第19章 アッティカ地方の青銅器時代の歴史

home English
Create:2023.6.30, Update:2025.5.8

1 はじめに
BC1750年、大洪水によって居住地を追われた人々は、Parnassus山北麓のCephisus川の上流から下流に逃れ、Boeotia地方に定住した。[1]
このときBoeotia地方を越えてAttica地方に定住した人々もいた。
初代Athens王Cecropsが現れる前、Attica地方南東のMyrrinousの町には、Colaenusが住み、Athensの町の北東のAthmoneisの町には、Actaeusが住んでいた。[2]
しかし、それより遥かに昔からAttica地方の南東端Sunium岬近くのLaurionには、銅を採掘する人々が定住していた。[3]
Strabonは、Attica地方の南東端Sunium岬からTemmicesがBoeotia地方へ移動して来たと伝えている。[4]
Temmicesは、Boeotia地方に最初に定住した部族であった。[5]
この章では、Anaphlystus、Aphidna、Brauron、Eleusis、Eleutherae、Marathon、Megara、Melite、Oenoe、Sphettus、Tricorythus、Thoricusについて記述している。

2 Anaphlystusの歴史
BC1262年、Troezenの子Anaphlystusは、Troezenの町からAttica地方へ移住して、Anaphlystusの町を創建した。[6]
Minosとの戦いの後で、AegeusがTroezenの町に亡命した。Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町への帰還に成功した。[7]
Anaphlystusは、Theseusが1つにまとめた12の町の名前にない。[8]
Straboは、11の町の名前しか記していないが、もう1つは、Anaphlystusの町と思われる。

3 Aphidnaの歴史
Aphidnaの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[9]
BC1210年、Theseusは、Aphareusの子IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaの町に匿った。[10]
その後、DioscuriがAphidnaの町へ来て、彼らの妹HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[11]
BC11世紀からBC6世紀までの間に、Euboea島のEretriaの町からGephyraeansがAphidnaの町へ移住して来た。[12]
BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusとAristogeitonは、Aphidnaの町出身のGephyraeansであった。[13]

4 Brauronの歴史
Brauronの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[14]

4.1 Megaraからの移住
BC1173年、Ajaxの子Philaeusは、Megaraの町からBrauronの町へ移住した。[15]
Philaeusの妻、Agamemnonの娘Iphigeniaは、Brauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[16]
Philaeusは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[17]

4.2 IphigeniaとOrestesの伝承
Brauronの町には、Pausaniasも実際に見たArtemis神像があった。その神像は、IphigeniaがTauric landから持ち帰ったものだと伝えられていた。[18]
その伝承を作ったのは、BC7世紀以降、黒海地方へ進出したMegariansであったと思われる。また、その伝承の舞台は、the Tauric Chersonese (現在のCrimea)ではなく、本土であるTauric Scythiaと思われる。[19]
Tauric landの支配者Thoasの父は、Borysthenes (現在のDnieper)川だと伝えられているからである。[20]

4.3 Pelasgiansによる略奪
BC1115年、Lemnos島に住むPelasgiansが、Brauronの町の乙女たちを略奪した。[21]
それ以前に、Pelasgiansは、Athensの町の城壁を築き、土地の開墾に尽力したが、Atheniansに嫉妬されて追放されていた。略奪は、自分たちに対するAtheniansの行為を恨んでの犯行であった。[22]
この事件の後、Atheniansは、Lemnos島のPelasgiansをSinties (or Sinti)と呼んだ。[23]
BC3世紀のAthensの歴史家Philochorusによれば、Sintiesとは「害を与える人々」の意味だという。[24]

5 Eleusisの歴史
5.1 初期の居住者
Saronic Gulfに注ぐCephisus川の河口付近に初めて住んだGreeksはOgygus、あるいは、彼の息子Eleusisであった。BC1750年のOgygus時代の大洪水で、Parnassus山の北を流れるCephisus川流域に住んでいた人々が居住地を追われて南へ移動した。彼らは、Eleusisの町やAthensの町を流れて海へ注ぐ川の近くに住み着き、その川を故郷のCephisus川と同じ呼び名で呼んだ。[25]

5.2 Argosからの移住
BC1720年、Phoroneusの子CarがArgosの町からEleusisの西側のMegara地方へ移住した。[26]
BC1580年、Argosの町のHera神殿の巫女Callithyiaの息子で、密儀祭司のTrochilusが、Argosの町からEleusisの町へ移住した。彼は、EleusisにHera神殿で行われていた祭儀を持ち込んだ。[27]
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erechtheus (or Erichthonius)がEgyptからAthensの町へ移住して来た。[28]
Erechtheusは、Egyptから大麦(barley)の種子をもたらし、EleusisのRharium平原にその種子が播かれた。[29]
Egyptでは女神Isisが、人々に穀物栽培をもたらしたと伝えられ、Greeceでは、女神Demeterがそれをもたらしたという伝承が生まれた。[30]
Pausaniasは、Phoroneusの子CarがMegara地方に初めてDemeterの神域を造営したと伝えており、Demeterは、古くから信奉されていた。[31]
Eleusisの町で祭儀を執り行ったのは、Cranausの子Rharusの子Celeusであった。
RharusはErechtheusと共にEgyptから移住して来た。CeleusとErechtheusは、Cranausの孫であり、従兄弟同士であった。[32]
Cranausの息子について記している古代の史料は残っていなかった。
18世紀の英国の大科学者Isaac Newtonのみが、Cranausの子Rharusの系譜を伝えている。[33]
Rharusは、EleusisのRharium平原に名前を与えた。[34]

5.3 Eumolpusの侵入
BC1415年、EumolpusがAttica地方に攻め込み、AtheniansはBoeotia地方のTanagraの町近くへ避難した。[35]
Xuthusの子IonがAtheniansの推挙を受けてpolemarchosになり、Eumolpusと戦って休戦に持ち込んだ。その後、EumolpusはEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢であったと推定される。[36]

5.4 Eumolpusの素性
Eumolpusは、つぎの2つの理由により、BC1560年にArgosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔であったと推定される。[37]
1) BC1352年、Eumolpusの子ImmaradusがErechtheusと戦ったときに、Scirusは、DodonaからImmaradusの応援に駆け付けた。
当時、Dodonaには、Argosの町からThessaly地方へ移住したPelasgusの娘Larissaの後裔が住んでいた。Scirusもその一人であったと推定される。[38]
2) 当時、Eleusisの町には、Argosの町から移住したTrochilusの後裔が住んでいて、祭儀を執り行っていた。[39]
Larissa、Scirus、Trochilusは、Argosの町から移住したPelasgiansであった。
EumolpusがEleusisの町に来る前の居住地は、Dodona、あるいは、Thessaly地方のScotussaの町であったと推定される。[40]
PelasgiansとDodonaには、つぎのような関係があった。
1) BC1480年、Larissaの子Pelasgusの子Haemonの子Thessalusは、Scotussaの町からDodonaに神託所を移し、神殿を建立した。[41]
2) BC1390年、Thessaly地方を追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺へ移住した。[42]

5.5 Eumolpusの侵入の動機
Eleusisの町では、Argosの町から移住したPelasgiansが、Heraの祭儀を執り行っていた。Erechtheusと共にEgyptから移住して来たRharusが新たな祭儀を持ち込み、Rharusの子CeleusがEleusiniansを支配した。
祭儀の執行をめぐって、PelasgiansとCeleusを支持するAtheniansとの間に争いが生じて、EleusiniansがThessaly地方に住むPelasgiansに加勢を依頼したものと推定される。
Trochilusは、Triopasの子Agenorとの争いが原因で、Argosの町を去っているため、Eleusiniansは、Argosの町に助けを求めることができなかった。Eleusisの町のPelasgiansは、Agenorの兄弟Pelasgusの娘Larissaの後裔に応援を要請したのだと思われる。[43]

5.6 Argolisへの移住
Pausaniasは、Xuthusの子IonがCeleusの兄弟Dysaulesを追放したと伝えている。[44]
しかし、CeleusやDysaulesは、Eumolpusが現れる以前からEleusisの町で祭儀を執り行っていた。恐らく、Dysaulesは、自発的に町を去ったものと推定される。
BC1415年、Celeusの弟Dysaulesは、Argolis地方へ移住して、Phliusの町の近くに住み着いて密儀を定め、町の名前をCeleaeにした。Celeusは、Dysaulesの死んだ兄の名前であった。[45]

5.7 Triptolemusの旅
5.7.1 Achaiaへの旅
Celeusの子Triptolemusは、Dysaulesが住み着いたCeleaeの町より遠方へ旅をした。
Triptolemusは、Achaia地方のRion岬の南西の地に住んでいたEumelusに穀物の栽培方法や町を作る方法を教えた。EumelusはAroe (後のPatrae)の町を創建した。[46]
さらに、TriptolemusとEumelusは共同でAntheiaの町を創建した。[47]
Aroeの町には、Belusの子Aegyptusの墓があった。また、Aroeの町の南のPeirus川中流域にあるPharaeの町の創建者は、Aegyptusの兄弟Danausの娘Phylodameiaの子Pharesであった。EumelusとTriptolemusとは、年代的に矛盾がないことから、Eumelusは、Aegyptusの息子であり、Phylodameiaの夫であったと推定される。[48]
Eumelusは、Cranausの娘の子Tithonusの娘Iodamaの娘Thebeの息子であった。[49]
Triptolemusは、Cranausの子Rharusの子Celeusの息子であった。[50]
つまり、EumelusとTriptolemusとは、第2代Athens王Cranausを共通の先祖とする同族であった。

5.7.2 Arcadiaへの旅
Triptolemusは、Arcadia地方のCallistoの子Arcasにも穀物の栽培方法を教えた。[51]
後に、Arcasは、Triptolemusの子Croconの娘Meganiraを妻に迎えた。[52]
Croconは、Eleusiniansとして、初めてAthensの町との境であるRheiti川を東に越えて居住した。[53]

5.8 Thraciaへの移住
BC1390年、Crete島の北方約110kmにあるThera島 (現在のSantorini島)の火山活動で発生したAegean Seaの大津波は、Eleusisの町にも被害を与えた。
Megara地方の人々が、Gerania山へ避難したときであった。[54]
Eumolpusの子Ceryxは、Athensの町から新天地を求める旅に出ようとしていたButesの子Boreasの移民団に参加して、Thracia地方に入植した。[55]
CeryxはBoreasの娘Chioneと結婚して、息子Eumolpusが生まれた。[56]

5.9 Immaradusの戦い
BC1352年、Eleusisの町のEumolpusの子Immaradusは、Athensの町のPandionの子Erechtheusと戦って、戦死した。[57]
この戦いは、Eleusisの祭儀をめぐる、EleusiniansとAtheniansとの間の争いが原因であった。戦いは、Eleusisの町が優勢のうちに終わり、密儀の執行はEleusisが独自に行うことで決着した。[58]
この戦いには、Eleusisの町に2つの方面から援軍が駆け付けた。
1つは、DodonaのScirus率いるPelasgiansであった。[59]
BC1390年に、Thessaly地方に住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて、大部分がDodona周辺に移住していた。[60]
Scirusは、Athensの町の外港PhalerumにAthena Scirasの神域を造営した。その付近で、彼が戦死すると、川のほとりに葬られた。川は、彼の名に因んでScirus川と呼ばれるようになった。[61]
もう1つの援軍は、Chioneの子Eumolpus率いるThraciansであった。[62]
Eumolpusの子Immaradusの死後、Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承したが、いずれも高齢であった。彼らの跡を、Immaradusの弟CeryxがThracia地方から呼び戻されて継承し、Ceryxの跡を息子Eumolpusが継承した。[63]

5.10 Thraciaからの移住
BC1350年、Immaradusの父Eumolpusが死に、Immaradusの兄弟CeryxがThracia地方からEleusisの町へ移住して祭儀を継承した。[64]

5.11 Thraciaからの移住
BC1315年、Chioneの子Eumolpusは、祭儀を継承するため、Thracia地方からEleusisの町へ移住した。[65]
Eleusisの町にChioneの子Eumolpusの墓があった。[66]

6 Eleutheraeの歴史
6.1 Eleutheraeの創建
BC1370年、Megassaresの娘Aethusaの子Eleutherは、Hysiaeの町からCithaeron山を南に越えて、南南東へ約6kmの所にEleutheraeの町を創建した。[67]

6.2 Hyriaからの嫁入り
BC1366年、Nycteusの娘Antiopeは、Hyriaの町からCithaeron山を越えたEleutheraeの町のEleutherのもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、AmphionとZethusが生まれた。
伝承では、Antiopeが、Sicyonの町のEpopeusのもとからThebesの町へ連れ戻される途中で、息子たちをEleutheraeの町で出産したことになっている。
この伝承で、唯一真実と思われるのは、AmphionとZethusがEleutheraeの町で生まれたということである。当時、Eleutheraeの町は建設されたばかりで、その町の創建者Eleutherが住んでいた。AntiopeとEleutheraeの町の創建者Eleutherは、年代的に夫婦として妥当であり、Eleutherが双子の父親と推定される。[68]
Antiopeは、彼女の父Nycteusの従兄弟と結婚したことになる。[69]

6.3 Eutresisの建設
BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からCithaeron山を北へ越えて、Thebesの町から西南西約14kmの所に移住して、Eutresisの町を創建した。[70]

6.4 Plataeaの建設
BC1295年、Damasistratusは、Eleutheraeの町からCithaeron山を北へ越えて、Thebesの町から南南西約13kmの所に移住して、Plataeaの町を創建した。[71]
Damasistratusは、Tanagraの町の創建者Poemanderの父Chaeresilausの弟と推定される。

6.5 Tanagraの創建
BC1270年、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderは、Eleutheraeの町からBoeotia地方東部へ移住してTanagraの町を創建した。[72]

6.6 AdrastusのThebes攻め
BC1215年、Adrastus率いるArgivesのThebes攻めがあった。戦死したArgivesの遺体は、Thebesの町からEleutheraeの町へ運ばれて、埋葬された。[73]
既にこの頃からEleutheraeの町は、Thebesの町よりもAthensの町に好意を寄せていた。[74]

6.7 Atticaへの加入
Eleutheraeの町は、創建時からBoeotia地方に関係が深かったが、Thebesの町との関係が悪化して、Attica地方に加入した。[75]
これにより、Attica地方とBoeotia地方の境は、Eleutheraeの町とOenoeの町との間ではなく、Cithaeron山になった。

7 Marathonの歴史
7.1 Marathonの創建
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Marathonの町を建設した。[76]
Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[77]

7.2 Sicyonからの移住
BC1352年、Epopeusの子Marathonは、Sicyonの町からMarathonの町へ移住して来た。[78]
Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚した。[79]
Marathonは、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの息子であった。[80]
Marathonより前に、Athens王家とDeucalionの後裔には、つぎのような結婚があった。
1) 第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚した。
2) 第4代Athens王Erichthoniusの娘は、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚した。[81]
MarathonとErechtheusの娘との結婚は、Athensの町とEleusisの町との戦いにMarathonが加勢したことが縁であったと推定される。

7.3 SicyonやCorinthへの移住
BC1321年、Aloeusの子Epopeusが死に、Epopeusの子Marathonが跡を継いだ。Marathonは2人の息子たち、SicyonとCorinthusにそれぞれ、AsopiaとEphyraeaを与えた。AsopiaとEphyraeaはそれぞれ、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[82]

8 Megaraの歴史
8.1 Argosからの移住
BC1725年、Phoroneusの子Carは、Argosの町からMegara地方へ移住した。[83]
Pausaniasの時代、Carの墓は、Megaraの町からCorinthの町へ向かう街道沿いにあった。[84]

8.2 Argosからの移住
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Crotopusは、Megara地方のGeraneia山麓へ移住して、Tripodiskionの町を創建した。[85]

8.3 Egyptからの移住
BC1430年、Libyaの子Lelexは、Laconia地方に息子たちを入植させた後で、Megara地方に定住した。[86]
Lelexは、CrotopusのいとこIoの子Epaphusの娘Libyaの息子であった。
つまり、LelexがMegara地方へ移住したのは、偶然ではなかった。

8.3.1 Megaraの伝承
Pausaniasは、LelexがPhoroneusの子Carの12世代後だというMegaraの伝承を記している。[87]
しかし、Lelexは、Carの姉妹Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusの娘Ioの子Epaphusの娘Libyaの息子であった。つまり、Lelexは、Carの9世代後の人物であった。

8.3.2 Leleges
Lelexが入植した後で、Megara地方の人々は、Lelegesと呼ばれた。[88]
Lelegesは、Laconia地方の最初の住人の呼び名と同じであった。[89]
また、Acarnania地方西部にTeleboansと共に住んでいたLelegesもLaconia地方から移住した人々であった。[90]

8.3.3 Lelexの後裔
Pausaniasは、Lelexの息子をCleson、Clesonの息子をPylas、Pylasの息子をSciron、Scironは第8代Athens王Pandionの娘と結婚したと伝えている。[91]
系図を作成すると、LelexとPylasの生年差は、125年であり、1世代の間が、62年になり、妥当ではない。恐らく、Clesonの父は、Lelexではなく、LelexとClesonの間には、3世代の欠落があったと推定される。
つまり、Megaraの伝承は正しかったが、PausaniasがClesonをLelexの息子だと間違って認識していた。

8.4 Thraciaからの移住
BC1420年、Tereusは、Thracia地方からPhocis地方のDaulis付近へ移住した。[92]
BC1418年、Tereusは、Megara地方のPagaeへ移住した。[93]
Tereusは、Athens王Pandionの娘Procneを妻に迎えた。[94]
Tereusの墓は、Megaraの町にあった。[95]

8.5 Athensからの移住
8.5.1 Pandionの移住
BC1318年、Cecropsの子Pandionは、Megaraの町のClesonの子Pylasのもとへ移住して、彼の娘Pyliaと結婚した。[96]
これより前に、Pandionは、父や兄弟たちと共に、Athensの町から追放されていた。[97]

8.5.2 Pylasの移住
Pausaniasは、Clesonの子PylasがLelegesを率いて、Megaraの町からMessenia地方へ移住して、Pylusの町を創建したと伝えている。[98]
また、Apollodrosも、Pylasが娘婿Pandionに王国を与えて、移住したと伝えている。[99]
しかし、PylasにはScironという息子がいた。[100]
この伝承は、Pylasの名前がEleia地方やMessenia地方にあるPylusの町の名前に似ていることから生まれた作り話と思われる。[101]

8.6 Athensへの移住
BC1312年、Cecropsの子Pandionは、Megaraの町からAthensの町へ帰還した。[102]

8.7 Athensからの移住
BC1295年、Cecropsの子Pandionは、Metionの息子たちに追われて、Athensの町からMegaraの町へ移住した。[103]

8.8 Megaraの継承権争い
BC1287年、Cecropsの子Pandionが死去した。Pandionの子NisusとPylasの子Scironの間にMegaraの町の継承をめぐる争いが起き、Aegina島のAeacusが仲裁した。[104]
Aeacusの妻の父Scyriusは、Athens王Aegeusの実父であった。[105]
つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。Aegeusは、義兄弟同士の争いをAeacusに仲裁させた。Aeacusは、Aegeusの義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であった。[106]
Aeacusの仲裁により、Pandionの子Nisusが、Megaraの町を継承した。[107]

8.9 Athensへの移住
BC1285年、Aegeusは、Megaraの町からAthensの町へ帰還して、Metionの息子たちを追放した。[108]

8.10 Pisaからの移住
BC1287年、Pelopsの子Alcathousは、内紛が発生したPisaの町を逃れて、Megaraの町へ移住した。[109]
Alcathousは、Pylasの子Scironの娘Pyrgoと結婚した。[110]

8.11 Minosとの戦い
BC1264年、Aegeusは、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されて、Megaraの町のNisusのもとへ逃れた。[111]
Pallasの息子たちと友好関係にあったCrete島のMinosは、Megaraの町を攻撃した。[112]
Megara王Nisusは戦死して、Minosが勝利した。Aegeusは、Troezenの町のPelopsの子Pittheusのもとへ亡命した。[113]

8.12 Argosからの移住
BC1247年、Argosの町で内紛が発生して、Amythaonの子Melampusは、彼の孫Coeranusと共に、Megara地方へ移住した。[114]
このとき、Idmonの子Thestorも、彼らに連れられてMegaraの町へ移住した。[115]
Melampusは、Thestorの曽祖父であり、Coeranusは、父方の伯父であった。

8.13 Salamisへの嫁入り
BC1240年、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)は、Salamis島のAeacusの子Telamonのもとへ嫁入りした。[116]
この結婚は、Periboeaの母方とTelamonの母方が共にAthens王家に繋がっていたために可能になったと思われる。

8.14 Salamisからの移住
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraの町へ移住し、Alcathousの跡を継いだ。[117]
Ajaxは、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)の息子であり、Alcathousの孫であった。[118]
Ajaxは、Elatusの子Caeneusの後裔Lysidiceと結婚し、息子Philaeusが生まれた。[119]
Caeneusは、Thessaly地方のLapithsであったが、Ajaxの祖父AeacusもThessaly地方のPhthiaの町の出身であった。[120]

8.15 Alcmenaの死
BC1214年、Electryonの娘Alcmenaは、Heracleidaeと共にPeloponnesusからTricorythusへ行く途中、Megaraで死んだ。[121]

8.16 Hyllusの死
BC1211年、Heraclesの子Hyllusは、Isthmusで、Peloponnesus軍と戦って、戦死した。[122]
Hyllusの墓は、Megaraにあった。[123]

8.17 Adrastusの死
BC1205年、Talausの子Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[124]

8.18 Mycenaeからの嫁入り
BC1190年、Ajaxの子Philaeusは、Mycenaeの町からAgamemnonの娘Iphigeniaを妻に迎えた。
次のことから、Philaeusの妻は、Iphigeniaであったと思われる。
1) Pausaniasは、Megaraの町にIphigeniaの英雄廟があり、IphigeniaはMegaraの町で死んだと伝えている。[125]
2) PhilaeusはBrauronの町に住み、IphigeniaはBrauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[126]
3) Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王になった。[127]

8.19 Trojan War
BC1188年、Antenorの息子たちが、Priamの息子たちを追放して、Iliumの町を占領した。Priamの息子たちは、Hellespontの利用を通して友好関係にあったAchaeansに援軍を要請した。
Achaeansは、Peleusの子Achillesを総大将にしてTroy遠征軍を編成した。
Megaraの町から次の参加者たちがいた。

8.19.1 Telamonの子Ajax
Telamonの子Ajaxは、Achillesの従兄弟であり、Achillesの遠征に参加したと思われる。
BC1186年、Ilium攻めの総大将であるPriamの子Hectorや、Achilles、Ajaxが戦死して、Achaeansは、Ilium奪還を断念した。
Ajaxは、Iliumの町の近くのRhoeteiumに葬られた。[128]

8.19.2 Thestorの子Calchas
Thestorの子Calchasは、Telamonの子Ajaxと共にTroy遠征に参加した。[129]
Calchasは、Iliumの町からPamphylia地方へ逃れて、Selgeの町を創建した。[130]

8.20 Mycenaeからの移住
BC1173年、Hyllusの子Cleodaeus率いるDoriansがPeloponnesusへ侵入して、Mycenaeの町を破壊した。Agamemnonの子Hyperionは、Mycenaeの町からMegaraの町へ移住した。[131]

8.21 Atticaへの移住
BC1173年、Ajaxの息子たち、PhilaeusとEurysacesは、Megaraの町からAttica地方のBrauronの町とMeliteの町へ移住した。[132]
Eurysacesの聖域がMeliteの町にあったことから、EurysacesはMeliteの町へ、PhilaeusはBrauronの町に定住したと思われる。[133]
PhilaeusとEurysacesは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[134]

8.22 王制の廃止
BC1160年、Hyperionは、横暴に振舞ったため、Sandionに殺されて、Megaraの町の王制は廃止された。[135]

9 Meliteの歴史
BC1173年、Ajaxの子Eurysacesは、Megaraの町からMeliteの町へ移住した。[136]
Eurysacesの聖域がMeliteの町にあった。[137]
Eurysacesは、Agamemnonの子Hyperionによって、Megaraの町から追放されたと推定される。[138]

10 Oenoeの歴史
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Oenoeの町を建設した。[139]
Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[140]
BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入したとき、Oenoeの町の住人は、Saronic Gulfの島 (後のAegina)へ移住した。[141]
彼らの入植の後で、島の名前は、Oenoeになった。[142]

11 Sphettusの歴史
BC1262年、Troezenの子Sphettusは、Troezenの町からAttica地方に移住して、Sphettusの町を創建した。[143]
Minosとの戦いの後で、Aegeusは、Troezenの町へ亡命した。その後、Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町へ帰還した。[144]
Sphettusの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[145]

12 Tricorythusの歴史
12.1 Tricorythus (or Tricorynthus)の創建
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Tricorythusの町を建設した。[146]
Tetrapolisは、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[147]

12.2 Trachisからの移住
BC1218年、Heracleidaeは、Trachisの町からTricorythusの町へ移住した。[148]
Heracleidaeの保護者Iolausの妹Iopeは、Athens王Theseusの妻であり、Iolausの義兄弟TheseusがHeracleidaeを受け入れた。[149]

12.3 Eurystheusとの戦い
BC1217年、Mycenae王Eurystheusは、Tricorythusの町に住んでいたHeracleidaeを攻めたが、Iolausに討ち取られた。Eurystheusの遺体はGargettusの町に、彼の首はTricorythusの町のMacariaの泉の近くに埋葬された。[150]
つまり、EurystheusとHeracleidaeは、Gargettusの町で戦い、HeracleidaeはEurystheusの首だけをTricorythusの町へ持ち帰った。

12.4 Dorisへの移住
BC1211年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeは、Peloponnesusへの侵入に失敗し、Tricorythusの町からDoris地方へ移住した。[151]
その時、AntiochusとMacariaは、Doris地方へ行かなかった。

12.4.1 Heraclesの子Antiochus
HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusは、Athensの名祖の一人になった。[152]

12.4.2 Heraclesの娘Macaria
HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonと結婚して、息子Oxyntesが生まれた。[153]

13 Thoricusの歴史
Cecropsの子Pandionは、第8代Athens王に即位する前、Thoricusの町に住んでいた。[154]
BC1279年、Deioneusの子Cephalusは、Aegeusに追われて、Thoricusの町からThebesの町へ亡命した。[155]
BC1277年、Cephalusは、Alcaeusの子Amphitryonと共に、ギリシア北西部のTeleboansの地へ遠征した。Cephalusは、Acarnania地方西部のIonian Seaで最大の島に定住した。[156]
その島は、Cephalleniaと呼ばれるようになった。[157]
Cephalusの父Deioneus (or Deion)は、第8代Athens王Pandionの別名であった。[158]
Thoricusの町は、Theseusが1つにまとめた12の町の中の1つであった。[159]

おわり