1 はじめに
BC5世紀の悲劇詩人エウリュピデスは、ラコニア地方のことを「耕地は多いが耕作は楽ではない。山並みに囲まれた土地は岩が多くて険しく、外敵は侵入し難い」と評価している。[1]
AD2世紀の著述家アポロドロスは、第2代アテナイ王クラナオスの妻がラケダイモン人であったと伝えている。[2]
クラナオスの結婚の時期は、BC1530年頃であるが、その頃、ラコニア地方に系譜を辿れる人物はいない。
クラナオスの時代に、ラコニア地方に住んでいたギリシア人がいたとすれば、アルカディア地方から南下したペラスゴイ人であったと思われる。
2 レレクスの時代
2.1 エジプトからの移住
BC1430年、レレクスは、ダナオスと共に、エジプトからロドス島を経由して、ギリシアへ移住した。[3]
彼らのペロポネソスでの最初の上陸地点は、アルゴス地方とラコニア地方の境のテユレア地方のピュラミア付近であった。[4]
ダナオスは、そこから航海を続けてレルナの近くのアポバトモイに上陸して、アルゴスの町へ向かった。[5]
レレクスはピュラミアから内陸へ進み、川に沿って下り、その川の中流域に居を定めた。
その川は、マラトスやヒメロスの名前で呼ばれていたエウロタス川であった。[6]
レレクスが治める土地の住人はレレゲスと呼ばれた。[7]
2.2 レレクスの素性
レレクスは、エパポスの娘リビュアの息子であり、ダナオスの父ベロスの兄弟であった。[8]
レレクスは、ダナオスと同じくナイルデルタのケンミスの町に住んでいたギリシア系エジプト人であった。[9]
ナイルデルタに住んでいた人々は、上エジプトに対して反乱を起こして、エジプトから追放された。[10]
彼らを追い出したのは、古代エジプトを最大版図にした征服王、第18王朝のファラオトトメス3世であった。[11]
2.3 メガラへの移住
BC1430年、レレクスは、彼の息子ミュレスに、その地を任せて、メガラ地方へ移住した。[12]
メガラへは、BC1725年、イナコスの子ポロネオスの子カアがアルゴスの町から移住していた。[13]
2.4 テラプネの創建
BC1430年、レレクスの娘テラプネの夫は、ラケダイモンの町の近くにテラプネの町を創建した。[14]
テラプネの夫は、ダナオスやレレクスと一緒にエジプトから移住して来た。
3 レレクスの子ミュレスの時代
レレクスがメガラへ移住すると、レレクスの子ミュレスが父の跡を継いだ。[15]
3.1 アンダニアの創建
BC1405年、レレクスの子ポリュカオンは、ラケダイモンの町の北西約50kmの所へ移住して、アンダニアの町を創建した。[16]
アンダニアの町の建設には、ポリュカオンの妻メッセネの出身地アルゴスの町から多くの人々が参加した。[17]
ポリュカオンがラケダイモンの町から率いた人々は、レレゲスであったが、アルゴスの町から移住した人々はアカイア人であった。[18]
アンダニアの町のある地方は、メッセネの名前に因んで、メッセネと呼ばれるようになった。[19]
後に、ポリュカオンの後裔が絶えたときに、テッサリア地方から継承者を迎えていることから、アンダニアの住民の多くはアカイア人であったと推定される。[20]
3.2 メッセネの父
パウサニアスは、『ギリシア案内記』の中の5か所で、メッセネの父を、アルゴスの町のトリオパスと記している。[21]
また、パウサニアスは、メッセネの父が名声と実力ともにギリシアで一番であったとも伝えている。[22]
ポリュカオンがメッセネと結婚した頃、アルゴスの町を治めていたのはダナオスであり、トリオパスは、ダナオスの別名、あるいは、本名であったと思われる。
エジプトのトトメス3世の年代記に、ギリシア人と推定されるダナヤ (タナジュ)の土地から貢納があったと記されている。[23]
ダナヤは、ダナオスの父ベロスの種族名で、ダナオスは、その種族名から人の名前のように作られた造語と思われる。
4 ミュレスの子エウロタスの時代
エウロタスは、父ミュレスの跡を継いだ。[24]
アポロドロスは、エウロタスをレレクスの息子と伝えている。しかし、系図を作成すると、パウサニアスが伝えているように、エウロタスをミュレスの息子とした方が妥当である。
4.1 アカルナニアへの移住
BC1390年、レレクスの娘テラプネの子テレボアスは、テラプネの町からアカルナニア地方西部へ移住した。[25]
アリストテレスは、古い時代に、アカルナニア地方西部には、レレゲスとテレボアイ人が住んでいたと伝えている。[26]
テレボアスが率いた移住者は、最初、レレゲスと呼ばれたが、その後、テレボアスの後裔は、テレボアイ人と呼ばれた。[27]
4.2 オイテュロスの創建
BC1380年、アンピアナクスの子オイテュロスは、アルカディア地方のプトリス (または、マンティネイア)の町からタイナロン岬の北へ移住してオイテュロスの町を創建した。[28]
アンピアナクスは、アイギュプトスの子アンティマコスと、ダナオスの娘ミデイアとの間の息子であった。[29]
5 タユゲテの子ラケダイモンの時代
エウロタスには息子がいなかったため、彼の娘スパルタの夫ラケダイモンが、エウロタスの跡を継いだ。[30]
ラケダイモンの母タユゲテは、アルカディア地方に住むリュカオンの子オルコメノスの娘であった。[31]
オルコメノスは、メテュドリオンの町とオルコメノスの町の創建者であり、アトラスの異名を持ち、プレイアデス(または、アトランティデス)と呼ばれる娘たちの父であった。[32]
5.1 スパルタの創建
ラケダイモンは、散らばって住んでいた人々を集めて町を作り、妻の名前に因んでスパルタの町と呼ばせた。[33]
それ以前、彼らの住む地域や人々は、彼に因んで、ラケダイモンやラケダイモン人と呼ばれていた。[34]
ストラボンは、同じ町が、ラケダイモンともスパルタとも呼ばれたと伝えている。[35]
5.2 アルゴスへの嫁入り
BC1357年、ラケダイモンの娘エウリュディケは、アルゴスの町に住むアバスの子アクリシオスに嫁いだ。[36]
エウリュディケは、アクリシオスの父アバスの母ヒュペルメストラの父ダナオスの父ベロスの兄弟レレクスの子ミュレスの子エウロタスの娘スパルタの娘であった。
つまり、アクリシオスは、エウリュディケの4従妹であった。
6 ラケダイモンの子アミュクラスの時代
ラケダイモンの跡を、彼の息子アミュクラスが継いだ。[37]
6.1 アミュクライの創建
BC1351年、アミュクラスは、スパルタの町から南へ約4km離れた、エウロタス川の右岸へ移住して、アミュクライの町を創建した。[38]
アミュクライの町は、ラコニアの中で最も収穫に恵まれた土地になった。[39]
6.2 テッサリアからの嫁入り
BC1351年、アミュクラスは、テッサリア地方からラピトスの娘ディオメデを妻に迎えた。[40]
アミュクラスの姉妹エウリュディケの夫アクリシオスは、隣保同盟を組織化する際に、ラピトスと繋がりがあった。[41]
アイオロスの子ラピトスは、テッサリア地方北部を流れるペネイオス川近くに住み、ラピタイの名祖であった。[42]
ディオメデと共に多くのアイオリスがアミュクライの町へ移住した。
アミュクライの町は、ドーリス人の支配となったラコニア地方に最後まで残ったアカイア人が住む町であった。[43]
7 アミュクラスの子アイガロスの時代
アイガロスは父アミュクラスの跡を継いで、ラケダイモン王となり、アミュクライの町に住んだ。[44]
7.1 アクリアイの創建
BC1320年、アクリアスは、ラコニア湾岸にアクリアイの町を創建した。[45]
アクリアスは、アミュクラスの息子と推定される。
アクリアスは、ピサの町のオイノマオスとの戦車競走の伝承に登場する。[46]
8 アミュクラスの子キュノルタスの時代
キュノルタスは、兄弟アイガロスの跡を継いで、ラケダイモン王となり、スパルタの町に住んだ。[47]
8.1 ペロプスの通過
BC1315年、タンタロスの子ペロプスは、リュディア地方からギリシアへ移住して来た。[48]
次のことから、ペロプスのペロポネソス上陸地は、ラコニア地方であったと推定される。
1) エウロタス川の河口近くのアクリアイの町に、ペロポネソス内で最も古い神々の母の神像があった。神々の母の最も古い神像は、リュディア地方にあり、ペロプスの兄弟ブロテアスが製作した。[49]
2) アクリアイの町の創建者アクリアスは、オイノマオスに殺されたと伝えられる12人の中で、唯一、当時実在していたと思われる人物である。アクリアスは、ペロプスをエレイア地方へ案内したと推定される。[50]
3) ペロプスと共にギリシアへ移住したプリュギア人の墓がペロポネソスの各地にあったが、特に大きな墓がスパルタの町にあった。[51]
4) ペロプスは、ピサの町から5km以上内陸にあるプリクサで供犠をした。[52]
8.2 ペロプスの遠征への参加
キュノルタス、あるいは、彼の息子オイバロスは、ペロプスの遠征に参加したと推定される。
ペロプスと共にギリシアへ移住したプリュギア人の墓がペロポネソスの各地にあったが、特に大きな墓がスパルタの町にあった。[53]
ペロプスとの遠征に参加した後で、キュノルタスの子オイバロスは、ペロプスと共にギリシアへ移住したプリュギアの有力者の娘バティアを妻として迎えた。[54]
バティアは、トロイ王国の始祖ダルダノスの妻の名前にもある。[55]
オイバロスの妻バティアと共に、スパルタの町へ多くのプリュギア人が移住して来た。[56]
9 キュノルタスの子オイバロスの時代 (BC1290-65)
オイバロスは父キュノルタスの跡を継いで、スパルタの町に住んだ。[57]
9.1 ミュケナイからの嫁入り
BC1303年、オイバロスは、妻バティアの死後、ミュケナイの町からペルセウスの娘ゴルゴホネを妻に迎えた。[58]
ゴルゴホネは、メッセニア地方のアンダニアの町のアイオロスの子ペリエレスの妻であったが、彼女も夫と死別していた。[59]
9.1.1 結婚の成立要因
オイバロスの祖父アミュクラスの姉妹エウリュディケの夫は、ペルセウスの母ダナエの父アクリシオスであった。しかし、ダナエの母は、エウリュディケではなく、オイバロスとゴルゴホネには、血縁関係はなかった。
オイバロスとゴルゴホネの結婚が成立したのは、ペルセウスがペロプスの遠征に参加したからと思われる。
ペルセウスの妻アンドロメダの出身地エチオピアのすぐ近くに、ペロプスの父タンタロスの領地があり、ペロプスは、ペルセウスと面識があった。[60]
ペロプスがギリシアに来た頃、ペロプスの姉妹ニオベは、死んだ後で、ペロプスがギリシアで頼れる人は、ペルセウスだけであった。
ペルセウスは、ペロプスの案内者たちの筆頭であったと思われる。
ペルセウスの4人の息子たちと、ペロプスの4人の娘たちとの結婚が、それを証明している。[61]
9.1.2 ゴルゴホネの再婚
パウサニアスは、ゴルゴホネが当時の慣習を破って、はじめて夫の死後、再婚したと伝えている。[62]
しかし、ゴルゴホネより前に、少なくとも2人の女性の例がある。
1) ポイニクスの娘エウロパは、クレタ島のテクタモスの子アステリオスと再婚した。[63]
2) サルモネオスの娘テュロは、テッサリア地方のイオルコスの町のアイオロスの子クレテウスと再婚した。[64]
9.2 オイバロスの子供たち
オイバロスとバティアの間には、息子ヒッポコーンが生まれた。[65]
オイバロスとゴルゴホネの間には、2人の息子たち、テュンダレオスとイカリオス、娘アレネが生まれた。[66]
アレネは、彼女の母ゴルゴホネの前の夫ペリエレスの子アパレウスと結婚した。[67]
アパレウスは、メッセニア地方南西の海岸近くに、彼の妻の名前に因んだアレネの町を建設した。[68]
9.3 ヘロスの創建
BC1290年、ペルセウスの子ヘリウスは、ミュケナイの町からラコニア湾岸のアクリアイの町の近くへ移住してヘロスの町を創建した。[69]
ヘリウスが、アクリアス創建のアクリアイの町の近くに、ヘロスの町を創建できたのは、ヘリウスの姉妹ゴルゴホネがキュノルタスの子オイバロスとの結婚によるものであった。
アクリアスは、ヘリウスの姉妹ゴルゴホネの夫オイバロスの叔父であった。
9.4 ヘロスからの移住
BC1277年、ペルセウスの子ヘリウスは、ヘロスの町からアカルナニア地方のエキナデス諸島へ移住した。[70]
ラコニア地方とアカルナニア地方は、テラプネの子テレボアスがアカルナニア地方西部へ移住してから、両地方の間で、交易があったと思われる。
ヘリウスは、エキナデス諸島の良さを聞き込んで、兄弟エレクトリュオンや甥アンピュトリオンに協力を求めて遠征した。ヘリウスは、エキナデス諸島に入植し、遠征に参加したデイオンの子ケパロスは、ケパレニア島に入植した。[70-1]
10 オイバロスの子ヒッポコーンの時代 (BC1265-39)
オイバロスの跡を彼の息子ヒッポコーンが継いだ。[71]
10.1 アイトリアへの移住
BC1265年、テュンダレオスは、スパルタの町からアイトリア地方へ移住した。[72]
伝承によれば、ヒッポコーンがテュンダレオスとイカリオスをスパルタの町から追い出した。[73]
しかし、ヒッポコーンは、オイバロスの正当な継承者であり、彼にはテュンダレオスと同年代の多くの息子たちがいて、テュンダレオスに王位が回ってくることはあり得なかった。
10.1.1 テュンダレオスの同行者
テュンダレオスは自らの意志でスパルタの町を去り、メッセニア地方のアレネの町に住むアパレウスのもとへ行った。[74]
アパレウスは、テュンダレオスの異父兄弟であり、テュンダレオスの姉妹アレネの夫であった。
アパレウスには、テュンダレオスと同年代の息子イダスがいた。[75]
テュンダレオスは、彼の甥イダスと共にアイトリア地方へ移住した。
10.1.2 テュンダレオスの移住先
テュンダレオスとイダスの移住先は、アイトリア地方のプレウロンの町であった。プレウロンの町に住むテスティオスの妻は、アパレウスの姉妹デモニケであった。[76]
デモニケは、テュンダレオスの異母姉妹であり、イダスの叔母であった。[77]
つまり、テュンダレオスとイダスは、デモニケを頼って、アイトリア地方へ移住した。
10.1.3 テュンダレオスの結婚
プレウロンの町へ移住した後で、テュンダレオスは、テスティオスの娘レダと結婚した。[78]
10.1.4 イダスの結婚
イダスは、プレウロンの町に住むエウイノスとアルキッペとの娘マルペッサと結婚し、娘クレオパトラ (または、ハルキュオネ)が生まれた。[79]
イダスの娘クレオパトラは、カリュドンの町に住むカリュドンの子メレアグロスに嫁いだ。[80]
10.1.5 アイトリアの抗争
カリュドンの子メレアグロスが戦死するアイトリア地方の抗争が起きた。いわゆる、カリュドンの猪狩りと呼ばれる出来事である。[81]
アイトリア地方の先住民クレテスの血を引くプレウロンの町の住人と、エレイア地方から移住したエンデュミオンの子アイトロスの血を引くカリュドンの町の住人との戦いであった。
テュンダレオスはプレウロン側で、イダスはカリュドン側で戦った。[82]
しかし、カリュドンの猪狩りの物語に、テュンダレオスは登場せず、彼の息子たち、ディオスクロイが登場している。[83]
物語の作者は、テュンダレオスとイダスを同世代とは思わず、テュンダレオスをイダスより1世代前の人物と思っていたようである。
このアイトリアでの戦いは、ディオスクロイやイダス兄弟が故郷へ帰った後も、メッセニア地方とラケダイモンの戦いとして継続することになった。[84]
10.2 イカリオスの結婚
BC1256年、イカリオスはスパルタの町の南にパリスの町を創建し、メッセニア地方のパライの町から、オルシロコスの娘ドロドケを妻に迎えた。[85]
パライの町の創建者は、オルシロコスの母テレゴネの父パリスであった。[86]
イカリオスが創建したパリスの町は、パライの町とも呼ばれていた。[87]
10.3 キュテラへの移住
BC1251年、ペロプスの子テュエステスは、ミデイアの町からキュテラ島へ移住した。[88]
テュエステスがミデイアの町を去ったのは、エレクトリュオンの子リキュムニオスがテバイの町からミデイアの町へ帰還したことが原因と思われる。
10.4 ヒッポコーンの死
BC1239年、ヒッポコーンは、ヘラクレスに攻められて、多くの息子たちと共に戦死した。[89]
伝承によれば、戦いの原因は、ヘラクレスがエリスの町を攻めた時に、ヒッポコーンがエリスの町に味方したためであった。[90]
しかし、ヒッポコーンとヘラクレスの戦いは、ヘラクレスがエリス攻めの遠征隊を解散した後の出来事であり、テゲアの町のケペオスと彼の多くの息子たちが戦死した。[91]
このことから、ケペオスの要請に応じて、ヘラクレスが手勢を率いて加勢したもので、ラケダイモンの町とテゲアの町の紛争が戦いの原因であったと推定される。
11 オイバロスの子テュンダレオスの時代 (BC1237-19)
BC1237年、テュンダレオスはアイトリア地方からスパルタの町へ移住した。ヘラクレスが、ヒッポコーンとの戦いの後で、テュンダレオスをスパルタの町に呼び戻したと伝えられている。[92]
しかし、実際は、ヒッポコーンやイカリオスがいなくなり、オイバロスの跡を継ぐ者がいなくなったスパルタの町を継承するためにテュンダレオスが帰還したと推定される。
11.1 アカルナニアへの移住
BC1237年、ヘラクレスはテスプロティア地方のエピュラの町へ遠征した。[93]
イカリオスは、この遠征に参加して、アカルナニア地方へ移住した。[94]
イカリオスの2人の息子たち、レウカディオスとアリュゼウスは、アカルナニア地方に自分たちの名前を付けた町を創建した。[95]
イカリオスは、カリュドンの町で遠征隊に合流し、途中、プレウロンの町でテュンダレオスに会い、ラケダイモンへ戻るように説得した。スパルタの町には、イカリオスの子ペリレオス(または、ペリラオス)が残っていたが、成年に達してしなかった。[96]
11.2 イカリオスの結婚
イカリオスは、アカルナニア地方で、リュガイオスの娘ポリュカステ (または、ポリュボイア)を妻にした。[97]
イカリオスとポリュカステには、オデュッセウスの妻になるペネロペが生まれた。[98]
11.3 テュンダレオスの結婚
アイトリア地方からスパルタの町へ帰還したテュンダレオスは、ネメシスと結婚した。[99]
ネメシスは、女神の名前で、人間としての名前は不明であるが、ヒッポコーンの娘、または、孫娘と推定される。
テュンダレオスの2人目の妻から、アガメムノンの妻となるクリュタイムネストラやメネラオスの妻となるヘレネが生まれた。[100]
伝承によれば、ヘレネは、テスティオスの娘レダの娘であった。[101]
しかし、系図を作成すると、レダの息子たちであるディオスクロイとヘレネの年齢差は、40歳以上である。彼らが、一人の女性から生まれたとは思われない。
つまり、クリュタイムネストラやヘレネは、テュンダレオスがスパルタの町に戻ってから生まれた娘たちであった。
11.4 アンダニアとの戦い
BC1237年、テュンダレオスは最初に、アンダニアの町を攻めた。[102]
アンダニアの町は、元々ラケダイモンの植民市であり、スパルタの町の近くにあった。[103]
アンダニアの町は、ペリエレスの死後、彼の息子レウキッポスが継承していた。[104]
レウキッポスは、テュンダレオスの異父兄弟であり、イダスの叔父であった。
テュンダレオスとの戦いで、レウキッポスは死に、彼の2人の娘たちは、テュンダレオスの2人の息子たち、カストールとポリュデウケスに連れ去られて、彼らの妻になった。[105]
テュンダレオスの息子たちと、レウキッポスの娘たちは、いとこ同士であった。
11.5 オイカリアとの戦い
BC1237年、テュンダレオスは、次にアンダニアの町の近くのオイカリアの町のエウリュトスを攻めた。[106]
オイカリアの町は、アンダニアの町から土地を分け与えられて創建された町であった。[107]
エウリュトスは、エウボイア島へ移住して、3番目のオイカリアの町を創建した。[108]
最初のオイカリアの町は、BC1310年にエウリュトスの父メラネオスが、テッサリア地方に建設した。[109]
11.6 イダス兄弟との戦い
アンダニアの町のレウキッポスは、イダスの叔父であり、オイカリアの町のエウリュトスは、イダスの祖父ペリエレスがテッサリア地方から招いたメラネオスの息子であった。[110]
メラネオスとペリエレスの父は、ラピトスの子アイオロスであった。[111]
つまり、イダスやエウリュトスは、ラピトスを共通の先祖とするラピタイであり、イダス兄弟もアンダニアの町やオイカリアの町に加勢して、テュンダレオスと戦ったと推定される。
アイトリア地方でのテュンダレオスとイダスとの戦いは、場所を移して、ラケダイモン人とメッセニア人との戦いになった。
11.7 テュンダレオスの死
ディオスクロイの死後、テュンダレオスが娘婿メネラオスに王権を譲ったという伝承がある。[112]
しかし、テュンダレオスの死後、ディオスクロイが父の跡を継いだという伝承もあり、こちらの方が妥当である。[113]
テュンダレオスは、BC1219年に死んだと推定される。
12 テュンダレオスの息子たちの時代 (BC1219-09)
12.1 イダス兄弟との戦い
テュンダレオスとイダス兄弟との戦いは、テュンダレオスの2人の息子たちに引き継がれ、30年近く続いた。
彼らの戦いの最終章は、イダスによるテュンダレオスの娘ヘレネの誘拐で始まった。
BC1210年、イダスは、ヘレネを誘拐して、アテナイの町のテセウスに預け、テセウスはヘレネをアピドナイの町のアピドノスに託した。[114]
当時、ヘレネは7歳 (または、10, 12)の少女であった。[115]
テセウスの友ペイリトウスはラピタイであり、ペイリトウスを介して、イダスとテセウスにも親交があったと思われる。[116]
テュンダレオスの2人の息子たちは、ヘレネを奪い返した。[117]
12.2 ディオスクロイの死
BC1209年、テュンダレオスの息子たち、カストールとポリュデウケスは、イダスとリュンケウス兄弟と戦って、全員が死んだ。[118]
13 ディオスクロイの息子たちの時代 (BC1209-00)
ディオスクロイには、息子たち、アノゴンとムネシレオスがいた。[119]
ディオスクロイの跡を彼らの息子たちが継いだと思われる。
13.1 ミュケナイへの嫁入り
BC1209年、テュンダレオスの娘クリュタイムネストラは、ミュケナイの町のアガメムノンに嫁いだ。[120]
アガメムノンは、クリュタイムネストラの父テュンダレオスの母ゴルゴホネの姉妹アウトクテの子アトレウスの子プリステネスの息子であった。
つまり、アガメムノンは、クリュタイムネストラの又従兄の息子であった。
13.2 ミュケナイへの嫁入り
BC1205年、テュンダレオスの娘ヘレネは、ミュケナイの町のメネラオスに嫁いだ。[121]
メネラオスは、ヘレネの又従兄の息子であった。
14 プリステネスの子メネラオスの時代 (BC1200-1180)
BC1203年、アトレウスが死に、彼の孫アガメムノンがミュケナイ王になった。[122]
14.1 ミュケナイへの併合
BC1200年、アガメムノンは、ラコニア地方をミュケナイの町に併合して、メネラオスがラコニア地方を領有した。[123]
アガメムノンは、ラコニア地方のマレアイ岬近くのオヌグナトス半島にアテナの神域を造営した。[124]
14.2 メッセニアへの進出
イダスの跡をネレウスの子ネストルが継承したが、メッセニア地方全域を従わせることはできなかった。[125]
メネラオスは、ネストルの勢力の及ばないメッセニア湾沿岸部のカルダミュレ、エノペ、ヒレ、フェライ、アンテイア、アイペイア、ペダソスを支配下に置いた。[126]
ホメロスによれば、この7つの町は、トロイ戦争の前からメネラオスが支配していた。[127]
14.3 メネラオスの死
パウサニアスは、アガメムノンの子オレステスやオレステスの子ティサメノスもラケダイモン人の王になったと伝えている。[128]
また、メネラオスには、少なくとも3人の息子たちがいた。[129]
以上のことから、メネラオスはアガメムノンより先に死んだと推定される。
15 アガメムノンの子オレステスの時代 (BC1180-1132)
メネラオスが死ぬと、テュンダレオスの娘クリュタイムネストラの子オレステスがラケダイモン人の王になった。[130]
次のことから、オレステスは名目上のラケダイモン王であり、実際に統治したのは、メネラオスの息子たちであり、オレステスはスパルタの町に住んではいなかったと推定される。
1) オレステスは、ミュケナイ王アガメムノンの跡を継ぐべき息子であった。[131]
2) メネラオスの死後、ラコニア地方を継承した者たちの勢力は、衰えた。[132]
3) オレステスは、ミュケナイの町からアルカディア地方へ移住して、そこで、死んだ。[133]
15.1 クレオダイオスとの戦い
BC1173年、ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人がミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[134]
アガメムノンは、ドーリス人との戦いで、戦死したと推定される。
オレステスは軍勢を集めて、ドーリス人をペロポネソスから追い出した。
15.2 テネドスの建設
BC1170年、アミュクライの町のペイサンドロスは、オレステスと共にテネドス島へ遠征して、テネドスの町を建設した。[135]
アミュクライの町は、クレオダイオス率いるドーリス人の侵入によって荒廃し、ペイサンドロスは、住居や耕作地を失った人々を率いて、新天地へ移住した。
ペイサンドロスの母方の祖父は、テバイ攻めの守将メラニッポスであった。[136]
16 オレステスの子ティサメノスの時代 (BC1132-1104)
オレステスの跡を彼の息子ティサメノスが継いだ。[137]
ティサメノスは、アルゴスの町に住み、ラケダイモン人を支配した。[138]
16.1 アリストマコスとの戦い
BC1126年、 ティサメノスは、ペロポネソスに侵入したクレオダイオスの子アリストマコス率いるドーリス人と戦った。[139]
アリストマコスは、スパルタの町まで侵攻したが、戦死した。[140]
16.2 ミニュアス人の亡命
BC1115年、レムノス島やインブロス島に住んでいたミニュアス人が、ペラスゴイ人に追われてラコニア地方へ移住して来た。[141]
ヘロドトスは、「ラケダイモン人は、ミニュアス人がディオスクロイと一緒にアルゴ船の遠征に参加した人々の子孫であるという理由で彼らを受け入れた」と伝えている。[142]
しかし、このヘロドトスの記述は、次のことから、作り話と思われる。
1) アルゴ船の遠征は、物語であって、ディオスクロイは航海していない。
2) ミニュアス人は、アルゴ船の遠征物語に登場する英雄たちの子孫ではない。
3) レムノス島で、アルゴ船が子孫を残したという伝承も作り話である。[143]
16.3 テメノスとの戦い
BC1110年、ティサメノスは、アルカディア地方からアルゴス地方へ侵入したアリストマコスの子テメノス率いるドーリス人を迎え撃つが敗れ、アルゴスの町に籠城した。[144]
その後、ティサメノスはアルゴスの町をヘラクレイダイに明け渡して、スパルタの町に籠城した。[145]
16.4 アカイアへの移住
BC1104年、ティサメノスは、ヘラクレイダイと裏取引したピロノモスに説得されて、スパルタの町からアカイア地方へ移住した。[146]
ピロノモスは、ペラスゴイ人に追われてレムノス島からラケダイモンへ移住したミニュアス人であった。[147]
ピロノモスは、エウリュステネスとプロクレスからアミュクライの町を任せられた。[148]
アミュクライの町は、クレオダイオス率いるドーリス人の侵入によって荒廃し、住人は、新天地を求めて、テネドス島へ移住し、当時、アミュクライの町の住人は少なかったと推定される。
17 エウリュステネスとプロクレスの時代 (BC1104-)
ティサメノスが去って、スパルタの町はドーリス人が支配する町になった。
アリストデモスの2人の息子たち、エウリュステネスとプロクレスが初代スパルタ王になった。[149]
17.1 テラへの移住
BC1099年、エウリュステネスとプロクレスの後見人の役目を終えたアウテシオンの子テラスは、ラケダイモン人やミニュアス人を率いてテラ島へ移住した。[150]
エウリュステネスとプロクレスは、双生児であったが意見が合わず、常に対立していたが、テラスの移住についてはどちらも積極的に支援した。[151]
17.2 レムノスからの移住
BC1075年、レムノス島に住んでいたペラスゴイ人が、ラコニア地方のタイナロンへ移住して来た。[152]
彼らは、ペラスゴイ人がアッティカ地方のブラウロンの町から拉致して、レムノス島へ連れて来られた女性から生まれた子供たちであった。[153]
ペラスゴイ人は、アカイア人と戦っていたドーリス人に協力して、市民権を獲得した。[154]
17.3 アイピュトスへの加勢
BC1082年、エウリュステネスとプロクレスは、クレスポンテスの子アイピュトスに加勢して、彼をメッセニア王に復位させた。[155]
アイピュトスは、彼らの父方の従兄弟であった。
ポリュポンテスがクレスポンテスを殺して、メッセニア王を簒奪したとき、アイピュトスは、アルカディア地方のトラペズスの町に住む祖父キュプセロスに養育されていたため難を逃れた。[156]
17.4 反乱の発生
BC1070年、レムノス島に住んでいたペラスゴイ人は、ラコニア地方に移住して来て、ドーリス人に受け入れられたが、その後、両者は対立した。ペラスゴイ人は、ラコニア地方に住んでいたアカイア人を教唆して、ドーリス人に対して反乱を起こした。ドーリス人は、彼らと条約を締結して、ラコニア地方から彼らを立ち去らせた。[157]
ペラスゴイ人とアカイア人は、各地へ移住した。
17.4.1 クレタやメロスへの移住
ポッリスとデルポスに率いられた人々は、メロス島やクレタ島のゴルテュナの町やリュクトスの町に定住した。[158]
彼らの移民団には、ピロノモスの後裔アポダスモス率いるアミュクライの町に住んでいたミニュアス人も含まれていた。[159]
17.4.2 エレイアへの移住
ヘロドトスは、テラスの移民団に参加しなかったミニュアス人が、ラケダイモンからエレイア地方南部へ移住して、レプレオン, マキストス, プリュクサイ, ピュルゴス, エピオン, ヌディオンの町を創建したと記している。[160]
しかし、そのミニュアス人をレムノス島から追い出したのは、アテナイの町から追放されたペラスゴイ人であった。[161]
ペラスゴイ人より数の少ないミニュアス人が、6つの町を創建できたとは思われない。
6つの町を創建したのは、反乱を起こして、ラコニア地方から追放されたペラスゴイ人とアカイア人であったと思われる。
18 エウリュステネスとプロクレス以後の時代 (BC11-10世紀)
18.1 ヘロスの攻略
BC930年、アギスとソウスの治世に、スパルタ人は、周辺の町の住人に貢納を命じたが、ヘロスの町が反乱を起こしたので住人を奴隷にした。[162]
ヘロスの町の住人は、ラケダイモンの最初のヘイロテス(公共の奴隷)になった。[163]
18.2 アルカディア人との戦い
BC920年、アギス王家のスパルタ王ソウスは、クレイトール人と戦った。[164]
クレイトール人は、BC1355年にアザンの子クレイトールが、アルカディア地方北部に創建したクレイトールの町の住人であった。[165]
BC900年、エウリュポン王家のスパルタ王アギスは、アルカディア地方に侵攻してマンティネイア人に殺害された。[166]
アギス王家のスパルタ王、ソウスの子エウリュポン (または、エウリュポン)は、マンティネイアの町を攻めて占領した。[167]
18.3 アカイア人の最終退去
BC780年、アルケラオスの子テレクロスがスパルタ王であった時代に、ラコニア地方に最後まで残っていたアカイア人の町から住人が退去した。[168]
パリスの町とゲロントライの町の住人は、ドーリス人と戦うことなく、ペロポネソスを退去した。[169]
アミュクライの町の住人は、ドーリス人に頑強に抗戦してから退去した。[170]
18.4 ヘロスの破壊
BC760年、テレクロスの子アルカメネスの時代に、ドーリス人は、ヘロスの町を攻めて破壊した。[171]
ヘロスの町に住んでいたアカイア人は、BC930年にドーリス人によって占領されて、ヘイロテスになっていた。[172]
アルカメネスの時代、ヘロスの町は破壊されて、住人がいなくなった。[173]
おわり |