1 はじめに
古代ギリシアの伝承に、ヒッタイトは登場しない。
古代ギリシア人が歴史を記すようになった頃には、ヒッタイトは既に忘れ去られていた。
しかし、ヒッタイトの文書には、多くの古代ギリシア人が登場する。
多くの人の手を経た古代ギリシアの伝承から真実の歴史を見つけるのは、非常に難しい。
ヒッタイトの文書に記された内容は真実であり、当時の歴史を現在に伝えている。
ここでは、ヒッタイトの文書に記された、つぎの個人名のギリシア名とその人物の系譜を記述する。
アッタリシア、アトパ、クパンタ・クルンタ、ウハジティ、ピヤマクルンタ、タパラズナウリ、マナパ・タルフンタ、マスツリ、ピヤマラドゥ、タワガラワ、クックンニ、アラクサンドゥ、ワルム。
2 アッタリシアについて
2.1 ヒッタイト文書中のアッタリシア
アッタリシア (または、アッタルシア)は、ヒッタイトで記録された最古のギリシア人であった。
ヒッタイトの文書、マドゥワッタの告発状 (CTH 147)に記録されている。
アッタリシアは、アヒヤワの将軍であった。
BC1400年、アッタリシアは、マドゥワッタを攻めて、彼の領地を占領した。[1]
BC1385年、アッタリシアとマドゥワッタは、アラシヤ(キュプロス)を攻撃した。[2]
2.2 アッタリシアのギリシア名
アッタリシアは、古代ギリシアの伝承に登場する、つぎの人物と推定される。
それは、アゲノールの子ポイニクスの娘アステュパライアの子アンカイオスである。
アンカイオスは、BC1424年生まれであった。
アンカイオスは、ミレトス、キュプロス、キュドニア(クレタ島の)と関係があり、ミュケナイの町のアトレウスと系譜上の繋がりがあった。
2.3 アンカイオスとミレトスとの関係
BC1425年、カドモスの移民団の中にいたポイニクスの娘アステュパライアは、クレタ北西部のアプテラの町に住むアクモン (または、ケルミス、ダムナメネオス、イダ山のヘラクレス)と結婚した。[3]
アクモンは、4人の兄弟たちと共にクレタからロドス島対岸のケッロネソスへ移住して、カリア人を追い出して、5つの町を創建した。[4]
アクモンより、135年前、トリオパスの子クサントスの移民団の中にいたキュルノスがロドス島対岸のケッロネソスにキュルノスを創建していた。[5]
アクモンの入植の10年後には、ロドス島からエリュシクトンの子トリオパスが、ロドス島対岸のクニドス半島にトリオピオンを創建した。[6]
アクモンとアステュパライアとの間の息子アンカイオスは、レレゲスの王になった。[7]
レレゲスとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[8]
つまり、アンカイオスが支配する人々は、カリア人と共住して、混血したギリシア人であった。[9]
アンカイオスは、マイアンドロス川の河口付近に住んでいたサミアを妻にした。[10]
サミアはミレトスの町付近を支配していたカリア人の娘で、戦争捕虜であったと推定される。
アンカイオスは、ケッロネソスからミレトスの町までの範囲に居住するギリシア人とカリア人を支配するレレゲスの王になった。[11]
古い時代には、ミレトスの町はレレゲイスと呼ばれて、レレゲスの居住地であった。[12]
トロイ戦争の時代には、レレゲスの居住地は、トロアス地方にまで広がっていた。[13]
2.4 アンカイオスとキュプロスとの関係
BC1438年、クレタのイダ山で山火事が発生して、偶然に鉄が発見された。[14]
発見者は、ケルミスとダムナメネオスであった。[15]
彼らは、ベレキュントス地方のアプテラの町に住み、イダ山のダクテュロスと呼ばれた。[16]
その後、ケルミスとダムナメネオスは、キュプロス島でも鉄を発見した。[17]
ケルミスとダムナメネオスは、アンカイオスの父アクモンの叔父であった。[18]
2.5 アンカイオスとキュドニアとの関係
BC1425年、アンカイオスの母アステュパライアと共にカドモスの移民団の中にいたアステュパライアの姉妹エウロパは、アプテラの町近くのキュドニアの町に住んでいたテゲアテスの子キュドンと結婚した。[19]
キュドンは、BC1430年に、アルカディア地方のテゲアの町からクレタ島へ移住して、キュドニアの町を創建していた。[20]
キュドンの子カルデュスは、キュドニアの町に住み、アクモンの娘を妻に迎えて、息子クリュメノスが生まれた。[21]
カルデュスとアクモンの娘とは、アゲノールの子ポイニクスを共通の祖父とする、いとこ同士であった。
また、アンカイオスとカルデュスは義兄弟であると同時に、いとこ同士であった。
アクモン兄弟が、クレタ島のアプテラの町からケッロネソスへ移住したとき、アプテラの町近くのキュドニアの町からも多くのアルカディア人が移民団に参加した。
2.6 アンカイオスとアトレウスとの関係
アトレウスの父ペロプスの父タンタロスの父は、カルデュスとアクモンの娘との間の息子クリュメノスと推定される。[22]
つまり、アトレウスとアンカイオスは、アクモン (イダ山のヘラクレス)を共通の先祖とする同族であった。
2.7 アンカイオスの系譜
アンカイオスの父アクモンは、イダ山のダクテュロスであり、種族としては、テルキネス族に属していた。[23]
テルキネス族は、アイギアレイア (後のシキュオン)の町の第3代シキュオン王テルキンを始祖にしていた。
BC1690年、テルキネス族は、アルゴスの町のアピスとの戦いに敗れて、テルキンの子クレスに率いられて、クレタ島へ移住した。[24]
アンカイオスの母アステュパライアは、アルゴスの町のダナオスの父ベロスの兄弟アゲノールの子ポイニクスの娘であった。[26]
2.8 キュプロスへの軍事行動
ヒッタイト文書によれば、アッタリシアは、アラシヤ(キュプロス)へ遠征しているが、それに関連していると思われる出来事が古代ギリシアの史料に記されている。
BC1410年、アステュノオスの子サンドコスは、フェニキア地方のテュロスの町からキリキア地方へ移住して、ケレンデリスを創建した。[27]
アステュノオスは、初代アテナイ王ケクロプスの娘ヘルセの子ケパロスの子ティトノスの子パイトンの息子であった。[28]
サンドコスと共に移住先を探していたピュグマリオンは、キュプロス島の北東部にカルパシアの町を創建した。[29]
BC1390年、サンドコスの子キニュラスは、キリキアのケレンデリスからキュプロス島の南西海岸に移住して、パライパポスを創建した。[30]
これらの移住は、アッタリシアの軍事行動と関連があると推定される。
アンカイオスの母アステュパライアの父ポイニクスは、フェニキア地方のテュロスの王であった。[31]
ポイニクスの妻ペリメデは、ケクロプスの娘ヘルセの子孫と思われ、サンドコスとアステュパライアは、いとこ同士、あるいは、又従兄弟同士であった。
つまり、アンカイオス (アッタリシア)と、キリキア地方からキュプロス島へ移住したサンドコスの子キニュラスとは、親族であった。
キニュラスの移住は、アッタリシアのキュプロス島への軍事行動の結果と推定される。
3 アトパについて
3.1 ヒッタイト文書中のアトパ
ラズパ (レスボス島)の職人集団がミラワンダのアトパのもとへ亡命した。[32]
ミラのクパンタ・クルンタが職人集団の帰還について、アトパと交渉した。[33]
アトパの妻は、ピヤマラドゥの娘であった。[34]
3.2 アンカイオス (アッタリシア)の孫クレオクス
アンカイオスには4人の息子たち、ペリラオス, エヌドス, サモス, アリテルセスと、娘パルテノペがいた。[35]
アンカイオスの息子たちは、サモス島やキオス島へ移住してレレゲスの居住地を広げた。[36]
アンカイオスからミレトスの町を継承した息子もいた。
BC1294年、アリアの子ミレトスがクレタから小アジアへ移住して、ミレトスの町を創建した。[37]
その町がミレトスと呼ばれる前は、アナクトリアと呼ばれていた。[38]
アナクトリアの王は、アナックスと彼の息子アステリオスであった。[39]
アナックスは、アンカイオスの跡を継いだ息子であったと推定される。
BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世は、ミラワンダ (ミレトス)を攻めて、占領した。[40]
この戦いの原因は、アヒヤワ王がウハジティと同盟を結んでいたからであった。[41]
ムルシリ2世の年代記には、アヒヤワ王がミラワンダにいたと記されている。[42]
このアヒヤワ王は、ミレトスの町に住むクレオクスと思われる。[43]
アヒヤワは、アカイア人と同一視されているが、ミレトスの町がその中心であったと推定される。
アナックスの子アステリオスは、ミレトスの前に浮かぶラデ島近くの島へ逃れて死んだ。[44]
アナックスの息子と思われるクレオクスは、ウハジティの軍に合流した。その後、クレオクスは、ムルシリ2世との戦いに敗れて、ウハジティの子ピヤマクルンタと共にヒッタイト軍の捕虜になった。[45]
その後のクレオクスの消息は不明であるが、ミレトスの町近くのディデュマイオンに墓があった。[46]
3.3 クレオクスの孫ミレトス (アトパ)
クレオクスの娘アリアは、息子ミレトスを連れて、クレタ島へ逃れた。[47]
BC1294年、アリアの子ミレトスは、ミノスの兄弟サルペドンの協力を得て、クレタから小アジアへ移住して、祖父の旧領を回復した。[48]
その後、サルペドンは、ミリャス(後のリュキア)へ移住した。[49]
アトパのギリシア名は、クレオクスの孫ミレトスと推定される。[50]
3.4 ミレトス (アトパ)の支配地域
ミレトスの子アンカイオスは、サモス島に住んでいた。[51]
ミレトスの子エウリュピロスは、コス島に住んでいた。[52]
つまり、アトパは、ミレトスの町を中心とするカリア地方の他に、サモス島からコス島までのエーゲ海の島々をも支配していた。
3.5 アトパの継承者
ミレトス (アトパ)の跡を継いだ息子は、タワガラワ書簡(CTH 181)に登場するアヒヤワ王であったと推定される。
ヒッタイトで内紛があり、ムルシリ3世と叔父 (後のハットーシリ3世)が戦って、ムルシリ3世が敗れた。[53]
この戦いで、ウィルサ (トロイ)とミラワンダ (ミレトス)とアヒヤワ (アカイア人)は、ムルシリ3世を支援した。戦いの後、それまで、ヒッタイトに従属していたウィルサとミラワンダは独立した。[54]
独立したウィルサのラオメドンは、ミラワンダとの関係を良くしようとして、彼の娘ヘシオネをミレトスの町のアトパの息子へ嫁がせた。[55]
その後、アトパの息子の時代に、ミラワンダは、ヒッタイトに攻められて、ヒッタイトの属国になった。ヒッタイトとの戦いに敗れたアトパの息子は、ヒッタイトに許されて、引き続き、ミラワンダを統治した。[56]
アトパもヒッタイトに敵対していたのに、アトパの息子が許されたのは、彼がラオメドンの娘ヘシオネを妻にしていたからと思われる。
3.6 ヘシオネの夫
アトパの跡を継いだ息子の名前は、不明である。
ヘシオネには、息子トランベロスがいて、トロイ戦争時代、ミレトスの町を統治していた。[57]
ある伝承は、ヘシオネが息子トランベロスを産んだときのミレトス王をアリオンだと伝えている。[58]
また、トロイ遠征の伝承には、ミレトスの町のノミオンの2人の息子たち、ナステスとアンピマコスが登場している。[59]
アルゴ船の遠征の物語には、ミレトスの町からアステュパライアの子エルギヌスが登場している。[60]
つまり、ヘシオネの夫は、アリオン、ノミオン、エルギヌスのうちのいずれかと推定される。
3.7 ミレトスの子カウノス (タワガラワ)
ミレトス (アトパ)には、カウノスという息子もいた。[61]
BC1260年、カウノスは、ミレトスの町からリュキア地方に近い、カリア地方へ移住して、カウノスの町を創建した。[62]
当時、そこには、レレゲスが住んでいたというが、カウノスは、レレゲスの指導者であった。[62-1]
カウノスの異母兄弟の子トランベロスは、ミレトスの町に住むレレゲスの王であった。[63]
カウノスの町が建設された地方は、カウノスの先祖アクモン (イダ山のヘラクレス)が、クレタ島から移住して、カリア人と共住した地方であった。
タワガラワ書簡に登場するアヒヤワ王の兄弟タワガラワのギリシア名は、カウノスと思われる。
ピヤマラドゥに攻められたヒッタイトの属国ルッカ(リュキア)の住人は、タワガラワのもとへ逃げ込んだ。[63-1]
当時、ミラワンダ(ミレトス)は、ヒッタイトの属国であり、カウノスもまたヒッタイト側の人間であった。
4 クパンタ・クルンタについて
4.1 ヒッタイト文書中のクパンタ・クルンタ
ヒッタイトの文書によれば、アルザワのクパンタ・クルンタは、ヒッタイトの領土に侵入して、 トゥドハリヤ1世やアルヌワンダ1世に敗れた。[64]
その後、クパンタ・クルンタは、マドゥワッタを攻めて、その領地を占領して略奪した。[65]
トゥドハリヤ1世は、将軍ピセニを派遣して、マドゥワッタの領地を回復した。[66]
4.2 クパンタ・クルンタのギリシア名
クパンタ・クルンタは、最初のアルザワ王であった。[67]
BC17世紀のハットーシリ1世の時代からアルザワと呼ばれる地方があった。[68]
恐らく、元々のアルザワの住人は、ギリシア人ではなく、強力な指導者もいなかったと思われる。
BC1390年に、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人は、デウカリオーンの息子たちに追われて各地へ移住した。[69]
彼らの中で、シレノスの息子と思われるマネスは、リュディア地方のマイオニアへ移住した。[70]
マネス率いるペラスゴイ人は、先住民と共住して、マネスは、アルザワ王になった。
アルザワの最初の王であるクパンタ・クルンタは、彼の活動の年代や地域が同じことから、マネスと同一人物と推定される。
4.3 クパンタ・クルンタの継承者
クパンタ・クルンタの娘は、マドゥワッタと結婚した。[71]
マドゥワッタは、カリア人と推定される。
クパンタ・クルンタの次に登場するアルザワ王は、タルフンタラドゥであった。[72]
系図を作成すると、クパンタ・クルンタとタルフンタラドゥの間には、1世代の空きがある。
クパンタ・クルンタの跡をマドゥワッタが継ぎ、その跡をマドゥワッタの息子と推定されるタルフンタラドゥが継いだと思われる。
4.4 タルフンタラドゥ
タルフンタラドゥは、ヒッタイトの支配地域の奥まで攻め入り、大王と呼ばれた。
エジプトの第18王朝のファラオアメンホテプ3世は、タルフンタラドゥに、彼の娘を嫁がせようとした。その婚姻が実現したかどうかは不明であるが、両者の間に交流があったことは事実である。[73]
古代ギリシアの伝承では、マネスの娘婿や、娘の息子は登場せず、マドゥワッタやタルフンタラドゥのギリシア名は、不明である。
4.4.1 タルフンタラドゥとペルセウス
タルフンタラドゥの時代にアルザワは、全盛期を迎え、タルフンタラドゥは、ヒッタイト領の奥深くまで侵入して、ハットゥーシャの南方約240kmのトゥワヌワ (テュアナ)の町を占領した。[73-1]
これと同じ頃、アルゴスの町を去ったダナエの子ペルセウスは、リュカオニア地方のイコニオン (コンヤ)の町まで遠征していた。[73-2]
イコニオンの町は、トゥワヌワの町の西方約185kmにある。
ペルセウスは、この頃、成人したばかりで、アヒヤワの軍と共に、アルザワ王タルフンタラドゥの遠征に参加していたと思われる。
ペルセウスが創建したミュケナイの城塞の神殿には、アメンホテプ3世の妻ティイのスカラベが置かれていた。[73-3]
そのスカラベは、アメンホテプ3世と交流があったタルフンタラドゥからペルセウスに与えられ、ペルセウスがスカラベを神殿に安置したと推定される。
4.5 アンザパハドゥ
タルフンタラドゥの跡を継いだのは、アンザパハドゥであった。[74]
アンザパハドゥは、タルフンタラドゥと同世代で、恐らく、タルフンタラドゥの弟と推定される。
BC1344年、アンザパハドゥは、トゥドハリヤ3世の将ヒムイリ率いるヒッタイト軍を破った。[75]
その後、アンザパハドゥ率いるアルザワ軍は、シュッピルリマ1世率いるヒッタイト軍に敗れて全滅した。[76]
恐らく、アンザパハドゥも戦死したと思われる。
4.6 マスクイルワ
アンザパハドゥの跡を継いだのは、タルフンタラドゥの子マスクイルワであった。[77]
BC1322年、マスクイルワは、ウハジティに追放されて、ヒッタイト王シュッピルリマ1世のもとへ亡命し、彼の娘ムワッティと結婚した。[78]
後に、アルザワがヒッタイトに攻略されて、3つの属国に分けられたとき、マスクイルワはミラの王になった。[79]
4.7 クパンタ・クルンタの後裔
マネス (クパンタ・クルンタ)には息子コテュスがいたが、アルザワ王としては登場しない。[80]
コテュスの跡を、彼の息子アテュスが継いだ。[81]
アテュスの息子たちの時代に、ウハジティとヒッタイトとの間に戦いが起こり、マネスの後裔の大部分は、他へ移住することになった。
BC1300年、アテュスの子テュッレノスに率いられたアルザワの人々は、イタリア半島へ移住した。[82]
テュッレノスは、リュディア地方から直接イタリアへ移住したのではなく、レムノス島に18年住んでからであったと推定される。
テュッレノスは、ペラスゴイ人であったが、アルザワの人々の大部分は、ルウィ語を話していた。[83]
あるいは、テッサリア地方からマイオニアへ移住してから、イタリア半島へ移住するまでの90年間に、ペラスゴイ人もルウィ語を話すようになったと思われる。
BC1390年にテッサリア地方から移住して、イタリア半島に住んでいたペラスゴイ人と、テュッレノスと共に移住した人々とは言葉が通じなかった。[84]
5 ウハジティについて
5.1 ヒッタイト文書中のウハジティ
ウハジティは、ヒッタイトの属国となる前のアルザワの最後の王であった。[85]
ウハジティには、ピヤマクルンタとタパラズナウリという2人の息子たちがいた。
ウハジティは、アルザワ王タルフンタラドゥの跡を継いだマスクイルワを追放した。[86]
マスクイルワは、ヒッタイト王シュッピルリマ1世のもとへ亡命し、彼の娘ムワッティと結婚した。[87]
BC1318年、ウハジティは、ヒッタイト軍に攻められて、アルザワの首都アパサス (エペソス)を拠点にして抵抗したが、病死した。[88]
ピヤマクルンタは、ヒッタイトの捕虜になって、ハットゥーシャへ連行された。[89]
タパラズナウリは、ヒッタイト軍に包囲されたが、包囲から脱出した。[90]
5.2 ウハジティと息子たちのギリシア名
ウハジティの行動や年代から、ウハジティのギリシア名は、ペロプスの父タンタロスと推定される。
ピヤマクルンタのギリシア名は、タンタロスの息子ブロテアス、タパラズナウリのギリシア名はペロプスと推定される。[91]
5.3 タンタロスの系譜
タンタロスは、アクモン (イダ山のヘラクレス)の孫クリュメノスの息子と推定される。[92]
前述したように、アッタリシアのギリシア名は、アクモンとポイニクスの娘アステュパライアとの息子アンカイオスであった。
つまり、タンタロスは、初めて、ヒッタイトと戦ったギリシア人であるアッタリシアの甥クリュメノスの息子であった。
5.4 タンタロスの最初の居住地
タンタロスは、アナトリア半島北西部のイダ山近くのベレキュンテスの地に住んでいた。[93]
タンタロスは、領内の畑の種蒔きをするために、10日の旅を必要とするほど、広大な土地を支配していた。[94]
タンタロスは、トロイのトロスの子イロスに追われて、プリュギアのサンガリオス川の源流付近にあるペッシヌスへ逃れた。[95]
タンタロスは、イダ山からペッシヌスまでの広い範囲を支配していたのかもしれない。
5.5 リュディアへの移住
ペッシヌスは、ゴルディオンのすぐ西側にあり、ヒッタイトの支配地域と隣接していた。
トロスの子イロスは、ペッシヌスにいたタンタロスを攻めた。[96]
戦いに敗れたタンタロスは、リュディア地方のシピュロス山付近へ移住した。[97]
5.6 アルザワの支配権の奪取
タンタロスが移住した地方は、アルザワの支配地域であった。
当時、アルザワ王は、アンザパハドゥの跡を継いだタルフンタラドゥの子マスクイルワであった。[98]
タンタロスは、シピュロス山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を蓄積した。[99]
タンタロスのリュディア地方への移住には、イダ山周辺で採掘に従事していたイダ山のダクテュロスも参加していたと推定される。
タンタロスは、財力と、アルゴスの町のイナコスを共通の先祖とするマネスの後裔を指導者とするマイオニア人の支持を得て、マスクイルワを追放して、アルザワ王になった。
5.7 ヒッタイトとの戦い
5.7.1 戦いの原因
アルザワから追放されたマスクイルワは、ヒッタイト王シュッピルリマ1世のもとへ亡命し、彼の娘ムワッティと結婚した。[100]
シュッピルリマ1世と、彼の跡を継いだアルヌワンダ2世は疫病で死去して、ヒッタイトは、すぐには、アルザワに対する軍事行動を起こすことができなかった。
アルヌワンダ2世の跡を継いだムルシリ2世は、治世3年目にアルザワと戦うことになった。[101]
戦いの端緒は、アッタリンマ、フワルサナッサ、スルダの人々がアルザワへ逃げ込み、ムルシリ2世がタンタロス (ウハジティ)に彼らの引き渡しを要求したことであった。[102]
5.7.2 ヒッタイトの攻撃
タンタロスは、彼らの引き渡しを拒否したため、ムルシリ2世は、タンタロスが拠点としていたアパサス (エペソス)へ向けて進軍した。
タンタロスがアパサスを拠点にしていたのは、大地震により、シピュロス山近くに住めなくなったからと思われる。ストラボンは、タンタロスが王の時代に、シピュロス山が崩壊する程の大地震があったと記している。[103]
タンタロスは、ブロテアス (ピヤマクルンタ)にヒッタイト軍を迎撃させるが、ブロテアスは、戦いに敗れた。[104]
その後、ヒッタイト軍がアパサスに到着する前に、タンタロスは病気になって、近くの島へ逃れた。[105]
5.7.3 戦いの結末
BC1318年、タンタロスは、病気が悪化して死んだ。[106]
タンタロスの子ペロプス (タパラズナウリ)は、島から本土へ渡って、ムルシリ2世の軍と戦ったが、敗れて、包囲された。ペロプスは、包囲から脱出できたが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[106-1]
ブロテアス (ピヤマクルンタ)は、島から本土へ渡って、ムルシリ2世と交渉するが、ハットゥーシャへ送られた。[106-2]
ブロテアスが製作した神々の母の神像がリュディア地方のシピュロス山の近くの岩の上にあった。[106-3]
また、ブロテアスには、息子タンタロスがいたかもしれない。アルゴスの町にタンタロスの遺骨が納められた容器があったと伝えられている。[106-4]
5.7.4 タンタロス最期の地
次のことから、タンタロスが最後に拠点にした島は、サモス島と推定される。
1) タンタロスの祖母の兄弟アンカイオス (アッタリシア)は、レレゲスの王であった。[106-5]
サモス島は、レレゲスの島であった。[106-6]
2) サモス島は、タンタロスが拠点にしたアパサスの近くにあった。
3) サモス島には、奴隷1,000人を所有できるほど、多くの住人がいた。[106-7]
4) ミュケナイ王エウリュステウスが死んだ後で、彼の娘アドメテがサモス島へ逃れて来た。[106-8]
アドメテは、タンタロスの子ペロプスの娘ニキッペの子エウリュステウスの娘であった。[106-9]
5.8 ペロプスのギリシアへの移住
その後、ペロプスは、小アジアからペロポネソスへ渡った。その時、ペロプスは彼の息子クリュシッポスと一緒であった。[107]
ペロプスは、ムルシリ2世との戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほど小アジアにいたが、その望みを断念して、ペロポネソスへ渡ったと推定される。
イダ山南東のテーベの町の近くには、ペロプスの御者キッロスの大きな墓があった。キッロスは、その地方の支配者であった。[108]
ペロプスの行動範囲は、その地方にまで、及んでいたと思われる。
6. マナパ・タルフンタについて
6.1 ヒッタイト文書中のマナパ・タルフンタ
アルザワのひとつの地方であったセハ川の地の王ムワ・ワルウィが死んで、彼の息子マナパ・タルフンタが跡を継いだ。[109]
マナパ・タルフンタは、兄弟たちによって、セハから追放されて、カルキヤ(カリア)へ逃れたが、セハの人々が反乱を起こして、マナパ・タルフンタを呼び戻した。
ウハジティがヒッタイトに対して反乱を起こすと、マナパ・タルフンタは、彼を支持した。[110]
ウハジティは、ムルシリ2世との戦いに敗れて、アルザワはヒッタイトの属国になって、3つに分割された。[111]
その中の一つ、セハ川の地は、マナパ・タルフンタに与えられた。マナパ・タルフンタはウハジティに味方していたが、ムルシリ2世は彼を許した。[112]
ピヤマラドゥがトロイを攻撃したとき、マナパ・タルフンタは、トロイに加勢した。しかし、彼は、ピヤマラドゥを追い出すことに失敗した。[113]
その後、ピヤマラドゥがラズパ (レスボス島)を攻撃した。島にはマナパ・タルフンタの部下がいたが、彼らはピヤマラドゥの軍に合流した。[114]
6.2 マナパ・タルフンタのギリシア名
マナパ・タルフンタの父ムワ・ワルウィの祖父は、アルザワの初代王クパンタ・クルンタ (マネス)、または、マネスと共にテッサリア地方からレスボスの対岸へ移住して来たペラスゴイ人と思われる。[115]
マナパ・タルフンタの跡をマスツリが継ぎ、マスツリは、タルフンタ・ラドゥに追放された。その後、マナパ・タルフンタの子孫が、セハ川の地を支配した。[116]
トロイ戦争時代、トロアス地方とリュディア地方の間のヘルモス川流域には、レトスの2人の息子たち、ヒッポトオスとピュライオスを指導者とする大部族がいた。[117]
年代を比較すると、レトスは、マスツリの跡を継いだマナパ・タルフンタの孫と推定される。
マスツリがマナパ・タルフンタの息子であるとすれば、マスツリのギリシア名は、テウタモスになる。[118]
また、マナパ・タルフンタのギリシア名は、レトスの祖父ミトライオスになる。[119]
ただし、このミトライオスは、歴史家ケパリオンのみがアッシリア王テウタモスの父だとして伝えているもので、正しくないかもしれない。
6.3 マスツリの妻
マスツリ (テウタモス)の妻は、ムルシリ2世と ガスラウィヤとの間の娘マッサナウッツィ(または、マタナザ)であり、ヒッタイト人であった。[120] 歴史家ケパリオンは、テウタモスをセミラミスの子ニニャスから26人目のアッシリア王だと記している。[121]
ヒッタイトの存在を知らない古代ギリシアの歴史家は、ヒッタイトをアッシリアと同じと見なしていたようである。
6.4 セハ川の地の中心地
セハ川をヘルモス川ではなく、ペルガモン近くを流れるカイコス川と見なして、セハ川の地の中心地をミュシア・ペルガメネに置くことも可能である。
その場合、セハ川の地の領土は、プロポンティス海近くのミュシア・オリュンペネまでを含むことになる。[122]
カイコス川流域のミュシア人も、ヘルモス川流域のペラスゴイ人も、アルゴスからテッサリアを経由して、小アジアに定住した部族であった。
前者は、テッサリア地方から陸路で、後者は、レスボス島を経由して海路で小アジアに移住した。[123]
前者は、オリュンポス山周辺からミュシア・ペルガメネへ居住地を広げた。
前者の居住者は、トロイ戦争より少し前に移住して来たアルカディア人になり、後者の居住者は、トロイ戦争の後で移住して来たアイオリスになった。
後者は、前者よりも遥かに大部族であった。[124]
したがって、マナパ・タルフンタの支配の中心は、ヘルモス川流域であったと推定される。
7 ピヤマラドゥについて
7.1 ヒッタイト文書中のピヤマラドゥ
ピヤマラドゥは、ヒッタイトに抵抗した人物として、マナパ・タルフンタ書簡(CTH 191)、タワガラワ書簡(CTH 181)、ミラワタ書簡(CTH 182)に登場する。
7.2 ピヤマラドゥの系譜
ピヤマラドゥには、兄弟ラフルジと、ミラワンダのアトパと結婚した娘がいたことしか分かっていない。
アトパのギリシア名が、アリアの子ミレトスであるという私の推定が間違っていなければ、ピヤマラドゥのギリシア名は、ケライネオスである。
ミレトスの町の歴史家アリストクリトスの『ミレトスの歴史』によれば、ミレトスの妻トラガシアの父の名前は、ケライネオスであった。[125]
古代ギリシアの伝承には、このケライネオスの他に、もう一人のケライネオスが登場する。
それは、ミュケナイの町のペルセウスの子エレクトリュオンの子ケライネオスである。[126]
ミレトスの妻の父ケライネオスと、エレクトリュオンの子ケライネオスとは、年代的にまったく矛盾しない。
伝承によれば、エレクトリュオンの子ケライネオスは、兄弟たち(ストラトバテス、ゴルゴポネス、ピュロノモス、アンピマコス、リュシノモス、キリマコス、アナクトール、アルケラオス)と共に、アルゴスに攻め込んで来たタポス人と戦って死んだことになっている。[127]
しかし、この伝承は、明らかに作り話である。
エレクトリュオンの子ケライネオスとミレトスの妻トラガシアの父ケライネオスが同一人物であるとすれば、つぎのようになる。
エレクトリュオンの長男ペルセスは、祖父ケペオスの跡を継いでエチオピアに住んでいた。[128]
エチオピアは、エジプトの南ではなく、アナトリア半島北西部のゼレイア近くを流れるアイセポス川の河口近くにあった。[129]
トロイ戦争時代、トロイのラオメドンの子ティトノスの子メムノンは、エチオピアに住んでいた。[130]
エチオピアは、ペルセウスの子ペルセスが祖父ケペオスの跡を継いだ後で、トロイの支配下になったと推定される。[131]
このような、トロイとの関係で、エチオピアに住んでいたペルセスは、彼の父ペルセウスへ援軍の派遣を要請し、ペルセウスはエレクトリュオンをエチオピアへ行かせた。
エレクトリュオンはエチオピアで、プリュギア人のミデイアを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[132]
エレクトリュオンは、その後、ペロポネソスへ帰還して、ペロプスの娘リュシディケ(または、エウリュディケ)を妻に迎えて、ヘラクレスの母となるアルクメナが生まれた。[133]
7.3 エチオピアのトロイ併合
エチオピアはアドラスティアに含まれていたが、アドラスティアの名前は、アドラストス王に因むものであった。[134]
アドラストスは、トロスの子イロスの妻エウリュディケの父であった。[135]
エチオピアは、イロスに攻められて占領され、イロスはエチオピアを彼の妻の父アドラストスに与えた。[136]
イロスとの戦いに敗れたエレクトリュオンは、ペロポネソスへ帰還し、ミデイアの町を任せられた。[137]
この時、エレクトリュオンの息子たちは、20歳以下であった。
エレクトリュオンの息子たちの何人かは、小アジアに残った。その中の一人が、ケライネオスであった。
7.4 ピヤマラドゥ (ケライネオス)の反抗活動
7.4.1 反抗期間
ケライネオスは、戦士の年齢に達するとエチオピアを追われた人々と共に、トロイやトロイと友好関係にあったヒッタイトとの戦いを開始した。
ピヤマラドゥの反抗期間は、ムワタリ2世の治世(BC1295-72)からトゥドハリヤ4世の治世(BC1237-09)まで続いた。[138]
要するに少なくとも35年以上の間、ピヤマラドゥは戦い続けたことになる。
彼は、第2次メッセニア戦争の時のメッセニア地方のニコメデスの子アリストメネスのような英雄であった。
7.4.2 反抗動機
ケライネオスがトロイやヒッタイトを相手に反抗活動をした主な動機は、エチオピアを奪われたことであった。
しかし、タンタロスが領地を追われたことも、彼の戦いの動機の一つであった。
ケライネオスの祖父ペルセウスは、ケペオスの娘アンドロメダと結婚し、長男ペルセスが生まれるまで、少なくとも3年はエチオピアに住んでいた。[139]
タンタロスがトロイのイロスに追われる前、タンタロスの領地は、エチオピアに隣接し、タンタロスとペルセウスの間には、交流があったと推定される。
タンタロスの子ペロプスの娘たちと、ペルセウスの息子たちとの間の結婚が、それを証明している。
ペロプスの娘エウリュディケ (または、リュシディケ)は、ペルセウスの子エレクトリュオンと結婚した。[140]
ペロプスの娘アンピビア(または、ニキッペ)は、ペルセウスの子ステネロスと結婚した。[141]
ペロプスの娘アステュダミアは、ペルセウスの子アルカイオスと結婚した。[141-1]
ペロプスの娘リュシディケは、ペルセウスの子メストールと結婚した。[142]
ケライネオスは、タンタロスが領地を追われた後の経過を知っていたと思われる。
7.4.3 トロイ攻撃
セハ川の地のマナパ・タルフンタがムワタリ2世 (BC1295-72)に宛てた書簡には、ピヤマラドゥがウィルサ (トロイ)を攻撃したと記されている。マナパ・タルフンタは、トロイに加勢したがピヤマラドゥに敗れた。[143]
この出来事は、BC1296年にトロスの子イロスが死去した後の後継者争いに関係していると思われる。
ピヤマラドゥは、イロスの子ラオメドンと王位を争っていたパイノダマスを支援して、ラオメドンを追放した。
パイノダマスはウィルサの王に即位したが、ヒッタイト軍に攻められて、ラオメドンに王位を奪われた。
ピヤマラドゥは、レスボス島へ渡った。[144]
7.4.4 ラズパ攻撃
マナパ・タルフンタ書簡には、ピヤマラドゥがウィルサ(トロイ)を攻撃した後で、ラズパ(レスボス島)を攻撃したと記されている。[145]
当時、島にはマナパ・タルフンタの部下がいたが、ピヤマラドゥの軍に合流した。[146]
BC1560年、トリオパスの子クサントスは、アルゴスから当時無人であったレスボスに植民した。イッサと呼ばれていた島は、ペラスギアと呼ばれるようになった。[147]
BC1389年、アイオロスの子マカレウスは、イオニア人やペラスゴイ人を含む移民団を率いて、ペロポネソスからペラスギアへ入植した。[148]
BC1340年、ラピトスの子レスボスは、テッサリア地方から植民団を率いて、レスボス島へ入植し、島はレスボスと呼ばれるようになった。[149]
つまり、島はペラスゴイ人が最初に住み、その後、イオニア人やアイオリスが入植し、ピヤマラドゥの時代には、セハ川の地に支配されていた。
7.4.5 ルッカでの反乱
ピヤマラドゥは、ルッカでの反乱が失敗して、アヒヤワへ逃亡した。[150]
これより前に、ギリシア人とルッカ (リュキア)との関係は、つぎのようであった。
BC1560年、トリオパスの子クサントス率いるペラスゴイ人の移民団は、アルゴスの町からリュキア地方のクサントス河口近くへ入植した。[151]
BC1530年、クサントスの娘リュキアの子パタロスは、リュキア地方のクサントス河口近くにパタラの町を創建した。[152]
BC1425年、テルキネス族のリュコスは、ロドス島からリュキア地方のクサントス川近くに移住して、アポロ・リュキウスの神殿を奉納した。[153]
BC1348年、プロイトスは、テュリンスの町の城壁を強化するために、リュキア地方からキュクロペスを呼び寄せた。[154]
BC1289年、ミノスの子サルペドンは、クレタ島からミレトスの町を経由してリュキア地方へ移住した。[155]
BC1277年、パンディオンの子リュコスは、アテナイの町からメッセニア地方を経由して小アジアへ渡り、リュキア地方へ移住した。[156]
BC1250年、エレイア地方南部のレプレウスの町に住んでいたカウコネスは、その町の支配者レプレウスの横暴に耐え切れずにリュキア地方へ移住した。[157]
アステュダメイアの子レプレウスは、ヘラクレスがエリス攻めの後で、一騎打ちをして、ヘラクレスに殺されたという伝承がある人物であった。[158]
ピヤマラドゥのルッカ (リュキア)での反乱の原因は、最後の移住が関係していたと推定される。
リュキア地方のクサントス川付近は、古くからギリシア人の入植地であったが、ソリュモイなどの周辺の異民族との争いが絶えなかったと思われる。
BC1241年には、グラウコスの子ベレロポンテスがイオバテスに招かれて、イストモスからリュキア地方のクサントスへ移住している。[159]
ベレロポンテスは、リュキア地方でソリュモイと戦っている。[160]
7.4.6 反抗活動の終了
ピヤマラドゥ (ケライネオス)の反抗活動は、BC1295年に始まり、BC1237年頃に終わった。
ケライネオスは、25歳で反抗活動を開始して、78歳まで活動したと推定される。
ヒッタイトの支配が、小アジアに及ばなくなり、反抗活動が自然になくなったとも考えられる。
ヒッタイトの小アジアへの影響力が弱まった1つの例がある。
BC1230年、ヒッタイトの属国であったセハ川の地にアルカディア人の大規模な入植があった。
アウゲの子テレパス率いるアルカディア人は、スコイノスの町やアザニアからミュシア・ペルガメネへ入植した。
その後、アザニア人は、ヘルモス川の上流に定住した。[161]
ローマ時代のミュシア・ペルガメネには、テレパスと共に移住したアルカディア人の子孫が住んでいた。[162]
7.4.7 ヘラクレスの支援
ピヤマラドゥの活動期間に、ヘラクレスは、小アジアへ渡っている。
BC1248年から3年間、ヘラクレスは、リュディア地方に住んでいた。[163]
ピヤマラドゥがペルセウスの子エレクトリュオンの子ケライネオスであるという私の推定が正しければ、ピヤマラドゥは、マイアンドロス川の近くに住んでいた。
ケライネオスは、マイアンドロス河神としても伝えられていた。[164]
ヘラクレスは、伯父を支援するために小アジアへ渡ったとも考えられる。
ケライネオスの妹アルクメナは、ヘラクレスの母であり、ケライネオスはヘラクレスの伯父であった。
当時、殺人を犯した者は、故郷を出て、他人のもとで一定期間奉仕しなければならないという掟があった。ボイオティア地方のタナグラの町からエウボイア島のカルキスの町へ行った事例がある。[165]
しかし、アルゴス地方からリュディア地方まで行く必要はなく、ヘラクレスがリュディア地方のオンパレの下で奉仕したという伝承は、作り話と思われる。[166]
7.4.8 ラフルジ
ピヤマラドゥの兄弟ラフルジのギリシア名は、エレクトリュオンの息子たち、ストラトバテス, ゴルゴポネス, ピュロノモス, アンピマコス, リュシノモス, キリマコス, アナクトール, アルケラオスのうちのいずれかと思われる。[167]
8 ウィルサ (トロイ)について
ウィルサに関係する人物として、ヒッタイト文書中に3人の名前が登場する。
つまり、クックンニ、アラクサンドゥ、ワルムである。
8.1 クックンニについて
8.1.1 ヒッタイト文書中のクックンニ
ウィルサ王クックンニは、ヒッタイト王シュッピルリマ1世と同盟を結んだ。[168]
8.1.2 クックンニのギリシア名
ギリシアの伝承では、トロイ王家は、ダルダノスの町で発祥し、プリアモスの時代には、イリオンの町に住んでいた。
イリオンの町は、ウィルサと同一視されている。[169]
次のことから、ダルダノスの町からイリオンの町に最初に移り住んだのは、トロスの子イロスと推定される。
1) イロスは、イリオンの町の建設者であった。[170]
2) イロスは、イダ山近くからタンタロスを追い出し、リュディア地方からタンタロスの子ペロプスを追い出した。[170-1]
恐らく、イロスは、ウィルサ王の娘を妻に迎え、ウィルサ王の死後、ウィルサを継承したと推定される。
クックンニは、イロスの前のウィルサ王であったと思われる。
イロスの妻の父として、アドラストスの名前が伝えられているが、ウィルサ王の名前ではないと思われ、クックンニのギリシア名については、不明である。[170-2]
8.2 アラクサンドゥについて
8.2.1 ヒッタイト文書中のアラクサンドゥ
ウィルサ王アラクサンドゥ (または、アラカサンドゥ, アラクサンドス)は、ヒッタイト王ムルシリ2世や ムワタリ2世と同盟を結んだ。[171]
8.2.2 アラクサンドゥのギリシア名
ヒッタイト文書には、ムワタリ2世(BC1295-72)がアラクサンドゥの敵対者を排除して、彼をウィルサ王に即位させたと記されている。[172]
系図を作成すると、ムワタリ2世の治世中に即位したトロイ王は、イロスの子ラオメドンだけである。
したがって、アラクサンドゥのギリシア名は、ラオメドンであり、つぎのような王位継承争いがあったと推定される。
BC1296年、イロスが死去して、彼の息子ラオメドンがイロスの跡を継いだ。[173]
ラオメドンの母は、ウィルサ王の娘であったと推定される。[173-1]
ラオメドンは、即位時にムルシリ2世(BC1321-1295)と条約を締結した。[174]
その後、ラオメドンは競争者によって、イリオンから追放された。[175]
ラオメドンを追放したのは、イロスの息子と思われるパイノダマス (または、ヒッポテス)であった。
ラオメドンは、ヒッタイト軍やヒッタイトの属国の軍を味方にして、イリオンを攻めた。
ラオメドンを王位に復帰させたのは、ムワタリ2世であり、イリオンへの攻撃は、BC1295年の出来事と推定される。[176]
この頃、ヒッタイトは、リュディアを中心としたアルザワを征服して、小アジアへも強大な影響力を持っていた。[177]
この戦いで、パイノダマスは、彼の息子たちと共に殺された。[178]
パイノダマスの3人の娘たちは、シシリーへ逃れた。[179]
8.3 ワルムについて
8.3.1 ヒッタイト文書中のワルム
ミラワタ書簡(CTH 182)の中で、ヒッタイト王は、ウィルサ (トロイ)の王位継承争いに敗れたワルムを引き渡すようにミラワタ王に要請している。[180]
8.3.2 ワルムのギリシア名
その書簡の発出者は、ハットーシリ3世(BC1265-35)であり、ギリシアの伝承で確認されるラオメドンの子プリアモスが即位した頃のものと推定される。[181]
ヒッタイト王の仲介でワルムがトロイ王になっているのであれば、ワルムのギリシア名はプリアモスになる。
または、仲介が失敗してワルムがトロイ王になることができなかったのであれば、ワルムはプリアモスと王位継承権を争った者ということになる。
しかし、ヒッタイト王の仲介が実現しなかった可能性は低く、ワルムのギリシア名は、プリアモス (または、ポダルケス)と推定される。
8.3.3 王位継承争い
ウィルサの王位継承争いは、つぎのようであったと推定される。
8.3.3.1 ワルムの亡命
ラオメドンが死ぬと王位継承争いが起きた。王位継承争いに敗れたウィルサのワルムがミラワタ(ミレトス)へ逃げ込んだ。ヒッタイト王は属国のミラワタ王にワルムをヒッタイトに引き渡し、ウィルサの王に据えることができるように要請した。[182]
プリアモスは、ミレトスへ嫁いだ彼の姉妹ヘシオネを頼ってミレトスへ亡命したと思われる。
8.3.3.2 ワルムを追放した者たち
ワルムを追放したのは、イロスが死んだ時に、ラオメドンと王位を争った者の孫であった。
つまり、ラオメドンに殺されたパイノダマスの孫アイゲストス (または、アケステス)である。
しかし、アイゲストスは、シシリーに住んでいた。[183]
したがって、イリオンの内部にもワルム追放に関与した者たちがいたと推定される。
それは、後に、アイゲストスと一緒にシシリーへ移住した、アイネアスの父アンキセスであった。[184]
また、イリオンの南約1kmの平原に墓があるアンテノールの父アイシュエテスもアイゲストスの支援者であった。[185]
アンキセスの父はトロスの子アッサラコス(または、アサラコス)の子カピュスであり、母は、イロスの娘テミステであり、アンキセスにも王位継承権があった。
また、アンテノールの父アイシュエテスは、ダルダニアに住んでいたアッサラコスの子カピュスの息子で、アンキセスの兄弟であったと思われる。[186]
アイゲストスは、アンキセスとアイシュエテスの支援を受けて、プリアモスを追放して、一時、イリオンを掌握した。しかし、彼らは、ヒッタイト軍の後ろ盾を得たプリアモスに攻撃されて、イリオンを放棄した。[187]
8.3.3.3 アンキセスらの移住
アイシュエテスはイリオンの南約1kmの平原で、プリアモスの軍を迎え撃とうとして、戦死した。[188]
アイシュエテスの子アンテノールは、アドリアス海の奥の地へ移住した。[189]
アイゲストスは、アンキセスと共にシシリーへ移住した。[190]
したがって、アンキセスの子アイネアスに関するシシリーより前の伝承は、すべて作り話であり、アイネアスはシシリー生まれであった。[191]
アイゲストスやエリュモス (または、エリュウイオス)は、シシリーの北西部にアイゲスタ (または、エゲスタ)の町(現在のセジェスタ)とエリュマ (または、エリュクス)の町(現在のエーリチェ)を創建した。[192]
エリュモス は、アンキセスの息子であった。[193]
おわり |