1 はじめに 
      現存する古代の作家や詩人が書き残した史料には、古代ギリシア人の活動がまったく不明な期間がある。 
      つまり、BC11世紀後半からBC10世紀後半までの約100年間の空白の時代である。 
      いわゆる、ギリシア暗黒時代と呼ばれる時代である。 
      暗黒時代の大きな特徴として、つぎの3つが挙げられる。 
      1) 文字資料が少なく、その時代の様子が不明である。 
      2) 地域間の交流が少なく、人々の活動が沈滞していた。 
      3) 古代ギリシア人の系譜を作成すると、その時代の系譜に約4世代の欠落があった。 
      2 古代ギリシア人と文字 
        暗黒時代の特徴を検討する前に、古代ギリシア人と文字の関りを見てみたい。 
      2.1 古代ギリシア最古の記録 
        Pausaniasは、CleopompusとCleodoraの息子Parnassusが最古の町を作ったが洪水で洗い流されたと記している。[1] 
        Pausaniasは、彼と同時代の神学者Clemens of Alexandriaが引用しているApellasの『Delphic History』を参照したと推定される。[2] 
        Apellasは、Delphiの古代史料を調べて、『Delphic History』を書いた。 
      2.2 最古の記録の年代 
        Parnassusが創建した町を洗い流した洪水をPausaniasは、Deucalion時代の洪水だと記している。[3] 
        しかし、Deucalion時代ではなく、Atheniansの先祖Ogygusの時代であった。[4] 
        Ogygus時代の大洪水は、初代Athens王Cecropsの190年前であった。[5] 
        Athens王の即位年から逆算すると、Ogygus時代の大洪水は、BC1750年に発生した。[6] 
      2.3 伝承の記録 
        BC1750年にDelphiansが系譜や出来事を記録する文字を持っていたとは考えられない。 
        Argosの町やThebesの町などに比べて、Delphiの系譜や出来事についての情報は極めて乏しい。 
        その少ない情報も、Delphi以外の町に残っていたと思われる。 
        それを記録したのは、古代の歴史家であり、古い伝承を収集した人々であった。 
        そして、それを可能にしたのは、PhoeniciansがGreeceにもたらしたalphabetであった。[7] 
        しかし、そのalphabetはPhoenician lettersであり、Phoenician languageの知識を必要とした。つまり、文字を習得する前に、言語を学ぶ必要があった。 
        文字は、祭司や書記官など、特殊な職にある人たちによって独占されていた。 
      2.4 文字の伝来 
        一般に、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たPhoeniciansがGreeceにalphabetをもたらしたことになっている。[8] 
        しかし、Cadmusの移住は、BC1420年であるが、それ以前にAthensの町で文字による記録がされていたと思われる出来事がある。 
        それは、Thessaly地方に関する古い記録である。 
      2.5 Thessalyの古い記録 
        Thessaly地方のDeucalionの系譜については、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子供たちまでは、詳しく伝えられている。 
        しかし、Aeolusの子Mimasの子供たちについては、Mimasの子Hippotesの名前しか伝えられていない。また、Hippotesの子供たちについても、Hippotesの子Aeolusの名前しか伝えられていない。[9] 
        Hippotesの子Aeolusの子供たちの時代以降、彼らの系譜は非常に詳しくなる。 
        つまり、MimasとHippotesの時代の記録は、空白である。 
        その空白の前の系譜や出来事が伝えられているのは、つぎの結婚が原因と考えられる。 
        1) Deucalionの子Amphictyonは、第2代Athens王Cranausの娘と結婚した。[10] 
        2) Hellenの子Xuthusは、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaと結婚した。 [11] 
        つまり、これらの結婚によって、Deucalionの時代からXuthusの時代までの系譜や出来事は、Athensの町で記録されたと推定される。 
        もし、AmphictyonやXuthusの結婚がなければ、Hippotesの子Aeolusの時代より前の系譜や出来事は、古代史料に記録されなかったと思われる。 
      2.6 Athensへの文字の伝来 
        2.6.1 Boeotiaから 
        BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入した際に、Atheniansは、Tanagraの町周辺に居住していたGephyraeansのもとへ避難した。[12] 
        Gephyraeansは、BC1420年にCadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たPhoeniciansの支族であった。[13] 
        この時の一時的な共住が縁で、Gephyraeansの指導者Cephisusの娘Diogeniaの娘Praxitheaは、第6代Athens王Erechtheusと結婚した。[14] 
        Praxitheaと共にAthensの町へ移住したGephyraeansは、AtheniansにPhoenician lettersを伝えた。[15] 
        しかし、これ以前に、Atheniansが文字で記録せず、口承のみであったとすれば、説明できない伝承もある。 
        Erechtheusより前の5人のAthens王の統治年数や系譜、それに、それぞれの王の治世の出来事は、口承で後代に引き継ぐことは可能である。 
        しかし、Athensの町ではなく、Thessaly地方に住んでいたDeucalionや彼の子孫の系譜や出来事までも口承で後代に伝えられたとは思われない。 
        Boeotia地方のPhoeniciansがAthensの町へPhoenician lettersをもたらす前に、Atheniansは文字を使用していたと推定される。 
      2.6.2 Egyptから 
        AD2世紀の歴史家Tacitusは、PhoeniciansがalphabetをGreeceにもたらしただけで、alphabetを発明したのは、Egyptiansだと伝えている。[16] 
        また、AD1世紀の著作家Hyginusも、CadmusがEgyptからGreeceに文字をもたらしたと伝えている。[17] 
        BC4世紀の歴史家Callisthenesや、『Atticaの古代史』を書いたBC3世紀の歴史家Phanodemusは、AtheniansがEgyptのSaisの人々の先祖だと記している。[18] 
        また、BC1世紀の歴史家Diodorus Siculusは、AtheniansがEgyptのSaisから植民されたと記している。[19] 
        Saisから入植したAtheniansとは、初代Athens王Cecropsと共にEgyptからAttica地方へ移住して来た人々のことである。 
        そして、EgyptからAthensの町へalphabetをもたらしたのは、Cecropsであった。 
        Cecropsには「two-formed」という意味を持つDiphyesという呼び名があった。「2つの言葉を話す」という意味であった。[20] 
        Cecropsは、ギリシア語とPhoenician languageを話した。 
        Nile Deltaに住んでいたGreeceからの移民は、GreeceからEgyptへの航路の途中にあるPhoenicia地方と繋がりがあった。つぎの4つのことに両者の関係が見られる。 
        1) Cecropsの娘Herseは、Phoenicia地方のTyreの町へ嫁入りした。[21] 
        2) Agenorの子Phoenixは、Herseの後裔Oeneusの娘Perimedeを娶った。[22] 
        3) Agenorの子Phoenixは、Tyreの町の王であった。[23] 
        4) Egyptを追われたAgenorと彼の息子Cadmusは、Tyreの町の近くのSidonの町へ移住した。[24] 
      2.7 Athensでの文字による記録 
        Cecropsの後で、CranausがEgyptからAttica地方へ移住して来た。[25] 
        その後、Cranausの孫ErichthoniusがEgyptから移住して来て、第4代Athens王になった。[26] 
        Erichthoniusと共に移住して来たCranausの子Rharusは、Eleusisの町に住んだ。[27] 
        Rharusや彼の息子Celeusの後裔は、Eleusisの町の祭司であり、その町で、系譜や出来事が記録されたと考えられる。 
        Thessaly地方の系譜や出来事は、Cranausの娘と結婚したDeucalionの子Amphictyonや彼と共にAthensの町へ移住した人々から聴取して記録されたと思われる。[28] 
        しかし、Amphictyonは、ErichthoniusにAthensの町を追われたのであり、それ以前に聴取して記録したとも考えられる。[29] 
        あるいは、Amphictyonの後で、Erichthoniusの娘Creusaと結婚したHellenの子Xuthusや彼と共にAthensの町へ移住した人々から聴取して記録したと思われる。[30] 
      3 文芸活動の勃興 
        古代ギリシア人は文字を手に入れたが、読み書きのできる人は、祭司や書記官など、限られた人々であった。文字を読み書きする前に、Phoenician languageを知っている必要があった。 
        Boeotia地方のPtous山の女司祭は、Caria語で神託を告げたように、祭司は特別な能力を持った職業であった。[31] 
        文芸活動が盛んになったのは、ギリシア語で読み書きできるalphabetが発明されてからであった。 
      3.1 LinusによるPelasgic lettersの発明 
        AD2世紀の歴史家Tacitusは、Thebesの町のLinusによって文字が考案されたと伝えている。[32] 
        OrpheusやHomerの師Pronapidesの時代までPelasgic lettersが使われていたので、彼らより前の時代のLinusが考案した文字は、Pelasgic lettersであった。[33] 
        Linusは、Cadmusが持ち込んだPhoenician lettersをGreek languageに適用して、Pelasgic lettersを発明した。[34] 
        これによって、Phoenician languageを話す人々の特権であった文字の使用は、Greek languageを話す人々にも可能になった。 
        Dorians侵入前、ArgivesとAtheniansは同じ言葉、つまり、Pelasgic languageを話していた。[35] 
      3.2 Pelasgic lettersの使用の最初の事例 
        Pelasgic lettersの最初の使用者として確認されるのは、Pandionの子Lycusである。 
        Pausaniasは、Pandionの子LycusがMesseniansに与えた神託を記している。神託は、秘密の品物を守っていれば、土地を失っても、いつか回復するであろうというものであった。[36] 
        その秘密の品物とは、大女神の密儀が記された錫板(tin foil)であった。[37] 
        The Second Messenian Warのとき、Spartansに攻められたMesseniansは、大女神の密儀を記した錫板を青銅の壺に入れて、Ithome山中に埋めた。[38] 
        Messeniansが立て籠もっていたIthomeは陥落して、大女神の密儀の祭司たちはEleusisの町へ逃れた。[39] 
        BC371年、Leuctraの戦いでSpartansが敗れて、Messeniansが各地から戻り、Ithome山中に埋めた壺を掘り起こした。大女神の密儀の祭司たちは、密儀の式次第を書き写した。[40] 
        Pandionの子LycusがMesseniansのもとを訪れたのは、BC1277年であった。 
        Pandionの子Lycusは、LinusからPelasgic lettersを学び、それを使用して密儀の式次第を書いた。 
      3.3 Linusの年代推定 
        AD5世紀の神学者Jeromeは、LinusをCadmusの同時代人にしている。[41] 
        また、LinusはAmphionやZethusの同時代人だとする説もある。[42] 
        しかし、Linusが死んだとき、人々はLinusを哀悼し、それが最高潮に達していたときに、Pamphosが最古のAthenian hymnsを作ったと伝えられている。[43] 
        Pamphosは、Pandionの子Lycusの子Olenの同時代か、少し後の世代であった。[44] 
        Olenは、BC1255年、DelphiにApolloの神託所を開設した。[45] 
        以上のことから、Linusは、BC1320年頃の生まれと推定される。 
        Linusが生まれたのは、Antiopeの子Amphionが死に、Labdacusの子Laiusが、Thebes王に即位した頃であった。[46] 
      3.4 Linusの生涯 
        BC1320年、Linusは、AmphimarusとOuraniaの息子として、Thebesの町で生まれた。[47] 
        少なくとも、BC1205年にEphigoniによるThebes攻めで陥落するまで、Thebesの町には、Cadmusと共に移住して来たPhoeniciansが住んでいた。[48] 
        BC1285年、Linusは、Phoenician languageとPhoenician lettersを学んで、Pelasgic lettersを考案した。[49] 
        その後、LinusはThebesの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。[50] 
        BC1250年、Linusは死に、Chalcisの町に埋葬された。[51] 
        Chalcisの町は文芸の町になり、Hesiodが参加した競技会が催された。[52] 
      3.5 Trojan War時代前の詩人 
        3.5.1 Lycus 家 
        Lycusは、第8代Athens王Pandionの息子であった。[53] 
        BC1277年、Lycusは、義兄弟Aegeusに追われて、Athensの町からMessenia地方を経由してLycia地方へ移住した。[54] 
      3.5.1.1 Pandionの子Lycus (BC1305年生まれ) 
        Lycusは、Messenia地方のAreneの町のPerieresの子Aphareusを訪れ、Andaniaの町で密儀を執行した。[55] 
        Lycusは、大女神の密儀の式次第を記した錫板と、それを大事に守るようにという神託をMesseniansに残した。[56] 
        Lycusは、Athensの町を追われる前に、Linusから学んだPelasgic lettersを使用して、錫板に大女神の密儀の式次第を記した。 
      3.5.1.2 Lycusの子Olen (BC1280年生まれ) 
        Olenは、Lycia地方出身の叙事詩人であり、ギリシア人のために最古の賛歌を作った。[57] 
        Olenの父については伝えられていないが、Pandionの子Lycusと推定される。 
        BC1255年、Olenは、HyperboreansのPagasusやAgyieusと共に、DelphiにApolloの神託所を開設した。[58] 
        Olenは、Apolloの神託所で初めて予言を行ない、はじめて6脚韻詩で吟唱した。[59] 
      3.5.2 Philammon家 
        Philammonは、Thessaly地方のPhthiaの町のActorの子DaedalionとAttica地方のThoricusの町に住むDeion (or Pandion)の娘Philonisとの間の息子であった。[60] 
        Philammonの母方の祖父Pandionは、第8代Athens王であった。 
      3.5.2.1 Philonisの子Philammon (BC1287年生まれ) 
        BC1243年、Philammonは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会(the competition to sing the Pythian Apollon hymn)で勝利した。[61] 
      3.5.2.2 Philammonの子Thamyris (BC1267年生まれ) 
        Thamyrisは、PhilammonとOdrysaeanの娘Argiopeの息子であった。[62] 
        BC1239年、Thamyrisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会(the competition to sing the Pythian Apollon hymn)で勝利した。[63] 
        Thamyrisは、Chalcidice半島のAthos山付近を領していた。[64] 
        Thamyrisは、Odrysian、あるいは、Thracianと呼ばれた。[65] 
        Thamyrisは、最高の声と最も端正な歌い方をした。[66] 
        Thamyrisは、眼が不自由になったため、リュラ琴を捨てた。[67] 
      3.5.2.3 Thamyrisの子Musaeus (or Mousaios) (BC1245年生まれ) 
        抒情詩人Thamyrisの子Musaeusは、Thebesの町に住んでいた。[68] 
        Musaeusは、LycomidaeのためにDemeter賛歌を作った。[69] 
      3.5.3 Pierus家 
        Pierusは、Aeolusの子Magnesの子Pierusの子Linusの息子であった。[70] 
        Pierusの曾祖父Magnesは、Thessaly地方のArneの町からOlympus山近くへ移住した。[71] 
        Pierusの祖父Pierusは、Macedonia地方のPieriaの町の創設者であった。[72] 
      3.5.3.1 Linusの子Pierus (BC1275年生まれ) 
        BC1250年、Linusの子Pierusは、Pieriaの町からBoeotia地方のThespiaeの町へ移住した。[73] 
        Pierusは、Musesへの賛歌を最初に書いた。[74] 
        Pierusの後裔は、PieridesやPieriaeと呼ばれる詩人の家系になった。[75] 
        Pierusには、娘が9人いて、PierusはMusesの父になった。[76] 
      3.5.3.2 Pierusの子Oeagrus (BC1250年生まれ) 
        Pierusの子Oeagrusは、歌の競技で勝ったと伝えられており、彼も詩人であったと推定される。[77] 
      3.5.3.3 Oeagrusの子Orpheus (BC1229年生まれ) 
        Orpheusは、Olympus山麓のLeibethraの町で、OeagrusとKalliopeの息子として生まれた。[78] 
        OrpheusはCiconian、あるいは、Odrysianとも伝えられるが、男系で先祖を辿るとAeolisであった。[79] 
        Orpheusは、『系譜論』を書いた。[80] 
        Orpheusは、叙事詩人であり、Lycomidaeのために詩を作った。[81] 
        Lycomidaeは、Orpheusが作った賛歌を祭儀の際に歌った。[82] 
        Orpheusは、彼を慕う男たちが彼と共に集団で行動したため、息子や夫を奪われるのを恐れた女人たちによって、Diumの町で殺された。[83] 
        BC4世紀、Orpheus生誕の地Leibethraの町に糸杉で作ったOrpheusの像があった。[84] 
      3.5.4 Musaeus家 
        Orpheusの弟子Musaeusの先祖は、BC1415年にAttica地方に侵入して、Atheniansと戦い、Eleusisの町に定住したEumolpusであった。[85] 
        Musaeusは、そのEumolpusの子Ceryxの子Eumolpusの子Antiophemusの子Musaeusの子Eumolpusの息子であった。 
        Ceryxの子Eumolpusは、BC1352年にEleusisの町とAthensの町との戦いで、Thracia地方からEleusisの町の応援に駆け付けて、その後、Eleusisの町に定住した。[86] 
      3.5.4.1 Antiophemusの子Musaeus (BC1300年生まれ) 
        Musaeusは詩人であり、男子の神託語りであった。[87] 
      3.5.4.2 Musaeusの子Eumolpus (BC1270年生まれ) 
        Eumolpusは、叙事詩人で、Pythian 競技会で勝利した。EumolpusはOrpheusの弟子であった。[88] 
        Eumolpusは、初代Eumolposから5世代目であり、彼が入信式を発明した。[89] 
        Eumolpusは、Eumolpidaeの名祖になった。[90] 
      3.5.4.3 Eumolpusの子Musaeus (BC1245年生まれ) 
        Musaeusは、Eleusisの町で生まれた。[91] 
        Musaeusは、Orpheusの弟子であったが、彼より年上であった。[92] 
        Musaeusは、Orpheusを真似ていたため、Pythia祭で賛歌を歌う競技会(the competition to sing the Pythian Apollon hymn)には参加しなかった。[93] 
        Musaeusは、最初に『神統記』を書き、天球儀を作った。[94] 
        Musaeusは、万物は1から生じて、再び、1へと解体されると説いた。[95] 
        Musaeusは、Athensの町のPhalerumで死んだ。[96] 
      3.5.5 Carmanorの娘Chrysothemis (BC1268年生まれ) 
        Chrysothemisは、Crete島西南部のTarrhaの町に住むCarmanorの娘であった。[97] 
        BC1247年、Chrysothemisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会(the competition to sing the Pythian Apollon hymn)で勝利した。[98] 
      3.5.6 Naupliusの子Palamedes (BC1230年生まれ) 
        Palamedesの父Naupliusは、Argolis地方のNaupliaの町に住んでいた。[99] 
        BC1225年、Clytonaeusの子NaupliusはAchaeansに追われて、Euboea島のChalcisの町へ亡命した。[100] 
        このとき、Naupliusの子Palamedesも父と共にChalcisの町へ移住したと推定される。[101] 
        Palamedesは、Chalcisの町でPelasgic lettersを学んで、alphabetに新たな文字を追加した。[102] 
      3.6 Trojan War時代前の系譜が不明な詩人 
        3.6.1 Phemonoe (BC1280年生まれ) 
        Phemonoeは、DelphiのApolloの神託所の最初の女性予言者となり、初めて6脚韻詩で神託を吟唱した。[103] 
      3.6.2 Pamphos (BC1280年生まれ) 
        PamphosはAthenianであり、Lycomidaeのために詩を作った。[104] 
        Pamphosは、Olenより後に叙事詩を作った。[105] 
        Pamphosは、最古のAthenian hymnsを作ったが、Linus哀悼が最高潮に達していたときであったので、Pamphosは、「悲運のLinus 」(Oetolinus)と呼ばれた。[106] 
      3.6.3 Automedes (BC1260年生まれ) 
        Argosの町のAutomedesは、Demodocusの師匠であった。[107] 
      3.6.4 Perimedes (BC1260年生まれ) 
        Argosの町のPerimedesは、Demodocusの師匠であった。[108] 
      3.6.5 Demodocus (BC1240年生まれ) 
        Homerの『Odyssey』の中で、Demodocusは、Achaeansが木馬を使用した奇策でTroyを占領したと吟じている。[109] 
        Demodocusは、次の状況から、Homerの『Iliad』の原型の作者と推定される。 
        1) Demodocusは、Laconia地方の生まれであった。[110] 
        2) Demodocusは、Argosの町のAutomedesやPerimedesの弟子であった。[111] 
        3) Demodocusは、Pythian 競技会で賞を獲得した優れた詩人であった。[112] 
        4) Demodocusは、Mycenaeの町のAgamemnonに雇われた。[113] 
        5) Demodocusは、Corcyra島のAlcinousに雇われた。[114] 
        6) Troyから落ち延びたPriamの子Helenusは、Corcyra島のすぐ近くのButhrotumの町に住んでいた。[115] 
        7) Demodocusは、『Troyの破壊』を書いた。[116] 
        つまり、Demodocusは、Iliumでの戦いをHelenusから聞いて、Agamemnonを主人公にした物語を創作したと思われる。 
      3.6.6 Phemius (BC1230年生まれ) 
        Phemiusは、Homerの『Odyssey』に登場するIthacaのOdysseus家の吟誦詩人であった。[117] 
        Phemiusは、Terpesの息子で、Helenの求婚者としても登場する。[118] 
      3.6.7 Molusの子Dictys (BC1230年生まれ) 
        Dictysは、Minosの子Deucalionの子Idomeneusに同行して、Crete島からTroyへ遠征した。 
        Phoenician alphabetでTrojan Warの記録を全9巻に記した。 
      3.6.8 Corinnus (BC1220年生まれ) 
        Corinnusは、Palamedesの弟子であり、叙事詩を書いた。Corinnusは、Trojan Warの間に、Iliadを最初に書いた。Homerは、Corinnusの作品の構想を自分のものにした。[119] 
      3.7 Trojan War時代前の創作活動 
        3.7.1 Argonautsの遠征物語 
        3.7.1.1 英雄たちの遠征 
        BC1248年当時の有名人を参加させて、最初のArgonautsの遠征物語が書かれたと推定される。 
        系図を作成すると、遠征の参加者は同世代となり、他の史料から得られる系譜と矛盾しない。 
        現代に伝えられているArgonautsの遠征の参加者にMinyansはいない。 
        BC3世紀の叙事詩人Apollonius of Rhodesは、『Argonautica』をMinyansの英雄の物語にしているが、何故、Minyansが関係するか意味が分からなかったようだ。 
        Apolloniusは、Thessaly生まれのJasonを、Orchomenusの町のMinyasの娘Clymeneの娘Alcimedeの息子だからという理由で、Minyanだとしている。[120] 
        また、Apolloniusは、Colchis地方に住み、Minyansと血縁関係がないAthamasの子PhrixusをMinyansと呼んでいる。[121] 
        Apolloniusが勘違いしたのは、Phrixusの子Presbonの子ClymenusがMinyansの王になったからと思われる。[122] 
      3.7.1.2 Jasonの遠征 
        系図を作成すると、JasonとAeetesの娘Medeaとの結婚は、BC1268年頃と推定される。 
        この年、JasonはThessaly地方のIolcusの町に住むMinyansと共にColchis地方へ遠征した。[123] 
        その後、Jasonは、BC1247年から10年間、Corinthの町に住んだ。[124] 
        Argonautsの遠征物語の原作者は、この間に、Jasonから聞き取って、最初の叙事詩を完成させたと推定される。[125] 
        この叙事詩の登場人物は、JasonとColchis地方への航路を熟知しているMinyansだけであった。Jasonの遠征の参加者をMinyansというのは、これに由来する。 
      3.7.1.3 Cyzicus事件 
        BC1248年、Minyansの船がCyzicusの町に逗留した。 
        Cyzicusの町の支配者Aeneusの子Cyzicusは、彼らが先祖を追い出したThessaly地方の住人だと知って闇討ちしたが、逆襲されて、Cyzicusは戦死した。[126] 
        Cyzicusは、BC1390年にThessaly地方から追い出されたPelasgiansが名前を変えたDolionesに属していた。[127] 
        Cyzicusの妻Cleiteは、TroyのPriamの妻Arisbeの姉妹であり、CyzicusはPriamの義兄弟であった。[128] 
      3.7.1.4 英雄たちの遠征物語の完成時期 
        TroyのPriamの義兄弟が、Thessaly地方に住んでいたMinyansによって殺された事件は、当時のギリシア人に衝撃をもたらした。 
        Argonautsの遠征物語の原作者は、この事件と、それより20年前のJasonの遠征を題材に、事件当時の英雄たちを追加して物語を創作した。 
        この物語の完成時期は、JasonがCorinthの町に住んで、Corcyra島へ移住する前までの間、つまり、BC1247年からBC1237年までの間と推定される。[129] 
      3.7.2 Calydonの猪狩りの物語 
        3.7.2.1 最初の叙事詩 
        古代ギリシアの9歌唱詩人の一人に数えられるBC5世紀のBacchylidesは、Aetolia地方で起きたCuretesとAetoliansとの戦いを伝えている。[130] 
        その戦いとは、Aetolia地方のCalydonの町とPleuronの町との戦いである。[131] 
        英雄たちが追加されていない最初の叙事詩を書いたのは、その戦いを直接見聞した当時の詩人であった。 
      3.7.2.2 英雄たちを追加した物語 
        Argonautsの遠征物語で、Aegeusの子Theseusは、Troezenの町から遠征に参加している。[132] 
        Calydonの猪狩りの物語では、TheseusはAthensの町から参加している。[133] 
        この2つの出来事の間に、Theseusは、Troezenの町からAthensの町へ移住した。[134] 
        これらは史実と思われ、他の出来事と矛盾しない。 
        つまり、英雄たちを追加した2つの物語の原作者は同一人物で、Theseusの身近にいたと推定される。 
      3.7.3 2つの物語の比較 
        3.7.3.1 物語の登場人物 
        現存する史料に記されたArgonautsの遠征物語(Calydonの猪狩りの物語)への参加数は次の通りであった。 
        Thessaly 27(10)名、Argolis 9(1)名、Attica 6(3)名、Arcadia 4(4)名、Laconia 3(5)名、Eleia 3(3)名、Messenia 3(3)名、Achaia 3(0)名、Aetolia 3(12)名、Boeotia 2(2)名、Locris 2(0)名、Phocis 2(0)名、Asia Minor 2(0)名、Acarnania 1(1)名、Euboea 1(0)名、Thrace 1(0)名。 
        Argonautsの遠征物語の登場人物をCalydonの猪狩りの物語にそのまま登場させたのではなく、登場人物に増減がある。 
        つまり、2つの物語の原作者は、当時の事情をよく知っていた人物であった。 
      3.7.3.2 注目すべき人物 
        1) CastorとPolydeuces (Dioscuri) 
        2つの物語とも、Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesは、Lacedaemonから参加している。[135] 
        しかし、Dioscuriは、Aetolia地方で生まれた。彼らがSpartaの町へ移住したのは、HeraclesとHippocoonとの戦いの後であり、2つの出来事があったときは、Aetolia地方に住んでいた。 
        2つの物語の原作には、CastorとPolydeucesが登場していなかったか、出身地が記されていなかったものと思われる。 
        BC1115年、Lemnos島から追い出されたMinyansがLacedaemonへ逃げ込んで来たとき、Lacedaemoniansに受け入れられた。両者の先祖が、Argonautsであったというのが理由であった。[136] 
        この話が真実であれば、CastorとPolydeucesが登場するArgonautsの遠征物語は、BC1115年当時、広く知られていたことになる。 
        2) TalausとAmphiaraus 
        TalausとAmphiarausは、Argonautsの遠征の物語に登場するが、TalausはCalydonの猪狩りの物語に登場しない。[137] 
        Argosの町の内紛で、TalausはAmphiarausに殺され、Talausの子Adrastusは、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[138] 
        また、内紛の前のArgonautsの遠征物語にArgosの町から5名参加していたが、内紛後のCalydonの猪狩りの物語には、Amphiarausしか参加していない 
        この内紛は、2つの物語の間に起こったことで、原作者は、Argosの町の内紛を詳しく知っていたことになる。 
      3.7.4 歴史的事実 
        AD2世紀の著述家Apollodorosは、Argonautsの遠征とCalydonの猪狩りは、HeraclesがLydia地方にいた間の出来事だと伝えている。[138-1] 
        Heraclesは、3年間Lydia地方にいた。[138-2] 
        Argonautsの遠征の物語の原作者が着想を得た、Cyzicus事件は、BC1248年に起きた。 
        Calydonの猪狩りの物語の原作者が着想を得た、Aetolia地方の抗争は、BC1246年に起きた。 
        また、前者の物語にTroezenの町から、後者の物語にAthensの町から参加しているTheseusは、BC1247年に、Troezenの町からAthensの町へ移住した。 
        Cyzicus事件やAetolia地方の抗争の年代は、それらに関係する人物の系譜や、他の出来事と矛盾せず、史実と思われる。 
        Apollodorosの記述の引用元は不明であるが、Apollodorosが多くの引用をしているBC5世紀の歴史家Pherecydes of Athensではないかと推定される。 
      3.7.5 7将によるThebes攻めの物語 
        BC1215年、Talausの子Adrastusに率いられたArgivesによるThebes攻めがあった。[139] 
        この戦いの参加者は、当然、同時代人であり、系図を作成すると、矛盾はない。最初の物語のときから、登場人物は変わっていないと思われる。後世の詩人が、物語に同時代人を追加するのは至難の業である。 
        この戦いから10年後に、EpigoniによるThebes攻めがあり、Thebesの町が占領された。[140] 
        後者の戦いの方が、劇的な内容になると思われるが、断片的にしか戦いの様子を知ることができない。したがって、物語の成立時期は、BC1205年のEpigoniのThebes攻めの前であり、Argosの町の事情に詳しい人物が作者と推定される。 
      3.8 系譜の収集者 
        Trojan Warより前に書かれた叙事詩には、遠い先祖まで遡った系譜はなかったと思われる。 
        叙事詩とは別に、各地を旅して、伝承や古い記録を収集した人物がいたと推定される。 
        Linusがギリシア人に文字を与える前、各地に残っていた記録はPhoenician lettersで書かれていた。それらを書き留めるためには、Pelasgic lettersだけではなく、Phoenician lettersも知っていなければならなかった。この作業は、Phoeniciansの通訳を介して行うことは難しく、その人物はPhoenician languageの知識もあったと思われる。 
        その人物とは、『系譜論』を書いたOeagrusの子Orpheusであったと推定される。[141] 
        Pherecydes of Athensは、Athensの町でOrpheusの著作を集めて、『地生えの者たち(Earth-born Men)』全10巻を書いた。Orpheusが記した系譜を基にした著作であった。[142] 
        BC1世紀の歴史家Dionysius of Halicarnassusは、Athensの町のPherecydesを最高の系譜学者と認めていた。[143] 
        Orpheusの著作が保管されていたのは、Eleusisの町であった。 
        Pherecydesは、第 45 回Olympiadの頃に生まれたPherecydes of Syrosよりも前に生まれたと伝えられており、Orpheusの著作は、少なくともBC600年頃までは残存していたと思われる。 
        Eleusisの町のEumolpusの子Musaeusは、Orpheusの弟子であり、Orpheusの作品を真似ていた。[144] 
        MusaeusがOrpheusの著作を書き写して、Eleusisの町で保管されていたと思われる。 
        Orpheusの著作の一部は広く出回っていたが、PherecydesはOrpheusの著作を可能な限り収集して、自らの著作を完成させた。[145] 
      4 (特徴1)の検討 
        暗黒時代は、文字資料が少なく、その時代の様子が不明だという特徴がある。 
      4.1 短い開花期 
        ギリシア語を話す人々が自分たちの文字を取得してから、Greeceの大混乱期までの間に古代ギリシア人の文芸活動は急速に開花した。しかし、その期間は、100年もなかった。 
        大混乱期は、Trojan War時代に、ThraciansやPelasgiansがBoeotia地方へ、ThesprotiansがThessaly地方へ侵入して、住人を追い出したことから始まった。[146] 
        LinusがPelasgic lettersを発明してから大混乱期までは100年であったが、文字を習得して、文芸活動が活発になった期間は、もっと短かった。 
        その期間の詩人の名前も21名知られているが、1つの世代で見ると、7名ほどである。 
        現代まで名前が伝わっていない人々がいたとしても、極めて少人数であった。 
        それらの人々の弟子たちの多くも、大混乱に巻き込まれた。 
      4.2 文芸活動の縮小 
        4.2.1 年代不明の著者 
        AD2世紀の文法家NaucratisのAthenaeusの『Deipnosophistae』に引用された作品の著者数は、654名であった。その内、66名は時代不明であった。 
        Athenaeusに限らず、古代の詩人や著作家は、多くの先人の書き残したものを引用している。 
        その中に、暗黒時代の詩人や著作家がいても、私たちがそれを認識できないだけであろう。 
        叙事詩や物語に書かれた時代を判断するためには、重要な出来事や登場人物がヒントになる。 
        しかし、地域間の交流が活発でなかった暗黒時代には重要な出来事はなかったようである。 
        また、暗黒時代の系譜は途切れており、登場人物があっても、時代を特定することは困難である。 
        暗黒時代は、文字資料が少ないのではなく、私たちがそれを暗黒時代のものだと認識できないだけではないだろうか。 
      4.2.2 開花期の作品を題材にした著作 
        MusaeusがOrpheusを真似ていたように、暗黒時代の詩人や著作家は、先人の作品を基にして創作活動をしていたかもしれない。[147] 
        Trojan WarやArgonautsの遠征を題材にした作品も作られたと思われる。 
        それらの作品は、書き写されずに滅失したり、部分的に後代の作品に引用されて生き残ったりした。 
        BC1277年、Amphitryonは、Greece北西部のTeleboansの地へ遠征した。[148] 
        BC1237年、Amphitryonの子Heraclesは、Thesprotia地方のEphyraへ遠征した。[149] 
        この2つの遠征は、人々の大移動を生じさせた重要な出来事であり、それらの遠征を題材にした叙事詩があったと推定される。 
        それらの遠征があったことが、複数の史料に断片で残っている。[150] 
        それらの遠征を題材にした叙事詩は、後の作品の題材になったり、部分的に引用されたが、最初の作品は現代に伝わらなかった。 
      5 (特徴2)の検討 
        暗黒時代は、地域間の交流が少なく、人々の活動が沈滞していたという特徴がある。 
        大混乱期の前、つぎの例のように、古代ギリシア人は自由に旅をすることができた。 
        1) Aeolusの娘Melanippeは、彼女の息子Boeotusと共にItaly半島南部からThessaly地方のArneの町へ帰還した。[151] 
        2) Neleusの子Nestorは、Messenia地方のPylusの町からThessaly地方のTriccaの町のAsclepiusを訪問した。[152] 
        しかし、約150年続いた大混乱期の後で、土地を追われた人々が住む地方と、彼らを追い出した人々が住む地方が混在した。 
        ギリシア世界は、Thesprotians、Dorians、Cariansによって分断され、地域間の自由な交流は極端に制限された。 
      5.1 Thessalyの状況 
        BC1186年、Greece北西部に住んでいたThesprotiansがThessaly地方へ侵入して、住人を追放した。[153] 
        追放された人々は、Locris地方、Messenia地方やAthensの町へ移住した。[154] 
        Thermopylae近くのPhricium山へ逃れたAeoliansは、60年後、Asia Minorへ移住して、Cymeの町を創建した。[155] 
        また、Thessaly地方に住んでいた人々の一部は、penestai(農奴)となって住み続けた。[156] 
      5.2 Boeotiaの状況 
        BC1188年、Boeotiansは、ThraciansやPelasgiansに追われて、Thessaly地方のArneの町へ移住した。[157] 
        BC1126年、Thessaly地方のArneの町からBoeotiansが、Boeotia地方へ帰還した。[158] 
        Boeotiansは、Boeotia地方に住み着いていたThraciansやPelasgiansを追い出した。[159] 
        さらに、Boeotiansは、Cadmusの時代からThebesの町に住んでいたCadmeansを追い出した。[160] 
      5.3 Peloponnesusの状況 
        BC1112年、Heracleidaeに率いられたDoriansがDoris地方からPeloponnesus半島へ移住して、住人を追放した。[161] 
        Argolis地方やLaconia地方に住んでいたAchaeansは、Achaia地方へ移住した。[162] 
        Achaia地方に住んでいたIoniansは、Achaeansに追われて、Athensの町へ移住した。[163] 
        また、Messenia地方の住人もDoriansに追われて、Athensの町へ移住した。[164] 
        Eleia地方へは、215年前にAetolia地方へ移住した人々の後裔たちが移住して来た。[165] 
        Peloponnesus半島の中で、住人の移動がなかったのは、Arcadia地方のみであった。 
      5.4 Asia Minorの状況 
        BC1170年、Agamemnonの子Orestesが遠征隊を率いて、Asia Minorへの植民活動を開始した。[166] 
        Achaeansより遅れて、IoniansがAsia Minorへの植民活動を開始した。 
        BC1073年、Athensの町のCodrusの子Neileusは、最初の移民団を率いて、Miletusの町に入植した。[167] 
        AchaeansやIoniansによるAsia Minorへの大移動が終わったのは、BC1043年であった。[168] 
      5.5 Aegean Seaの状況 
        Trojan Warの後、Cariansが勢力を増して、Aegean Seaを支配した。Cariansは、Cyclades諸島の一部の島からCretansを追放し、一部の島ではCretansと共住した。[169] 
      6 (特徴3)の検討 
        暗黒時代の系譜には、約4世代の欠落があった。 
      6.1 医学の父Hippocratesの系譜 
        BC5世紀の歴史家Pherecydes of Athensは、Cos島生まれのHippocratesは、Heraclesから20代目だと伝えている。[170] 
        このHippocratesは、医学の父と呼ばれた、Heraclidesの子Hippocratesで、BC460年生まれと推定される。[171] 
        HippocratesがHeraclesから20代目だとすれば、世代間の平均は、40.75年となり、世代間の差が大き過ぎる。 
      6.2 世代数の算出方法 
        Pherecydesは、Hippocratesから系譜を遡ってHeraclesまでの世代数を数えたのではなく、つぎの方法で算出したと推定される。 
        Hippocratesは、Heraclesの子孫、Macedonia王Perdiccasと親交があった。[172] 
        Pherecydesは、Hippocratesの同時代人であるPerdiccasからHeraclesまで、つぎのような系譜を辿ったと思われる。 
        Perdiccasから上へ遡って、Perdiccas、Alexander、Amyntas、Alcetas、Aeropus、Philip、Argaeus、Perdiccas。[173] 
        さらに、上へ遡って、Tirimmus、Coenus、Caranus。[174] 
        さらに、上へ遡って、Pheidon、Aristodamis、Merops、Thestius、Cissius、Temenus、Aristomachus、Cleodaeus、Hyllus、Heracles。[175] 
        Perdiccasは、Heraclesから20代目の子孫になる。 
        しかし、Pausaniasは、Cissiusの子MedonもArgosの町の王になったと伝えている。[176] 
        Temenusの子Cissiusの子Medonの後に、4世代の欠落があったと思われる。 
        したがって、Hippocratesは、Heraclesから25代目であり、世代間の平均は、32.6年となる。 
        Herodotusは、3世代で100年として計算しているので、概ね妥当な数字である。[177] 
      6.3 欠落のある系譜の例 
        6.3.1 SpartaのLeonidas 
        HerodotusやPausaniasは、Thermopylaeで戦死したSparta王Leonidasの系譜をつぎのように伝えている。[178] 
        Leonidasから上へ遡って、Anaxandrides、Leon、Eurycrates、Anaxander、Eurycrates、Polydorus、Alcamenes、Teleclus、Archelaus、Agesilaus、Doryssus、Labotas、Echestratus、Agis、Eurysthenes、Aristodemus、Aristomachus、Cleodaeus、Hyllus、Heracles。 
        このLeonidasは、BC540年生まれと推定されるので、Heraclesから20世代目のLeotychidesまでの世代間の平均は、36.75年となり、世代間の差が少し大きい。 
        系譜に、4世代の欠落があるとすれば、世代間の平均は、30.63年となり、妥当である。 
        Agisは、Eurysthenesの息子ではなく、彼らの間には、4世代の欠落があると推定される。 
      6.3.2 Patraeの創建者Patreus 
        Pausaniasは、Achaia地方にPatraeの町を創建したPatreusの系譜をつぎのように伝えている。[179] 
        Patreusから上へ遡って、Preugenes、Agenor、Areus、Ampyx、Pelias、Aeginetes、Dereites、Harpalus、Amyclas、Lacedaemon。 
        また、Pausaniasは、Eurysthenesの子Agisの時代にPatreusがPatraeの町を創建したと伝えている。[180] 
        Heraclesは、Amyclasの子Cynortasの子Oebalusの子Hippocoonと同時代であり、Pausaniasが記す系譜では、Aeginetesと同時代である。 
        PatreusはAeginetesから6世代目であり、Leonidasの系譜でのAgisがHeraclesから6世代目と合致する。 
        Leonidasの系譜と同じく、Patreusの系譜にも4世代の欠落があると推定される。 
        Patreusの系譜で、Lacedaemonの子AmyclasとPatreusの父Preugenesの間の7人の名前は、他の系譜に登場せず、適当に付けられた名前かもしれない。 
        そのような系譜の例として、つぎの系譜がある。 
        1) Lydia王が、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronの後裔だとするもの。[181] 
        Heraclesの後の4人の名前は、他の系譜に登場せず、適当に付けられた名前と思われる。 
        2) Homerが、Oeagrusの子Orpheusの子Dresの子Eukleesの子Idmonidesの子Philoterpesの子Euphemusの子Epiphradesの子Melanopusの子Apellesの子Maionの息子だとするもの。[182] 
        OrpheusとMelanopusの間の6人の名前は、他の系譜に登場せず、適当に付けられた名前と思われる。 
      6.3.3 SpartaのLeotychides 
        Herodotusが記しているXerxesのGreece侵攻時に海軍の指揮を執ったLeotychidesの系譜にも欠落がある。[183] 
        Leotychidesは、EurypontidaeのSparta王であった。[184] 
        Leotychidesの系譜には、Leonidasの系譜と同様に4世代の欠落があると推定される。 
      6.4 欠落のない系譜 
        暗黒時代に、欠落のない系譜が2つだけ存在する。それは、Athensの町とCorinthの町の系譜である。 
      6.4.1 Athens 
        BC2世紀の年代記作者Castorが伝えているAtheniansの王やarchonの系譜を基にして、他の系譜に欠落があるかを判断しているので、Athensの町の系譜に欠落があるかは不明である。 
        しかし、Athensの町の系譜を基準にして、他の系譜や出来事を判断したが、矛盾はない。 
        したがって、Athensの町の系譜に欠落はないと推定される。 
      6.4.2 Corinth 
        Heracleidaeに率いられたDoriansがPeloponnesus半島へ移住する前、Corinthの町にはAeolisが住んでいた。[185] 
        Heracleidaeの一人、Hippotasの子Aletesは、Achaia地方のGonussaの町のAntasusの子Melasと共にCorinthの町を攻略した。[186] 
        Corinthの町の住人は、Doriansによって追い出されたが、町を支配していたPropodasの2人の息子たち、DoridasとHyanthidasは、AletesやMelasと共住した。[187] 
        Corinthの町の支配者になったAletesの継承者たちの系譜に欠落はない。 
        それは、Athensの町と同様に文字を知っていた人々がCorinthの町に住み続けていたことが原因と思われる。 
        Corinthの町は、Athensの町とつぎのように繋がりがあった。 
        1) Marathonの子Corinthus 
        Epopeusの子Marathonは、Aegialeia (後のSicyon)の町からAthensの町へ移住して、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚して、2人の息子たち、SicyonとCorinthusが生まれた。[188] 
        Corinthusは、Athensの町からEphyraeaの町へ移住して、町はCorinthと呼ばれるようになった。[189] 
        2) Hippotasの子Aletes 
        Aletesの父Hippotasは、HeracleidaeがPeloponnesusへ帰還する直前に、預言者Carnusを殺したため、10年間の追放処分を受けた。[190] 
        その間、Hippotasは息子Aletesと共に、Athensの町に住んでいたと思われる。 
        Hippotasの父Phylasの父Antiochusは、Athensの町の10部族のひとつAntiochisの名祖であった。[191] 
        3) Antasusの子Melas 
        Melasは、Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの後裔であり、Sicyonの母は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[192] 
      6.5 欠落の原因 
        6.5.1 欠落より前の系譜 
        欠落が生じる直前の系譜は、DoriansがPeloponnesusへ侵入した時代のものである。 
        この時の出来事を記述した物語や、多くの叙事詩にそれらの系譜が記されていたと思われる。 
      6.5.2 欠落した系譜 
        文字を知らないThesprotiansが占拠したThessaly地方や、Doriansが支配者になったArgolis地方、Laconia地方、Messenia地方の系譜は、記録されなかったとしても不思議ではない。 
        しかし、住人の移動のなかったArcadia地方の系譜も欠落している。 
        この原因は、欠落より前のArcadia地方の系譜は、Arcadia地方以外のところで記録されていたからと思われる。 
      6.5.3 欠落より後の系譜 
        BC10世紀後期に活動していた人物から系譜が復活する。 
        この頃、地域間の交流が活発になり文字の読み書きのできる人物が各地に誕生したと思われる。 
        あるいは、各地を旅する詩人によって、系譜が語られたのかもしれない。 
      7 暗黒時代の終わり 
        7.1 Peloponnesus 
        Arcadia王Simusの子Pompusは、Aeginetansと交易していた。Pompusは、Aeginetansとの友好の印として、自分の息子にAeginetesという名前をつけた。[193] 
        Pompusは、DoriansがPeloponnesus侵入した時のArcadia王Cypselusの後裔であった。[194] 
        系図を作成すると、Pompusの子Aeginetesが生まれたのは、BC855年である。 
        Peloponnesus中央部のArcadiansとAeginetansの交易は、それ以前に始まっていた。 
        Aeginetansが沿海地方を対象にした交易が活発になったのは、BC10世紀後期と推定される。 
        AeginetanのLaodamasの子Sostratusが富を築いたのも、交易によってであった。[195] 
      7.2 Asia Minor 
        Aeolis地方のCymeの町は、他の町に遅れて、創建後、300年経過してから港の使用料を徴収するようになった。[196] 
        Cyme創建は、BC1126年であった。[Strabo.13.1.3] 
        したがって、Cymeの町が港の使用料を取立てることにしたのは、BC826年と推定される。 
        その頃、既に海運が発達して、Cymeの町の近くのPhocaeaの町の港などは往来する船で賑わっていた。[198] 
        この頃、海運が発達したことを示す2つの出来事がある。 
      7.2.1 PhocaeaのIonian League加盟 
        Phocaeaの町はPhocis地方の人々が、Locris地方から入植したCymeの町の近くに創建した町であった。[199] 
        2つの町の住人は、移住前の居住地が隣接して、故郷を同じくする人々であった。 
        しかし、海運が発達すると、良港を持つ2つの町は敵対するようになった。[200] 
        Phocaeaの町は、Athens王Codrusの後裔を王に迎えて、Ionian Leagueへ加盟した。[201] 
      7.2.2 Smyrnaの創建 
        Ephesusの町のSmyrna地区の住人は、Meles川の近くにSmyrnaの町を創建した。[202] 
        Smyrnaの町は、Chios島の対岸にあるMimas半島の北の付け根に位置していた。 
        Ephesusの町は、Mimas半島の南の付け根に位置していた。 
        海運が発達し、Troad地方やAeolis地方と交易をしていたEphesiansが、Mimas半島を大きく迂回しなくてもいいように、Smyrnaの町を創建したと思われる。 
      8 まとめ 
        古代ギリシア人が自分たちの文字を考案して、その文字を使用して多くの物語や叙事詩を書き上げた。しかし、それは少人数により、短期間で行われた。 
        人々の大移動があり、追い出した人々の住む地域と追い出された人々の住む地域との間の交流は途絶えた。 
        数世代経過して、地域間の敵対感情が薄れた頃、交流が活発になり、文芸活動も活発になった。 
      おわり  |