第40章 アカイア人の系譜

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Create:2023.4.23, Update:2026.2.16

1 はじめに
BC1750年、パルナッソス山の北を流れるケピソス川の上流で大洪水が発生した。
オギュゴスに率いられたエクテネスは、ケピソス川の下流へ移住して、コパイス湖の南側に定住した。[1]
BC1580年、ヘレンの父デウカリオーンの祖父に率いられたエクテネスの一部は、ヒュアンテスなどの他の部族によって圧迫されて、ボイオティア地方から北へ移動した。デウカリオーンはテッサリア地方北部を流れるペネイオス川に南から流れ込むエニペウス川の源流付近に、ピュラ (後のメリタイア)の町を創建した。[2]
デウカリオーンには、2人の息子たち、ヘレンとアンピクテュオンがいた。[3]
ヘレンには、3人の息子たち、アイオロス、クストス、ドロスがいた。[4]
ヘレンの後裔は勢力を伸ばし、アイオロスはアイオリス、ドロスはドーリス人の始祖になった。クストスには、2人の息子たち、アカイオスとイオンがいた。アカイオスはアカイア人の始祖になり、イオンはイオニア人の始祖になった。[5]
ヘレンが死去すると、アイオロスとドロスは、彼らの兄弟クストスを追放した。[6]
BC1470年、クストスは、叔父アンピクテュオンがかつて王として統治したアテナイの町へ逃れた。[7]
クストスは、第4代アテナイ王エリクトニオスの娘クレウサと結婚した。[8]
BC1465年、クストスは、アッティカ地方の北東部に周辺から住人を集めて、オイノエ、マラトン、プロバリントス、そしてトリコリュントスという4つの町を建設した。[9]
BC1442年、クストスは、ペロポネソス半島北部のアイギアロス (後のアカイア)地方へ移住した。[10]

2 始祖アカイオス
アカイオスは、ヘレンの子クストスと第4代アテナイ王エレクテウスの娘クレウサの長男として生まれた。[11]
アカイオスは、父と共に、アテナイの町からアイギアロス地方へ移住し、父の跡を継いだ。[12]
BC1435年、アカイオスは、アカイア人を率いて、テッサリア地方へ攻め入り、父の故郷メリタイアの町へ帰還した。[13]
BC1420年、カドモス率いる大集団がテッサリア地方を通過し、その混乱によって、アカイオスは、メリタイアの町からアイギアロス地方へ再び移住した。[14]
このとき、アカイア人の一部は、テッサリア地方に残留したと思われる。
ペルシア戦争時代、プティオティス地方にアカイア人が住んでいた。[15]
アカイオスには、2人の息子アルカンドロスとアルキテレスがいた。[16]

2.1 アカイオスの息子アルキテレス
アルキテレスは、ダナオスの娘アウトマテと結婚した。[17]
アルキテレスは、彼の兄弟アルカンドロスと共に、シキュオン人と戦ったが、その後の消息は不明である。[18]

2.2 アカイオスの子アルカンドロス
BC1425年、アルカンドロスは、テッサリア地方東部のペリオン山近くに住むヒュプセウスの娘キュレネと結婚した。[19]
アルカンドロスとキュレネには、4人の息子たち、ノミオス, アリスタイオス, アウトコス, アルガイオスが生まれた。[20]
BC1420年、アルカンドロスは、メリタイアの町からアイギアロスへ移住した。[21]
アルカンドロスは、アルゴスの町からダナオスの娘スカイアを2人目の妻に迎えて、息子メタナステスが生まれた。[22]
BC1413年、ダナオスの跡を継いだリュンケウスが死んで、まだ幼いリュンケウスの子アバスがアルゴスの町を継承した。[23]
BC1408年、ダナオスによってアルゴスの町を追われたステネラスの子ゲラノールの子ラメドンは、シキュオン人を率いて、アルゴスの町を占領した。[24]
アルゴスの町を追われたリュンケウスの子アバスは、ポキス地方へ逃れてアバイの町を創建した。[25]
BC1407年、アルカンドロスは、ラメドンと戦って、アルゴスの町を奪還してアバスを呼び戻した。
アルカンドロスは、アバスの後見人となってアルゴスの町へ移り住んだ。[26]
アルカンドロスの妻スカイアは、アバスの母の姉妹であり、アルカンドロスは、アバスの義理の叔父であった。
BC1402年、アルカンドロスは、アバスが成人するとエジプトのナイルデルタへ移住し、キュレネ (別名アルカンドロポリス)の町を創建した。アルカンドロスには、妻スカイアばかりでなく、最初の妻キュレネと彼女の息子アリスタイオスも同行した。[27]

2.2.1 アルカンドロスの子アリスタイオス
多くの伝承は、アリスタイオスの母が、ヒュプセウスの娘キュレネであったと伝えている。[28]
しかし、アリスタイオスの父の名前は、伝承に記されていない。
次のことから、アリスタイオスの父であり、キュレネの夫は、アカイオスの子アルカンドロスと推定される。
1) 系図を作成すると、キュレネとアルカンドロスは、夫婦として矛盾しない。
2) 結婚適齢期に、キュレネとアルカンドロスは、テッサリア地方に住んでいた。
3) キュレネもアルカンドロスもリビュアへ移住した。[29]
4) キュレネは、アルカンドロスの父アカイオスの父クストスの兄弟アイオロスの子ヒュプセウスの娘であった。つまり、キュレネは、アルカンドロスの又従妹であった。
BC1420年、アリスタイオスは、父に連れられて、メリタイアの町からアイギアロス地方へ移住した。[30]
BC1402年、アリスタイオスは、父と共に、エジプトのナイルデルタへ移住して、キュレネ (別名アルカンドロポリス)の町を創建した。[31]
BC1390年、アリスタイオスは、ケオス島へ移住した。[32]
その移住には、リュカオンの後裔のパッラシア人が参加していた。[33]
アリスタイオスは、アルカディア地方の王であったという伝承があるが、アリスタイオスとアルカディア地方との繋がりは不明である。[34]

2.2.1.4 サルドへの移住
BC1372年、アリスタイオスは、ケオス島からエジプトへ帰り、再び移民団を率いてイタリア半島西側のサルド島へ移住した。[35]
アリスタイオスより前に、エジプトのカノープスの町からマケリスの息子サルドスがサルド島へ移民団を率いていた。[36]

2.2.2 アルカンドロスの息子たち、ノミオスとアルガイオス
ノミオスとアルガイオスは、テッサリア地方のペリオン山近くにある、彼らの祖父ヒュプセウスの領地を継承した。[37]

2.2.3 アルカンドロスの子アウトコス (または、ベロス)
2.2.3.1 別名ベロス
アウトコスには、ベロスという別名があったと思われる。
つまり、ケペオスとピネオスの父ベロスである。[38]
ベロスは、エジプトに住んでいた。[39]
ベロスの子ピネオスは、トロイ王国の始祖ダルダノスの娘イダイアと結婚した。[40]
ベロスの子ケペオスの娘アンドロメダは、アクリシオスの娘ダナエの息子ペルセウスと結婚した。[41]
ベロスの子ピネオスやベロスの孫娘アンドロメダの結婚相手を考慮すると、ベロスは、エジプトへ移住したギリシア人の子孫と思われる。
アルカンドロスの妻は、ダナオスの娘スカイアであり、ベロスの時代、エジプトには、ダナオスやカドモスの子孫は住んでいなかった。エジプトに住んでいたギリシア人は、アルゴスの町からエジプトのナイルデルタへ移住して、アルカンドロポリスの町を創建したアルカンドロスの家族だけであった。[42]
つまり、ベロスは、アルカンドロスの子アウトコスの別名であったと推定される。

2.2.3.2 エチオピアへの移住
BC1390年、ベロスは、津波の被害に遭った人々を率いて、エジプトからギリシアへ航海し、コリントスの町のシシュッポスの子アイイテスの移民団と合流した。[43]
アイオロスの子シシュッポスが創建したばかりのコリントスの町も津波に襲われていた。アイイテスとベロスは、デウカリオーンの子ヘレンを共通の先祖とする同族であった。
彼らの移民団はエーゲ海を北上してヘレスポントス海峡を抜けて、プロポンティス海に入った。
ベロスは、キュジコス手前のアイセポス川の河口付近に適地を見つけて入植した。
ベロスの入植地は、エチオピアと呼ばれるようになった。
ベロスを始祖とするエチオピア人は、体躯や容貌がエジプトの南に住むエチオピア人に似ていたために、そのように呼ばれていたものと思われる。

2.2.3.3 ベロスの子ケペオス
ケペオスには跡を継ぐ息子がおらず、彼の孫ペルセスがケペオスの跡を継いだ。[44]
エチオピア人は、トロイの支配下になったと思われ、ペルセスより後の系譜は不明である。
トロイ戦争時代、エチオピア人は、ラオメドンの子ティトノスの子メムノンに支配されていた。

2.2.3.4 ベロスの子ピネオス
ピネオスは、ダルダノスの娘イダイアを妻に迎えた。[45]
BC1380年、ピネオスは、黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。[46]
BC1350年、サルミュデッソスの町に住んでいたアカイア人は、ピネオスの息子たち、マリアンデュノス、ビテュノス、パプラゴン (または、パプラゴノス)、テュノスに率いられて、ボスポラス海峡を越えて、東方へ移住した。[47]
アカイア人は、マリアンデュノイ人、ビテュニア人、パプラゴニア人、テュノイ人に名前を変えた。[48]
BC1345年、ピネオスの息子たち、クリュティウス、ポリュメデス (または、プレキッポス, パンディオン)は、サルミュデッソスの町からタウリケ・ケルソネセ (現在のクリミア)へ移住した。[49]

2.2.4 アルカンドロスの子メタナステス
メタナステスは、父アルカンドロスに連れられて、アルゴスの町からエジプトのナイルデルタへ移住した。

2.2.4.1 メタナステスの子ピラムノス
メタナステスには、息子ピラムノスが生まれ、ピラムノスは、アクリシオスの娘ダナエと結婚した。[50]
BC1341年、ダナエの移民団を乗せた船は、サルド島へ向かう途中、南からの強風に流されて、イタリア半島中部の西海岸に漂着した。[51]
ダナエの夫ピラムノスは死に、アルゴス王の娘であるダナエが中心になって、ローマの南東約30kmの土地にアルデアの町を創建した。[52]
当時、ダナエが町を建設したラティウム地方には、シケルが散住していた。その後、間もなくして、サボスの後裔が山地から進出して来て、サトゥルニアの町やヤニクロンの町を創建した。[53]
ダナエの移民団の構成員は、アルゴスの町からエジプトへ移住したアカイア人やペラスゴイ人であった。彼らと、サボスの後裔とは、言葉や習慣が近かった。
サトゥルニアの町のサトゥルヌスに小麦栽培を伝授したのは、エジプトからダナエと共に移住した人々であった。[54]
ダナエの子ダウノスがアルデアの町を継承した。[55]
ダナエと共にイタリア半島へ移住したアカイア人は、ルトゥリ人に名前を変えた。[56]
アイネアスと戦って死んだルトゥリ人の首領トゥルヌスは、ダウノスの後裔であった。[57]
ダナエには、息子ペルセウスがいた。

2.2.5 アルゴスからメッセニアへの移住
BC1405年、アルカンドロスと共に、アルゴスの町へ移住したアカイア人は、メッセニア地方のアンダニアの町の建設に参加した。[58]
アンダニアの町の創建者は、ラケダイモンの町のレレクスの子ポリュカオンであったが、彼の妻メッセネは、アルゴスの町の出身であった。
BC1310年、ポリュカオンの跡継ぎが絶えたとき、アンダニアの町の住人は、テッサリア地方からアイオロスの子ペリエレスを継承者を迎えた。[59]
アイオロスは、ヒッポテスの子アイオロスの子ラピテスの息子であり、ペリエレスはラピタイであった。
BC1280年、ペリエレスの子アパレウスは、メッセニア地方の西海岸へ移住して、アレネの町を創建した。[60]
アレネの町の住民構成は、アカイア人、ラピタイ、ラケダイモン人であった。

3 ピラムノスの子ペルセウス
BC1360年、ペルセウスは、ピラムノスとダナエの息子として、エジプトのナイルデルタのケンミスの町で生まれた。[61]

3.1 アルゴスへの移住
BC1349年、ペルセウスは、祖父アクリシオスの跡を継ぐために、エジプトからアルゴスの町へ移住した。[62]
BC1343年、ペルセウスは、アクリシオスの兄弟プロイトスを殺して、アルゴスの町を去った。[63]

3.2 ペルセウスの結婚
BC1342年、ペルセウスは、エチオピア人の地に住むベロスの子ケペオスのもとへ行き、彼の娘アンドロメダと結婚した。[64]
アンドロメダの生まれ故郷エチオピアはエジプトの南ではなく、アナトリア半島北西部のアイセポス川の河口付近にあった。[65]
そのエチオピアは、アドラスティア平原にあり、ペルセウスがアンドロメダと結婚した当時、そこは、ペロプスの父タンタロスの領地であった。[66]
ペルセウスの息子たちとペロプスの娘たちの婚姻は、ペロプスの父タンタロスとペルセウスとの交友関係によるものであった。
また、ペルセウスの母ダナエと、ペロプスの妻ヒッポダミアの母エウアレテは姉妹であり、ペルセウスの息子たちとペロプスの娘たちは、又従兄妹同士であった。[67]

3.3 ペルセウスの遠征
ペルセウスがリュカオニア地方のイコニオン (コンヤ)の町まで遠征したと伝えている史料がある。[68]
ペルセウスの結婚からペロポネソス帰還までの10年間のペルセウスの動向は不明であり、遠征は、この時期の出来事と推定される。
ヒッタイト文書によれば、アルザワ王タルフンタラドゥがヒッタイト領の奥深くまで侵入して、トゥワヌワ (テュアナ)の町を占領していた。[69]
イコニオンの町は、トゥワヌワの町の西方約185kmにある。
タルフンタラドゥは、ペルセウスの母ダナエと同世代であり、ペルセウスは、アヒヤワ軍と共に、タルフンタラドゥの遠征に参加していたと思われる。
ペルセウスが創建したミュケナイの城塞の神殿には、エジプトのアメンホテプ3世の妻ティイのスカラベが置かれていた。[70]
そのスカラベは、アメンホテプ3世と交流があったタルフンタラドゥからペルセウスに与えられ、ペルセウスが神殿に安置したと推定される。

3.4 ミュケナイの創建
アバスの子アクリシオスが死ぬと、テュリンスの町に住むプロイトスの子メガペンテスがアルゴスの町へ移り住んだ。[71]
BC1332年、ペルセウスは、エチオピア人の地からペロポネソスへ帰還し、アルゴスの町から追い出されたアカイア人と共にテュリンスの町を占拠した。[72]
BC1330年、ペルセウスは、ミュケナイの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[73]
ミュケナイの町に住んでいたアカイア人は、ミュケナイ人に名前を変えた。

3.5 ペルセウスの息子たち
ペルセスとアンドロメダには、息子たち、ペルセス、エレクトリュオン、アルカイオス、ステネロス、キュヌロス、メストール、ヘリオス (または、ヘレウス)が生まれた。
ペルセスは、エチオピアで生まれ、母アンドロメダの父ケペオスの跡を継ぐためにその地に残された。[74]
アルカイオスは、テバイの町のメノイケウスの娘ヒッポノメと結婚して、後にヘラクレスの父になる、息子アンピュトリオンが生まれた。[75]
アルカイオスは、テュリンスの町に住み、アカイア人は、テュリンス人に名前を変えた。
ステネロスは、父ペルセウスからミュケナイの町を継承した。[76]
BC1300年、キュヌロスは新天地を求めて、ラコニア地方との境付近へ移住してキュヌリアの町を創建した。[77]
キュヌリアの町に住んでいたアカイア人は、キュヌリア人に名前を変えた。
メストールは、ペロプスの娘リュシディケを妻に迎えて、娘ヒッポトエが生まれた。[78]
BC1290年、ヘリオスはラコニア湾岸にヘロスの町を創建した。[79]
ヘリオスは、メストールの娘ヒッポトエと結婚して、息子タピウスが生まれた。[80]
BC1277年、ヘリオスは、兄弟たちと共にギリシア北西部へ遠征して、エキナデスに定住した。[81]
エレクトリュオンは、この遠征で、彼の息子たちと共に死に、彼の末の息子リキュムニオスと彼の娘アルクメナがミデイアの町に残された。[82]

3.6 エウリュステウス死後の移住
ステネロスの子エウリュステウスが父からミュケナイの町を継承した。[83]
BC1217年、エウリュステウスは、ヘラクレスの死後、ヘラクレスの息子たちとの戦いに敗れて、死んだ。[84]
BC1213年、テュリンス人は、ヘラクレスの子トレポレモスの移民団に参加して、ロドス島へ移住した。[85]
トレポレモスの移民団の中には、エウリュステウスの娘アドメテやミュケナイ人のレベスがいた。[86]
レベスは、クレタ島に定住した。[87]
BC1200年、レベスの子ラキオスは、クレタ島から小アジアへ渡ってコロポンの町を創建した。[88]
アドメテは、ラキオスの移民団に参加して、クレタ島からサモス島へ移住した。[89]

4 ミュケナイの繁栄
エウリュステウスの死後、ペロプスの子アトレウスが、ミュケナイの町を継承した。[90]
アトレウスの孫アガメムノンの時代、ミュケナイの町は、BC16世紀中期のアルゴスの子メッサポスの時代に次ぐ、第二の黄金期を迎えた。
BC1200年、アガメムノンは、ラコニア地方をミュケナイの町に併合して、アガメムノンの兄弟メネラオスがラコニア地方を領有した。[91]
アガメムノンは、ラコニア地方のマレアイ岬近くのオヌグナトス半島にアテナの神域を造営した。[92]
BC1190年、アガメムノンの子ハライソスは、ミュケナイの町からイタリア半島中部のファレリイの町へ移住した。[93]
BC1341年、ミュケナイの町の創建者ペルセウスの母ダナエは、イタリア半島へ移住して、ローマの南東約30kmの土地にアルデアの町を創建していた。[94]
ファレリイの町の周辺は、ラティウム地方のアルデアの町を本拠地とするルトゥリ人が領していたが、ルトゥリ人の王トゥルヌスは、ダナエの後裔であった。[95]
ルトゥリ人は、周辺の敵対する勢力に対抗して、味方を得るために、ハライソスを招いたと推定される。
BC1182年、アンキセスの子アイネアスとルトゥリ人との戦いが起き、ハライソスは、ルトゥリ人に味方して戦いに参加して、エウアンドロスの子パラスに討ち取られた。[96]
ハライソスの死後、ファレリイの町に住んでいたミュケナイ人は、ミュケナイの町へ帰還したと思われる。最近の考古学調査で、BC12世紀にミュケナイの町とイタリアとの間に交易があったことを示す出土品が発掘されている。

5 ドーリス人の侵入
5.1 クレオダイオスとの戦い
BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオスはドーリス人を率いて、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[97]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[98]
アカイア人は、ドーリス人をペロポネソスから追い出したが、土地は荒廃した。
アガメムノンの子オレステスの子ペンチロスは、土地を失った人々を率いて、レスボス島へ遠征して、植民した。[99]
アミュクライの町に住んでいたアカイア人は、ペイサンドロスに率いられて、テネドス島へ植民した。[100]
エピダウロスの町に住んでいたアカイア人は、ペリントスに率いられて、他へ移住した。[101]

5.2 テメノスとの戦い
BC1112年、アリストマコスの子テメノス率いるドーリス人が、ペロポネソスに侵入した。[102]
オレステスの子ティサメノス率いるアカイア人は、ドーリス人に攻められて、アルゴスの町を明け渡して、スパルタの町へ移住した。[103]
BC1104年、スパルタの町に籠城していたアカイア人は、町をドーリス人に明け渡して、アカイア地方へ移住した。[104]
このとき、ラコニア地方に残留したアカイア人もいた。
BC1101年、エリスの町のオクシュロスは、アカイア地方のヘリケの町からオレステスの曾孫アゴリオスを呼び寄せて、共同統治者にした。[105]
BC930年、パリスの町に住んでいたアカイア人の大部分は、プレウゲネスの子パトレウスに率いられて、アカイア地方へ移住して、パトライの町を創建した。[106]
BC780年、アミュクライ、パリス、 ゲロントライの町に住んでいたアカイア人は、ドーリス人に攻められて、ペロポネソスから移住した。[107]

6 アイオリス植民
BC1100年、ペンチロスの子アルケラオス(または、エケラス)は、アカイア人の移民団を率いて、アナトリア半島北西部のダスキュリオンの町の周辺へ移住した。[108]
BC1055年、アルケラオスの子グラスは、グラニコス川まで遠征し、レスボス島を再占領して、ミュシア地方とイオニア地方の間のアイオリス地方を領有した。[109]

7 ラコニアからエレイアへの移住
BC1070年、レムノス島に住んでいたペラスゴイ人は、ラコニア地方に移住して来て、ドーリス人に受け入れられたが、その後、両者は対立した。ペラスゴイ人は、ラコニア地方に住んでいたアカイア人を教唆して、ドーリス人に対して反乱を起こした。ドーリス人は、彼らと条約を締結して、ラコニア地方から彼らを立ち去らせた。[110]
ペラスゴイ人とアカイア人は、各地へ移住した。
ヘロドトスは、テラスの移民団に参加しなかったミニュアス人が、ラケダイモンからエレイア地方南部へ移住して、レプレオン, マキストス, プリュクサイ, ピュルゴス, エピオン, ヌディオンの町を創建したと記している。[111]
しかし、そのミニュアス人をレムノス島から追い出したのは、アテナイの町から追放されたペラスゴイ人であった。[112]
ペラスゴイ人より数の少ないミニュアス人が、6つの町を創建できたとは思われない。
それらの町の創建者は、反乱を起こして、ラコニア地方から追放された人々であり、その大部分は、ドーリス人に敵対しながらラコニア地方に住んでいたアカイア人であったと思われる。

8 ヒッタイト文書のアヒヤワ
ヒッタイト文書に記されたアヒヤワは、アカイア人を意味していると解釈するのが通説のようである。[113]
アヒヤワは、アルヌワンダ1世 (BC1390-80)の治世中に書かれたマドゥワッタの告発状(CTH 147)という文書の中で最初に言及されている。[114]
その文書には、マドゥワッタが、アヒヤワのアッタルシアに攻撃されて、ヒッタイト王トゥドハリヤ1世のもとへ亡命したと記されている。[115]
その文書が作成されたときには、アヒヤワが存在していたことになる。
BC1380年当時、アカイア人 (クストスの子アカイオスの子孫)は、アルゴス地方、エジプトのナイルデルタ、そして、アナトリア半島北西部に居住していた。
しかし、それらの居住範囲で、マドゥワッタとの接点は見つからない。
ヒッタイト文書に現れるアヒヤワは、アカイア人ではないと思われる。

9 アカイア人の居住地の広がり
BC1435年、アカイア人は、ペロポネソス北部のアイギアロス地方で誕生した。
BC1435年、アイギアロス地方に住んでいたアカイア人は、テッサリア地方へ移住した。
BC1420年、テッサリア地方に住んでいたアカイア人は、アイギアロス地方へ移住した。
BC1407年、アイギアロス地方に住んでいたアカイア人は、アルゴスの町へ移住した。
BC1405年、アルゴスの町に住んでいたアカイア人は、メッセニア地方のアンダニアの町へ移住した。
BC1402年、アルゴスの町に住んでいたアカイア人は、エジプトのナイルデルタへ移住した。
BC1390年、エジプトに住んでいたアカイア人は、アナトリア半島北西部のアイセポス川河口付近へ移住して、エチオピア人に名前を変えた。
BC1380年、エチオピアに住んでいたアカイア人は、黒海南西岸へ移住して、サルミュデッソスの町を創建した。
BC1350年、サルミュデッソスの町に住んでいたアカイア人は、黒海南岸へ移住して、マリアンデュノイ人、ビテュニア人、パプラゴニア人、テュノイ人に名前を変えた。
BC1345年、サルミュデッソスの町に住んでいたアカイア人は、タウリケ・ケルソネセへ移住した。
BC1341年、エジプトに住んでいたアカイア人は、イタリア半島へ移住して、アルデアの町を創建した。
BC1330年、エチオピアに住んでいたアカイア人は、ペロポネソスへ移住して、ミュケナイの町を創建した。
BC1280年、アンダニアの町に住んでいたアカイア人は、メッセニア地方のアレネの町へ移住した。
BC1213年、テュリンスの町やミュケナイの町に住んでいたアカイア人は、ロドス島やクレタ島へ移住した。
BC1200年、クレタ島に住んでいたアカイア人は、サモス島やイオニア地方のコロポンの町へ移住した。
BC1200年、ミュケナイの町に住んでいたアカイア人は、ラコニア地方を併合した。その後、アカイア人は、メッセニア地方をも支配下に置いた。
BC1190年、ミュケナイの町に住んでいたアカイア人は、イタリア半島へ移住した。
BC1173年、ペロポネソスへドーリス人が侵入して、土地が荒廃したため、アカイア人は、テネドス島やレスボス島へ移住した。
BC1104年、アルゴス地方やラコニア地方に住んでいたアカイア人は、ペロポネソス北部のアカイア地方へ移住した。
BC1100年、アカイア地方に住んでいたアカイア人は、アナトリア半島北西部のダスキュリオンの町の周辺へ移住した。
BC1070年、ラコニア地方に残留していたアカイア人も、エレイア地方へ移住して、6つの町を創建した。
BC1055年、アナトリア半島北西部に住んでいたアカイア人は、レスボス島へ移住した。

10 ギリシア暗黒時代
アカイア人の大部分は、ペロポネソス北部のアカイア地方に居住していた。
また、エレイア地方、テッサリア地方、ミュケナイ、テュリンス、キュヌリアの町にもアカイア人が居住していた。
イタリア半島のアルデアの町には、アカイア人から名前を変えたルトゥリ人が居住していた。
アナトリア半島のダスキュリオンの町周辺、テネドス島、レスボス島にもアカイア人が居住していた。
黒海南岸には、アカイア人から名前を変えたマリアンデュノイ人、ビテュニア人、パプラゴニア人、テュノイ人が居住していた。

おわり