1 はじめに
BC1750年、大洪水によって居住地を追われた人々は、Parnassus山北麓のCephisus川の上流から下流に逃れ、Boeotia地方に定住した。[1]
このときBoeotia地方を越えてAttica地方に定住した人々もいた。
初代Athens王Cecropsが現れる前、Attica地方南東のMyrrinousの町には、Colaenusが住み、Athensの町の北東のAthmoneisの町には、Actaeusが住んでいた。[2]
しかし、それより遥かに昔からAttica地方の南東端Sunium岬近くのLaurionには、銅を採掘する人々が定住していた。[3]
Strabonは、Attica地方の南東端Sunium岬からTemmicesがBoeotia地方へ移動して来たと伝えているが、彼らも古くからの住人のようである。[4]
Strabonは、Temmicesをbarbariansと認識している。しかし、彼らはCephisus川上流域から逃れてAttica地方に先住していた古代Greeksであり、Cecropsが引き連れた移住民によって圧迫されて、Boeotia地方へ戻った人々であったと思われる。[5]
Temmicesは、Boeotia地方に最初に定住した部族であった。[6]
2 Aegina
2.1 Atticaからの移住
Aristotleによれば、Epidaurusの町にはCariansが住んでいた。[7]
したがって、その町の沖に浮かぶAegina島にもCariansが住んでいたと推定される。
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolis(Oenoe, Marathon, Probalinthus, Tricorynthus)を建設した。[8]
BC1415年、EumolpusがAttica地方に侵入したとき、Oenoeの町の住人はAegina島へ移住した。[9]
これにより少し前に発生したAegean Seaの大津波によって島の住人が少なくなっていたと思われ、彼らの入植の後で、島の名前は、Oenoeになった。[10]
2.2 Thessalyからの移住
BC1290年、Actorの子Aeacusは、Thessaly地方のDiaの町からOenoe島へ移住した。[11]
それまでOenoe島に住んでいたOenoeの町からの入植者は、Xuthusの子Ionの後裔に率いられて、Epidaurusの町へ移住した。[12]
Straboは、Heracleidaeと共に遠征したIoniansがEpidaurusの町のCariansと共住したと述べているが、Heracleidaeの帰還の時ではなく、この時の出来事と思われる。[13]
Aeacusは、島の名前を、母の名前に因んで、OenoeからAeginaに変えた。[14]
2.3 Megaraの争いの仲裁
BC1287年、Aeacusは、Megaraの町の継承をめぐるPandionの子NisusとPandionの娘婿Scironとの争いを仲裁した。Scironは、Pandionより前のMegaraの町の支配者Pylasの息子であった。[15]
Aeacusの2人の妻、PsamatheとEndeis(or Endais)の父Scyrius(or Sciron、Chiron、Scirus)は、Pandionの養子Aegeusの実父であった。[16]
つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。恐らく、当時Athens王であったAegeusが、義兄弟同士の争いを義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であったAeacusに仲裁させたものと思われる。[17]
2.4 Creteからの移住
BC1264年、Crete島のMinosとAthensの町との間で戦いがあり、Minosが勝利した。[18]
その後、CretansがAegina島に入植した。[19]
Aegina島に住んでいたAeacus一族は、Cretansによって、次第に圧迫されて、島を去った。Aeacusが死に、息子たちは、それぞれAegina島を去ったものと推定される。
2.4.1 Phocisへの移住
BC1256年、Aeacusの子Phocusは移民団を率いて、Aegina島からPhocis地方北部のNaubolenses (後のDrymaea)の町の近くへ移住した。[20]
その町は、Lynceusの子Abasの子Deucalionの子Lynceusの子Ornytusの子Naubolusによって、少し前に創建されていた。[21]
Phocusの子Crisusは、Naubolusの娘Antiphateiaと結婚した。[22]
2.4.2 Salamisへの移住
BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住した。[23]
Telamonは、Cychreusの娘Glauceと結婚し、Cychreusの跡を継いで、Salamis島を治めた。[24]
Glauceは、Telamonの母Endeisの父Scyriusの子Cychreusの娘であり、Telamonの従兄妹であった。[25]
2.4.3 Phthiaへの移住
BC1256年、Aeacusの子Peleus、Aegina島からThessaly地方のPhthiaの町のActorの子Eurytionのもとへ移住した。[26]
Eurytionは、Peleusの伯父であり、Phthiaの町は、Peleusの父Aeacusの生まれ故郷であった。
2.5 Trojan War時代
BC1188年、Aegina島のAchaeansは、Argivesに率いられてTroyへ遠征したと、Homerは伝えている。[27]
しかし、Heracleidaeの帰還時、Epidaurusの町は、Xuthusの子Ionの後裔によって支配されていたので、違うと思われる。[28]
Homerが記しているAchaeansは、Actorの子Aeacusと共にThessaly地方からAegina島へ移住して来た人々のことであったと推定される。
3 Anaphlystus
BC1262年、Troezenの子Anaphlystusは、Troezenの町からAttica地方へ移住して、Anaphlystusの町を創建した。[29]
Minosとの戦いの後で、AegeusがTroezenの町に亡命した。Aegeusは、Troezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町への帰還に成功した。[30]
4 Aphidna
BC1210年、Theseusは、IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaの町に匿った。[31]
DioscuriがAphidnaの町へ来て、HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[32]
BC11世紀からBC6世紀までの間に、Euboea島のEretriaの町からGephyraeansがAphidnaの町へ移住して来た。[33]
BC514年、Athensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusは、Aphidnaの町出身のGephyraeanであった。[34]
5 Brauron
5.1 Megaraからの移住
BC1187年、Ajaxの子Philaeusは、Megaraの町からBrauronの町へ移住した。[35]
Philaeusの妻で、Agamemnonの娘Iphigeniaは、Brauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[36]
5.2 IphigeniaとOrestesの伝承
Brauronの町には、Pausaniasも実際に見たArtemis神像があった。その神像は、IphigeniaがTauric landから持ち帰ったものだと伝えられていた。[37]
その伝承を作ったのは、BC7世紀以降、黒海地方へ進出したMegariansであったと思われる。また、その伝承の舞台は、the Tauric Chersoneseではなく、本土であるthe Tauric Scythiaと思われる。[38]
Tauric landの支配者Thoasの父は、Borysthenes (now Dnieper)川だと伝えられているからである。[39]
5.3 Pelasgiansによる略奪
BC1115年、Lemnos島に住むPelasgiansが、Brauronの町の乙女たちを略奪した。[40]
それ以前に、Pelasgiansは、Athensの町の城壁を築き、土地の開墾に尽力したが、Atheniansに嫉妬されて追放されていた。略奪は、自分たちに対するAtheniansの行為を恨んでの犯行であった。[41]
この事件の後、Atheniansは、Lemnos島のPelasgiansをSinties (or Sinti)と呼んだ。[42]
BC3世紀のAthensの歴史家Philochorusによれば、「害を与える人々」の意味だという。[43]
6 Eleutherae
6.1 Eleutheraeの創建
BC1370年、Megassaresの娘Aethusaの子Eleutherは、Hysiaeの町からCithaeron山を南に越えて、南南東へ約6kmの所にEleutheraeの町を創建した。[44]
6.2 Hyriaからの嫁入り
BC1366年、Nycteusの娘Antiopeは、Hyriaの町からCithaeron山を越えたEleutheraeの町のEleutherのもとへ嫁ぎ、2人の息子たち、AmphionとZethusが生まれた。
伝承では、Antiopeが、Sicyonの町のEpopeusのもとからThebesの町へ連れ戻される途中で、息子たちをEleutheraeの町で出産したことになっている。
この伝承で、唯一真実と思われるのは、AmphionとZethusがEleutheraeの町で生まれたということである。当時、Eleutheraeの町は建設されたばかりで、その町の創建者Eleutherが住んでいた。AntiopeとEleutheraeの町の創建者Eleutherが年代的に夫婦として妥当であり、双子の父親と推定される。[45]
Antiopeは、彼女の父の従兄弟と結婚したことになる。[46]
6.3 Eutresisの建設
BC1345年、AmphionとZethusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Thebesの町から西南西約14kmの所に移住して、Eutresisの町を創建した。[47]
6.4 Plataeaの建設
BC1295年、Damasistratusは、Eleutheraeの町からMt. Cithaeronを北に越えて、Thebesの町から南南西約13kmの所に移住して、Plataeaの町を創建した。[48]
Damasistratusは、Tanagraの町の創建者Poemanderの父Chaeresilausの弟と推定される。
6.5 Tanagraの創建
BC1270年、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderは、Eleutheraeの町からBoeotia地方東部へ移住してTanagraの町を創建した。[49]
6.6 AdrastusのThebes攻め
BC1215年、Adrastus率いるArgivesのThebes攻めがあった。戦死したArgivesの遺体は、Thebesの町から運ばれて、Eleutheraeの町に埋葬された。[50]
既にこの頃からEleutheraeの町は、Thebesの町よりもAthensの町に好意を寄せていた。[51]
6.7 Trojan War時代
BC1190年、Eleutheraeの町の植民市Tanagraの町のPoemanderは、Troy遠征への参加を拒否して、Peleusの子Achillesに攻められた。[52]
Eleutheraeの町やTanagraの町は、Trojan Warの前から有名であったが、Homerの『軍船目録』には登場しない。[53]
6.8 Attica加入
Eleutheraeの町は、創建時からBoeotia地方に関係が深かったが、Thebesの町との関係が悪化して、Attica地方に加入した。[54]
これにより、Attica地方とBoeotia地方の境は、Eleutheraeの町とOenoeの町との間ではなく、Cithaeron山になった。
7 Euboea
Straboは、Euboea島の名前は、heroineの名前に因むと記している。[55]
恐らく、Aeolusの子Macareusの娘Euboeaと思われるが、彼女とEuboea島との関係は不明である。[56]
確認できるEuboea島への最初の入植者は、BC1420年、Cadmusと共に海を渡ったArabiansであった。[57]
その後、Arabiansは先住民と混血したようである。
BC1360年、Erechtheusの子Pandorusが入植する前の島の住人は、Lelegesと呼ばれていた。[58]
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[59]
7.1 Carystus
BC1世紀の地理学者Pomponius Melaは、Chalcisの町とCarystusの町は、Euboea島の中で最も裕福な町だと伝えている。[60]
7.1.1 Carystusの創建
Diodorusは、Heraclesに追われたDryopesの住民がCarystusの町を創建したと伝えている。[61]
しかし、それ以前に、Chironの子Carystusが、Salamis島からEuboea島南東部に移住して、Carystusの町を創建していた。[62]
Carystusの町の創建は、BC1260年頃と推定される。
Chiron(or Scyrius, Sciron, Scirus)は、第9代Athens王Aegeusの実父であり、第7代Athens王Cecropsの息子と推定される。[63]
7.1.2 Delosとの関係
Carystusの子Petraeusの子Zarexは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeo(or Creousa)と結婚して、Delos島の祭司となるAnius(or Anion)が生まれた。[64]
ZarexもDelos島の祭司であったと推定される。
第10代Athens王Theseusは、Crete島からの帰路、Delos島に立ち寄っているが、その時、島には彼の従兄弟Zarexがいたと思われる。[65]
7.1.3 Hyperboreansとの関係
Carystusの町は、HyperboreansがDelos島へ供え物を届ける中継地であった。[66]
Diodorusは、Hyperboreansと、AtheniansやDeliansは、古くから深い関係にあったと述べている。[67]
7.2 Cerinthus
AtheniansのCothusがCerinthusの町を創建したという伝承がある。[68]
このCothusは、Xuthus (or Ion)の息子と思われるが、彼は、Trojan Warの後で、Chalcisの町を創建している。[69]
しかし、Cerinthusの町は、Homerの『軍船目録』に登場しており、Trojan Warの時には、既に存在していた。[70]
また、Cothusの兄弟EllopsがCerinthusの町を攻略したと伝えており、CothusがCerinthusの町の創建者とは考えられない。[71]
7.3 Chalcis
7.3.1 Athensからの移住
BC1360年、第6代Athens王Erechtheusの息子Pandorusは、Athensの町からEuboea島へ渡って、Chalcisの町を創建した。[72]
7.3.2 Diumへの移住
BC1335年、Pandorusの子Diusは、Chalcisの町から北西へ約80kmのCenaeon岬付近に移住して、Dium(or Dion, Dios)の町を創建した。[73]
Diusは、Abasに追われて、Chalcisの町を去ったのではないと思われる。
PandorusとAbasは共住し、両者の間には、姻戚関係があったと推定される。
7.3.3 Athensからの移住
BC1320年、第7代Athens王、Erechtheusの子Cecropsは、Euboea島へ移住した。[74]
Cecropsの移住は、彼の兄弟Metionとの争いが原因であり、先にEuboea島へ移住していた兄弟Pandorusを頼ったと推定される。
7.3.4 Phocisからの移住
BC1310年、Lynceusの子Abasは、Phocis地方のAbaeの町からChalcisの町へ移住した。[75]
Abasは、Argosの町のDanausの孫Abasの後裔であり、Euboea島のAbantesの名祖になった。[76]
7.3.5 Athensへの嫁入り
BC1282年、Chalcodon (or Calchodon, Rhexenor)の娘Chalciopeは、第8代Athens王Pandionの養子Aegeusに嫁いだ。[77]
この結婚が縁で、Aegeusの子Theseusの息子たちは、Athensの町を追われた時、Chalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[78]
7.3.6 Phocisへの侵入
BC1260年、Euboea島に住んでいたCriusの息子は、Phocis地方のDelphi周辺を荒らして、討ち取られた。[79]
Criusは、Lynceusの子Abasの兄弟と推定される。
7.3.7 Boeotiaへの侵入
BC1258年、Euboea島のChalcisの町に住むAbasの子Chalcodonは、Boeotia地方に侵入した。Chalcodonは、Thebesの町のAmphitryonとTeumessusの町近くで戦い、討ち取られた。[80]
Criusの息子やChalcodonの暴挙は、Euboea島を襲った干ばつによる飢饉が原因と思われる。[81]
7.3.8 Thebesからの移住
BC1258年、Chalcodonとの戦いの後で、Chalcisの町へ移住したThebansもいたと思われる。Thebesの町で生まれた叙事詩人Linusもその中の一人であった。Amphimarusの子Linusの墓はChalcisの町にあった。[82]
この後、Chalcisの町は文芸の町になり、Hesiodが参加した競技会が催された。[83]
7.3.9 Athensからの亡命
BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、Athensの町からChalcisの町のChalcodonの子Elephenorのもとへ亡命した。[84]
彼らは、Thesprotis地方へ出かけたTheseusの留守を狙って、武装蜂起したMenestheusによって追放された。[85]
Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Theseusの息子たちは、父の義母の兄弟のもとへ亡命した。
7.3.10 Argolisからの亡命
BC1210年、Argolis地方のNaupliaの町のNaupliusがAchaeansに追われて、Chalcisの町へ亡命した。[86]
このとき、Naupliusの子Palamedesも父と共にChalcisの町に住み着いたと推定される。[87]
Palamedesは、Chalcisの町でPelasgic lettersを学び、alphabetに新たな文字を追加した。[88]
7.3.11 Trojan Warの時代
BC1188年、Chalcisの町のChalcodonの子Elephenorは、Euboea島に住む人々を率いて、Troyへ遠征した。[89]
Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、MenestheusがTroyへ遠征した後で、Chalcisの町からAthensの町へ帰還した。[90]
7.3.12 Athensからの移住
BC1085年、Xuthus (or Ion)の子Cothusは、Athensの町からChalcisの町へ移住して、新しいChalcisの町を創建した。[91]
7.3.13 葬送競技会
BC730年、Chalcisの町でAmphidamasの葬送競技会が開催されて、Hesiodが優勝した。[92]
7.3.14 橋の建設
BC411年、ChalcidiansとBoeotiansは、共同で、Boeotia地方からEuboea島へ渡る橋を作った。[93]
Hesiodは、AulisからEuboea島へ船で渡ったと記している。BC4世紀の歴史家Ephorusは、約60mの橋があったと伝えている。[94]
7.4 Dium
BC1335年、Pandorusの子Diusは、Euboea島北西部のCenaeon岬付近にDium (or Dion, Dios)の町を創建した。[95]
後に、Diumの町の住人は、Aetolia地方にCanaeの町を創建した。[96]
7.5 Ellopia
BC1085年、Xuthus (or Ion)の子EllopsはIoniansを率いて、Athensの町からEuboea島北部に移住して、Ellopiaの町を創建した。[97]
その後、Ellopsは、周辺のHistiaea、Perias、Cerinthus、Aedepsus、Orobiaを攻略した。[98]
7.6 Eretria
7.6.1 Eretriaの創建
Straboは、Eleia地方のTriphylian Macistusから入植したEretrieusがEretriaの町を創建したという説があると伝えている。[99]
恐らく、双方の名前が似ていることから生まれた作り話と思われる。
Eretriaの古い名前は、Melaneisであり、Eurytusの父Melaneusに因む名前であった。[100]
BC1237年、EurytusがMessenia地方のOechaliaの町からEuboea島へ移住して来たときに、Melaneisの町を創建したと推定される。その後、Eurytusは、Melaneisの町から東北東へ移住して、Oechaliaの町を創建した。[101]
7.6.2 Eretria新市の創建
BC1085年、Xuthusの子AeclusはIoniansを率いて、Athensの町のEretria区からEuboea島に移住して、新しいEretriaの町を創建した。[102]
Ioniansの中には、Gephyraeans (Phoenicians)も含まれていた。[103]
Gephyraeansは、後にAttica地方のAphidnaの町へ再移住した。BC6世紀のAthensの町の僭主Hippiasの兄弟Hipparchusを暗殺したHarmodiusはAphidnaの町の出身であった。[104]
7.6.3 亡命者の上陸を阻止
BC734年、Corcyra島に入植していたEretriansは、後から入植して来たCharicrates率いるCorinthiansによって、島から追放された。
Eretriansは、故郷のEretriaの町へ上陸しようとしたが阻止され、Macedonia地方のMethoneの町に住み着いた。[105]
7.7 Hestiaea (Histiaea)
7.7.1 Hestiaeaの創建
BC1205年、EpigoniのThebes攻めによって、Thebesの町を追われたThebansの一部は、Euboea島北部にHestiaeaの町を創建した。[106]
7.7.2 Chiosへの移住
BC1075年、Xuthus (or Ion)の息子と思われるAmphiclusは、Hestiaeaの町からChios島へ移住した。[107]
7.7.3 Atheniansによる住人の追放
BC446年、Histiaeaの町の住人は、Atheniansに対して反乱を起こした。Athensの将Periclesは、Histiaeansを町から追放した。[108]
7.7.4 Ellopiaからの移住
BC371年の、Leuctraの戦いの後で、Ellopiaの町からHestiaeaの町へ住人が移住した。[109]
7.8 Oechalia
7.8.1 Oechaliaの創建
BC1237年、Messenia地方のOechaliaの町のMelaneusの子Eurytusは、Spartaの町のOebalusの子Tyndareusによって、追放された。[110]
Eurytusは、Euboea島へ移住して、Eretriaの町の東北東にOechaliaの町を創建した。[111]
7.8.2 Oechaliaの破壊
BC1224年、Oechaliaの町のEurytusは、Heraclesに攻められて、彼の息子たちと共に戦死した。[112]
DoriansとLapithsとの戦いに、前者をHeraclesが、後者をEurytusが味方した戦いであった。Heraclesとの戦いに敗れたLapithsがOechaliaの町へ逃げ込んでいて、激しい戦いで、Oechaliaの町は破壊された。[113]
7.9 Styra
Styraの町には、Oeta山とParnassus山の間のDryopis地方から移住して来たDryopiansが住んでいた。[114]
BC1230年、Heraclesは、Dryopis地方からDryopiansを追い出したが、それ以前に、Styraの町にDryopiansは住んでいた。[115]
7.10 Tamynae
7.10.1 Thessalyからの亡命
BC1236年、Thessaly地方のPheraeの町のPheresの子Admetusは、Euboea島のTamynaeの町へ亡命した。[116]
Thessaly地方のIolcusの町で発生したMinyansの反乱は、Pheraeの町にも影響した。
Admetusは、彼の妻Alcestisの前夫Hippasusの息子Theseusが住んでいたTamynaeの町へ逃れた。[117]
Admetusの母は、Orchomenusの町のMinyasの娘Periclymeneであり、彼女と共に移住して来たMinyansがPheraeの町にも住んでいた。[118]
7.10.2 Tamynaeの創建
Tamynaeの町の創建者は不明である。
しかし、Tamynaeの町はEurytusが創建したOechaliaの町の近くにあり、Tamynaeの町の創建者は、Hippasusの子Theseusであったと推定される。
Hippasusは、Eurytusの息子であり、Theseusは、Eurytusの孫であった。[119]
Theseusは、彼の母Alcestisの連れ子として、Admetusのもとで育てられていたが、後に、祖父Eurytusのもとへ引き取られた。[120]
後に、Theseusは、Oechaliaの町の近くにTamynaeの町を創建した。Admetusは亡命中に、Tamynaeの町にApolloの神殿を建立した。[121]
8 Marathon
8.1 Marathonの創建
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Marathonの町を建設した。[122]
8.2 Sicyonからの移住
BC1350年、Epopeusの子Marathonは、Sicyonの町からMarathonの町へ移住して来た。[123]
Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚した。[124]
第2代Athens王Cranausの娘は、Deucalionの子Amphictyonと結婚し、第4代Athens王Erichthoniusの娘は、Deucalionの子Hellenの子Xuthusと結婚している。[125]
Deucalionの後裔とAthens王家とは、古くから繋がりがあった。
Marathonは、Deucalionの子Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの息子であった。[126]
8.3 Sicyonへの移住
BC1321年、CorinthとSicyonの王Epopeusが死に、Epopeusの子Marathonが跡を継いだ。Marathonは2人の息子たち、SicyonとCorinthusにそれぞれ、AsopiaとEphyraeaを与えた。AsopiaとEphyraeaはそれぞれ、Sicyonの町とCorinthの町と呼ばれるようになった。[127]
9 Megara
9.1 Argosからの移住
BC1725年、Phoroneusの子Carは、Argosの町からMegara地方へ移住した。[128]
Pausaniasの時代、Carの墓は、Megaraの町からCorinthの町へ向かう街道沿いにあった。[129]
9.2 Egyptからの移住
9.2.1 Lelexの定住
BC1430年、Libyaの子Lelexは、Laconia地方に息子たちを入植させた後で、Megara地方に定住した。[130]
Pausaniasは、LelexをPhoroneusの子Carの12代後の人物だと記している。[131]
しかし、Lelexは、Carの姉妹Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasの子Iasusの娘Ioの子Epaphusの娘Libyaの息子であった。つまり、Lelexは、Carの9代後の人物であった。
Lelexが入植した後で、Megara地方の人々は、Lelegesと呼ばれた。[132]
Lelegesは、Laconia地方の最初の住人の呼び名と同じであった。[133]
また、Acarnania地方西部にTeleboansと共に住んでいたLelegesもLaconia地方から移住した人々であった。[134]
9.2.2 Lelexの後裔
Pausaniasは、Lelexの息子をCleson、Clesonの息子をPylas、Pylasの息子をSciron、Scironは第8代Athens王Pandionの娘と結婚したと伝えている。[135]
系図を作成すると、LelexとPylasの生年差は、125年であり、1世代の間が、62年になり、妥当ではない。恐らく、Clesonの父は、Lelexではなく、LelexとClesonの間には、3世代の欠落があったと推定される。
つまり、Pausaniasが参照したMegaraの伝承は正しかったが、PausaniasがClesonをLelexの息子だと勘違いしたようである。
9.3 Athensからの移住
9.3.1 Pandionの移住
BC1320年、Cecropsの子Pandionは、Athensの町からMegaraの町のClesonの子Pylasのもとへ移住して、彼の娘Pyliaと結婚した。[136]
Pandionは、兄弟たちと共に、Athensの町の内紛によって、町を追われたと推定される。
9.3.2 Pylasの移住
Pausaniasは、Clesonの子Pylasが、Messenia地方へ移住したと伝えている。[137]
Apollodrosは、Pylasが娘婿Pandionに王国を与えて、移住したと伝えている。[138]
しかし、PylasにはScironという息子がいた。[139]
Pausaniasは、Pylasが町を創建した直後に、Neleusの移民団によって町を追われたと伝えている。[140]
NeleusやAmythaonが創建したPylusの町の名前にClesonの子Pylasの名前が似ていることから創作された伝承と思われる。[141]
9.4 Athensへの移住
BC1312年、Cecropsの子Pandionは、Megaraの町からAthensの町へ帰還した。これより前に、Clesonの子Pylasは死去したと思われる。Pylasの跡を、まだ成人に達していないPylasの子Scironではなく、Pylasの娘婿Pandionが継いだ。[142]
9.5 Athensからの移住
BC1295年、Cecropsの子Pandionは、Metionの息子たちに追われて、Athensの町からMegaraの町へ移住した。[143]
9.6 継承権争い
BC1287年、Cecropsの子Pandionが死去した。Pandionの子NisusとPylasの子Scironの間にMegaraの町の継承をめぐる争いが起き、Aegina島のAeacusが仲裁した。[144]
Aeacusの妻の父Scyriusは、Athens王Aegeusの実父であった。[145]
つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。恐らく、Aegeusが、義兄弟同士の争いを義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であったAeacusに仲裁させたものと思われる。[146]
Pandionの子Nisusが、Megaraの町を継承した。[147]
9.7 Athensへの移住
BC1285年、AegeusはMegaraの町からAthensの町に帰還して、Metionの息子たちを追放した。[148]
9.8 Minosとの戦い
BC1264年、Aegeusは、Pallasの息子たちによって、Athensの町から追放されて、Megaraの町のNisusのもとへ逃れた。[149]
Pallasの息子たちは、Crete島のMinosの協力を得て、Megaraの町を攻撃した。[150]
Megara王Nisusは戦死して、Minosが勝利した。Aegeusは、Troezenの町のPittheusのもとへ亡命した。[151]
9.9 Pisaからの移住
Pelopsの子Alcathousが、Eleia地方のPisaの町から来て、Megara王を継承した。[152]
Nisusの娘Iphinoeの娘Euaechmeは、Alcathousの妻であったが、この結婚は、AlcathousがMegara王を継承した後のことと思われる。[153]
それ以前に、AlcathousにはPyrgoという妻がいて、Pyrgoの墓はMegaraの町にあった。[154]
Pyrgoは、Nisusと王権を争った、Pylasの子Scironの娘であったと推定される。
AlcathousはMegaraの町へ援軍として駆け付け、Nisusが戦死した後でMinosと和議を結んだと思われる。Alcathousの娘PeriboeaもMinosへの貢物になったという伝承もある。[155]
9.10 Salamisへの嫁入り
BC1240年、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)は、Salamis島のAeacusの子Telamonのもとへ嫁入りした。[156]
この結婚は、Periboeaの母方とTelamonの母方が共にAthens王家に繋がっていたために可能になったと思われる。
9.11 Salamisからの移住
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraの町へ移住し、Alcathousの跡を継いだ。[157]
Ajaxは、Alcathousの娘Periboea(or Eriboea)の息子であり、Alcathousの孫であった。[158]
Ajaxは、Elatusの子Caeneusの後裔Lysidiceと結婚し、息子Philaeusが生まれた。[159]
Caeneusは、Thessaly地方のLapithsであったが、Ajaxの祖父AeacusもThessaly地方のPhthiaの町の出身であった。[160]
9.12 Mycenaeからの嫁入り
BC1195年、Ajaxの子Philaeusは、Mycenaeの町からAgamemnonの娘Iphigeniaを妻に迎えた。この結婚については推定であり、根拠はつぎのとおりである。
Pausaniasは、Megaraの町にIphigeniaの英雄廟があり、彼女はその町で死んだと伝えている。[161]
また、PhilaeusはBrauronの町に住んでいたが、IphigeniaはBrauronの町のArtemisに仕える巫女であった。[162]
Ajaxの跡を、Iphigeniaの兄弟Hyperionが継いで、Megara王になった。[163]
9.13 Trojan War時代
Telamonの子Ajaxは、Homerの作品に登場するが、Megaraの町は登場しない。
Ajaxは、Troy遠征で死に、Iliumの町の北東のRhoeteiumに葬られた。[164]
9.14 Mycenaeからの移住
Agamemnonの子Hyperionは、Mycenaeの町からMegaraの町へ移住して来た。[165]
9.15 Atticaへの移住
Ajaxの子Philaeusは、Megaraの町からAttica地方のBrauronの町へ移住した。[166]
Philaeusの移住は、Agamemnonの子Hyperionによる追放と推定される。[167]
9.16 王制の廃止
Hyperionは、横暴であったため、Sandionに殺されて、Megaraの町の王制は廃止された。[168]
10 Salamis
10.1 Athensからの移住
BC1320年、Athensの町に内紛が起こり、第7代Athens王Cecropsは、Euboea島へ移住した。[169]
この時、Cecropsの子Cychreusは、Athensの町からSalamis島へ移住した。[170]
Cychreusは、Athensの町で神々と同等の尊敬を受けた人物であった。[171]
10.2 Scyrosへの嫁入り
BC1305年、Cychreusの娘Charicloは、Salamis島からScyros島に住むCecropsの子Scyriusのもとへ嫁いだ。[172]
Scyriusは、Cychreusの兄弟であった。[173]
10.3 Scyrosからの移住
BC1295年、Cychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[174]
10.4 Sicyonからの嫁入り
BC1291年、Scyriusは、Sicyonの町のSicyonの娘Salamisを妻に迎えて、息子Cychreusが生まれた。[175]
Sicyonの母は、第6代Athens王Erechtheusの娘であった。[176]
Scyriusは、Salamisの父Sicyonの母の父Erechtheusの子Cecropsの息子であった。
つまり、Salamisは、父の従兄弟Scyriusに嫁いだことになる。
Salamisの子Cychreusは、それまで、ScirasやCychreiaと呼ばれていた島の名前を、母の名前に因んで、Salamisと名付けた。[177]
10.5 Carystusの創建
BC1260年、Scyrius(or Chiron)の子Carystusは、Salamis島からEuboea島南東部に移住してCarystusの町を創建した。[178]
10.6 Aeginaからの移住
BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[179]
Cychreusの死後、TelamonがSalamis島を継承した。[180]
Telamonの母Endeisの母Charicloの父は、初代Salamis王Cychreusであった。[181]
10.7 Trojan War時代
10.7.1 Telamonの子Ajax
Homerは、Telamonの子AjaxがSalaminiansを率いて、Troyに遠征したと伝えている。[182]
しかし、Ajaxは、Pelopsの子Alcathousの跡を継いでMegara王となり、Megaraの町に住んでいた。[183]
Ajaxは、Alcathousの娘Periboea (or Eriboea)の息子であった。[184]
10.7.2 Atticaへの移住
BC1186年、Telamonの子Ajaxが捕虜の女たちに産ませた息子たちは、Troyから帰還して、Salamis島ではなく、Attica地方に住んだ。[185]
彼らがAthensの町にSalamis島を譲ったという伝承は作り話であり、実際は、Salamis島が他人の手に渡っていたと推定される。恐らく、Troy陥落前に、Telamonは死に、Salamis島は、Aegina島から居住範囲を広げたCretansに占拠されたと思われる。[186]
10.7.3 Telamonの子Teucer
Teucerに関する伝承の多くは、作り話だと思われる。
Troyから帰ったTelamonの子Teucerは、Telamonによって上陸を許されなかったという伝承がある。[187]
BC5世紀のThemistoclesの時代にPeiraeusが港になり、そこで、追放者が陸上にいる人々に向って、船上から弁明する法廷が設置された。[188]
恐らく、Teucerの伝承は、後に作られたもので、実際は、Teucerは祖国に帰らなかった。
AD6世紀の年代記作者John Malalasは、Teucerは、兄弟Ajaxを助けるためにCyprus島からTroyに来たと伝えている。TeucerがTroyに着いたとき、AchillesやAjaxは既に死んだ後で、Neoptolemusがいたという。[189]
11 Scyros
Cephisus川は、古代ギリシア人発祥の地であったが、古代ギリシア人の居住地の広がりと共に各地にある川に同じ名前が付けられた。古代ギリシア世界に少なくとも8つあったCephisus川のうちの一つが、Scyros島にあった。[191]
11.1 Athensからの移住
BC1320年、Athensの町に内紛が起こり、第7代Athens王Cecropsは、Euboea島へ移住した。[192]
この時、Cecropsの子Scyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)は、Scyros島へ移住した。[193]
Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの夫であり、彼らの娘Endeis(or Endais)は、Aeacusの妻であった。[194]
Scyriusは、Scyros島の名祖と推定される。
Scyros島のCephisus川の名付け親は、Scyriusと共に移住したAtheniansと思われる。
11.2 Salamisからの嫁入り
BC1305年、Cychreusの娘Charicloは、Salamis島からScyros島に住むCecropsの子Scyriusのもとへ嫁いだ。[195]
Scyriusは、Cychreusの兄弟であった。[196]
11.3 Salamisへの移住
BC1295年、Salamis島のCychreusが跡継ぎを残さないで死ぬと、Scyriusは彼の息子にScyros島を任せて、Salamis島へ移住した。[197]
Scyriusは、Cychreusの娘Charicloの夫であった。[198]
11.4 Thessalyへの嫁入り
BC1213年、Lycomedesの娘Deidamiaは、Thessaly地方のPhthiaの町のAchillesのもとへ嫁入りした。[199]
Lycomedesは、ScyriusがScyros島を任せた彼の息子の息子であった。[200]
Achillesの母ThetisはScyriusの娘であり、DeidamiaはAchillesの従兄弟の娘であった。[201]
11.5 Athensからの移住
BC1209年、Aegeusの子Theseusは、Peteus (or Peteos)の子Menestheusに追われて、Scyros島のLycomedesのもとへ亡命して来た。[202]
Scyros島には、Theseusの父Aegeusの領地があった。[203]
恐らく、Aegeusは、Lycomedesの父より年長であり、LycomedesはTheseusに地位を奪われると思って、Theseusを殺したと推定される。[204]
LycomedesはTheseusの従兄弟であった。[205]
11.6 Lycomedesの最期
BC1188年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、MenestheusがTroyへ遠征した後で、Chalcisの町からAthensの町へ帰還した。[206]
彼らは、父の消息を突き止め、Scyros島にAtheniansを派遣してLycomedesを殺させ、Theseusの遺骨を持ち帰らせた。[207]
11.7 Thessalyからの移住
BC1186年、Thessaly地方にThesprotiansが侵入して、各地を占領した。[208]
Phthiaの町の支配下にあったDolopesの一部は、Scyros島に渡って、定住した。[209]
11.8 Thraciaからの移住
BC495年、Lemnos島のPelasgiansは、Cimonの子Miltiadesに追われて、Chalcidice半島に移住した。[210]
その後まもなく、Pelasgiansは、Chalcidice半島からScyros島へ渡って来て、定住した。[211]
11.9 Athensによる攻略
BC470年、Athensの町の将Miltiadesの子Cimonは、Scyros島を攻略した。[212]
その時、Scyros島には、PelasgiansとDolopesが住んでいたが、Dolopesは奴隷にされ、彼らの土地はAtheniansに分配された。[213]
12 Sphettus
BC1262年、Troezenの子SphettusはAttica地方に移住して、Sphettusの町を創建した。[214]
Minosとの戦いの後で、Aegeusは、Troezenの町へ亡命した。その後、AegeusはTroezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensの町への帰還に成功した。[215]
13 Tricorythus (or Tricorynthus)
13.1 Tricorythusの創建
BC1465年、Hellenの子Xuthusは、Attica地方北東部にTetrapolisの一つとして、Tricorynthusの町を建設した。[216]
13.2 Trachisからの移住
BC1218年、Heracleidaeは、Trachisの町からTricorythusの町へ移住した。[217]
Heracleidaeの保護者Iolausの妹Iopeは、Athens王Theseusの妻であり、Iolausの義兄弟TheseusがHeracleidaeを受け入れた。[218]
13.3 Eurystheusとの戦い
BC1217年、Mycenae王Eurystheusは、Tricorythusの町に住んでいたHeracleidaeを攻めたが、Iolausに討ち取られた。Eurystheusの首は、Tricorythusの町に埋葬された。[219]
13.4 Dorisへの移住
BC1211年、Heraclesの子Hyllus率いるHeracleidaeは、Peloponnesusへの侵入に失敗し、Tricorythusの町からDoris地方へ移住した。[220]
その時、Doris地方へ行かずに、残留した人たちもいた。
13.4.1 Heraclesの子Antiochus
HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusは、Athensの名祖の一人になった。[221]
13.4.2 Heraclesの娘Macaria
HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonと結婚して、息子Oxyntesが生まれた。[222]
14 Thoricus
BC1277年、Deioneusの子Cephalusは、Attica地方のThoricusの町からAcarnania地方西部のIonian Seaに浮かぶ島へ移住した。Cephalusは、妻Procrisを失い、新しい居住地を求めて、Alcaeusの子Amphitryonと共に、ギリシア北西部のTeleboansの地へ遠征した。[223]
Cephalusは、Ionian Seaで最大の島に入植し、Cephallenia島と名付けた。[224]
Cephalusの父Deioneus (or Deion)は、第8代Athens王Pandionの別名であった。[225]
PandionもAthens王になる前は、Thoricusの町に住んでいた。[226]
Thoricusの町は、Aegeusの子Theseusが一つにまとめた12市の一つであった。[227]
おわり |