1 はじめに
1.1 ロクリスとドーリス
ドーリス地方を挟んで、東にはロクリス・エピクネミディオス地方、西にはロクリス・オゾリス地方がある。[1]
古い時代、前者は、エピクネミディス地方とオプス地方に分かれていた。[2]
その間には、ポキス地方の町ダフノスがあったが、町は破壊され、オプス地方に属するようになった。[3]
ロクリス地方が3つの地方に分かれていたのは、その成り立ちが原因であった。
つまり、ドーリス地方からオプス地方へ入植し、そこから、ロクリス・オゾリス地方とエピクネミディス地方へ入植したからであった。[4]
ロクリス人は、名前を変えたドーリス人であったが、地方名は統一されなかった。そこには、同じ地方名を付けることができない、長い歴史があった。
この章では、ロクリス地方とドーリス地方に接して、境界の曖昧なマリス地方やドリュオピア地方についても記述する。
1.2 マリス
AD2世紀の著述家アポロドロスは、トラキスの町の住人をメリス人と記している。[5]
しかし、ヘロドトスは、メロス島に住む人々をメリス人と呼んでいる。[6]
ヘロドトスは、トラキスの町の住人をマリア人と呼んでいる。[7]
ヘロドトスは、ドーリス地方がポキス地方に隣接し、その反対側は、マリス地方に隣接していると述べている。[8]
つまり、トラキスの町の住人は正しくはマリア人で、次第に東側の湾岸に勢力を拡大して、マリア湾に名前を与えたと思われる。[9]
1.3 ドリュオピア
ドリュオピア地方の位置についても古代の記述は曖昧である。
しかし、次の事からドリュオピア地方は、トラキスの町とドーリス地方の間にあったことが分かる。
1) ヘラクレスによって、ドリュオプス人が追放された後の土地は、マリア人に与えられた。[10]
2) ヘロドトスの時代、ドーリス地方は、ポキス地方とマリス地方に隣接していた。[11]
3) トラキスの町の住人はマリア人であった。[12]
2 ヘレンの子ドロスの時代 (BC1420-1415)
2.1 テッサリアからの移住
BC1420年、カドモス率いる集団がトラキア地方から南下して、テッサリア地方へ侵入した。
オッサ山とオリュンポス山の近くのペネイオス川の北側に住んでいたヘレンの子ドロスは住人を率いて、オイタ山とパルナッソス山の間の土地へ移住した。[13]
ドロスは、移住した人々を1か所に集めてピンドスの町を創建した。[14]
2.2 クレタへの移住
BC1420年、ドロスの子テクタモスは移民団を率いて、ドーリス地方からクレタ島へ移住した。移民団には、ドーリス人の他に、ペラスゴイ人やアイオリス人が含まれていた。[15]
テクタモスの入植地は、クレタ島の東部であった。[16]
3 ドロスの子デウカリオーンの時代 (BC1415-1400)
3.1 オプス湾近くへの移住
BC1415年、ドロスの子デウカリオーンは、ピンドスの町からオプス湾の近くへ移住した。[17]
デウカリオーンは、ロクリス・エピクネミディオス地方へ入植した最初のギリシア人であった。
3.2 テッサリアへの嫁入り
BC1413年、デウカリオーンの娘プロトゲニアは、オプス湾近くからテッサリア地方のアルネの町に住むヒッポテスの子アイオロスのもとへ嫁いだ。[18]
アイオロスは、プロトゲニアの父デウカリオーンの父ドロスの兄弟アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの息子であった。つまり、アイオロスは、プロトゲニアの又従兄弟の息子であった。
3.3 アンテイアの創建
BC1410年、デウカリオーンの子アンピクテュオンは、オプス湾近くからテルモピュライ付近に移住して、アンテイア (または、アンテラ)の町を創建した。[19]
ロクリス・エピクネミディオス地方は、アンピクテュオンからアイトロス、ピュスキウス、ロクルスへと継承され、その地方の中心はアンテイアの町であった。[20]
3.4 ロクリス・オゾリスへの移住
BC1410年、デウカリオーンの子オレステウスは、オプス湾近くからロクリス・オゾリス地方へ移住した。[21]
オレステウスの子ピュティオスの子オイネウスがアンピッサの町に住んでいたことから、オレステウスが定住したのはアンピッサの町であったと推定される。[22]
4 デウカリオーンの子アンピクテュオンの時代 (BC1400-1385)
4.1 テッサリアへの移住
BC1392年、アンピクテュオンの子イトノスは、アンテイアの町からテッサリア地方のパガサイ湾西岸に移住して、イトノスの町を創建した。[23]
イトノスの町の近くには、ヘレンの子アイオロスの子アタマスが創建したハロスの町があった。[24]
つまり、イトノスは、彼の祖父の従兄弟アタマスを頼って移住したと思われる。
イトノスは、テッサリア地方のアルネの町に住むヒッポテスの子アイオロスの娘メラニッペ(または、アルネ)を妻に迎えた。[25]
アイオロスには、イトノスの父アンピクテュオンの姉妹プロトゲニアが嫁いでおり、イトノスとメラニッペはいとこ同士であった。[26]
4.2 ペラスゴイ人との戦い
BC1390年、テッサリア地方の沿海部に住んでいたペラスゴイ人は、大津波で居住地を奪われ、イトノスの町を襲撃して、イトノスの妻メラニッペを連れ去った。[27]
イトノスの父アンピクテュオンは、ロクリス地方およびテッサリア地方に住む同族を結集して、テッサリア地方からペラスゴイ人を追い出した。[28]
4.3 隣保同盟の創建
アンピクテュオンが結集した種族は、イオニア人, ドロピア人, テッサリア人, アイニアネス人, マグネシア人, マリア人, プティオティア人, ドーリス人, ポキス人、それに、ポキスと境を接して、クネミス山麓に住むロクリス人であった。[29]
彼らの代表は、アンテイアの町に参集し、隣保同盟と呼ばれた。[30]
BC1350年、アルゴスの町のアクリシオスは、デルポイを荒らしたプレギュアス人と戦うために、隣保同盟を組織化した。[31]
アクリシオスが治める住人の中には、テッサリア地方からアルゴスの町へ移住したアカイア人が多くいた。[32]
4.4 テッサリアへの移住
BC1390年、アンピクテュオンの兄弟プロノオスは、オプス湾近くからペラスゴイ人が退去したテッサリア地方へ移住した。[33]
プロノオスの子ヘレンの子ネオノスの子ドトスは、テッサリア地方のドティオン平原の名付け親になった。[34]
4.5 テッサリアからの移住
ヘレンの子ドロスがテッサリア地方からパルナッソス山の近くへ移住した後も、ドロスの娘イプチメ一家は、テッサリア地方に残っていた。[35]
BC1390年、イプチメ一家は、イプチメの父ドロスが移住したピンドスの町の近くのスペルケイオス川近くに定住した。[36]
4.6 テッサリアへの嫁入り
BC1387年、デウカリオーンの娘テュイアは、ロクリス地方からテッサリア地方のアルネの町に住むヒッポテスの子アイオロスのもとへ嫁いだ。[37]
アイオロスは、テュイアの父デウカリオーンの父ドロスの兄弟アイオロスの子ミマスの子ヒッポテスの息子であった。つまり、アイオロスは、テュイアの又従兄妹の息子であった。
アイオロスには、既に、テュイアの姉妹プロトゲニアが嫁いでいた。[38]
5 アンピクテュオンの子アイトロスの時代 (BC1385-1365)
5.1 ピュスコスの創建
BC1370年、アイトロスの子ピュスキウスは、ロクリス地方にピュスコスの町を創建した。[38-1]
ピュスコスの町は、テルモピュライ付近のアソポス川の近くにあったと推定される。[38-2]
ピュスキウスの娘テーベは、アソポス河神の娘であった。[38-3]
5.2 コリントスからの嫁入り
BC1366年、アイトロスの子ピュスキウスは、コリントスの町に住むプロイトスの娘マイラを妻に迎えた。[39]
プロイトスは、コリントスの町の創建者シシュッポスの子テルサンドロスの息子であった。[40]
ピュスキウスとマイラは、デウカリオーンの子ヘレンを共通の祖とする同族であった。
6 アイトロスの子ピュスキウスの時代 (BC1365-1345)
6.1 スペルケイオス川近くからの嫁入り
BC1362年、アンドライモンは、スペルケイオス川近くに住むドリュオプスの娘ドリュオペを妻に迎えて、息子アンピッソスが生まれた。[41]
アンドライモンは、デウカリオーンの子オレステウスの子ピュティオス (または、オクシュロス)の息子であり、ロクリス・オゾリス地方のアンピッサの町に住んでいた。[42]
6.2 レスボスからの嫁入り
BC1356年、アンピッサの町のピュティオスの子オイネウスは、レスボス島に住むマカルの娘アンピッサを妻に迎えた。[43]
これより前、BC1389年にマカルは、アカイア地方のオレノスの町からレスボス島へ移住していた。[44]
マカルは、オイネウスの父ピュティオスの父オレステウスの姉妹プロトゲニアの息子であった。[45]
つまり、アンピッサはオイネウスの又従兄妹であった。
パウサニアスは、アンピッサの名前は、アイオロスの子マカルの娘アンピッサに因んで名付けられたと伝えている。[46]
しかし、町が、周りを丘に囲まれた場所にあったためという説もある。[47]
7 ピュスキウスの子ロクルスの時代 (BC1345-1315)
7.1 ボイオティアへの嫁入り
BC1335年、ピュスキウスの娘テーベは、ボイオティア地方のエウトレシスの町に住むアンティオペの子ゼトスのもとへ嫁入りした。
テーベがピュスキウスの娘であると明示している史料はないが、ピュスキウスの子ロクルスがゼトスのテバイ攻略に協力していることから、そのように推定される。[48]
伝承では、テーベをアソポスの河神の娘としているが、ピュスキウスが住むロクリス・エピクネミディオス地方にアソポス川があり、河神はピュスキウスと推定される。[49]
また、ピュスキウスの妻は、プロイトスの娘マイラであったが、テバイの町のプロイティデス門は、テーベの祖父プロイトスの名前に因んで名付けられたと推定される。[50]
7.2 オイタの創建
BC1335年、アンドライモンの子アンピッソスは、オイタ山近くに、オイタの町を創建した。[51]
アンピッソスは、ドリュオプスの娘ドリュオペの息子であった。[52]
ドリュオプスは、イプチメの息子とダナオスの娘ポリュドレとの息子であった。[53]
アンピッソスが治める人々は、ドリュオプス人と呼ばれた。[54]
アンピッソスの父アンドライモンは、デウカリオーンの子オレステウスの子ピュティオス (または、オクシュロス)の息子で、アンピッサの町に住んでいた。[55]
7.3 ボイオティアからの亡命
BC1326年、ゼトスとアンピオンは、テバイの町のヒュリエウスの子リュコスに追われて、ピュスキウスのもとへ亡命して来た。[56]
リュコスは、テバイ王ラブダコスの子ライオスの後見人であった。[57]
ライオスは、ゼトスの母アンティオペの姉の孫であった。[58]
7.4 ボイオティアへの遠征
BC1325年、ロクルスは、ゼトスとアンピオンのテバイ攻めに、レレゲスを率いて遠征に参加した。[59]
この遠征の後で、ロクリス地方のレレゲスの一部は、ボイオティア地方へ移住した。アリストテレスは、レレゲスがボイオティア地方を領したと伝えている。[60]
アリストテレスが伝えているボイオティア地方とは、ボイオティア人の同盟集会が開催されたコロネイアの町を中心とした狭い地方のことと思われる。[60-1]
8 ロクルスの子オプスの時代 (BC1315-1260)
8.1 ボイオティアからの嫁入り
BC1272年、テイオダマス (または、テオダマス)は、ボイオティア地方に住むオリオンの娘メノディケ (または、メキオニカ)を妻に迎えて、2人の息子たち、エウペモスとヒュラスが生まれた。[61]
テイオダマスは、ドリュオピア地方に住んでいたドリュオプスの子クラガレウスの息子と推定される。[62]
8.2 アイトリアからの嫁入り
BC1266年、アイトロスの子アンドライモンは、アイトリア地方に住むカリュドンの娘プロトゲニアを妻に迎えて、息子オクシュロスが生まれた。[63]
カリュドンは、エリスの町からアイトリア地方へ移住したアイトロスの息子であった。[64]
カリュドンはカリュドンの町に住み、プレウロンの町や先住民のクレテスと対立していた。[65]
カリュドンは、エレイア地方で勢力を伸ばしていたアミュタオンから彼の娘アイオリアを妻に迎えていた。[66]
カリュドンが娘をアンピッサの町のアンドライモンに嫁がせたのも、ロクリス・オゾリス人の勢力を味方に付けようとしたものと推定される。
8.3 オプスの創建
BC1262年、ロクルスの子オプスは、アンテイアの町からテルモピュライとエウリポス海峡の中ほどへ移住して、オプスの町を創建した。[67]
オプスは、町の建設に各地から参加者を募集した。アルゴス、テバイ、ピサの町やアルカディア、テッサリア地方から大勢の人々が参加して、オプスの町の住人になった。
オプスの町の住人は混血して、特定の種族に属さなくなったため、レレゲスと呼ばれるようになった。[68]
8.4 テッサリアからの移住
テッサリア地方のプティアの町に住んでいたアクトールの子メノイティウスは、オプスの町の建設に参加した。オプスはメノイティウスを信頼して、自分の息子キュノスではなく、メノイティウスに町を譲った。[69]
9 オプスの子キュノスの時代 (BC1260-1250)
9.1 キュノスの創建
BC1260年、オプスの子キュノスは、オプスの町の近くにキュノスの町を創建した。[70]
9.2 テバイからの嫁入り
BC1252年、テイオダマス (または、テオダマス)の子エウペモスは、テバイの町のアンピュトリオンの娘ラオノメを妻に迎えた。[71]
ラオノメはヘラクレスの妹であり、彼女の父アンピュトリオンは、これより少し前に、ミニュアス人の王エルギヌスとの戦いで戦死していた。[72]
エウペモスの兄弟ヒュラスは、ヘラクレスの侍童であり、トラキスの町の近くのオイカリアの町の出身であった。[73]
10 キュノスの子ホドイドコス (または、オドイドコス)の時代 (BC1250-1240)
10.1 ナリュコスの創建
BC1250年、ホドイドコスの子オイレウス (または、オイレウス)は、キュノスの町の西方にナリュコスの町を創建した。[74]
10.2 カッリアロスの創建
BC1245年、ホドイドコスの子カッリアロスは、キュノスの町の近くにカッリアロスの町を創建した。[75]
11 ホドイドコスの子オイレウスの時代 (BC1240-1220)
11.1 ヘラクレスとドリュオプス人との戦い
11.1.1 戦いの原因
BC1230年、ドリュオプス人は、ヘラクレスとメリス人によって、居住地から追放された。[76]
ディオドロスは、ドリュオプス人が故郷を追われたのは、彼らがデルポイの神殿に不敬を働いたからだと記している。しかし、デルポイから遠く離れたトラキスの町の住人であるマリア人がドリュオプス人を追い出す理由としては、根拠に乏しい。[77]
ドリュオプス人とマリア人は、オイタ山の近くに住み、居住地が接していたため、勢力争いの結果として、ドリュオプス人はメリス人によって、居住地を追われたと推定される。
あるいは、ヘラクレス自身の問題が原因であったかもしれない。
アルゴ船の遠征物語に登場するヘラクレスの侍童ヒュラスは、オイカリアの町の出身であった。[78]
ヒュラスの父テイオダマス (または、テオダマス)は、ドリュオピア地方に住んでいた。[79]
ヒュラスの兄弟エウペモスの妻は、ヘラクレスの姉妹ラオノメであった。[80]
11.1.2 ドリュオプス人の居住地(パウサニアスの記述)
パウサニアスは、アシネの町のドリュオプス人が、初めパルナッソス山周辺のリュコリタイの町の隣に住んでいたと伝えている。[81]
しかし、リュコレイアはデルポイ人の町であった。[82]
スペルケイオス川近くで誕生したドリュオプス人が、ドーリス人の土地を越えて、ポキス人の土地に町を作れるのかは疑問である。[83]
約100年前のアンドライモンの子アンピッソスの時代、ドリュオプス人は、アンピッソスが創建したオイタの町を中心に居住していた。
その後、ドリュオプス人がドーリス人の土地を越えて、ポキス人の土地へ居住範囲を広げたとは思われず、パウサニアスの記述は誤りと思われる。
11.1.3 ドリュオプス人の移住先
11.1.3.1 アルゴス地方
ドリュオプス人は、ミュケナイの町のエウリュステウスのもとへ逃げて、彼から土地を与えられて、アルゴス地方にアシネ、ヘルミオネ、エイオンの町を建設した。[84]
11.1.3.2 エウボイア
ディオドロスは、ヘラクレスに追われたドリュオプス人がエウボイア島のカリュストスの町を創建したと記しているが、間違いである。[85]
カリュストスの町は、BC1260年、キロンの子カリュストスによって創建されていた。[86]
ドリュオプス人が住んでいたのは、カリュストスの町の近くのステュラの町であり、ヘラクレスに追われる前に移住していた。[87]
11.1.3.3 ポキス
ポキス地方のキッラの町の近くに住んでいたドリュオプス人もいた。BC4世紀のアイスキネスによるクテシッポンに対する演説の中に、デルポイを冒涜したクラガリダイが登場する。[88]
クラガリダイは、ヘラクレスとの戦いで死んだピュラスの父クラガレウスの後裔と思われる。[89]
11.1.3.4 キュトノス
ヘロドトスは、キュトノス島には、ドリュオプス人が住んでいたと記している。[90]
キュトノス島のドリュオプス人も、ヘラクレスに追われたドリュオプス人の一部と思われる。
11.1.4 ドリュオプス人の系譜
オイタの町を創建した、ダナオスの娘ポリュドレの子ドリュオプスの娘ドリュオペの子アンピッソスから、ヘラクレスとの戦いで死んだピュラスまでの系譜は次の通りである。
アンピッソスの子ドリュオプスの子クラガレウスの子ピュラス。[91]
後述するドーリス人の王アイギミオスの系譜に比べて、ドリュオプス人の系譜は詳しく残っている。
この原因は、ピュラスの娘メダがヘラクレスとの間に産んだアンティオキスであろうと思われる。アンティオキスは、アテナイの10部族の名祖の一人で、ヒュッロスの死後、ドーリス人の地へ行かずにアテナイの町に残っていた。[92]
恐らく、アンティオキスの先祖であるドリュオプス人の系譜はアテナイの町で記録されていたものと推定される。
11.2 ラピタイとの戦い
11.2.1 ヘラクレスの加勢
BC1227年、ドーリス地方に住むドロスの子アイギミオスのもとへ、テッサリア地方北部に住むドーリス人から救援要請がきた。ヘレンの子ドロスがパルナッソス山の近くへ移住した後も、テッサリア地方北部に残っていたドーリス人がいた。
彼らは、勢力を増したラピタイによって居住地を追い出されて、アイギミオスに助けを求めた。アイギミオスは救援に駆け付けるが、ギュルトンの町に住むカイネウスの子コロノスによって追い返された。アイギミオスは、トラキスの町のヘラクレスに土地の割譲を約束して援助を求め、ヘラクレスはラピタイと戦って勝利した。[93]
11.2.2 アイギミオスの系譜
アイギミオスの系譜は、彼の父ドロスまでしか遡れない。[94]
しかし、アイギミオスがテッサリア地方北部まで含めたドーリス人全体の王であったことを考慮すると、つぎのように推定される。
ヘレンの子ドロスは、オイタ山とパルナッソス山の間の土地にピンドスの町を創建した。[95]
そして、ピンドスの町に住む人々は、マケドノスと呼ばれていたことから、ヘレンの子ドロスの跡を継いだのは、マケドノスであったと推定される。[96]
ヘレンの子ドロスには、息子テクタモスがいたが、クレタ島へ移住した。[97]
また、ドロスの息子と推定されるデウカリオーンは、ロクリス地方へ移住した。[98]
マケドノスからアイギミオスの父ドロスまでの系譜は不明である。
11.3 アイトリアからの嫁入り
BC1222年、アンピッサの町のアンドライモン (または、アンドラウモン)は、カリュドンの町のオイネウスの娘ゴルゲス (または、ゴルゲ)を妻に迎えて、息子トアスが生まれた。[99]
オイネウスの姉妹プロトゲニアは、アンピッサの町のアンドライモンの父オクシュロスの父アンドライモンに嫁いでいた。オイネウスは、西のプレウロンの町に対抗するために、東のロクリス・オゾリス人との関係を強固にしようとして、娘を嫁がせたと推定される。[100]
12 オイレウスの子アイアスの時代 (BC1220-1186)
12.1 アッティカからの移住
BC1211年、ドーリス地方に住むドロスの子アイギミオスのもとへ、ヘラクレスの子供たちがアッティカ地方のトリコリュトスの町から移住して来た。[101]
ヘラクレイダイは、ペロポネソスへの帰還に失敗して、ヘラクレスの子ヒュッロスを失っていた。[102]
ヘラクレスの死後、アイギミオスはヒュッロスを養子にして、ヘラクレスとの約束通り、ドーリス人の土地も割譲していた。[103]
アイギミオスの2人の息子たち、パンピュロスとデュマスの部族は、パンピュリとデュマネスと呼ばれ、ヒュッロスの部族は、ヒュッレイスと呼ばれた。[104]
12.2 アイトリアへの遠征
BC1202年、テュデオスの子ディオメデスは、アイトリア地方のカリュドンの町を追われた祖父オイネウスの旧領を回復するために、アルゴスの町から遠征した。[105]
この遠征には、オイネウスの娘ゴルゲスの夫アンドライモンもアンピッサの町から参加したと推定される。[106]
旧領を回復した後で、アンドライモンはディオメデスからアイトリア地方を任せられた。[107]
12.3 トロイ戦争
オイレウスの子アイアスは、ロクリス・エピクネミディオス人を率いてトロイへ遠征した。[108]
ロクリス・オゾリス人は、アイトリア人と共にアンドライモンの子トアスに率いられてトロイへ遠征した。[109]
ミュケナイの町と敵対関係にあったヘラクレイダイが居住するドーリス地方からは、トロイ遠征への参加はなかった。
BC1186年、ロクリス地方のトロニオンの町から遠征に参加したロクリス人は、アバンテスと共に、テスプロティア地方へ移住して、トロニオンの町を創建した。[109-1]
13 トロイ戦争の後の時代
13.1 ペロポネソスへの遠征
BC1173年、ヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオスは、ドーリス人を率いてペロポネソスへ侵入して、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[110]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[111]
ドーリス人は、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[112]
アガメムノンの子オレステスは、ミュケナイの町からアルカディア地方のテゲアの町へ移住した。[113]
その後、オレステスは軍勢を集めて、ドーリス人をペロポネソスから追い出した。
クレオダイオスは、無事にドーリス地方のピンドスの町へ帰還したようであり、その後、彼には息子アリストマコスが生まれた。[114]
13.2 小アジアへの移住
BC1126年、ロクリス・エピクネミディオス地方のプリキオン山周辺に住むアイオリスは、アガメムノンの曾孫たち、ドロスの子クレウエスとマラオスに率いられて、小アジアへ移住した。[115]
彼らの移住先は、アイオリス地方のラリッサの町の近くで、先住していたペラスゴイ人を追い出して、キュメ・プリコニスの町を建設した。[116]
ペラスゴイ人は、テウタモスの後裔に率いられて、イタリア半島西海岸のピサエの町に逃れ、テュレニア人に受け入れられて共住した。[117]
キュメ・プリコニスへの移住者の大部分は、テスプロティア人によって、テッサリア地方を追われたアイオリスであった。[118]
13.3 テバイからの移住
BC1126年、カドモスの後裔最後のテバイ王アウテシオンは、ドーリス地方へ移住した。[119]
アウテシオンは、ピンドスの町に住むヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオスの子アリストマコスを頼って移住した。[120]
アリストマコスの先祖ヘラクレスがテバイの町で生まれ育ち、彼の生涯の約半分をテバイの町で暮らしていた縁であった。[121]
アウテシオンの娘アルゲイアは、アリストマコスの子アリストデモスと結婚し、スパルタの2王家の初代の王となる双子の息子たち、エウリュステネスとプロクレスを産んだ。[122]
アウテシオンの子テラスは、エウリュステネスとプロクレスの後見人になって、ヘラクレイダイのペロポネソス帰還に参加した。[123]
13.4 ペロポネソスへの遠征
BC1126年、クレオダイオスの子アリストマコスはドーリス人を率いて、ペロポネソスへの帰還を試みるが、オレステスの子ティサメノスに敗れて、戦死した。[124]
アリストマコスは、テバイの町からの移住者を受け入れ、テッサリア地方からのボイオティア人の帰還やそれに伴う人々の移動で混乱している中で、帰還を試みたと思われる。
アガメムノンの子孫たちの小アジアへの移民団は、ロクリス付近に長期間留まって、ドーリス人の動向を見守っていた。[125]
13.5 ペロポネソスへの移住
アリストマコスの子テメノスは、父の跡を継いで、ドーリス人の3部族のひとつヒュッレイスの王になった。[126]
テメノスは、ペロポネソスへの帰還を陸路によるものではなく、アイトリア地方から海峡を渡ってペロポネソスへ侵入しようと計画した。そのため、その方面の事情に詳しいトアスの子ハイモンの子オクシュロスを遠征に参加させた。
伝承では、アリストマコスの息子たちが、偶然、オクシュロスと出会って、彼を案内人にしたことになっているが、彼らは親族であった。[127]
オクシュロスは、アリストマコスの父クレオダイオスの父ヒュッロスの母デイアネイラの姉妹ゴルゲの子トアスの子ハイモンの息子であり、オクシュロスとアリストマコスは3従兄弟であった。
13.5.1 アリストデモスの死
BC1115年、アリストマコスの子アリストデモスは、オレステスの子ティサメノスの従兄弟たち、メドンとストロピオスによって、デルポイで殺害された。[128]
ピュラデスの子ストロピオスはキッラの町に住み、彼の兄弟メドンはメデオンの町に住んでいた。[129]
13.5.2 ナウパクトスの創建
BC1115年、アリストマコスの子テメノスは、アイトリア地方とロクリス・オゾリス地方との境近くで艦隊を建造した。[130]
そこには町ができ、船を建造したことに因んで、ナウパクトスの町と呼ばれるようになった。[131]
ストラボンは、ナウパクトスの町がロクリス・オゾリス地方の町であったが、マケドニア王ピリッポスが、その町をアイトリア人に与えてから、アイトリア地方になったと伝えている。[132]
BC459年、ナウパクトスの町に住んでいたロクリス・オゾリス人は、アテナイ人に追い出された。[133]
13.5.3 ヘラクレイダイの最終帰還
BC1104年、テメノスはドーリス人を率いて、ペロポネソスへの帰還を果たした。[134]
13.5.3.1 ドーリス人の出発地
ヘロドトスは、ドーリス人がエリネオス、ピンドスの町や、ドリュオピス地方からペロポネソスへ移住したと伝えている。[135]
ピンダロスは、ドーリス人がピンドスの町を出発して、アミュクライの町を占領したと伝えている。[136]
BC7世紀の詩人テュルタイオスは、エリネオスの町から移住したと伝えている。[137]
ストラボンは、ドーリス人がピンドスの町を含む4つの町を中心にした地方からペロポネソスへ帰還したと伝えている。[138]
トゥキュディデスは、ボイオン, キティニオン, エリネオスが、ペロポネソス戦争当時のラケダイモン人の母市だと伝えている。[139]
以上のことから、テメノスがドーリス人を率いて出発したのは、ロクリス・エピクネミディオス地方とロクリス・オゾリス地方に挟まれた、テトラポリスを中心としたドーリス地方であったと推定される。
13.5.3.2 ヘラクレイダイ帰還後のドーリス地方
BC458年、ポキス人に攻められたボイオン, キティニオン, エリネオスの町のドーリス人を救援するために、ラケダイモン人は、大部隊を派遣した。[140]
ペロポネソスへ移住してから、650年近く経過した後でも、ラケダイモン人は、先祖の出身地を忘れていなかった。
おわり |