1 はじめに
BC5世紀の悲劇詩人Euripidesは、Laconia地方のことを「耕地は多いが耕作は楽ではない。山並みに囲まれた土地は岩が多くて険しく、外敵は侵入し難い」と評価している。[1]
AD2世紀の著述家Apollodorosは、第2代Athens王Cranausの妻がLacedaemonianであったと伝えている。[2]
Cranausの結婚の時期は、BC1530年頃であるが、その頃、Laconia地方に系譜を辿れる人物はいない。
Cranausの時代に、Laconia地方に住んでいたGreeksがいたとすれば、Arcadia地方から南下したPelasgiansであったと思われる。
2 Lelexの時代
2.1 Egyptからの移住
BC1430年、LelexはDanausと共に、EgyptからRhodes島を経由してGreeceへ移住した。[3]
彼らのPeloponnesusでの最初の上陸地点は、Argolis地方とLaconia地方の境のThyrea地方のPyramia付近であった。[4]
Danausは、そこから航海を続けてLernaの近くのApobathmiに上陸して、Argosの町へ向かった。[5]
LelexはPyramiaから内陸へ進み、川に沿って下り、その川の中流域に居を定めた。
その川は、MarathosやHimerosの名前で呼ばれていたEurotas川であった。[6]
Lelexが治める土地の住人はLelegesと呼ばれた。[7]
2.2 Lelexの素性
LelexはEpaphusの娘Libyaの息子であり、Danausの父Belusの兄弟であった。[8]
Lelexは、Danausと同じくNile DeltaのChemmisの町に住んでいたギリシア系Egyptianであり、上Egyptから圧迫されてEgyptを脱出した。[9]
LelexやDanausを追い出したのは、古代Egyptを最大版図にした征服王、第18王朝のファラオThutmose IIIであった。[10]
2.3 Megaraへの移住
Lelexは、その後、彼の息子Mylesにその地を任せて、Megara地方へ移住した。Megaraへは、Lelexより前にInachusの子Phoroneusの子CarがArgosの町から移住していた。[11]
2.4 Therapneの創建
BC1430年、Lelexの娘Therapneの夫は、Lacedaemonの町の近くにTherapneの町を創建した。[12]
Therapneの夫は、DanausやLelexと一緒にEgyptから移住して来たと推定される。
3 Lelexの子Mylesの時代
LelexがMegaraへ移住すると、Lelexの子Mylesが父の跡を継いだ。[13]
3.1 Andaniaの創建
BC1405年、Lelexの子Polycaonは、Lacedaemonの町の北西約50kmの所へ移住して、Andaniaの町を創建した。[14]
Andaniaの町の建設には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosの町から多くの住人が参加した。[15]
PolycaonがLacedaemonの町から率いた人々は、Lelegesであったが、Argosの町から移住した人々はAchaeansであった。[16]
Andaniaの町のある地方は、Messeneの名前に因んで、Messeneと呼ばれるようになった。[17]
後に、Polycaonの後裔が絶えたときに、Thessaly地方から継承者を迎えていることから、Andaniaの住民の多くはAchaeansであったと推定される。[18]
3.2 Messeneの父
Pausaniasは、『Description of Greece』の中で、Messeneの父を、Argosの町のTriopasと記している。[19]
また、Pausaniasは、Messeneの父が名声と実力ともにギリシアで一番であったとも伝えている。[20]
PolycaonがMesseneと結婚した頃、Argosの町を治めていたのはDanausであり、Triopasは、Danausの別名、あるいは、本名であったと思われる。
EgyptのThutmose IIIの年代記に、Greeksと推定されるDanaya (Tanaju)の土地から貢納があったと記されている。[21]
Danayaは、Danausの父Belusの種族名で、Danausは、その種族名から人の名前のように作られた造語かもしれない。
4 Mylesの子Eurotasの時代
Eurotasは、父Mylesの跡を継いだ。[22]
Apollodorosは、EurotasをLelexの息子と伝えている。しかし、系図を作成すると、Pausaniasが伝えているように、EurotasをMylesの息子とした方が妥当である。
4.1 Acarnaniaへの移住
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Therapneの町からAcarnania地方西部へ移住した。[23]
Aristotleは、古い時代に、Acarnania地方西部には、LelegesとTeleboansが住んでいたと伝えている。[24]
Teleboasが率いた移住者は、最初、Lelegesと呼ばれたが、Teleboasの後裔が直接治める人々は、Teleboansと呼ばれていたと思われる。
4.2 Oetylusの創建
BC1380年、Amphianaxの子Oetylusは、Arcadia地方のPtolis (or Mantineia)の町からTaenarum岬の北へ移住してOetylusの町を創建した。[25]
Amphianaxは、Aegyptusの子Antimachusと、Danausの娘Mideaとの間の息子であった。[26]
5 Taygeteの子Lacedaemonの時代
Eurotasには息子がいなかったため、彼の娘Spartaの夫Lacedaemonが、Eurotasの跡を継いだ。[27]
Lacedaemonの母Taygeteは、Arcadia地方に住むLycaonの子Orchomenusの娘であった。[28]
Orchomenusは、Methydriumの町とOrchomenusの町の創建者であり、Atlasの異名を持ち、Pleiades(or Atlantides)と呼ばれる娘たちの父であった。[29]
5.1 Spartaの創建
Lacedaemonは、散らばって住んでいた人々を集めて町を作り、妻の名前に因んでSpartaの町と呼ばせた。[30]
それ以前、彼らの住む地域や人々は、彼に因んで、LacedaemonやLacedaemoniansと呼ばれていた。[31]
Straboは、同じ町が、LacedaemonともSpartaとも呼ばれたと伝えている。[32]
5.2 Argosへの嫁入り
BC1357年、Lacedaemonの娘Eurydiceは、Argosの町のAbasの子Acrisiusに嫁いだ。[33]
6 Lacedaemonの子Amyclasの時代
Lacedaemonの跡を彼の息子Amyclasが継いだ。[34]
6.1 Amyclaeの創建
Amyclasは、Spartaの町から南へ約4km離れた、Eurotas川の右岸へ移住して、Amyclaeの町を創建した。[35]
6.2 Thessalyからの嫁入り
BC1351年、Amyclasは、Thessaly地方からLapithusの娘Diomedeを妻に迎えた。[36]
Amyclasの姉妹Eurydiceの夫Acrisiusは、Amphictyonsを組織化する際に、Lapithusと繋がりがあった。[37]
Aeolusの子Lapithusは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川近くに住み、Lapithsの名祖であった。[38]
Diomedeと共に多くのAeolisがAmyclaeの町へ移住した。
Amyclaeの町は、Doriansの支配となったLaconia地方に最後まで残ったAchaeansが住む町であった。[39]
7 Amyclasの子Aigalusの時代
Aigalusは父Amyclasの跡を継ぎ、Amyclaeの町に住んだ。[40]
7.1 Acriaeの創建
BC1320年、Acriasは、Laconia湾岸にAcriaeの町を創建した。[41]
Acriasは、Amyclasの息子と推定される。
8 Amyclasの子Cynortasの時代
Cynortasは兄弟Aigalusの跡を継いで、Spartaの町に住んだ。[42]
8.1 Pelopsの通過
BC1312年、TroyのIlusに攻められたTantalusの子Pelopsは、Lydia地方からGreeceへ移住して来た。[43]
PelopsのPeloponnesus上陸地は、つぎのことからLaconia地方であったと推定される。
1) Eurotas川の河口近くのAcriaeの町に、Peloponnesus半島内で最も古い神々の母の神像があった。神々の母の最も古い神像は、Lydia地方にあり、Pelopsの兄弟Broteasが製作した。[44]
2) Acriaeの町の創建者Acriasは、Oenomausに殺されたと伝えられる12人の中で、唯一、当時実在していたと思われる人物である。Acriasは、PelopsのOenomaus攻めに参加して、戦死したと思われる。[45]
3) Pelopsと共にGreeceへ移住したPhrygiansの墓がPeloponnesusの各地にあるが、特に大きな墓がSpartaの町にあった。[46]
4) PelopsがOenomausとの戦いの前に、Pisaの町から5km以上内陸にあるPhrixaで供犠している。このことは、PelopsがEurotas川に沿って北上し、Alpheius川に沿って、山側からPisaの町に至ったことを示している。[47]
8.2 Pelopsの遠征への参加
Cynortasは、PelopsのOenomaus攻めに参加したと推定される。
Pelopsと共にGreeceへ移住したPhrygiansの墓がPeloponnesusの各地にあるが、特に大きな墓がSpartaの町にあった。[48]
Pelopsとの遠征に参加した後で、Cynortasは、彼の息子Oebalusの嫁として、Pelopsと共にGreeceへ移住したPhrygianの有力者の娘Batiaを迎えた。[49]
Batiaは、Troy王国の始祖Dardanusの妻の名前にもあり、Asia Minor的な名前である。[50]
Oebalusの妻Batiaと共にSpartaの町に多くのPhrygiansが移住して来た。[51]
9 Cynortasの子Oebalusの時代 (BC1290-65)
Oebalusは父Cynortasの跡を継いで、Spartaの町に住んだ。[52]
9.1 Oebalusの妻
BC1303年、Oebalusは、妻Batiaの死後、Mycenaeの町からPerseusの娘Gorgophoneを妻に迎えた。[53]
Gorgophoneは、Messenia地方のAndaniaの町のAeolusの子Perieresの妻であったが、彼女も夫と死別していた。[54]
Pausaniasは、Gorgophoneが当時の慣習を破って、はじめて夫の死後、再婚したと伝えている。[55]
しかし、Gorgophoneより前に、少なくとも2人の女性の例がある。
1) Phoenixの娘Europaは、Tectamusの子Asteriusと再婚した。[56]
2) Salmoneusの娘Tyroは、Aeolusの子Cretheusと再婚した。[57]
9.2 Oebalusの子供たち
OebalusとBatiaの間には、息子Hippocoonが生まれた。[58]
OebalusとGorgophoneの間には、2人の息子たち、TyndareusとIcarius、娘Areneが生まれた。[59]
Areneは、彼女の母Gorgophoneの前の夫Perieresの子Apahareusと結婚した。[60]
Apahareusは、Messenia地方南東の海岸近くに、彼の妻Areneの名に因んだ町を建設した。[61]
9.3 Helosの創建
BC1290年、Perseusの子Heliusは、Mycenaeの町からLaconia湾岸へ移住してHelosの町を創建した。[62]
9.4 Helosからの移住
BC1277年、Perseusの子Heliusは、Helosの町からAcarnania地方のEchinades諸島へ移住した。[63]
10 Oebalusの子Hippocoonの時代 (BC1265-39)
Hippocoonは父Oebalusの跡を継いだ。[64]
10.1 Aetoliaへの移住
BC1265年、Tyndareusは、Spartaの町からAetolia地方へ移住した。[65]
HippocoonがTyndareusとIcariusをLacedaemonから追い出したと伝えられている。[66]
しかし、Hippocoonは、Oebalusの正当な継承者であり、彼にはTyndareusと同年代の多くの息子たちがいて、Tyndareusに王位が回ってくることはあり得なかった。
Tyndareusは自らの意志でSpartaの町を去り、Messenia地方のAreneの町に住むApahareusのもとへ行った。[67]
Apahareusは、Tyndareusの異父兄弟であり、姉妹Areneの夫、つまり、義兄弟であった。Apahareusには、Tyndareusと同年齢の息子Idasがいた。[68]
Tyndareusは、彼の甥Idasと共にAetolia地方へ移住した。
10.2 Tyndareusの移住先
TyndareusとIdasが移住したPleuronの町のThestiusは、Apahareusの姉妹Demoniceの嫁ぎ先であった。[69]
Demoniceは、Tyndareusの異母姉妹であり、Idasの叔母であった。[70]
つまり、TyndareusとIdasは、Demoniceを頼って、Aetolia地方へ移住したと推定される。
10.3 Tyndareusの結婚とIdasの結婚
Pleuronの町へ移住した後で、Tyndareusは、Thestiusの娘Ledaと結婚した。[72]
Idasは、EvenusとAlcippeとの娘Marpessaと結婚し、娘Cleopatra (or Halcyone)が生まれた。[73]
Idasの娘Cleopatraは、Calydonの町のCalydonの子Meleagerに嫁いだ。[74]
10.4 Aetoliaの抗争
Calydonの子Meleagerが戦死するAetolia地方の抗争が起きた。いわゆる、Calydonian boar huntと呼ばれる出来事である。[75]
Aetolia地方の先住民Curetesの血を引くPleuronの町の住人と、Eleia地方から移住したEndymionの子Aetolusの血を引くCalydonの町の住人との戦いであった。
TyndareusはPleuron側で、IdasはCalydon側で戦った。[76]
しかし、Calydonian boar huntの物語に、Tyndareusは登場せず、彼の息子たち、Dioscuriが参加している。[77]
物語の作者は、TyndareusとIdasを同世代とは思わず、TyndareusをIdasより1世代前の人物と思っていたようだ。
このAetoliaでの戦いは、DioscuriやIdas兄弟が故郷へ帰った後も、Messenia地方とLacedaemonの戦いとして継続し、両者とも死滅する結果になった。[78]
10.5 Icariusの結婚
BC1256年、IcariusはSpartaの町の南にPharisの町を創建し、Messenia地方のPharaeの町から、Orsilochusの娘Dorodocheを妻に迎えた。[79]
Pharaeの町の創建者は、Orsilochusの母Telegoneの父Pharisであった。[80]
Icariusが創建したPharisの町は、Pharaeの町とも呼ばれていた。[81]
10.6 Hippocoonの死
BC1239年、HippocoonはHeraclesに攻められて、多くの息子たちと共に戦死した。[82]
戦いの原因については、HeraclesがElisの町を攻めた時に、HippocoonがElisの町に味方したためであったと伝えられている。[83]
しかし、HippocoonとHeraclesの戦いは、HeraclesがElis攻めの遠征隊を解散した後の出来事であり、Tegeaの町のCepheusと彼の多くの息子たちが戦死した。[84]
このことから、Cepheusの要請に応じて、Heraclesが手勢を率いて加勢したもので、Lacedaemonの町とTegeaの町の紛争が戦いの原因であったと推定される。
11 Oebalusの子Tyndareusの時代 (BC1237-05)
BC1237年、TyndareusはAetolia地方からSpartaの町へ移住した。伝承では、HeraclesがHippocoonとの戦いの後で、TyndareusをSpartaの町に呼び戻したことになっている。[85]
しかし、実際は、HippocoonやIcariusがいなくなり、Oebalusの跡を継ぐ者がいなくなったSpartaの町を継承するためにTyndareusが移住したと推定される。
11.1 Acarnaniaへの移住
BC1237年、HeraclesはThesprotia地方のEphyraの町へ遠征した。[86]
Icariusは、この遠征に参加して、Acarnania地方へ移住した。[87]
Icariusの2人の息子たち、LeucadiusとAlyzeusは、Acarnania地方に自分たちの名前を付けた町を創建した。[88]
Icariusは、Calydonの町で遠征隊に合流し、途中、Pleuronの町でTyndareusに会い、Lacedaemonへ戻るように説得した。Spartaの町には、Icariusの子Perileos (or Perilaus)が残っていたが、未成年者であった。[89]
11.2 Icariusの2人目の妻
IcariusはTeleboansとの戦いで捕虜にしたLygaeusの娘Polycaste (or Polyboea)を妻にした。[90]
Teleboansの始祖は、150年前に、LacedaemonからAcarnania地方へ移住したLelexの娘Therapneの子Teleboasであった。[91]
Icariusの2人目の妻Polycasteから、Odysseusの妻になるPenelopeが生まれた。[92]
11.3 Tyndareusの2人目の妻
Aetolia地方からSpartaの町へ帰還したTyndareusは、Nemesisと結婚した。[93]
Nemesisは、女神の名前で、人間としての名前は不明であるが、遺児となったHippocoonの娘、または、孫娘と推定される。
Tyndareusの2人目の妻から、Agamemnonの妻となるClytaemnestraやMenelausの妻となるHelenが生まれた。[94]
多くの史料がHelenは、Thestiusの娘Ledaの娘だと伝えている。[95]
しかし、系図を作成するとLedaの息子たちであるDioscuriとHelenの年齢差は、40歳以上あり、一人の女性から両者が生まれたとは思われない。
つまり、ClytaemnestraやHelenは、TyndareusがSpartaの町に戻ってから生まれた娘たちであった。
11.4 Andaniaとの戦い
Aetolia地方でのTyndareusとIdasとの戦いは、LacedaemoniansとMesseniansとの戦いになった。
BC1237年、Tyndareusは最初に、Andaniaの町を攻めた。
Andaniaの町はLacedaemonの植民市であり、Spartaの町と距離的にも近かった。[96]
Andaniaの町は、Perieresの死後、彼の息子Leucippusが継承していた。[97]
Tyndareusとの戦いで、Leucippusは死に、彼の2人の娘たちは、Tyndareusの2人の息子たち、CastorとPolydeucesに連れ去られて、彼らの妻になった。[98]
Tyndareusの息子たちと、Leucippusの娘たちは、いとこ同士であった。
11.5 Oechaliaとの戦い
BC1237年、Tyndareusは次にAndaniaの町の近くのOechaliaの町のEurytusを攻めた。[99]
EurytusはEuboea島へ移住して、3番目のOechaliaの町を創建した。[100]
最初のOechaliaの町は、BC1310年にEurytusの父Melaneusが、Thessaly地方に建設した。[101]
11.6 Idas兄弟の参戦
Andaniaの町のLeucippusは、Idasの叔父であり、Oechaliaの町のEurytusは、Idasの祖父PerieresがThessaly地方から招いたMelaneusの息子であった。[102]
MelaneusとPerieresは、Lapithusの子Aeolusの息子たちであった。[103]
つまり、IdasやEurytusは、Lapithusを共通の先祖とするLapithsであり、Idas兄弟もAndaniaの町やOechaliaの町に加勢して、Tyndareusと戦ったと推定される。
11.7 AgamemnonとMenelausの亡命
BC1215年、Atreusの死後、ThyestesによってMycenaeの町から追放されたAgamemnonとMenelausがTyndareusのもとへ亡命して来た。[104]
AgamemnonとMenelausの祖父Atreusは、Tyndareusの母Gorgophoneの姉妹Autochtheの息子であった。[105]
つまり、AgamemnonとMenelausは、Atreusの従兄弟Tyndareusを頼って、Spartaの町へ亡命した。
11.8 Idas兄弟との戦い
TyndareusとIdas兄弟との戦いは、Tyndareusの2人の息子たちに引き継がれ、30年近く続いた。
彼らの戦いの最終章は、IdasによるTyndareusの娘Helenの誘拐で始まった。
BC1210年、Idasは、Helenを誘拐して、Athensの町のTheseusに預け、TheseusはHelenをAphidnaeの町のAphidnusに託した。[106]
当時、Helenは7歳 (or 10, 12)の少女であった。[107]
Theseusの友PeirithousはLapithsであり、Peirithousを介して、IdasとTheseusにも親交があったと思われる。[108]
Tyndareusの2人の息子たちは、Helenを奪い返した。[109]
その後、DioscuriとIdas兄弟との戦いは、両者の破滅で終わった。[110]
12 Atreusの子Plisthenesの子Menelausの時代 (BC1205-1180)
BC1205年、Tyndareusは彼の娘HelenをMenelausと結婚させ、MenelausにLacedaemonの王位を譲った。[111]
12.1 Agamemnonの帰還
BC1203年、MenelausはLacedaemoniansを率いて、AgamemnonがMycenaeの町へ帰還するのに協力した。Agamemnonは、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に住まわせた。[112]
その後、Thyestesは、Cythera島で死んだ。[113]
12.2 Messeniaへの進出
Idasの跡をNeleusの子Nestorが継承したが、Messenia地方全域を従わせることはできなかった。[114]
Menelausは、Nestorの勢力の及ばないMessenia湾沿岸部のCardamyle、Enope、Hire、Pherae、Antheia、Aepeia、Pedasusを支配下に置いた。[115]
Homerによれば、この7つの町は、Trojan Warの前からMenelausの支配下になっていた。[116]
13 Agamemnonの時代 (BC1180-1173)
Pausaniasは、Agamemnonの子OrestesもLacedaemon王になったと伝えている。[117]
しかし、Pausaniasは、OrestesがMycenaeの町からArcadia地方へ移住したとも伝えている。[118]
つまり、Orestesは、Spartaの町に住まずにLacedaemoniansを支配下に置いていたと思われる。
恐らく、MenelausはAgamemnonより先に死んで、AgamemnonはMycenaeansの他に、Lacedaemoniansも支配していたと推定される。この推定の根拠は、次のとおりである。
1) Laconia地方のMaleae岬近くのOnugnathus半島にAgamemnonが造営したAthenaの神域があった。[119]
2) Messenia地方にAgamemnonの支配が及んだ7つの町があった。[120]
14 Agamemnonの子Orestesの時代 (BC1173-1150)
14.1 Cleodaeusとの戦い
BC1173年、Agamemnonが死ぬと、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansがMycenaeの町を攻めて、町を破壊した。[121]
Orestesは軍勢を集めて、DoriansをPeloponnesusから追い出した。
このとき、Heraclesの子Glenus (or Gleneus)の乳母Abiaと一部の人々は、Messenia地方のIreの町に住み着いた。[122]
この戦いで、Cleodaeusの長男は、Abiaと共にIreの町に逃れた。Cleodaeusの長男の孫Polyphontesは、最終帰還を果たしてMessenia地方を獲得したAristomachusの子Cresphontesを殺した。Polyphontesは「真の」Heracleidae、つまり、Heraclesの正当な後継者を名乗っていた。[123]
14.2 Tenedosの建設
BC1170年、Amyclaeの町のPeisanderはOrestesと共にTenedos島へ遠征して、Tenedosの町を建設した。[124]
Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[125]
15 Orestesの子Tisamenusの時代 (BC1150-1104)
Orestesは、Tisamenusが成人するとSpartaの町に住まわせ、Lacedaemoniansを彼に任せた。[126]
15.1 Aristomachusとの戦い
BC1126年、 Tisamenusは、Cleodaeusの子Aristomachus率いるDoriansを迎え撃った。[127]
Aristomachusは、Spartaの町を攻めたが戦死した。[128]
15.2 Minyansの亡命
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansが、Pelasgiansに追われてLacedaemonへ移住して来た。[129]
Tisamenusは、Dioscuriと一緒にArgonautsの遠征に参加した人々の子孫であるという理由でMinyansを受け入れた。[130]
Dioscuriは、Tisamenusの母Hermioneの母Helenの兄弟であった。[131]
15.3 Temenusとの戦い
BC1110年、Tisamenusは、Arcadia地方からArgolis地方へ侵入したAristomachusの子Temenus率いるDoriansを迎え撃つが敗れ、Argosの町に籠城した。[132]
その後、TisamenusはArgosの町をHeracleidaeに明け渡して、Spartaの町に籠城した。[133]
15.4 Achaiaへの移住
BC1104年、Tisamenusは、Heracleidaeと裏取引したPhilonomusに説得されて、Spartaの町からAchaia地方へ移住した。[134]
Philonomusは、Pelasgiansに追われてLemnos島からLacedaemonへ移住したMinyansであった。[135]
Philonomusは、EurysthenesとProclesからAmyclaeの町を任せられた。[136]
16 EurysthenesとProclesの時代 (BC1104-)
Tisamenusが去って、Spartaの町はDoriansが支配する町になった。
Aristodemusの2人の息子たち、EurysthenesとProclesが初代Sparta王になった。[137]
16.1 Theraへの移住
BC1099年、EurysthenesとProclesの後見人の役目を終えたAutesionの子Therasは、LacedaemoniansやMinyansを率いてThera島へ移住した。[138]
EurysthenesとProclesは、双生児であったが意見が合わず、常に対立していたが、Therasの移住についてはどちらも積極的に支援した。[139]
16.2 Eleiaへの移住
BC1098年、Therasの移民団に参加しなかったMinyansは、LacedaemonからEleia地方南部に移住して、Lepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumの町を創建した。[140]
AD1世紀初めのStraboの時代には、それらの町は残っていなかった。[141]
MinyansがEleia地方に建設した6つの町の大部分は、BC5世紀中期のHerodotusの時代に、Elisの町によって破壊されてしまっていた。[142]
16.3 Aepytusへの加勢
BC1073年、EurysthenesとProclesは、Cresphontesの子Aepytusに加勢して、彼をMessenia王に復位させた。[143]
Aepytusは、彼らの父方の従兄弟であった。
PolyphontesがCresphontesを殺して、Messenia王を簒奪したとき、Aepytusは、Arcadia地方のTrapezusの町に住む祖父Cypselusに養育されていたため難を逃れた。[144]
16.4 Achaeansの追放
Doriansが支配者になった後も、Laconia地方に、Achaeansの町が3つあった。
Amyclae、Pharis、Geranthraeの町であった。[145]
BC1070年、Doriansは、それらの町を攻撃して、住人を追放したが、Amyclaeの町は、Doriansに頑強に抗戦した後で、町から退去した。[146]
Achaeansが所有する町はなくなったが、Laconia地方に住み続けたAchaeansはいたようである。例えば、Agamemnonの伝令Talthybiusの墓は、Spartaの町にあり、彼の後裔は、代々、伝令使となる特権を有していた。[147]
16.4.1 Achaeansの追放の年代
Pausaniasは、Amyclaeの町からAchaeansが追放されたのは、BC8世紀の初めのArchelausの子Teleclusの時代としている。[148]
しかし、BC1世紀の神学者Cononは、Amyclaeの町がDoriansに対して蜂起したときにPolisとDelphosを指導者とするCrete島への移住があった。[149]
この時、PolisとDelphosの移民団は、Temenosの子Ceisusの子Althaimenesの移民団と行動を共にした。[150]
つまり、Amyclaeの町とDoriansとの戦いがあったのは、BC1070年頃のことであった。
Cononの記述が事実であるとすれば、Spartaの町のすぐ近くのAmyclaeの町に300年以上もAchaeansがDoriansと対立しながら住んでいたことになる。
Polybiusは、Amyclaeの町をLaconia地方で最も収穫に恵まれた土地だと記述しており、Pausaniasの説よりも、Cononの説の方が妥当と思われる。[151]
16.5 Creteへの移住
BC1070年、PolisとDelphosはDoriansを率いてCrete島へ移住して、Gortyniansと共住した。[152]
同じ頃、Amyclaeの町を去ったPhilonomusの子Apodasmosは、Melos島へ移住した。[153]
Meliansは、Lacedaemonからの移住者であった。[154]
17 EurysthenesとProcles以後の時代 (BC11-10世紀)
AchaeansがLaconia地方を退去した後、約150年間のLacedaemonの記録は残っていない。Sparta王の系譜も、EurysthenesとAgisの間、それに、ProclesとSousの間の4代の王の名前が不明である。
文字で記録する技術者がAchaeansと共にLacedaemonから去ったのが原因と推定される。
Laconia地方で、再び、記録され始めるのは、BC10世紀の終わり頃からであった。
17.1 Helosの攻略
Sparta王Sousの治世に、Spartansは、Helotsを奴隷にした。[155]
Sparta王Agisは、周辺の町の住人に貢納を命じたが、Helosの町が反乱を起こしたので住人を奴隷にした。[156]
Helosの町の住人は、Lacedaemonの最初の公共の奴隷(Helots)になった。[157]
Helosの攻略は、AgisとSousの治世であり、BC930年頃と推定される。
17.2 Arcadiansとの戦い
BC920年、AgiadaeのSparta王Sousは、Cleitoriansと戦った。[158]
Cleitoriansは、BC1355年にAzanの子Cleitorが、Arcadia地方北部に創建したCleitorの町の住人であった。[159]
BC900年、EurypontidaeのSparta王Agisは、Arcadia地方に侵攻してMantineiansに殺害された。[160]
AgiadaeのSparta王、Sousの子Eurypon (or Euryphon)は、Mantineiaの町を攻めて占領した。[161]
17.3 Helosの破壊
BC760年、Teleclusの子Alcacmenesの時代に、Doriansは、Helosの町を攻めて破壊した。[162]
Pausaniasは、Helosの町のことをHelotsが住むAchaeansの町だと記している。[163]
おわり |