1はじめに
18世紀の大科学者であり、王立協会会長であったアイザック・ニュートンは、『古代王国年表の改訂版』(1728)の中で、古代ギリシアの歴史について考察している。
ニュートンは、ギリシアの伝承で最も古い出来事であるオギュゲスの洪水が、1116 BCに発生したと考えていた。[1]
つまり、ニュートンは、オギュゲスの洪水が最初のオリュンピア祭競技会より340年前に発生したと考えていた。
ニュートンは、340年の間に、デウカリオーンの洪水、トロイ創建、アルゴ船の遠征、7将のテバイ攻め、トロイ占領、ヘラクレイダイの帰還などがあったと考えていた。
しかし、ニュートンがギリシア最古の歴史家と認め、彼の著作から多くを引用しているヘロドトスは、アルクメナの子ヘラクレスが彼より約900年前だと記している。[2]
つまり、ヘロドトスは、ヘラクレスを1300 BCより前の人物とみなしていた。
この章では、ニュートンが何故、古代の歴史家とは異なる結論に至ったのかを考察する。
2 ニュートンの年代特定方法
2.1 基準年
ニュートンが、古代ギリシアの出来事の年代を特定するために基準にした年は、コライブスが勝利した最初のオリュンピア祭競技会が開催された年であった。
ニュートンは、この基準年から系譜をもとにして、時代を遡って、出来事の年代を特定した。
2.2 イスラエルでの出来事
ニュートンは、古代ギリシアの出来事の年代をイスラエル王たちの治世で記している。
ニュートンは、イスラエルでの出来事の年代を次のように特定している。
2.2.1 ソロモンの死亡年
ニュートンは、多くの箇所で、ギリシアの出来事をイスラエルやユダイアの祭司や王の時代や治世で、年代を特定している。その中で、ダビデの子ソロモンの死亡年を基準にして、記述している。
ニュートンは、ヘラクレイダイがペロポネソスへ帰還した年を、ソロモンの死後、159年であり、コライブスが勝利した最初のオリュンピア祭競技会(776 BC)の46年前であったと記している。
つまり、ニュートンは、ヘラクレイダイのペロポネソスへの帰還年が(776+46=) 822 BC、ソロモンの死亡年が(822+159=) 981 BCであったと考えていた。[3]
現在、ソロモンの死亡年は、931 BCと推定されているので、ニュートンは、イスラエルの歴史を50年古く見積もっていたことになる。
2.2.2 ダビデの在位
ニュートンは、デウカリオーンの洪水からヘラクレイダイの帰還まで、220 年であり、その洪水が、ダビデの治世14年目に発生したと記している。[4]
つまり、ニュートンは、デウカリオーンの洪水が(822+220=) 1042 BCに起こったと考えていた。
また、ニュートンは、ダビデの即位年を(1042+14-1=) 1055 BCと推定していた。
したがって、ダビデの在位は、1055 BCから1022 BCであったと、ニュートンは考えていた。
2.2.3 ソロモンの在位
ニュートンは、レホボアムはダビデ王の最後の年に生まれ、ソロモンが亡くなったとき41歳であったと記している。[5]
この記述から、ニュートンは、次のように考えていたことが分かる。
レホボアムの誕生は、(981+41=) 1022 BCであった。
ダビデの死亡年は、1022 BCであった。
したがって、ソロモンの在位は、1022 BCから981 BCであったと、ニュートンは考えていた。
2.2.4 エリ時代の最後の年
ニュートンは、ソロモンの治世の10年目から80年前は、サムエルの時代の12年目であるように記している。[6]
つまり、エリの跡を継いだサムエルの時代の初年は、(1022-10+80+12-1=) 1103 BCだと、ニュートンは考えていた。
つまり、エリ時代の最後の年とは、1104 BCであったと、ニュートンは考えていた。
2.3 ギリシアでの出来事
ニュートンは、ギリシアでの出来事の年代を次のように特定している。
2.3.1 ヘラクレイダイの帰還
ニュートンが最初に特定したのは、ヘラクレイダイがペロポネソスへ帰還した年であった。
ニュートンは、最初のオリュンピア祭競技会を開催したイピトスが、ヘラクレイダイと共にエリスに帰還したオクシュロスの孫だと考え、それをもとに、帰還年を特定した。[7]
しかし、このニュートンの特定の仕方には、つぎの問題点がある。
1つ目の問題点は、正確ではないイピトスの系譜をもとにしていることである。
パウサニアスは、オクシュロスの時代まで断続的に開催されていた競技会が、オクシュロスの開催を最後に、長期間中断し、イピトスが復活させたと記している。[8]
ニュートンの説では、オクシュロスの子プラクソニダスの時代だけ、競技会が開催されなかったことになり、パウサニアスの記述に合わない。
2つ目の問題点は、年数が曖昧なことである。
ニュートンは、ヘラクレイダイの帰還が最初のオリュンピア祭競技会の46年前、あるいは、52年前だと記している。[9]
ニュートンは、2世代間の年数をもとに計算しているが、その年数によって変化するヘラクレイダイの帰還年は、極めて曖昧である。
ここでは、46年前を採用して、ニュートンが推定したヘラクレイダイの帰還年は、822 BCであったとする。
2.3.2 デウカリオーンの洪水
ニュートンは、デウカリオーンの洪水の年代を、次のようにして特定したと思われる。
トリプトレモスは、アルカディアのアルカスを訪問しているので、彼らは同時代人であった。[10]
アルカスは、ペラスゴスの子リュカオンの娘カリストの息子であった。[11]
トリプトレモスは、クラナオスの子ラロスの子ケレウスの息子であった。[12]
つまり、ペラスゴスとクラナオスとは、同時代であった。
デウカリオーンの洪水は、クラナオスとペラスゴスの時代にあった。[13]
ヘラクレイダイの帰還時、アルカディアには、ペラスゴスから11世代目のキュプセロスがいた。[14]
ニュートンは、一人の王の治世を20年と計算して、ペラスゴスからキュプセロスまでを、220年とみなした。[15]
つまり、ニュートンは、デウカリオーンの洪水がヘラクレイダイの帰還から220年前に起きたと考えた。
ニュートンが推定したデウカリオーンの洪水の年は、1042 BCであった。
2.3.3 オギュゲスの洪水
ニュートンは、最古の歴史家アクシラオスが最初のオリュンピア祭競技会の1020年前にオギュゲスの洪水があったと伝えているのは、真実より680年古くしていると記述している。[16]
つまり、ニュートンは、オギュゲスの洪水が発生したのは、1116 BCだと考えていた。
この年代は、系譜から計算したものではなかった。
ニュートンは、オギュゲスの洪水がデウカリオーンの洪水より、2、3世代前であろうと記している。[17]
ニュートンがそのように推定したのは、文字を知らない人々が記憶できるのは、それくらいの期間であろうと考えていたからであった。[18]
しかし、ニュートンが参照したエウセビオスは、オギュゲスの洪水からケクロプスまで、190年であったと記している。[19]
2.3.4 トロイ占領
ニュートンは、トロイ占領から80年後にヘラクレイダイの帰還があったと考えた。[20]
ニュートンは、その年数を、トゥキュディデスの記述から引用したと述べている。[21]
トゥキュディデスは、イリオン占領から60年後、ボイオティア人がテッサリア人によってアルネから追放され、それから20年後、ヘラクレイダイがペロポネソスへ帰還したと記している。[22]
ニュートンが推定したトロイ占領年は、902 BCであった。
2.3.5 トロイ創建
ニュートンは、テウクロスによるトロイ創建は、トロイ占領の140年前だと考えていた。
ニュートンは、トロイ戦争時代のプリアモスまで、テウクロスの跡をダルダノス、エリクトニオス、トロス、イロス、ラオメドンが継いでいるので、一人の治世を20年として計算した。[23]
ニュートンが推定したトロイ創建年は、1042 BCであった。
2.3.6 ペロプスの移住
ニュートンは、ペロプスがソロモンの治世26年目、つまり、996 BCにギリシアへ移住して来たと考えていた。
ニュートンが推定したペロプスの移住年は、996 BCであった。
2.3.7 ダナオスの移住
ニュートンは、ダナオスがエジプトから追放されたのは、レホボアムの治世の14年目、つまり、967 BCだと考えていた。[24]
ニュートンは、ダナオスがギリシアへ移住して来たのは、エジプトを離れた1年後の966 BCだと考えていた。[25]
2.3.8 アルゴ船の遠征
ニュートンは、アルゴ船の遠征がヘラクレイダイの帰還より、4世代前の出来事だと考えていた。[26]
ニュートンは、遠征に参加したヘラクレスから、ヒュッロス、クレオディウス、アリストマコス、そして、ヘラクレイダイを率いたテメノスまでの系譜をもとにして、推定したと思われる。
ニュートンは、アルゴ船の遠征がソロモンの死から43年後にあったと考えていた。[27]
ニュートンは、ソロモンが死んだのは、ヘラクレイダイの帰還より159年前だと記している。[28]
ニュートンは、アルゴ船の遠征が、(822+159-43=) 938 BCの出来事だと考えていた。
2.3.9 7将のテバイ攻め
ニュートンは、7将のテバイ攻めがアルゴ船の遠征から11年後にあったと考えていた。[29]
ニュートンは、7将のテバイ攻めが927 BCの出来事だと考えていた。
2.4 エジプトでの出来事
ニュートンは、ギリシアが文明化されたのは、エジプトから羊飼いたちが追放され、その一部がギリシアへ移住したからだと考えていた。[30]
羊飼いたちは、エジプトから2回にわたって追放された。
ニュートンは、それらの出来事が起きた年代を次のように推定している。
2.4 1回目の追放
羊飼いたちは、ミスフラグムトシスによって、エジプトから追放され、残りはアバリスに閉じ込められた。[31]
エジプトから追放された羊飼いたちは、ペリシテ人のもとへ逃れた。[32]
また、彼らの一部は、ギリシアへ移住した。
ギリシアへ移住した人々中には、ペラスゴス、イナコス、レレクス、ケクロプス、アバスがいた。[33]
ニュートンは、羊飼いたちの追放がエリの時代末期にあったと記している。[34]
ニュートンは、彼らの追放が1110 BC頃にあったと考えていたと思われる。
2.4 2回目の追放
ミスフラグムトシスの子アモシスは、サウルの治世2年目に、アバリスから羊飼いたちを追放した。[35]
羊飼いたちの一部は、ペリシテ人のもとへ逃れた。[36]
その後、ペリシテ人のもとからシドンへ移住した羊飼いたちもいた。[37]
ダビデの治世第16年、つまり、1039 BC、シドンに住んでいた羊飼いたちは、シドンからギリシアへ移住した。[38]
彼らの中には、アビバロス、カドモス、キリクス, タソス、メンブリアリウス、アテュムノスがいた。[39]
また、彼らの中には、アリュムノス、エウロパがいた。[40]
3 地方史
ニュートンは、古代ギリシアの各地方の歴史を次のように考えていた。
3.1 アルカディア
3.1.1 エジプトからの移住
1110 BC、ペラスゴスがエジプトからアルカディアへ移住して来た。[41]
3.1.2 ペラスゴスの子孫たち
ペラスゴスの子リュカオンは、アルカディアで最古の町リュコスラを建設した。[42]
ペラスゴスの子ハイモンは、ハイモニア (後のテッサリア)を統治した。[43]
リュカオンの子オイノトロスは、イタリアへ移住して、ヤヌスと呼ばれるようになった。[44]
リュカオンの娘カリストの子アルカスの子アピダスの子アレウスには、子供たち、リュクルゴス、ケペオス、アウゲがいた。 [45]
ケペオスは、アルゴ船の遠征に参加した。 [46]
リュカオンの後、アルカディアは、ニュクティモス、アルカス、クリトール、アイピュトス、アレウス、リュクルゴス、エケモス、アガペノール、ヒッポトオス、アイピュトス、キュプセロス、オライアスが統治した。[47]
アルカスは、クラナオスの子ラロスの子ケレウスの子トリプトレモスからトウモロコシを受け取った。 [48]
リュクルゴスの子アンカイオスは、アルゴ船の遠征に参加した。 [49]
エケモスは、ヘラクレスの子ヒュッロスを殺した。 [50]
アガペノールは、トロイへ遠征した後で、キュプロスにパポスを建設した。 [51]
キュプセロスの治世にヘラクレイダイがペロポネソスへ帰還した。 [52]
3.1.3 問題点
ニュートンが考えた系図では、イタリアへ移住したオイノトロスから、トロイへ遠征したアガペノールまでは、6世代であった。[53]
しかし、ニュートンが参照したハリカルナッソスのディオニュシオスは、リュカオンの子オイノトロスがトロイ遠征の17世代前に生まれたと記している。[54]
3.2 アルゴス
3.2.1 エジプトからの移住
1110 BC、イナコスが、エジプトからアルゴスへ移住して来た。[55]
3.2.2 イナコスの子孫たち
イナコスには息子たち、ポロネオス、アイギアレオス、ペゲウスがいた。[56]
1090 BC、ポロネオスはアルゴス、アイギアレオスはシキュオンの統治を開始した。[57]
ポロネオスは、ポロニコンを建設し、その町は、彼の娘ニオベの子アルゴスの名前からアルゴスと呼ばれるようになった。[58]
アルゴスの跡をピラソス (または、ピラントス)が継いだ。[59]
ポロネオスの子カアは、メガラにケレスの神殿を建立した。[60]
アイギアレオスは、アイギアレア (後のシキュオン)を建設した。[61]
アイギアレオスの跡をエウロプス、テルキン、アピス、ラメドン、シキュオン、ポリュボス、アドラストスが継承した。[62]
ペゲウスは、ペゲア (後のプソピス)を建設した。[63]
ポロニコン、アイギアレア、ペゲアは、ペロポネソスで最も古い町であった。[64]
3.2.3 ダナオス
967 BC、ダナオスは、彼の兄弟アイギュプトス (または、セソストリス)と争ってエジプトから追われた。[65]
966 BC、ダナオスは、ロドスを経由して、アルゴスに到着した。[66]
ダナオスは、ゲラノールと争って、アルゴスの支配権を獲得した。[67]
ゲラノールは、ミュケナイ王エウリュステウス の兄弟であり、ペルセウスの子ステネロスとペロプスの娘ニキッペの息子であった。[68]
ペルセウスは、アクリシオスの娘ダナエの息子であった。[69]
エウリュステウスとヘラクレスは、同じ年に生まれた。[70]
ダナオスの跡を、義理の息子リュンケウスが継ぎ、リュンケウスの跡を彼の息子アバスが継いだ。[71]
ダナオスの子アルゴスは、アルゴ船を建造して、アルゴ船の遠征に参加した。[72]
ニュートンは、リュンケウスの子アバスとペルセウスの母ダナエの父アクリシオスの父アバスを同一人物とはみなしていない。[73]
ニュートンは、リュンケウスの子アバスの子孫については、記していない。
3.2.4 問題点
ニュートンのアルゴスの記述には、次のような問題点がある。
(1) アバスの子アクリシオス
ニュートンは、イナコス、ポロネオス、ポロネオスの孫アルゴス、ピラソスが順にアルゴスを統治したように記している。また、ニュートンは、ダナオスとアルゴスの支配権を争ったゲラノールは、イナコスと共にエジプトからポキスへ移住したアバスの子孫だと記している。[74]
ピラソスは、イナコスから5世代目であり、ゲラノールは、アバスから6世代目であった。
つまり、イナコスの後裔に代わって、アバスの後裔がアルゴスの支配者になったのは、ゲラノールの父ステネロスの時代からであり、アクリシオスはアルゴスと関係ないことになる。
しかし、ニュートンが参照していたアポロドロスやパウサニアスは、アクリシオスがアルゴスを支配していたと伝えている。[75]
(2) アドラストス
ニュートンは、アルゴス王アドラストスがシキュオン王であったかのように記している。[76]
アドラストスがアルゴス王であれば、ニュートンが考えたアルゴスの歴史に不都合が生じる。
ニュートンの記述では、アドラストスによるテバイ攻めの時のアルゴスの支配者は、ミュケナイのエウリュステウスと同世代のダナオスか、ダナオスの跡を継いだリュンケウスであった。
しかし、テバイ攻めの時にアドラストスが率いたのは、アルゴス人であり、シキュオン人ではなかった。
(3) ダナオス
アドラストスをテバイ攻めの時のアルゴス王にすると、アルゴスの支配者として有名なダナオスに割り当てる年代がなくなるため、ニュートンは、無理な系譜を記述している。
つまり、ニュートンは、ダナオスがアルゴスを獲得するために戦ったゲラノールの父ステネロスの父をペルセウスだと記している。
しかし、ニュートンが参照したエウセビオスは、ダナオスの前のアルゴス王ステネロスの父をクロトポスだと記している。[77]
(4) アルゴスの3王家
ニュートンは、アルゴス王の名前を8人記述しているが、アルゴスの3王家の王たちの名前は、含まれていない。
ニュートンが参照したパウサニアスは、トロイ戦争の時代まで、アルゴスには3つの王家があり、それぞれ5人以上の王たちによって継承されていたと記している。[78]
アドラストスや有名な予言者メランプスを含むアルゴスの3王家について、ニュートンは、パウサニアスの記述で知っていながら、敢えて無視したようである。
3.3 アテナイ
3.3.1 エジプトからの移住
1110 BC、ケクロプスは、エジプトからキュプロスを経由して、アッティカへ移住して来た。[79]
ケクロプスは、アクタイオスの娘アグラウレと結婚して、アクタイオスの跡を継いだ。[80]
3.3.2 ケクロプスの後継者たち
1055 BC、ケクロプスの跡をクラナオスが継いだ。[81]
クラナオスの跡をエレクテウス、パンディオンが継いだ。[82]
デウカリオーンの子アンピクテュオンがアテナイを統治したことはなかった。[83]
3.3.3 テセウス
エレクテウスの娘クレウサの子アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキリテスは、ダナオスの娘たちと結婚した。[84]
したがって、エレクテウスの子パンディオンの養子アイゲウスの子テセウスは、ダナオスの娘たちと同時代であった。[85]
テセウスは、アルゴ船の遠征があった時、50歳であった。[86]
テセウスは、ソロモンの治世33年目、つまり、989 BCに誕生した。[87]
971 BC、アイゲウスが死に、テセウスがアテナイ王に即位した。[88]
テセウスの後、メネステオス、デモポン、オクシュンテス、アピダス、テュマイテス、メラントス、コドロスがアテナイ王になった。[89]
3.3.4 問題点
ニュートンのアテナイの記述には、次のような問題点がある。
(1) ケクロプスからテセウスまでの年数
ニュートンは、エウセビオスが記した歴代のアテナイ王の名前を参照しているが、第3代アンピクテュオンを無視した。
また、ニュートンは、第5代パンディオンと第8代パンディオンを同一人物とみなして、第6代ケクロプスと第7代エレクテウスを無視した。
ニュートンは、ケクロプスの即位からテセウスの即位までの間を、133年とみなしている。
しかし、ニュートンが参照したエウセビオスによれば、その間は、322年であった。
(2) テセウスから最初のオリュンピア祭競技会までの年数
ニュートンは、テセウスの即位から最初のオリュンピア祭競技会までの間を、(971-776=) 195年とみなしている。
しかし、ニュートンが参照したエウセビオスによれば、その間は、463年であった。
(3) テセウスとヘラクレス
ニュートンは、アルゴ船の遠征当時、テセウスは50歳、ヘラクレスは34歳であったとみなしていた。[90]
ニュートンは、ヘラクレスをアルゴ船の一人にしているが、テセウスの遠征参加について、言及していない。[91]
ニュートンが参照したアポロドロスやヒュギーヌスは、テセウスをアルゴ船の一人として記述している。[92]
ニュートンは、テセウスがヘラクレスより、16歳年少とみなしていたので、テセウスの遠征参加について、言及しなかったと思われる。
3.4 ボイオティア
3.4.1 オギュゲス
オギュゲスは、ボイオティアを統治していた。[93]
オギュゲス、あるいは、彼の息子は、エレウシスを建設した。[94]
オギュゲスは、エジプトからギリシアへ移住して来たペラスゴス、イナコス、レレクスの同時代人であった。[95]
3.4.2 カドモス
1039 BC、カドモスは、アビバロス、アリュムノス、エウロパと共にシドンから追放されて、カドモスはテバイへ移住した。[96]
アリュムノスは、カドモスの兄弟であり、エウロパは、カドモスの姉妹であった。[97]
アリュムノスとエウロパは、クレタへ移住した。[98]
アビバロスは、テュロスを創建して、初代の王になった。[99]
アビバロスに息子ヒラムが生まれた。[100]
3.4.3 カドモスの子孫
1037 BC、カドモスに息子ポリュドロスが生まれた。[101]
1022 BC、ポリュドロスとニュクテウスの娘ニュクテイスに、息子ラブダコスが生まれた。[102]
998 BC、ラブダコスに息子ライオスが生まれた。[103]
974 BC、ライオスに息子オイディプスが生まれた。[104]
オイディプスには、息子たち、エテオクレスとポリュニケスがいた。[105]
ポリュニケスには、トロイへ遠征した息子テルサンドロスがいた。[106]
3.4.4 問題点
ニュートンは、トロイ戦争時代のテルサンドロスから系譜を遡って、6世代前のカドモスの年代を特定したと思われる。
そして、カドモスと同世代になるテュロス王ヒラムの父アビバロスを、ニュートンは、カドモスの同行者として記述している。
しかし、カドモスに関係した伝承に、アビバロスの名前は登場せず、ニュートンは、カドモスの異母兄弟ポイニクスとアビバロスを同一人物のように扱っている。
アビバロスの子ヒラムの娘は、ソロモンの妻であった。[107]
3.5 コリントス
3.5.1 シシュッポス
981 BC、シシュッポスは、コリントスを創建した。[108]
シシュッポスは、ヘレンの子アイオロスの息子であった。[109]
3.5.2 シシュッポスの後裔
シシュッポスの跡を、オルニュティオン、トアス、デモポン、プロポダス、ドリダス、ヒュアンティダスが継承した。[110]
3.5.3 問題点
ニュートンは、パウサニアスを参照して、シシュッポスの後裔を列挙している。[111]
しかし、ニュートンが参照したパウサニアスは、オルニュティオンの父シシュッポスをコリントスの創建者シシュッポスより遥かに後代の人物として記述している。
パウサニアスは、オルニュティオンの父シシュッポスをイアソンの同時代人として記述している。[112]
しかし、ニュートンは、イアソンの父アイソンの父クレテウスをオルニュティオンの父シシュッポスの兄弟だと記している。[113]
つまり、ニュートンは、パウサニアスの記述の大部分を無視して、自身の考えに合うように、オルニュティオンの父シシュッポスをコリントスの創建者と同一人物にしている。
3.6 エレイア
3.6.1 ヘラクレス イダイウスの移住
ヘラクレス イダイウスは、彼の兄弟たち、ポイオニウス、エピメデス、ヤシウス、イダと共に、クレタのイダ山からエレイアへ移住して来た。[114]
ヘラクレス イダイウスの孫クリュメノスは、デウカリオーンの洪水から50年後、つまり、992 BCにクレタからエレイアへ移住して来た。[115]
ヘラクレス イダイウスの移住は、1058 BCであったと、ニュートンは推定していたと思われる。
3.6.2 ペロプスの移住
996 BC、ペロプスは、ギリシアへ移住して来た。[116]
ニュートンは、ペロプスの先祖やペロプスの出発地については、記していない。
ペロプスの姉妹ニオベは、アンピオンと結婚した。[117]
ニオベの娘クロリスには、アルゴ船の遠征に参加した息子ペリクリュメノスがいた。[118]
3.6.3 ライオスの亡命
992 BC、ラブダコスの子ライオスは、テバイからペロプスのもとへ亡命した。[119]
3.6.4 クリュメノスの移住
992 BC、ヘラクレス イダイウスの孫クリュメノスは、クレタからギリシアへ移住して来た。
クリュメノスは、エリスの支配者エンデュミオンによって追放された。[120]
3.6.5 アイトロスの移住
エンデュミオンの子アイトロスは、ヘレンの子アイオロスの子サルモネオスによって、エリスから追放されて、アイトリアへ移住した。[121]
アイトロスの移住は、ペロプスがギリシアへ移住して来た後であり、990 BC頃であったと、ニュートンは推定していたと思われる。
3.6.6 オクシュロスの移住
ハイモンの子オクシュロスは、アイトリア人を率いてヘラクレイダイと共にペロポネソスに侵入して、彼の先祖エンデュミオンの子アイトロスが住んでいたエリスを取り戻した。[122]
これは、ヘラクレイダイが帰還した年、つまり、822 BCだと、ニュートンは考えていた。
3.6.7 問題点
クリュメノスは、アイオロスの娘クレウサの子エンデュミオンと同世代であった。[123]
エンデュミオンは、アイオロスの子アタマスの妻イオの父カドモスの子ポリュドロスの子ラブダコスと同世代であった。[124]
つまり、クリュメノスは、1022 BC生まれのラブダコスと同世代であった。
このことから、クリュメノスの移住が、デウカリオーンの洪水から50年後、つまり、992 BCであったとするニュートンの説には、同意できる。[125]
しかし、ニュートンは、ペロプスの移住が、996 BCであったとしており、ペロプスがクリュメノスより先に、ギリシアへ移住して来たと考えていた。[126]
クリュメノスがラブダコスと同世代で、ペロプスがラブダコスの子ライオスと同世代であったことから、クリュメノスがペロプスより先に、ギリシアへ移住して来たと考えた方が妥当である。
恐らく、ニュートンは、ペロプスとライオスが同世代であることから、ライオスの系譜をもとに、ペロプスの移住の年代を特定したと思われる。
3.7 ラコニア
3.7.1 エジプトからの移住
1110 BC、レレクスは、エジプトからラコニアへ移住した。[127]
レレクスには息子たち、ミュレス、エウロタス、クレソン、ポリュカオンがいた。[128]
3.7.2 エウロタス
エウロタスは、スパルタを建設した。[129]
エウロタスの娘スパルタは、ラケダイモンと結婚して、息子アミュクラスと娘エウリュディケが生まれた。[130]
エウリュディケは、アバスの子アクリシオスと結婚して、娘ダナエが生まれた。[131]
3.7.3 クレソン
クレソンには、息子ピュラスがいて、ピュラスには、息子スキロンがいた。[132]
スキロンは、エレクテウスの子パンディオンの娘と結婚した。[133]
3.7.4 ポリュカオン
ポリュカオンは、メッセニアへ進出した。[134]
3.7.5 問題点
ニュートンは、アクリシオスの父アバスは、レレクスと共にエジプトからギリシアへ来たと考えていた。
それであれば、アクリシオスは、エウロタスと同世代であり、アクリシオスとエウリュディケとは、2世代の差があることになる。
他の伝承に従って、アクリシオスの父アバスを、ダナオスの孫とすれば、アクリシオスとエウリュディケは、同世代である。
3.8 ポキス
3.8.1 アバスの移住
1110 BC、アバスは、エジプトからエウボイアを経由して、ポキスのアバイへ移住した。[135]
アバスは、ダナオスの孫アバスとは、同一人物ではなかった。[136]
3.8.2 アバスの後裔
アバスには、息子たち、アクリシオス、プロイトスがいた。[137]
アクリシオスは、エウリュディケと結婚して、娘ダナエが生まれた。[138]
ダナエの子ペルセウスの娘ゴルゴホネの孫たち、リュンケウスとイダスは、アルゴ船であった。[139]
ゴルゴホネの夫たち、ペリエレスとオイバロスは、エウリュディケの兄弟アミュクラスの子キュノルテスの息子たちであった。[140]
アクリシオスの娘エウアレテの娘ヒッポダミアは、ペロプスと結婚した。[141]
プロイトスの子メガペンテスの子アナクサゴラスの子エレクトルの子イピスの娘エウアドネは、テバイ攻めの7将の一人カパネウスと結婚した。[142]
3.8.3 問題点
他の伝承では、アバスの息子たち、アクリシオスとプロイトスは、アルゴス王であった。
アクリシオスとプロイトスは、ニュートンが参照したエウセビオスのアルゴス王の一覧に記されている。[143]
ニュートンは、アドラストスをアルゴスからシキュオンへ移したように、アバスをアルゴスからポキスへ移した。
ニュートンが他の伝承を無視したのは、ニュートンが考えたアルゴスの歴史と矛盾するからであろう。
3.9 テッサリア
3.9.1 ハイモン
ペラスゴスの子ハイモンは、ハイモニア (後のテッサリア)を統治した。[144]
ニュートンは、ペラスゴスのアルカディアへの移住を1110 BC、ペラスゴスの子ハイモンのハイモニアへの移住を1080 BC頃と推定していたと思われる。
3.9.2 デウカリオーン
デウカリオーンには、息子たち、ヘレン、アンピクテュオン、娘プロトゲニアがいた。[145]
テッサリアで洪水が発生し、デウカリオーンは、息子たち、ヘレン、アンピクテュオンと共に、アッティカのクラナオスのもとへ逃れた。[146]
デウカリオーンは、アッティカで死んだ。[147]
ニュートンは、ヘレンの父デウカリオーンの先祖については、記述していない。
ニュートンは、ケクロプスたちがエジプトからギリシアへ移住して来た時、既に、デウカリオーンはテッサリアに住んでいたと考えていたようである。
3.9.3 デウカリオーンの後裔
ヘレンは、テッサリアへ帰還して、デウカリオーンの跡を継いだ。[148]
アンピクテュオンは、テルモピュライで統治して、アンピクテュオンの評議会を設立した。[149]
プロトゲニアには、息子アイトリオスがいた。[150]
アイトリオスは、アイオロスの娘カリュケ (クレテウス、シシュッポス、アタマスの姉妹)と結婚して、息子エンデュミオン が生まれた。[151]
エンデュミオンの子アイトロスは、アイトリアへ移住した。[152]
ヘレンの子アイオロスには、息子たち、シシュッポス、アタマスがいた。[153]
アタマスには、子供たち、プリクソスとヘレがいた。[154]
ヘレンの子アイオロスの子クレテウスの子アイソンには、息子イアソンがいて、彼はアルゴ船員であった。[155]
3.9.4 問題点
(1) アイオロス
トロイ戦争より前の時代、伝承に登場するアイオロスは、複数人存在した。
ニュートンは、ヘレンの子アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスを、ヘレンの子アイオロスと同一に扱っている。
そのため、デウカリオーンの後裔の系譜は、3世代短縮されている。
(2) アンピクテュオン
伝承に登場するデウカリオーンの子アンピクテュオンは、2人いたが、ニュートンは、彼らを同一人物として記述している。
1人目は、テッサリアに住んでいたデウカリオーンの息子で、ヘレンの兄弟であったアンピクテュオンである。[156]
2人目は、ロクリスに名前を与えたロクルスの父ピュスコスの父アイトロスの父アンピクテュオンである。[157]
3.10 テュロス
3.10.1 テュロスの創建
アビバロスは、シドンから移住してテュロスを創建して、最初の王になった。[158]
アビバロスがテュロスへ移住したのは、ペリシテ人によるシドン占領の17年前、つまり、1056 BCであった。[159]
アビバロスには、息子ヒラムがいた。[160]
3.10.2 ヒラム
ダビデの治世の23年目、つまり、1032 BCにアビバロスは死に、彼の息子ヒラムがテュロス王に即位した。[161]
ヒラムは、ソロモンに娘を嫁がせ、神殿建立のための木材を提供した。[162]
その神殿は、ヒラムの治世の11年目、つまり、(1032-11=) 1021 BCに建立された。[163]
3.10.3 ピュグマリオン
ピュグマリオンの治世5年目、トロイ占領から13年後、つまり、(905-13=) 892 BCに、テュロスで反乱が起きた。[164]
つまり、ピュグマリオンがテュロス王に即位したのは、(892+5=) 897 BCであった。
3.10.4 カルタゴの創建
ピュグマリオンの姉妹ディドは、ピュグマリオンの治世7年目、つまり、(897-7=) 890 BCに、テュロスから航海に出た。[165]
ディドは、ピュグマリオンの治世16年目、つまり、(897-16=) 881 BCに、カルタゴを建設した。[166]
3.10.5 問題点
(1) アビバロス
ニュートンは、ヒラムとソロモンが同時代人であることから、第2回目の羊飼いたちの追放年を特定したと思われる。
しかし、カドモスに関係した多くの伝承の中に、ヒラムの父アビバロスは、登場しない。
恐らく、ニュートンは、アビバロスをカドモスの異母兄弟であり、テュロスの王であったポイニクスの別名とみなしていたと思われる。[167]
(2) ピュグマリオン
ニュートンは、キュプロスのパポスの建設者キニュラスの妻メタルメの父ピュグマリオンと、カルタゴの建設者ディドの兄弟ピュグマリオンとを同一人物とみなしていた。
メタルメの父ピュグマリオンは、キュプロス北東部のカルパシアの創建者と思われる。[168]
しかし、メタルメの父ピュグマリオンとディドの兄弟ピュグマリオンとを結び付ける伝承はない。
ニュートンは、伝承に登場する同名の人物を、年代を考慮せずに同一人物として記述している。
4 その他の問題点
4.1 テセウスとヘラクレス
4.1.1 ニュートンの推定
ニュートンは、テセウスの誕生をソロモンの治世の33年目、つまり、(1022-33=) 989 BCとみなしていた。[169]
また、ニュートンは、ヘラクレスの誕生をレホボアムの治世の8年目、つまり、(981-8=) 973 BCとみなしていた。[170]
つまり、ニュートンは、テセウスがヘラクレスより16年早く誕生したとみなしていた。
4.1.2 ニュートンの推定方法
ニュートンがヘラクレスよりテセウスの方を前の世代と考えたのは、つぎのような理由によると思われる。
テセウスの妻パイドラの姉妹アリアドネの2人の息子たち、プリュアス、エウメドンは、アルゴ船であった。[171]
ヘラクレスは、アルゴ船の一人であった。[172]
つまり、ニュートンは、ヘラクレスをアルゴ船と同世代、テセウスをアルゴ船より一つ前の世代と考えていた。
ニュートンは、アルゴ船の遠征の時、テセウスが50歳、ヘラクレスが34歳であったと記している。[173]
4.1.3 問題点
ニュートンは、アルゴ船の遠征時、テセウスが50歳であったと推定した理由として、テセウスが誘拐したヘレナをアルゴ船員 (カストールとポラックス)が救出したからとしている。[174]
確かに、ヘレナの出来事は、テセウスが50歳のときだという伝承がある。[175]
しかし、ヘレナの出来事とアルゴ船の遠征を結び付ける伝承はない。
ニュートンは、自分の結論に都合の良い伝承のみを結び付けていたようである。
ニュートンは、ヒュギーヌス、パウサニアス、プルタルコスを参照しているが、自分の結論に不都合な伝承は、無視したようである。
ニュートンは、テセウスがヘラクレスより若いと思わせる次のような伝承を無視した。
当時7歳のテセウスは、トロイゼンのピッテウスの家で、獅子の皮を敷いて座っているヘラクレスを見た。[176]
テセウスは、トロイゼンからアルゴ船の遠征に参加した。[177]
テセウスは、16才になった時、トロイゼンからアテナイへの旅に出た。[178]
テセウスは、ヘラクレスの名声を聞いて、彼自身も功業を熱望していた。[179]
テセウスの妻たちの一人イオペは、ヘラクレスの甥イオラオスの姉妹であった。[180]
ヘラクレスの死後、成人したヘラクレスの子供たちは、テセウスのもとへ逃れた。[181]
4.2 カドモスとダナオス
4.2.1 ニュートンの推定
ニュートンは、カドモスのギリシアへの移住年をダビデの治世の16年目、つまり、(1055-16=) 1039 BCとみなしている。[182]
また、ニュートンは、ダナオスのギリシアへの移住年をレホボアムの治世の14年目、つまり、(981-14=) 967 BCとみなしている。[183]
つまり、ニュートンは、カドモスがダナオスより72年早くギリシアへ移住して来たとみなしていた。
4.2.2 問題点
ディオドロスは、「エジプトに住んでいた人々がギリシアへ移住したとき、彼らの最も名高い指導者は、ダナオスとカドモスだった。」と記している。[184]
アポロドロスは、「リビュアには、2人の息子たち、アゲノールとベロスがいた。アゲノールには、息子カドモスがいて、ベロスには、息子ダナオスがいた。」と記している。[185]
つまり、ダナオスとカドモスは、従兄弟同士であり、同時代人であった。
4.3 プロクリス
4.3.1 ニュートンの記述
ニュートンは、エレクテウスの娘プロクリスがアイオロスの子デイオネオスの子ケパロスと結婚したと記している。[186]
4.3.2 問題点
エレクテウスの娘クレウサから見て、クレウサの姉妹プロクリスは、クレウサの夫クストスの兄弟アイオロスの孫と結婚したことになる。
つまり、エレクテウスの娘プロクリスは、孫と同じ世代の男性と結婚したことになり、妥当ではない。
ケパロスの祖父がアイオロスだという伝承はなく、デイオネオスの父アイオロスがヘレンの子クストスの兄弟だという伝承もない。
ニュートンは、年代の異なるアイオロスが複数いたことを考慮せず、彼らを同一人物として記述している。
4.4 ミノス
4.4.1 ニュートンの記述
ニュートンは、ミノスが2人いるという説が存在することを知っていたが、彼自身は、1人説で記述している。
つまり、ニュートンは、アンドロゲウス、デウカリオーン、アリアドネ、パイドラを、エウロパの子ミノスの子供たちだと記している。
4.4.2 問題点
トロイへ遠征したミノスの子デウカリオーンの子イドメネオスは、ミノスから2世代目である。
トロイへ遠征したアテナイ王メネステオスは、ミノスの娘パイドラと同世代なので、ミノスから1世代目である。
しかし、トロイ戦争時代のテルサンドロスは、ミノスの母エウロパの兄弟カドモスから6世代目なので、ミノスから5世代目である。
また、トロイ戦争時代のヘクトールは、ミノスの母エウロパの兄弟カドモスの妻ハルモニアの兄弟ダルダノスから6世代目なので、ミノスから5世代目である。
つまり、ミノスの子孫を辿った系譜と、ミノスの母エウロパを辿った系譜では、3世代から4世代の差がある。
したがって、デウカリオーンの父ミノスとエウロパの子ミノスとは別人で、2人のミノスの間には、3世代以上の欠落があると考えた方が妥当である。
4.5 アクリシオスの父アバス
4.5.1 ニュートンの記述
ニュートンは、アクリシオスの父アバスがダナオスの義理の息子リュンケウスの息子だという伝承を誤っていると記している。[187]
4.5.2 問題点
ニュートンが参照したアポロドロスは、「ダナオスの跡を継いだリュンケウスの息子アバスに、アクリシオスとプロイトスが生まれた。」と記している。[188]
ニュートンが参照したパウサニアスは、「リュンケウスの子アバスに、息子たち、アクリシオスとプロイトスがいた。」と記している。[189]
リュンケウスの子アバスをアクリシオスの父にすると、ダナオスは、イナコスの子ポロネオスよりも2世代以上前の人物になる。
ニュートンは、アクシラオス、アンティクリデス、プラトンがポロネオスをギリシア最古の王だとみなしていたことを記している。[190]
また、ダナオスと争ったゲラノールは、イナコスよりも古いアルゴス王になり、他の伝承との間に矛盾が生じる。
ニュートンが、アクリシオスの父アバスをダナオスの孫とする伝承を否定したのは、以上のような事情と思われる。
4.6 カアとレレクス
4.6.1 ニュートンの記述
ニュートンは、レレクスがイナコスと共にエジプトからギリシアに来たと記している。[191]
ニュートンは、イナコスの子ポロネオスの子カアがメガラにデメテルの神殿を建立した。[192]
つまり、ニュートンは、レレクスがカアより2世代前の人物だと考えていた。
4.6.2 問題点
ニュートンが参照したパウサニアスは、「ポロネオスの子カアから12代ほど後に、レレクスがエジプトから来た。」と記している。[193]
つまり、パウサニアスは、カアがレレクスより遥かに後代の人物だと記している。
その記述は、ニュートンが考えた系譜と大きく矛盾しており、彼は、それを無視した。
4.7 ナウプリオス
4.7.1 ニュートンの記述
ニュートンは、アルゴ船員のナウプリオスは、ダナオスの娘アミュモネの息子だと記している。[194]
4.7.2 問題点
ニュートンが参照したロドスのアポロニウスは、「アルゴ船員のナウプリオスは、ダナオスの娘アミュモネの子ナウプリオスの子プロイトスの子レルノスの子ナウボロスの子クリュトナイオスの息子であった。」と記している。[195]
ニュートンがアポロニウスの記述を無視したのは、アルゴ船の遠征がダナオスから7世代後になるとニュートンが考えた系譜に矛盾が生じるからであった。
ニュートンは、ダナオスをミュケナイのエウリュステウスや彼の兄弟ゲラノールの同時代人にしている。[196]
また、ニュートンは、エウリュステウスと同年生まれのヘラクレスをアルゴ船員にしているため、ダナオスもアルゴ船員世代であった。[197]
つまり、ニュートンは、アルゴ船の遠征がダナオスから7世代後ではなく、少しでも矛盾を軽減するため、2世代後になるようにしたと思われる。
4.8 カドモスとヘラクレス
4.8.1 ニュートンの記述
ニュートンは、ヘラクレスやミノスの子デウカリオーンがアルゴ船だと記している。[198]
ニュートンは、カドモスをデウカリオーンの父ミノスの母エウロパの兄弟だと記している。[199]
つまり、ニュートンは、カドモスがヘラクレスより2世代前だと考えていた。
4.8.2 問題点
ニュートンが参照したヘロドトスは、カドモスと同時代のエウロパがヘラクレスより5世代前だと記している。[200]
4.9 3人のヘラクレス
4.9.1 ニュートンの記述
(1) ヘラクレス イダイウス
ニュートンは、ヘラクレス イダイウスの孫クリュメノスがデウカリオーンの洪水から50年後、つまり、992 BCにクレタからエレイアへ移住して来たと記している。[201]
クリュメノスより2世代前のヘラクレス イダイウスの移住は、1058 BCであったと、ニュートンは推定していたと思われる。
(2) アルクメナの子ヘラクレス
ニュートンは、アルゴ船の遠征当時、ヘラクレスが34歳であったと記している。
つまり、ニュートンは、ヘラクレスの誕生を、(938+34=) 972 BCと推定していたと思われる。
(3) テュロスのヘラクレス
ニュートンは、ソロモンの死から87年後、つまり、(981-87=) 894 BC、フェニキア人がエドム人によって、テュロスから追放されたと記している。[202]
フェニキア人は、スペインへ移住したが、彼らを率いたのは、メルカルトスとも呼ばれるヘラクレスであった。[203]
このヘラクレスは、他の伝承で、エジプト人 ヘラクレス、または、フェニキアの ヘラクレスとも呼ばれるマケリスと思われる。[204]
4.9.2 問題点
ニュートンは、3人のヘラクレスの時代順を、ヘラクレス イダイウス、アルクメナの子ヘラクレス、テュロスのヘラクレスとしている。
しかし、ニュートンが参照したディオドロスは、テュロスのヘラクレスが一番古く、アルクメナの子ヘラクレスが3人目だと記している。[205]
ニュートンが参照したパウサニアスもアルクメナの子ヘラクレスより、テュロスのヘラクレスが古いと記している。[206]
5 古代ギリシア年表
ニュートンの記述をもとに、古代ギリシアの出来事を年代順に記すと次のようになる。
1116 BC、オギュゲスの洪水
1110 BC、ペラスゴス、イナコス、レレクス、ケクロプス、アバスのエジプトからギリシアへの移住
1058 BC、ヘラクレス イダイウスのクレタからエレイアへの移住
1042 BC、デウカリオーンの洪水
1042 BC、トロイ創建
1039 BC、カドモスのシドンからギリシアへの移住
1039 BC、エウロパのシドンからクレタへの移住
996 BC、ペロプスのギリシアへの移住
992 BC、クリュメノスのクレタからエレイアへの移住
990 BC、アイトロスのエリスからアイトリアへの移住
981 BC、シシュッポスによるコリントス創建
972 BC、アルクメナの子ヘラクレスの誕生
971 BC、テセウスがアテナイ王に即位
966 BC、ダナオスのギリシアへの移住
938 BC、アルゴ船の遠征
927 BC、7将のテバイ攻め
902 BC、トロイ占領
894 BC、メルカルトス (ヘラクレス)のテュロスからスペインへの移住
822 BC、ヘラクレイダイの帰還
6 最後に
6.1 年代の特定
ニュートンは、最初のオリュンピア祭競技会が開催された年を基準にして、古代ギリシアの出来事の年代を特定した。
しかし、ニュートンが特定した年代は、世代数と1世代の年数から得られる大雑把なものであった。
ニュートンは、最初にヘラクレイダイの帰還年を特定し、次に、デウカリオーンの洪水やオギュゲスの洪水の年代を特定した。
ニュートンは、伝承に残っている各地の最初の人物をオギュゲスと同時代の人物とみなした。
つまり、アテナイのケクロプスやケクロプスの妻の父アクタイオス、アルカディアのペラスゴス、アルゴスのイナコス、スパルタのレレクスをオギュゲスの同時代人とみなした。
6.2 系譜の欠落
ニュートンが世代数を得るために使用した系譜は、正確なものではなかった。
ニュートンがヘラクレイダイの帰還年を特定するために使用したエリスの系譜は、正確ではなかった。
ニュートンは、イピトスをオクシュロスの孫としたが、オクシュロスとイピトスの間には、多くの世代があったと推定される。
ニュートンがデウカリオーンの洪水の年代を特定するために使用したアルカディアの系譜も、正確ではなかった。
ニュートンは、カリストをペラスゴスの子リュカオンの娘としたが、リュカオンとカリストの間には、多くの世代があったと推定される。
6.3 人物の特定
ニュートンは、伝承に登場する同名の人物を、年代を考慮せずに、同一人物にしている。
その結果、系譜が短縮され、その短縮された系譜に合わせて、他の系譜を短縮したり、同一人物ではない同名の者を系譜に結び付けたりしている。
ニュートンは、伝承に複数登場するミノス、アイオロス、シシュッポス、アバス、エレクテウス、デウカリオーン、アンピクテュオンを同一人物とみなしていた。
6.4 結論
ニュートンは、オギュゲスの時代からヘラクレイダイの帰還の時代まで、約247人の名前を線で結んで、系図を作成したと推定される。
しかし、その期間の古代の伝承には、系図に表される3,000名以上の人々が登場する。
ニュートンが使用した8パーセントの人々の系譜では、系図の矛盾を解消できなかったと思われる。
6.5 ニュートンの功績
ニュートンが特定した古代ギリシアの出来事の年代については、同意できないものが多い。
しかし、他の伝承には記されていない系譜をニュートンのみが記しているものがあり、青銅器時代のギリシアの歴史を探求する上で、大変貴重である。
ニュートンのみが伝えている系譜には、つぎのようなものがある。
(1) 第2代アテナイ王クラナオスに、息子ラロスがいた。[207]
(2) マラトンの子シキュオンは、エレクテウスの孫であった。[208]
(3) アンティッソスの子メラスは、マラトンの子シキュオンに娘ゴヌッサの子孫であった。[209]
(4) クリュメノスは、イダ山のヘラクレスの孫であった。[210]
おわり |