1 はじめに  
1.1 島の名前  
Straboは、Euboea島の名前は、heroineの名前に因むと記している。[1] 
Heroineとは、Aeolusの子Macareusの娘Euboeaと思われるが、彼女とEuboea島との関係は不明である。[2] 
Euboea島は、Chalcodontis、Macris、Macra、Chalcis、Abantias、Asopisとも呼ばれた。[3] 
      1.2 最初の入植者  
        文献に登場するEuboea島への最初の入植者は、BC1420年、Cadmusの移民団の中にいたArabiansであった。[4] 
        その後、Arabiansは、島に住んでいた先住民と混血したようである。  
        BC1360年、Erechtheusの子Pandorusが入植する前の島の住人は、Lelegesと呼ばれていた。[5] 
        Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[6] 
      この章では、Euboea島内の次の町の歴史について記述する。  
         、Carystus、Cerinthus、Chalcis、Dium、Ellopia、Eretria、Hestiaea、Oechalia、Orobia、Styra、Tamynae。  
      2 Aedepsusの歴史  
        BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Aedepsusの町を、Ellopiaの町に併合した。[6-1]  
        Aedepsusの町は、Romeの将軍Sullaも利用した温泉があることで有名であった。[6-2] 
      3 Carystusの歴史  
        BC1世紀の地理学者Pomponius Melaは、Chalcisの町とCarystusの町は、Euboea島の中で最も裕福な町だと伝えている。[7] 
        Carystusの町は、大理石や石綿の産地であった。[8] 
      3.1 Carystusの創建  
        BC1280年、Scyrius (or Chiron, Cheiron)の子Carystusは、Salamis島からEuboea島南東部へ移住して、Carystusの町を創建した。[9] 
        Scyriusは、第9代Athens王Aegeusの実父であり、第7代Athens王Cecropsの息子と推定される。[10] 
      3.2 Delosへの移住  
        BC1245年、Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Carystusの町からDelos島へ移住した。[11] 
        Delos島のApollo神殿の建立者は、初代Athens王Cecropsの息子Erysichthonであった。[12] 
        Zarexは、Athens王の血筋にあり、Zarexは、Delos島のApollo神殿の神官であったと推定される。  
        BC1241年、第10代Athens王Theseusは、Crete島からの帰路、Delos島に立ち寄っているが、その時、島には彼の従兄弟Zarexがいたと思われる。[13] 
      3.3 Dryopisからの移住  
        BC1230年、HeraclesやMaliansに追われたDryopiansは、 Dryopis地方からCarystusの町へ移住した。[13-1] 
        Carystusの町の近くのStyraの町には、それ以前から、Dryopiansが住んでいた。[13-2] 
      3.4 Hyperboreansとの関係  
        Carystusの町は、HyperboreansがDelos島へ供え物を届ける中継地であった。[14] 
        Diodorusは、Hyperboreansと、AtheniansやDeliansは、古くから深い関係にあったと記している。[15] 
        Herodotusは、供え物がCarystusの町からAndros島とTenos島を経てDelos島に着いていたが、Andros島が省略されたと伝えている。[16] 
        Andros島が省略されたのは、島の人々が反乱を起こして、Aniusの子Androsを追い出したことが原因と思われる。[17] 
      4 Cerinthusの歴史  
        4.1 創建者Cothus  
        AtheniansのCothusが、Cerinthusの町を創建したという伝承がある。[18] 
        このCothusは、Xuthus (or Ion)の息子と思われるが、彼は、Trojan Warの後で、Chalcisの町を創建している。[19] 
        しかし、Cerinthusの町は、Homerの『軍船目録』に登場しており、Trojan Warの時には、既に存在していた。[20] 
        また、Cothusの兄弟EllopsがCerinthusの町を攻略したと伝えており、CothusがCerinthusの町の創建者とは考えられない。[21] 
      4.2 創建者Canethus  
        つぎのことから、Cerinthusの町の創建者は、Abasの子Canethusと推定される。  
        1) BC1310年、Lynceusの子Abasは、Phocis地方のAbaeの町からChalcis の町へ移住した。[21-1] 
        2) Cerinthusの町のAbasの子Canethus の子Canthusが、Argonautsの遠征物語に登場している。[21-2] 
        CanethusによるCerinthusの町の創建は、BC1280年と推定される。  
        Cerinthusの町の住人は、Chalcisの町から移住したAbantesであった。  
      4.3 Ellopiaによる併合  
        BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Cerinthusの町を、Ellopiaの町に併合した。[21-3]  
      5 Chalcisの歴史  
        5.1 最初の住人  
        BC1420年、Cadmusと共にBoeotia地方へ移住して来たCuretesが、Chalcisの町で銅鉱床を発見した。[22] 
        Curetesは、Sicyonの町に起源を持つTelchinesであり、Rhodes島、あるいは、Samothrace島からCadmusの移民団に参加したと思われる。[23] 
      5.2 Athensからの移住  
        BC1360年、第6代Athens王Erechtheusの息子Pandorusは、Athensの町からEuboea島へ渡って、Chalcisの町を創建した。[24] 
        Pandorusの移住は、兄弟間の争いが原因と推定される。  
      5.3 Diumへの移住  
        BC1335年、Pandorusの子Diusは、Chalcisの町から北西へ約80kmのCenaeon岬付近に移住して、Dium (or Dion, Dios)の町を創建した。[25] 
      5.4 Athensからの移住  
        BC1320年、第7代Athens王、Erechtheusの子Cecropsは、Euboea島へ移住した。[26] 
        Cecropsの移住は、彼の兄弟Metionとの争いが原因であり、先にEuboea島へ移住していた兄弟Pandorusを頼って移住したと推定される。  
      5.5 Phocisからの移住  
        BC1310年、Lynceusの子Abasは、Phocis地方のAbaeの町からChalcisの町へ移住した。[27] 
        Abasは、Argosの町のDanausの孫Abasの後裔であり、Euboea島のAbantesの名祖になった。[28] 
        HyantesがBoeotia地方からAbaeの町の近くのHyampolisへ逃れて来たことが、Abasの移住の原因と思われる。  
      5.6 Athensへの嫁入り  
        BC1282年、Chalcodon (or Calchodon, Rhexenor)の娘Chalciopeは、第8代Athens王Pandionの養子Aegeusに嫁いだ。[29] 
        この結婚が縁で、Aegeusの子Theseusの息子たちは、Athensの町を追われた時、Chalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[30] 
      5.7 Cerinthusの創建  
        BC1280年、Abasの子Canethusは、Chalcisの町からEuboea北部へ移住して、Cerinthusの町を創建した。[30-1]  
      5.8 Thebesからの移住  
        BC1270年、叙事詩人Linusは、Thebesの町からEuboea島のChalcisの町へ移住した。[31] 
        Amphimarusの子Linusの墓は、Chalcisの町にあった。[32] 
        この後、Chalcisの町は文芸の町になり、Hesiodが参加した競技会が催された。[33] 
      5.9 Phocisへの侵入  
        BC1262年、Euboea島に住んでいたCriusの息子は、Phocis地方のDelphi周辺を荒らして、Apolloに討ち取られた。[34] 
        この時、Apolloが討ち取ったのは、Orchomenusの娘Elareの子Tityusであった。[35] 
        つまり、Criusの息子の名前は、Tityusであった。Criusは、Lynceusの子Abasの兄弟と推定される。  
      5.10 Boeotiaへの侵入  
        BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むAbasの子Chalcodonは、Boeotia地方に侵入した。Chalcodonは、Thebesの町のAmphitryonとTeumessusの町近くで戦い、討ち取られた。[36] 
        Criusの息子やChalcodonの暴挙は、Euboea島を襲った干ばつによる飢饉が原因と思われる。[37] 
      5.11 Naupliaからの亡命  
        BC1225年、Argolis地方のNaupliaの町に住んでいたClytonaeusの子NaupliusがAchaeansに追われて、Chalcisの町へ亡命した。[38] 
        このとき、Naupliusの子Palamedesも父と共にChalcisの町に住み着いたと推定される。[39] 
        Palamedesは、Chalcisの町でPelasgic  lettersを学び、alphabetに新たな文字を追加した。[40] 
      5.12 Athensからの亡命  
        BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Athensの町からChalcisの町のChalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[41] 
        彼らは、Thesprotis地方へ出かけたTheseusの留守を狙って、武装蜂起したMenestheusによって追放された。[42] 
        Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。  
        つまり、Elephenorは、Theseusの息子たちの父の義母の兄弟であった。  
      5.13 Tanagraからの訪問  
        BC1190年、Tanagraの町に住むPoemanderは、過失により息子を殺害し、Chalcisの町のChalcodonの子Elephenorによって、清められた。[43] 
      5.14 Trojan Warの時代  
        BC1188年、Chalcisの町のChalcodonの子Elephenorは、Abantesを率いて、Troyへ遠征した。[44] 
        BC1186年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Chalcisの町からAthensの町へ帰還した。[45] 
        BC1186年、Troyへ遠征したAchaeansは、Iliumの町に敗れ、Elephenorを失ったAbantesは、各地へ移住した。  
        Abantesの一部は、Chios島に定住し、残りは、Locriansと共にIllyria地方へ移住して、Throniumの町を創建した。[46] 
      5.15 Peloponnesusからの移住  
        BC1126年、Orestesの子PenthilusがLesbos島へ向けて、Aulis港から出航する際、移民団の中にいたAeolisの一部は、Chalcisの町に住み着いた。[47] 
      5.16 Athensからの移住  
        BC1085年、Xuthus (or Ion)の子Cothusは、Athensの町からChalcisの町へ移住して、新しいChalcisの町を創建した。[48] 
      5.17 葬送競技会  
        BC730年、Chalcisの町でAmphidamasの葬送競技会が開催されて、Hesiodが優勝した。[49] 
      5.18 橋の建設  
        BC411年、ChalcidiansとBoeotiansは、共同で、Boeotia地方からEuboea島へ渡る橋を作った。[50] 
        Hesiodは、AulisからEuboea島へ船で渡ったと記している。BC4世紀の歴史家Ephorusは、約60mの橋があったと伝えている。[51] 
      6 Diumの歴史  
        BC1335年、Pandorusの子Diusは、Euboea島北西部のCenaeon岬付近にDium (or  Dion, Dios)の町を創建した。[52] 
        後に、Diumの町の住人は、Aetolia地方にCanaeの町を創建した。[53] 
      7 Ellopiaの歴史  
        BC1085年、Xuthus (or Ion)の子EllopsはIoniansを率いて、Athensの町からEuboea島北部に移住して、Ellopiaの町を創建した。[54] 
        その後、Ellopsは、周辺のHistiaea、Perias、Cerinthus、Aedepsus、Orobiaを攻略した。[55] 
      8 Eretriaの歴史  
        8.1 Eretriaの創建  
        Straboは、Eleia地方のTriphylian  Macistusから入植したEretrieusが、Eretriaの町を創建したと伝えている。[56] 
        恐らく、名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。  
        Eretriaの古い名前は、Melaneisであり、Eurytusの父Melaneusに因む名前であった。[57] 
        BC1237年、EurytusがMessenia地方のOechaliaの町からEuboea島へ移住して来たときに、Melaneisの町を創建したと推定される。その後、Eurytusは、Melaneisの町の近くにOechaliaの町を創建した。[58] 
      8.2 Eretria新市の創建  
        BC1085年、Xuthusの子AeclusはIoniansを率いて、Athensの町のEretria区からEuboea島に移住して、新しいEretriaの町を創建した。[59] 
        Ioniansの中には、Gephyraeans (Phoenicians)も含まれていた。[60] 
        Gephyraeansは、後にAttica地方のAphidnaの町へ再移住した。BC6世紀のAthensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusとAristogeitonは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[61] 
      8.3 亡命者の上陸を阻止  
        BC734年、Corcyra島に入植していたEretriansは、後から入植して来たCharicrates率いるCorinthiansによって、島から追放された。  
        Eretriansは、故郷のEretriaの町へ上陸しようとしたが阻止され、Macedonia地方のMethoneの町に住み着いた。[62] 
      9 Hestiaeaの歴史  
        9.1 Hestiaeaの創建  
        BC1205年、EpigoniのThebes攻めによって、Thebesの町を追われたThebansの一部は、Euboea島北部にHestiaea (or Histiaea)の町を創建した。[63] 
      9.2 Chiosへの移住  
        BC1075年、Xuthus (or Ion)の息子と思われるAmphiclusは、Hestiaeaの町からChios島へ移住した。[64] 
      9.3 Atheniansによる住人の追放  
        BC446年、Histiaeaの町の住人は、Atheniansに対して反乱を起こした。Athensの将Periclesは、Histiaeansを町から住人を追放した。[65] 
      9.4 Ellopiaからの移住  
        BC371年の、Leuctraの戦いの後で、Ellopiaの町からHestiaeaの町へ住人が移住して来て、Hestiaeaの町の人口が増えた。[66] 
      10 Oechaliaの歴史  
        10.1 Oechaliaの創建  
        BC1237年、Melaneusの子Eurytusは、Spartaの町のOebalusの子Tyndareusによって、Messenia地方のOechaliaの町から追放された。[67] 
        Eurytusは、Euboea島へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[68] 
        Eurytusは、Oechaliaの町を創建する前に、Melaneis  (後のEretria)の町を創建していた。[69] 
      10.2 Oechaliaの破壊  
        BC1224年、Oechaliaの町のEurytusは、Heraclesに攻められて、彼の息子たちと共に戦死した。[70] 
        Doriansに味方したHeraclesと、Lapithsに味方したEurytusとの戦いであった。Heraclesとの戦いに敗れたLapithsがOechaliaの町へ逃げ込んでいて、激しい戦いで、Oechaliaの町は破壊された。[71] 
      11 Orobiaの歴史  
        Orobiaの町には、偽りのないことでは、他に類を見ない神託所があった。[71-1] 
      11.1 Ellopiaによる併合  
        BC1085年、Xuthusの子Ellopsは、Orobiaの町を、Ellopiaの町に併合した。[71-2]  
      11.2 大地震の発生  
        BC426年、大地震が発生して、Orobiaの町は、津波によって、洗い流された。[71-3]  
      12 Styraの歴史  
        Styraの町には、Oeta山とParnassus山の間のDryopis地方から移住して来たDryopiansが住んでいた。[72] 
        BC1230年、Heraclesは、Dryopis地方からDryopiansを追い出したが、それ以前に、Styraの町にDryopiansは住んでいた。[73] 
      13 Tamynaeの歴史  
        13.1 Thessalyからの亡命  
        BC1236年、Thessaly地方のPheraeの町のPheresの子Admetusは、Euboea島のTamynaeの町へ亡命した。[74] 
        Thessaly地方のIolcusの町で発生したMinyansの反乱は、Pheraeの町にも影響した。  
        Admetusの母は、Orchomenusの町のMinyasの娘Periclymeneであり、彼女と共に移住して来たMinyansがPheraeの町にも住んでいた。[75] 
        Admetusは、彼の妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusが住んでいたTamynaeの町へ逃れた。[76] 
      13.2 Tamynaeの創建  
        Tamynaeの町は、Eurytusが創建したOechaliaの町の近くにあり、Tamynaeの町の創建者は、Hippasusの子Theseusであったと推定される。  
        Hippasusは、Eurytusの息子であり、Theseusは、Eurytusの孫であった。[77] 
        Theseusは、彼の母Alcestisの連れ子として、Admetusのもとで育てられていたが、後に、祖父Eurytusのもとへ引き取られた。[78] 
        後に、Theseusは、Oechaliaの町の近くにTamynaeの町を創建した。  
  あるいは、祖父とTheseusが住んでいたOechaliaの町へ、Thessaly地方からAdmetusが逃れて来て、Theseusと共に、Tamynaeの町を創建したのかもしれない。  
      Admetusは、Tamynaeの町にApolloの神殿を建立した。[79] 
      おわり   |