1 はじめに
Homerは、Arcadia地方にある同じ名前の町と区別するため、Boeotia地方の町は、MinyaeのOrchomenusと呼んでいた。[1]
町がOrchomenusという名前で呼ばれたのは、Arcadia地方の町の方が早かったが、知名度は、Boeotia地方の町の方がはるかに高かった。[2]
Boeotia地方のOrchomenusの町は、EgyptのThebesと並び称されるほど、富裕な町であったが、青銅器時代のOrchomenusの町には、波乱に富んだ歴史があった。
2 AthamasとAndreusの入植
2.1 Athamasの入植
Cadmusの入植から30年遅れて、AeolisがBoeotia地方へ入植した。
Boeotia地方へ初めて入植したAeolisは、Hellenの子Aeolusの子Athamasであった。Athamasは、Thessaly地方のArneの町からPagasetic Gulf西岸へ移住して、Halusの町を創建した。
BC1390年、Halusの町が大津波によって洗い流され、Athamasは、Copais湖の近くへ移住した。[3]
そこは、Athamasの先祖Deucalionの祖父が住んでいた土地であった。
2.2 Acraephniumの創建
Athamasは、Copais湖の東側にAcraephniumの町を創建し、Athamasの子Ptousは近くの山に名を残した。[4]
Athamasは、Acraephniumの町とCopais湖の間にあるAthamantian平野に住んでいた。[5]
Athamasが入植したとき、Copais湖周辺にはCadmusと共に移住して来たEncheleansが住んでいた。[6]
Encheleansは、Cadmusが住んでいたCadmeiaの町の近くへ移住して、その後、Illyria地方へ移住した。[7]
2.3 Athamasの子供たち
2.3.1 Inoの息子たち
多くの伝承がAthamasとCadmusの娘Inoが結婚して、2人の息子たち、Learchus と Melicertesが生まれたと伝えている。[8]
しかし、AthamasがBoeotia地方へ移住して来たとき、彼は55歳と推定され、多くの子供たちがいたことから、この伝承は、作り話と思われる。
2.3.2 Phrixus
BC1390年、Athamasの子Phrixusは、Ephyraea (後のCorinth)の町のSisyphusの子Aeetesの移民団に参加して、Colchis地方へ移住した。[9]
AeetesとPhrixusは、従兄弟同士であった。
Phrixusは、Aeetesの娘Chalciopeと結婚した。[10]
2.3.3 Schoenusの創建
BC1380年、Athamasの子Schoeneusは、Thebesの町とAnthedonの町の間に移住して、Schoenusの町を創建した。[11]
2.4 Andreisの創建
Orchomenusの町の創建者について、次の2つの伝承がある。
1) Orchomenusの町は、Peneius河神の子Andreusが創建し、当時の町の名前はAndreisであった。[12]
2) 昔、Deucalionが住んでいた、Iolcusの町がある地方から、Aeolusの子MinyasがCadmusの地と境を接する土地にOrchomenusの町を創建した。[13]
以上の伝承から、Orchomenusの町の創建者は、Thessaly地方北部を流れるPeneius川付近を領していたAeolusの息子で、Minyasという別名を持つAndreusであったと推定される。
また、このMinyasは、BC5世紀の神話学者Pherecydesが伝えているNeleusの妻Chlorisの父Amphionの母の母Persephoneの父Minyasと同一人物と思われる。[14]
Aeolusの子Andreusが、Thessaly地方のArneの町から移住して、Andreisの町を創建したのは、BC1380年と推定される。[15]
2.5 AthamasとAndreusの入植時期
Pausaniasによれば、Andreusは後から来たAthamasに土地を与えたというが、逆であったと思われる。Copais湖東岸に先住していたAthamasが、後から来たAndreusに土地を分け与えたと理解した方が妥当である。[16]
Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であったが、Andreusの父をそのAeolusとするのは、無理である。もしそうであれば、AndreusとAthamasを兄弟となるが、Andreusが兄弟の孫娘を妻にすることは有り得ない。[17]
Andreusの父は、Hellenの子Aeolusではなく、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusであった。
Athamasは、Andreusの曾祖父Mimasの兄弟であった。
奇異な感じがするが、Andreusは成年に達したばかりであったが、Athamasは結婚適齢期に達した孫のいる老人であり、両者の間には、2世代の差があった。[18]
後にOrchomenusの町の名声が高まり、AndreusがAthamasに土地を与えたという逆の伝承ができたと思われる。
2.6 Andreisの位置
Athamasが入植した当時、Copais湖周辺にはEncheleansの他に、Cadmusに追われたHyantesも居住していた。[19]
また、Phocis地方には、Thraciansが居住していた。[20]
Aeolisは、Athamasが入植したAcraephiumの町からCopais湖西側へ居住範囲を広げて行った。したがって、Athamasのすぐ後に入植したAndreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の近くにあったと思われる。[21]
Straboは、古いOrchomenusの町がCopais湖に沈み、Copais湖の西側のAcontius山の近くに新しい町を建設したと伝えている。[22]
Andreisの町は、Acraephiumの町の北側にあったと推定される。
3 Andreusの子Eteoclesの時代
3.1 Olmonesの創建
BC1365年、Sisyphusの子Almusは、Corinthの町からCopais湖の北へ移住して来た。[23]
Pausaniasは、EteoclesがAlmusに土地を分け与えたと伝えている。[24]
Pausaniasは、AndreusがAthamasに土地を分け与えたと、逆に記していたが、その話に沿って、Almusに土地を分け与えたのは、Eteoclesだと記している。
しかし、実際は、Eteoclesではなく、AthamasがAlmusに土地を分け与えたと思われる。
Eteoclesは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子であり、Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子であった。つまり、Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
一方、Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子であり、Almusの叔父であった。
Almusは、Eteoclesではなく、叔父Athamasを頼って移住してきたと考えた方が妥当である。
Almusが創建した町は、Almonesと呼ばれていたが、後にOlmonesと呼ばれるようになった。[25]
3.2 HaliartusとCoroneiaの創建
Athamasは、跡継ぎにしようとしていた息子Leuconが病死し、彼の甥Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusを養子に迎えた。[26]
BC1370年、CoronusはCopais湖の南西にCoroneiaの町を創建した。[27]
Haliartusは、Coroneiaの町からThebesの町寄りの地にHaliartusの町を創建した。[28]
3.3 Phrixusの子Presbonの帰還
BC1370年、Colchis地方へ移住したAthamasの子PhrixusのもとからPhrixusの子Presbonが祖父Athamasのもとへ帰還した。[29]
Athamasは、HaliartusとCoronusを養子にしたが、彼らに与えた土地以外の土地をPresbonに相続させた。[30]
4 Chryseの子Phlegyasの時代
Andreusの子Eteoclesが跡継ぎを残さずに死ぬと、Almusの娘Chryseの子PhlegyasがEteoclesの跡を継いだ。[31]
4.1 Phlegyasの創建
BC1360年、Phlegyasは、Phlegyasの町を創建して、戦士たちを集めた。彼らは、Phlegyansと呼ばれるようになった。[32]
Phlegyansは、Phlegyasの祖父Almusと共にCorinthの町からBoeotia地方へ移住して来たThessaly地方出身のAchaeansであった。
Phlegyasは、まだ近くに住んでいたHyantesの略奪から収穫物を守るために、戦士たちを集めたと思われる。
Phlegyasの町の建設は、Tirynsの町の城壁築造より10年以上前であった。[33]
その町は、外敵から守りやすい小高い丘の上に収穫物の貯蔵庫を作り、まわりに柵を廻らした程度であったと思われる。
4.2 Gla (or Glas)の遺跡
19世紀後半にBoeotia地方のCopais湖が干拓されて、謎の古代遺跡Glaが姿を現したと言われている。しかし、1805年12月27日、イギリス王立協会会員、William Martin Leakeは、Glaの遺跡の近くを通って、「要塞化された島」を目にしていた。[34]
Leakeは、その島を、Pausaniasが記しているAeolusの子Athamasの館があった場所だと推定した。[35]
しかし、Pausaniasは、Copais湖とAcraephiumの町の間のAthamantian平野にAthamasの館があったと記している。[36]
Athamasは、彼を頼ってThessaly地方のArneの町から出て来た若者Andreusに土地を与えて、彼の孫娘EuippeとAndreusを結婚させた。[37]
Andreusが創建したAndreisの町は、Acraephiumの町の北側の低地にあったが、Copais湖に水没して、湖の西側へ新たな町Orchomenusを建設した。[38]
Chryseの子PhlegyasがPhlegyasの町を建設したのは、彼がAndreisの町に住んでいた時であり、Phlegyasの町はAndreisの町の近くにあった。
つまり、「要塞化された島」とはGlaであり、その古代名は、Phlegyasと推定される。
5 Chrysogeneiaの子Chrysesの時代
Phlegyasの跡をAlmusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesが継いだ。[39]
Chrysesの時代にCopais湖の水位が上がってAndreisの町は人が住めなくなった。
BC1350年、Andreisの町の住人は、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しい町(後のOrchomenus)を建設した。[40]
5.1 Aspledon の創建
BC1350年、Athamasの子Orchomenusの子Aspledonは、Copaic Lake北西にAspledonの町を創建した。[40-1]
Pausaniasは、水不足のために住民はAspledonの町を見捨てたと伝えているが、Straboによれば、Aspledonの町は、川の近くにあり、気候に恵まれていた。[40-2]
また、Aspledonの町から住人がいなくなった訳ではなく、Aspledonの孫と思われるHymenaeusがAspledonの町に住んでいた。[40-3]
Aspledonの町の名前は、Homerの軍船目録やローマ時代のBoeotia地方の町の一覧にも記されている。[40-4]
5.2 Mideiaの創建
BC1340年、Aspledonは、Aspledonの町から南南西へ移住して、Mideiaの町を創建した。[40-5]
Straboは、Mideiaの町は湖に沈んだと述べているが、別なMideiaがあったのかもしれない。[40-6]
後に、Lebadeiaと呼ばれるようになったMideiaの町は、高台に建設されていた。[40-7]
6 Chrysesの子Minyasの時代
6.1 Copais湖の排水工事
Minyasは、Copais湖の水を海へ流す地下水路を掘削した。自然にできた地下水路の入り口がCopais湖の北東のCopaeの町の近くにあり、その水路の流れを良くするために掘削したものであった。[41]
地下水路は、Cadmeiaの町にもあり、既にCadmusの時代から工事が行われていた。[42]
Copais湖に沈んだBoeotia地方の町には、Athensの町やEleusisの町、Andreis(古いOrchomenus)の町がある。[43]
また、Arneの町やMideiaの町もCopais湖に沈んだとStraboが伝えている。[44]
Alexander the Greatは、Chalcisの町の鉱山師Cratesに命じて、Copais湖の水を排出する地下水路を塞いでいる詰まり物を除去させた。[45]
その結果、湖水に沈んでいたAthensの町が姿を現した。[46]
6.2 Minyansの宝庫
Minyasの時代、Minyansは黄金期を迎え、初めて宝庫が建てられた。[47]
Cephisus川が流入するCopais湖周辺の土地からの収穫が如何に多かったかを物語っている。
Herodotusは、EgyptのRhampsinitus王の宝庫を建てた職人の息子たちが、宝庫から財宝を盗み出す逸話を伝えている。[48]
Pausaniasもこれに似た逸話を伝えているが、宝庫の持ち主はHyrieusであり、場所はLebadeiaの町の近くであった。[49]
また、王はAugeasとする伝承もあり、その土地の昔の支配者を逸話に取り入れているようである。[50]
恐らく、莫大な富を築いたMinyansの宝庫と近くにあるTrophoniusの神域から生まれた逸話が各地で語られたものと思われる。[51]
Herodotusは、Trophoniusについては触れずに、Egyptでの物語として伝えている。
6.3 Onchestusの創建
BC1320年、Haliartusの子Hippomenesは、Haliartusの町から東南東へ移住して、Onchestusの町を創建した。[52]
6.4 Minyansの広がり
Minyansの富は広く知れ渡り、各地の有力者の息子たちが、Minyansの町から妻を迎えるようになった。[53]
古代Greeceでは、娘が嫁ぐ際に持参金を用意したようであり、Homerは娘の持参金の代わりに自作の叙事詩「Cypria」を婿のStasinusに贈った。[54]
各地に嫁いだ花嫁には多くのMinyansが同行して移住した。特に、Thessaly地方のIolcusの町の周辺には、多くのMinyansが住むことになった。[55]
6.4.1 Phylaceへの嫁入り
BC1317年、Minyasの娘Clymeneは、Thessaly地方のPhylaceの町に住むPhylacusのもとへ嫁いだ。[56]
6.4.2 Pheraeへの嫁入り
BC1301年、Minyasの娘Periclymeneは、Thessaly地方のPheraeの町に住むPheresのもとへ嫁いだ。[57]
6.4.3 Iolcusへの嫁入り
BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、Thessaly地方のIolcusの町に住むCretheusの子Peliasのもとへ嫁いだ。[58]
6.4.4 Aesonisへの嫁入り
BC1291年、Minyasの娘Clymeneの娘Alcimedeは、Thessaly地方にAesonis(or Aeson)を創建したAesonのもとへ嫁いだ。
6.4.5 Pylusへの嫁入り
BC1277年、Iasiusの子Amphionの娘Chlorisは、Eleia地方のPylusの町に住むCretheusの子Neleusのもとへ嫁いだ。[59]
Neleusの妻Chlorisに同行したMinyansは、Eleia地方に住んでいた。[60]
6.5 Phocisへの移住
BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Delphiの近くへ移住して、Cyparissusの町を創建した。[61]
7 Minyasの子Orchomenusの時代
Minyasの跡を、彼の息子Orchomenusが継いだ。彼の時代に、Andreisの町は、Orchomenusの町と呼ばれるようになった。[62]
7.1 Hyettusの創建
BC1275年、Argosの町のHyettusが、Arisbasの子Molurusを殺して、Boeotia地方へ移住して来た。[63]
Hyettusは、Minyasの子OrchomenusからCopais湖の北側の土地を譲られてHyettusの町を創建した。[64]
Hyettusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの子Biasの息子と思われる。[65]
Orchomenusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Almusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesの子Minyasの息子であった。[66]
つまり、Hyettusは、Hellenの子Aeolusを共通の先祖とするOrchomenusを頼って、Boeotia地方へ移住したと思われる。
8 Presbonの子Clymenusの時代
Pausaniasは、Minyasの子Orchomenusが子供を残さずに死んで、Sisyphusの子Almusの王統は絶えたと伝えている。[67]
しかし、Orchomenusには、娘Elara (or Elare)や、少なくとも5人の姉妹たちがいた。[68]
また、Orchomenusには、Phocis地方にCyparissusの町を創建した彼の兄弟Cyparissusもいた。[69]
しかし、Orchomenusの跡を継いだのは、Acraephiumの町に住むAthamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusであった。[70]
Clymenusは、初代Orchomenus王Andreusの妻Euippeの従兄Presbonの息子であった。[71]
ClymenusがOrchomenusの跡を継いだのは、Minyasの家系が断絶したためではなく、別な事情があったと思われる。
Athamasの後裔Clymenusが継承したことによって、Orchomenusの町は、Athamasの支配領域を含めて、Copais湖周辺を支配することになった。
これによって、Orchomenusの町は、Thebesの町に対抗する勢力になった。
そのような状況下で、両者の武力衝突の端緒となる事件が発生した。
BC1256年、Onchestusの町のPoseidonの神域で、ClymenusがThebesの町のCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[72]
9 Clymenusの子Erginusの時代
9.1 Thebansとの戦い
BC1256年、父を殺されたClymenusの子Erginusは、Thebesの町を攻めて、Thebansに貢納を課した。[73]
その後、Amphitryon率いるThebansは、Orchomenusの町を攻撃して、Erginusは敗北した。[74]
この戦いの結果、Orchomenusの町に味方した町の住人が各地へ移住した。
9.2 Arcadiaへの移住
Onchestusの町に住んでいたMegareusの子Hippomenesや、Schoinosの町に住んでいたSchoeneusは、Arcadia地方へ移住した。[75]
9.3 Copaeの創建
Onchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Onchestusの町から追い出されて、Copais湖北岸へ移住して、Copaeの町を創建した。[76]
9.4 Erginusの息子たち
伝承では、Amphitryonとの戦いで敗北した後で、Erginusに2人の息子たち、TrophoniusとAgamedesが生まれた。彼らはDelphiの神殿を建設する名工になり、TrophoniusはLebadeiaの大地が裂けた穴に呑み込まれ、神になったと伝えられている。[77]
しかし、神になったTrophoniusには子供たちがいたとも伝えられ、Erginusの跡を彼の兄弟Azeusの後裔が継いだことと矛盾する。[78]
Erginusの息子たちは、逸話に合わせて創作されたもので、本当は跡継ぎがなかったと思われる。
10 Trojan Warの時代
Erginusの跡を、彼の兄弟Azeusの子Actorの娘Astyoche (or Pernis)の2人の息子たち、AscalaphusとIalmenusが継いだ。[79]
10.1 Thraciansによる占領
BC1188年、AscalaphusとIalmenusは、OrchomeniansやAspledoniansを率いてTroyへ遠征した。[80]
戦士たちがいなくなったOrchomenusの町にThraciansが侵入して、町を占領した。
Orchomeniansの一部は、Athensの町へ逃れて、Munychiaに住んだ。[81]
また、Aeolusの子Athamasの後裔Athamasに率いられたOrchomeniansは、Asia Minorへ移住してTeosの町を創建した。[82]
Teosの町のすぐ東にあるColophonの町には、EpigoniのThebes攻めで捕虜になった人々が、少し前に、その地へ移住していた。[83]
10.2 Sauromataeへの移住
BC1186年、Ascalaphusは、Troyで戦死したが、Ialmenusは、Sauromataeへ移住した。[84]
Ialmenusの母Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。[85]
Presbonは、Colchis地方で生まれ、Boeotia地方へ移住して祖父Athamasの跡を継いだ。
その後、Colchis地方とBoeotia地方の間には交流があったと思われる。[86]
Phrixusの孫娘Perseis (or Perse)の子Persesは、Tauric Chersonese (現在のCrimea)を支配していた。[87]
BC1270年、Persesの娘Hecate (or Idyia)の娘Circeは、Sauromatiansの王のもとへ嫁いだ。[88]
Presbonの後裔Ialmenusが、Sauromataeへ移住したのは、決して偶然ではなかった。
10.3 黒海沿岸地方との交易
次のことから、Orchomenusの町と黒海沿岸地方とは、交易があったと推定される。
1) Ialmenusが移住したSauromataeは、Ialmenusの先祖Circeの嫁ぎ先であったが、Circeの結婚は、84年前の出来事であった。Ialmenusは、古い伝承をもとにSauromataeを目指したとは考えられない。Ialmenusと共に移住した人々の中に、黒海方面との交易に従事していた者がいたと思われる。
2) Troy遠征は、Hellespontusを利用していたAchaeansによるものであった。遠征に参加したOrchomeniansもHellespontusを通って、黒海方面で活動していたと思われる。
Orchomenusの町と黒海沿岸地方との交易は、Athamasの子Phrixusが、BC1390年に黒海東岸のColchis地方へ移住してから始まった。[89]
Orchomenusの富は、豊かな土地から得られる穀物だけではなく、交易活動によって生まれたと推定される。
11 Trojan Warの後の時代
Orchomenusの町は、60年以上、Thraciansによって占拠された。
BC1126年、Thessaly地方のArneの町から帰還したBoeotiansは、Athensの町のMunychiaから帰還したOrchomeniansと共に、Orchomenusの町からThraciansを追い出した。[90]
しかし、Orchomenusの町は、Thebesの町をも手に入れたBoeotiansによって、併合された。[91]
Orchomeniansの一部は、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの娘Theroの子Chaeronに率いられて、Orchomenusの町からArne(後のChaeroneia)の町へ移住した。[92]
Phylasの妻であるIolais (or Iolaus)の娘Leipephilene (or Leipephile)は、Orchomenusの町がThraciansによって占拠された時に、Athensの町へ避難したOrchomeniansの一人と思われる。
その後、Orchomenusの町は、Thebesの町を中心としたBoeotia地方の町の一つになった。
おわり |