第18章 エリス地方の青銅器時代の歴史

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Create:2023.7.14, Update:2026.2.15

1 はじめに
エレイア地方へのギリシア人の本格的な入植は、ペロポネソス内の地方の中で、一番遅かった。
アルカディア地方から西へ居住地を広げた人々や、ペロプスと共にリュディア地方から入植した人々を除けば、トロイ戦争時代のエレイア地方の住人の大部分は、アイオリスであった。
アカイア地方のアロエ (後のパトライ)の町、オレノスの町、パライの町は、エレイア地方のエリスの町やピサの町と密接な関係があり、トロイ戦争の時代以前は、エレイア地方に記述する。
BC1430年、ベロスの子アイギュプトスは一族と共にエジプトを脱出した。アイギュプトスの双子の兄弟ダナオスはアルゴス地方へ、アイギュプトスの叔父レレクスはラコニア地方へ定住した。アイギュプトス自身は、ペロポネソス半島北部のリオン岬の南西の地へ定住した。[1]
アイギュプトスは、エジプトのナイルデルタにあるケンミスの町の住人であった。[2]

2 最初のギリシア人
パウサニアスは、オリンピック競技会の起源を記述している中で、イダ山のヘラクレスを含む5人の兄弟の名前を挙げている。[3]
彼らが、クレタ島からエレイア地方へ移住したのは、BC1420年頃と推定される。
彼らは、エレイア地方に居住した最初のギリシア人であった。

2.1 イダ山のヘラクレスの系図
BC1438年、クレタ島のイダ山で鉄が発見された。[4]
その後、鉄の発見者や製鉄に従事する人々は、イダ山のダクテュロスと呼ばれた。[5]
イダ山のヘラクレスは、イダ山のダクテュロスの一人であった。[6]
イダ山のダクテュロスは、テルキネス族という種族に属していた。[7]
テルキネス族は、イナコスの子アイゼイオスの子エウロプスの子テルキンに因んで名付けられた種族であり、ペラスゴイ人とは兄弟のような種族であった。
BC1690年、アルゴスの町のアピスとの戦いに敗れた人々の一部は、テルキンの子クレスに率いられてクレタ島へ渡った。[8]
クレスと共にクレタ島へ渡った人々はテルキネス族、島はテルキニアと呼ばれた。[8-1]

2.2 イダ山のヘラクレス
イダ山のヘラクレスは、クレタ島のアプテラの町に住むソコスの子アクモンであった。[9]
ソコスの兄弟たち、ダムナメネオス (または、ダムナネオス)とケルミス (または、スケルミス)は、クレタ島で最初に鉄を発見した。[10]
アクモンは、アプテラの町に停泊したカドモスの移民船団の中にいたポイニクスの娘アステュパライアと結婚した。[11]
同じ移民団の中にいたポイニクスの娘エウロパは、キュドニアの町のキュドンと結婚して、ミノスとカルデュスが生まれた。[12]
アクモンは、兄弟たちと共にエレイア地方のオリュンピアの町へ移住し、最初のオリンピック競技会を開催した。[13]
その後、アクモンは、兄弟たちと共にロドス島対岸のケッロネソス地方へ移住して、5つの町を創建した。[14]
そこには、カリア人が住んでいて、アクモンとアステュパライアとの間の息子アンカイオスはレレゲスの王になった。[15]
アクモンとアステュパライアとの間の娘は、キュドンの子カルデュスと結婚して、クリュメノスが生まれた。[16]
アステュパライアの娘とカルデュスは、いとこ同士であった。

2.3 イダ山のヘラクレスが去った後のオリュンピア
イダ山のヘラクレス兄弟は、3年くらいオリュンピアの町に住み、その後、ケッロネソス地方へ移住した。しかし、オリュンピアの町に住み続けた人々もいた。ストラボンは、オリュンピアの町が競技会で有名になる前に、オリュンピアのゼウスの神託所で有名であったと伝えている。[17]

3 アカイアへの入植
3.1 アロエ (後のパトライ)の創建
BC1415年、 エウメロスはトリプトレモスから町の作り方を学んで、アロエの町を創建した。[18]
アロエの町には、ベロスの子アイギュプトスの墓があった。[19]
系図を作成すると、アイギュプトスとトリプトレモスは同時代人であり、エウメロスは、イオの子エパポスの娘リビュアの子ベロスの子アイギュプトスの息子と推定される。
また、トリプトレモスは、イオの子クラナオスの子ラロスの子ケレウスの息子であった。[20]
つまり、トリプトレモスがエウメロスを訪問したのは、単なる偶然ではなく、彼らはイアソスの娘イオを共通の先祖とする血縁関係者であった。
トリプトレモスは、彼の兄弟デュサウレスと共に、エウモルポスによって、エレウシスの町を追われて旅に出ていた。[21]

3.2 オレノスの創建
BC1410年、ダナオスの娘アナクシテアの子オレノスは、アイギュプトスの入植地の南西のピエロス川の河口近くに、オレノスの町を創建した。[22]
恐らく、アナクシテアの夫は、アイギュプトスの息子であり、オレノスはアイギュプトスの孫であったと推定される。[23]

3.3 テッサリアからの移住
BC1390年、ヒッポテスの子アイオロスの3人の息子たち、マカレウス、ペリエレス、アイトリオスは、テッサリア地方のアルネの町からペロポネソス半島へ移住した。
それまで、テッサリア地方に住むデウカリオーンの後裔のペロポネソス北部への移住は、3回あった。
BC1442年、ヘレンの子クストスは、テッサリア地方のメリタイアの町からアテナイの町へ移住し、その後、ペロポネソス半島北部のアイギアロス地方 (後のアカイア地方の一部)へ移住した。[24]
BC1420年、クストスの子アカイオスは、テッサリア地方のメリタイアの町からアイギアロス地方へ再移住した。[25]
BC1407年、アイオロスの子シシュッポスは、テッサリア地方のアルネ町からシキュオンの町の東側へ移住して、エピュラ (後のコリントス)の町を創建した。[26]
これらの移住によって、アカイア人は、アカイア地方東部からアルゴス地方、ラコニア地方まで広く居住するようになったが、エレイア地方にはまだ進出していなかった。

3.4 アイオロスの息子たちの移住
BC1390年、マカレウス、ペリエレス、アイトリオスは、アイトリア地方から海峡を渡ってペロポネソス北部へ移住した。彼らの母プロトゲニアの兄弟、デウカリオーンの子アンピクテュオンはロクリス地方の王であった。[27]
また、プロトゲニアの兄弟オレステウスは、ロクリス・オゾリス地方に住んでいた。[28]
アイオロスの息子たちは、ロクリス・オゾリス地方より西方に新天地を求めたが、アイトリア地方には、クレテスが居住していた。彼らは、アイトリア地方から海峡を渡ってペロポネソス北部へ移住した。[29]

3.5 アイオロスの息子とオレノスの娘との結婚
アイオロスの子マカレウスは、オレノスの町からレスボス島へ移住した。[30]
アイオロスの子アイトリオスが創建したエリスの町のアレクトールは、オレノスの町をポルバスに任せた。[31]
以上のことから、アイオロスの息子と、ダナオスの娘アナクシテアの子オレノスの娘との間には、婚姻関係があったと推定される。

3.6 レスボスへの移住
BC1389年、マカレウスは、エーゲ海の大津波で被災したコリントス湾岸のイオニア人やテッサリア地方から逃れて来たペラスゴイ人などを含む植民団を率いて、ペラスギア (後のレスボス)島へ移住した。[32]
マカレウスは近隣の島々に息子たちを移住させて勢力範囲を広げ、ペラスギア島は、マカレウス入植後、マカレウスの家と呼ばれるようになった。[33]
マカレウスは南へ勢力を拡張し、キオス島、サモス島、コス島、ロドス島へ息子たちを移住させた。[34]
BC1340年、マカレウスの兄弟ラピトスの子レスボスがテッサリア地方から植民団を率いて島へ移住して来て、島はレスボスと呼ばれるようになった。[35]

3.7 パライの創建
BC1375年、ダナオスの娘ピュロダメイアの子パレスは、オレノスの町の近くを流れるピエロス川の上流にパライの町を創建した。[36]
オレノスの町の創建者オレノスは、パレスの従兄弟であった。
パレスの父はアイギュプトスの息子で、パレスはアイギュプトスの入植地から移住したと推定される。

4 エレイアへの進出
4.1 エリスの創建
BC1390年、アイトリオスは、オレノスの町から南方へ新天地を求めて、ペネイオス川の近くへ移住して、エリスの町を創建した。[37]
アイトリオスは、異母妹のカリュケを妻にして、息子エンデュミオンが生まれた。[38]

4.2 ポキスからの嫁入り
BC1351年、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンには、3人の息子たち、エペイオス、アイトロス、パイオンが生まれた。[39]
クロミアは、アイトリオスの母プロトゲネイアの兄弟アンピクテュオン の子イトノスの娘であり、エンデュミオンの又従妹であった。

4.3 メッセニアへの移住
BC1347年、ダナオスの娘ピュロダメイアの子パリスは、アロエの町から南方へ新天地を求めて、メッセニア湾に流れ込むネドン川の河口近くへ移住した。[40]
パリスは、兄パレスが創建した町と同じ名前のパライの町を創建した。[41]
メッセニア地方には、パリスの叔母メッセネの夫ポリュカオンが創建したアンダニアの町があった。[42]

4.4 ピサの創建
BC1345年、ペリエレスの子ピソスは、オレノスの町から南方へ新天地を求めて、アルペイオス川の近くへ移住して、ピサの町を創建した。[43]
これより前、BC1348年、ピソスは、オレノスの町の近くにあるパライの町からパリスの娘テレゴネを妻に迎えていた。[44]
テレゴネの父パリスと、ピソスの母の父オレノスは、従兄弟であった。

4.5 クレタからの移住
BC1345年、カルデュスの子クリュメノスは、クレタ島のキュドニアの町からオリュンピアの町へ移住して、オリンピック競技会を開催した。[45]
クリュメノスは、最初に競技会を開催したイダ山のヘラクレスの孫であった。[46]

4.6 トロアスへの移住
BC1344年、カルデュスの子クリュメノスは、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンによって、オリュンピアの町から追放された。[47]
クリュメノスは、ペロプスの父タンタロスの父と推定されるが、その根拠については後述する。
タンタロスは、トロアス地方のダルダノスの町からキュジコスの町までの間の沿海地方を支配していた。[48]
クリュメノスは、オリュンピアの町からトロアス地方のイダ山の近くに移住したと推定される。
イダ山周辺には、クレタ島のキュドニアの町の近くのアプテラの町から移住したイダ山のダクテュロスも住んでいた。

4.7 サルモネの創建
BC1335年、アイオロスの子サルモネオスは、テッサリア地方から彼の異母兄弟アイトリオスが創建したエリスの町の近くへ移住した。サルモネオスは、アルペイオス川の支流であるエニペウス川の源泉であるサルモネの泉近くにサルモネの町を創建した。[49]
エニペウス川の名前は、サルモネオスと共に、テッサリア地方のエニペウス川の近くから移住した人々が名づけたと推定される。

4.8 ハルピナの創建
BC1330年、アルクシオンの子オイノマオスは、ピサの町からアルペイオス川の少し上流にハルピナの町を創建した。オイノマオスの父アルクシオンは、アルペイオス川とラドン川の合流点近くにヘライアの町を創建したリュカオンの子へライイオスの孫であった。[50]
これより前に、リュカオンの子カウコンの後裔プリクソスがハルピナの町の近くにプリクサの町を創建していた。プリクソスの兄弟マキストスは、その町からさらに海の近くに、マキストスの町を創建した。[50-1]

4.9 テッサリアからの嫁入り
BC1326年、エリスの町のエンデュミオンの子アイトロスは、テッサリア地方北部のペネイオス川の近くに住むポルバスの娘プロノエを妻に迎えた。[51]
アイトロスは、ポルバスの父ラピテスの父アイオロスの子アイトリオスの子エンデュミオンの息子であった。つまり、プロノエとアイトロスは、又従兄妹であった。

4.10 アイトリアへの移住
BC1320年、エリスの町のエンデュミオンの子アイトロスは、エペイオイ人を率いて、ペロポネソスから海を渡って、アイトリア地方へ移住した。[52]
伝承では、アイトロスが過失による殺人を犯して、エリスの町を追われたことになっているが、その理由では、クレテスと戦えるだけの人数の移住にはならないと思われる。[53]
アイトロスは、当時、エレイア地方の覇者であったサルモネオスによって、エリスの町を追われた。[54]
アイトロスはエリスの町の王であったが、彼の後に王になったのは、彼の姉妹エウリュキュダの息子エレイオスであった。[55]
エレイオスの父は、サルモネオスの子アレクトール (または、アレクシノス)であったと推定される。[56]
つまり、エリスの町に権力争いがあり、自分の孫を王位に就けようとしたサルモネオスがアイトロスや彼を支持する人々をエリスの町から追放したと思われる。

4.11 パイオニアへの移住
BC1320年、エンデュミオンの子パイオンは、エリスの町からパイオニア地方へ移住した。[57]
伝承では、パイオンが王権を賭けた徒競走に敗れたことになっているが、アイトロスと同様にパイオンもサルモネオスによって追放されたと推定される。

4.12 オイノマオスのピサ居住
BC1315年、ハルピナの町のオイノマオスは、ピサの町を攻めて、ピソスから町を奪い取った。[58]
このとき、ピサの町のペリエレスの子ピソスは、オイノマオスによって殺されたと推定される。
ピソスの妻テレゴネは、メッセニア地方のパライの町に住む、彼女の父パリスのもとへ移住した。[59]

4.13 デュスポンティオンの創建
BC1310年、ピサの町のオイノマオスの子デュスポントスは、オリュンピアの町からエリスの町に向かう海に近い街道沿いに、デュスポンティオンの町を創建した。[59-1]
BC572年、デュスポンティオンの町は、ピサの町に味方して、エリスの町と戦った。

5 タンタロスの子ペロプスの時代
5.1 リュディアからの移住
BC1315年、タンタロスの子ペロプスは、リュディア地方からペロポネソスへ移住して来た。[60]

5.1.1 ペロプスの系譜
タンタロスの父は、クレタ島のキュドニアの町からオリュンピアの町に現れて、エリスの町のアイトリオスの子エンデュミオンに追放されたカルデュスの子クリュメノスと推定される。[61]
その推定の根拠は、3つある。
1) クリュメノスは、クレタ島北西部のキュドニアの町の出身であり、その町のすぐ東には、アプテラの町があった。アプテラの町は、カベイロス山があるベレキュントス地方にあり、タンタロスの最初の支配地は、ベレキュンテスの土地と呼ばれていた。[62]
2) ギリシアに移住して来たタンタロスの子ペロプスは、クリュメノスが追われたオリュンピアを支配下に置いていたピサの町を目的地にしていた。[63]
3) ペロプスは、ピサの町の東側のプリクサの町にあるキュドニアに坐すアテナの神殿に供犠をした。その神殿は、クリュメノスが造営したものであった。[64]

5.1.2 ペロプスとオイノマオスの戦い
ペロプスは、ラコニア湾のエウロタス川の河口近くに上陸して、アクリアイの町のアクリアスを協力者にした。アクリアスは、アミュクライの町に住むアミュクラスの息子と思われ、アクリアイの町の創建者であった。[65]
後に、ペロプスの子アルゲイウスがアミュクラスの娘ヘゲサンドレと結婚しているのは、この時の縁であったと思われる。[66]
また、ミュケナイの町のペルセウスも、ペロプスに同行したと思われる。
ペロプスの少年時代、アンドロメダと結婚したばかりのペルセウスは、ペロプスの居住地の近くに住んでいた。ペロプスにとって、ペルセウスは、ペロポネソスに住む唯一の知人であった。
ペロプスの4人の娘たちとペルセウスの4人の息子たちが結婚しているのが、それを証明している。[67]
伝承では、ペロプスがオイノマオスからピサの町を奪ったことになっている。
しかし、次のことから、ペロプスとオイノマオスの間に、戦いはなかったと推定される。
1) オイノマオスの妻は、ペルセウスの祖父アクリシオスの娘エウアレテであった。[67-1]
つまり、オイノマオスは、ペルセウスの義理の叔父であった。
2) オイノマオスには、娘アルキッペがいた。[67-2]
系図を作成すると、アルキッペが生まれたのは、ペロプスとヒッポダミアの結婚の10年後である。つまり、オイノマオスは、ペロプスと出会ってから、10年以上は、生きていたことになる。
オイノマオスは、ペロプスは、オイノマオスの娘婿として、ピサの町を継承したと推定される。

5.1.3 ピサとエリスの関係
ペロプスの目的地は、彼の祖父クリュメノスやクリュメノスの祖父アクモン (イダ山のヘラクレス)が住んでいたオリュンピアの町であった。ペロプスが渡来した時、オリュンピアの町はピサの町の支配下にあった。[68]
ペロプスは、祖父クリュメノスを追い出したエリスの町に敵意を抱いていたと思われ、双方の間に婚姻関係は見られない。[69]
ピサの町とエリスの町の争いは、オリンピック競技会の開催を巡る問題だけではなく、エンデュミオンがクリュメノスを追放したことが根底にあったと推定される。[70]

5.1.4 ヒッタイト文書に登場するペロプス
ペロプスは、ヒッタイト文書に登場するウハジティ(タンタロス)の息子であり、ピヤマクルンタ (ブロテアス)の兄弟タパラズナウリであると推定される。[71]
BC1318年、タンタロスは、ヒッタイト軍に攻められて、アルザワの首都アパサス (後のエペソス)を拠点にして抵抗したが、病死した。[72]
ブロテアスは、ヒッタイトの捕虜になって、ハットゥーシャへ連行された。[73]
ペロプスは、ヒッタイト軍に包囲されたが無事に脱出した。しかし、ペロプスの妻と息子たちは捕虜になった。[74]
その後、ペロプスは小アジアからペロポネソスへ渡った。その時、ペロプスは彼の息子クリュシッポスと一緒であった。[75]
ペロプスは、ヒッタイトとの戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほど小アジアにいたが、その望みを断念して、ペロポネソスへ渡ったと推定される。

5.2 ロドスからの移住
BC1306年、ロドス島に住むラピテス (または、ラピトス)の子ポルバスは、ペロプスの勢力拡大を恐れたエリス王アレクトールから招致されてオレノスの町を任せられた。[76]
この時、オレノスの町は、エリスの町の支配下にあったと思われる。

5.2.1 ポルバスについて
BC1361年、 ポルバスは、テッサリア地方北部を流れるペネイオス川中流域で生まれた。[77]
ポルバスの父はラピタイの始祖ラピテスであり、母はエウリュノモスの娘オルシノメであった。[78]
BC1326年、ポルバスの娘プロノエ (または、アステュノメ)は、テッサリア地方からエリスの町のエンデュミオンの子アイトロスへ嫁いだ。[79]
BC1320年、ポルバスは、テッサリア地方からロドス島へ移住した。[80]
ポルバスをロドス島へ招いたのは、マカレウスの子レウキッポスと思われる。彼とポルバスは、ヒッポテスの子アイオロスを祖父とする従兄弟同士であった。

5.2.2 アレクトールについて
エリス王アレクトールは、パウサニアスが伝えるエリス王の系譜には登場せず、ディオドロスのみが伝えている。[81]
このアレクトールは、つぎの理由からサルモネオスの息子であったと思われる。
サルモネオスは、エリス王アイトロスを追放した。[82]
追放されたアイトロスの後でエリス王になったのは、当時5歳と推定されるエンデュミオンの娘エウリュキュダの息子エレイオスであった。[83]
エリスの町から離れたサルモネの町に住むサルモネオスがエリス王アイトロスとその支援者を追放したことから、サルモネオスとエレイオスとの間に血縁関係があったと推定される。[84]
つまり、アレクトールはサルモネオスの息子であり、エンデュミオンの娘エウリュキュダを娶り、息子エレイオスをもうけた。[85]
アイトロスの追放後、エレイオスはエリス王となり、アレクトールは幼少の息子の後見人として、サルモネの町からエリスの町へ移住して、統治したと推定される。

5.3 テッサリアからの移住
BC1303年、 ヒッポコーンの子アミュタオンと、クレテウスの子ネレウスは、テッサリア地方からエレイア地方へ移住して、ピュロスの町を創建した。[86]
ピュロスの町は、エリスの町からオリュンピアの町へ行く山道にあった。[87]
メガラの町のクレソンの子ピュロス (または、ピュロン)がピュロスの町を創建したという伝承がある。[88]
系図を作成すると、ピュロスが創建した町から彼を追放したネレウスの移住は、ピュロスが60歳近くの年齢のときである。ピュロスの名前と町の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。
アミュタオンはピュロスに住み、フェレスの娘イドメネと結婚し、2人の息子たち、ビアス と メランプスが生まれた。[89]
アミュタオンがテッサリア地方からエレイア地方へ移住する時、メランプスとビアスが同行している。つまり、アミュタオンの息子たちが生まれたのは、テッサリア地方のピュロス (または、ピュッロス)である。
アミュタオンは、エレイア地方に創建した町に、テッサリア地方にいたときに住んでいた町の名前をそのまま付けたと推定される。
そして、その町の名前は、ピュロス・レプレアティコスやピュロス・メッセニアコスに引き継がれた。[90]

6 エレイオスの子アウゲアスの時代
6.1 アルカディアからの嫁入り
BC1297年、エリスの町のエウリュキュダの子エレイオスは、アルカディア地方からアンピダマスの娘ナウシダメを妻に迎えて、息子アウゲアスが生まれた。[91]

6.1.1 エリスとミュケナイの関係
ナウシダメの姉妹アンティビアは、ミュケナイの町のペルセウスの子ステネロスに嫁いだ。[92]
アンピダマスの娘たちを通して、エリスの町とミュケナイの町は友好関係にあった。しかし、ピサの町のペロプスの勢力が強まり、ステネロスがペロプスの娘ニキッペ (または、アルキッペ)を妻に迎えるとエリスの町とミュケナイの町は敵対関係に変わった。[93]
アンピュトリオンの子ヘラクレスがエリスの町のアウゲアスを攻めたのは、ペロプスの死後、エリスの町から圧迫されていたピサの町からの要請によるものであったと推定される。ステネロスの子エウリュステウスはペロプスの孫であり、ヘラクレスはペロプスの曾孫であった。

6.1.2 アウゲアスの父について
ディオドロスは、アウゲアスの父をラピテスの子ポルバスだと伝えている。[94]
アウゲアスがエリス王になれたのは、ポルバスの妻がエリス王エペイオスの娘ヒュルミナであったからという理由のようである。[95]
しかし、それでは、オレノスの町に住むアウゲアスがエリス王になる根拠がなくなってしまう。
アウゲアスの父は、エリス王の系譜を時代順に記述しているパウサニアスが伝えているように、エンデュミオンの娘エウリュキュダの子エレイオスが妥当と思われる。[96]
エペイオイ人と呼ばれていた人々は、エレイオスの時代になるとエリス人と呼ばれるようになった。[97]

6.2 トリピュリアへの移住
BC1292年、ピュロスの町のアミュタオンの2人の息子たち、メランプスとビアスは、エレイア地方南部のトリピュリア地方へ移住して、ピュロス・レプレアティコスの町を創建した。[98]

6.3 アルゴスへの移住
BC1290年、アミュタオンの2人の息子たち、メランプスとビアスは、トリピュリア地方からアルゴスの町へ移住した。伝承では、メランプスが治した女人の狂気を治したため、アルゲウスの子アナクサゴラスがアルゴスの町の一部を割譲したことになっている。[99]
しかし、メランプスはアナクサゴラスの叔母イピアネイラと既に結婚していた。
アナクサゴラスは、彼の義理の叔父メランプスと彼の弟ビアスをアルゴスの町に住まわせて、勢力を増すミュケナイの町に対抗しようとした。[100]

6.4 ピサの内紛
BC1287年、ピサの町に内紛が起こったと思われる。
内紛の原因は、ペロプスの子クリュシッポスの死に関するものであったと推定される。[100-1]
この内紛によって、ペロプスの妻や息子たちは、各地へ移住した。
ペロプスの妻ヒッポダミアは、ミデイアへ移住した。[100-2]
ペロプスの息子たち、テュエステスとアトレウスは、トリピュリア地方のマキストスの町へ移住した。[100-3]
ペロプスの息子たち、ピッテウスとトロイゼンは、アルゴス地方へ移住した。[100-4]
ペロプスの子アルカトオスは、メガラの町へ移住した。[100-5]
ペロプスの子コプレウスは、ミュケナイの町へ移住した。[100-6]
ペロプスの子レトレウスは、ピサの町から海岸近くへ移住して、レトリニの町を創建した。[100-7]
この後、ペロプスは、BC1268年頃に死去しているが、その後のピサの町は、目立たない町として存続した。
AD2世紀、ピサの町に建造物は残っておらず、ブドウ園になっていた。[100-8]

6.5 ヒュルミナの創建
BC1285年、ポルバスの子アクトールは、オレノスの町からエリスの町の西方の海の近くに移住して、彼の母の名前に因んだヒュルミナの町を創建した。[101]
ヒュルミナは、エンデュミオンの子エペイオスの娘であり、ポルバスがロドス島からオレノスの町へ移住して来て、彼女はポルバスと結婚した。[102]

6.6 ブプラシオンの創建
BC1280年、ピュッティウスは、プティア地方からサルモネの町の近くへ移住して、ブプラシオンの町を創建した。[103]
ピュッティウスの子アマリュンケスの子ディオレスの子アウトメドンは、トロイ戦争でアキレスの御者を務めた。したがって、ピュッティウスは、ミュルミドン族の一員と思われ、ミュルミドンの子アクトールの息子と推定される。[104]

6.7 ボイオティアからの嫁入り
BC1277年、ピュロスの町のネレウスは、オルコメノスの町のアンピオンの娘クロリスを妻に迎えた。[105]
クロリスには、多くのミニュアス人が同行してピュロスの町へ移住した。[106]
その後、ミニュアス人は、トリピュリア地方へ移住した。[107]

6.8 アイトリアからの嫁入り
BC1266年、ヒュルミナの町のポルバスの子アクトールは、アイトリア地方のプレウロンの町からモロスの娘モリオネを妻に迎えて、双子の息子たち、クテアトスとエウリュトスが生まれた。[108]
モリオネは、ポルバスの娘プロノエ (または、アステュノメ)の子プレウロンの子モロスの娘であり、アクトールは、モリオネの曾祖母の異母兄弟であった。

6.9 アルカディア人との戦い
BC1250年、トリピュリア地方のアレネの町のアレイトオスは土地の問題で、テゲアの町のアレウスの子リュクルゴスと戦って討ち取られた。[111]
アレイトオスは、ネレウスのもとへ嫁いだクロリスに同行してボイオティア地方のオルコメノスの町からピュロスの町へ移住して来たミニュアス人であった。[112]
その後、ミニュアス人は、ピュロスの町からトリピュリア地方へ移住して、アレネの町に住んでいた。[113]

6.10 アルカディア人との戦い
BC1244年、ピュロス・レプレアティコスの町に住むネレウスの息子たちは、その町の東に位置するカアの町の領有権を巡ってアルカディア人と戦った。[115]
アルカディア人を率いたのは、アレウスの子リュクルゴスであった。リュクルゴスの墓は、テゲアではなく、カアの町の近くのレプレウスの町にあった。[116]

6.11 アカルナニアへの移住
BC1244年、アウゲアスの子ピュレウスは、エリスの町からアカルナニア地方へ移住して、ドウリキオン (ドウリキア)の町を創建した。[117]
そのドウリキオンの町の場所をホメロスやストラボンは、エキナデス諸島の中の島だと伝えている。[118]
しかし、つぎの理由から、ピュレウスがエリスの町から移り住んだドウリキオンの町は、ケパレニア島にあったと推定される。
パウサニアスは、ケパレニア島のパレイスの町がエリス人のランピスの子ティモプトリスの像をオリュンピアに奉納したと伝えている。また、パウサニアスは、パレイス人が昔、ドウリキア人と呼ばれていたとも伝えている。[119]
したがって、ケパレニア島のドウリキオンの町がアウゲアスの子ピュレウスの移住先と推定される。
ケパレニア島に先住していたケパロスとピュレウスとの間の接点は不明で、ピュレウスが適地を探して、ケパレニア島を移住先に選んだと思われる。

6.12 ボイオティアからの嫁入り
BC1242年、ピュロス・レプレアティコスの町のネストルは、オルコメノスの町のクリュメノスの娘エウリュディケ (または、アナクシビア)を妻に迎えた。[120]
エウリュディケには、多くのミニュアス人が同行してトリピュリア地方へ移住した。[121]

7 ヘラクレスとの戦い
7.1 ヘラクレスのエリス攻め (1回目)
BC1243年、ヘラクレスはエリスの町を攻めるが、アクトールの2人の息子たち、クテアトスとエウリュトスの奮戦によって敗北を重ね、勝敗がつかないままにヘラクレスが病気になって休戦した。[122]
しかし、アクトールの息子たちは、ヘラクレスの病気を知って攻撃を仕掛け、多くの者が殺された。 [123]
休戦の約束を破られて身内を殺されたヘラクレスは、エレイア地方のヒュルミナの町からイストモスの町へ向かう途中のアクトールの2人の息子たちをクレオナイの町で襲撃して殺した。[124]

7.2 ヘラクレスのエリス攻め (2回目)
BC1240年、ヘラクレスは再びエリスの町を攻めた。この戦いには、アルカディア人の他に、テバイ人、アルゴス人やエペイオイ人がヘラクレスに味方して参加した。[125]
アウゲアスは、ピュロスの町からも援軍を受けて防戦したが、アクトールの息子たちがいないエリスの町は、ヘラクレスに敗れ、町は占領された。[126]
ヘラクレスは、アウゲアスの長男ピュレウスの願いを聞き入れて、アウゲアスを寛大に処分した。[127]

7.3 ヘラクレスのピュロス攻め
ヘラクレスは、ピュロスの町のネレウスを攻めて、12人いたネレウスの息子たちは、一番末のネストルを除いて戦死し、ピュロスの町は破壊されて廃墟と化した。[128]
ヘラクレスによって破壊されたピュロスの町は、エリスの町からペネイオス川を遡り、さらに支流のラドン川を少し遡った所にあった。[129]

7.4 ピサの参加
パウサニアスは、ヘラクレスに攻められたエリスの町の防戦にピュロスの町やピサの町が参加したと伝えている。[130]
しかし、ピサの町は、ヘラクレスの母方の祖母の町であり、ピサの町がヘラクレスとの戦いに加わったとは思われない。
ペロプスがオリンピック競技会を開催した後で、エリスの町のアウゲアスが開催した。ペロプスが死んだ後で、エリスの町がピサの町を支配下に置いて、オリンピック競技会を開催したと推定される。[131]
ピサの町はアウゲアスに加勢したのではなく、アウゲアスの横暴に耐えかねて、ヘラクレスやエウリュステウスに対して、エリスの町への懲罰を要請したと推定される。[132]

7.5 イタリアへの移住
BC1240年、アルカディア地方のパランティオンの町のエウアンドロスの移民団が、オリュンピアの町を通り、エリスの外港キュレネへ向かった。エウアンドロスは道中、ヘラクレスのエリス攻めに参加したアルカディア人や、新天地を求めるエペイオイ人を移民団に参加させた。[133]
エウアンドロスの移民団は、エリスの外港キュレネからイタリア半島へ向けて出航した。[134]
ヘラクレスによって荒廃させられたエリスの町を放棄したエペイオイ人は、カピトリネの丘に定住した。[135]

7.6 メッセニアへの移住
BC1209年、ネレウスの子ネストルは、イダスの跡を継いで、メッセニア地方のアレネの町の近くへ移住して、ピュロスの町を創建した。[136]
イダスは、ペリエレスの子アパレウスの息子であり、ラピタイであった。
ネストルは、クレテウスの子ネレウスの息子であり、アイオリスであった。
両者の共通の先祖は、デウカリオーンの子ヘレンまで遡らなければならない。
ネストルがイダスと、ヘレネスとして同族だから後を継承できたとするのは、根拠に乏しい。
恐らく、テュンダレオスの息子たちとの戦いで、イダス兄弟が死に、アレネの町が破壊されたと思われる。[137]
ネストルは、エレイア地方からメッセニア地方へ勢力を伸ばし、アレネの町の近くにピュロスの町を創建した。[138]

8 トロイ戦争時代
8.1 トロイ遠征への参加
ホメロスのイリアスによれば、トロイへエペイオイ人を率いて遠征したのは、つぎの4人であった。[139]
アクトールの子クテアトスの子アンピマコス
アクトールの子エウリュトスの子タルピオス
アマリュンケウスの子ディオレス
アウゲアスの子アガステネスの子ポリュクセイノス
彼らが率いた船は、40隻であった。[140]
ネストル率いるメッセニア人の船数70隻に比較して、かなり少ない。[141]

8.2 ピサの参加
ホメロスの『軍船目録』にピサの町の名前がない。4人の将に率いられた人々は、ブプラシオンの町から北に住む人々で、ピサの町から南に住む人々は、メッセニア人と共に参加した。ストラボンは、ピサ人がネストルの指揮下にトロイ遠征に参加したと伝えている。[142]
トロイ戦争時代、ピサの町は、エリスの町の支配下に入っていなかった。[143]

8.3 キュレネの参加
ホメロスの『軍船目録』にキュレネの町の名前がないが、その町からトロイ遠征に参加したオトスの名前は登場する。[144]
オトス率いるキュレネ人は、ピュレウスの子メゲス率いるドウリキア人の船に乗っていたからであった。[145]

9 ハイモンの子オクシュロスの時代
9.1 アイトリアからの移住
BC1105年、トアスの子ハイモンの子オクシュロスは、アイトリア人を率いて、アイトリア地方からエリスの町へ移住した。[146]
当時、エリスの町を治めていたアンピマコスの子ディオスは、オクシュロスに地位を譲って共住した。[147]
オクシュロスは、ペロポネソスの大部分の支配者となったヘラクレイダイと親戚関係にあった。オクシュロスの祖父トアスの母ゴルゲス (または、ゴルゲ)は、ヘラクレスの妻デイアネイラ (または、デヤニラ)の姉妹であった。
ヘラクレイダイを率いていたテメノスの父アリストマコスは、オクシュロスの3従兄弟であった。

9.2 アカイアからの移住
BC1101年、オクシュロスは、アカイア地方のヘリケの町からオレステスの子ペンチロスの子ダマシウスの子アゴリオスを招いてエリスの町の共同統治者にした。アゴリオスと共にアカイア人がエリスの町に移住した。[148]
BC1099年、オクシュロスは、オリュンピア競技会を開催した。その後、BC776年にイピトスが復活させるまで、300年以上の間、オリュンピア競技会は行われなかった。[149]
BC1419年に、イダ山のヘラクレスと彼の兄弟たちが開催してから、エレイア地方の有力者が競技会を開催して来た。[150]
BC1384年、アイオロスの子アイトリオス [151]
BC1344年、カルデュスの子クリュメノス [152]
BC1329年、アイトリオスの子エンデュミオン [153]
BC1319年、エンデュミオンの子エペイオス [154]
BC1314年、アルクシオンの子オイノマオス [155]
BC1309年、サルモネオスの子アレクトール [156]
BC1299年、タンタロスの子ペロプス [157]
BC1294年、ヒッポコーンの子アミュタオン [158]
BC1279年、クレテウスの子ネレウスとペリアス [159]
BC1249年、エレイオスの子アウゲアス [160]
BC1239年、アンピュトリオンの子ヘラクレス [161]

9.3 ヘラ神殿の建立
BC1097年、トリピュリア地方のスキッロスの町は、オリュンピアに、ドーリス様式のヘラ神殿を建立した。オクシュロスがエリスの町を獲得してから8年後であった。[162]

9.4 スパルタからの移住
BC1070年、ラコニア地方に住んでいたペラスゴイ人とアカイア人は、エレイア地方南部へ移住して、レプレオン, マキストス, プリュクサイ, ピュルゴス, エピオン, ヌディオンの町を創建した。[163]
ヘロドトスは、6つの町の創建者を、テラスの移民団に参加しなかったミニュアス人だと記している。[164]
しかし、そのミニュアス人をレムノス島から追い出したのは、アテナイの町から追放されたペラスゴイ人であった。[165]
ペラスゴイ人より数の少ないミニュアス人が、6つの町を創建できたとは思われない。
6つの町を創建したのは、ドーリス人に対して反乱を起こして、ラコニア地方から追放されたペラスゴイ人とアカイア人であったと思われる。[166]

おわり