第45章 ドーリス人の系譜

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Create:2023.4.14, Update:2026.2.16

1 はじめに
BC1750年、パルナッソス山の北を流れるケピソス川の上流で大洪水が発生した。
オギュゴスに率いられたエクテネスは、ケピソス川の下流へ移住して、コパイス湖の南東に定住した。[1]
BC1580年、ヘレンの父デウカリオーンの祖父に率いられたエクテネスの一部は、ヒュアンテスなどの他の部族によって圧迫されて、ボイオティア地方から北へ移動した。デウカリオーンはテッサリア地方北部を流れるペネイオス川に南から流れ込むエニペウス川の源流付近に、ピュラ (後のメリタイア)の町を創建した。[2]
デウカリオーンには、2人の息子たち、ヘレンとアンピクテュオンがいた。[3]
ヘレンは、プティオティス地方を治め、その地の人々はヘレネスまたはヘラスと呼ばれた。[4]

2 始祖ドロス
ヘレンには、3人の息子たち、アイオロス、クストス、ドロスがいた。[5]
BC1460年、ドロスは、メリタイアの町からエニペウス川沿いに下って、ペネイオス川との合流地点の北側へ移住した。その地方は、ドーリス地方と呼ばれ、住人は、ドーリス人と呼ばれるようになった。[6]
BC1420年、カドモスやトラキア人の大集団がトラキア地方から南下して、テッサリア地方に侵入した。ドーリス地方に住んでいたドロスは、ドーリス人を率いて南へ移動し、オイタ山とパルナッソス山の間に定住した。[7]
その地方は、ドーリス地方と呼ばれるようになった。[8]

3 ドロスの子供たち
3.1 ドロスの子テクタモス
3.1.1 パルナッソスの近くへの移住
テクタモスはヘレンの子ドロスの息子として、テッサリア地方北部のドーリス地方で生まれた。[9]
テクタモスは、父方の従兄弟であるアイオロスの子クレテウスの娘を妻にして、息子アステリオスが生まれた。[10]
BC1420年、テクタモスは、父ドロスと共に、オイタ山とパルナッソス山の間へ移住した。[11]

3.1.2 クレタへの移住
その後、テクタモスは、ドーリス人の他に、アイオリス人やペラスゴイ人を率いてクレタ島へ移住した。[12]
ダナオスのアルゴスの町への移住や、それに続くカドモスやトラキア人の大集団の移住によって居住地を追われて、クレタ島への移住を希望した人々は、ものすごい数であった。[13]
テクタモスを指導者とするドーリス人の移住先は、クレタ島東部のクノッソスの町付近であった。[14]
ペラスゴイ人は、クレタ島南東部のヒエラピュトナの町の近くに定住したと思われる。そこには、ラリッサの町があった。[15]

3.1.3 テクタモスの子アステリオス
テクタモスの子アステリオスは航海の途中で立ち寄ったキュドニアの町で、ポイニクスの娘エウロパと結婚した。[16]
エウロパには前夫との間に息子ミノスがいた。アステリオスは子供がないまま世を去り、エウロパの息子ミノスがアステリオスの跡を継いだ。[17]

3.1.4 テクタモスの息子と思われるペネイオス
ディオドロスは、ペネイオスの娘スティルベがラピタイとケンタウロスの先祖になったと伝えている。[18]
ラピタイの始祖ラピテスは、ヒッポテスの子アイオロスの息子であった。[19]
このことから、スティルベは、アイオロスの妻であり、ペネイオスは、ヒッポテスと同世代であった。
ペネイオスは、テッサリア地方のペネイオス川に彼の名前を与えたと伝えられており、ペネイオスは、ペネイオス川の近くに住んでいた。[20]
ペネイオスは、ドロスの子テクタモスの息子であり、父と一緒にパルナッソス山の近くへ移住せずに、ドーリス地方に残留したと思われる。
ペネイオスには、息子ヒュプセウスと、3人の娘たち、スティルベ、イピス (または、イピュス)、トリッカがいた。[21]
トリッカは、ドーリス地方から西へ移住して町を創建し、トリッカと名付けた。[22]
アルゴ船の遠征物語に登場するプロギウスとデイレオン (または、デモレオン)の父デイマコスは、トリッカの後裔と思われる。[23]

3.2 ドロスの子デウカリオーン
ヘレンの子ドロスの息子はテクタモスのみが伝えられているが、デウカリオーンという名前の息子もいたと思われる。つまり、テッサリア地方からペラスゴイ人を追い出した者たちの父デウカリオーンである。[24]
BC1415年、デウカリオーンは、オイタ山とパルナッソス山の間のドーリス地方から東側の海岸地方へ移住して、オプス湾近くに定住した。[25]
デウカリオーンは、ロクリス地方に初めて住んだギリシア人であり、ロクリス人の始祖であった。
デウカリオーンの後裔については、『ロクリス人の系譜』に記述する。

3.3 ドロスの子マケドノス
ドロスの子テクタモスはクレタ島へ移住し、もう一人のドロスの息子と思われるデウカリオーンもロクリス地方へ移住した。[26]
パルナッソス山近くに住み着いたドロスの後裔は、マケドノスと呼ばれていたことから、ドロスの跡を継いだ息子は、マケドノスという名前であったと思われる。[27]
アンピュトリオンの子ヘラクレスの時代に、ドーリス人の王であったドロスの子アイギミオスは、マケドノスの後裔と推定される。[28]

3.4 ドロスの娘イプチメ
ヘレンの子ドロスが一族を引き連れてパルナッソス山近くへ移住した後、ペネイオス川近くのドーリス地方に残っていた人々もいた。その中には、ドロスの娘イプチメ一家もいた。イプチメには、3人の息子たち、フェレスポンドス、リュコス、プロノモスがいた。[29]
イプチメの息子の一人は、ダナオスの娘ポリュドレと結婚して、息子ドリュオプスが生まれた。[30]
ドリュオプスは、オイタ山近くへ移住して、ドリュオプス人 (または、ドリュオペス)の始祖になった。[31]
ドリュオプスの後裔については、『ドリュオプス人の系譜』に記述する。

4 ラピタイとの戦い
4.1 ドーリス人の王アイギミオス
ドロスの子アイギミオスは、ドーリス地方のピンドスの町に住む、ドーリス人の首領であった。[32]
アイギミオスは、ヘレンの子ドロスに連なる血統であったと思われる。
テッサリア地方北部のドーリス人発祥の地であり、古くはドーリス地方と呼ばれていたヘスティアイオティス地方に住むドーリス人にとっても、アイギミオスは一族の長であった。[33]
ピンドスの町に住み続けたドーリス人は、ヘラスの支族のひとつであったが、他の支族との婚姻が見られず、同族結婚を繰り返していたものと思われる。
ドーリス人の系図は、ギリシアに文字をもたらしたダナオスやカドモスの系図に繋がらない。ヘレンの子ドロスの息子と思われるマケドノスから、アイギミオスの父ドロスまでの約160年間の系図は不明である。さらに、アイギミオスの息子たちの子孫の系図も不明である。

4.2 ラピタイの勢力拡大
ラピタイの始祖は、ヘレンの子アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスの子ラピテスであった。つまり、ラピタイとドーリス人とは、デウカリオーンの子ヘレンを共通の祖としている。
ドーリス人は、テッサリア地方北部のドーリス地方で生まれ、パルナッソス山の近くへ居住地を広げた。[34]
一方、ラピタイは、テッサリア地方の中で居住地を広げた。
ラピテスは、BC1390年、テッサリア地方に長く住んでいたペラスゴイ人が追い出された後で、父アイオロスの住むアルネの町を出た。ラピテスは、クラリオス川を下り、ペネイオス川との合流点付近の北側に定住した。[35]
ラピテスの息子の一人、ペリパスはマグネシア地方を領するヒュプセウスの娘アステュアグイアと結婚して、8人の息子たちが生まれた。[36]
ペリパスは、ヒュプセウスの跡を継いでマグネシア地方を治め、西側に隣接するプティア地方とは、婚姻により関係を深めた。
ペリパスの子アンティオンの子プレギュアスは、ドティオン平原のボイベイス湖の近くのアミュロスの町に住んでいて、ペリパスは、オッサ山とペリオン山の間を領していた。[37]
ラピテスの孫の代になるとラピタイの勢力は強大なものとなり、ペリパスの子アンティオンの子イクシオンは、ギュルトンの町のペッライビアを追い出した。また、イクシオンの子ペイリトウスは、ペリオン山の方へ進出して、ケンタウロスを追い払った。[38]
BC1248年のアルゴ船の遠征への参加者の町を見ると、ラピタイはプティア地方を除いて、ほぼテッサリア地方全般に居住地が広がっていた。[39]

4.3 ヘラクレスとの同盟
テッサリア地方北部のドーリス (後のヘスティアイオティスの一部)地方に住むドーリス人は、ギュルトンの町に住むラピタイから攻められた。[40]
ギュルトンの町のカイネウスの子コロノスは、ドーリス地方のドーリス人は、ピンドスの町のアイギミオスに援助を要請した。しかし、応援に駆け付けたアイギミオスは、コロノス率いるラピタイに包囲された。[41]
アイギミオスは、トラキスの町のヘラクレスに、ピンドスの町を中心とするドーリス地方の3分の1を割譲するという条件で、援軍を要請した。ヘラクレスは、アルカディア人やトラキスの町のマリア人を率いて、ドーリス地方へ遠征して、ラピタイを追い出した。[42]
さらに、ヘラクレスは、イトノスの町のペロピアの子キュクノスや、オルメニオンの町のオルメニオスと戦った。[43]

4.4 エウボイアのエウリュトスとの戦い
その後、ヘラクレスはエウボイア島のオイカリアの町に住むエウリュトスを攻めた。[44]
ヘラクレスがエウリュトスを攻めた理由は、エウリュトスが周辺の人々に貢納を強制してからであると伝えられる。[45]
しかし、ヘラクレスの一連の行動から、戦いの真の理由は、つぎのようであったと推測される。
エウリュトスの素性を調べると、エウリュトスの父メラネオスは、ラピテスの子アイオロスの息子と思われる。エウリュトスは、種族的にはラピタイであった。メラネオスは、テッサリア地方北部を流れるペネイオス川に注ぐイオン川を少し遡った所にオイカリアの町を創建した。
その後、メラネオスはペリエレスから招かれてメッセニア地方へ移住し、アンダニアの町の近くにオイカリアの町を創建した。[46]
エウリュトスの時代になって、スパルタの町のテュンダレオスによって、エウリュトスはメッセニア地方を追われて、エウボイア島にオイカリアの町を創建した。[47]
ドーリス人とラピタイの戦いが勃発すると、エウリュトスはテッサリア地方のラピタイを応援した。ヘラクレスに攻められ、陥落した町からエウボイア島のオイカリアの町へ多くのラピタイが逃げ込んだ。オイカリア攻めは激戦となり、それまでのラピタイとの戦いでは記されなかったヘラクレス側の犠牲者が記録されている。[48]
ヘラクレスはトラキスの町への帰路、エウボイア島の北西端ケナイオン岬にゼウスの祭壇を築き、ラピタイとの戦いの終了を宣言した。[49]

4.5 ヘラクレス死後のドーリス人
ヘラクレスの死後、ドーリス人の王アイギミオスは、ヘラクレスの子ヒュッロスを養子にして、領地の一部を割譲した。[50]
しかし、ヒュッロスがヘラクレイダイを率いて、ペロポネソス半島への帰還を試みて、ヒュッロスが戦死するまで、ヘラクレイダイはドーリス地方に居住していなかった。[51]

5 パルナッソス近くのドーリスへの合流
5.1 ヘラクレイダイの合流
BC1211年、ペロポネソスへ侵入しようとして、アカイア人との戦いに敗れたヘラクレイダイは、パルナッソス山近くのドーリス地方に住むアイギミオスのもとへ移住した。[52]
ヘラクレイダイは、アイギミオスから3分の1のドーリス人と土地を分け与えられて、ヘラクレスの子ヒュッロスの名前に因んでヒュッレイスと名付けられた部族を作った。[53]

5.2 テッサリアのドーリス人の合流
BC1186年、ギリシア北西部に住んでいたテスプロティア人が、テッサリア地方へ侵入して、住人を追い出した。[54]
ヘロドトスは、ペルシア戦争の時代にテッサリア地方に住んでいた種族の名前を記しているが、その中に、ドーリス人は含まれていない。[55]
テッサリア地方のペネイオス川近くのドーリス地方に住んでいたドーリス人は、パルナッソス山近くのドーリス地方へ移住したと推定される。

5.3 カドメイア人の合流
BC1126年、テッサリア地方のアルネの町から帰還したオペルテス の子ダマシクトン率いるボイオティア人は、テバイの町を占領した。
テバイの町に住んでいたカドメイア人は、ティサメノスの子アウテシオンに率いられて、パルナッソス山近くのドーリス地方へ移住した。[56]
ドーリス地方のピンドスの町には、ドーリス人 3部族の1つヒュッレイスの首領クレオダイオスの子アリストマコスが住んでいた。[57]
アウテシオンの娘アルゲイアは、アリストマコスの子アリストデモスと結婚して、スパルタの2王家の初代の王となる双子の息子たち、エウリュステネスとプロクレスを産んだ。[58]
アウテシオンの子テラスは、姉妹アルゲイアの息子たち、エウリュステネスとプロクレスの後見人となって、ヘラクレイダイのペロポネソス帰還に参加した。[59]

6 ペロポネソスへの移住
BC1215年、ヘラクレスの子ヒュッロス率いるヘラクレイダイは、ミュケナイの町のエウリュステウスが死んで、手薄になったペロポネソスへ侵入して、アルゴス地方に定住した。[60]
しかし、翌年、ヘラクレイダイは、一部を残して、アッティカ地方のトリコリュトスの町へ撤収した。[61]
BC1211年、ヒュッロスは、ヘラクレイダイを率いて、第2回目のペロポネソス帰還を試みた。ヒュッロス率いるヘラクレイダイは、イストモスで待ち受けていたアカイア人と会戦して、ヒュッロスは戦死した。[62]
ヘラクレイダイは、アッティカ地方からドーリス地方へ移住した。

6.1 ヒュッロスの子クレオダイオスの遠征
ドーリス地方へは、ヘラクレイダイや、テッサリア地方に住んでいたドーリス人が移住して来て、ドーリス地方の人口は急増した。
BC1173年、クレオダイオスは、ドーリス人を率いて、第3回目のペロポネソス帰還を試みた。ドーリス人は、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[63]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[64]
ドーリス人は、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[65]

6.2 クレオダイオスの子アリストマコスの遠征
BC1126年、アリストマコスは、第4回目のペロポネソス帰還を試みた。アリストマコスは戦死し、遠征は失敗に終わった。[66]

6.3 アリストマコスの子テメノスの遠征
BC1112年、テメノス率いるドーリス人は、第5回目のペロポネソス帰還を試みた。[67]
BC1111年、ドーリス人は、メラントスを追放して、メッセニア地方を占領した。[68]
BC1109年、ドーリス人は、テメノスの子パルケスに率いられて、シキュオンの町を占領した。[69]
BC1107年、ドーリス人は、攻城戦の後で、アルゴスの町を占領した。[70]
BC1104年、ドーリス人は、攻城戦の後で、スパルタの町を占領した。[71]
BC1103年、クレスポンテス率いるドーリス人は、メッセニアの王都をステニュクラロスに定めた。[72]
BC1102年、ドーリス人は、アンティマコスの子デイポンテスに率いられて、エピダウロスの町を占領した。[73]
BC1087年、ドーリス人は、パルケスの子レグニダスに率いられて、プリウスの町を占領した。[74]
BC1075年、ドーリス人は、ヒッポタスの子アレテスに率いられて、コリントスの町のアイオリスと戦って、コリントスの町を占領した。[75]
ペロポネソス半島の住人は、アルカディア地方のアルカディア人、エレイア地方のエリス人、アカイア地方のアカイア人を除いて、ドーリス人になった。
ペロポネソスへの帰還を完了したドーリス人は、アテナイの町を攻撃したが失敗した。
BC1074年、ドーリス人は、メガラ地方に住んでいたイオニア人を追い出して、メガラの町を建設した。[76]
メガラの町を建設したのは、コリントスの町のドーリス人であった。[77]

7 海外への移住
7.1 クレタやロドスへの移住
BC1070年、アルゴスの町のテメノスの子ケイソスの子アルタイメネスは、ドーリス人とペラスゴイ人を率いてクレタ島へ植民した。[78]
彼らの移住は、ペロポネソスで発生した飢饉が原因であった。[79]
アルタイメネス自身は、ロドス島へ移住し、リンドス, イアリュソス, カメイロスの町を建設した。[80]
アルタイメネスの移民団には、アルゴスの町のドーリス人だけではなく、メガラの町のドーリス人も含まれていた。[81]
また、アルタイメネスの植民団には、トロイゼンの町の住人を率いたアンタスの子アイティオスの後裔アンテスも含まれていた。[82]
アンテスは、カリア地方に入植して、ハリカルナッソスの町とミュンドスの町を創建した。[83]
アルタイメネスの植民団の一部は、クニドスの町やコス島へも分散した。[84]
ロドス島の3つ町と、ハリカルナッソス、クニドス、コスは、ドーリスの5市と呼ばれるようになった。[85]

7.2 ビテュニアへの移住
BC712年、メガラの町のジポイテスは、ドーリス人を率いてビテュニア地方へ移住し、アスタコスの町を創建した。[86]
BC434年にアテナイ人が送った移民団がメガラ人に合流してからアスタコスの町は繁栄した。[87]
アスタコスの町の名前は、スパルトイのアスタコスに因むと伝えられ、アテナイ人の中にいたゲピュライオイが命名したと思われる。[88]
ゲピュライオイは、エピゴノイのテバイ攻めの少し後でボイオティア人に追われてアテナイの町へ移住していた。[89]
したがって、町の名前がアスタコスになったのは、アテナイ人が共住してからであり、最初の町の名前は、ロブスターであったと思われる。アッリアノスが「ビテュニア史」の中で伝えている。[90]

8 ドーリス人の居住地の広がり
BC1460年、ドーリス人は、テッサリア地方北部のペネイオス川近くのドーリス地方で誕生した。
BC1420年、テッサリア地方に住んでいたドーリス人は、パルナッソス山近くのドーリス地方へ移住した。
ドーリス人の一部は、そこから、さらにクレタ島へ移住した。
BC1186年、テッサリア地方に住んでいたドーリス人は、パルナッソス山近くのドーリス地方へ移住した。
BC1104年、パルナッソス山近くのドーリス地方に住んでいたドーリス人は、アルゴス地方、ラコニア、メッセニア地方へ移住した。
BC1070年、アルゴス地方やメガラ地方に住んでいたドーリス人の一部は、クレタ島、ロドス島、カリア地方へ移住した。

9 ギリシア暗黒時代
ドーリス人の大部分は、ドーリス、アルゴス地方、ラコニア、メッセニア、メガラ地方に居住していた。ドーリス人は、クレタ島、ロドス島、カリア地方にも住んでいた。

おわり