第26章 テッサリア地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.5.7, Update:2026.2.15

1 はじめに
1.1 最初のギリシア人
BC1750年、パルナッソス山近くのケピソス川で大規模かつ長期にわたる洪水が発生した。ケピソス川の上流に住んでいたエクテネスは、オギュゴスに率いられてボイオティア地方へ移住した。[1]
BC1580年、エクテネスは、ヒュアンテスなどによって圧迫されて、ボイオティア地方から各地へ移住した。[2]
エクテネスの一部の人々は、ヘレンの父デウカリオーンの祖父に率いられて、ボイオティア地方からテッサリア地方へ移住した。彼らは、テッサリア地方に最初に住んだギリシア人であった。

1.2 テッサリアの名称
テッサリアの名前は、デウカリオーンの子ヘレンと同時代のハイモンの子テッサロスの名前に因む、とストラボンは記している。また、ストラボンは、異説として、テスプロティア地方からテッサリア地方へ攻めて来たヘラクレスの子テッサロスの息子たち、アンティパスとペイディッポスの子孫が、先祖の名前に因んで、テッサリアと名付けたとも記している。[2-1]

1.2.1 ストラボン説の否定
ヘレンとテッサロスは、同時代であることから、ハイモンは、アルゴスの町からテッサリア地方へ移住したラリッサの子ペラスゴスの息子と推定される。[2-2]
ラリッサがアルゴスの町からテッサリア地方へ率いて来たのは、ペラスゴイ人であった。
ペラスゴスは、ペネイオス川近くのペラスギオティスに住んでいた。[2-3]
ハイモンの子テッサロスや彼の後裔の支配地域は、テッサリア地方全域に及ぶことはなく、BC1390年、ペラスゴイ人は、テッサリア地方から追放された。[2-4]
テッサリア地方の一部で、ペラスゴイ人が使用していた名称を、彼らを追放したデウカリオーンの後裔たちが使い続けていたとは、思われない。

1.2.2 異説の否定
テスプロティア人がテッサリア地方を占領したのは、トロイ戦争時代であった。
アンティパスとペイディッポスは、トロイ遠征物語に登場する。[2-5]
つまり、テスプロティア人がテッサリア地方へ攻め込んだのは、アンティパスとペイディッポスの子孫の時代より前であった。
また、アンティパスとペイディッポスは、小アジアのコス島に住んでいた。[2-6]
アンティパスがトロイからの帰還途中に漂流して、テッサリア地方を手に入れたという伝承もある。[2-7]
しかし、コス島に住んでいたアンティパスとペイディッポスを、テスプロティア人と結び付けることはできない。

1.2.3 推論
BC1世紀の歴史家マルクス・ウェッレイウス・パテルクルスは、テッサロス率いるテスプロティア人が、ミュルミドン族の州を占領して、その地方は、テッサリアと呼ばれるようになったと記している。[2-8]
AD2世紀の著述家ポリュアイノスは、テッサリアは、ペイディッポスの子アイアトスの子テッサロスの名前に因んで、名付けられたと記している。[2-9]
アイアトスやテッサロスは、テッサリア地方のアルネの町に住むボイオティア人と戦っていた。[2-10]
スーダ辞典は、アルネの町のボイオティア人が、ハイモンとの戦いに敗れた後、3代目まで、アルネの町に住んでいたと伝えている。[2-11]
つまり、ハイモンは、テッサロスの父アイアトスの父ペイディッポスの父と推定される。
テッサロスがアルネの町にペネスタイとして残っていたボイオティア人を追放した後、彼が治める地方が、テッサリアと呼ばれるようになったと思われる。[2-12]
テッサロスの子ネッソンは、ラリッサの町の近くの湖に、彼の名前を与えた。[2-13]
ネッソンの時代には、より広い地方が、テッサリアと呼ばれるようになったと推定される。
ネッソンは、ヘラクレスの後裔であった。[2-14]
ラリッサの町のアレウアダイは、ネッソンの後裔と思われる。[2-15]

2 アルゴスからの移住
BC1560年、アルゴスの町の住人であるペラスゴイ人は、トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサの一家に率いられて、テッサリア地方へ移住した。[3]
移住先は、テッサリア地方北部のペネイオス川からパガサイ湾西岸に至る地域であった。[4]

2.1 ラリッサの創建
ペラスゴイ人は、ペネイオス川近くに人々を集めて町を作った。[5]
最初、町はアルゴスと呼ばれていたが、ラリッサの子ペラスゴスが母の名前に因んで、ラリッサの町と呼ぶようになった。[6]
ラリッサの町は、テッサリア地方最古の町であった。
また、パガサイ湾南西のオトリュス山近くにあるラリッサ クレマステも同じ頃の創建と思われる。このラリッサも、ペラスゴスの娘ラリッサの名前に因んで名付けられたという。[7]

2.2 ペラスゴイ人の居住地
ラリッサの3人の息子たち、ペラスゴス、アカイオス、プティオスは、それぞれ分かれて居住した。
ペラスゴスは、ペネイオス川近くのペラスギオティスに住んだ。
アカイオスは、パガサイ湾とマリア湾の間のアカイアに住んだ。
プティオスは、メリタイアの町とペラスギオティスの間のプティオティスに住んだ。[8]

3 デウカリオーンの時代
BC1540年、デウカリオーンは、テッサリア地方北部を流れるペネイオス川へ南から流れ込むエニペウス川の源流付近に、ピュラ (後のメリタイア)の町を創建した。[9]
デウカリオーンはピュラと結婚して、2人の息子たち、ヘレンとアンピクテュオンが生まれた。[10]

3.1 洪水の発生時期
アテナイ王がケクロプスからクラナオスに変わった年に「デウカリオーンの時代の洪水」が発生した。[11]
BC2世紀の年代記作者カストールが伝えているアテナイ王の一覧によれば、ケクロプスからクラナオスに代わった年は、BC1511年となる。[12]

3.2 洪水の発生
BC1511年、テッサリア地方北部を震源とする直下型の大地震が発生した。テンペと呼ばれる山々が裂けてテンペ渓谷ができ、沼の水がペネイオス川に流れ込んで沼地がなくなり、ドティオンという平原になった。ペネイオス川は増水し、その川の支流の上流でも洪水が発生した。[13]

3.3 洪水による影響
3.3.1 ペラスゴイ人
ラリッサの子ペラスゴスは、それまでの沼地が平原になって喜んで祭りを催し、それがペロリア祭の起源となった。[14]

3.3.2 デウカリオーン一家
洪水に襲われたデウカリオーンは、ヘレンやアンピクテュオンと共に、アテナイの町へ避難した。
デウカリオーンは、アテナイの町で死に、ヘレンは、テッサリア地方へ帰還した。[15]
アンピクテュオンは、クラナオスの娘と結婚した。[16]

4 デウカリオーンの子ヘレンの時代
ヘレンは、デウカリオーンの跡を継いでピュラの町を治め、その地方の人々はヘレネス、または、ヘラスと呼ばれるようになった。[17]
ヘレンはオルセイスと結婚して、3人の息子たち、アイオロス、ドロス、クストスが生まれた。[18]
また、ヘレンのもう一人の妻オトレイスとの間には、2人の息子たち、パグロスとメリテウスが生まれた。[19]

4.1 アンピクテュオンのアテナイ王即位
BC1502年、アンピクテュオンは、クラナオスを追放して、第3代アテナイ王に即位した。[20]
BC1492年、アンピクテュオンは、エジプトから移住して来たクラナオスの娘アッティスの子エリクトニオス (または、エレクテウス)によって、アテナイの町から追放された。[21]

4.2 メリタイアの創建
BC1495年、ヘレンの子メリテウスは、ピュラの町のすぐ近くにメリタイアの町を創建した。[22]

5 ヘレンの子アイオロスの時代
ヘレンの跡を彼の長男アイオロスが継いだ。[23]
アイオロスには息子たち、ミマス、ヒュプセウス、シシュッポス、アタマス、クレテウスが生まれた。[24]

5.1 ドドナの神託所
BC1480年、ハイモンの子テッサロスは、スコトッサの町からドドナに神託所を移して、神殿を建立した。[25]
この引越しには町のほとんどの女たちが同行し、ドドナの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[26]
ハイモンは、ラリッサの子ペラスゴスの息子と推定される。[27]

5.2 アッティカへの移住
BC1470年、アイオロスとドロスは、彼らの兄弟クストスをメリタイアの町から追放した。クストスは、アッティカ地方へ移住して、第4代アテナイ王エレクテウスの娘クレウサと結婚した。 [28]
BC1442年、クストスは、ペロポネソス半島北部のアイギアロス (後のアカイア)地方へ移住した。
エレクテウスの死後、クストスは人口の増えたアッティカ地方から人々を率いて新天地を求めたものと思われる。[29]

5.3 ドロスの移住
BC1460年、ドロスは、メリタイアの町からエニペウス川を下り、ペネイオス川の北側の土地へ移住した。[30]
ドロスが住む地方はドーリス (後のヒスティアイオティスの一部)、住人はドーリス人と呼ばれるようになった。[31]

6 アイオロスの子ミマスと、ミマスの子ヒッポテスの時代
6.1 空白時代
デウカリオーンの子ヘレンの子アイオロスの後の2世代の系譜は殆ど伝えられていない。
ディオドロスのみが、アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの子アイオロスの系譜を伝えている。[32]
ミマスの子ヒッポテスの時代は、ギリシアにフェニキア文字をもたらしたカドモスの渡来があった。ヒッポテスの子アイオロスの系譜については、詳細に伝えられている。
デウカリオーンやヘレンの系譜が伝えられているのは、デウカリオーンの子アンピクテュオンやヘレンの子クストスがアテナイ王の娘との結婚が原因であり、アテナイの町で記録されていたと推定される。もし彼らの結婚がなければ、デウカリオーンの系譜は、ヒッポテスの子アイオロスから始まっていたと思われる。

6.2 支族の誕生
ミマスやヒッポテスの息子は、一人だけではなく、他にも多くの息子たちがいたはずである。
その息子たちから、アイニアネス人やペッライボイ人が誕生したと思われる。
アイニアネス人やペッライボイ人は、隣保同盟の一員になっており、後に、アイオリスと共にテッサリア地方からペラスゴイ人を追放している。
アイニアネス人やペッライボイ人もデウカリオーンの後裔であったと推定される。[33]

6.3 クストスの子アカイオスの帰還
BC1435年、クストスの子アカイオスがアテナイ人を味方にして、アイギアロスの町からメリタイアの町へ帰還した。[34]

6.4 アルネの創建
クストスを追放したアイオロスの跡を継いだのは、彼の息子ミマスであった。[35]
BC1435年、ミマスは、アカイオスによって追い出されて、メリタイアの町から北西へ約50kmのコラリオス川の近くに移住して、アルネの町を創建した。[36]

6.5 カドモスやトラキア人の通過
BC1420年、カドモスやトラキア人の大集団がトラキア地方から南下して、テッサリア地方を通過した。[37]

6.5.1 ヘレンの子ドロスの移住
ドーリス地方に住んでいたドロスは、ドーリス人を率いて南へ移動し、ギリシア中部のオイタ山とパルナッソス山の間へ移住した。[38]
その地方は、後に、ドーリスと呼ばれるようになった。[39]
ドーリス人の一部は、ドロスと共に移住しないで、ペネイオス川の近くに残留した。
彼らの首領は、ドロスの子テクタモスの子ペネイオスであった。ペネイオスは、居住地を流れる川に彼の名前を与えた。[40]

6.5.2 アイオロスの子クレテウスの移住
クレテウスも彼の叔父ドロスと共に、パルナッソス山の近くへ移住し、そこから、彼の従兄弟ドロスの子テクタモスと共にクレタ島へ移住した。テクタモスの移民団には、ドーリス人やペラスゴイ人が含まれていたが、クレテウスはアイオリス人を率いていた。[41]

6.5.3 アカイオスの再移住
クストスの子アカイオスと彼の2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、メリタイアの町からアイギアロスの町へ戻った。[42]
アカイオスには、後に、シキュオンの町の東側にエピュラ (後のコリントス)の町を創建するシシュッポスも同行したと推定される。シシュッポスは、アカイオスの従兄弟であった。

6.6 ハロスの創建
BC1415年、アタマスは、アルネの町からパガサイ湾西岸に移住して、ハロスの町を創建した。[43]

6.7 エレウシスへの移住
BC1415年、エウモルポスがアッティカ地方に攻め込んで、エレウシスの町に定住した。[44]
ストラボンは、エウモルポスがトラキア人だと記しているが、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人であったと思われる。[45]
エレウシスの町には、BC1561年にアルゴスの町から移住した密儀祭司トロキロスの後裔が住んでいた。祭儀の執行をめぐって、エレウシスの町とアテナイの町との間に、争いがあったと推定される。[46]
トロキロスは、トリオパスの子アゲノールとの争いが原因で、アルゴスの町を去っているため、エレウシスの町の人々は、アルゴスの町を頼ることはできなかった。エレウシス人は、アゲノールの兄弟ペラスゴスの娘ラリッサの後裔に応援要請したと推定される。[47]

7 ヒッポテスの子アイオロスの時代
ヒッポテスの跡を彼の息子アイオロスが継いだ。[48]
アイオロスには、5人の妻たちから、少なくとも10人の息子たちと、3人の娘たちが生まれた。
彼の妻たちの名前は、エナレテ、プロトゲニア、テュイア、スティルベ、それにイピス (または、イピュス)であった。[49]
彼の息子たちの名前は、アンドレウス (または、ミニュアス)、デイオン (または、デイオン, デイオネオス)、マカレウス、アイトリオス、ペリエレス、マケドン、マグネス、ラピテス (または、ラピトス)、サルモネオス、それにクレテウスであった。
彼の娘たちの名前は、メラニッペ (または、アルネ, アンティオパ)、カリュケ、それにカナケであった。[50]

7.1 文字の普及
アイオロスの父ヒッポテスやヒッポテスの父ミマスの系譜は、不明である。
アイオロスの系譜が詳細に残っているのは、彼の時代に、カドモスがフェニキア文字をギリシアにもたらしたからであると思われる。[51]
しかし、どこで、どのような縁があって、文字で記録できる人物が、ヒッポテスの子アイオロス以降の系譜を記したのかは不明である。

7.2 イトノスの創建
BC1392年、アンピクテュオンの子イトノスは、ロクリス地方からテッサリア地方へ移住して、アタマスが創建したハロスの町の近くにイトノスの町を創建した。[52]
アタマスは、ヘレンの子アイオロスの息子であり、イトノスは、ヘレンの子ドロスの子デウカリオーンの子アンピクテュオンの息子であった。
つまり、イトノスは、彼の祖父の従兄弟アタマスを頼って、移住した。

7.3 大津波の襲来
BC1390年、クレタ島の北方約110kmにあるカリステ (後のテラ、現在のサントリニ)島で大規模な噴火があり、エーゲ海で大津波が発生した。その津波は、テッサリア地方の東海岸や、パガサイ湾の岸辺の町を襲った。[53]

7.3.1 ボイオティアへの移住
パガサイ湾西岸のハロスの町は津波で洗い流され、アイオロスの子アタマスはボイオティア地方へ移住した。[54]
アタマスは、コパイス湖の東側の平野に、アクライピオン (または、アクライピオン)の町を創建した。[55]

7.3.2 イタリアへの移住
津波は、テッサリア地方の東海岸に住むペラスゴイ人を襲い、彼らはイトノスの町を襲撃した。
イトノスの妻メラニッペはペラスゴイ人のディオスに連れ去られた。[57]
ディオスはメラニッペを連れてイタリア半島南部のメタポンティオンの町へ移住した。[58]
メラニッペはアルネの町のヒッポテスの子アイオロスの娘であった。[59]

7.3.3 ペラスゴイ人の追放
イトノスの父アンピクテュオンは、ロクリス地方のテルモピュライ近くのアンテラの町に住み、付近一帯のドーリス人の王であった。[60]
アンピクテュオンは、メラニッペの父アイオロスと共に同族を結集して、ペラスゴイ人をテッサリア地方から追放した。[61]
メラニッペの父アイオロスは、アンピクテュオンの父デウカリオーンの父ドロスの兄弟アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの息子であった。つまり、彼らは、ヘレネスとして、同族であった。
アンピクテュオンが集めた集団は、後に、アルゴスの町のアクリシオスによって、隣保同盟として組織化された。[62]

7.3.4 プティアへの移住
ペラスゴイ人が退去した土地に、アンピクテュオンの兄弟プロノオスがロクリス地方から移住して来た。[63]
プロノオスの子ヘレンの子ネオノスの子ドトスは、ドティオン平原の名付け親になった。[64]

7.3.5 ペロポネソスへの移住
アイオロスの3人の息子たち、アイトリオス、マカレウス、ペリエレスは、アルネの町からペロポネソス北西部のオレノスの町へ移住した。[65]
オレノスの町は、彼らの移住より20年前に、ダナオスの娘アナクシテアの子オレノスによって創建された町であった。[66]
オレノスには、彼とダナオスの娘ヒッポダミアの娘との間に生まれた2人の娘たち、アイクスとヘリケがいた。[67]
恐らく、ペリエレスはオレノスの娘と結婚して、オレノスの町を継承したと思われる。
ペリエレスには息子ピソスが生まれた。[68]
BC1390年、アイトリオスはオレノスの町から南へ移住して、エリスの町を創建した。[69]
BC1389年、マカレウスは植民団を率いて、ペラスギア (後のレスボス)島へ移住した。[70]
BC1345年、ペリエレスの子ピソスはオレノスの町からオリュンピアの町の近くへ移住して、アルペイオス川のほとりにピサの町を創建した。[71]

7.3.6 ドリュオピスへの移住
ヘレンの子ドロスがドーリス地方からパルナッソス山の近くへ移住した後も、ドロスの娘イプチメ一家は、ドーリス地方に残っていた。[72]
彼らは、イプチメの父の移住先の近くのスペルケイオス川近くに移住した。[73]
イプチメの息子とダナオスの娘ポリュドレとの息子ドリュオプスの娘ドリュオペの子アンピッソスは、オイタ山の近くにオイタの町を創建し、彼らはドリュオペス (または、ドリュオプス人)と呼ばれた。[74]

7.3.7 ロドスからの移住
デウカリオーンの息子たちに加勢して、ペラスゴイ人をテッサリア地方から追放したロドスの子トリオパスは、ドティオンを獲得した。[74-1]

7.3.8 カリアへの移住
BC1388年、トリオパスは、デメテルの聖地で伐採した木を使って宮殿を建てたため、先住民によって追放された。[74-2]
ドティオン近くのスコトッサの町に神聖な木のある聖地があり、トリオパスは、スコトッサの町に住んでいたと思われる。[74-3]
トリオパスは、テッサリア地方からカリア地方へ移住して、トリオピオン(または、トリオピア)の町を創建した。[74-4]
トリオピオンの町は、後のクニドスの町の外れの岬にあった。[74-5]

7.4 トリッカの創建
BC1385年、ペネイオスの娘トリッカの夫は、ペネイオス川の左岸に町を建設して、妻の名前に因んで、トリッカの町と呼ばせた。[75]
恐らく、トリッカの夫はドーリス人で、ドーリス地方から西へ居住地を広げたと推定される。

7.5 ボイオティアへの移住
BC1380年、アイオロスの子アンドレウスは、ボイオティア地方へ移住して、アンドレイス(後のオルコメノス)の町を創建した。[75-1]

7.6 アイオロスの養子エポペウス
アイオロスの跡を、彼の娘メラニッペの子ボイオトスが継いでおり、アイオロスの跡を継ぐ息子はいなかった。[76]
BC1375年、アイオロスは自分の跡継ぎにするために、シキュオンの町からアロエウスの息子エポペウスを養子に迎えた。[77]
アイオロスはエポペウスの母カナケの父であり、エポペウスは彼の孫であった。[78]

8 アイオロスの娘メラニッペの子ボイオトスの時代
8.1 ボイオトスの帰還
ペラスゴイ人によって拉致されたメラニッペは、イタリア半島南部のメタポンティオンの町まで連れて行かれ、その地で、2人の息子たち、アイオロスとボイオトスを産んだ。[79]
BC1370年、ボイオトスは、母メラニッペと共にイタリアからテッサリア地方のアルネの町へ帰還して、祖父アイオロスの跡を継いだ。[80]
アロエウスの子エポペウスは、シキュオンの町へ帰還した。[81]

8.2 ラピタイの誕生
BC1365年、アイオロスの子ラピテスは、アルネの町からペネイオス川の北側の地へ移住した。
ラピテスの一族は、ラピタイと呼ばれるようになった。[82]
ラピタイの発祥地は、ラリッサの町の西側、ドーリス地方の東側にあったと推定される。[83]

8.3 ポキスへの移住
BC1365年、アイオロスの子デイオンは、アルネの町から、ポキス地方へ移住した。[83-1]
デイオンの定住地は、不明であるが、後に、デイオンの子ピュラコスが、オルコメノスの町から妻を迎えていることから、ボイオティア地方に近い所と思われる。[83-2]

8.4 ラケダイモンへの嫁入り
BC1351年、ラピテスの娘ディオメデは、ラコニア地方のアミュクライの町に住む、ラケダイモンの子アミュクラスへ嫁いだ。[84]
テッサリア地方とラコニア地方の遠距離婚は、つぎのようにして成立したと推定される。
テッサリア地方の部族を含む隣保同盟をアルゴスの町のアクリシオスが組織化した。[85]
そのときに、アクリシオスは、アイオロスの子ラピテスと知合い、縁組みを仲介したものと思われる。アミュクラスは、アクリシオスの妻エウリュディケの弟であった。[86]

8.5 マケドニアへの移住
BC1350年、アイオロスの子マグネスは、兄弟マケドンと共に、アルネの町からオリュンポス山近くへ移住した。[86-1]

8.6 イオルコスの創建
BC1350年、アイオロスの子クレテウスは、アルネの町からパガサイ湾北岸へ移住して、イオルコスの町を創建した。[86-2]

8.7 エレイアへの移住
BC1335年、アイオロスの子サルモネオスは、アルネの町からエレイア地方へ移住して、サルモネの町を創建した。[87]
サルモネの町は、エリスの町とピサの町のほぼ中間にあった。
エリスの町の創建者は、彼の異母兄弟アイトリオスであり、ピサの町の創建者は、彼の甥ピソスであった。[88]

8.8 グラピュライの創建
BC1330年、アイオロスの子マグネスの子グラピュロスは、オリュンポス山の近くからボイベイス湖の近くへ移住して、グラピュライの町を創建した。[89]

9 ボイオトスの子イトノスの時代
9.1 アンピオンとゼトスへの加勢
BC1325年、アンピオンとゼトスはカドメイア (後のテバイ)の町のヒュリエウスの子リュコスを攻めて、町を占領した。[90]
この戦いには、ゼトスの妻テーベの兄弟ロクルスも加勢したが、アルネの町のボイオトスの子イトノスも加勢したと推定される。[91]
イトノスは、ロクルスの父ピュスキウスの兄弟イトノスの妻メラニッペの子ボイオトスの息子であった。つまり、ロクルスは、イトノスの父ボイオトスの従兄弟であった。

9.2 ボイオティアへの移住
BC1325年、ボイオトスの子イトノスは、アルネの町からボイオティア地方のコロネイアの町の近くへ移住した。[91-1]
イトノスは、コロネイアの町の下のコパイス湖の岸辺に、アルネの町を創建した。[92]
そこには、イトニアン・アテナの神域が造営され、ボイオティア人の同盟集会が開催された。[93]
コロネイア人が、イトノス率いるボイオティア人の移住を受け入れたのは、コロネイアの町やハリアルトスの町の住人もアンピオンとゼトスに協力したからであった。それらの町の創建者コロノスとハリアルトスは、ゼトスの妻テーベの母マイラの父プロイトスの兄弟であった。[94]

9.3 ポキスから移住
BC1325年、デイオンの子ピュラコスは、ポキス地方からパガサイ湾の西へ移住して、ピュラケの町を創建した。[94-1]

9.4 ロドスへの移住
BC1320年、ラピテスの子ポルバスは、ロドス島へ移住した。[95]
マカレウスの子レウキッポスは、島での争いに味方を得るために身内のポルバスをロドス島へ招いた。レウキッポスは、少し前にレスボス島からロドス島へ移住していた。[96]
レウキッポスとポルバスは、ヒッポテスの子アイオロスを祖父とする従兄弟であった。
BC1306年、ポルバスは、ロドス島からアカイア地方のオレノスの町へ移住した。[97]

9.5 オルコメノスからの嫁入り
BC1317年、ピュラケの町に住むデイオンの子ピュラコスは、オルコメノスの町のミニュアスの娘クリュメネを妻に迎えた。[97-1]

9.6 オイカリアの創建
BC1310年、ペリパスの子メラネオスは、トリッカの町の近くにオイカリアの町を創建した。[98]
メラネオスはラピタイに属しており、トリッカの町とドーリス地方の間、つまり、ドーリス人の地に初めて進出したラピタイであった。

9.7 メッセニアへの移住
BC1310年、アイオロスの子ペリエレスは、後継者の絶えたメッセニア地方のアンダニアの町の住人から求められて、アンダニアの町へ移住した。[99]
アンダニアの町の住人は、その町の創建者ポリュカオンの妻メッセネと共にアルゴスの町から移住した人々であったが、元々はテッサリア地方に住んでいたアカイア人であった。
アンダニアの町に住んでいたアカイア人は、テッサリア地方の有力者の中からペリエレスを選んだと思われる。

9.8 メッセニアへの移住
BC1305年、ペリパスの子メラネオスは、オイカリアの町からメッセニア地方のアンダニアの町の近くに移住して、オイカリアの町を創建した。[100]
メラネオスは、兄弟ペリエレスの求めに応じて移住したと推定される。

9.9 フェライの創建
BC1303年、ヒッポコーンの子フェレスは、ピュッロスの町からイオルコスの町の近くへ移住してフェライの町を創建した。[101]

9.10 エレイアへの移住
BC1303年、ヒッポコーンの子アミュタオンは、テッサリア地方のピュッロスの町からエレイア地方へ移住して、ピュロスの町を創建した。[102]
アミュタオンの移住には、彼の2人の息子たち、メランプスとビアスの他に、イオルコスの町のクレテウスの子ネレウスも参加した。[103]
ネレウスがイオルコスの町の継承権をめぐって、彼の兄弟ペリアスと争ったという伝承もある。[104]
しかし、ペリアスとネレウスは共同で、オリュンピア祭競技会を開催していることから、ネレウスは自発的に異母兄弟アミュタオンの移住に参加したと推定される。[105]
また、アミュタオンの子ビアスの娘アナクシビアは、ペリアスに嫁いでおり、争いが移住の原因とは考えられない。[106]

9.10.1 ピュロスの名前の由来
メガラの町のクレソンの子ピュロス (または、ピュロン)がピュロスの町を創建したという伝承がある。[107]
系図を作成すると、ピュロスが創建した町から彼を追放したネレウスの移住は、ピュロスが60歳位のときである。ピュロスの名前と町の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。
アミュタオンがテッサリア地方からエレイア地方へ移住する時、メランプスとビアスが同行している。つまり、アミュタオンの息子たちが生まれたのは、テッサリア地方のピュロス (または、ピュッロス)である。[108]
アミュタオンは、エレイア地方に創建した町に、テッサリア地方にいたときに住んでいた町の名前をそのまま付けたと推定される。そして、その町の名前は、ピュロス・レプレアティコスやピュロス・メッセニアコスに引き継がれた。[109]

9.11 オルコメノスからの嫁入り
BC1301年、フェライの町に住むヒッポコーンの子フェレスは、オルコメノスの町のミニュアスの娘ペリクリュメネを妻に迎えた。[109-1]

9.12 マグネシアへの移住
BC1300年、ペリパスの子アンティオン (または、レオンテオス)は、オッサ山とペリオン山の間のマグネシア地方へ移住した。アンティオンの子プレギュアスの娘コロニスは、ボイベイス湖の近くで育った。[110]
その後、アンティオンの子イクシオンの子ペイリトウスは、ペリオン山周辺を自領とした。[111]

9.13 アイソニス (または、アイソン)の創建
BC1300年、ヒッポコーンの子アイソンは、ピュッロスの町からパガサイ湾近くへ移住して、アイソニスの町を創建した。[112]

10 イオルコスの隆盛
10.1 イオルコスの名前
AD6世紀の文法学者ビザンチウムのステファヌスは、イオルコスの町の名前は、アミュロスの子イオルコスに因んで名付けられたと伝えている。[112-1]
アミュロスは、イオルコスの町の北西方のドティオン平原を流れる川の名前でもあり、アルゴ船の遠征参加者の一人でもあった。[112-2]
アミュロスの子イオルコスの名前が、町の名前になったのは、イオルコスの町が破壊された後で、クレテウスのイオルコス創建の100年以上後である。
クレテウスが創建した当時の町の名前は、イオルコスでなかったかもしれない。

10.2 オルコメノスからの嫁入り
BC1299年、イオルコスの町のクレテウスの子ペリアスは、オルコメノスの町からアンピオンの娘ピュロマケを妻に迎えた。[113]
当時、他に例のない宝庫を作ったミニュアス人との姻戚関係により、イオルコスの町は繁栄した。[114]
多くのミニュアス人が、ピュロマケと共に、オルコメノスの町からイオルコスの町に移住した。[115]

10.3 オルコメノスからの嫁入り
BC1291年、アイソニスの町に住むヒッポコーンの子アイソンは、オルコメノスの町のミニュアスの娘クリュメネの娘アルキメデを妻に迎えた。[115-1]

10.4 ディアの創建
BC1287年、アクトールの子アイアコスは、プティアの町の近くにディアの町を創建した。[116]

10.5 アイギナ島への移住
BC1285年、アクトールの子アイアコスは、ディアの町からアイギナ島へ移住した。[117]

10.6 エレイアへの移住
BC1280年、ピュッティウスは、テッサリア地方からエレイア地方へ移住してブプラシオンの町を創建した。[118]
ピュッティウスの子アマリュンケウスの子ディオレスの子アウトメドンは、トロイ戦争でアキレスの御者であったことから、ピュッティウスはミュルミドン族に属していたと考えられる。[119]
ピュッティウスの年代から推定すると、ピュッティウスは、ミュルミドンの子アクトールの息子と思われる。[120]

10.7 クティメネの創建
BC1275年、アクトールの子クティメノス (または、イロス)は、プティアの町からドロピア地方のクシュニアン湖近くへ移住し、クティメネの町を創建した。[120-1]
クティメノスとデモナッサの間の2人の息子たち、エウリュダマスとエウリュティオンはアルゴ船の遠征の物語に登場する。[120-2]
また、ペレウスと戦ったドロピア人のアミュントルも、クティメノスの息子と思われる。[120-3]

10.8 イアソンの遠征
BC1268年、アイソンの子イアソンは、ミニュアス人と共にコルキス地方へ遠征した。[121]
これより前に、アタマスの子プリクソスの子プレスボンは、コルキス地方からボイオティア地方へ移住し、彼の息子クリュメノスは、ミニュアス人の王になった。[122]
イオルコスの町には、ミニュアス人の娘の嫁入りに伴って、多くのミニュアス人が住んでいた。
イアソンは、コルキス地方への遠征でアイイテスの娘メディアと結婚した。[123]
アルゴ船と呼ばれる英雄たちのコルキス遠征の20年前であった。
アルゴ船の遠征物語では、イオルコスの町のペリアスがイアソンに遠征を命じ、ギリシア各地から多くの英雄が遠征に参加している。
この物語は、ペリアス時代のイオルコスの町の繁栄を背景にしているが、その繁栄の源は、オルコメノスの富ではなく、ミニュアス人による黒海方面との交易であった。
ミニュアス人は、プレスボンが移住した後も、黒海方面と交易を続けて、ボイオティア地方よりも、黒海方面との交易に便利なパガサイ湾に近い町へ住み着いたと思われる。
ミニュアス人は、アルゴ船の代名詞になった。[124]

10.9 シノペへの移住
イアソンの遠征には、トリッカの町のデイマコスの子アウトリュコスも参加した。[125]
BC1260年、アウトリュコスは、イアソンとの遠征中に見つけた土地に移民団を率いて移住した。
そこは、黒海南岸のシノペの町であった。[126]
デイマコスは、トリッカの町を創建したペネイオスの娘トリッカの子孫と思われる。トリッカの町の最初の住人は、ドーリス人であった。[127]
アウトリュコスは、オイカリアの町から勢力を伸ばしたラピタイのエラトス(または、エイラトス)の子イスキュスに追い出されたと推定される。

10.10 アイギナ島からの移住
BC1251年、アイアコスの子ペレウスは、アイギナ島からプティアの町のアクトールの子エウリュティオンのもとへ移住した。[128]
エウリュティオンはアイアコスの兄弟であり、ペレウスの叔父であった。
ペレウスは、従兄妹であるエウリュティオンの娘アンティゴネと結婚して、プティアの町を継承した。
プティアは、ペレウスの祖父アクトールが治めていた町であった。

11 ラピタイの隆盛
ラピタイは、ラリッサの町とドーリス地方の間で誕生し、ペラスゴイ人が退去した後のラリッサの町の周辺に居住地を広げた。その後、西方のトリッカの町の周辺にも居住地を広げた。
ラピタイは、ドティオン平原に住んでいたアイニアネス人やペッライボイ人を追い出して、ペリオン山周辺まで居住地を広げた。[129]

11.1 アルゴスからの移住
BC1247年、アミュタオンの子メランプスの子アバスは、アルゴスの町からラリッサの町の近くのピュッロスの町に移住して来た。[130]
タラオスの子アドラストスが、シキュオンの町のポリュボスのもとへ移住したのと同時期で、アルゴスの町の内紛が原因であった。[131]
ピュッロスの町は、アバスの父メランプスが生まれた町であった。[132]
アバスは、テッサリア地方の平原に「ペラスギコンのアルゴス」という名前を付けた。[133]

11.2 ギュルトンの創建
BC1247年、アンティオンの子プレギュアスは、ラリッサの町の近くにプレギュアスの町を創建した。[134]
プレギュアスの跡を継いだ彼の兄弟イクシオン(別名ギュルトン)に因んで、町はギュルトンと呼ばれるようになった。[135]
ギュルトン人は、それ以前にはプレギュアイと呼ばれていた。[136]

11.3 ペレウスとドロピア人との戦い
BC1247年、アイアコスの子ペレウスは、ドロピア人のアミュントルと戦って勝利し、ドロピア地方を支配下に置いた。[137]
ペレウスは、アミュントルの子クラントールを人質として預かり、彼の盾持ちにした。クラントールは、ケンタウロスとの戦いで死んだ。[137-1]

11.4 ケンタウロスの追放
BC1245年、イクシオンの子ペイリトウス率いるラピタイは、ペリオン山に住むケンタウロスを追い出した。[138]
つぎの伝承により、ケンタウロスは、アイニアネス人の支族であったと推定される。
1) ケンタウロスは、イクシオンの子ペイリトウスに追われて、ピンドス山地に住むアイティケスの土地へ逃げ込んだ。[138-1]
2) ドティオンに住んでいたアイニアネス人は、ラピタイに追われて、アイティキアへ移住した。[138-2]
BC1390年、ペラスゴイ人がテッサリア地方を追われたとき、デウカリオーンの子アンピクテュオンが招集した部族の中にアイニアネス人も含まれていた。[138-3]
アイニアネス人も古くからテッサリア地方に住むアイオリスの支族と考えられる。
ヘレンの子アイオロスの子ミマスの世代と、彼の息子ヒッポテスの世代の系譜は不明である。
ミマス、あるいは、ヒッポテスの息子たちの中にアイニアネス人の始祖がいたと推定される。[138-4]
ラピタイに追われたケンタウロスの一部は、アイトリア地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、ヘラクレスに滅ぼされた。[138-5]
ケンタウロスの一部は、ペネイオス川の源流近くのピンドス山地のアイティキアに住み着いた。その後、モロットイ地方のアウアス川付近へ移住し、パラウアイアと呼ばれるようになった。[139]
BC5世紀末、ペロポネソス戦争のとき、オロイドス率いるパラウアイアは、ペロポネソス側に味方した。[140]
BC3世紀、パラウアイアは、マケドニア地方の辺境部に住んでいた。[141]

12 トロイ遠征
BC1244年、トロアス地方で、ラオメドンの子プリアモスとトロスの子アッサラコスの後裔たちとの戦いが起きた。ヘレスポントの利用を通じて、ダルダニア地方に住むアッサラコスの後裔たちと友好関係があったアカイア人は、彼らの援軍としてトロイへ遠征した。
テッサリア地方からは、つぎのアカイア人が遠征に参加した。
1) プティアの町に住むアイアコスの子ペレウス。
2) ピュラケの町に住むイピクロスの息子たち、プロテシラオスとポダルケス。
3) メリボイアの町に住むポイアスの子ピロクテテス。
プリアモスは、イリオンの町から追い出されるが、ヒッタイトから援軍を得て、イリオンの町を奪還した。
ペレウスは、無事に遠征から帰還したが、プロテシラオスは戦死して、トラキアのケロネソスのエライソス (または、エレウス)の町に葬られた。[141-1]
ピロクテテスは、メリボイアの町へ帰還したが、町で内紛が起きて、アッサラコスの子カピュスの子アンキセスと共に、イタリアへ移住した。アンキセスは、シシリー島へ向かったが、ピロクテテスは、イタリア半島南部のクロトン地方のマカラに定住した。[141-2]

13 プティア人の隆盛
13.1 イオルコスの破壊
BC1236年、イオルコスの町に住んでいたミニュアス人は、ペリアスの子 アカストスの暴政に反発して、彼を殺害して町を破壊した。[142]
しかし、イオルコスの町に住む人がいなくなったわけではなく、ホメロスの軍船目録にも登場するように、イオルコスの町には人が住み続けた。[143]
BC6世紀のアテナイの町のヒッピアスの亡命先の候補の一つとしてイオルコスの町の名前が登場する。[144]
BC290年、デメトリオスがデメトリアスの町を建設した時に、イオルコスの町の住人がデメトリアスの町へ移り住んだが、イオルコスは村として存続した。[145]
ストラボンは、イオルコスの町が古い時代に破壊されたままであったと伝えている。しかし、それはペリアス時代の町の中心部分であったと思われる。[146]
イオルコスの町は、テッサリア地方の古代の町としては珍しく城壁を備えていたようである。[147]
ホメロスは、イオルコスの町を「堅固な造りの」と形容している。[148]

13.2 エウボイアへの移住
イオルコスの町の近くのフェライの町にもミニュアス人が住んでいて、彼らも反乱を起こした。
フェライの町のミニュアス人は、フェレスの子アドメトスの母であるミニュアスの娘ペリクリュメネと共に移住して来た人々であった。[149]
アドメトスの妻は、イオルコスの町のペリアスの娘アルケスティスであった。[150]
BC1236年、アドメトスはミニュアス人に追われて、エウボイア島へ逃れた。[151]
エウボイア島のタミュナイの町には、アドメトスの妻アルケスティスの前夫ヒッパソスの息子テセウスが住んでいた。[152]
テセウスは母の再婚後、アドメトスに育てられた。後に、テセウスはヒッパソスの父エウリュトスが住むオイカリアの町へ行き、近くのタミュナイの町に住んでいた。[153]
アドメトスは、タミュナイの町にアポロの神殿を造営した。[154]

13.3 ミニュアス人の追放
BC1236年、プティアの町のペレウスは反乱を起こしたミニュアス人を追放した。[155]
ミニュアス人は、黒海方面との交易の中継基地があるレムノス島へ移住した。[156]
BC1115年、レムノス島のミニュアス人は、アテナイの町から逃れて来たペラスゴイ人に追われてラケダイモンへ移住した。[157]

13.4 オルメニオンの創建
イトノスの町のケルカポスの子オルメノスは、ペレウスに加勢してミニュアス人と戦った。[158]
オルメノスの母は、ミュルミドンの娘エウポレミアであり、ペレウスは、オルメノスの母方の従兄弟アイアコスの息子であった。
BC1235年、オルメノスは、破壊されたイオルコスの町の南東にオルメニオンの町を創建した。[159]

13.5 ポイニクスの移住
BC1230年、オルメニオンの町のアミュントルの子ポイニクスは、プティアの町のペレウスのもとへ移住した。[160]
ペレウスは、ポイニクスの父アミュントルの父オルメノスの母エウポレメイアの兄弟アクトールの子アイアコスの息子であった。つまり、ポイニクスは、彼の父アミュントルの又従兄弟ペレウスのもとへ移住した。
ペレウスは、ポイニクスにドロピア地方を与えた。[161]

13.6 ラピタイとヘラクレスの戦い
13.6.1 戦いの発端
ラピタイは発祥地(ドーリス地方とラリッサの町の間の土地)から西方や東南東方へ居住地を広げた。ラピタイがいなくなった土地に、西隣のドーリス地方の住人が居住地を広げた。
恐らく、その土地が係争地となって、ラピタイとドーリス人の間に戦いが起こった。
ギュルトンの町のカイネウスの子コロノスは、その土地に居住していたドーリス人を追い出した。[162]

13.6.2 ヘラクレスの加勢
BC1227年、ドーリス人の王アイギミオスは、ドーリス地方のドーリス人からの要請でラピタイと戦うが敗れた。ドーリス地方からヘレンの子ドロスがパルナッソス山の近くへ移住した後も、同じ種族として、関係は続いていたようである。[163]
アイギミオスは、トラキスの町のケユクスのもとにいたヘラクレスに援助を求めた。

13.6.3 ヘラクレスがドーリス人に加勢した理由
ヘラクレスの軍中には、ケユクス率いるメリス人がいたが、メリス人はアイニアネス人の支族であった。少し前に、ドティオン平原に古くから住んでいたアイニアネス人は、ラピタイに追われて、オイタ山周辺に逃げ込んだ。[164]
トラキスの町の近くに住み着いたメリス人の首領の娘がケユクスに嫁ぎ、ケユクスがメリス人を率いることになったものと思われる。[165]
ラピタイは、マリア人の敵であり、それが、ヘラクレスがラピタイと戦った理由と思われる。

13.6.4 戦いの経過
ヘラクレスはトラキスの町からテッサリア地方の北部へ遠征し、ドーリス地方を占拠していたラピタイと戦って、ギュルトンの町のカイネウスの子コロノスを討ち取った。[167]
その後、ヘラクレスはイトノスの町を攻めて、ペロピアの子キュクノスを討ち取った。[168]
さらに、ヘラクレスは、オルメニオンの町を攻めて、オルメニオス本人と彼の息子アミュントルを討ち取った。[169]

13.6.5 プティアの不参加
かつて、プティアの町のアイアコスの子ペレウスは、ラピタイとケンタウロスとの戦いで、ラピタイに味方していた。[170]
しかし、ヘラクレスとラピタイとの戦いに、プティアの町は登場しない。
その理由は、つぎのように推定される。

13.6.5.1 ペレウスの死
ホメロスは、ペレウスがアキレスをトロイ遠征に送り出したように伝えているが、ペレウスは、ヘラクレスとラピタイとの戦いの少し前に死んだと推定される。[171]
ペレウスが死んだとき、7歳に満たないペレウスの子アキレスは、ポイニクスに育てられた。[172]
ペレウスが死に、彼の跡を継いだアキレスがまだ少年であったため、プティアの町は、ラピタイとの戦いに参加しなかったと思われる。

13.6.5.2 ドーリス人の系譜
プティアの町のミュルミドン族は、姻戚関係で、ラピタイと繋がる。しかし、ミュルミドンは、ヘレンの子ドロスの直系の子孫であり、ドーリス人であった。[173]
プティアの町は、ラピタイの居住地の近くではあったが、系譜的にはドーリス人であったため、中立を保ったと思われる。

13.6.6 トリッカの不参加
この戦いには、ラピタイの一員であるトリッカの町のアスクレピオスが参加していない。
恐らく、トリッカの町の住人の大半がドーリス地方から移り住んだ人々の子孫、つまり、ドーリス人であったからと思われる。[174]
BC1260年、デイマコスの子アウトリュコス率いる移民団が、トリッカの町からシノペの町へ移住した後も、トリッカの町には多くのドーリス人が住んでいたと思われる。[175]

14 トロイ遠征
BC1188年、トロアス地方に住むプリアモスの子ヘクトールは、アンテノールの息子たちによって、イリオンの町から追放された。ヘクトールは、アカイア人に協力を要請してイリオンの町を奪還しようとした。
テッサリア地方からは、つぎのアカイア人が遠征に参加した。
1) プティアの町に住むペレウスの子アキレス。
2) プティアの町に住むアキレスの子ネオプトレモス。
3) ドロピア地方に住むアミュントルの子ポイニクス。
4) ギュルトンの町に住むペイリトウスの子ポリュポイテス。
5) アルギサの町に住むコロノスの子レオンテオス。
6) オルメニオンの町に住むエウアイモンの子エウリュピロス。
7) トリッカの町に住むアスクレピオスの子ポダリロス。
アカイア人は、イリオンの町を攻めたが、アンテノールの息子たちに敗れて、各地へ逃れた。
アキレスは、戦死して、ネオプトレモスは、プリアモスの子ヘレノスとヘクトールの妻アンドロマケとヘクトールの息子たちを連れて、モロッソス人の地へ逃れた。[176]
ポイニクスは、ネオプトレモスと共に、モロッソス人の地へ向かう途中、テルモピュライ付近で死んだ。[177]
ポリュポイテスとレオンテオスは、イオニア地方へ逃れて、コロポンの町に定住した。[178]
エウリュピロスは、アカイア地方へ逃れて、パトライの町に定住した。[179]
ポダリロスは、カリア地方へ逃れて、シュルノスの町を創建した。[180]

15 テスプロティア人の侵入
トロイ遠征によって、無防備になったテッサリア地方へ、東のピンドス山脈を越えて、ドドナ周辺に住んでいたテスプロティア人が攻め込んだ。[181]
テスプロティア人を率いたのは、ヘラクレスとピュレウスの娘アステュオケの息子と思われるハイモンであった。[182]
アカイア人、ペッライボイ人、マグネシア人は、テスプロティア人と戦ったが敗れた。[183]
テスプロティア人は、テッサリア地方を占領して、テッサリア人に名前を変えた。[184]
テッサリア人は、先住民をペネスタイとなって残留することを許した。[185]
BC1165年、ペイディッポスの子アイアトスは、反乱を起こしたアルネの町のボイオティア人と戦って反乱を鎮圧した。[186]
BC1126年、アイアトスの子テッサロスは、アルネの町のボイオティア人を追い出した。[187]
BC5世紀のペルシアのギリシア進攻に際して、テッサリア地方で、土と水をペルシア大王に献じた種族として、つぎの名前が挙がっている。[188]
テッサリア人、ドロピア人、エニエネス人、ペッライボイ人、マグネシア人、プティオティスのアカイア人。
これらの種族は、テスプロティア人侵入後、テッサリア地方に居住していた全ての種族と思われる。
テスプロティア人に占領された後のテッサリア地方の住人は、次のようであった。

15.1 プティアの住人
プティアの町を中心とした古くからのプティオティス地方にはアカイア人が住み続けた。[189]
プティアの町は、アクリシオスの子パルサロスに因んで、パルサロス (後の古いパルサロス)の町と呼ばれるようになった。[190]
リークは、古いパルサロスの町が新しいパルサロスの町のアクロポリスから半マイル東寄りにあったと推定していた。[191]

15.2 アルネの住人
アルネの町のボイオティア人の一部は、ハイモンに敗れてボイオティア地方へ移住した。[192]
予言者ペリポルタスに率いられたボイオティア人は、ボイオティア地方の辺境の地に定住して町をアルネ(後のカイロネイア)と呼んだ。[193]

15.3 トリッカの住人
アスクレピオス (または、アイスクラピオス)の子マカオンの妻アンティクレイアは、トリッカの町からメッセニア地方のパライの町へ移住した。[194]
マカオンの息子たち、ニコマコスとゴルガソスは、パライの町を継承した。[195]
マカオンの息子たち、ポレモクラテスやアレクノルやスピュロスは、アルゴス地方のエウアの町やシキュオンの町やアルゴスの町に住んで人々を治療した。[196]

15.4 ギュルトンの住人
ギュルトンの町のペイリトウスの後裔はアテナイの町へ移住した。アテナイ人は、テセウスとペイリトウスとの親交を理由に彼らを受け入れ、後にペリトイダイと呼ばれる土地を彼らに分け与えた。[197]

15.5 オルメニオンの住人
オルメニオンの町のエウアイモンの子エウリュピロスは、アカイア地方のパトライの町へ移住した。[198]
エウリュピロスとパトライの町との関連は不明で、伝承の通り、デルポイの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[199]

15.6 フェライの住人
フェライの町のエウメロスの子ゼウキッポスの子アルメニオス (または、ハルメニオス)は、アテナイの町へ移住した。[200]
アルメニオスの娘ヘニオケは、メッセニア地方のペンチロスの子アンドロポンポスに嫁ぎ、息子メラントスが生まれた。[201]
第16代アテナイ王メラントスの母や妻は、アテナイ人であった。[202]

15.7 マグネシア人
マグネシア人の一部はデルポイへ逃れた。その後、彼らは、デルポイ人と共に、リュディア地方へ移住して、マグネシアの町を創建した。[203]
テッサリア地方に残留したマグネシア人は、オッサ山とペリオン山の間や、その周辺に住み続けた。[204]
マグネシア人は、ペネスタイとしてテスプロティア人に従属した。[205]

15.8 ドロピア人
ドロピア人の一部は、テスプロティア人に追われて、スキュロス島へ逃れた。
BC475年、アテナイの町のキモンがスキュロス島に住んでいたドロピア人を攻めて奴隷にした。[206]
テッサリア地方に残留したドロピア人は、ピンドス山地とプティオティス地方の間に住み続けた。[207]

15.9 アイニアネス人 (または、エニエネス人)
アイニアネス人の一部は、オリュンポス山近くにも住んでいたが、大部分は、オイタ山近くに住んでいた。アイニアネス人は、ヘラクレイアの町の住人がヘラクレイダイに率いられてペロポネソスへ移住した後で、ヘラクレイアの町へ移住した。その後、アイニアネス人は、さらに東へ進出して、オトリュス山麓のエキノスの町を奪い取った。[208]

15.10 ペッライボイ人
伝承によれば、ペッライボイ人はエウボイア島のヒスティアイオティス地方へ逃れて、後に、テッサリア地方へ帰還した。その際、ペッライボイ人は、エウボイア島のヒスティアイオティス地方の住人を連れて帰ったために、テッサリアの地方名になったと伝えられている。[209]
しかし、この伝承は、類似した名前をもとに作られた話のようである。
ペッライボイ人は、テッサリア地方北部のキュポス山周辺に住み続けた。[210]
ラリッサの町に住んでいたペッライボイ人は、ペネスタイとしてテスプロティア人に従属して、住み続けた。[211]

16 ラリッサについての考察
ホメロスの軍船目録にラリッサの町は登場しない。[212]
ポリュポイテスが率いた5つの町の名前の最初に挙げられているアルギッサ(後のアルグラ)の町がラリッサの町と同一だと考える人もいる。[213]
恐らく、トロイ戦争の時代、ラリッサの町はアルギッサの町より人口が少なくなり、ラリッサの町を含めて、アルギッサの町と呼ばれていたと思われる。
つまり、ペラスゴイ人が去った後で、かつて、ペラスゴイ人の首都であった町をラリッサと呼ぶ人はいなくなったと推定される。

16.1 ラリッサの破壊
ラリッサの町は、BC1560年にペラスゴスの娘ラリッサの一家に率いられたペラスゴイ人が、アルゴスの町からテッサリア地方へ移住して来た直後に建設された。[214]
その後、BC1390年にペラスゴイ人がテッサリア地方を去るまで、170年間、ラリッサの町はペラスゴイ人の中心の町であった。それ故に、ペラスゴイ人がテッサリア地方から追い出されたとき、ラリッサの町は破壊されたのではないかと思われる。

16.2 ラリッサの史料出現
BC1390年以降、ラリッサの町が古代史料に登場するのは、つぎのとおりである。

16.2.1 ペルセウスの祖父殺し伝承
アポロドロスは、テウタミデスが治めていたラリッサの町で、ダナエの子ペルセウスが彼の祖父アクリシオスを殺したと伝えている。[215]
アクリシオスが死んだのは、BC1339年と推定される。
ヘッラニコスによれば、ペラスゴスの娘ラリッサの子ペラスゴスの子プラストールの子アミュントルにテウタミデスという息子がいた。[216]
そのテウタミデスは、ラリッサの町の王であったと思われるが、アクリシオスの時代より、100年以上前の人物であった。
また、アクリシオスの伝承に登場するラリッサは、テッサリア地方の町の名前ではなく、アルゴスの町のアクロポリスの名前であった。[217]
つまり、アポロドロスの伝承は、アクリシオスの時代に、テッサリア地方にラリッサの町が存在していたという証明にはならない。

16.2.2 アルゴ船の遠征物語
アルゴ船の遠征物語に、ラリッサの町からの参加者が3人いる。
遠征の舞台は、BC1248年と推定される。

16.2.2.1 アイタリデス
ヒュギーヌスは、ミュルミドンの娘エウポレミアの子アイタリデスは、ラリッサ人だと伝えている。[218]
ロドス島のアポロニオスは、エウポレミアがイトノスの町の近くを流れるアンピュリュソス川のそばでアイタリデスを産んだと伝えている。[219]
また、アイタリデスの子キュクノス (または、キュグノス)は、イトノスの町に住んでいた。[220]
つまり、アイタリデスは、父の代から3代にわたって、イトノスの町に住んでいて、ラリッサの町は無関係と推定される。

16.2.2.2 ペイリトウス (または、ピリトウス, ペリトウス)
アポロドロスは、イクシオンの子ペイリトウスがラリッサの町からアルゴ船の遠征に参加したと伝えている。[221]
しかし、ストラボンは、イクシオンとペイリトウスは、ギュルトンの町の王であったと述べている。[222]
また、アポロドロスは、ペイリトウスの子ポリュポイテスがギュルトン人を率いて、トロイ遠征に参加したと伝えている。[223]
つまり、ペイリトウスが住んでいたのはギュルトンの町であり、ラリッサの町ではなかった。

16.2.2.3 ポリュペモス
ロドス島のアポロニオスとヒュギーヌスは、ポリュペモスがラリッサの町からアルゴ船の遠征に参加したと伝えている。[224]
ポリュペモスは、ラピタイに属していて、彼の父エラトス(または、エイラトス)は、ペネイオス川近くの住んでいたと思われる。[225]
ポリュペモスの子孫は、まったく不明で、ポリュペモスがラリッサの町に住んでいたと伝えているのは、アルゴ船の遠征に、その町から参加したという伝承のみである。

16.2.3 カリュドンの猪狩りの物語
カリュドンの猪狩りの物語に、ラリッサの町からの参加者は、ペイリトウスのみである。
この物語の舞台は、BC1246年と推定される。
アポロドロスは、イクシオンの子ペイリトウスがラリッサの町から参加したと伝えている。[226]
しかし、前述したように、ペイリトウスが住んでいたのはギュルトンの町であり、ラリッサの町ではなかった。

16.2.4 ヘラクレスとラピタイの戦い
BC1227年、ヘラクレスはドーリス人と共にラピタイと戦った。[227]
この伝承に、ギュルトンの町は登場するが、ラリッサの町は登場しない。

16.3 ラリッサの再建
ペネイオス川近くのラリッサの町は、アクリシオスが創建したと伝えられている。[228]
また、アクリシオスの子パルサロスは、パルサロスの町を創建したと伝えられている。[229]
これらの伝承は、BC1560年にペラスゴスの娘ラリッサがアルゴスの町からテッサリア地方へ移住して来たときの出来事とはおもわれない。
そのときの伝承に、ラリッサの息子たち、ペラスゴス、アカイオス、プティオスの名前は登場するが、アクリシオスの名前は登場しないからである。[230]
アクリシオスは、ラリッサの町を再建したのであり、つぎのような状況であったと推定される。
BC11186年、テスプロティア人がギリシア北西部から侵入して、テッサリア地方を占領した。[231]
ラリッサの町付近を占領したのは、ヘラクレスの子デクサメノスの子ペイディッポスであったと思われる。ラリッサの町の近くにあった湖は、ペイディッポスの子アイアトスの子テッサロスの子ネッソンに因んで、ネッソニス湖と名付けられた。[232]
テスプロティア人は、かつてテッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人であった。
ペイディッポスの息子と思われるアクリシオスは、ラリッサの町を再建した。
ラリッサの町は、テスプロティア人の先祖が創建した町であり、テスプロティア人から名前を変えたテッサリア人は、町を昔と同じくラリッサと呼んだ。
アクリシオスがラリッサの町を再建したのは、BC1175年と推定される。
また、アクリシオスの子パルサロスがパルサロス (後の古いパルサロス)の町を創建したのは、BC1150年と推定される。
この後、ラリッサの町は、ヘラクレイダイが支配した。アレウアスの後は、ヘラクレイダイは、アレウアダイに名前を変えた。[233]

おわり