1 はじめに
1.1 最初のギリシア人
BC1750年、Parnassus 山近くのCephisus川で大規模かつ長期にわたる洪水が発生した。Cephisus川の上流に住んでいたEctenesは、Ogygusに率いられてBoeotia地方へ移住した。[1]
BC1580年、Ectenesは、Hyantesなどによって圧迫されて、Boeotia地方から各地へ移住した。[2]
Ectenesの一部の人々は、Hellenの父Deucalionの祖父に率いられて、Boeotia地方からThessaly地方へ移住した。彼らは、Thessaly地方に最初に住んだギリシア人であった。
1.2 Thessalyの名称
Thessalyの名前は、Deucalionの子Hellenと同時代のHaemonの子Thessalusの名前に因む、とStraboは記している。また、Straboは、異説として、Thesprotia地方からThessaly地方へ攻めて来たHeraclesの子Thessalusの息子たち、AntiphusとPheidippusの子孫が、先祖の名前に因んで、Thessalyと名付けたとも記している。[2-1]
1.2.1 Strabo説の否定
HellenとThessalusは、同時代であることから、Haemonは、Argosの町からThessaly地方へ移住したLarisaの子Pelasgusの息子と推定される。[2-2]
LarisaがArgosの町からThessaly地方へ率いて来たのは、Pelasgiansであった。
Pelasgusは、Peneius川近くのPelasgiotisに住んでいた。[2-3]
Haemonの子Thessalusや彼の後裔の支配地域は、Thessaly地方全域に及ぶことはなく、BC1390年、Pelasgiansは、Thessaly地方から追放された。[2-4]
Thessaly地方の一部で、Pelasgiansが使用していた名称を、彼らを追放したDeucalionの後裔たちが使い続けていたとは、思われない。
1.2.2 異説の否定
ThesprotiansがThessaly地方を占領したのは、Trojan War時代であった。
AntiphusとPheidippusは、Troy遠征物語に登場する。[2-5]
つまり、ThesprotiansがThessaly地方へ攻め込んだのは、AntiphusとPheidippusの子孫の時代より前であった。
また、AntiphusとPheidippusは、Asia MinorのCos島に住んでいた。[2-6]
AntiphusがTroyからの帰還途中に漂流して、Thessaly地方を手に入れたという伝承もある。[2-7]
しかし、Cos島に住んでいたAntiphusとPheidippusを、Thesprotiansと結び付けることはできない。
1.2.3 推論
BC1世紀の歴史家Marcus Velleius Paterculusは、Thessalus率いるThesprotiansが、Myrmidonesの州を占領して、その地方は、Thessalyと呼ばれるようになったと記している。[2-8]
AD2世紀の著述家Polyaenusは、Thessalyは、Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusの名前に因んで、名付けられたと記している。[2-9]
AeatusやThessalusは、Thessaly地方のArneの町に住むBoeotiansと戦っていた。[2-10]
Suda辞典は、Arneの町のBoeotiansが、Haemonとの戦いに敗れた後、3代目まで、Arneの町に住んでいたと伝えている。[2-11]
つまり、Haemonは、Thessalusの父Aeatusの父Pheidippusの父と推定される。
ThessalusがArneの町にpenestaeとして残っていたBoeotiansを追放した後、彼が治める地方が、Thessalyと呼ばれるようになったと思われる。[2-12]
Thessalusの子Nessonは、Larisaの町の近くの湖に、彼の名前を与えた。[2-13]
Nessonの時代には、より広い地方が、Thessalyと呼ばれるようになったと推定される。
Nessonは、Heraclesの後裔であった。[2-14]
Larisaの町のAleuadaeは、Nessonの後裔と思われる。[2-15]
2 Argosからの移住
BC1560年、Argosの町の住人であるPelasgiansは、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaの一家に率いられて、Thessaly地方へ移住した。[3]
移住先は、Thessaly地方北部のPeneius川からPagasetic Gulf西岸に至る地域であった。[4]
2.1 Larisaの創建
Pelasgiansは、Peneius川近くに人々を集めて町を作った。[5]
最初、町はArgosと呼ばれていたが、Larisaの子Pelasgusが母の名前に因んで、Larisaの町と呼ぶようになった。[6]
Larisaの町は、Thessaly地方最古の町であった。
また、Pagasetic Gulf南西のOthrys山近くにあるLarisa Cremasteも同じ頃の創建と思われる。このLarisaも、Pelasgusの娘Larisaの名前に因んで名付けられたという。[7]
2.2 Pelasgiansの居住地
Larisaの3人の息子たち、Pelasgus、Achaeus、Phthiusは、それぞれ分かれて居住した。
Pelasgusは、Peneius川近くのPelasgiotisに住んだ。
Achaeusは、Pagasetic GulfとMaliac Gulfの間のAchaiaに住んだ。
Phthiusは、Melitaeaの町とPelasgiotisの間のPhthiotisに住んだ。[8]
3 Deucalionの時代
BC1540年、Deucalionは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川へ南から流れ込むEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)の町を創建した。[9]
DeucalionはPyrrhaと結婚して、2人の息子たち、HellenとAmphictyonが生まれた。[10]
3.1 洪水の発生時期
Athens王がCecropsからCranausに変わった年に「Deucalionの時代の洪水」が発生した。[11]
BC2世紀の年代記作者Castorが伝えているAthens王の一覧によれば、CecropsからCranausに代わった年は、BC1511年となる。[12]
3.2 洪水の発生
BC1511年、Thessaly地方北部を震源とする直下型の大地震が発生した。Tempeと呼ばれる山々が裂けてTempe渓谷ができ、沼の水がPeneius川に流れ込んで沼地がなくなり、Dotiumという平原になった。Peneius川は増水し、その川の支流の上流でも洪水が発生した。[13]
3.3 洪水による影響
3.3.1 Pelasgians
Larisaの子Pelasgusは、それまでの沼地が平原になって喜んで祭りを催し、それがPeloria祭の起源となった。[14]
3.3.2 Deucalion一家
洪水に襲われたDeucalionは、HellenやAmphictyonと共に、Athensの町へ避難した。
Deucalionは、Athensの町で死に、Hellenは、Thessaly地方へ帰還した。[15]
Amphictyonは、Cranausの娘と結婚した。[16]
4 Deucalionの子Hellenの時代
Hellenは、Deucalionの跡を継いでPyrrhaの町を治め、その地方の人々はHellenes、または、Hellasと呼ばれるようになった。[17]
HellenはOrseisと結婚して、3人の息子たち、Aeolus、Dorus、Xuthusが生まれた。[18]
また、Hellenのもう一人の妻Othreisとの間には、2人の息子たち、PhagrusとMeliteusが生まれた。[19]
4.1 AmphictyonのAthens王即位
BC1502年、Amphictyonは、Cranausを追放して、第3代Athens王に即位した。[20]
BC1492年、Amphictyonは、Egyptから移住して来たCranausの娘Atthisの子Erichthonius (or Erechtheus)によって、Athensの町から追放された。[21]
4.2 Melitaeaの創建
BC1495年、Hellenの子Meliteusは、Pyrrhaの町のすぐ近くにMelitaeaの町を創建した。[22]
5 Hellenの子Aeolusの時代
Hellenの跡を彼の長男Aeolusが継いだ。[23]
Aeolusには息子たち、Mimas、Hypseus、Sisyphus、Athamas、Cretheusが生まれた。[24]
5.1 Dodonaの神託所
BC1480年、Haemonの子Thessalusは、Scotussaの町からDodonaに神託所を移して、神殿を建立した。[25]
この引越しには町のほとんどの女たちが同行し、Dodonaの神託所で予言を担当する巫女は、彼女たちの子孫であった。[26]
Haemonは、Larisaの子Pelasgusの息子と推定される。[27]
5.2 Atticaへの移住
BC1470年、AeolusとDorusは、彼らの兄弟XuthusをMelitaeaの町から追放した。Xuthusは、Attica地方へ移住して、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaと結婚した。 [28]
BC1442年、Xuthusは、Peloponnesus半島北部のAegialus (後のAchaia)地方へ移住した。
Erechtheusの死後、Xuthusは人口の増えたAttica地方から人々を率いて新天地を求めたものと思われる。[29]
5.3 Dorusの移住
BC1460年、Dorusは、Melitaeaの町からEnipeus川を下り、Peneius川の北側の土地へ移住した。[30]
Dorusが住む地方はDoris (後のHistiaeotisの一部)、住人はDoriansと呼ばれるようになった。[31]
6 Aeolusの子MimasとMimasの子Hippotesの時代
6.1 空白時代
Deucalionの子Hellenの子Aeolusの後の2世代の系譜は殆ど伝えられていない。
Diodorusのみが、Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの系譜を伝えている。[32]
Mimasの子Hippotesの時代は、GreeceにPhoenician lettersをもたらしたCadmusの渡来があった。Hippotesの子Aeolusの系譜については、詳細に伝えられている。
DeucalionやHellenの系譜が伝えられているのは、Deucalionの子AmphictyonやHellenの子XuthusがAthens王の娘との結婚が原因であり、Athensの町で記録されていたと推定される。もし彼らの結婚がなければ、Deucalionの系譜は、Hippotesの子Aeolusから始まっていたと思われる。
6.2 支族の誕生
MimasやHippotesの息子は、一人だけではなく、他にも多くの息子たちがいたはずである。
その息子たちから、AenianiansやPerrhaebiansが誕生したと思われる。
AenianiansやPerrhaebiansは、Amphictyonsの一員になっており、後に、Aeolisと共にThessaly地方からPelasgiansを追放している。
AenianiansやPerrhaebiansもDeucalionの後裔であったと推定される。[33]
6.3 Xuthusの子Achaeusの帰還
BC1435年、Xuthusの子AchaeusがAtheniansを味方にして、Aegialusの町からMelitaeaの町へ帰還した。[34]
6.4 Arneの創建
Xuthusを追放したAeolusの跡を継いだのは、彼の息子Mimasであった。[35]
BC1435年、Mimasは、Achaeusによって追い出されて、Melitaeaの町から北西へ約50kmのCoralius川の近くに移住して、Arneの町を創建した。[36]
6.5 CadmusやThraciansの通過
BC1420年、CadmusやThraciansの大集団がThracia地方から南下して、Thessaly地方を通過した。[37]
6.5.1 Hellenの子Dorusの移住
Doris地方に住んでいたDorusは、Doriansを率いて南へ移動し、Greece中部のOeta山とParnassus山の間へ移住した。[38]
その地方は、後に、Dorisと呼ばれるようになった。[39]
Doriansの一部は、Dorusと共に移住しないで、Peneius川の近くに残留した。
彼らの首領は、Dorusの子Tectamusの子Peneiusであった。Peneiusは、居住地を流れる川に彼の名前を与えた。[40]
6.5.2 Aeolusの子Cretheusの移住
Cretheusも彼の叔父Dorusと共に、Parnassus山の近くへ移住し、そこから、彼の従兄弟Dorusの子Tectamusと共にCrete島へ移住した。Tectamusの移民団には、DoriansやPelasgiansが含まれていたが、CretheusはAeoliansを率いていた。[41]
6.5.3 Achaeusの再移住
Xuthusの子Achaeusと彼の2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Melitaeaの町からAegialusの町へ戻った。[42]
Achaeusには、後に、Sicyonの町の東側にEphyra (後のCorinth)の町を創建するSisyphusも同行したと推定される。Sisyphusは、Achaeusの従兄弟であった。
6.6 Halusの創建
BC1415年、Athamasは、Arneの町からPagasetic Gulf西岸に移住して、Halusの町を創建した。[43]
6.7 Eleusisへの移住
BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込んで、Eleusisの町に定住した。[44]
Straboは、EumolpusがThracianだと記しているが、Thessaly地方に住んでいたPelasgianであったと思われる。[45]
Eleusisの町には、BC1561年にArgosの町から移住した密儀祭司Trochilusの後裔が住んでいた。祭儀の執行をめぐって、Eleusisの町とAthensの町との間に、争いがあったと推定される。[46]
Trochilusは、Triopasの子Agenorとの争いが原因で、Argosの町を去っているため、Eleusisの町の人々は、Argosの町を頼ることはできなかった。Eleusiansは、Agenorの兄弟Pelasgusの娘Larisaの後裔に応援要請したと推定される。[47]
7 Hippotesの子Aeolusの時代
Hippotesの跡を彼の息子Aeolusが継いだ。[48]
Aeolusには、5人の妻たちから、少なくとも10人の息子たちと、3人の娘たちが生まれた。
彼の妻たちの名前は、Enarete、Protogenia、Thyia、Stilbe、それにIphis (or Iphys)であった。[49]
彼の息子たちの名前は、Andreus (or Minyas)、Deion (or Deion, Deioneus)、Macareus、Aethlius、Perieres、Macedon、Magnes、Lapithes (or Lapithus)、Salmoneus、それにCretheusであった。
彼の娘たちの名前は、Melanippe (or Arne, Antiopa)、Calyce、それにCanaceであった。[50]
7.1 文字の普及
Aeolusの父HippotesやHippotesの父Mimasの系譜は、不明である。
Aeolusの系譜が詳細に残っているのは、彼の時代に、CadmusがPhoenician lettersをギリシアにもたらしたからであると思われる。[51]
しかし、どこで、どのような縁があって、文字で記録できる人物が、Hippotesの子Aeolus以降の系譜を記したのかは不明である。
7.2 Itonusの創建
BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、Locris地方からThessaly地方へ移住して、Athamasが創建したHalusの町の近くにItonusの町を創建した。[52]
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Itonusは、Hellenの子Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの息子であった。
つまり、Itonusは、彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って、移住した。
7.3 大津波の襲来
BC1390年、Crete島の北方約110kmにあるCalliste (後のThera、現在のSantorini)島で大規模な噴火があり、Aegean Seaで大津波が発生した。その津波は、Thessaly地方の東海岸や、Pagasetic Gulfの岸辺の町を襲った。[53]
7.3.1 Boeotiaへの移住
Pagasetic Gulf西岸のHalusの町は津波で洗い流され、Aeolusの子AthamasはBoeotia地方へ移住した。[54]
Athamasは、Copais湖の東側の平野に、Acraephnium (or Acraephium)の町を創建した。[55]
7.3.2 Italyへの移住
津波は、Thessaly地方の東海岸に住むPelasgiansを襲い、彼らはItonusの町を襲撃した。
Itonusの妻MelanippeはPelasgianのDiusに連れ去られた。[57]
DiusはMelanippeを連れてItaly半島南部のMetapontiumの町へ移住した。[58]
MelanippeはArneの町のHippotesの子Aeolusの娘であった。[59]
7.3.3 Pelasgiansの追放
Itonusの父Amphictyonは、Locris地方のThermopylae近くのAnthelaの町に住み、付近一帯のDoriansの王であった。[60]
Amphictyonは、Melanippeの父Aeolusと共に同族を結集して、PelasgiansをThessaly地方から追放した。[61]
Melanippeの父Aeolusは、Amphictyonの父Deucalionの父Dorusの兄弟Aeolusの子Mimasの子Hippotesの息子であった。つまり、彼らは、Hellenesとして、同族であった。
Amphictyonが集めた集団は、後に、Argosの町のAcrisiusによって、Amphictyonsとして組織化された。[62]
7.3.4 Phthiaへの移住
Pelasgiansが退去した土地に、Amphictyonの兄弟PronousがLocris地方から移住して来た。[63]
Pronousの子Hellenの子Neonusの子Dotusは、Dotium平原の名付け親になった。[64]
7.3.5 Peloponnesusへの移住
Aeolusの3人の息子たち、Aethlius、Macareus、Perieresは、Arneの町からPeloponnesus北西部のOlenusの町へ移住した。[65]
Olenusの町は、彼らの移住より20年前に、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusによって創建された町であった。[66]
Olenusには、彼とDanausの娘Hippodamiaの娘との間に生まれた2人の娘たち、AexとHeliceがいた。[67]
恐らく、PerieresはOlenusの娘と結婚して、Olenusの町を継承したと思われる。
Perieresには息子Pisusが生まれた。[68]
BC1390年、AethliusはOlenusの町から南へ移住して、Elisの町を創建した。[69]
BC1389年、Macareusは植民団を率いて、Pelasgia (後のLesbos)島へ移住した。[70]
BC1345年、Perieresの子PisusはOlenusの町からOlympiaの町の近くへ移住して、Alpheius川のほとりにPisaの町を創建した。[71]
7.3.6 Dryopisへの移住
Hellenの子DorusがDoris地方からParnassus山の近くへ移住した後も、Dorusの娘Iphthime一家は、Doris地方に残っていた。[72]
彼らは、Iphthimeの父の移住先の近くのSpercheius川近くに移住した。[73]
Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreとの息子Dryopsの娘Dryopeの子Amphissusは、Oeta山の近くにOetaの町を創建し、彼らはDryopes (or Dryopians)と呼ばれた。[74]
7.3.7 Rhodesからの移住
Deucalionの息子たちに加勢して、PelasgiansをThessaly地方から追放したRhodosの子Triopasは、Dotiumを獲得した。[74-1]
7.3.8 Cariaへの移住
BC1388年、Triopasは、Demeterの聖地で伐採した木を使って宮殿を建てたため、先住民によって追放された。[74-2]
Dotium近くのScotussaの町に神聖な木のある聖地があり、Triopasは、Scotussaの町に住んでいたと思われる。[74-3]
Triopasは、Thessaly地方からCaria地方へ移住して、Triopium (or Triopia)の町を創建した。[74-4]
Triopiumの町は、後のCnidusの町の外れの岬にあった。[74-5]
7.4 Triccaの創建
BC1385年、Peneiusの娘Triccaの夫は、Peneius川の左岸に町を建設して、妻の名前に因んで、Triccaの町と呼ばせた。[75]
恐らく、Triccaの夫はDoriansで、Doris地方から西へ居住地を広げたと推定される。
7.5 Boeotiaへの移住
BC1380年、Aeolusの子Andreusは、Boeotia地方へ移住して、Andreis(後のOrchomenus)の町を創建した。[75-1]
7.6 Aeolusの養子Epopeus
Aeolusの跡を、彼の娘Melanippeの子Boeotusが継いでおり、Aeolusの跡を継ぐ息子はいなかった。[76]
BC1375年、Aeolusは自分の跡継ぎにするために、Sicyonの町からAloeusの息子Epopeusを養子に迎えた。[77]
AeolusはEpopeusの母Canaceの父であり、Epopeusは彼の孫であった。[78]
8 Aeolusの娘Melanippeの子Boeotusの時代
8.1 Boeotusの帰還
Pelasgiansによって拉致されたMelanippeは、Italy半島南部のMetapontiumの町まで連れて行かれ、その地で、2人の息子たち、AeolusとBoeotusを産んだ。[79]
BC1370年、Boeotusは、母Melanippeと共にItalyからThessaly地方のArneの町へ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[80]
Aloeusの子Epopeusは、Sicyonの町へ帰還した。[81]
8.2 Lapithsの誕生
BC1365年、Aeolusの子Lapithesは、Arneの町からPeneius川の北側の地へ移住した。
Lapithesの一族は、Lapithsと呼ばれるようになった。[82]
Lapithsの発祥地は、Larisaの町の西側、Doris地方の東側にあったと推定される。[83]
8.3 Phocisへの移住
BC1365年、Aeolusの子Deionは、Arneの町から、Phocis地方へ移住した。[83-1]
Deionの定住地は、不明であるが、後に、Deionの子Phylacusが、Orchomenusの町から妻を迎えていることから、Boeotia地方に近い所と思われる。[83-2]
8.4 Lacedaemonへの嫁入り
BC1351年、Lapithesの娘Diomedeは、Laconia地方のAmyclaeの町に住む、Lacedaemonの子Amyclasへ嫁いだ。[84]
Thessaly地方とLaconia地方の遠距離婚は、つぎのようにして成立したと推定される。
Thessaly地方の部族を含むAmphictyonsをArgosの町のAcrisiusが組織化した。[85]
そのときに、Acrisiusは、Aeolusの子Lapithesと知合い、縁組みを仲介したものと思われる。Amyclasは、Acrisiusの妻Eurydiceの弟であった。[86]
8.5 Macedoniaへの移住
BC1350年、Aeolusの子Magnesは、兄弟Macedonと共に、Arneの町からOlympus山近くへ移住した。[86-1]
8.6 Iolcusの創建
BC1350年、Aeolusの子Cretheusは、Arneの町からPagasetic Gulf北岸へ移住して、Iolcusの町を創建した。[86-2]
8.7 Eleiaへの移住
BC1335年、Aeolusの子Salmoneusは、Arneの町からEleia地方へ移住して、Salmoneの町を創建した。[87]
Salmoneの町は、Elisの町とPisaの町のほぼ中間にあった。
Elisの町の創建者は、彼の異母兄弟Aethliusであり、Pisaの町の創建者は、彼の甥Pisusであった。[88]
8.8 Glaphyraeの創建
BC1330年、Aeolusの子Magnesの子Glaphyrusは、Olympus山の近くからBoebeis湖の近くへ移住して、Glaphyraeの町を創建した。[89]
9 Boeotusの子Itonusの時代
9.1 AmphionとZethusへの加勢
BC1325年、AmphionとZethusはCadmeia (後のThebes)の町のHyrieusの子Lycusを攻めて、町を占領した。[90]
この戦いには、Zethusの妻Thebeの兄弟Locrusも加勢したが、Arneの町のBoeotusの子Itonusも加勢したと推定される。[91]
Itonusは、Locrusの父Physciusの兄弟Itonusの妻Melanippeの子Boeotusの息子であった。つまり、Locrusは、Itonusの父Boeotusの従兄弟であった。
9.2 Boeotiaへの移住
BC1325年、Boeotusの子Itonusは、Arneの町からBoeotia地方のCoroneiaの町の近くへ移住した。[91-1]
Itonusは、Coroneiaの町の下のCopais湖の岸辺に、Arneの町を創建した。[92]
そこには、Itonian Athenaの神域が造営され、Boeotiansの同盟集会が開催された。[93]
Coroneansが、Itonus率いるBoeotiansの移住を受け入れたのは、Coroneiaの町やHaliartusの町の住人もAmphionとZethusに協力したからであった。それらの町の創建者CoronusとHaliartusは、Zethusの妻Thebeの母Maeraの父Proetusの兄弟であった。[94]
9.3 Phocisから移住
BC1325年、Deionの子Phylacusは、Phocis地方からPagasetic Gulfの西へ移住して、Phylaceの町を創建した。[94-1]
9.4 Rhodesへの移住
BC1320年、Lapithesの子Phorbasは、Rhodes島へ移住した。[95]
Macareusの子Leucippusは、島での争いに味方を得るために身内のPhorbasをRhodes島へ招いた。Leucippusは、少し前にLesbos島からRhodes島へ移住していた。[96]
LeucippusとPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟であった。
BC1306年、Phorbasは、Rhodes島からAchaia地方のOlenusの町へ移住した。[97]
9.5 Orchomenusからの嫁入り
BC1317年、Phylaceの町に住むDeionの子Phylacusは、Orchomenusの町のMinyasの娘Clymeneを妻に迎えた。[97-1]
9.6 Oechaliaの創建
BC1310年、Periphasの子Melaneusは、Triccaの町の近くにOechaliaの町を創建した。[98]
MelaneusはLapithsに属しており、Triccaの町とDoris地方の間、つまり、Doriansの地に初めて進出したLapithsであった。
9.7 Messeniaへの移住
BC1310年、Aeolusの子Perieresは、後継者の絶えたMessenia地方のAndaniaの町の住人から求められて、Andaniaの町へ移住した。[99]
Andaniaの町の住人は、その町の創建者Polycaonの妻Messeneと共にArgosの町から移住した人々であったが、元々はThessaly地方に住んでいたAchaeansであった。
Andaniaの町に住んでいたAchaeansは、Thessaly地方の有力者の中からPerieresを選んだと思われる。
9.8 Messeniaへの移住
BC1305年、Periphasの子Melaneusは、Oechaliaの町からMessenia地方のAndaniaの町の近くに移住して、Oechaliaの町を創建した。[100]
Melaneusは、兄弟Perieresの求めに応じて移住したと推定される。
9.9 Pheraeの創建
BC1303年、Hippocoonの子Pheresは、Phyllusの町からIolcusの町の近くへ移住してPheraeの町を創建した。[101]
9.10 Eleiaへの移住
BC1303年、Hippocoonの子Amythaonは、Thessaly地方のPhyllusの町からEleia地方へ移住して、Pylusの町を創建した。[102]
Amythaonの移住には、彼の2人の息子たち、MelampusとBiasの他に、Iolcusの町のCretheusの子Neleusも参加した。[103]
NeleusがIolcusの町の継承権をめぐって、彼の兄弟Peliasと争ったという伝承もある。[104]
しかし、PeliasとNeleusは共同で、Olympia祭競技会を開催していることから、Neleusは自発的に異母兄弟Amythaonの移住に参加したと推定される。[105]
また、Amythaonの子Biasの娘Anaxibiaは、Peliasに嫁いでおり、争いが移住の原因とは考えられない。[106]
9.10.1 Pylusの名前の由来
Megaraの町のClesonの子Pylos (or Pylon)がPylusの町を創建したという伝承がある。[107]
系図を作成すると、Pylosが創建した町から彼を追放したNeleusの移住は、Pylosが60歳位のときである。Pylosの名前と町の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。
AmythaonがThessaly地方からEleia地方へ移住する時、MelampusとBiasが同行している。つまり、Amythaonの息子たちが生まれたのは、Thessaly地方のPylus (or Phyllus)である。[108]
Amythaonは、Eleia地方に創建した町に、Thessaly地方にいたときに住んでいた町の名前をそのまま付けたと推定される。そして、その町の名前は、Lepreatic PylusやMessenian Pylusに引き継がれた。[109]
9.11 Orchomenusからの嫁入り
BC1301年、Pheraeの町に住むHippocoonの子Pheresは、Orchomenusの町のMinyasの娘Periclymeneを妻に迎えた。[109-1]
9.12 Magnesiaへの移住
BC1300年、Periphasの子Antion (or Leonteus)は、Ossa山とPelion山の間のMagnesia地方へ移住した。Antionの子Phlegyasの娘Coronisは、Boebeis湖の近くで育った。[110]
その後、Antionの子Ixionの子Peirithousは、Pelion山周辺を自領とした。[111]
9.13 Aesonis (or Aeson)の創建
BC1300年、Hippocoonの子Aesonは、Phyllusの町からPagasetic Gulf近くへ移住して、Aesonisの町を創建した。[112]
10 Iolcusの隆盛
10.1 Iolcusの名前
AD6世紀の文法学者Stephanus of Byzantiumは、Iolcusの町の名前は、Amyrusの子Iolcusに因んで名付けられたと伝えている。[112-1]
Amyrusは、Iolcusの町の北西方のDotion平原を流れる川の名前でもあり、Argonautsの遠征参加者の一人でもあった。[112-2]
Amyrusの子Iolcusの名前が、町の名前になったのは、Iolcusの町が破壊された後で、CretheusのIolcus創建の100年以上後である。
Cretheusが創建した当時の町の名前は、Iolcusでなかったかもしれない。
10.2 Orchomenusからの嫁入り
BC1299年、Iolcusの町のCretheusの子Peliasは、Orchomenusの町からAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えた。[113]
当時、他に例のない宝庫を作ったMinyansとの姻戚関係により、Iolcusの町は繁栄した。[114]
多くのMinyansが、Phylomacheと共に、Orchomenusの町からIolcusの町に移住した。[115]
10.3 Orchomenusからの嫁入り
BC1291年、Aesonisの町に住むHippocoonの子Aesonは、Orchomenusの町のMinyasの娘Clymeneの娘Alcimedeを妻に迎えた。[115-1]
10.4 Diaの創建
BC1287年、Actorの子Aeacusは、Phthiaの町の近くにDiaの町を創建した。[116]
10.5 Aegina島への移住
BC1285年、Actorの子Aeacusは、Diaの町からAegina島へ移住した。[117]
10.6 Eleiaへの移住
BC1280年、Pyttiusは、Thessaly地方からEleia地方へ移住してBuprasiumの町を創建した。[118]
Pyttiusの子Amarynceusの子Dioresの子Automedonは、Trojan WarでAchillesのcharioteerであったことから、PyttiusはMyrmidonsに属していたと考えられる。[119]
Pyttiusの年代から推定すると、Pyttiusは、Myrmidonの子Actorの息子と思われる。[120]
10.7 Ctimeneの創建
BC1275年、Actorの子Ctimenus (or Irus)は、Phthiaの町からDolopia地方のXynian湖近くへ移住し、Ctimeneの町を創建した。[120-1]
CtimenusとDemonassaの間の2人の息子たち、EurydamasとEurytionはArgonautsの遠征の物語に登場する。[120-2]
また、Peleusと戦ったDolopesのAmyntorも、Ctimenusの息子と思われる。[120-3]
10.8 Jasonの遠征
BC1268年、Aesonの子Jasonは、Minyansと共にColchis地方へ遠征した。[121]
これより前に、Athamasの子Phrixusの子Presbonは、Colchis地方からBoeotia地方へ移住し、彼の息子Clymenusは、Minyansの王になった。[122]
Iolcusの町には、Minyansの娘の嫁入りに伴って、多くのMinyansが住んでいた。
Jasonは、Colchis地方への遠征でAeetesの娘Medeaと結婚した。[123]
Argonautsと呼ばれる英雄たちのColchis遠征の20年前であった。
Argonautsの遠征物語では、Iolcusの町のPeliasがJasonに遠征を命じ、Greece各地から多くの英雄が遠征に参加している。
この物語は、Pelias時代のIolcusの町の繁栄を背景にしているが、その繁栄の源は、Orchomenusの富ではなく、Minyansによる黒海方面との交易であった。
Minyansは、Presbonが移住した後も、黒海方面と交易を続けて、Boeotia地方よりも、黒海方面との交易に便利なPagasetic Gulfに近い町へ住み着いたと思われる。
Minyansは、Argonautsの代名詞になった。[124]
10.9 Sinopeへの移住
Jasonの遠征には、Triccaの町のDeimachusの子Autolycusも参加した。[125]
BC1260年、Autolycusは、Jasonとの遠征中に見つけた土地に移民団を率いて移住した。
そこは、黒海南岸のSinopeの町であった。[126]
Deimachusは、Triccaの町を創建したPeneiusの娘Triccaの子孫と思われる。Triccaの町の最初の住人は、Doriansであった。[127]
Autolycusは、Oechaliaの町から勢力を伸ばしたLapithsのElatus(or Eilatus)の子Ischysに追い出されたと推定される。
10.10 Aegina島からの移住
BC1251年、Aeacusの子Peleusは、Aegina島からPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。[128]
EurytionはAeacusの兄弟であり、Peleusの叔父であった。
Peleusは、従兄妹であるEurytionの娘Antigoneと結婚して、Phthiaの町を継承した。
Phthiaは、Peleusの祖父Actorが治めていた町であった。
11 Lapithsの隆盛
Lapithsは、Larisaの町とDoris地方の間で誕生し、Pelasgiansが退去した後のLarisaの町の周辺に居住地を広げた。その後、西方のTriccaの町の周辺にも居住地を広げた。
Lapithsは、Dotium平原に住んでいたAenianiansやPerrhaebiansを追い出して、Pelion山周辺まで居住地を広げた。[129]
11.1 Argosからの移住
BC1247年、Amythaonの子Melampusの子Abasは、Argosの町からLarisaの町の近くのPhyllusの町に移住して来た。[130]
Talausの子Adrastusが、Sicyonの町のPolybusのもとへ移住したのと同時期で、Argosの町の内紛が原因であった。[131]
Phyllusの町は、Abasの父Melampusが生まれた町であった。[132]
Abasは、Thessaly地方の平原に「the Pelasgian Argos」という名前を付けた。[133]
11.2 Gyrtonの創建
BC1247年、Antionの子Phlegyasは、Larisaの町の近くにPhlegyasの町を創建した。[134]
Phlegyasの跡を継いだ彼の兄弟Ixion(別名Gyrton)に因んで、町はGyrtonと呼ばれるようになった。[135]
Gyrtoniansは、それ以前にはPhlegyaeと呼ばれていた。[136]
11.3 PeleusとDolopesとの戦い
BC1247年、Aeacusの子Peleusは、DolopesのAmyntorと戦って勝利し、Dolopia地方を支配下に置いた。[137]
Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、彼の盾持ちにした。Crantorは、Centaursとの戦いで死んだ。[137-1]
11.4 Centaursの追放
BC1245年、Ixionの子Peirithous率いるLapithsは、Pelion山に住むCentaursを追い出した。[138]
つぎの伝承により、Centaursは、Aenianiansの支族であったと推定される。
1) Centaursは、Ixionの子Peirithousに追われて、Pindus山地に住むAethicesの土地へ逃げ込んだ。[138-1]
2) Dotianに住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Aethiciaへ移住した。[138-2]
BC1390年、PelasgiansがThessaly地方を追われたとき、Deucalionの子Amphictyonが招集した部族の中にAenianiansも含まれていた。[138-3]
Aenianiansも古くからThessaly地方に住むAeolisの支族と考えられる。
Hellenの子Aeolusの子Mimasの世代と、彼の息子Hippotesの世代の系譜は不明である。
Mimas、あるいは、Hippotesの息子たちの中にAenianiansの始祖がいたと推定される。[138-4]
Lapithsに追われたCentaursの一部は、Aetolia地方へ逃れ、山賊行為を生業としていたため、Heraclesに滅ぼされた。[138-5]
Centaursの一部は、Peneius川の源流近くのPindus山地のAethiciaに住み着いた。その後、Molossia地方のAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[139]
BC5世紀末、Peloponnesian Warのとき、Oroedus率いるParauaeiは、Peloponnesus側に味方した。[140]
BC3世紀、Parauaeiは、Macedonia地方の辺境部に住んでいた。[141]
12 Troy遠征
BC1244年、Troad地方で、Laomedonの子PriamとTrosの子Assaracusの後裔たちとの戦いが起きた。Hellespontの利用を通じて、Dardania地方に住むAssaracusの後裔たちと友好関係があったAchaeansは、彼らの援軍としてTroyへ遠征した。
Thessaly地方からは、つぎのAchaeansが遠征に参加した。
1) Phthiaの町に住むAeacusの子Peleus。
2) Phylaceの町に住むIphiclusの息子たち、ProtesilausとPodarces。
3) Meliboeaの町に住むPoeasの子Philoctetes。
Priamは、Iliumの町から追い出されるが、Hittiteから援軍を得て、Iliumの町を奪還した。
Peleusは、無事に遠征から帰還したが、Protesilausは戦死して、Thracian ChersonesusのElaesus (or Eleus)の町に葬られた。[141-1]
Philoctetesは、Meliboeaの町へ帰還したが、町で内紛が起きて、Assaracusの子Capysの子Anchisesと共に、Italyへ移住した。Anchisesは、Sicily島へ向かったが、Philoctetesは、Italy半島南部のCroton地方のMacallaに定住した。[141-2]
13 Phthiansの隆盛
13.1 Iolcusの破壊
BC1236年、Iolcusの町に住んでいたMinyansは、Peliasの子 Acastusの暴政に反発して、彼を殺害して町を破壊した。[142]
しかし、Iolcusの町に住む人がいなくなったわけではなく、Homerの軍船目録にも登場するように、Iolcusの町には人が住み続けた。[143]
BC6世紀のAthensの町のHippiasの亡命先の候補の一つとしてIolcusの町の名前が登場する。[144]
BC290年、DemetriusがDemetriasの町を建設した時に、Iolcusの町の住人がDemetriasの町へ移り住んだが、Iolcusは村として存続した。[145]
Straboは、Iolcusの町が古い時代に破壊されたままであったと伝えている。しかし、それはPelias時代の町の中心部分であったと思われる。[146]
Iolcusの町は、Thessaly地方の古代の町としては珍しく城壁を備えていたようである。[147]
Homerは、Iolcusの町を「well-built」と形容している。[148]
13.2 Euboeaへの移住
Iolcusの町の近くのPheraeの町にもMinyansが住んでいて、彼らも反乱を起こした。
Pheraeの町のMinyansは、Pheresの子Admetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共に移住して来た人々であった。[149]
Admetusの妻は、Iolcusの町のPeliasの娘Alcestisであった。[150]
BC1236年、AdmetusはMinyansに追われて、Euboea島へ逃れた。[151]
Euboea島のTamynaeの町には、Admetusの妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusが住んでいた。[152]
Theseusは母の再婚後、Admetusに育てられた。後に、TheseusはHippasusの父Eurytusが住むOechaliaの町へ行き、近くのTamynaeの町に住んでいた。[153]
Admetusは、Tamynaeの町にApolloの神殿を造営した。[154]
13.3 Minyansの追放
BC1236年、Phthiaの町のPeleusは反乱を起こしたMinyansを追放した。[155]
Minyansは、黒海方面との交易の中継基地があるLemnos島へ移住した。[156]
BC1115年、Lemnos島のMinyansは、Athensの町から逃れて来たPelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[157]
13.4 Ormeniumの創建
Itonusの町のCercaphusの子Ormenusは、Peleusに加勢してMinyansと戦った。[158]
Ormenusの母は、Myrmidonの娘Eupolemiaであり、Peleusは、Ormenusの母方の従兄弟Aeacusの息子であった。
BC1235年、Ormenusは、破壊されたIolcusの町の南東にOrmeniumの町を創建した。[159]
13.5 Phoenixの移住
BC1230年、Ormeniumの町のAmyntorの子Phoenixは、Phthiaの町のPeleusのもとへ移住した。[160]
Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。つまり、Phoenixは、彼の父Amyntorの又従兄弟Peleusのもとへ移住した。
Peleusは、PhoenixにDolopia地方を与えた。[161]
13.6 LapithsとHeraclesの戦い
13.6.1 戦いの発端
Lapithsは発祥地(Doris地方とLarisaの町の間の土地)から西方や東南東方へ居住地を広げた。Lapithsがいなくなった土地に、西隣のDoris地方の住人が居住地を広げた。
恐らく、その土地が係争地となって、LapithsとDoriansの間に戦いが起こった。
Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusは、その土地に居住していたDoriansを追い出した。[162]
13.6.2 Heraclesの加勢
BC1227年、Doriansの王Aegimiusは、Doris地方のDoriansからの要請でLapithsと戦うが敗れた。Doris地方からHellenの子DorusがParnassus山の近くへ移住した後も、同じ種族として、関係は続いていたようである。[163]
Aegimiusは、Trachisの町のCeyxのもとにいたHeraclesに援助を求めた。
13.6.3 HeraclesがDoriansに加勢した理由
Heraclesの軍中には、Ceyx率いるMeliansがいたが、MeliansはAenianiansの支族であった。少し前に、Dotium平原に古くから住んでいたAenianiansは、Lapithsに追われて、Oeta山周辺に逃げ込んだ。[164]
Trachisの町の近くに住み着いたMeliansの首領の娘がCeyxに嫁ぎ、CeyxがMeliansを率いることになったものと思われる。[165]
Lapithsは、Maliansの敵であり、それが、HeraclesがLapithsと戦った理由と思われる。
13.6.4 戦いの経過
HeraclesはTrachisの町からThessaly地方の北部へ遠征し、Doris地方を占拠していたLapithsと戦って、Gyrtonの町のCaeneusの子Coronusを討ち取った。[167]
その後、HeraclesはItonusの町を攻めて、Pelopiaの子Cycnusを討ち取った。[168]
さらに、Heraclesは、Ormeniumの町を攻めて、Ormenius本人と彼の息子Amyntorを討ち取った。[169]
13.6.5 Phthiaの不参加
かつて、Phthiaの町のAeacusの子Peleusは、LapithsとCentaursとの戦いで、Lapithsに味方していた。[170]
しかし、HeraclesとLapithsとの戦いに、Phthiaの町は登場しない。
その理由は、つぎのように推定される。
13.6.5.1 Peleusの死
Homerは、PeleusがAchillesをTroy遠征に送り出したように伝えているが、Peleusは、HeraclesとLapithsとの戦いの少し前に死んだと推定される。[171]
Peleusが死んだとき、7歳に満たないPeleusの子Achillesは、Phoenixに育てられた。[172]
Peleusが死に、彼の跡を継いだAchillesがまだ少年であったため、Phthiaの町は、Lapithsとの戦いに参加しなかったと思われる。
13.6.5.2 Doriansの系譜
Phthiaの町のMyrmidonsは、姻戚関係で、Lapithsと繋がる。しかし、Myrmidonは、Hellenの子Dorusの直系の子孫であり、Doriansであった。[173]
Phthiaの町は、Lapithsの居住地の近くではあったが、系譜的にはDoriansであったため、中立を保ったと思われる。
13.6.6 Triccaの不参加
この戦いには、Lapithsの一員であるTriccaの町のAsclepiusが参加していない。
恐らく、Triccaの町の住人の大半がDoris地方から移り住んだ人々の子孫、つまり、Doriansであったからと思われる。[174]
BC1260年、Deimachusの子Autolycus率いる移民団が、Triccaの町からSinopeの町へ移住した後も、Triccaの町には多くのDoriansが住んでいたと思われる。[175]
14 Troy遠征
BC1188年、Troad地方に住むPriamの子Hectorは、Antenorの息子たちによって、Iliumの町から追放された。Hectorは、Achaeansに協力を要請してIliumの町を奪還しようとした。
Thessaly地方からは、つぎのAchaeansが遠征に参加した。
1) Phthiaの町に住むPeleusの子Achilles。
2) Phthiaの町に住むAchillesの子Neoptolemus。
3) Dolopia地方に住むAmyntorの子Phoenix。
4) Gyrtonの町に住むPeirithousの子Polypoetes。
5) Argisaの町に住むCoronusの子Leonteus。
6) Ormenionの町に住むEuaemonの子Eurypylus。
7) Triccaの町に住むAsclepiusの子Podalirus。
Achaeansは、Iliumの町を攻めたが、Antenorの息子たちに敗れて、各地へ逃れた。
Achillesは、戦死して、Neoptolemusは、Priamの子HelenusとHectorの妻AndromacheとHectorの息子たちを連れて、Molossiansの地へ逃れた。[176]
Phoenixは、Neoptolemusと共に、Molossiansの地へ向かう途中、Thermopylae付近で死んだ。[177]
PolypoetesとLeonteusは、Ionia地方へ逃れて、Colophonの町に定住した。[178]
Eurypylusは、Achaia地方へ逃れて、Patraeの町に定住した。[179]
Podalirusは、Caria地方へ逃れて、Syrnusの町を創建した。[180]
15 Thesprotiansの侵入
Troy遠征によって、無防備になったThessaly地方へ、東のPindus山脈を越えて、Dodona周辺に住んでいたThesprotiansが攻め込んだ。[181]
Thesprotiansを率いたのは、Heraclesの子Dexamenusの息子たち、PheidippusやHaimonであった。[182]
Achaeans、Perrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[183]
Thesprotiansは、Thessaly地方を占領して、Thessaliansに名前を変えた。[184]
Thessaliansは、先住民をpenestaeとなって残留することを許した。[185]
BC1165年、Pheidippusの子Aeatusは、反乱を起こしたArneの町のBoeotiansと戦って反乱を鎮圧した。[186]
BC1126年、Aeatusの子Thessalusは、Arneの町のBoeotiansを追い出した。[187]
BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Thessaly地方で、土と水をPersia大王に献じた種族として、つぎの名前が挙がっている。[188]
Thessalians、Dolopians、Enianians、Perrhaebians、Magnetians、Achaeans of Phthiotis。
これらの種族は、Thesprotians侵入後、Thessaly地方に居住していた全ての種族と思われる。
Thesprotiansに占領された後のThessaly地方の住人は、次のようであった。
15.1 Phthiaの住人
Phthiaの町を中心とした古くからのPhthiotis地方にはAchaeansが住み続けた。[189]
Phthiaの町は、Acrisiusの子Pharsalusに因んで、Pharsalus (後のPalaepharsalus)の町と呼ばれるようになった。[190]
Leakeは、Palaepharsalusの町が新しいPharsalusの町のacropolisから半マイル東寄りにあったと推定していた。[191]
15.2 Arneの住人
Arneの町のBoeotiansの一部は、Haimonに敗れてBoeotia地方へ移住した。[192]
予言者Peripoltasに率いられたBoeotiansは、Boeotia地方の辺境の地に定住して町をArne(後のChaeroneia)と呼んだ。[193]
15.3 Triccaの住人
Asclepius (or Aesculapius)の子Machaonの妻Anticleiaは、Triccaの町からMessenia地方のPharaeの町へ移住した。[194]
Machaonの息子たち、NicomachusとGorgasusは、Pharaeの町を継承した。[195]
Machaonの息子たち、PolemocratesやAlexanorやSphyrusは、Argolis地方のEuaの町やSicyonの町やArgosの町に住んで人々を治療した。[196]
15.4 Gyrtonの住人
Gyrtonの町のPeirithousの後裔はAthensの町へ移住した。Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交を理由に彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を彼らに分け与えた。[197]
15.5 Ormenionの住人
Ormenionの町のEuaemonの子Eurypylusは、Achaia地方のPatraeの町へ移住した。[198]
EurypylusとPatraeの町との関連は不明で、伝承の通り、Delphiの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[199]
15.6 Pheraeの住人
Pheraeの町のEumelusの子Zeuxippusの子Armenius (or Harmenius)は、Athensの町へ移住した。[200]
Armeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のPenthilusの子Andropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。[201]
第16代Athens王Melanthusの母や妻は、Athenianであった。[202]
15.7 Magnesians
Magnesiansの一部はDelphiへ逃れた。その後、彼らは、Delphiansと共に、Lydia地方へ移住して、Magnesiaの町を創建した。[203]
Thessaly地方に残留したMagnetiansは、Ossa山とPelion山の間や、その周辺に住み続けた。[204]
Magnetiansは、penestaeとしてThesprotiansに従属した。[205]
15.8 Dolopians
Dolopiansの一部は、Thesprotiansに追われて、Scyros島へ逃れた。
BC475年、Athensの町のCimonがScyros島に住んでいたDolopiansを攻めて奴隷にした。[206]
Thessaly地方に残留したDolopiansは、Pindus山地とPhthiotis地方の間に住み続けた。[207]
15.9 Aenianians (or Enianians)
Aenianiansの一部は、Olympus山近くにも住んでいたが、大部分は、Oeta山近くに住んでいた。Aenianiansは、Heracleiaの町の住人がHeracleidaeに率いられてPeloponnesusへ移住した後で、Heracleiaの町へ移住した。その後、Aenianiansは、さらに東へ進出して、Othrys山麓のEchinusの町を奪い取った。[208]
15.10 Perrhaebians
伝承によれば、PerrhaebiansはEuboea島のHistiaeotis地方へ逃れて、後に、Thessaly地方へ帰還した。その際、Perrhaebiansは、Euboea島のHistiaeotis地方の住人を連れて帰ったために、Thessalyの地方名になったと伝えられている。[209]
しかし、この伝承は、類似した名前をもとに作られた話のようである。
Perrhaebiansは、Thessaly地方北部のCyphus山周辺に住み続けた。[210]
Larisaの町に住んでいたPerrhaebiansは、penestaeとしてThesprotiansに従属して、住み続けた。[211]
16 Larisaについての考察
Homerの軍船目録にLarisaの町は登場しない。[212]
Polypoetesが率いた5つの町の名前の最初に挙げられているArgissa (後のArgura)の町がLarisaの町と同一だと考える人もいる。[213]
恐らく、Trojan Warの時代、Larisaの町はArgissaの町より人口が少なくなり、Larisaの町を含めて、Argissaの町と呼ばれていたと思われる。
つまり、Pelasgiansが去った後で、かつて、Pelasgiansの首都であった町をLarisaと呼ぶ人はいなくなったと推定される。
16.1 Larisaの破壊
Larisaの町は、BC1560年にPelasgusの娘Larisaの一家に率いられたPelasgiansが、Argosの町からThessaly地方へ移住して来た直後に建設された。[214]
その後、BC1390年にPelasgiansがThessaly地方を去るまで、170年間、Larisaの町はPelasgiansの中心の町であった。それ故に、PelasgiansがThessaly地方から追い出されたとき、Larisaの町は破壊されたのではないかと思われる。
16.2 Larisaの史料出現
BC1390年以降、Larisaの町が古代史料に登場するのは、つぎのとおりである。
16.2.1 Perseusの祖父殺し伝承
Apollodorosは、Teutamidesが治めていたLarisaの町で、Danaeの子Perseusが彼の祖父Acrisiusを殺したと伝えている。[215]
Acrisiusが死んだのは、BC1339年と推定される。
Hellanicusによれば、Pelasgusの娘Larisaの子Pelasgusの子Phrastorの子AmyntorにTeutamidesという息子がいた。[216]
そのTeutamidesは、Larisaの町の王であったと思われるが、Acrisiusの時代より、100年以上前の人物であった。
また、Acrisiusの伝承に登場するLarisaは、Thessaly地方の町の名前ではなく、Argosの町のAcropolisの名前であった。[217]
つまり、Apollodorosの伝承は、Acrisiusの時代に、Thessaly地方にLarisaの町が存在していたという証明にはならない。
16.2.2 Argonautsの遠征物語
Argonautsの遠征物語に、Larisaの町からの参加者が3人いる。
遠征の舞台は、BC1248年と推定される。
16.2.2.1 Aethalides
Hyginusは、Myrmidonの娘Eupolemiaの子Aethalidesは、Larissaeanだと伝えている。[218]
Apollonius of Rhodesは、EupolemiaがItonusの町の近くを流れるAmphrysus川のそばでAethalidesを産んだと伝えている。[219]
また、Aethalidesの子Cycnus (or Cygnus)は、Itonusの町に住んでいた。[220]
つまり、Aethalidesは、父の代から3代にわたって、Itonusの町に住んでいて、Larisaの町は無関係と推定される。
16.2.2.2 Peirithous (or Pirithous, Perithous)
Apollodorosは、Ixionの子PeirithousがLarisaの町からArgonautsの遠征に参加したと伝えている。[221]
しかし、Straboは、IxionとPeirithousは、Gyrtonの町の王であったと述べている。[222]
また、Apollodorosは、Peirithousの子PolypoetesがGyrtoniansを率いて、Troy遠征に参加したと伝えている。[223]
つまり、Peirithousが住んでいたのはGyrtonの町であり、Larisaの町ではなかった。
16.2.2.3 Polyphemus
Apollonius of RhodesとHyginusは、PolyphemusがLarisaの町からArgonautsの遠征に参加したと伝えている。[224]
Polyphemusは、Lapithsに属していて、彼の父Elatus (or Eilatus)は、Peneius川近くの住んでいたと思われる。[225]
Polyphemusの子孫は、まったく不明で、PolyphemusがLarisaの町に住んでいたと伝えているのは、Argonautsの遠征に、その町から参加したという伝承のみである。
16.2.3 Calydonian boar hantの物語
Calydonian boar hantの物語に、Larisaの町からの参加者は、Peirithousのみである。
この物語の舞台は、BC1246年と推定される。
Apollodorosは、Ixionの子PeirithousがLarisaの町から参加したと伝えている。[226]
しかし、前述したように、Peirithousが住んでいたのはGyrtonの町であり、Larisaの町ではなかった。
16.2.4 HeraclesとLapithsの戦い
BC1227年、HeraclesはDoriansと共にLapithsと戦った。[227]
この伝承に、Gyrtonの町は登場するが、Larisaの町は登場しない。
16.3 Larisaの再建
Peneius川近くのLarisaの町は、Acrisiusが創建したと伝えられている。[228]
また、Acrisiusの子Pharsalusは、Pharsalusの町を創建したと伝えられている。[229]
これらの伝承は、BC1560年にPelasgusの娘LarisaがArgosの町からThessaly地方へ移住して来たときの出来事とはおもわれない。
そのときの伝承に、Larisaの息子たち、Pelasgus、Achaeus、Phthiusの名前は登場するが、Acrisiusの名前は登場しないからである。[230]
Acrisiusは、Larisaの町を再建したのであり、つぎのような状況であったと推定される。
BC11186年、ThesprotiansがGreece北西部から侵入して、Thessaly地方を占領した。[231]
Larisaの町付近を占領したのは、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusであったと思われる。Larisaの町の近くにあった湖は、Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusの子Nessonに因んで、Nessonis湖と名付けられた。[232]
Thesprotiansは、かつてThessaly地方に住んでいたPelasgiansであった。
Pheidippusの息子と思われるAcrisiusは、Larisaの町を再建した。
Larisaの町は、Thesprotiansの先祖が創建した町であり、Thesprotiansから名前を変えたThessaliansは、町を昔と同じくLarisaと呼んだ。
AcrisiusがLarisaの町を再建したのは、BC1175年と推定される。
また、Acrisiusの子PharsalusがPharsalus (後のPalaepharsalus)の町を創建したのは、BC1150年と推定される。
この後、Larisaの町は、Heracleidaeが支配した。Aleuasの後は、Heracleidaeは、Aleuadaeに名前を変えた。[233]
おわり
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