第14章 アルゴスの青銅器時代の歴史

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Create:2023.3.13, Update:2026.2.15

1 はじめに
ペロポネソス半島にギリシア人がはじめて町を作ったのは、BC1750年に発生した「オギュゴス時代の大洪水」の時であった。パルナッソス山の北側を西から東へ流れるケピソス川の上流に住み、洪水によって居住地を失った人々は新天地を目指した。
イナコスの2人の息子たち、アイギアレオス (または、アイゼイオス)とポロネオスに率いられた人々はペロポネソス半島に入った。
アイギアレオスは半島北側の海岸地方に、ポロネオスはさらに南へ進んで平野の端の小高い丘(後のラリッサ)の東側に定住した。[1]
アイギアレオスが創建した町は、アイギアレイア (後のシキュオン)と呼ばれ、ポロネオスが創建した町はポロネオス (後のアルゴス)と呼ばれた。[2]
その後、初代アテナイ王ケクロプスに追われたコライノスが、アッティカ地方のミリノオスからメッセニア湾入り口西側へ移住して、コロニデスの町を創建した。[3]
コロニデスのペロポネソス入植は、イナコスの息子たちより約200年後であった。

2 イナコスの子ポロネオスの時代 (1750-1700 BC)
年代記作者カストールは、初代アルゴス王をイナコスと記している。しかし、アルゴスの町を最初に治めたのは、イナコスの子ポロネオスであった。[4]

2.1 テルキネス族との戦い
アイギアレイアの町の創建者アイギアレオスが死んだ。
アイギアレオスには、息子リュカオンがいたが、リュカオンは父より先に死んでいた。[5]
リュカオンには、息子ヒュペレトスがいたが、まだ、少年であった。[6]
ポロネオスは、自分の息子エウロプスを、ポロネオスの兄弟アイギアレオスの後継者にした。[7]
しかし、エウロプスは、シキュオンの町の有力者テルキン (または、テルキス)によって王位を簒奪された。[8]
テルキンは、第3代シキュオン王になった。[9]
ポロネオスは、シキュオンの町を攻めて、テルキン率いるテルキネス族と戦うが撃退された。[10]
この戦いで、ポロネオスには、パッラシア人が味方し、テルキネス族には、カリュアティが味方した。[11]
パッラシア人は、ローマ時代にアルカディア地方の南部に住んでいた部族である。
パッラシア人は、多くの息子たちを各地に送り出したリュカオンや、ローマへ移住したエウアンドロスが所属していた名門の部族であった。[12]
カリュアティは、ローマ時代にアルカディア地方のテゲアの町に住んでいた部族であった。[13]

2.2 アルゴスからの移住
BC1725年、ポロネオスの子カアはメガラ地方へ移住した。[14]
BC1700年、ポロネオスの子エウロプスの子ヘルミオンは、ペロポネソス半島の南東の海岸へ移住して、ヘルミオネの町を創建した。[15]

3 ポロネオスの子アピスの時代 (1700-1665 BC)
BC1700年、ポロネオスが死に、彼の息子アピスが跡を継いだ。[16]
BC1690年、アピスは、シキュオンの町との戦いに勝って、シキュオンの町をアルゴスの町の支配下に置いた。[17]
第3代アルゴス王アピスは、第4代シキュオン王になった。[18]
アピスは、ペロポネソスの支配者になり、ペロポネソスはアピスの名に因んでアピアと呼ばれるようになった。[19]
BC1665年、アピスは、テルキンと彼の息子テルキオンによって殺された。[20]

4 ニオベの子アルゴスの時代 (1665-1630 BC)
BC1665年、アピスの姉妹ニオベの子アルゴスが、アピスの跡を継いだ。[21]
アルゴスの父は、イナコスの娘テミストの子アルカスと推定される。[22]

4.1 王統の変化
アルゴスの子孫には、アルカディア地方内の各地に息子たちを送り出したペラスゴスの子リュカオンがいる。そのリュカオンは、パッラシア人に所属していた。[23]
アルゴスの先祖ポロネオスは、パッラシア人とは別の部族であった。[24]
しかし、ポロネオスの後裔リュカオンは、パッラシア人に所属していた。
恐らく、テミストの夫が、パッラシア人の族長であったと推定される。
つまり、テミストの子アルカスや、ニオベの子アルゴスもパッラシア人であったことになる。

4.2 アルゴスの内紛
アルゴスには、2人の妻たち、ペイトとエウアドネがいた。恐らく、ペイトはパッラシア人であり、エウアドネは、ポロネオスの孫娘であったと思われる。
ポロネオスが所属していた部族とパッラシア人は、それぞれ、アルゴスの息子たちを味方につけて、アルゴスの町の中で争いが生じた。
アルゴスの息子たち、テュリンスとエピダウロスがアルゴスの町を去って、それぞれの町を創建したのは、内紛が原因と推定される。[25]

5 アルゴスの子ペイラソスの時代 (1630-1610 BC)
5.1 アルゴスの継承者
年代記作者カストールは、アルゴスの次のアルゴス人の王として、クリアソスの名前を記している。[26]
しかし、次のことから、アルゴスの跡は、彼の息子ペイラソス (または、ピラス, ペイラス, ペラントス, ピラントス)が継いだと思われる。
1) ヒュギーヌスは、アルゴス人の王を列挙して、アルゴスの次に、アルゴスの子ピラントスの名前を記している。[27]
2) ペイラソスの父アルゴスは、ヘラ神像を製作した。ペイラソスは、そのヘラ神像を安置するために、ヘラ神殿を創建した。[28]

5.2 ヘラ神殿の創建
BC1620年、ペイラソスは、アルゴスの町から北北東へ7.4km離れた所に、ヘラ神殿を創建した。[29]
ペイラソスは、彼の娘カリテュイアをヘラ神殿の最初の巫女にした。[30]

6 ペイラソスの子トリオプスの時代 (1610-1601 BC)
ペイラソスの跡は、彼の息子トリオプスが継いだ。[31]

6.1 アルゴスの内紛
BC1601年、アルゴスの町で大きな内紛があったと推定される。
その推定理由は、次のとおりである。
1) この内紛への報復を受けて、BC1560年、アルゴスの子クリアソスの子ポルバスの後裔がアルゴスの町から各地へ移住した。
2) この内紛の結果、ミュケナイの町が大きくなり、さらに、BC1560年の内紛で、ミュケナイの町がペロポネソスの覇者になった。[32]
3) アルゴスの子エクバソスの子アゲノールの子アルゴスが、アルゴスの町からアルギオン (ミュケナイ)の町へ移住した。[33]
アルゴスの移住は、BC1601年と推定される。

6.2 王位簒奪
このアルゴスの内紛の原因は、クリアソスの子ポルバスによる王位簒奪であったと思われる。
ペイラソスの子トリオプスには、2人の兄弟たち、アルゴスとアレストリデスがいた。[34]
しかし、トリオプスの後、アルゴスの王統はニオベの子アルゴスの子クリアソスの後裔に移っている。[35]
クリアソスの子ポルバスが、アルゴスの子ペイラソスの息子たち、トリオプス、アルゴス、アレストリデスを殺して、王位を簒奪したと推定される。

7 クリアソスの子ポルバスの時代 (1601-1590 BC)
アルゴスの町の支配者は、クリアソスの子ポルバスになった。
年代記作者カストールは、ニオベの子アルゴスの後の王を、ペイラソスとトリオプスではなく、クリアソスとポルバスと記している。[36]
内紛のときに、ペイラソスの子トリオプスに味方したペイラソスの兄弟エクバソスの子アゲノールの子アルゴスは、アルゴスの町から逃れて、ミュケナイの町に定住した。[37]
アルゴスは、many-eyed、あるいは、All-seeingと称された。[38]
アルゴスは、すべてを見通すことのできる、先見の明のある人物であった。
ミュケナイの町は、アルゴスの名前に因んで、アルギオンの町と呼ばれるようになった。[39]

8 ポルバスの子トリオパスの時代 (1590-1561 BC)
ポルバスの跡は、彼の息子トリオパスが継いだ。[40]

8.1 トロキロスの追放
BC1561年、アルゴスの町の密儀祭司トロキロスは、トリオパスの子アゲノールによって追放されてエレウシスの町へ移住した。[41]
トロキロスは、アルゴスのヘラ神殿の巫女カリテュイアの息子であった。[42]
この後、アゲノールの姪イオがヘラ神殿の巫女になった。[43]

8.2 ミュケナイとの戦い
トロキロスの追放は、ミュケナイの町がアルゴスの町を攻める端緒になった。
ミュケナイの町には、トロキロスの伯父トリオプスに味方して、アルゴスの町から追い出されたアゲノールの子アルゴスが住んでいた。[44]
アルゴスは、第7代シキュオン王トゥリマコスの娘イスメネを妻に迎えた。[45]
アルゴスの子メッサポスは、第8代シキュオン王レウキッポスの娘カルキニアを妻に迎えた。[46]
ミュケナイの町は、これらの婚姻関係によって、シキュオンの町を勢力下に置いていた。
また、シキュオンの町からクレタ島へ移住したテルキネス族もミュケナイの町に住んでいた。[47]
ポロネオスの子アピスの時代に、シキュオンの町とアルゴスの町は、互角に戦っていた。
しかし、ニオベの子アルゴスの息子たちの時代以降、アルゴスの町に住んでいたポロネオスの部族は各地へ移住して、アルゴスの町にはパッラシア人が残っていた。

9 トリオパスの子ペラスゴスの子クロトポスの時代 (1561-1560 BC)
トリオパスの跡は、彼の孫クロトポスが継いだ。[48]
BC1560年、ミュケナイの町のアルゴスの子メッサポスに攻め込まれて、アルゴスの町の住人は、各地へ移住した。
トリオパスの息子たち、アゲノール、ペラスゴス、アントス、エウリサベは、メッサポスとの戦いで戦死したと思われる。[49]

9.1 エジプト、リュキア、レスボスへの移住
イアソスは、彼の兄弟クサントスや彼の娘イオを含む植民団を率いてペロポネソス半島から船出した。途中、クサントスはリュキア地方に植民した。イアソスと娘イオを含む植民団はさらに航海を続け、エジプトに到着した。[50]

9.1.1 クサントスの移住
クサントスは、リュキア地方のクサントス川流域に植民した後、クサントス自身は、さらに北へ向かって良い土地を探すために航海した。[51]
クサントスに同行していたキュルノスは、ロドス島対岸の半島にキュルノスの町を創建した。[52]
クサントス自身はイッサ島と呼ばれていた無人島に植民した。[53]
その島は、200年後、新たな入植者であるラピテスの子レスボスに因んでレスボス島と呼ばれるようになるまで、ペラスギア島と呼ばれた。[54]

9.1.2 イアソスと娘イオの移住
イアソスの娘イオは、サイスの町のテレゴノスと結婚した。テレゴノスは、1世代前にボイオティア地方からエジプトへ移住した、サイスの町の創建者の息子であった。[55]
BC4世紀の歴史家オリュントスのカリステネスや、BC3世紀の歴史家アテナイのファノデモスは、サイスの町の住人は、アテナイ人の後裔だと述べている。[56]
イオの子エパポスは勢力を拡大して、メンフィスの町を創建した。 [57]
ヘロドトスは、クラナオスの時代、アテナイの町の住人はクラナオイ人と呼ばれるペラスゴイ人であったと述べている。[58]
クラナオスはイオの息子であり、イオと共にアルゴスの町からエジプトへ移住したペラスゴイ人がクラナオスと共にアテナイの町へ移住したと思われる。[59]
イオはアルゴスのヘラ神殿の巫女であり、エジプトではイシスと呼ばれた。[60]

9.2 アルカディアへの移住
イアソスの兄弟アゲノールの子ペラスゴスは、アルゴスの町から西南西70kmの所にあるアルカディア地方のリュカイオス山(現在のリュカイオン山、標高1,421m)の麓へ移住した。ペラスゴスは食用となる樫の実を見つけて人々に教えた。[61]

9.3 テッサリアへの移住
トリオパスの子ペラスゴスの娘ラリッサの一家を中心とする集団は、テッサリア地方へ移住した。[62]
ラリッサと共にアルゴスの町から移住したペラスゴイ人は、テッサリア地方北部のペネイオス河畔のラリッサの町から東南の海岸地方との間の地域に住んでいた。[63]
ラリッサの3人の息子たち、アカイオス、プティオス、ペラスゴスが住む土地は、それぞれアカイア、プティオティス、ペラスギオティスという名前で呼ばれるようになった。[64]

9.4 メガラへの移住
トリオパスの子ペラスゴスの子クロトポスは、メガラ地方のゲラネイア山麓へ移住して、トリポディスキオンの町を創建した。[65]

10 大移動後のアルゴス (1560-1430 BC)
10.1 ミュケナイによる支配
BC1560年、アルゴスの町は、ミュケナイの町の支配下に入った。
アルゴスの町の主要な住人は、パッラシア人ではなく、ポロネオスの部族に変わった。
ミュケナイの町は、アルカディア地方を除く、ペロポネソス半島の殆どの住人を支配し、海外との交易活動によって、大国になった。[66]
アルゴスの町も、ミュケナイの町と共に繁栄した。
アルゴスの町は、ステネラスの子ゲラノールまで、メッサポスの後裔が治めた。

10.2 伝承
BC1560年にアルゴスの町から大移動が発生してから、BC1430年にダナオスが現れるまで、アルゴスの町での出来事は不明である。
パウサニアスは、アルゴス王クロトポスの娘プサマテの子リノスの墓が、アルゴスの町にあったと伝えている。[67]
また、パウサニアスは、クロトポスの墓も、アルゴスの町にあったと伝えている。[68]
アルゴスの町から追放されたクロトポスや彼の孫がアルゴスの町へ帰還できたとは思われず、偽物の墓と推定される

11 ベロスの子ダナオスの時代 (1430-1420 BC)
11.1 ダナオスの系譜
BC1560年、イアソスの娘イオはアルゴスの町からエジプトへ移住して、サイスの町のテレゴノスと結婚し、エパポスが生まれた。[69]
エパポスの娘リビュアには、3人の息子たち、アゲノール、ベロス、レレクスがいた。[70]
ベロスの子ダナオスやベロスの子アイギュプトスの子リュンケウスは、ナイルデルタにあるケンミスの町の住人であった。[71]
つまり、ダナオスは、アルゴスの町からエジプトへ移住したイオの子エパポスの娘リビュアの子ベロスの息子であった。

11.2 ダナオスの移住
BC1430年、ダナオスは、エジプトからアルゴスの町へ移住した。

11.2.1 マネトーンの記述
AD1世紀の歴史家ヨセフスは、BC3世紀の歴史家マネトーンの著作から引用して、次のように伝えている。
「ミスフラグムトシス王の治世中、エジプト各地から追放された人々は、城壁で囲まれ、24万人の兵士が守るアウアリスという場所に包囲された。籠城していた人々は、エジプトから出て行くという条件で解放された。アウアリスから解放された人々は、家族を伴って、エジプトを去り、砂漠を越えてシリアへ逃れた。」[72]
AD3世紀の歴史家セクトス・ユリウス・アフリカヌスは、マネトーンが記したエジプト第18王朝の歴代のファラオの名前を伝えている。
それによれば、ミスフラグムトシスは、第6代目のファラオであった。
つまり、ミスフラグムトシスは、エジプト第18王朝の第6代ファラオトトメス3世の別名と推定される。
トトメス3世は、古代エジプトを最大版図にした征服王であり、BC1425年に死亡した。[73]

11.2.2 ヘカタイオスの記述との照合
マネトーンは、砂漠を越えてシリアへ逃れた人々が、ユダイアと呼ばれる土地に、エルサレムを創建したと伝えている。[74]
BC3世紀の歴史家アブデラのヘカタイオスも、同様のことを伝えている。[75]
ヘカタイオスは、エジプトから追い出された多くの異邦人たちの指導者たちの中で最も有名なのは、ダナオスとカドモスであったと記している。

11.2.3 推定
BC1430年当時、ギリシアからエジプトへ移住した人々は、サイス、テバイ、メンフィス、ケンミスの町に住んでいた。
ベロスの子ダナオスは、ケンミスの町に住んでいた。[76]
ダナオスの部族と推定されるダナヤ (タナジュ)は、トトメス3世に朝貢していた。[77]
以上のことから、次のように推定される。
ナイルデルタに住んでいた人々が、トトメス3世に対して反乱を起こしたが、彼らの居住地から追放されて、アウアリス (または、アウアリス, アテュリア)に籠城した。
アウアリスには、ギリシアからエジプトへ移住した人々だけではなく、ユダヤ人も含まれていた。
ユダヤ人は、陸路で砂漠を越えて、シリア地方へ移住した。
ギリシアからエジプトへ移住した人々は、ダナオスやアゲノールに率いられて、海路で、ペロポネソス半島やシリア地方へ移住した。

11.2.4 コルキスへの移住
マネトーンの記述が正確であれば、このとき、エジプトから各地へ移住した人々は、数十万人と推定される。
ヘカタイオスは、エジプトを逃れた人々の大部分は、エジプトからあまり離れていない地方へ移住したと伝えている。
しかし、エジプトを逃れた人々の一部は、ポントスのコルキス地方へ移住した。[78]
彼らの指導者は不明であるが、シシュッポスの子アイイテスが、エピュラ (後のコリントス)の町からコルキス地方へ移住する40年前であった。

11.3 ダナオスの同行者
ダナオスと共にエジプトを脱出したのは、兄弟アイギュプトスや、叔父たち、アゲノールやレレクスであった。
ダナオスの叔父アゲノールは、ギリシアまで行かずに、途中、フェニキア地方のシドンの町に住み着いた。[79]
ダナオスは、先祖の地アルゴスの町へ移住した。[80]
アイギュプトスは、ペロポネソス半島北西部に居を定めた。パトライの町にベロスの子アイギュプトスの墓があった。[81]
レレクスは、ペロポネソス半島南部のエウロタス川中流域に居を定めた。その後、レレクスは、彼の息子ミュレスにその地を任せて、自らはメガラ地方へ移住した。[82]
それまで、レレクスの先祖の地アルゴスの町からメガラ地方へは、BC1725年、ポロネオスの子カアが移住していた。[83]
また、BC1560年には、ペラスゴスの子クロトポスがメガラ地方へ移住していた。[84]

11.4 ダナオスの本名
パウサニアスは、彼の著書の中の5か所で、レレクスの子ポリュカオンの妻メッセネの父は、トリオパスであったと記している。[85]
また、パウサニアスは、アルゴスの町に住むトリオパスが名声と実力で、当時のギリシア人の指導者であったとも記している。[86]
ポリュカオンとメッセネが結婚した頃、アルゴスの町を治めていたのはダナオスであり、トリオパスは、ダナオスの本名であったと思われる。
トトメス3世の年代記に、ギリシア人と推定されるダナヤ (タナジュ)の土地から貢納があったと記されている。[87]
ダナヤは、ダナオスの父ベロスの種族名で、ダナオスは、その種族名から人の名前のように作られた造語と思われる。
あるいは、ダナオスはベロスの父であり、ベロスの母リビュアの夫であり、孫が祖父の名前で呼ばれていたのかもしれない。
ダナオスの双子の兄弟アイギュプトスの名前も、造語のように思われる。

11.5 アルゴスの奪還
ダナオスが現れたとき、アルゴスの町は、アルゴスの子メッサポスの後裔、ステネラス (ステネレウス, ステネロス)の子ゲラノールが治めていた。[88]
ダナオスは、ゲラノールと戦ってアルゴスの町を奪い返した。[89]
アルゴスの町は、ダナオスの先祖イアソスの娘イオが、130年前に、ゲラノールの先祖メッサポスによって奪われた町であった。
ダナオスに敗れたゲラノールは、シキュオンの町へ逃れた。[90]

11.6 ミュケナイの破壊
伝承には残っていないが、ダナオスはミュケナイの町を破壊したと推定される。
後に、ダナオスの孫アバスの時代に、アルゴスの町は、シキュオンの町と戦っているが、伝承に、ミュケナイの町は登場しない。
恐らく、ミュケナイの町は、ダナオスに破壊されて、ミュケナイの町の住人は、シキュオンの町へ逃れたと思われる。

12 ダナオスの娘婿リュンケウスの時代 (1420-1413 BC)
ダナオスの娘の名前は、12人知られているが、ダナオスの息子の名前は知られていない。
ダナオスの跡を継いだのは、ダナオスの長女ヒュペルメストラの夫、アイギュプトスの子リュンケウスであった。[91]

12.1 アカイア人との婚姻
BC1420年、当時、テッサリア地方のメリタイアの町に住んでいたクストスの子アカイオスが、ペロポネソス北部のアイギアロス地方へ帰還した。[92]
アカイオスは、父が追放されたメリタイアの町へ移住したが、カドモスやトラキア人の大移動に伴う混乱で、テッサリア地方を去ることになった。後にアカイア人と呼ばれるようになる多くの人々も彼と一緒に、テッサリア地方からアイギアロス地方へ移住した。
BC1408年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、ダナオスの2人の娘たち、スカイアとアウトマテとそれぞれ結婚した。[93]

13 リュンケウスの子アバスの時代 (1413-1387 BC)
BC1413年、リュンケウスが死んで、彼の息子アバスが跡を継いだ。[94]

13.1 ラメドンのアルゴス占領
パウサニアスは、シキュオンの町のラメドンがアカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスと戦ったと伝えている。[95]
しかし、シキュオン王の系譜に登場するラメドンは、アルカンドロスより2世代後の人物である。
アルカンドロスと戦ったラメドンは、ダナオスによってアルゴスの町を追われて、シキュオンの町へ逃れたゲラノールの息子であったと推定される。[96]
BC1408年、アバス (または、トリオパス)がリュンケウスの跡を継いで、5年目に、ラメドンがアルゴスの町を占領した。[97]

13.2 ポキスへの移住
アバスは、アルゴスの町から逃れて、ポキス地方にアバイの町を建設した。[98]
アバスの祖父ダナオスと共にギリシアへ移住して来た人々が、トロイゼンの町、ラケダイモンの町、そして、メガラ地方に住んでいた。
アバスがそれらの町へ行かずに、ポキス地方へ移住した理由は不明である。
ポキス地方のダウリスの町の近くには、少し前に、トラキア地方からテレウスに率いられて移住して来たトラキア人が住んでいた。[99]

13.3 アルカディアへの移住
ストラボンは、アルカディア地方のマンティネイアの町は、アルゴス人によって作られた5つの集落をもとにして建設されたと伝えている。[100]
このマンティネイアの町は、後に新市ができた時に、プトリスの町と呼ばれるようになった旧市であったと思われる。リュカオンの子マンティネウスが創建した町は、プトリスの町の場所にあった。[101]
マンティネウスの娘アグライアは、リュンケウスの子アバスと結婚したが、その結婚は、アルゴスの町からの移住が縁であったと思われる。[102]
移住者たちを率いたのは、アイギュプトスの子アンティマコスとダナオスの娘ミデイアとの間の息子アンピアナクスであった。アンピアナクスの娘アンタイアの娘マイラの墓がマンティネイアの町の近くにあった。[103]
アンピアナクスの父アンティマコスは、アバスの父リュンケウスの兄弟であり、アンピアナクスとアバスは従兄弟であった。
アンピアナクスの移住の動機は、アバスの移住と同じく、ラメドンによるアルゴスの町の占領であり、彼の移住は、BC1408年の出来事と推定される。

13.4 シキュオンとの戦い
BC1407年、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスは、アルゴスの町を占拠していたラメドンを追放して、シキュオンの町を占領した。[104]
この戦いには、ロクリス地方のデウカリオーンの子マラトニウスも参加し、シキュオンの町のオルトポリスの娘クリュソルテと結婚した。[105]
マラトニウスの父デウカリオーンの父ドロスは、アルカンドロスの父アカイオスの父クストスの兄弟であり、マラトニウスはアルカンドロスの又従兄弟であった。
さらに、アイオロスの子シシュッポスもアルカンドロスに加勢し、戦いの後でシキュオンの町の東側にエピュラ (後のコリントス)の町を創建した。[106]
シシュッポスの父アイオロスは、アルカンドロスの父アカイオスの父クストスの兄弟であり、シシュッポスはアルカンドロスの父の従兄弟であった。
アルカンドロスは、ポキス地方へ逃れていたリュンケウスの子アバスをアルゴス王に復位させて、未成年者であったアバスの後見人になった。[107]
アルカンドロスは、アバスの母ヒュペルメストラの姉妹の夫であり、アバスの義理の叔父であった。[108]
この戦いの後で、アルカンドロスと共に多くのアカイア人がアルゴスの町へ移り住むことになった。

13.5 メッセニアへの移住
BC1405年、レレクスの子ポリュカオンが、ラケダイモンの町からメッセニア地方へ移住してアンダニアの町を創建した。町の建設には、ポリュカオンの妻メッセネの出身地アルゴスの町から大勢の人々が参加した。[109]
その人々は、少し前にアルカンドロスと共にテッサリア地方からアイギアロス地方を経由して、アルゴスの町へ移住したアカイア人であったと推定される。その証拠に、ポリュカオンの後裔が絶えたとき、アンダニアの町の住人は、テッサリア地方から自分たちの指導者を迎えている。[110]
この移住により、アカイア人は、コリントスの町からメッセニア地方のアンダニアの町まで、広く居住するようになった。

13.6 エジプトへの移住
BC1402年、アバスの後見が終わると、アカイオスの子アルカンドロスは、エジプトのナイルデルタへ移住して、アルカンドロポリスの町を創建した。[111]
アルカンドロポリスの町の近くには、アルカンドロスの妻スカイアが幼少期を過ごしたケンミスの町があった。[112]
アルカンドロスには、テッサリア地方で結婚した妻キュレネや息子アリスタイオスも同行した。[113]

14 アバスの子プロイトスの時代 (1387-1370 BC)
14.1 アクリシオスの追放
BC1387年、リュンケウスの子アバスが死ぬと、アバスの子プロイトスは、彼の双子の兄弟アクリシオスをアルゴスの町から追放した。[114]
2人は、当時、13歳と推定され、自らの意志による行動ではなく、両者を担いだ勢力による党派争いであった。
当時のアルゴスの町の住人は、大きく分けて2つの集団があった。
1つは、アカイオスの2人の息子たち、アルカンドロスとアルキテレスと共にテッサリア地方からアルゴスの町へ移住して来たアカイア人である。
もう1つは、アルゴスの町に古くから住んでいたペラスゴイ人であった。
追放後のアクリシオスの行動から考えて、アクリシオスを支援したのはアカイア人であり、プロイトスを支援したのはペラスゴイ人であったと推定される。

14.2 エジプトへの移住
アルゴスの町を追われたアクリシオスは、少し前にアルゴスの町からエジプトへ移住した、彼の父アバスの後見人アルカンドロスのもとへ逃れた。[115]
アクリシオスは、アルカンドロスとスカイアとの娘と推定されるアガニッペと結婚し、娘ダナエが生まれた。[116]

14.3 ヘラ神殿の創建
BC1375年、プロイトスは、シキュオンの町の海岸近くにヘラ神殿を創建した。[117]
その地方は、古くは、アイギアロスと呼ばれ、プロイトスの父アバスの後見人アルカンドロスが住んでいた。[118]
アバスの時代から、その地方には、アルゴスの町の影響力が及んでいたと思われる。

15 アバスの子アクリシオスの時代 (1370-1339 BC)
15.1 エジプトからの帰還
BC1370年、アクリシオスは、17年後に帰国に成功し、プロイトスからアルゴスの町を奪い返した。[119]
アクリシオスの帰還を助けたのは、ナウプリアの町の創建者ナウプリオスであったと推定される。[120]
ナウプリオスの母は、ダナオスの娘アミュモネであり、彼の父は、ダナオスと共にアルゴスの町へ移住して来たエジプトのであった。[121]
後に、ナウプリオスの子ダマストールの子ペリステネスの子ディクテュスは、アクリシオスの孫ペルセウスの庇護者になった。[122]

15.2 アルカディアへの移住
伝承では、アクリシオスに追放されたプロイトスはリュキア地方へ亡命している。
しかし、その伝承は、プロイトスがリュキア地方からキュクロペスを招いたことから、リュキア地方へ移住したベレロポンと混同されて成立した作り話と思われる。[123]
プロイトスの亡命先は、彼の母アグライアの出身地であるアルカディア地方のマンティネイアの町であった。[124]

15.3 プロイトスの結婚
マンティネイアの町に住んでいたアンピアナクスは、プロイトスの父アバスの父リュンケウスの兄弟アンティマコスの息子であった。つまり、アンピアナクスは、プロイトスの父の従兄弟であった。
マンティネイアの町で、プロイトスはアンピアナクスの娘ステネボイアと結婚した。[125]
ステネボイアは、プロイトスの又従妹であった。

15.4 アクリシオスとプロイトスの戦い
BC1368年、プロイトスはアンピアナクスの援助を得て、テュリンスの町を占拠した。[126]
プロイトスは、アルゴスの町のアクリシオスと戦ったが勝敗はつかなかった。[127]
両者は、アクリシオスがアルゴスの町を領し、プロイトスがテュリンス、ヘライオン、ミデイアの町、およびアルゴス地方の沿海部を領することで和解した。[128]
その後、プロイトスはリュキア地方からキュクロペスを招いてテュリンスの町の城壁を強化した。[129]

15.5 アクリシオスの後継者
アクリシオスにはピラモンという息子がいたが、BC1350年、デルポイを荒らしたプレギュアス人との戦いで戦死した。[130]
プレギュアス人との戦いは、住民に多くのアカイア人を抱えるアクリシオスが隣保同盟の一員として実施したものであった。アクリシオスは、隣保同盟を組織化した。[131]
また、アクリシオスには、イナコス川の近くの山の名付け親になったアペサントスという名前の息子がいたが、事故で死んだ。[132]

15.6 エジプトからの移住
BC1349年、後継者を失ったアクリシオスは、エジプトに住むダナエの息子ペルセウスを自身の後継者とするためにアルゴスの町に呼び寄せた。伝承では、ペルセウスが母ダナエのもとから無理やり連れ去られたと伝えられている。しかし、ダナエには、少なくとも、もう一人、ダウノスという名前の息子がいた。[133]
伝承では、ダナエの青銅製の小部屋が、アルゴスの町にあったと伝えられている。[134]
しかし、ダナエは、エジプトで生まれ、アルゴスの町に住んだことはなかった。

15.7 アルゴスからの亡命
BC1343年、ペルセウスはアクリシオスの兄弟プロイトスを殺害してセリポス島へ亡命し、ディクテュスと妻クリュメネの庇護を受けた。[135]
ディクテュスは、ダナオスの娘アミュモネの子ナウプリオスの子ダマストールの子ペリステネスの息子であった。[136]
ナウプリオスは、ナウプリアの町の創建者であり、彼の父は、ダナオスと共にエジプトからペロポネソス半島へ移住して来た。ディクテュスとペルセウスは、ダナオスを共通の先祖とする同族であった。[137]
AD2世紀の著述家アポロドロスは、恐らく、BC7世紀の叙事詩人ヘシオドスを参照して、ディクテュスとポリュデクテスは、アイオロスの子マグネスの息子たちであると伝えている。しかし、ヘシオドスは、彼らとペルセウスやセリポス島との関係は記していない。[138]
セリポス島は、ナウプリアの町から近く、漁業の拠点であり、アルゴスの町からクレタ島などへの航路の補給地になっていたと思われる。

15.8 ペルセウスの結婚
ペルセウスは、エチオピア人の地に住むベロスの子ケペオスのもとへ行き、彼の娘アンドロメダと結婚した。[139]
エチオピア人の地は、アナトリア半島北西部のアイセポス川の河口付近にあった。そこにはメムノン村があり、エチオピア人を率いてトロイに駆け付けたティトノスの子メムノンの墓があった。[140]
体躯や容貌がエジプトの南に住むエチオピア人に似ていたために、アイセポス川の河口付近の住人は、エチオピア人と呼ばれていたものと思われる。
ケペオスはエジプトからの移民であり、ペルセウスとアンドロメダとの結婚からつぎのように推定される。
ケペオスの父ベロスは、エジプトに住んでいたギリシア系エジプトのであった。ベロスの父はアルゴスの町からエジプトへ移住し、ナイルデルタにアルカンドロポリスの町を創建したアカイオスの子アルカンドロスと推定される。そして、ペルセウスの父は、アルカンドロスの子メタナステスの子ピラムノスであったと思われる。[141]
つまり、アンドロメダは、ペルセウスの又従妹であった。

15.9 医術の伝来
スーダ辞典は、エジプト人アピスがギリシアに医学をもたらし、アスクレピオスがその技術を発展させたと伝えている。[142]
アイスキュロスは、アピスがアルゴス人の土地の向こう岸のナウパクトスからやって来て、疫病を治療したと記している。[143]
両者のアピスは同一人物と思われる。
しかし、ロクリス・オゾリス地方のナウパクトスの町は、ヘラクレイダイの帰還時に、アリストマコスの子テメノスによって創建された町であった。[144]
アスクレピオスは、ヘラクレイダイの帰還より前の人物であり、医術を伝えたアピスはアスクレピオスより前の人物であった。[145]
アイスキュロスが記しているナウパクトスは、ナウプリアの誤りで、アピスとアスクレピオスの関係は、つぎのように推定される。
ナウプリアの町の創建者は、ダナオスの娘アミュモネの子ナウプリオスであり、その町の住民はエジプトからの移住者であった。[146]
医学の知識を持ったアピスは、アクリシオスに同行してエジプトからギリシアへ移住して来たと推定される。[147]
アクリシオスの妻は、ラケダイモンの娘エウリュディケであった。[148]
エウリュディケの兄アミュクラスの妻ディオメデは、テッサリア地方に住むラピタイの始祖ラピトスの娘であった。[149]
アスクレピオスは、ディオメデの兄弟ペリパスの子エラトス (または、エイラトス)の子イスキュスの息子であった。
つまり、アピスの医学の知識は、最初にラピタイに伝えられ、その後、アスクレピオスがその技術を発展させたと推定される。[150]

15.10 アクリシオスの死
アクリシオスの死についての伝承は多いが、いずれも作り話である。[151]
アクリシオスは61歳で死に、ラリッサに埋葬された。
そのラリッサは、パウサニアスやアポロドロスが記しているテッサリア地方のラリッサの町ではなかった。[152]
アクリシオスの墓は、アルゴスの町のアクロポリスにあるアテナ神殿にあった。[153]
アルゴスの町のアクロポリスは、ラリッサと呼ばれていた。[154]

16 プロイトスの子メガペンテスの時代 (1339-1310 BC)
BC1339年、アクリシオスが死去すると、プロイトスの子メガペンテスは、アルゴスの町へ移り住んだ。[155]
メガペンテスは、アルゴス王アバスの直系の孫であり、アルゴスの町を継承する権利があった。これによって、アルゴスの町の主たる住人は、アカイア人からペラスゴイ人になった。

16.1 ミュケナイとの対立
BC1334年、ペルセウスは、セリポス島のディクテュスやエチオピア人の力を借りて、ペロポネソス半島へ帰還した。ペルセウスは、アルゴスの町を追われたアカイア人と共に、テュリンスの町を奪い、アルゴスの町を挟むようにミュケナイの町を創建して、堅固な城壁で囲んだ。[156]
BC1310年、メガペンテスはペルセウスを殺害して、父プロイトスの仇を討った。[157]
アクリシオスとペルセウスの時代から続く対立は、ペラスゴイ人の町アルゴスと、アカイア人の町ミュケナイとの対立へと変わった。
BC1217年にミュケナイの町のエウリュステウスがアッティカ地方に住むヘラクレスの息子たちを攻めたとき、アルゴスの町はエウリュステウスに援軍を出さなかった。
また、BC1215年のアルゴス人によるテバイ攻めのとき、ミュケナイ人は遠征に参加しなかった。[158]

17 メガペンテスの子アルゲウスの時代 (BC1310-1295)
メガペンテスの跡を彼の息子アルゲウスが継いだ。[159]

17.1 アバイとの対立
リュンケウスの子アバスが創建したアバイの町については、創建後の消息が不明である。
しかし、その消息を知る手掛かりが3つある。
1) ストラボンは、エウボイア島のアバンテスは、ポキス地方のアバの町から島に渡ったトラキア人であったという説を紹介している。[160]
2) ヒュギーヌスは、「アバスは父リュンケウスのことで、メガペンテスを殺した」と伝えている。[161]
3) BC4世紀の哲学者アリスティッポスは、「アルカディアの歴史」の中で、アバスの子デウカリオーンに言及している。[162]
以上の手掛かりからつぎのように推定される。
リュンケウスの子アバスは、アルカディア地方のマンティネイアの町から妻を迎えており、アルカディア地方と関係が深かった。[163]
アリスティッポスが言及しているデウカリオーンは、リュンケウスの子アバスの息子であり、アバスが創建したアバイの町を継承した。[164]
メガペンテスを殺したアバスはカルコドンの父であり、アバスの父は、メガペンテスに殺されたリュンケウスであった。[165]
そのリュンケウスは、アバイの町を継承したデウカリオーンの息子であり、アクリシオスとプロイトスの争いでは、リュンケウスはアクリシオスに味方していたものと思われる。
つまり、エウボイア島のアバンテスの始祖は、アクリシオスの兄弟デウカリオーンの子リュンケウスの子アバスであった。
BC1310年、アバスは、ポキス地方のアバイの町からエウボイア島のカルキスの町へ移住した。[166]

17.2 アカイアへの移住
BC1300年、トリオパスの子ポルバスの子ペレンは、アルゴスの町からアカイア地方へ移住して、シキュオンの町の西北西にペレネの町を創建した。[167]
ペレンの子ヒュペラシウス(または、ヒッパソス)の息子たち、アンピオンとアステリオス (または、アステリオン)は、ペレネの町からの参加者としてアルゴ船の遠征物語に登場している。[168]
アルゴスの町のリュンケウスの子アバスには、トリオパスという別名があった。[169]
ペレンの父ポルバスをアバスとしても年代的に不都合はない。
恐らく、アクリシオスの孫ペルセウスとプロイトスの子メガペンテスの争いに、アバスの孫ペレンも巻き込まれて、移住したと推定される。
BC1375年、プロイトスは、シキュオンの町の海岸近くにヘラ神殿を創建しており、ペレンが移住した土地にアルゴスの町の影響力があったと思われる。[170]

18 アルゲウスの子アナクサゴラスの時代 (BC1295-1260)
アルゲウスの跡を彼の息子アナクサゴラスが継いだ。[171]

18.1 アルゴスの割譲
アナクサゴラスがアルゴスの町を継承したとき、ミュケナイの町は、ペルセウスの子ステネロスが治めていた。ステネロスは、ペロプスの娘ニキッペ (または、アルキッペ)を妻に迎え、彼の3人の兄弟もペロプスの娘を妻にして、ミュケナイの町は勢力を増しつつあった。[172]
BC1290年、アナクサゴラスは、アミュタオンの2人の息子たち、メランプスとビアスに、アルゴスの町の一部を割譲した。[173]
アナクサゴラスは、彼らを共住者にして、ミュケナイの町に対抗しようとした。
メランプスとビアスは、メガペンテスの2人の娘たち、イピアネイラとリュシッペをそれぞれの妻にしていた。[174]
つまり、メランプスとビアスは、アナクサゴラスの義理の叔父であった。

18.2 ボイオティアへの移住
BC1275年、 アルゴスの町に住むヒュイットスが、アリスバスの子モルロスを殺害するという事件が起きた。ヒュイットスは、ボイオティア地方へ移住し、ミニュアスの子オルコメノスにコパイス湖の北側の土地を分けてもらい、ヒュイットスの町を創建した。[175]
ミニュアスの子オルコメノスは、アイオリスに所属していたことから、ヒュイットスは、同じアイオリスに所属するビアスの息子と思われる。

18.3 カリュドンへの移住
このヒュイットス事件は、メランプスの2人の息子たち、アバス (または、マント, マンティオス)とマンティオス (または、アンティパテス)との対立を生んだ。
BC1264年、マンティオスは、彼の叔母アイオリアが嫁いだカリュドンの町へ逃れた。[176]
その後、マンティオスの子オイクレス (または、オイクレス、オイレウス、オイクレウス)は、プレウロンの町のテスティオスの娘ヒュペルメストラと結婚した。[177]
アイオリアは、テスティオスの父プレウロンの兄弟カリュドンの妻であった。
つまり、オイクレスは、祖父メランプスの姉妹アイオリアの義理の甥テスティオスの娘と結婚した。

19 アナクサゴラスの子アレクトールの時代 (1260-1235 BC)
アナクサゴラスの跡を彼の息子アレクトールが継いだ。[178]

19.1 ディオニュソスの訪問
BC1250年、ディオニュソスの儀式を伝える集団がアルゴスの町を訪問した。[179]
その集団を率いたのは、ナクソス島のディオニュソスの神官オイナロス (または、ディオニュソス)と彼の妻アリアドネであった。
ディオニュソスの集団には、オイナロスの娘たちとナクソスの子レウキッポスの娘たちがいた。[180]
彼らを招いたのは、アミュタオンの子メランプスであった。[181]
ミノスの娘アリアドネは、この旅の途中で死に、アルゴスの町に埋葬された。[182]

19.2 カリュドンからの帰還
BC1247年、メランプスの子マンティオスは、彼の息子オイクレスや孫アンピアラオスと共に、アルゴスの町へ帰還した。[183]
マンティオス一家は、自分たちをアルゴスの町から追い出したメランプスの子アバスや、彼に味方したビアスの後裔と戦った。[184]
ビアスの子タラオスは、オイクレスの子アンピアラオスに殺された。[185]
戦いに敗れた者たちは、アルゴスの町から各地へ移住した。

19.2.1 エウリュステウスの協力
マンティオスの帰還には、つぎの理由からミュケナイ王エウリュステウスが協力したと推定される。
1) 後のヘラクレスのエリス攻めにマンティオスの子オイクレスが参加した。[186]
2) 後に、ヘラクレスは、カリュドンの町を去っている。
これは、エウリュステウスがオイクレスの子アンピアラオスを通じて、カリュドンの町のオイネウスに、ヘラクレスを追い出すように、強制したためと思われる。
ミュケナイの町とアルゴスの町は対立していたが、マンティオスは、対立の原因となったプロイトスの子メガペンテスの後裔ではなかった。

19.2.2 各地への移住
アバスの子ポリュペイデスは、アカイア地方のヒュペレシアの町へ移住した。[187]
ヒュペレシアの町の近くには、アルゴス人が創建したペレネの町があった。[188]
アバス本人は、テッサリア地方のラリッサの町の近くのピュッロスの町へ移住した。[189]
ピュッロスの町は、アバスの父メランプスが生まれた町であった。[190]
また、ビアスの子タラオスの子アドラストスは、シキュオンの町のポリュボスのもとへ亡命した。[191]
アドラストスの母リュシアナッサは、ポリュボスの娘であり、ポリュボスはアドラストスの祖父であった。[192]
タラオスの子プロナクスは、アルゴスの町からシキュオンの町とコリントスの町の境を流れるネメア川の上流へ移住して、町を創建した。[193]
プロナクスは、コリントスの町に住むアイオロスの子シシュッポスの娘ネメアを妻に迎えて、町の名前をネメアにした。[194]
アバスの子コイラノス (または、クレイトス)は、メガラ地方へ移住した。[195]
コイラノスには、祖父メランプスや甥テストールが同行した。[196]
メランプスは、キタイロン山近くのアイゴステナの町で死んだ。[197]

19.3 ヘラクレスのエリス攻め
BC1241年、アルゴス人は、ヘラクレスのエリス攻めに参加した。[198]
アルゴス人を率いたのは、メランプスの子マンティオスの子オイクレスであった。[199]
オイクレスは、アイトリア地方からアルゴスの町へ帰還するときに、ミュケナイの町のエウリュステウスに助けられたことから、エリス攻めに参加したと推定される。
エリス攻めの後で、ヘラクレスが次の移住先としてカリュドンの町を選択したのは、オイクレスから勧められたためであったと思われる。[200]
オイクレスは、彼の父マンティオスと共にアルゴスの町から逃れて、カリュドンの町に20年以上住んでいた。[201]

19.4 アドラストスのアルゴス帰還
BC1238年、シキュオンの町のポリュボスのもとへ亡命していたアドラストスは、アンピアラオスと和解して、アルゴスの町へ帰還した。[202]
和解の条件は、アンピアラオスとアドラストスの姉妹エリピュレとの結婚であった。[203]
アンピアラオスとエリピュレは、アミュタオンを共通の先祖とする同族であった。
アンピアラオスがアドラストスと和解したのは、多くの人々がアルゴスの町を去った後で、父を失い、勢力を増すミュケナイの町に対抗できなくなったからと思われる。

20 アレクトールの子イピスの時代 (1235-1210 BC)
アレクトールの跡を彼の息子イピスが継いだ。[204]

20.1 アドラストスのシキュオン王継承
BC1236年、アドラストスは、シキュオン人から招かれて、祖父ポリュボスの跡を継いで、シキュオン王になった。[205]
BC1232年、アドラストスは、クリュティウスの後裔イアニスコスに譲位してアルゴスの町へ帰還した。[206]

20.2 テュデオスの亡命
BC1226年、オイネウスの子テュデオスは、カリュドンの町からアルゴスの町のアドラストスのもとへ亡命して、アドラストスの娘デイピュラと結婚した。[207]
テュデオスの父オイネウスの母アイオリアは、アドラストスの父タラオスの父ビアスの姉妹であった。[208]
つまり、アドラストスは、テュデオスの又従兄であった。
あるいは、テュデオスは、カリュドンの町で生まれたアンピアラオスを頼ってアルゴスの町へ来たとも思われる。しかし、当時、アンピアラオスは、アルゴスの町ではなく、ピュロスの町に住んでいた。[209]

20.3 ポリュネイケスの亡命
BC1225年、オイディプスの子ポリュネイケスは、テバイの町からアドラストスのもとへ亡命して、アドラストスの娘アルギアと結婚した。[210]
アドラストスは、ポリュネイケスの父オイディプスの養父ポリュボスの娘リュシアナッサの息子であった。[211]

20.4 オイディプスの葬儀
BC1223年、オイディプスの葬送競技会がテバイの町で開催され、アドラストスの兄弟メキステウス が参加した。[212]
アドラストスのもとへ亡命中のポリュネイケスは、彼の妻アルゲアをオイディプスの葬儀に参列させた。 [213]
メキステウスは、オイディプスの養父ポリュボスの娘リュシアナッサの息子であった。
オイクレスの子アンピアラオスもアルゲアに同行して、オイディプスの埋葬に参加した。[214]
ポリュネイケスの妻アルゲアの弔問の後で、ポリュネイケスは、彼の兄弟エテオクレスに招かれてテバイの町へ一時的に帰還するが、両者の間には修復しがたい対立が生まれた。

20.5 アドラストスのテバイ攻め
アドラストスは、ポリュネイケスを帰還させるために軍勢を率いてテバイの町へ遠征した。
アルゴスの町からの参加者は、つぎのとおりであった。[215]
アドラストスの娘デイピュラ (または、デイピュレ)の夫、オイネウスの子テュデオス。
アドラストスの姉妹アステュノメの息子、ヒッポノウスの子カパネウス。
アドラストスの姉妹アステュノメの子カパネウスの妻エウアドネの兄弟、イピスの子エテオクルス。
アドラストスの姉妹メティディケの息子、ムネシマコスの子ヒッポメドン。
アドラストスの姉妹エリピュレの夫、オイクレスの子アンピアラオス。
アドラストスの兄弟、タラオスの子メキステウス。
アドラストスの兄弟、タラオスの子パルテノパイウス。
BC1215年、アドラストスはアルゴス人を率いて、アルゴスの町を出発して陸路で、キタイロン山を越え、エレクトラ門の外で待ち受けるテバイ人と戦って敗れた。[216]

21 カパネウスの子ステネロスの時代 (1210-1186 BC)
21.1 エピゴノイのテバイ攻め
BC1205年、アドラストスのテバイ攻めから10年後、アンピアラオスの子アルクマイオン率いるアルゴス人は、再び、テバイの町へ遠征した。[217]
アルクマイオンを指揮官とするエピゴノイ率いるアルゴス人は、海路でアウリスの町に着き、そこからテバイの町を目指した。[218]
エテオクレスの子ラオダマスは、テバイの町から出陣して、グリサスの町に陣を敷いていた。[219]
グリサスの町で戦いがあり、アルゴス人が勝利した。この戦いで、アドラストスの子アイギアレオスや、パルテノパイウスの子プロマコスなど多くの者が戦死した。[220]
エピゴノイは、テバイの町を占領して、ポリュネイケスの子テルサンドロスは、テバイ王に即位した。[221]

21.2 アルクマイオンの移住
BC1204年、アンピアラオスの子アルクマイオンは、捕虜にしたテバイ人の要望を受けて遠征した。アルクマイオンは、彼らの王であったエテオクレスの子ラオダマスが移住したイリュリア地方を目指した。途中、捕虜たちの一部はアケロイオス川河口付近にアスタコスの町を創建した。[222]
アルクマイオンは残りの捕虜たちをイリュリア地方へ送り出した後で、アルクマイオン本人は、アンブラキア湾の東側にアルゴス (後のアンピロキアのアルゴス)の町を創建した。[223]
伝承では、アンピアラオスの子アンピロコスはトロイ遠征に参加したと伝えられている。[224]
しかし、この伝承は、キリキア地方のマッロスの町を創建したアンピロコスと混同されたものであった。[225]
このアンピロコスは、アンピアラオスの子アンピロコスではなく、アンピアラオスの子アルクマイオンとティレシアスの娘マントの息子であった。[226]
アンピアラオスの子アンピロコスは、兄弟アルクマイオンと共にギリシア北西部へ移住したと推定される。

21.3 ディオメデスのアイトリア遠征
BC1202年、テュデオスの子ディオメデスは、アルゴスの町からアイトリア地方へ遠征して、カリュドンの町を追われた祖父オイネウスの領地を奪い返した。[227]
この遠征に、ディオメデスは、エピゴノイを率いたアンピアラオスの子アルクマイオンを協力者にしたとも伝えられる。[228]
しかし、オイネウスを追放したのは、プレウロンの町に住むパルタオンの子アグリオスと彼の息子たちであった。[229]
彼らは、アルクマイオンの祖母ヒュペルメストラを通して、アルクマイオンとは、従兄弟の孫同士の関係にあった。[230]
アルクマイオンが親族を相手の戦いに参加したとは思われない。
ヒュギーヌスは、カパネウスの子ステネロスがディオメデスと共にアイトリア地方へ遠征したと伝えている。ディオメデスとステネロスの友情関係から見て、ディオメデスと共に遠征したのは、アルクマイオンではなく、ステネロスであったと思われる。[231]
ディオメデスは、オイネウスの娘ゴルゲスの夫で、アンピッサの町に住むアンドライモンに、アイトリア地方を任せた。[232]

21.4 アルゴス王家の墓
アルゴスの町の「デルタ」と呼ばれる場所の近くに、王家の墓地があった。
そこには、ダナオスの娘ヒュペルメストラと彼女の夫リュンケウス、アンピアラオスの母ヒュペルメストラ、ビアスの子タラオスの墓があった。[233]
スパルタの町の2つの王家(アギス王家、エウリュポン王家)の墓所は離れた所にあった。[234]
しかし、アルゴスの町の3つの王家(アナクサゴラス王家、メランプス王家、ビアス王家)の墓は、一か所にあったことになる。

21.5 トロイ戦争
BC1188年、アンテノールの息子たちが、ラオメドンの子プリアモスの息子たちを追放して、イリオンの町を占領した。プリアモスの息子たちは、ヘレスポントの利用を通して友好関係にあったアカイア人に援軍を要請した。
アカイア人は、ペレウスの子アキレスを総大将にしてトロイ遠征軍を編成した。
次のことから、この遠征に、アルゴス人も参加したと推定される。
1) パウサニアスは、キュアニッポスの後見人として、テュデオスの子ディオメデスがトロイへ遠征したと伝えている。ディオメデスは、キュアニッポスの伯父であり、キュアニッポスは、当時、未成年者であった。
2) ホメロスは、アルゴス人を率いた将を3人列挙している。[235]
つまり、テュデオスの子ディオメデス、カパネウスの子ステネロス、メキステウスの子エウリュアロスであった。彼らは、アルゴス3王家の中のアナクサゴラス王家とビアス王家を代表していた。
しかし、もう一つの王家であるメランプス王家の将が記されていない。
当時、メランプス王家の王であったアンピアラオスの子アルクマイオンは、アカルナニア地方へ移住して、アルゴスの町に住んでいなかった。
パウサニアスやホメロスが伝えていることは、当時の実情に合致しており、アルゴス人もトロイ遠征に参加したと推定される。

22 ステネロスの子キュララベスの時代 (1186-1165 BC)
22.1 イタリアへの移住
トロイ遠征から帰還したディオメデスは、祖父オイネウスの旧領アイトリア地方へ移住した。[236]
BC1184年、ディオメデスは、アイトリア地方から海を渡ってイタリア半島東岸アプリア地方へ移住した。[237]
アプリア地方北西部のドリオンと呼ばれる丘の近くにカルカスの英雄廟と、ポダレイリオスの英雄廟があった。[238]
テストールの子カルカスやアスクレピオスの子ポダリロス (または、ポダリリオス, ポダレイリオス)と共にトロイへ遠征したディオメデスが、彼らの英雄廟を建てたと推定される。

22.2 ドーリス人による占領
BC1173年、ヘラクレスの子ヒュッロスの子クレオダイオス率いるドーリス人が、ミュケナイの町を攻めて、町を破壊した。[239]
近年の考古学調査で、BC12世紀のミュケナイの町に破壊された痕跡が確認されている。[240]
ドーリス人は、テュリンスやミデイアの町も破壊した。[241]
アルゴスの町もドーリス人によって、一時占拠されたと推定される。
その後の戦いでドーリス人は撃退されるが、ペロポネソス内は荒廃した。

22.3 アルゴスの3王家の消滅
アルゴスの町の3王家、アナクサゴラス王家、メランプス王家、ビアス王家は、つぎのようにして、アルゴスの町から消滅した。
BC1247年、メランプス王家とビアス王家の大部分の人々は、オイクレスの子アンピアラオスによって、アルゴスの町から追放されて、各地へ移住した。
BC1238年、ビアス王家のアドラストスは、アンピアラオスと和解して、アルゴスの町へ帰還した。[242]
BC1204年、アンピアラオスの息子たち、アルクマイオンとアンピロコスの移住を最後に、アルゴスの町からメランプス王家はいなくなった。
BC1184年、テュデオスの子ディオメデスは、アイトリア地方へ移住した。[243]
ディオメデスの母デイピュラ (または、デイピュレ)は、ビアスの子タラオスの子アドラストスの娘であり、ディオメデスは、ビアス王家に所属していた。
その後、アイギアレオスの子キュアニッポスが跡継ぎを残さずに死んで、ビアス王家は断絶した。[244]
BC1165年、ステネロスの子キュララベスが子供を残さずに死んで、アナクサゴラス王家は断絶した。[245]
イナコスの子ポロネオスから585年続いたアルゴスの王統が断絶した。

23 オレステスの子ティサメノスの時代 (1165-1107 BC)
23.1 オレステスによる併合
BC1165年、アルゴスの町の王家が断絶するとアガメムノンの子オレステスは、アルゴスの町を占領した。[246]
オレステスは、アルカディア地方のテゲアの町に住んでいた。[247]
その後、オレステスは、アルゴスの町を彼の息子ティサメノスに任せた。[248]

23.2 ドーリス人による占領
BC1110年、オレステスの子ティサメノスは、アリストマコスの子テメノス率いるドーリス人との戦いに敗れてアルゴスの町に籠城した。[249]
テメノスは、アルゴスの町の南のテメニオンに砦を築いて、アルゴスの町を包囲した。[250]
このとき、ディオメデスの後裔エルギヌスが、アルゴスの町の守護神パラディオン像を盗み出して、テメノスに協力した。[251]
ディオメデスの死後、彼の息子アンピノモスは、イタリア半島からアイトリア地方へ移住し、アンピノモスの子エルギヌスは、アルゴスの町に住んでいた。[252]
エルギヌスとテメノスには、カリュドンの町のオイネウスを共通の祖とする親戚関係があった。
BC1107年、ティサメノスは、アルゴスの町をテメノスに明け渡し、スパルタの町へ移った。
BC1104年、ヘラクレイダイは、ティサメノスがアカイア地方へ移住した後で、獲得した領土を分け合い、テメノスは、アルゴスの町を獲得した。[253]

24 アリストマコスの子テメノスの時代 (1107-1100 BC)
24.1 エピダウロスの占領
BC1102年、テメノスの娘婿、アンティマコスの子デルポンテス (または、デイポンテス)は、アルゴスの町からエピダウロスの町へ遠征して、クストスの子イオンの後裔ピテュレウスから町を奪った。[254]
ピテュレウスは、エピダウロスの住人を率いてアテナイの町へ移住した。[255]
デルポンテスは、アッティカ地方のテトラポリスから同行したイオニア人をエピダウロスの町に定住させた。[256]

24.2 テメノスの死
BC1100年、テメノスは、彼の娘ヒュルネトと彼女の夫デイポンテスとを偏愛したため、息子たちに殺された。[257]

25 テメノスの子ケイソス以降の時代
テメノスの跡を彼の息子ケイソスが継いだ。[258]
ケイソスは、散らばって住んでいた人々を集めて、新しいアルゴスの町を建設した。[259]

25.1 プリウスの占領
BC1087年、テメノスの子パルケスの子レグニダスは、プリウスの町を攻めて町を占領した。[260]
プリウスの町の有力者ヒッパソスは、サモス島へ移住した。[261]

25.2 アイピュトスへの援軍
ヘラクレイダイが獲得した領土を分け合ったとき、メッセニア地方は、アリストマコスの子クレスポンテスに割り当てられた。[262]
しかし、クレスポンテスは、ポリュポンテスによって殺され、王位は簒奪された。[263]
BC1073年、 テメノスの子イストミオスは、クレスポンテスの子アイピュトスがメッセニア地方へ帰還させるために、アルゴスの町から援軍を派遣した。[264]

25.3 ロドスへの移住
BC1070年、テメノスの子ケイソスの子アルタイメネスは、アルゴスの町からドーリス人とペラスゴイ人を率いてクレタ島に植民した。[265]
その後、アルタイメネス本人は、ロドス島へ移住してリンドス、イアリュソス、カメイロスという3つの町を建設した。[266]
BC1213年、トレポレモスが、テュリンスの町からロドス島へ移住して、同じ3つの町を建設しているので、アルタイメネスは彼らの子孫たちと共住したと思われる。[267]
アルタイメネスの植民団には、メガラの町を建設したドーリス人も参加していた。[268]
ロドス島の支配者は、テルキネス族、ヘリアダイ、フェニキア人、カリア人へと変わり、そして、ドーリス人がロドス島の支配者になった。[269]
ギリシアの7賢人の一人、ロドス島のリンドスの町のクレオブロスはヘラクレスの後裔であったことから、アルタイメネスの後裔と推定される。[270]
ロドス島のドーリス人は、その後、ハリカルナッソス、クニドス、コスへも移住した。[271]

25.4 スパルタとの戦い
BC870年、スパルタの町のアギスの子エケストラトスは、ラコニア地方とアルゴス地方の境付近にあるキュヌリアの町から壮年男子を追放した。[272]
BC860年、アルゴスの町のテスティオスの子メロプスは、キュヌリアの町をめぐってエケストラトスの子ラボタスと戦ったが勝敗は付かなかった。[273]

25.5 アルゴスの黄金時代
BC760年、アリストダミスの子ペイドンは度量衡を定め、銀貨を鋳造した。[274]
ペイドンは、コリントスの町までも支配下に置いた。[275]
BC748年、ペイドンは、エレイア地方にも影響力を及ぼし、アルゴスの町と友好関係にあったピサの町は、オリュンピアードを開催した。[276]

25.6 マケドニアへの移住
BC750年、ペイドンの子カラノスは植民団を率いて、マケドニア地方のベルミオス山近くのエデッサ(後のアイゲアイ)の町へ移住した。[277]
カラノスの移住先選定には、ペイドンの銀貨鋳造が深く関係していたと思われる。
当時、パイオニア地方は土を掘れば金の塊が見つかると言われていた。[278]
カラノスは最初に、ピエリア地方の住人を追い出した。追い出されたピエリア人は、ストリュモン川を越えてパンガイオン山付近へ移住した。[279]
カラノスは隣接する地方の支配者キッセウスと戦って勝利した。[280]
キッセウスは、トロイ遠征の物語に登場するイピダマスの祖父キッセウスの後裔と推定される。[281]

25.7 ヘラクレイダイ最後の王
BC745年、ペイドンが死んで、彼の息子エラトスが跡を継いだ。
BC745年、スパルタ王カリッロスの子ニカンドロスがアルゴス地方を荒らした。[282]
エラトスは、スパルタの町に味方したアシネの町を攻撃して、町を破壊した。[283]
BC720年、ペイドンの子エラトスの跡をペイドンの子レオケデス(ラケダス)の子メルタスが継いだ。
メルタスの時代に、王制が廃止された。メルタスは、ヘラクレイダイ最後のアルゴス王になった。[284]

おわり