第56章 ギリシアの神託所

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Create:2023.8.28, Update:2026.2.16
Oracles

1 はじめに
BC549年、リュディア王クロイソスは、ペルシアのキュロスがメディアを攻略して勢力を増すのに危機感を覚え、各地の神託所へ使節を派遣して、神託を得た。その神託所とは、デルポイ, アバイ, ドドナ, アンピアラオス, トロポニオス, ブランキダイであった。その中で、クロイソスが一番信用できると認めたのはデルポイであった。[1]
その他に、クラロスやプトオス山の神託所が有名であった。

2 アバイの神託所
パウサニアスは、アバイがアポロの聖地であり、古くから神託所があったと伝えている。[2]
AD6世紀の文法学者ビザンチウムのステファヌスは、デルポイの神託所より前に、アバイの神託所があったと記している。[3]
しかし、アバイの神託所が初めて史料に登場するのは、BC6世紀のクロイソスの時代であった。
BC549年、リュディア王クロイソスから派遣された使節がアバイから神託を受けた。[3-1]
BC371年、レウクトラの戦いの前に、テバイ人がアバイから神託を受けた。[3-2]

3 アンピアラオスの神託所
アンピアラオスの神託所は、ボイオティア地方とアッティカ地方との境界付近のオロプスの町のプサピスにあった。[4]
予言者であったアンピアラオスを神とみなしたのは、オロプスの町が最初で、その後、ギリシア人の間に広まった。[5]
リュディア王クロイソスは、黄金の楯と槍をアンピアラオスの社へ奉納した。それらの奉納品は、ヘロドトスの時代には、テバイの町の「イスメニオスに坐すアポロン」の神殿にあった。[6]
アンピアラオスは、メランプスの子マンティオスの子オイクレスの息子であり、アドラストスのテバイ攻めに参加して、戦死した。
アンピアラオスが死んだ場所はプサピスではなく、テバイの町のエレクトラ門の南であった。[7]

4 ブランキダイの神託所
4.1 神託所の創建
BC1186年、テッサリア地方からトロイ遠征に参加したマグネシア人は故郷へ帰還せず、デルポイの町に住み着いた。[8]
BC1173年、マグネシア人は、デルポイを荒らしたアキレスの子ネオプトレモスを殺したダイタスの子マカイレウスが率いるデルポイ人と共に小アジアへ移住した。[9]
マグネシア人とデルポイ人は、リュディア地方にマグネシアの町を創建した。[10]
マグネシア人は、小アジアへ移住する前、テッサリア地方のドティオン平原にあるディデュマの丘の近くに住んでいた。[11]
マカイレウスの子孫デモクロスの子スミクロスは、マグネシアの町からミレトスの町へ移住して、息子ブランコスが生まれた。[12]
ブランコスは、ミレトスの町の近くのディデュマにアポロの神託所を開設した。ブランキダイの神託所は、デルポイの神託所に次いで、名声の高い神託所であった。[13]

4.2 創建の年代
パウサニアスは、神託所の創建がイオニア人の入植より古いと記している。[14]
ミレトスの町の歴史家レアンドロスが、ミレトスの町のディデュマイオンにクレオクスが埋葬されていると記しているのを見て、パウサニアスは推定したと思われる。[15]
クレオクスは、クレタ島から小アジアへ移住して、ミレトスの町を創建したミレトスの母アリアの父であり、BC14世紀の人物であった。[16]
しかし、ディデュマイオンにクレオクスが埋葬されていたことが、BC14世紀にディデュマイオンが存在していたことの証明にはならない。
ブランコスは、ミレトスの町の支配者コドロスの子ネイレウスの後裔レオダマスから捕虜の母子を託された。その捕虜は、レオダマスがエウボイア島のカリュストスの町との戦いで得たものであり、レラントス戦争時代の出来事であった。[17]
ブランコスは、ミレトスの町に僭主が現れる前の王制の時代の人物であり、ディデュマのアポロの神託所の創建は、BC720年と推定される。

4.3 クセルクセスによる破却
BC494年、ペルシア大王クセルクセスは、ミレトスの町の近くのディデュマにあるブランキダイの神殿や神託所を破却した。[18]
ブランキダイは、神殿の財貨を引き渡して、クセルクセスに従ってディデュマを去って、ソグディアナ地方へ移住した。[19]
ブランキダイの神殿には、ミレトスの町がペルシアから制海権を勝ち取れるだけの艦隊を建造することが可能な富が奉納されていた。[20]
この時、ディデュマのブランキダイは、すべて移住したのではなく、残っていた者たちもいた。BC300年頃、アンティオコスの子セレウコスは、エクバタナの町にあったアポロ像をミレトスの町のブランキダイに返還した。[21]

4.4 ソグディアナのブランキダイの滅亡
BC327年、ソグディアナ地方のブランキダイの町は、アレクサンドロス大王によって破壊された。
彼らの先祖がクセルクセスに神殿の財貨を引き渡し、人々を裏切ったことが破壊の理由であった。[22]
ブランキダイは、アレクサンドロス大王の母方の先祖ネオプトレモスを殺害したダイタスの子マカイレウスの後裔であったことも理由の一つであったと思われる。[23]
この因縁を考慮すると、BC331年、アレクサンドロス大王がエジプトのメンフィスの町に滞在中、ミレトスの町のブランキダイから大王を喜ばすような予言が届いたという伝承は、作り話と思われる。[24]

5 クラロス (または、クラロス)の神託所
BC1196年、ティレシアスの娘マントを含むエピゴノイの捕虜たちは、小アジアへ移住し、コロポンの町のレベスの子ラキオスに受け入れられて共住した。[25]
マントは、コロポンの町近くの海辺のクラロスの町に、アポロンの神託所を開設した。[26]
クラロスのアポロンの神託所の創建は、BC1194年と推定される。
神託所は、マントの子モプソスが継承した。[27]
その後、モプソスは、異父兄弟アンピロコスと共に、キリキア地方へ移住して、マッロスの町を創建しており、クラロスの神託所はモプソスの息子が継承と思われる。[28]
モプソスの娘ロデは、リュキア地方のロドア (ロドアポリス)の町の名祖であった。テルメッソスの町の出身で、アレクサンドロス大王の遠征に従軍した予言者アリスタンドロスも、モプソスの後裔と思われる。[29]
BC334年、スミュルナの町の住人は、新市の建設について、クラロスの神託所から神託を受けた。[30]

6 デルポイの神託所
6.1 リュコレイアの創建
BC1750年、オギュゴス時代の大洪水が発生したとき、ポキス地方のケピソス川の近くに住んでいた人々の一部は、パルナッソス山に逃れて、リュコレイアの町を創建した。[31]
リュコレイアの町の創建者は、リュコロス (または、リュコレウス)であった。[32]
リュコレイアの町の住人の一部は、後に、デルポイの神域の近くに移り住んだ。[33]

6.2 デルポイの創建
パウサニアスが伝えている系譜によれば、デルポイの町の名付け親デルポスは、リュコロスの子ピュアモスの娘ケライノの息子であった。
つまり、デルポスがデルポイの町を創建したのは、BC1690年と推定される。[34]

6.3 デルポイの神託所の神
デルポイには、最初、ゲー(地下女神)の神託所があり、ダフニスが予言していた。[35]
その後、神託所は、ポセイドンとゲーの共有となり、ポセイドンにはピュルコンが仕えていた。[36]
その後、神託所は、ゲーからテミスへ、テミスからアポロへと引き継がれた。[37]

6.4 アポロの神託所の創建
アポロの神託所の創建者のひとりであるリュキア地方のオレンは、詩人のオルペウスより前に生まれた。[38]
オレンは、アテナイの町からリュキア地方へ移住したパンディオンの子リュコスの息子であり、BC1280年頃の生まれと推定される。[39]
神託所の最初の女性予言者ペモノエは、オルペウスより、27年前の人物であった。[40]
このオルペウスは、有名な詩人ではなく、アルゴ船のひとりであり、ペモノエは、BC1290年頃の生まれと推定される。
ピュティア祭でのアポロンへの賛歌を歌う競技会の最初の勝利者は、アポロを浄めたカルマノールの娘クリュソテミスであった。[41]
クリュソテミスは、ミノスの娘アリアドネの子スタピュロスの妻であり、BC1270年頃の生まれと推定される。[42]
カルマノールが浄めたアポロとミノスの娘アカカリスの結婚などから判断すると、アポロの神託所が設置されたのは、BC1255年と推定される。[43]

6.5 最古の訪問者
デルポイの神託所で神託を受けたと記録に残っている最古の人物は、サルドスの父マケリスであった。[44]
マケリスがデルポイを訪問したのは、BC1415年と推定される。
マケリスは、エジプト人 ヘラクレス、または、フェニキアの ヘラクレスと呼ばれた英雄であった。[45]

7 ドドナの神託所
7.1 テッサリアの神託所
BC1560年、アルゴス王トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサは、トリオパスの子アゲノールの子ペラスゴスと共に、アルゴスの町からアルカディア地方へ移住した。
アゲノールの子ペラスゴスは、食用に適する樫の実を発見して人々に教えた。[46]
その後、ラリッサはテッサリア地方へペラスゴイ人の移民団を率いて移住した。[47]
ペラスゴイ人は、テッサリア地方のスコトッサの町の近くにアルカディア地方から運んだ樫の木を植えて、ゼウスの神託所を作った。[48]

7.2 ドドナへの移設
BC1480年、ゼウスの神託所の神木とした樫の木の一部が焼失した。ペラスゴイ人は神託に従って、テスプロティア地方へ神託所を移すことになった。[49]
ハイモンの子テッサロスは、ドドナにテッサリア地方のスコトッサの町から運んだ樫の木を植えて、ゼウスの神託所や神殿を造営した。[50]
神託所の引越しには、スコトッサの町の女人たちが同行した。ドドナの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[51]
テッサロスの父ハイモンは、ラリッサの子ペラスゴスの息子であった。[52]

7.3 ドドナとペラスゴイ人の関係
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、デウカリオーンの息子たちに追われて各地へ移住した。ペラスゴイ人の大部分は、ドドナ周辺に住み着いた。[53]
当時、ドドナ周辺に住んでいた人々は、テッサリア地方から逃れて来たペラスゴイ人を同族として受け入れた。[54]
BC1126年、ボイオティア地方のコロネイアの町を占拠していたペラスゴイ人とテッサリア地方のアルネの町から帰還したボイオティア人が戦っていたとき、両者は、ドドナで神託を受けた。ボイオティア人は、ドドナの巫女がペラスゴイ人と同族であったため、自分たちが受けた神託を疑ったと伝えられている。[55]
ドドナの創建者がペラスゴイ人であったということは、当時の人々には広く知られていた。

7.4 ギリシア最古の神託所
ヘロドトスは、ドドナがギリシア最古の神託所であると記している。[56]
ヘロドトスは、テッサリア地方からドドナへ神託所が移されたことを知らなかったようだ。
もし、ヘロドトスがそれを知っていたならば、ドドナへ移される前にテッサリア地方にあった神託所が最古であると記しているはずである。
あるいは、テッサリア地方から移される前に、既にドドナに古くからの神託所があったのかもしれない。その場合、ドドナの神託所の創建年代は、まったく不明であり、他の神託所と比較することはできない。

8 「イスメニオスに坐すアポロン」の神託所
テバイの町に神託所を開設したイスメノスは、シキュオンの町のエポペウスの息子であった。[56-1]
BC1325年、イスメノスは、アンピオンとゼトスと共に、カドメイアの町を攻めて、ライオスの後見人として権力を我が物にしていたリュコスの支配を終わらせた。イスメノスは、カドメイアの南側の丘に定住した。[56-2]
その丘は、後に、イスメノスの丘と呼ばれ、丘の東側を流れるラドン川は、イスメノス川と呼ばれるようになった。[56-3]
イスメノスは、ウダイオスからテイレシアスへと続く、予言者の系譜であり、イスメノスの丘に神託所を開設した。[56-4]
BC1325年、イスメノスの兄弟テネロスは、コパイス湖の東方プトオス山に神託所を開設した。[56-5]
BC549年、リュディア王クロイソスは、使節を派遣して、「イスメニオスに坐すアポロン」から神託を受けた。[56-6]
BC479年、プラタイアの戦いの前、ペルシア人は、「イスメニオスに坐すアポロン」から神託を受けた。[56-7]
BC371年、レウクトラの戦いの前、テバイ人は、「イスメニオスに坐すアポロン」から神託を受けた。[56-8]

9 オリュンピアの ゼウスの神託所
ストラボンは、オリュンピアの町が競技会で有名になる前に、オリュンピアの ゼウスの神託所で有名であったと伝えている。[57]
その神託所をオリュンピアの町で最初に競技会を開催したイダ山のヘラクレスが開設したのであれば、BC15世紀の後半と思われる。[58]

10 プトオス山の神託所
BC1325年、メリア (または、メトペ)の子テネロスは、ボイオティア地方のコパイス湖の東側のプトオス山に神託所を開設した。[59]
メリアは、BC1420年、カドモスと共にボイオティア地方へ移住して来たウダイオスの子ラドンの娘であった。[60]
テネロスは、テイレシアス、マント、モプソスへと続く、予言者の家系であった。
BC1205年、エピゴノイのテバイ攻めで、テイレシアスは死に、彼の娘マントは捕虜になった。[61]
マントは、小アジアのイオニア地方へ移住して、コロポンの町の近くの海辺のクラロスの町に、アポロンの神託所を開設し、息子モプソスが継承した。[62]
ペルシア戦争のとき、カリア語で神託を告げたプトオス山の女司祭もテネロスの後裔で、小アジアにいるマントの子モプソスの後裔と交流があったものと思われる。[63]
プトオス山の神託所は、BC335年、アレクサンドロス大王がテバイの町を破壊するまで、約1000年続いた。[64]

11 テスプロティアの神託所
パウサニアスは、昔、テスプロティス地方のアオルノンに死者を呼び出す神託所があったと記している。[65]
詩人オルペウスは、亡き妻エウリュディケに会うために、その神託所を訪問した。[66]
BC7世紀、コリントスの僭主キュプセロスの子ペリアンドロスは、亡き妻メリッサの死霊の託宣を聞くために使者を、テスプロティス地方のアケロン川の近くへ派遣した。[67]
キュプセロスが使者を派遣した神託所は、パウサニアスが記しているアオルノンの神託所と同じと思われる。
また、パウサニアスは、アテナイ王テセウスが王妃を攫おうとして、テスプロティス地方へ遠征したと記しているが、この神託所へ行ったようである。[68]
テセウスの治世末期、テセウスの妻パイドラが死んだ。[69]
テセウスは、オルペウスやペリアンドロスと同様に、亡き妻の死霊から託宣を得るために、テスプロティス地方へ行ったと思われる。

12 トロポニオスの神託所
ボイオティア地方のレバデイアの町は、トロポニオス神に捧げられた町であった。[70]
このトロポニオスは、オルコメノス王エルギヌスの息子で、アガメデスと兄弟であり、デルポイの神殿などを建築した名工であったとも伝えられている。[71]
しかし、エルギヌスの死後、トロポニオスやアガメデスではなく、エルギヌスの兄弟の後裔が王位を継承しているので、エルギヌスの息子たちは、創作された人物と思われる。[72]
トロポニオスには子供たちがいて、娘の名前はヘルキュナであった。[73]
トロポニオスの神域がいつ頃からあったのかは不明であるが、少なくとも、BC7世紀には既に有名な神域であったことは確かである。
第2次メッセニア戦争で、アリストメネスが紛失した楯をトロポニオスの神域から取戻し、後にアリストメネスはレバデイアに楯を奉納したと伝えられている。[74]
また、BC6世紀にリュディア王クロイソスが神託を試すために使者を送った神託所の一つに、トロポニオスの神託所も名前が挙がっていた。[75]
BC1世紀、ローマの将軍スッラがレバデイアの町を荒らし、神託所から宝物を持ち去った。[76]
レバデイアの町にあったトロポニオスの木彫神像がミノスと同時代のダイダロスの作品だという伝承ある。[77]
この伝承が正しければ、トロポニオスは、BC13世紀には神として崇められていたことになる。

おわり