第22章 シキュオンの青銅器時代の歴史

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Create:2025.5.2, Update:2025.5.2

1 はじめに
BC2世紀の年代記作者Castorは、Sicyon王は、Aegialeusから959年間続いたと伝えている。[1]
AD4世紀の歴史家Eusebiusは、Castorからの情報を基にして、Sicyonの町の創建は、Athensの町より約533年、Argosの町より235年早かったと述べている。[2]
しかし、他の史料から得られる情報と合わせて考えると、Sicyonの町の創建は、Argosの町と同時期である。
Castorは、歴代のSicyon王、26人の名前と統治期間のみを記している。
Sicyonの町は、初代Aegialeusから途切れることなく、平穏に王朝が続いたように見えるが、青銅器時代のSicyonの町には、波乱に満ちた歴史があった。

2 Inachusの後裔とTelchinesによる支配
2.1 Aegialeiaの創建
BC1750年、Inachusの子Aegialeus (or Aezeius)は、Parnassus山近くのCephisus川上流からPeloponnesus半島へ北部の海岸地方へ移住して、Aegialeia (後のSicyon)の町を創建した。[3]
Aegialeusの兄弟Phoroneusは、さらに南へ進んで、Phoroneus (後のArgos)の町を創建した。[4]

2.2 Aegialeusの系譜
Pausaniasは、Aegialeusの子Europsの子Telchisの子Apisという系譜を伝えている。[5]
Pausaniasは、Castorが作成した親子関係の記載がないSicyon王のリストを参照している。
EuropsとApisは、Aegialeusの兄弟Phoroneusの息子たちであった。[6]

2.3 後継者争い
初期のSicyonの町には、つぎのような後継者争いがあったと推定される。
Aegialeusには、子供がいなかったとする伝承がある。[7]
しかし、Aegialeusには、息子Lycaonがいたとする伝承もある。[8]
実際は、Aegialeusには、息子Lycaonがいたが、Lycaonは父より先に死んだと思われる。
BC1708年、Aegialeusが死に、彼の跡を継ぐ者がいなかった。
Aegialeusの兄弟Phoroneusは、自分の息子をAegialeusの後継者にして、Europsが第2代Sicyon王になった。[9]
BC1702年、Sicyonの町の有力者Telchin (or Telchis)は、Europsから王位を簒奪して、第3代Sicyon王になった。[10]
Phoroneusは、Sicyonの町を攻めて、Telchin率いるTelchinesと戦うが撃退された。[11]

2.4 Apisとの戦い
BC1700年、Phoroneusが死に、彼の息子Apisが第3代Argos王になった。[12]
BC1690年、Apisは、Sicyonの町を攻めて、Telchinesと戦って勝利し、町を占領した。[13]
Apisは、第3代Sicyon王Telchinを追放して、第4代Sicyon王になった。[14]
Apisは、Peloponnesusの支配者になり、PeloponnesusはApisの名に因んでApiaと呼ばれるようになった。[15]

2.5 Creteへの移住
Apisとの戦いに敗れたTelchinesの一部は、Telchinの子Cresに率いられて、Crete島へ移住した。[16]
Cresは、Crete島のEteocretansの王になった。[17]
その後、Telchinesの一部は、Ophiussa島に渡り、島はTelchinis (後のRhodes)島と呼ばれるようになった。[18]

2.6 Argosによる支配
Apisは、彼の姉妹Niobeの子PelasgusとAegialeusの子Lycaonの娘Deianiraとを結婚させて、PelasgusにSicyonの町を統治させた。[19]
Pelasgusと共に、多くのPelasgiansがArgosの町からSicyonの町へ移住した。
BC1665年、Telchinと彼の息子ThelxionはApisを殺して、Sicyonの町は、Argosの町から独立した。[20]

2.7 Italyへの移住
PelasgusとDeianiraとの息子Lycaonは、Cylleneと結婚して、2人の息子たち、OenotrusとPeucetiusが生まれた。[21]
BC1635年、OenotrusとPeucetiusは、彼らの祖父Pelasgusと共にArgosの町からSicyonの町へ移住して来た人々の子孫を率いて、新天地を求めた。
OenotrusとPeucetiusは、Sicyonの町を出発してItaly半島に入植した。[22]

2.8 Creteからの移住
Sicyonの町がArgosの町から独立して、Telchinesが町を支配すると、Crete島へ移住したTelchinesとの交易が盛んになった。
Argolis湾とSicyonの町とを結ぶ交通の要衝の地にあったMycenaeの町にもTelchinesが住み着いたと思われる。

2.9 Argosの内紛
BC1601年、Argosの町に住んでいたNiobeの子Argusの後裔の間で、争いが生じた。
Argusの子Criasusの子Phorbasは、Argusの子Peirasusの子Triopsから王位を簒奪した。Triopsに味方したArgusの子Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Mycenaeの町へ移住して、町はArgionと呼ばれるようになった。[23]
Argusは、many-eyed、あるいは、All-seeingと呼ばれ、先見の明がある優れた人物であった。[24]

2.10 Mycenaeとの姻戚関係
BC1601年、Argusは、第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneを妻に迎えた。[25]
BC1576年、Argusの子Messapusは、第8代Sicyon王Leucippusの娘Calchiniaを妻に迎えた。[26]
Leucippusが死ぬと、Mycenae の町に住むMessapusは、第9代Sicyon王になり、Sicyonの町をMycenae の町の支配下に置いた。[27]

3 Mycenaeによる支配
3.1 Argosとの戦い
BC1560年、Argusの子MessapusがArgosの町を攻め、Sicyonの町に住むTelchinesも攻撃に参加した。Argosの町に住んでいたPelasgiansは、各地へ移住した。[28]
この戦いの後で、Mycenaeの町は、Arcadia地方に住むPelasgiansを除いて、Peloponnesus半島に住む人々の大半を支配することになった。

3.2 Danausの出現
BC1430年、Plemnaeusの子Orthopolisの時代に、DanausがEgyptからArgosの町へ移住して来た。[29]
Danausは、BC1560年にArgosの町から追われたIasusの娘Ioの後裔であった。
Argosの町を支配していたSthenelasの子Gelanorは、Danausに追われて、Sicyonの町へ逃れた。[30]
このとき、Mycenaeの町は、Gelanorの兄弟Eurystheusが支配していた。[31]
Mycenaeの町も、Danausによって破壊され、Mycenaeの町の住人は、Sicyonの町へ逃れた。

3.3 Argosの占領
BC1408年、Gelanorの子Lamedonは、Sicyonの町のOrthopolisの協力を得て、Argosの町を占領した。[32]
Danausの跡を継いだLynceusが死に、Lynceusの子Abas (or Triopas)が父の跡を継いでから、5年目であった。[33]
Abasは、Argosの町からPhocis地方へ移住してAbaeの町を建設した。[34]

3.4 Achaeansとの戦い
BC1407年、Achaeusの2人の息子たち、ArchanderとArchitelesは、Argosの町を占拠していたLamedonを追い出した。[35]
Sicyonの町のOrthopolisは、Lamedonに味方して、Archanderと戦った。
Archanderに味方したのは、Locris地方のDeucalionの子MarathoniusやAeolusの子Sisyphusであった。[36]

3.5 戦いの結果
Deucalionの子Marathoniusは、Orthopolisの娘Chrysortheを妻にして、第13代Sicyon王になった。[37]
しかし、Castorが記したSicyon王の系譜にあるMarathoniusは、形式的なものであった。
実質的にSicyonの町を支配したのは、Aeolusの子Sisyphusであった。
Sicyonの町の支配者は、TelchinesからAeolisになった。

4 Aeolisによる支配
Sisyphusは、Sicyonの町の東隣にEphyra (後のCorinth)の町を創建し、両方の町を統治した。[38]

4.1 Sisyphusの後のSicyon
Sisyphusの死後、Sicyonの町は、Sisyphusの子Aloeusが継承し、Corinthの町は、Sisyphusの子Aeetesが継承した。[39]
Aloeusの跡を、彼の息子Epopeusが継いだ。[40]
EpopeusはSicyonの町に住み、Corinthの町をも支配した。[41]

4.2 Epopeusの妻Metope
4.2.1 Metopeの系譜
Thebesの町のすぐ東側を南から北へ流れるIsmenus川の名付け親は、Meliaの子Ismenusであった。それ以前、Ismenus川は、Ladon川と呼ばれていた。[42]
また、Phlius地方のAsopus河神はLadonの娘Metopeと結婚し、Boeotia地方の川の名親となった息子Ismenusが生まれた。[43]
Ladonの娘Metope (or Melia)には、もう一人の息子Tenerus (or Pelasgus, Pelagon)がいた。[44]
Tenerusは予言者であり、Copais湖の東方Ptous山に神託所を開設した。[45]
Thebes攻め時代のThebesの町の予言者Everesの子Teiresiasは、Cadmus時代のSpartiの一人Udaeusの後裔であった。[46]
また、Thebesの町で、Amphitryonの妻Alcmenaの出産に立ち会ったTeiresiasの娘Historisも、予言者であった。彼女の父Teiresiasは、Everesの息子ではなく、Metopeの子Tenerusの息子と思われる。[47]
以上のことから、Metopeの父Ladonは、Everesの子Teiresiasの先祖であり、Ladonの父は、Cadmusと共にCadmeiaに住み着いたSpartiの一人Udaeusと推定される。[48]

4.2.2 Metopeの夫
Metopeの夫、つまり、Phlius地方のAsopus河神は、つぎの理由からAloeusの子Epopeusと推定される。
1) Metopeの息子Ismenusは、Epopeusが住んでいたPhlius地方からBoeotia地方へ移住して、Ismenus川の近くに定住した。[49]
Ismenus川は、Ladon川と呼ばれていた。[50]
恐らく、その川の名前は、Metopeの父Ladonに因んで名付けられたと思われる。[51]
2) Asopus河神の娘Harpina (or Harpine)は、Arcadia地方西部のHeraeaの町に嫁いだが、その町の近くを流れる川の名前はLadonであった。[52]
Harpinaが結婚した頃、Phlius地方からAsopus川が流れ込むSicyonの町の支配者は、Epopeusであり、Harpinaの父Asopus河神は、Epopeusと推定される。
つまり、Metopeの夫は、Epopeusであり、彼らの娘HarpinaがHeraeaの町の近くを流れるLadon川に、彼女の母の故郷の川と同じ名前を付けたと推定される。

4.3 EpopeusとAntiopeについて
4.3.1 史料出現
Homerの作品に、AmphionとZethusの母としてAntiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[53]
Herodotusの著作には、AntiopeもEpopeusも登場しない。
Apollonius of Rhodesの著作には、AmphionとZethusの母Antiopeは登場するが、Epopeusは登場しない。[54]
年代記作者CastorやJeromeの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[55]
Diodorusの著作には、Sicyon王Epopeusは登場するが、Antiopeは登場しない。[56]
Hyginusの著作には、Epopeusではなく、Antiopeと結婚して、Lycusに殺されるEpaphusが登場する。[57]
Apollodorosの著作には、AntiopeがSicyonの町のEpopeusのもとへ逃れて結婚し、Thebesの町のLycusがSicyonの町を攻めて、Epopeusを殺したと伝えている。[58]
Isaac Newtonは、Pausaniasと同じように伝えている。[59]

4.3.2 Pausaniasの記述
Pausaniasは、Sicyonの町のEpopeusと、Epopeusの子Marathonについて、つぎのように記している。
Corinth王Bunusが死ぬと、Sicyon王EpopeusがCorinthの町をも支配した。[60]
EpopeusがAntiopeを誘拐したので、ThebansはSicyonの町へ攻め込んだ。Nycteusはこの時負傷したが、Epopeusは負傷したが、勝利した。
Nycteusは負傷し、死に臨んで兄弟のLycusに復讐を頼んだ。
Antiopeは、Thebansによって、Thebesの町まで連れて行かれる途中でAmphionとZethusを産んだ。[61]
Heliusの子Aloeusの子Epopeusの子Marathonが、父の無法と横暴を逃れてAttica地方の海沿いの地へ移住した。そして、Epopeusが死ぬとMarathonは、彼の息子たちに王国を分け与え、再びAttica地方へ帰った。[62]
EpopeusとAntiopeの伝承は、意図的に、Thebesの町の基礎を築いたAmphionとZethusをSicyonの町に結び付けようとしているようである。

4.3.3 EpopeusとThessaly
Pausaniasは、「EpopeusがThessalyから来て王国を獲得した」と伝えている。[63]
系図を作成すると、同じ頃に、Thessaly地方のArneの町に、ItalyからAeolusの娘Melanippeの子Boeotusが帰還して、Aeolusの跡を継いでいる。[64]
Epopeusは、Aeolusの娘Canaceの息子であり、Boeotusと同じく、Arneの町のAeolusの孫であった。[65]
恐らく、Epopeusは、Arneの町のAeolusの養子になり、Boeotusが帰って来たために、Thessaly地方からSicyonの町へ戻ったものと思われる。

4.4 Atticaからの移住
BC1321年、Epopeusが死ぬと、彼の息子Marathonは、Attica地方からSicyonの町に戻り、Sicyonの町とCorinthの町を継承した。[66]
Marathonの2人の息子たち、SicyonとCorinthusは、Asopiaの町とEphyraeaの町を分け与えられて、それぞれの町は、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[67]
Marathonの妻は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[68]
つまり、Marathonの跡を継いで、Sicyon王になったSicyonは、Erechtheusの孫であった。

4.5 Teneaからの移住
BC1276年、Marathonの子Sicyonの跡を、彼の娘Chthonophyleの子Polybusが継いだ。[69]
Polybusは、Corinth地方のTeneaの町に住んでいたが、町を彼の養子Oedipusに任せて、Sicyonの町へ移住した。[70]

4.6 Argosへの嫁入り
BC1263年、Polybusの娘Lysianassaは、Argosの町のBiasの子Talausのもとへ嫁ぎ、息子Adrastusが生まれた。[71]
LysianassaとTalausは、Mimasの子Hippotesの子Aeolusを共通の先祖としていた。

4.7 Talausの子Adrastus
BC1247年、Argosの町のTalausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、Sicyonの町のPolybusのもとへ亡命した。[72]
Polybusは、Adrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosの町へ帰還した。[73]
BC1236年、Polybusが死に、Polybusの孫Adrastusは、Sicyonの町の人々から招かれて、町を治めた。[74]
BC1232年、Adrastusは、Sicyonの町に4年間住んだ後で、Argosの町へ帰還した。[75]

5 Adrastus以降のSicyon
Adrastusが去った後のSicyon王の系譜は、2通り存在する。

5.1 Castorの記述
Adrastusの跡をPolypheides、Pelasgus、Zeuxippusが王になり、その後、Apollo Carneiusの司祭がSicyonの町を支配した。[76]
Castorは、3人の王の統治期間の合計を82年とし、BC1150年からDorinasの支配が始まったように伝えている。

5.2 Pausaniasの記述
Adrastusの後にIaniscus、Phaestus、Zeuxippus、Hippolytus、Lacestadesが王になった。Lacestadesの時代に、Temenusの子Phalces率いるDorinasに攻められたが、LacestadesもHeracleidaeの一人であったので、共住した。[77]
Pausaniasは、PhaestusがHeraclesの息子だと記している。しかし、それが本当であれば、Mycenae王Eurystheusに追い出されていた筈である。Phaestusは、母の名前も不明であり、Heraclesの息子ではないと思われる。[78]

5.3 王制の廃止
BC1109年からSicyonの町は、Dorinasによって支配された。
Dorinasの支配になってからは、王の支配ではなく、司祭がSicyonの町を支配した。[79]
Sicyon王の統治期間を、Castorの年代記は、959年、Jeromeの年代記は、962年、Suda辞典は、981年であったと記している。[80]
しかし、実際は、BC1750年からBC1109年までの641年間であった。

おわり