第25章 メッセニア地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.5.30, Update:2024.8.12

1 はじめに
BC5世紀の悲劇詩人Euripidesは、Messenia地方のことを「水源に恵まれて牧畜に適した土地で、寒過ぎず、暑過ぎない気候」と評価している。[1]
Peloponnesusへの帰還を果たしたHeracleidaeが籤引き土地を分けたという伝承が生まれたのも、Messenia地方が他の地方よりも豊かなためであった。[2]
しかし、Messenia地方は、Peloponnesusの地方の中で、ギリシア人が一番遅く定住した地方でもあった。

2 AndaniaとPharaeの創建
2.1 Colonides創建の伝承
BC1562年、初代Athens王Cecropsが、EgyptからAttica地方の東海岸のMirinousの町に上陸した。そのとき、そこに住んでいた人々はColaenusに率いられて、Messenia湾入り口の西側に移住して、Colonidesの町を創建した。[3]
しかし、Pausaniasは、Messenia地方にAndaniaの町が建設されたとき、その地方は無人の地であったと伝えている。[4]
ColaenusがColonidesの町を創建したというのは、ギリシアの伝承にしばしば見られる、似た名前のために生まれた作り話と思われる。

2.2 Andaniaの創建
2.2.1 Andaniaの住民
BC1410年、Lelexの子Polycaonは、Lacedaemonの町から西北西に約47km離れた土地へ移住してAndaniaの町を創建した。[5]
その町の建設には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosの町から大勢の人々が参加した。[6]
これより少し前、Thessaly地方からXuthusの子Achaeusに率いられたAchaeansがArgosの町の周辺に移住した。Andaniaの町の住民の多くは、Argosの町の周辺から参加したAchaeansであったと推定される。[7]

2.2.2 Andaniaの住民
Pausaniasは『Description of Greece』の中の5か所で、Polycaonの妻MesseneをArgosの町のPhorbasの子Triopasの娘と記している。[8]
また、Pausaniasは、Messeneの出身地はArgosの町で、その父は、名声と実力ともにGreeksの中で随一であったと伝えている。Danausと共に渡来したLelexの息子の妻の父にふさわしいArgosの町の支配者は、Danaus以外にない。[9]
Polycaonの父Lelexは、Danausの父Belusの兄弟であり、PolycaonとDanausは、従兄弟であった。[10]
つまり、Triopasは、Danausの本名であったと思われる。

2.2.3 Messeniaの誕生
Andaniaの町は、Lacedaemonの町の分家であったが、住民にはその意識はなかった。彼らは、自分たちの住む地方をLacedaemonとは呼ばず、Polycaonの妻Messeneの名に因んで、Messeniaと呼んだ。[11]
Andaniaの町の住民は、Polycaonの後裔が5代目で断絶したとき、跡継ぎをLacedaemonからではなく、Thessaly地方から迎えた。[12]

2.2.4 大女神の密儀(the mysteries of the Great Goddesses)
BC1385年、Eleusisの町のCelaenusの子Cauconは、Andaniaの町を訪問して、Messeneに大女神の密儀を伝えた。[13]
Messeneの姉Celaenoは、Celaenusの母であった。つまり、Cauconは、祖父Phlyusの義理の姉妹Messeneを訪問したことになる。[14]
Cauconの父Celaenusの父Phlyusの父Dysaulesの父は、Cranausの子Rharusであり、Messeneと同じく、Pelasginansであった。[15]
BC1277年、Pandionの子Lycusは、Athensの町からAreneの町のPerieresの子Aphareusを訪れ、Andaniaの町で密儀を執行した。[16]
大女神の密儀は、この後、Messenia地方に脈々と受け継がれた。
BC1104年、Messenia地方の支配者がDoriansになってからもAndaniaの町では大女神の密儀が執り行われていた。[17]
BC724年、Spartansとの戦いで、Ithomeが陥落したとき、大女神の密儀の祭司たちはEleusisへ逃れた。[18]
BC685年、MesseniansがSpartansに対して蜂起すると、Eleusisへ逃れていた大女神の密儀の祭司たちはAndaniaの町に帰還した。[19]
BC668年、Spartansに攻められたNicomedesの子Aristomenesは、Eira陥落の直前、大女神の密儀を記した錫板を青銅の壺に入れてIthome山中に埋めた。[20]
Messeniansは各地に移住し、大女神の密儀は途絶えた。
BC371年のLeuctraの戦いの後で各地のMesseniansが帰郷して、Messeneの町が建設されると大女神の密儀は復活した。[21]
Pausaniasは、Aristomenesが埋めた壺の発見にまつわる話を記している。[22]

2.3 Pharaeの創建
BC1370年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharisは、Achaia地方のAroe (後のPatrae)の町からMessenia地方のNedon川の河口近くへ移住して、Pharaeの町を創建した。[23]
Pharisの兄弟Pharesは、Achaia地方のPeirus川中流域に同じ名前の町を創建した。[24]
PharisがMessenia地方を移住先に選んだのは、彼の母の姉妹MesseneがAndaniaの町に住んでいたからと思われる。

3 Aeolusの子Perieresの時代
3.1 Andaniaの継承者の断絶
3.1.1 継承者Perieres
BC1310年、Lelexの子Polycaonの後裔は、5代目で断絶した。[25]
Andaniaの町の住民は、Thessaly地方からAeolusの子Perieresを招いて町を任せた。[26]
Perieresは、Spartaの町のAmyclasの子Cynortasの息子だという伝承もある。
Lacedaemonから分かれて創建された町は、Lelexの後裔が継承するのが妥当だという解釈と思われる。しかし、Andaniaの町の住民がArgosの町の周辺からの移住者で、Achaeansであったことを考慮すると、Thessaly地方から後継者を迎えたと考えた方が妥当である。[27]

3.1.2 選定理由
当時のLacedaemon王Cynortasの母Diomedeは、Lapithsの名祖Lapithusの娘であった。[28]
Perieresの父AeolusはDiomedeの兄弟であり、CynortasとPerieresは従兄弟同士であった。[29]
つまり、Andaniaの住人は町の継承を決めるときに、Lacedaemoniansの意見を聞いたのではないかと推定される。

3.2 Mycenaeからの嫁入り
Andaniaの町のAchaeansと、Argolis地方のAchaeansとは交流があり、Perieresは、当時、勢力を増してきていたMycenaeの町から、Perseusの娘Gorgophoneを嫁に迎えた。[30]

3.3 Oechaliaの創建
BC1305年、Melaneusは、Thessaly地方からAndaniaの町の近くへ移住して、Oechalia (後のCarnasium)の町を創建した。[31]
Pausaniasは、Andaniaの町のPerieresのもとへ弓矢の名手Melaneusがやってきたと伝えているが、PerieresがMelaneusを招いたと推定される。[32]
Melaneusは、Perieresの兄弟であったと思われる。
Andaniaの町の住人は、Achaeusの子Archanderと共にThessaly地方からArgosの町を経由してMessenia地方に移住したAchaeansであった。
しかし、Andaniaの町を任せられたAeolusの子Perieresは、Lapithsに属しており、Andaniaの町の住人を従わせるのが難しかったのかもしれない。そこで、Perieresは兄弟Melaneusを呼び寄せたと推定される。
したがって、Oechaliaの町の住人は、Melaneusと共にThessaly地方から移住したLapithsであった。

4 Perieresの子Aphareusの時代
4.1 Areneの創建
BC1280年、Perieresの子Aphareusは、Andaniaの町を兄弟Leucippusに任せてMessenia地方の西海岸へ移住して、Areneの町を創建した。[33]
Aphareusは、Spartaの町から異父妹であるOebalusの娘Areneを妻に迎えて、町に妻の名前を付けた。[34]
AphareusとArenaとの間には、2人の息子たち、IdasとLynceusが生まれた。[35]

4.2 Aetoliaへの移住
BC1265年、Spartaの町のTyndareusが、異父兄弟であるAphareusを頼って、Areneの町を訪れた。[36]
その後、Tyndareusは、Aetolia地方へ移住することになり、彼の甥Idasも一緒に移住した。[37]
Tyndareusは、Pleuronの町のThestiusの娘Ledaと結婚し、IdasはEvenusの娘Marpessaと結婚した。[38]
Idasは、彼の娘Cleopatra (or Halcyone)が、Calydonの町のOeneusの子Meleagerと結婚するまで、Aetolia地方に住んでいた。[39]
その間、Pleuronの町とCalydonの町との争いが起こり、TyndareusはPleuron側、IdasはCalydon側に味方して、2人は分かれて戦った。
Aphareusの死後、Idasは父の跡を継ぐために、Areneの町へ戻った。[40]
Idasが帰還した後で、彼の兄弟Lynceusは、Papaeの町に住んだ。
AD2世紀のPhilo of Byblosは、Papaeの町の植民市がCrete島にあったと伝えている。[41]

4.3 Laconiaへの嫁入り
BC1256年、Orsilochusの娘Dorodocheは、Pharaeの町からSpartaの町のOebalusの子Icariusへ嫁いだ。[42]
Icariusは、Spartaの町の南にPharisの町を創建した。[43]
Pharisの町は、Pharaeの町とも呼ばれていた。[44]
Dorodocheの父Orsilochusの父は、Aeolusの子Perieresの子Pisusと推定される。[45]
Dorodocheの嫁入りに際して、多くのAeolisがPharisの町に住み着いた。
Pharisの町は、Doriansが支配者になったLaconia地方に最後まで残った3つのAchaeansの町の一つであった。[46]

4.4 NeleusのPylus創建伝承
Pausaniasは、AphareusがThessaly地方のIolcusの町から逃れて来たNeleusに海沿いの地域を与え、NeleusはPylusの町に住んだと伝えている。[47]
しかし、NeleusがIolcusの町から移住したのは、BC1303年と推定され、Areneの町の創建より1世代前であり、Pausaniasが参照したのは、誤った伝承であった。
Aphareusは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithusの子Aeolusの子Perieresの息子であり、Neleusは、Hippotesの子Aeolusの子Cretheusの息子であった。
つまり、Neleusは、Aphareusの祖父Aeolusの従兄弟であった。

5 Aphareusの子Idasの時代
5.1 Aetoliaからの帰還
BC1245年、Aphareusが死ぬと、彼の息子Idasが、Aetolia地方のCalydonの町からAreneの町へ帰還した。[48]

5.2 HeraclesのElis攻め
BC1240年、Heraclesは、Eleia地方のElisの町を攻めて占領した。[49]
この後、Heraclesは、Eleia地方のPylusの町を攻めて、町を破壊した。[50]
Heraclesは、Eleia地方南部のLepreusの町までは南下したようである。
Pausaniasは、Messenia地方のStenyclerusの町で、Neleusの子供たちがHeraclesと誓を交したと伝えている。[51]
しかし、この伝承は、Heracleidaeの帰還後、Messenia地方を獲得したCresphontesや彼の後裔が自分たちの支配を正当化するために広めた作り話と思われる。
これ以外に、HeraclesがMessenia地方に足を踏み入れたという伝承はない。

5.3 DioscuriのAndania攻め
BC1237年、Oebalusの子IcariusがAcarnania地方へ移住し、彼の兄弟TyndareusがSpartaの町へ帰還した。[52]
TyndareusはAndaniaの町を攻めて、彼の息子たち、Dioscuriは、その町の支配者Leucippusの2人の娘たちを捕虜にして、自分たちの妻にした。[53]
TyndareusとLeucippusは異父兄弟であり、Dioscuriと彼らの妻たちはいとこ同士であった。[54]
TyndareusとLeucippusとの戦いは、Aetolia地方での戦いの延長であったと思われる。
TyndareusとIdasの戦いに、Idasの叔父Leucippusが味方して、Tyndareusに攻められたと推定される。

5.4 Euboeaへの移住
BC1237年、Tyndareusは、Messenia地方のOechaliaの町のMelaneusの子Eurytusを攻めた。[55]
Eurytusは、Messenia地方からEuboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[56]
戦いの原因は、EurytusがAndaniaの町に味方したからであったと推定される。

5.5 AdrastusのThebes攻め
BC1215年、Argosの町のAdrastusはThebes攻めの軍を起こしたが、その中には、Messeniansも含まれていた。[57]
そのMesseniansを率いたのは、恐らく、Pharaeの町のDioclesの2人の息子たち、CrethonとOrtilochusと推定される。彼らは、Argosの町のDanausの娘Phylodameiaの後裔であった。[58]

5.6 Idas兄弟の死
Messenia地方とLaconia地方の戦いは、30年近く続いた。
最後の戦いのきっかけは、Tyndareusの娘Helenの誘拐であった。
BC1210年、IdasはDioscuriの妹Helenを誘拐して、Athensの町のTheseusに預かった。[59]
IdasとTheseusの友Peirithousとは、Lapithsの始祖Aeolusの子Lapithusを共通の祖とする同族であり、IdasとTheseusも親交があったと思われる。[60]
Dioscuriは、Spartaの町からAthensの町まで遠征してHelenを奪い返した。
この事件が、IdasとLynceusの兄弟と、Tyndareusや息子たちとの間での直接対決となり、Tyndareusを残して、彼らは死に絶えた。[61]

6 Neleusの子Nestorの時代
6.1 Idasの継承者Nestor
Pausaniasは、Idasの継承者が絶えて、王国はNestorに渡ったと伝えている。[62]
Pausaniasは、NestorがIdasの跡を継いだのは、NeleusとAphareusが従兄弟であり、彼らの共通の曽祖父がAeolusだからだと誤って認識している。[63]
Idasの曽祖父Aeolusは、Hellenの子Aeolusであり、Nestorの曽祖父Aeolusは、Hippotesの子Aeolusであった。
したがって、両者の共通の先祖は、Deucalionの子Hellenまで遡らなければならない。
NestorがIdasと同じHellenesに属していたから、Idasの跡を継ぐことができたとするのは、根拠に乏しい。
Idasの死後、NestorがAreneの町近くにPylusの町を創建したことは間違いなく、Messenia地方を支配していたことは史実と思われる。[64]
NestorがEleia地方からMessenia地方へ支配を広げたのは、つぎの2つの理由が考えられる。

6.1.1 Idasの娘婿としての継承
Idasは、東から勢力を拡張して来たLacedaemoniansに対抗するために、Eleia地方の有力者Nestorに娘を嫁がせたと推定される。
つぎの理由から、Nestorには名前不詳の若い妻がいたと思われる。
1) Nestorは、Troy遠征軍中で最年長であったが、Nestorの子Antilochusは、最年少であった。[65]
2) Nestorの一番若い娘Polycasteは、Odysseusの子Telemachusの妻であった。[66]
つまり、Nestorには孫の年齢ほど年の離れた息子や娘がいた。
Nestorは、Idasの娘婿として、Idasの跡を継いだと思われる。

6.1.2 力による継承
Idas兄弟とTyndareusの息子たちとの戦いで、Areneの町は衰退し、恐らく、町は破壊されたと思われる。[67]
Lacedaemoniansに脅威を感じていたAreneの町の住人は、Nestorに町を託し、Nestorは、Areneの町近くにPylusの町を創建した。[68]
あるいは、Areneの町の衰退を機に、Nestorがその地方を支配下に置いたものと思われる。
Heracleidaeの帰還時に、MelanthusがMessenia王であったことを考慮すると、後者の理由が妥当と思われる。
Melanthusは、Neleusの長男Periclymenusの子Penthilus (or Borus)の子Borus (or Penthilus)の子Andropompusの息子であり、Nestorの後裔ではなかった。[69]
つまり、Lacedaemoniansとの戦いで、衰退したMessenia地方へNeleusの後裔が進出したのではないかと思われる。
Nestorの後裔は、Areneの町近くに創建したPylusの町に住み、Periclymenusの後裔は、Andaniaの町に住んでいたと思われる。

6.2 Sandy Pylusについて
Homerは、Nestorが住んでいた町を「sandy Pylus」と表現している。[70]
Straboは、そのPylusについて、3つの候補を挙げて、論争を紹介している。[71]
Homerは、この論争の答えを記しており、「sandy Pylus」が、AgamemnonがAchillesに約束したMessenia湾周辺の7つの町の近くにあったと伝えている。[72]
Messenia地方の「sandy Pylus」は、Nestorと関連付けられてはいないが、Homerが異なる地方にある同名の町に同じ枕詞を付けるとは考えられない。
Homerは、Boeotia地方のOrchomenusには「Minyae」を付け、Arcadia地方のOrchomenusには「rich in flocks」を付けて区別している。[73]
つまり、Nestorが住んでいた「sandy Pylus」は、Messenia地方にあったことになる。

6.3 Asclepiusの息子たちのMessenia居住について
Pausaniasは、Asclepiusの息子たちに従っていた人々は、Nestorに従わなかったと伝えている。[74]
この他に、Pausaniasはつぎのように記している。
Asclepiusは、Leucippusの娘Arsioneの息子であった。[75]
Asclepiusの息子たちはMesseniansとしてTroyへ遠征した。[76]
Troyで負傷したMachaonをNestorが助けた。[77]
Machaonの遺骨をNestorが持ち帰り、Gereniaに埋葬した。[78]
Messeneの町の神殿に描かれた絵の中に、Messeniaの歴代の王たちとともに、Asclepiusと彼の息子たちがいる。[79]
以上のことから、Pausaniasは、Asclepiusの2人の息子たち、MachaonとPodalirusが、Messenia地方に住んでいたと思っていたようである。
しかし、つぎの理由からAsclepiusの息子たちは、Thessaly地方に住んでいた。
1) Asclepiusは、Thessaly地方のTriccaの町の近くを流れるLethaeus川のほとりで生まれた。彼の息子たちは、Triccaの町から軍勢を率いて、Troyへ遠征した。また、Triccaの町には、Asclepiusの最古の神域があった。[80]
2) Nestorは、Troyで死んだMachaonの遺骨をGereniaに埋葬した。MachaonがMessenia地方に住んでいたのであれば、NestorはMachaonの遺骨を妻Anticleiaに渡し、Pharaeの町にMachaonの遺骨は埋葬されているはずである。Nestorの帰還は、AnticleiaがThessaly地方のTriccaの町から移住して来る前であり、Nestorは、Anticleiaに渡すことを諦め、Gereniaに埋葬したと思われる。[81]
3) Machaonの弟Podalirusは、Troyから帰還せず、Caria地方に定住した。PodalirusがMessenia地方に住んでいたのであれば、兄の遺骨を持ち帰っていたはずである。Podalirusは、Thessaly地方がThesprotiansに占領されたことを知って、Nestorに兄の遺骨を託し、自らは異郷の地で定住先を探したものと思われる。[82]

6.4 NestorとMachaonの関係
Podalirusが、兄Machaonの遺骨を同郷ではないNestorに預けたのは、つぎのような事情が考えられる。
NestorはMessenia地方へ支配を広げたが、Idasが支配していたLapithsを従わせるために、Thessaly地方にいたLapithsの有力者の影響力を利用しようとした。
Pharaeの町に住んでいたOrtilochusの子Dioclesは、LacedaemoniansがMessenia地方へ進出して来ており、脅威を感じていた。[83]
Nestorは、Dioclesの娘AnticleiaとThessaly地方のLapithsの有力者との結婚の仲介をすることで、Lapithsの支持を得ようとした。
これより少し前に、Thessaly地方のLapithsは、Heraclesとの戦いに敗れて、Triccaの町のAsclepiusのみが勢力を保っていた。[84]
BC1200年、Nestorは長い旅をしてTriccaの町を訪問し、Asclepiusから歓待された。[85]
Asclepiusには、2人の息子たち、MachaonとPodalirusがいたが、Podalirusは結婚適齢期に達していなかった。Machaonには既に3人の息子がいたが、Anticleiaを妻に迎えることに決まった。[86]
つまり、Nestorは、MachaonとAnticleiaの結婚の仲介者であった。

6.5 EpigoniのThebes攻め
BC1205年、EpigoniのThebes攻めがあり、MesseniansはArgivesと共に遠征した。[87]
Messeniansの将は、AdrastusのThebes攻めの時と同じく、Pharaeの町のDioclesの2人の息子たち、CrethonとOrtilochusと推定される。[88]

6.6 MenelausのMessenia進出
NestorはMessenia地方全域を従わせることはできなかった。[89]
Tyndareusの跡を継いだLacedaemon王Menelausは、Nestorの勢力の及ばないMessenia湾沿岸部のCardamyle、Enope、Hire、Pherae、Antheia、Aepeia、Pedasusを支配下に置いた。[90]
Homerによれば、この7つの町は、Trojan Warの前からMenelausの支配下になっていた。[91]

6.7 Trojan War時代
Nestorは、Messenia地方とEleia地方南部の町の住人を率いて、Troyへ遠征した。[92]
つまり、Nestorは、湾岸部を除くMessenia地方と、Eleia地方南部を支配していた。
NestorのTroy遠征は、Machaonの遺骨についての伝承などから史実のように思われる。

6.7.1 Thessalyからの移住
Triccaの町に住んでいたAesculapiusの子Machaonの妻Anticleiaは、Thesprotiansによって占領されたThessaly地方を逃れて、彼女の父が住むPharaeの町へ移住した。[93]
MachaonとAnticleiaの2人の息子たち、GorgasusとNicomachusは、母の父Dioclesの跡を継いでPharaeの町を治めた。[94]
Nicomachusは、BC4世紀の哲学者Aristotleの先祖であった。[96]

7 Heracleidaeの帰還の時代
7.1 Heracleidaeの帰還の失敗
7.1.1 Cleodaeusの遠征
BC1173年、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusは、Doriansを率いてPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[97]
近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeの町に破壊された痕跡が確認されている。[98]
Cleodaeusは、TirynsやMideaの町も破壊して、Argosの町を占拠した。[99]
Agamemnonの跡を継いだ、彼の息子Orestesは、Mycenaeの町からArcadia地方のTegeaの町へ移住した。[100]
その後、Orestesは軍勢を集めて、Argosの町を占拠していたDoriansを追放した。
Cleodaeusは、無事にDoris地方のPindusの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子Aristomachusが生まれた。[101]

7.1.2 Cleodaeusの長男
しかし、Cleodaeusの長男を含む一部の人々は、Doris地方へ帰還できずに、Peloponnesusに残留した。彼らは、Messenia地方のIreの町に逃げ込んで、その地に定住した。
最終帰還時、Heracleidaeが最初の目的地をMessenia地方としたのは、残留した同胞との合流が目的でもあったと思われる。[102]
後にMessenia地方を獲得したAristomachusの子Cresphontesに対して反乱を起こした、「真の」Heracleidaeと称するPolyphontesは、Cleodaeusの長男の息子か孫と思われる。[103]
「真の」という意味は、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeusの正当な継承者という意味であったと思われる。
系図を作成するとCleodaeusとAristomachusの年齢差は、50歳であり、Aristomachusには、複数の兄たちがいたと思われる。[104]

7.2 Heracleidaeの最終帰還
7.2.1 Messeniaの支配者Melanthus
Heracleidaeの最終帰還時、Doriansと対峙したMessenia地方の支配者は、Andropompusの子Melanthusであった。[105]
多くの史料は、MelanthusをPylus王だと伝えている。[106]
しかし、MelanthusはMessenia地方のPylusの町には住んでいなかった。
Melanthusは、Neleusの長男Periclymenusの子Penthilus (or Borus)の子Borus (or Penthilus)の子Andropompusの息子であった。[107]
Aphareusの子Idasが死んだ後で、Neleusの子NestorがEleia地方からMessenia地方へ進出してMesseniansを支配下に置いた。[108]
Nestorや彼の息子たち、ThrasymedesとAntilochusは、Pylusの町に住んでいた。[109]
Melanthusは、Neleusの長男Periclymenusの直系の子孫であった。Melanthusは、Nestorの子孫が住むPylusの町ではなく、Andaniaの町に住んでいたと思われる。[110]
Trojan Warの後で、LacedaemonのMenelausの子孫の力が弱まり、Neleusの子孫はMessenia地方の中で勢力を増し、MelanthusはMesseniansの王になった。[111]

7.2.2 MelanthusのAthens移住
Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensの町へ行くことになったと伝えられている。[112]
古代の作家は、動機などが不明の場合に「神託により」と記すことがある。Melanthusが何故、移住先にAthensの町を選んだのか神託以外の理由を伝えている史料はないが、つぎのような理由であったと推定される。
Pausaniasは、Melanthusの母も妻もAtheniansであったと伝えており、Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[113]
Thessaly地方のPheraeの町の住人は、Thesprotiansに追われて、Eumelusの子Zeuxippusの子Armeniusに率いられてAthensの町へ移住した。[114]
Armeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のAndropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれた。[115]
HeniocheとAndropompusの結婚は、同じ時期にThessaly地方から他郷へ移住した人々との縁であろうと推定される。
Heniocheは、父Armeniusと共にAthensの町へ移住し、Triccaの町のAesculapiusの子Machaonの妻Anticleiaは彼女の生まれ故郷であるMessenia地方のPharaeの町へ移住した。[116]
Messenia地方はAndropompusの支配下にあり、Anticleiaが共にThessaly地方から逃れたHeniocheとAndropompusを結び付けたと思われる。
系図を作成すると、移住時のMelanthusは50歳を超えており、Melanthusの跡を継いだ息子Codrusも30歳を超えている。Thymoetesは、娘婿MelanthusにAthens王を継がせたものと思われる。

8 Doriansの時代
8.1 Aristomachusの子Cresphontesの時代
8.1.1 Messeniaの獲得
BC1104年、 Spartaの町に籠城していたOrestesの子Tisamenusは、Doriansに町を明け渡してAchaia地方へ移住した。[117]
帰還を果たしたHeracleidaeは領土を分配して、Aristomachusの子Cresphontesは、Messenia地方の領有権を獲得した。[118]
多くの史料は、Cresphontesが不正な籤引きを行ったと伝えている。[119]
しかし、Pausaniasはそれを否定しているMesseniansの口上を伝えている。つまり、不正があったのであれば、Cresphontesの子AepytusのMessenia地方への帰還に、Spartaの町のEurysthenesやProclesが協力するはずがないというものであった。[120]

8.1.2 Cresphontesの最期
Cresphontesは、Messenia地方の王都をStenyclerusの町に定めた。[121]
Cresphontesは住人の反乱によって、彼の息子たちと共に殺された。[122]
その反乱の首謀者は「真の」Heracleidaeと称するPolyphontesであった。[123]
Polyphontesは前述したように、Hyllusの子Cleodaeusと共にPeloponnesusへの帰還を試みて失敗し、Messenia地方のIreの町に残留したCleodaeusの長男の孫と思われる。

8.2 Cresphontesの子Aepytusの時代
Aepytusは、Arcadia地方のTrapezusの町に住む祖父のもとで養育されていた。[124]
BC1073年、Aepytusは彼の母の兄弟Holaeas、Argosの町のTemenusの子Isthmius、Spartaの町のEurysthenesやProclesの支援を受けてMessenia地方へ帰還した。[125]
Aepytusは善政を行い、彼の後裔はAepytidaeと呼ばれた。[126]

8.3 Aepytusの後裔Glaucusの時代
Glaucusは、GereniaでAsclepiusの子MachaonにDoriansの王として初めて供犠した。[127]
Glaucusの先祖はMachaonとはまったく繋がりがなく、Machaonへの供犠は、Glaucusの支配下のAchaeansを喜ばせるためであったと思われる。
Pausaniasは、GlaucusをAepytusの息子と記しているが、AepytusとGlaucusとの間に4代の欠落があると思われる。[128]
この出来事は、BC905年頃と推定される。

8.4 Glaucusの子Isthmiusの時代
Isthmiusは、MachaonとAnticleiaの2人の息子たち、GorgasusとNicomachusのためにPharaeの町に神域を造営した。[129]
GorgasusとNicomachusはThessaly地方のTriccaの町で生まれ、彼らの母Anticleiaに連れられて、母の父が住むPharaeの町へ移住した。[130]
GorgasusとNicomachusは、Anticleiaの父Dioclesの跡を継いでPharaeの町を治めた。[131]

8.5 Isthmiusの子Dotadasの時代
Dotadasは、Messenia地方南西部のMothone (昔のPedasus)の町に港を作った。[132]

8.6 Dotadasの子Sybotasの時代
Sybotasは、Andaniaの町で行う大女神の密儀に先立って、Oechaliaの町で、Melaneusの子Eurytusに英雄としての供犠を行うことを制定した。[133]
Sybotasの先祖Heraclesは、Eurytusを攻め滅ぼしており、SybotasにとってEurytusは敵であった。Oechaliaの町には、Eurytus時代の住人の後裔が残っていたと思われる。
SybotasがEurytusへ供儀をしたのは、古くからの住人の懐柔策で、Doriansの力が弱くなった結果ではないかと推定される。

9 Messenia戦争の時代
9.1 Sybotasの子Phintasの時代
9.1.1 Delosへの合唱団の派遣
BC780年、Messeniansは、はじめてDelos島までApolloの供犠と成人男子の合唱団を送った。
合唱団が神に捧げる祭礼行列歌は、Corinthの町の叙事詩人Amphilytusの子Eumelusが教えた。[134]
ここまで、Aristomachusの子Cresphontes以降の歴代の支配者が、名前のみではなく、事績まで記録されているのは、Eumelusが調べて記録したのではないかと思われる。
Eumelusは、Bacchiadaeに所属し、Corinthの町の創建時からの歴史を「Corinthian History」にまとめた人物であった。[135]

9.1.2 Teleclus殺害事件
BC770年、MesseniansがMessenia地方とLaconia地方との境界近くのLimnaeumで、Sparta王Teleclusを殺害する事件が起きた。[136]
Pausaniasは、Teleclusに過ちはなかったと主張するSpartansと、Teleclusが正義に背いたことをしたと主張するMessenians、両者の主張を伝えている。[137]
すぐに戦いにならなかったことから、Messeniansの主張が正しかったと思われる。

9.2 AntiochusとAndroclesの時代
Phintasの2人の息子たち、AntiochusとAndroclesの時代にも、Spartaの町との間に紛争が起きた。
Messenia地方に住むPolycharesが、Lacedaemoniansへの恨みから殺人を犯した。[138]
Spartaの町から、Polycharesを引き渡すように要請されたMesseniansは、意見が2つに分かれて戦いになった。[139]
Androclesは、Polycharesを引き渡すべきだと主張して、反対派に殺された。[140]
反対派を率いたAntiochusも、数月後に死んだ。[141]

9.3 Antiochusの子Euphaesの時代
BC743年、Teleclusの子Alcamenes率いるSpartansがMessenia地方のAmpheiaの町を奇襲して占領した。[142]
Spartansが、Messenia地方を手に入れようとしたのは、その地方が豊かな土地であったからであった。[143]
戦いを始める前に、Doriansは、Cresphontesが不正な籤引きでMesseniaを得たという話を広めた。Doriansは、不正な籤引きを開戦理由のひとつに挙げているが、Messeniansに否定された。籤引きで不正があったのであれば、EurysthenesやProclesが、Cresphontesの子AepytusのMessenia王への復帰を助けるはずがないという理屈であった。[144]

9.4 Aristodemusの時代
9.4.1 Ithome陥落
Euphaesの跡を継いだAristodemusは、Aepytusの後裔であった。[145]
Aristodemusは、6年と数か月、Spartansと戦った後で、自害した。[146]
BC724年、Messeniansは、Ithomeを放棄して、20年に及んだ戦いは終わった。[147]

9.4.2 Italyへの移住
Eleia地方中部のMacistusの町へ逃れたMesseniansの一部は、Alcidamidasに率いられて、Italy半島南部へ移住して、Rhegiumの町を創建した。[148]

9.5 Aristomenesの時代
9.5.1 Messeniansの蜂起
Messenia地方に残った人々は、Lacedaemoniansの支配下に置かれた。[149]
BC685年、Ithome陥落から39年目、Messeniansは反乱を起こして、DeraeでLacedaemoniansと戦ったが、勝敗はつかなかった。[150]
彼らの指導者は、Aepytidaeに属する、Andaniaの町に住むNicomedesとAristodamaとの間の息子Aristomenesであった。[151]
Deraeでの戦いから1年後、各地から応援を得たMesseniansとLacedaemoniansは、Stenyclerusの町近くの猪塚で会戦した。[152]
Messeniansは、Lacedaemoniansを敗走させて勝利した。[153]
BC679年、The Battle of the Great Foss Messeniaがあった。[154]
この戦いで、Messeniansは、Arcadia王、Hicetasの子Aristocratesの裏切り行為によって敗退し、Eira山に籠城した。[155]

9.5.2 Eira陥落
Messeniansは、包囲から11年目にEiraを放棄した。
Eira陥落は、AthensのarchonがAutosthenesの時であり、第28回Olympiadの最初の年、つまり、BC668年であった。
Eira陥落時、Aristomenesは、Lydia王Gygesと戦ったSmyrnaの町の人々の果敢な行動のことを兵たちに話して聞かせた。[156]
Eira陥落の少し前に、遠く離れた地域で起きた出来事をAristomenesが知ることができたのは、同郷の繋がりがあったからであったと思われる。
Smyrnaの町の住人の先祖は、Heracleidaeに追われて、Messenia地方からAthensの町を経由して、Ephesusへ移住し、そこから分かれて、Smyrnaの町を建設した人々であった。[157]

9.5.3 Italyへの移住
Eira山から逃れたMesseniansの一部は、Eleia地方のCylleneからItalyへ移住した。[158]
CylleneはElisの町の外港であったが、Messeniansの盟友Arcadiansの貿易港でもあった。[159]
BC1240年、Themisの子Evanderの移民団がItalyへ移住するときにも、Cylleneから出発している。[160]
Eira山から逃れたMesseniansはArcadiansのもとへ逃れ、そこからCylleneへ行った。Arcadia地方のTegeaの町とAchaia地方のOlenusの町を結ぶ街道があり、Cylleneは、その街道沿いにあった。[161]
BC667年、Aristomenesの子GorgusとTheoclusの子Manticlusに率いられたMesseniansは、Sicily島のZancle (後のMessene)の町の住人と共住した。[162]
BC494年、Zancleの町は、Samiansに奪われ、住人は、Gelaの町のHippocratesに奴隷として連れ去られた。[163]

9.5.4 Aristomenesの後裔
BC666年、AristomenesはRhodes島へ移住し、その地で病没した。[164]
Aristomenesの娘は、Rhodes島のIalysosの町のDamagetusと結婚して、Dorieusが生まれた。
Damagetusは、BC1070年に、Argosの町からRhodes島に移住したTemenosの子Ceisusの子Althaemenesの後裔と推定される。[165]
Dorieusの子Damagetusの子Diagorasの後裔は、Diagoridaeと呼ばれる名門になった。[166]
その中には、Olympiaで3回、Isthmiaで8回、Nemeaで7回優勝した、Diagorasの子Dorieusがいた。[167]
Dorieusは皮肉にも先祖と戦ったSpartansを支援して、Spartansによって処刑された。[168]

おわり