1 はじめに  
3世紀の地理学者Gaius Julius Solinusは、Rhode島に太陽が当たらないほど空が曇ることはないと記している。[1] 
Rhode島は、日光に恵まれ、人々が暮らしやすい島であり、古くからギリシア人が定住した。しかし、Rhode島は、恵まれた島であったがために、住人が入れ替わる程の戦いが幾度もあった。  
Rhodes島の住人は、Telchines (or Telchinians)からHeliadae、Phoenicians、Carians、そして、Doriansへと目まぐるしく変わった。[2] 
      2 Telchinesの時代  
        2.1 最初のギリシア人  
        Ophiussa、あるいは、Stadiaと呼ばれていたRhodes島に、最初に住んだギリシア人は、Telchinesであり、島は、Telchinisと呼ばれるようになった。[3] 
        Straboは、TelchinesがCrete島からCyprus島へ行き、そこからRhodes島に行ったと記している。[4] 
        これは、Crete島で鉄を発見したCelmisとDamnameneusが、Cyprus島でも鉄を発見したことのようである。[5] 
        彼らは、Idaean  Dactylsであり、Telchinesであった。[6] 
        しかし、彼らがCrete島で鉄を発見したのは、BC1438年であり、TelchinesがRhodes島から追放されたのは、BC1425年であった。  
        つまり、TelchinesがRhodes島に住んでいたのは、長くても13年間ということになる。  
        この年数は、Rhodes島が、Telchinesに因んでTelchinisと呼ばれたことから考えて、少な過ぎる。[7] 
        Telchinesは、Crete島で鉄が発見される前から、Rhodes島に住んでいたと思われる。  
      2.2 最初の定住  
        Diodorusは、Telchinesに属する娘Haliaから娘Rhodosが生まれたと記している。[8] 
        BC1390年、Rhodosの子Triopasは、Deucalionの息子たちに加勢して、PelasgiansをThessaly地方から追放した。[9] 
        従って、Rhodosが生まれた、BC1470年頃には、Telchinesは、既にRhodes島に住んでいたことになる。  
        Telchinesが、Sicyonの町からCrete島へ移住したのは、BC1690年であり、その後、Rhodes島へも居住範囲を広げたと思われる。[10] 
        つまり、TelchinesがRhodes島に定住したのは、BC1690年からBC1470年までの間であった。  
        Telchinesの最初の定住地は、Ialysusの町付近と思われる。  
        先住していたTelchinesを追い出したHeliadaeの中で最年長はCercaphusであり、Cercaphusの跡を、長男Ialysusが継いだ。[11] 
        Ialysusは、Rhodes島北部のIalysusの町に住んでいた。[12] 
      2.3 Creteからの移住  
        BC1450年、Erysichthonは、Crete島東部のPrasusの町からRhodes島へ移住して来た。[13] 
        Erysichthonの移住は、Arcadia地方のTegeaの町からTegeatesの子Gortysに率いられたPelasgiansがGortynaの町に入植したことが原因と推定される。[14] 
        Erysichthonは、Haliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが生まれた。[15] 
  Haliaは、Telchinianであった。Erysichthonと共に、Crete島から入植した人々は、Telchinesと共住した。Erysichthonは、BC1690年にSicyonの町からCrete島へ移住したCresの後裔であり、Eteocretansであり、Telchinesであった。[16] 
        つまり、Erysichthonは、同族を頼って、Rhodes島へ移住したと思われる。  
      2.4 中継地としてのRhodes 
        次に述べるDanausやCadmusは、EgyptやPhoenicia地方からGreeceへ来る前に、Rhodes島に立ち寄っている。  
        彼らより前に、少なくとも2つの移民団がRhodes島に立ち寄っている。  
        そのとき、Rhodes島に定住した人々もいたと思われる。  
        1) BC1580年にBoeotia地方からEgyptへ移住したEctenesの移民団  
        彼らは、Nile DeltaにSaisの町を創建した。[17] 
        彼らの中にいたCecropsは、Saisの町からAttica地方へ移住して、初代Athens王になった。[18] 
        2) BC1560年にArgosの町からLyciaやEgyptへ移住したPelasgiansの移民団  
        彼らの中にいたTriopasの子Xanthusは、Lycia地方に植民した後で、Lesbos島へ移住した。[19] 
        彼らの中にいたCyrnusは、Caria地方にCyrnusの町を創建した。[20] 
        彼らの中にいたIasusと彼の娘Ioは、Egyptへ移住した。[21] 
      2.4.1 Danausの訪問  
        BC1430年、Danaus率いるPelasgiansは、Egyptを追われて、Rhodes島の東海岸に上陸した。[22] 
        伝承では、Danausは、Lindusの町に上陸したことになっているが、当時、Lindusの町は創建される前であった。[23] 
        Danausは島を去ったが、彼の2人の娘たち、HeliceとArchediceは島に残って、Lindian Athena神殿を建立した。[24] 
        彼女たちと共にDanausの移民団の中にいたPelasgiansの一部も島に残ったと思われる。  
      2.4.2 Cadmusの訪問  
        BC1426年、Cadmusは、Rhodes島の北東海岸に上陸して、Poseidonの神殿を建立した。[25] 
        伝承では、Cadmusは、Ialysusの町に上陸したことになっているが、当時、Ialysusの町は創建される前であった。[26] 
        Cadmusは、東海岸にも立ち寄り、Lindian Athena神殿に青銅製の大釜を奉納した。[27] 
        Cadmusは島を去ったが、彼の移民団の中にいたPhoeniciansの一部は、Rhodes島に定住したと推定される。[28] 
      3 Heliadaeの時代  
        3.1 TelchinesとHeliadaeの戦い  
        BC1425年、Erysichthonの息子たち(Heliadae)とTelchinesとの間で争いが生じて、Telchinesは島を追われた。[29] 
        DanausやCadmusの移民団の中にいて、Rhodes島に定住したPhoeniciansも、Heliadaeに加勢した。島を追われたTelchinesのLycusは、Lycia地方のXanthus川近くへ移住した。[30] 
        それまで、Telchinisと呼ばれていた島は、Heliadaeの母Rhodosの名前に因んで、Rhodes島と呼ばれるようになった。[31] 
      3.2 BC1420年の大津波  
        BC1420年、Rhodes島は大津波に襲われて、水たまりが生じたが、太陽の熱で、大地は元通りになった。人々は、ErysichthonをHeliosと同一視して、Erysichthonの7人の息子たちは、Heliadae (or Heliads)と呼ばれるようになった。[32] 
      3.3 Heliadaeの内紛  
        BC1415年、Erysichthonの息子たち、Ochimus、Cercaphus、Macareus、Triopas、Actis、Candalus、Tenagesの間で争いが発生した。  
        Tenagesは殺され、OchimusとCercaphusを残して、他の息子たちは島から各地へ移住した。  
      3.3.1 Lesbosへの移住  
        Erysichthonの子Macareus (or Macar)は、Rhodes島からLesbos島へ移住した。[33] 
        Macareusの移住から25年後、Lesbos島は、2回目の大津波に襲われて荒廃した。[34] 
      3.3.2 Cosへの移住  
        Erysichthonの子Candalusは、Rhodes島からCos島へ移住した。[35] 
      3.3.3 Egyptへの移住  
        Erysichthonの子Actis (or Auges, Atlas)は、Rhodes島からEgyptへ移住して、Heliopolisの町を創建した。[36] 
        Actisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれたMacerisに星の知識を伝授した。[37] 
        Phoeniciansが海洋民族になることができたのには、ActisとMacerisの功績が大きい。  
        BC6世紀初頭、Athensの町のSolonがEgyptを訪問した時に、Heliopolisの町にいた祭司Psenophisは、Actisの後裔と思われる。[38] 
      3.3.4 Cariaへの移住  
        Erysichthonの子Triopasは、Caria地方のCherronesusに住むMelisseusのもとへ逃れた。[39] 
        Melisseusは、Crete島からCherronesusへ移住した5人のCuretesの一人であった。[40] 
        MelisseusもTelchinianであり、Triopasと同族であった。[41] 
        BC1390年、Triopasは、Deucalionの息子たちがThessaly地方からPelasgiansを追い出すのを援助して、Thessaly地方のDotiumを獲得した。[42] 
        BC1388年、Triopasは先住民と争って、Thessaly地方からCaria地方のCherronesusへ移住して、Triopium  (or Triopia)の町を創建した。[43] 
        Triopiumの町は、後のCnidus領の岬にあった。[44] 
        後に、Cnidusの町の住人は、創建者Triopasの像をDelphiに奉納した。[45] 
        BC1380年、Triopasは、Chthoniusが無人のMetapontis島に入植するのを援助した。Chthoniusは、IalysusとDotisの娘Symeの息子であった。島は、Chthoniusの母の名前に因んで、Syme島と呼ばれるようになった。[46] 
      3.4 BC1390年の大津波  
        BC1390年、Cercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusの時代にRhodes島は再び大津波に襲われ、彼らが住んでいたCyrbeの町は破壊された。[47] 
        BC1389年、Cercaphusの息子たちは、大津波の被害から回復した島に、自分たちの名前を付けた3つの町を創建した。[48] 
      3.5 内紛の発生  
        BC1370年、Triopasが死ぬとTriopiumの町で内紛が起きて、Triopiumの町の住人は、各地へ移住した。[49] 
        Triopasの子Phorbasは、Rhodes島のIalysusの町を、Triopasの子Periergusは、Cameirusの町を占領した。[50] 
        また、Triopiumの町からThessaly地方のDotiumへの移住もあった。[51] 
        恐らく、TriopasがDotiumを追われたとき、Triopasに味方したAeoliansも一緒に、Triopiumの町へ移住し、Triopasの死を契機に、Thessaly地方へ帰還したと思われる。  
        Triopiumの町で発生した内紛は、Rhodes島から追放されたTriopasの息子たちと、島に残っていたCercaphusの息子たちとの戦いに発展した。  
        Ialysusの町とCameirusの町を奪われたCercaphusの息子たちは、Lindusの町に住んでいたと思われる。  
        この戦いで、Rhodes島のHeliadaeの勢力は衰退した。  
      3.6 Lesbosからの移住  
        BC1340年、Macareusの子Leucippusは、Lesbos島からRhodes島へ移住した。[52] 
        Macareusは、Rhodes島からLesbos島へ移住したErysichthonの子Macareusではなく、PeloponnesusからLesbos島へ移住したAeolusの子Macareusであった。  
        Triopiumの町からThessaly地方のDotiumへ帰らず、Triopasの息子たちと共にRhodes島へ移住したAeoliansもいたと推定される。  
        Leucippusは、Rhodes島の住人に歓迎されたと伝えられるが、Aeoliansが同族のLeucippusを味方に付けるために、島に呼び寄せたと思われる。[53] 
      3.7 Thessalyからの移住  
        BC1320年、Lapithesの子Phorbasは、Thessaly地方からRhodes島へ移住した。[54] 
        PhorbasをRhodes島へ呼び寄せたのは、Macareusの子Leucippusであったと推定される。Phorbasは、Leucippusの父Macareusの兄弟Lapithesの息子であり、PhorbasとLeucippusは、従兄弟同士であった。  
        Phorbasは、Phoeniciansとの争いに苦しめられていたLeucippusに加勢するために、Rhodes島へ渡ったと推定される。  
      4 Phoeniciansの時代  
        4.1 Peloponnesusへの移住  
        BC1306年、Phorbasは、Rhodes島からPeloponnesus北西部のOlenusの町へ移住した。[55] 
        Diodorusは、Elis王AlectorがPhorbasを呼び寄せたと伝えている。[56] 
  しかし、Phorbasは、HeliadaeやAeoliansと共に、Phoeniciansと戦ったが、戦いに敗れて、島から追放されたと推定される。  
        Leucippusと共にLesbos島からRhodes島へ移住したAeoliansの中には、Aeolusの子Macareusと共にOlenusの町からLesbos島へ移住したAeoliansがいた。[57] 
        Phorbasは、Aeoliansに案内されて、Olenusの町へ移住したと考えられる。  
      Phorbasが去った後、Rhodes島の支配者は、Phoeniciansになった。  
      4.2 Creteからの移住  
        BC1230年、Minosの子Catreusの子Althaemenesは、Crete島からRhodes島へ移住した。[58] 
        Althaemenesは、上陸した土地をCretiniaと呼んだ。[59] 
        別な伝承では、Althaemenesの上陸地点は、Cameirusの町であった。[60] 
        恐らく、Cameirusの町は、BC1389年に建設された後、住む人もない土地になっていたと思われる。[61] 
        Althaemenesは、Rhodes島内で一番高いAtabyris山にZeusの祭壇を設けた。[62] 
        AtabyrisのZeusは、Pindarの詩にも詠まれるほど有名になった。[63] 
        Atabyris山からAlthaemenesの祖国Crete島が見えた。[64] 
        Althaemenesの移住は、Crete島内での騒乱が原因と推定される。  
      4.3 Argolisからの移住  
        BC1213年、Heraclesの子Tlepolemusは、Rhodes島へ移住した。[65] 
        Tlepolemusは、Mycenaeの町のEurystheusの死後、Hyllus率いるHeracleidaeの一員として、Argolis地方へ帰還した。[66] 
        その後、HeracleidaeはAttica地方へ戻ったが、Tlepolemusは、祖母の弟Licymniusと共に残留した。Licymniusが死んで、TlepolemusはTirynthiansを率いて、Rhodes島へ移住した。[67] 
        TlepolemusはRhodes島で3つの町を創建したと伝えられる。それらの町の名前は、Cercaphusの息子たちが創建した町の名前と同じであった。[68] 
        恐らく、PhoeniciansがHeliadaeを島から追放した後で、3つの町の住人が少なくなっていたのをTlepolemusが再建したものと思われる。  
      5 Cariansの時代  
        BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、戦いに敗れて、各地へ四散した。  
        Achaeansの一部は、Asia Minorへ逃れ、彼らに追われたCariansは、Aegean Seaの島々へ逃れた。Cariansの一部は、Rhodes島へ逃れて、Phoeniciansを島から追い出して、Rhodes島の支配者になった。[69] 
      6 Doriansの時代  
        6.1 Argosからの移住  
        BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いて、Rhodes島へ入植した。[70] 
        彼らの移住の原因は、Peloponnesosに発生した飢饉であった。[71] 
        Megaraの町に住んでいたDoriansもAlthaemenesの移民団に参加した。[72] 
        Rhodes島の支配者は、Telchines、Heliadae、Phoenicians、それからCariansになっていた。Doriansは、Cariansを島から追い出して、Rhodes島の支配者になった。[73] 
        このときも、Doriansは、Lindus、Ialysus、Cameirusの町を創建したと伝えられる。[74] 
        恐らく、それらの町は、Cariansによる支配下で衰退し、Doriansは住人が少なくなった3つの町を再建したのだと思われる。  
        3つの町に加えて、Doriansが入植したCos、Cnidus、Halicarnassusは、Doric Hexapolisと呼ばれるようになった。[75] 
        Greeceの7賢人の一人、Rhodes島のLindusの町のCleobulusは、Althaemenesの後裔と推定される。[76] 
      6.2 Sicilyへの移住  
        BC688年、Antiphemusは、Rhodes島からLindiansを率いて、Sicily島南東部へ移住してGelaの町を創建した。[77] 
        Cratonの子Entimusは、Cretansを率いて、Gelaの町の建設に参加した。[78] 
        Gelaの僭主Geloの先祖DeinomenesもRhodes島のLindusの町からGelaの町の建設に参加した。[79] 
      6.3 Pamphyliaへの移住  
        BC688年、Antiphemusの兄弟Laciusは、Lindusの町からPamphylia地方へ移住して、Phaselisの町を創建した。[80] 
        Sicily島やPamphylia地方への移住は、同じ年の出来事であった。[81] 
      6.4 Messeniaからの移住  
        Lacedaemoniansに攻められて、Messeniansが立て籠もっていたMessenia地方のEiraが陥落した。[82] 
        BC667年、Messeniansの指導者Nicomedesの子Aristomenesは、Rhodes島のIalysusの町へ移住した。[83] 
        Aristomenesの娘は、Ialysusの町に住むHeraclesの子Tlepolemusの後裔Damagetusと結婚した。[84] 
        Aristomenesは、Ialysusの町で病没した。[86] 
        その後、Aristomenesの墓は、Rhodes島からMessenia地方のMesseneの町に改葬された。[87] 
      6.5 Libyaへの移住  
        BC630年、Polymnestusの子Battusは、Thera島から移民団を率いてLibyaに渡り、Cyreneの町を創建した。[88] 
        Lindusの町に住んでいたPancisの息子たちも、Cyreneの町の建設に参加した。[89] 
        Thera島で噴火があった時もRhodes島から人々が駆け付けているが、Rhodes島とThera島の間には、親密な関係があったと思われる。[90] 
      6.6 Ciliciaへの移住  
        BC585年、Athensの町のSolonは、Philocyprusに協力して、Cilicia Pedias地方にSoliの町を創建した。[91] 
        町の建設には、Rhodes島のLindusの町からAchaeansやRhodiansが参加した。[92] 
        これは、SolonとLindusの町の支配者Cleobulusとの交友関係によるものであった。[93] 
      6.7 Athena神殿の再建  
        BC575年、Lindusの町のCleobulusは、Danausの娘たちが建立したAthena神殿を再建立した。[94] 
        Cleobulusは、Danausが自分の先祖であると認識していたと思われる。  
        Cleobulusは、Heraclesの後裔であり、Doriansであった。[95] 
        つまり、Cleobulusは、Heraclesの子Tlepolemusではなく、Ceisusの子Althaemenesの後裔と推定される。  
      おわり   |