが参加した。

5 Maliansとの戦い
BC1230年、Dryopiansは、Heracles率いるMaliansとの戦いに敗れて、Dryopis地方から各地へ移住した。[21]
Dryopiansを率いたのは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの子Phylasであった。[22]

5.1 戦いの原因
Diodorusは、DryopiansがDelphiの神殿に不敬を働いたことが戦いの原因だと記している。[23]
しかし、次のことから、この戦いは、DryopiansとMaliansとの間の戦いであった。
1) Dryopiansとの戦いの伝承に、Delphiの神域を守っていたDelphiansやPhociansが登場していない。
2) Dryopiansが追い出された後の土地を、Maliansが獲得した。[24]

5.2 戦いの結果
この戦いで、Phylasは戦死して、彼の2人の娘たち、MedaとPolymeleは捕虜になった。[25]
Medaは、Heraclesとの間に息子Antiochusを産んだ。[26]
Antiochusは、Athensの町の名祖たちの一人になり、彼の子孫Aletesは、Doriansの町Corinthの初代の王になった。[27]
また、Polymeleは、Actorの子Echeclesとの間に息子Eudorusを産んだ。[28]
この戦いには、Heraclesの友人Actorの子MenoetiusもOpusの町から参加したと思われる。[29]
Echeclesは、Menoetiusの兄弟であり、EcheclesもPhthiaの町から、この戦いに参加して、Heraclesに加勢したと思われる。

5.3 Dryopiansの移住先
Dryopiansの一部は、Cythnos島やCyprus島へ移住した。[30]
Dryopiansの一部は、Mycenaeの町のEurystheusのもとへ逃れて、土地を分けてもらい、Argolis地方に、Asine、Hermione、Eionの町を創建した。[31]
Dryopiansの一部は、Euboea島のStyraの町へ移住した。[32]
Dryopiansの一部は、Euboea島のCarystusの町へ移住した。[33]
Phocis地方のCirrhaの町の近くへ移住したDryopiansもいて、Cragalidaeと呼ばれた。[34]
Cragalidaeは、Amphissusの子Dryopsの子Cragaleusの後裔と推定される。[35]

5.3.1 LemnosのDryopians
また、Dryopiansの一部は、Lemnos島へ移住した。[36]
彼らの中には、BC630年にThera島からLibya地方へ移住して、Cyreneの町を創建するBattusの先祖Euphemusも含まれていた。[37]
Lemnos島に住んでいたDryopiansは、Laconia地方を経由して、BC1099年、Thera島へ移住した。

5.3.2 AsineのDryopians
BC745年、Argolis地方のAsineの町に住んでいたDryopiansは、Argos王Eratusに攻められて、町は、破壊された。[38]
ArgivesとSpartansとの戦いに、DryopiansがSpartansに加勢した結果であった。[39]
Argolis地方のAsineの町に住んでいたDryopiansは、Lacedaemonの町へ逃れた。[40]
BC724年、Messeniansとの戦いに勝利したSpartansは、DryopiansにMessenia地方の沿海の土地を与えた。[41]
Dryopiansは、Messenia湾入口の西側にAsineの町を創建した。[42]

6 Dryopisの位置
6.1 Herodotusの記述
Herodotusは、次のように記している。
Doriansは、PindusからDryopisへ移り、DryopisからPeloponnesusへ移動した。[43]
Doriansの発祥の地Dorisは、MalisとPhocisの間にあり、昔はDryopisと呼ばれていた。[44]
Doriansは、Erineus、Pindus、DryopisからPeloponnesusへ移住した。[45]
つまり、Herodotusは、DryopisとDorisを同じ地方であり、Pindusは、その地方の町ではないと認識していた。
しかし、Pindusは、Doriansの母市Tetrapolisの中の一つの町であり、Herodotusは、Dryopisについて誤って認識していた。[46]

6.2 Herodotus以外の記述
Straboは、DryopisをHeracleiaと共にOetaean countryの14の区の一つだと記している。[47]
Antoninus Liberalisは、DryopisがHeraclesの浴場の近くにあったと伝えている。[48]
Straboによれば、Heraclesの浴場は、Thermopylaeの近くにあった。[49]
Antoninus Liberalisは、Oeta山周辺を支配していたDanausの娘Polydoreの子DryopsがDryopisにApolloの神域を創建したと記している。[50]

6.3 Dryopisの位置の推定
以上の記述から、Dryopis地方は、Trachis地方とDoris地方の間にあったと推定される。
Dryopis地方は、Doris地方と同じくTetrapolisから成り立っていた。[51]

7 OetaとParnassusの間の地域
7.1 年表
BC1420年、Hellenの子Dorusは、Olympus山の近くのHistiaeotis地方からOeta山とParnassus山の間へ移住して、Pindusの町を創建した。[52]
その頃、Histiaeotis地方は、Doris地方と呼ばれていた。[53]
BC1390年、Polydoreの子Dryopsは、Peneius川近くからParnassus山近くのSpercheius川付近へ移住した。[54]
BC1250年、Actorの子Ceyxは、Phthiaの町からOeta山麓へ移住して、Trachisの町を創建した。[55]
BC1246年、Aeanianiansは、Ixionや彼の息子Peirithousが率いるLapithsによって、Thessaly地方のDotiumから追われた。[56]
Aeanianiansの大部分は、Oeta山麓へ移住した。[57]
BC1230年、Dryopiansは、Maliansとの戦いに敗れて、Dryopis地方から各地へ移住した。[58]

7.2 歴史
Herodotusは、DryopisをDorisの古い名称だと記している。[59]
しかし、両者は、別々の地方であり、DorisがDryopisより古い名称だと思われる。
つまり、Oeta山とParnassus山の間には、Doriansが先着して、その後、Dryopiansが遅れて移住して来た。
BC1250年、Actorの子Ceyxが率いるDoriansの支族Myrmidonsが、Phthiaの町からOeta山麓へ移住して、Trachisの町を創建した。[60]
Ceyxは、彼より遅れて、DotiumからOeta山の近くへ移住して来たAeanianiansの支族Maliansの首領の娘と結婚して、Trachisの町には多くのMaliansが住んだ。[61]
Maliansは、Heraclesの助けを借りて、Dryopis地方に住むDryopiansと戦った。
少し前に、Heraclesは、Aetolia地方のCalydonの町から移住して来て、Trachisの町に住んでいた。
Dryopiansは、居住地から追い出されて、Oeta山とParnassus山の間の土地は、Aeanianians、Malians、Doriansのものになった。

8 Dryopiansの出自
Dryopiansの名祖Dryopsの母は、Danausの娘Polydoreであり、Polydoreの婚姻に伴って、多くのPelasgiansがArgosの町からPeneius川近くへ移住した。

8.1 Dryopsの父方の祖父の種族
Dryopsの父の母Iphthimeは、Doriansであったが、Iphthimeの夫の種族は不明である。
Iphthimeの夫の種族については、DoriansとPelasgiansの2通り考えられる。
1) Dorians
Iphthimeの夫がDorianであったとすれば、Dryopsは、Peneius川近くからOeta山とParnassus山の間へ移住したとき、そこに先住していたDoriansに合流したはずである。
しかし、Dryopsと共に移住した人々の中に、彼の父方のDoriansより彼の母方のPelasgiansが多くいたため、先住していたDoriansに合流できなかったのかもしれない。
2) Pelasgians
Iphthimeの夫がPelasgianであったとすれば、同じPelasgianであるDanausの娘Polydoreとの結婚も理解できる。
しかし、Dorusの子Deucalionの息子たちに追われたPelasgiansが、Dorusの後裔が住んでいたOeta山とParnassus山の近くへ移住するとは思われない。

8.2 Doriansの支族Dryopians
Dryopsの娘DryopeがDorusの後裔Andraemonと結婚していることから、Iphthimeの夫は、Dorianであり、Dryopiansは、Doriansから派生した種族であったと推定される。

9 Dryopiansの居住地の広がり
BC1390年、Dryopiansは、Thessaly地方南部のSpercheius川の近くで誕生した。
BC1230年、Spercheius川の近くに住んでいたDryopiansは、Argolis地方、Phocis地方、Euboea島、Cyprus島、Lemnos島へ移住した。

10 ギリシア暗黒時代
Dryopiansは、Argolis地方のAsineの町、Euboea島のStyraの町、Phocis地方のCirrhaの町の近くに住んでいた。

おわり