第38章 クレタ島の青銅器時代の歴史

home English
Create:2025.4.20, Update:2025.4.20

1 はじめに
BC330 年頃に執筆されたPseudo Scylaxの『Periplous』には、Crete島は、Sardinia島やSicily島に次ぐ大きな島で、Cyprus島より大きいと記されている。[1]
また、AD43年頃に『Chorographia』を執筆したPomponius Melaも、Crete島はCyprus島より大きいと記している。[2]
実際は、Crete島よりCyprus島の方が大きい。
この誤りは、Crete島の東西の長さを過大に見積もっていたことが原因と思われる。
実際は、約260kmであるのに、Straboは、370km、あるいは、426km、Pliny the Elderは、432kmだと記している。[3]

2 最初のギリシア人
2.1 Eteocretansの王Cres
AD5世紀の神学者Jeromeは、Crete島を最初に統治したのは、Cresであり、Cresの名前に因んで、Crete島と呼ばれるようになったと伝えている。[4]
Diodorusは、Crete島の最初の住民はEteocretansであり、彼らの王は、Cresであったと記している。[5]
AD2世紀の神学者Clemens of Alexandriaは、Sicyonの町では最初にAegialeus、次にEurops、そしてTelchisへと続き、Crete島ではCresが統治したと伝えている。[6]
Jeromeの年表によれば、Cresは、第4代Sicyon王Apisの時代に、Crete島を統治していた。[7]

2.2 Telchinesの移住
AD5世紀の歴史家Orosiusは、Argos王PhoroneusとTelchinesの戦いがあり、敗れたTelchinesは、Rhodes島へ移住したと伝えている。[8]
Telchinesは、Rhodes島へ行く前に、Crete島に住んでいた。[9]
AD6世紀の文法学者Stephanus of Byzantiumは、Crete島は、Telchinia とも呼ばれ、Cretans は Telchines と呼ばれていたと記している。[10]

2.3 Telchinesの始祖
BC2世紀の年代記作者Castorは、Apisの名前に因んで、PeloponnesusがApiaと呼ばれるようになったと記している。そのApisは、第3代Argos王であり、第4代Sicyon王でもあり、同一人物であった。[11]
Apisの前の王は、第2代Argos王Phoroneusであり、第3代Sicyon王Telchinであった。[12]
つまり、Phoroneusと戦ったTelchinesは、Telchinの名前に因んで名付けられた、Sicyonの町に住んでいた人々であったと推定される。

2.4 Cresの父
Cresは、Curetesの一人であり、CuretesとTelchinesは同じ種族であった。[13]
つまり、Cresは、TelchinesがApisとの戦いに敗れて、Crete島へ移住した時の、引率者であり、Cresの父は、当時のSicyon王Telchinであったと推定される。

2.5 Cresの移住時期
CresがTelchinesを率いて、Crete島へ移住したのは、TelchinesがApisとの戦いに敗れた後であった。[14]
年代記作者Castorによれば、Apisは、Argosの町を35年間、Sicyonの町を25年間支配して、TelchinとThelxionによって殺された。[15]
つまり、TelchinesとApisの戦いは、Argos王Apisの統治10年目であった。
系図を作成すると、Apisの父Phoroneusが死んで、ApisがArgos王になったのは、BC1700年である。
したがって、CresがCrete島へ移住したのは、BC1690年と推定される。

2.6 Cresの入植地
Cresの入植地は、Crete島北西部のApteraの町の近くであったと推定される。[16]
Telchinesと同一視されるIdaean Dactylsは、Apteraの町で最初に鉄の活用手段を発明した。[17]

3 Arcadiaからの移住
BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町に住むTegeatesの3人の息子たち、Cydon、Gortys、ArchediusはCrete島へ移住して、Cydonia、Gortyna、Catreusの町を創建した。[18]
深刻な食糧不足が、Tegeatesの息子たちの移住の原因であった。[19]
Tegeatesの息子たちの移住は、Callistoの子Arcasの名前に因んで、Arcadia地方に住むPelasgiansが、Arcadiansと呼ばれる前の時代であった。[20]
Diodorusは、Eteocretansが住むCrete島へ、最初にPelasgiansが移住して来たと記している。[21]
Tegeatesの息子たちのCrete島への移住によって、次の移住が発生した。

3.1 Cnossusからの移住
BC1450年、Cnossusの町に住んでいたCyrbasは、島の南東岸へ移住して、Hierapytnaの町を創建した。[22]
Cyrbasの移住は、Tegeatesの息子たちの移住により、Crete島内に動乱が発生した結果と思われる。

3.2 Rhodesへの移住
BC1450年、Erysichthonは、Crete島のPrasusの町からRhodes島へ移住した。[23]
Erysichthonは、Rhodes島でTelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが生まれた。[25]
Rhodosの息子たちは、Heliadaeと呼ばれるようになった。[26]

4 鉄の発見
4.1 ギリシア人による鉄の発見年
AD1世紀の哲学者Thrasyllusによれば、「Idaの大火による鉄の発見」は、「洪水」から73年目であった。[27]
また、Thrasyllusによれば、「7将によるThebes攻め」は、「洪水」から293年目であった。[28]
Adrastusが率いたArgivesによるThebes攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」は、BC1508年となる。
その「洪水」は、BC1511年にAthens王が、CecropsからCranaus に代わった年に発生したThessaly地方の大洪水と推定される。[29]
したがって、鉄の発見は、BC1438年と推定される。
Parian Marbleには、Athens王がPandionの治世(BC1442-02)に、鉄が発見されたと記されているので、妥当と思われる。[30]

4.2 Idaean Dactylsの誕生
Ida山の大火災の後で、Celmis(or Kelmis, Scelmis)とDamnameneus(or Damnaneus)は偶然、鉄を発見し、その後、鉄の鍛鉄法を発明した。[31]
2人はTelchinesであり、Idaean Dactylsと呼ばれ、人々に鉄の製錬と焼き戻しを教えた。[32]
2人は、DactylusとIda (or Idothea)の息子たちで、Troy王国の始祖Teucrusの兄弟と推定される。[33]

4.3 各地への移住
4.3.1 Troadへの移住
BC1435年、Teucrus (or Teucer, Teukros)は移民団を率いて、Crete島のApteraの町を出港し、Troad地方のHamaxitus付近に上陸した。[34]
次のことから、Teucrusは、Crete島で最初に鉄を発見したCelmis (or Kelmis)とDamnameneusの兄弟と推定される。
1) Teucrusは、Ida (or Idothea)の息子であった。[35]
2) Idaean Dactylsは、DactylusとIdaの後裔であった。[36]
3) CelmisとDamnameneusは、Idaean Dactylsであった。[37]
Teucrusには、Idaean Dactylsが同行し、Hamaxitusから北へ鉱脈を探索して、Ida山周辺に定住した。[38]

4.3.2 Cyprusへの移住
BC1430年、CelmisとDamnameneusは、Cyprus島で鉄を発見した。[39]

5 Cadmusの訪問
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団が、Aegean Seaを航海して、Rhodes島、Thera島、Samothrace島を訪問した。[40]
この時、Cadmusは、Crete島にも立ち寄ったと推定される。
Crete島で、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの2人の娘たちに重要な出会いがあった。

5.1 Phoenixの娘Europa
Cydoniaの町に住むCydonは、Phoenixの娘Europaと結婚して、2人の息子たち、MinosとCardysが生まれた。[41]

5.2 Phoenixの娘Astypalaea
Apteraの町に住むIdaean Heraclesは、Phoenixの娘Astypalaeaと結婚して、2人の息子たち、AncaeusとPericlymenusが生まれた。[42]

6 BC1420年の大津波
6.1 Europaの家族
BC1420年、Crete 島北部を襲った大津波でCydonは死に、Europaは2人の息子たちと共に生き残った。[43]

6.2 Dorisからの移住
BC1420年、大津波でThracia地方を追われたCadmus率いる移民団がThessaly地方を通過した。その大移動の混乱に巻き込まれたHellenの子Dorusは、Doriansを率いて、Thessaly地方北部からOeta山とParnassus山の間へ移住した。その後、Dorusの子Tectamusは、Doriansの他にAeoliansやPelasgiansを率いてCrete島へ移住して来た。[44]
Doriansは、Erineus、Boeum、Cytiniumの町を建設した。[45]
AD5世紀の神学者Jeromeは、Tectamusの子Asteriusの前のCrete島の支配者として、Lapisの名前を記している。[46]
島の南東部のHierapytnaの町の近くにLarisaの町があったが、その町は、Tectamusと共へ移住したPelasgiansが建設した町と思われる。[47]

6.3 Europaの再婚
Tectamusの子Asteriusは航海の途中で立ち寄ったCydoniaの町で、未亡人となったEuropaと結婚した。[48]
Minosは、母Europaと共にCnossusの町へ移住せず、Crete島中南部Phaistosの町からAndrogeneiaを妻に迎えて、息子Asteriosが生まれた。[49]
その後、Tectamusの子Asteriusは、跡継ぎを残さずに世を去った。Cnossusの町のDoriansは、MinosをCnossusの町に呼び寄せ、Lyctusの娘Itoneと結婚させて、Asteriusの跡を継がせた。Lyctusは、Cnossusの町の南東にあるLyctusの町の創建者と推定される。また、Thessaly地方のItonusの町の名前を連想させる娘の名前から推測して、Lyctusは、Asteriusの母方の祖父Cretheusの息子と思われる。MinosとItoneの間には、息子Lycastusと娘Ideaが生まれた。[50]

7 BC1390年の大津波
7.1 Troadへの移住
BC1390年、Lycastusが生まれて間もなくCrete島北部を大津波が襲い、Minosが住むCnossusの町も被災した。
Minosは、Cydoniaの町に住む弟Cardysのもとへ避難した。しかし、Cydoniaの町も津波の被害を受けていた。MinosはCardysと共に、Apteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうApteraの町のTelchinesらの移民団に加わって、Troad地方へ移住した。[51]
少し後に、CardysはCydoniaの町へ帰ったが、Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。

7.2 LyctiusとIdeの結婚
Dardanusの町の近くのIda山には、Dardanusの弟Iasionの遺児Corybasが母Cybeleと共に住んでいた。Corybasは、Agenorの子Cilixの娘Thebeと結婚して、娘Ideが生まれた。IdeとMinosの子Lyctiusは、その後、結婚した。[52]
LyctiusとIdeとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の祖とする同族であった。

7.3 Creteへの帰還
Minosの後裔は、Dardanusの町の近くのAstyraの金鉱採掘によって富を蓄え、Crete島へ帰還した。彼らは多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島を支配してAegean Seaの制海権を手に入れた。[53]
Platoは、『Gorgias』の中で、MinosとRhadamanthysはAsiaで生まれたと記している。[54]
また、MinosとPerseisの娘Pasiphaeとの結婚も、PasiphaeがColchis地方からCrete島へ嫁いだと考えるよりも、Troad地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[55]
MinosがCrete島へ帰還したのは、Pasiphaeとの結婚の後で、BC1295年頃と推定される。

7.4 Minosの子Asterios
Minosの子Asteriosは、Cnossusの町から少し離れたAmnisosの町で育った。[56]
Amnisosの町も津波の被害を受け、Asteriosも父と共にTroad地方へ移住した。
Peloponnesus半島のCorinthの町から黒海の東岸のColchis地方への交易路がTroad地方の近くを通っており、Asteriosは父のもとからColchis地方へ移住した。[57]
Asteriosは、Colchis地方で妻を娶り、娘Perseis (or Perse)が生まれた。[58]
Perseisは、Phineusの息子Polymedes、または、Clytius (or Plexippus、または、Pandion)のもとへ嫁いだ。Phineusの息子たちは、黒海の南西岸のSalmydessusの町から黒海の北岸のTauric Chersonese (現在のCrimea半島)へ移住して住んでいた。[59]
Perseisには2人の息子たち、PersesとAeetes、それに、2人の娘たち、CirceとPasiphaeが生まれた。[60]
Persesは、父の跡を継ぎ、Aeetesは、後継者の絶えたColchis地方へ移住して、Persesの娘Hecateを妻に迎えた。[61]
BC1297年、Pasiphaeは、Troad地方に住んでいたLycastusの子Minosのもとへ嫁いだ。[62]
AsteriosがColchis地方で結婚した女性は、Sisyphusの子Aeetesの娘Chalciopeと、Athamasの子Phrixusの間に生まれた娘と思われる。[63]
後に、Perseisの子Aeetesの娘Medeaが、Corinthiansから招かれて町を任せられたのは、Corinthの町の創建者Sisyphusの後裔であったからであった。

8 Idaean HeraclesとAstypalaea
8.1 Idaean Heracles
Idaean HeraclesはIdaean Dactylsであり、Apteraの町の生まれと推定される。[64]
Olympiaの町で競技会を開催して、Elisの町のAethliusの子Endymionによって追放されたCardysの子Clymenusは、Idaean Heraclesの子孫であった。[65]
ClymenusはBC1395年生まれで、鉄が発見されたBC1438年との間は、43年間しかない。つまり、Idaean Heraclesは、Cardysの父、あるいは、Cardysの妻の父である。しかし、CardysはCydoniaの町に住んでいたことから、ClymenusはIdaean Heraclesの娘の息子と推定される。
また、CardysとCydoniaの町の創建者Cydonとの間は、1世代しかなく、CardysはCydonの息子と推定される。

8.2 Eleiaへの移住
BC1420年、Idaean Heraclesは兄弟たち共に、大津波に襲われた人々を率いてEleia地方へ移住した。
彼が、移住先をEleia地方にしたのは、Apteraの町の隣に、Arcadia地方から移住して来てCydoniaの町を創建したCydonから聞いていたと思われる。[66]
BC1419年、Idaean Heracles兄弟は、Olympiaの町で競技会を初めて開催した。[67]
Idaean Heraclesの兄弟たちとは、Paeonaeus、Epimedes、Iasius、Idasであった。[68]

8.3 Cherronesusへの移住
BC1416年、Idaean Heracles兄弟は、Rhodes島対岸のCaria地方のCherronesusに居住して、Cariansを追い出して、5つの町を創建した。[69]
Idaean HeraclesとAstypalaeaとの間の息子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[70]
Lelegesは、Cariansの一部族とされるが、Cariansと混血したGreeksと推定される。[71]
Cherronesusで育ったIdaean Heraclesの娘は、Crete島のCydoniaの町に住むCardysと結婚した。この遠距離婚を可能にしたのは、親戚関係であった。
つまり、Idaean Heraclesの妻は、Phoenixの娘Astypalaeaであり、Cardysの母Phoenixの娘Europaとは姉妹であり、CardysとIdaean Heraclesの娘は、いとこ同士であった。[72]

9 空白時代
Europaの子MinosがCrete島を去り、Lycastusの子MinosがCrete島へ帰還するまで、約100年間のCrete島の状況は不明である。その間、次の2つの町の出来事だけが判明している。

9.1 Eleiaへの移住
BC1339年、Cardysの子Clymenusは、Crete島のCydoniaの町からEleia地方のOlympiaの町へ移住した。Clymenusは、Idaean Heraclesの子孫であり、Olympiaで競技会を開催した。[73]
Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionに追われて、Troad地方へ移住した。[74]

9.2 Miletusからの移住
BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Uhha-Zitiに味方したCaria地方のMillawanda (Miletus)を攻撃した。[75]
Cleochusの娘Ariaは、Crete島へ逃れ、息子Miletusが生まれた。[76]
Cleochusは、Crete島からCaria地方へ移住したIdaean Heraclesの子孫であった。
Ariaは、Crete島のMilatosの町に住んでいた。[77]

10 Lycastusの子Minosの時代
10.1 Troadからの移住
BC1295年、Lycastusの息子たち、MinosとSarpedonは、Troad地方からCrete島へ移住した。[78]
彼らの移住は、Wilusa(Troy)の王位継承争いに、彼らがTrosの子Assaracusに味方して、戦いに敗れたためと推定される。
Minosは、Crete島のCnossusの町に住んだ。[79]
SarpedonはCrete島のMilatosの町に住んだ。[80]

10.2 Cariaへの移住
BC1294年、Cleochusの娘Ariaの子Miletusは、Crete島からCaria地方のMaeander川の近くへ移住して、Miletusの町を創建した。[81]

10.3 Lyciaへの移住
BC1294年、Minosの兄弟Sarpedonは、Crete島のMilatosの町からCaria地方へ移住して、Miletusの町の建設に参加した。[82]
BC1289年、Sarpedonは、Miletusの町からMilyas (後のLycia)地方へ移住した。 [83]

10.4 Parosへの移住
BC1265年、Minosの息子たち、Eurymedon、Nephalion、Chryses、Philolausは、Crete島からParos島へ移住した。[84]
Paros島は、Minoiaとも呼ばれていた。[85]

10.5 Athensからの移住
BC1265年、Metionの子Eupalamusの子DaedalusはAegeusに追われて、Athensの町からCrete島へ移住した。[86]
Daedalusと共に、Pandionの子Pallasの息子もCrete島へ移住して、Minosの子Androgeusと親しくなったと推定される。

10.6 Athensとの戦い
10.6.1 戦いの原因と結果
BC1264年、Minosの子Androgeusは、Thebesの町で開催されるLabdacusの子Laiusの葬送競技会へ行く途中、Cithaeron山麓のOenoeの町で殺害された。[87]
Diodorusは、AndrogeusがAegeusの政敵Pallasの息子たちと親密であったため、その意図を疑われて殺害されたと伝えている。[88]
Hyginusは、AegeusとMinosとの戦闘中にAndrogeusが死んだと伝えている。[89]
恐らく、Aegeusと義兄弟との戦いの後で、その次の世代であるPallasの息子たちがAndrogeusを通して、Minosの援助を得て、Aegeusに戦いを挑んだものと思われる。[90]
Minosは戦いに勝利した。Athensの町は、9年ごとに若い男女7人ずつを人質として島へ送ることになった。[91]

10.6.2 Aeginaへの移住
BC1264年、MinosはAtheniansとの戦いの後で、Aegina島にCretansを入植させた。[92]
Cretansの入植によって、Aegina島に住んでいたAeacusの息子たちは、島を出て移住した。[93]
Trojan War時代、CretansはSalamis島へも居住地を広げて、Telamonの後裔は、Attica地方に住んだ。[94]

10.6.3 Ceosとの戦い
BC1264年、MinosはCeos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[95]
Dexitheaは、Hypseusの娘Cyreneの子AristaeusがCeos島に残した子供たちの子孫と思われる。[96]

10.6.4 Boeotiaへの移住
BC1264年、Minosの兄弟Rhadamanthysは、Boeotia地方のOnchestusの町へ移住した。[97]
Onchestusの町は、Megaraの町のPandionの子Nisusに加勢して戦死したHippomenesの子Megareusが領していた。[98]

10.7 Athenからの移住
BC1262年、Carmanorと彼の息子Eubulusは、Crete島西南部のTarrhaの町へ移住した。[99]
Carmanorは、第8代Athens王Pandionの息子であり、Carmanorは、義兄弟Aegeusに追放されたと推定される。
BC1251年、Carmanorの娘Chrysothemisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会に参加して勝利した。[100]

10.8 Minosの死
TheseusとPhaedraが結婚したとき、Crete島の支配者はDeucalionであったことから、MinosはBC1245年頃に死んだと推定される。[101]
Herodotusは、Minosの死から2世代後にTrojan Warがあったと伝えているので、概ね合致する。[102]
Minosの死後、Crete島には強力な指導者が現れず、内戦が続いたと推定される。
海岸近くに住んでいた人々は、より堅固な町を内陸の高地に造った。[103]
Sicyonの町のCleiniasの子Aratusは、Boeotia, Phocis, Acarnaniaと並び、Crete島には数多くの攻めがたい山々があると述べている。[104]

11 Minosの子Deucalionの時代
11.1 結婚による同盟
Minosの跡を継いだDeucalionは、Athensの町と同盟を結ぶために、彼の姉妹PhaedraをAegeusの子Theseusに嫁がせたと伝えられている。[105]
また、同じ頃、Peloponnesusの2つの町にDeucalionの2人の姪たちが嫁いでいる。

11.2 Athensへの嫁入り
BC1241年、Minosの娘Phaedraは、Athensの町に住むAegeusの子Theseusのもとへ嫁いだ。[106]
Phaedraと共に、Minosの娘Ariadneの子Ceramusは、Naxos島からAthensの町へ移住して、Cerameicus区の名祖になった。[107]
Ceramusと共に、多くの陶工たちがCrete島から移住し、Ceramicus区は、Potters Quarter(陶工たちの区)になった。[108]

11.3 Cleonaeへの嫁入り
BC1235年、Minosの子Catreusの娘Aerope(or Eriphyle)は、Cleonaeの町に住むAtreusの子Pleisthenes (or Plisthenes)のもとへ嫁いだ。[109]
当時、Argolis地方のCleonaeの町から約10km離れたPhliusの町にはPhliasusが住んでいた。
Phliasusは、Minosの娘Ariadneの息子であり、Aeropeは彼のいとこであった。[110]
PleisthenesとAeropeの遠距離婚は、Phliasusが仲介したと推定される。

11.4 Naupliaへの嫁入り
BC1234年、Minosの子Catreusの娘Clymeneは、Argolis地方のNaupliaの町に住むClytonaeusの子Naupliusのもとへ嫁いだ。[111]

11.5 Creteの戦乱
BC1230年、Crete島内で新たな町の創建や、各地への大規模な移住があった。
これ以前の婚姻関係などから推測して、Crete島内で戦乱があったと推定される。

11.5.1 Messapiaへの移住
BC1230年、Daedalusの子Iapyxが率いる移民団は、Italy半島東南部のMessapia地方に入植した。[112]
Iapyxが入植したHyriaの町の近くを流れる川はIapyx川、地方はIapygia地方、岬はIapygian Cape、住民はIapygians(or Iapyges)と呼ばれた。[113]

11.5.2 Apuliaへの移住
BC1230年、Minosの子Cleolausが率いる移民団は、Italy半島東南部Apulia地方に入植した。Cleolausは自分の部族を息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばせた。[114]
Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Aetoliansを率いてApulia地方へ来たTydeusの子Diomedesと結婚した。[115]

11.5.3 Macedoniaへの移住
BC1230年、Bottonが率いる移民団は、Adriatic Seaに入ると、Iapyxが率いる移民団と別れて、陸路でMacedonia地方へ移住した。[116]
Bottonの入植地は、Thermaic Gulfへ注ぐ、Axius川の西方、Haliacmon川の北方の土地であった。[117]
後のPellaの町の少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusが75年前に創建したEuropusの町があった。[118]
Bottonの移民団には、Aegeusの時代にAthensの町からCrete島に送られたAtheniansの子孫が含まれていた。[119]
また、Europusの町の住人には、Oreithyiaの嫁入りに伴って、Athensの町から移住した人々の子孫がいた。
Bottonは、Europusの母Oreithyiaの父Cecropsの子Pandionの娘Merope(or Alcippe)の子Daedalusの息子であった。[120]
つまり、Europusは、Bottonの祖母の従兄妹であった。
Bottonと共に旅をしていた人々は、異郷の地で、言葉の通じる住人に出会って驚いたと思われる。

11.5.4 Asia Minorへの移住
BC1230年、Rhadamanthysの子ErythrusはCrete島から移民団を率いて、Chios島の対岸へ移住してErythraeの町を創建した。[121]
Erythraeの町には、Cretansに友好的なCariansや、少し前に、Minosに追い出されて、Sarpedonと共へ移住して、Lyciansと呼ばれていた人々が共住した。[122]

11.5.5 Rhodesへの移住
BC1230年、Minosの子Catreusの子供たち、AlthaemenesとApemosyneは、Crete島からRhodes島へ移住した。[123]
Althaemenesは、Rhodes島内で一番高いAtabyris山にZeusの祭壇を設けた。[124]
Althaemenesの定住地は、Cameirusの町であった。[125]

11.5.6 Libyaへの移住
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Amphithemisは、Crete島のTarrhaの町からLibyaへ移住した。[126]

11.5.7 Oaxosの創建
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Oaxosは、Tarrhaの町からIda山の近くへ移住して、Oaxosの町を創建した。[127]
BC7世紀初頭、Oaxosの町は、Etearchusが支配していた。Etearchusの娘Phronimeは、Thera島のPolymnestusのもとへ嫁ぎ、息子Battusが生まれた。[128]
BC630年、Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaに渡り、Cyreneを創建した。[129]
Battusは、神託によって、LibyaにCyreneを創建したと伝えられている。[130]
しかし、Acacallisの子AmphithemisがLibyaへ移住した後で、Oaxosの町とLibyaの間に交流があったと推定される。

11.5.8 Elyrusの創建
BC1230年、Minosの娘Acacallisの2人の息子たち、PhylacidesとPhilanderは、Tarrhaの町の近くにElyrusの町を創建した。[131]

11.5.9 Aeginaへの移住
BC1205年、Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、Crete島からAegina島へ移住した。[132]
AD3世紀の著述家Antoninus Liberalisは、Britomartisが漁師Andromedesの船でAegina島に到着したと伝えているが、AndromedesはBritomartisの夫と思われる。[133]
Aegina島にAphaeaの神域があるが、Aphaeaとは、神格化されたBritomartisの名称であった。[134]
Britomartisの移住も、Crete島内での戦乱が原因と思われる。

11.5.10 Asia Minorへの移住
BC1213年、Heraclesの子TlepolemusはTirynthiansを率いて、Argolis地方からRhodes島へ移住した。[135]
この時、Tirynthiansの中には、Eurystheusの一族であるLebesも含まれていた。Lebesは、Tlepolemusと共にRhodes島まで行かずに、Crete島に定住した。[136]
LebesはMycenaeanであった。[137]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、Crete島からAsia Minorへ渡ってColophonの町を創建した。[138]
Rhaciusは、Tiresiasの娘MantoからEpigoniに攻められてThebesの町が陥落した話を聞いて涙を流した。LebesはMycenaeanであり、Sthenelusの子Iphitusの息子と推定される。[139]
Iphitusの姉妹Astymedusaは、Thebesの町のLaiusの子Oedipusに嫁いでいた。[140]

12 Trojan War時代
伝承には、次のように記されている。
Minosの子Deucalionの子Idomeneusと、Minosの子Molusの子Merionesは、Cretansを率いて、Troy遠征に参加した。[141]
Idomeneusには、Dictysが同行して、"Journal of the Trojan War"をPhoenician languageで記録した。[142]
その記録は、Homerも書き写したと伝えられている。[143]
Dictysは、Laertesの子Odysseusを通して情報を得たと記している。[144]
Troy陥落後、IdomeneusとMerionesは、無事にCnossusの町に帰還した。[145]
その後、Crete島では、飢饉と疫病により、多くの人々が死に、少しの住人が生き残った。[146]
しかし、Minosの死後の内戦の時代に、Minosの孫たちが遠征隊を率いて、Crete島を離れることができたとは思われず、彼らのTroy遠征は作り話と思われる。

13 Trojan Warより後の時代
13.1 Argosからの移住
BC1070年、Temenusの子Ceisusの子Althaemenesは、Argosの町からDoriansとPelasgiansを率いてCrete島へ植民した。[147]
彼らの移住の原因は、Peloponnesosに発生した飢饉であった。[148]
Althaemenesの移民団には、Megaraの町に住んでいたDoriansも参加していた。[149]
BC4世紀の歴史家Ephorusは、Althaemenesが率いたDoriansがCrete島に10市を建設したと伝えている。[150]
PolisとDelphosが率いる移民団はGortynの町を攻略して、先住民と共住した。[151]
Gortynの町は、BC1450年にArcadia地方のTegeaの町から移住したTegeatesの子Gortysによって創建された町であった。[152]
PolisとDelphosが率いたのは、Amyclaeの町に住んでいたPhilonomusの後裔のMinyansであった。[153]
DoriansやMinyansのCrete島移住は、さらなる内戦を招いたと推定される。

13.2 内戦の終息
BC750年、Sparta王Teleclusの子Alcamenesは、Euthysの子CharmidasをCrete島へ派遣して内戦を終息させた。[154]
Charmidasは、それまで海から離れて町を作っていた人々を海岸の近くへ移住させて、町を作らせた。

13.3 Sicilyへの移住
BC688年、Cratonの子EntimusはCretansを率いて、Sicily島南東部へ移住してGelaの町を創建した。[155]
Rhodes島からLindiansを率いたAntiphemusは、Entimusに協力した。[156]
Gelaの僭主Geloの先祖DeinomenesもRhodes島のLindusの町からGelaの町の創建に参加した。[157]
Gelaの町の創建は、Syracuseの町の創建から45年目であった。[158]

13.4 Theraへの嫁入り
BC671年、Etearchusの娘Phronimeは、Thera島に住むPolymnestusのもとへ嫁いだ。[159]
Oaxosの町に住むEtearchusは、Oaxosの町の創建者、Acacallisの子Oaxosの後裔と思われる。[160]
PolymnestusとPhronimeの息子Battusは、Thera島から植民団を率いてLibyaに渡り、Cyreneを創建した。[161]

おわり