1 はじめに
Trojan Warについては、Argonautsの遠征物語のように、実際には参加していない、当時の英雄たちを登場させたTroy遠征の物語があったようである。
Homerは、Lemnos島に置き去りにされたPhiloctesが、後に、Troyに召喚されることを仄めかしている。[1]
BC5世紀の悲劇詩人Sophoclesは、Philoctesに関する逸話を具体的に伝えている。
Homerより前の時代にTroy遠征を主題にした物語があったと推定される。
この章に書かれていることは、私がHittiteの文書からAsia MinorやTroyについての情報を得る前に、ギリシアの史料に基づいて執筆したもので、史実とは異なる。
Agamemnon、Odysseus、それに、Diomedes等が登場しないTrojan Warについては、「史実としてのTrojan War」に記述する。
2 Trojan Warの原因について
2.1 伝承
2.1.1 ParisのHelen誘惑説
TroyにCrete勢を率いて、Greece側として参戦したMinosの子Deucalionの子Idomeneusの家臣Dictysなどは、Troy王Priamの子Paris(or Alexander)がSpartaの町を訪問して、客としてもてなされていたが、Menelaus が母Aerope(or Eriphyle)の父Catreusを弔うためCrete島に出かけた留守を狙って、Menelausの妻Helenを誘惑して連れ去ったのがTrojan Warの原因と伝えている。[2]
2.1.2 Anchises家の陰謀説
BC6世紀の神話学者Acusilausは、「Priamの統治が崩壊したときには、Anchisesの後裔がTrojansの王となるであろう」という神託を受けたPriamの従兄弟Anchisesとその息子Aeneasが、ParisにHelenへの願望を植えつけて、Helenを強奪させ、Troyを滅亡に導いたと伝えている。[3]
Dictysは、ParisがSpartaの町を訪問した際に、Aeneasが同行していたと伝えている。[4]
2.2 反論
Menelausにとっては、曾祖父Pelopsを祖国から追い出したTroyの王子を歓待する理由はなく、Parisも訪問する口実はなかったであろう。[5]
また、Helenが激情に駆られて、9歳の娘を置いてまで駆け落ちするとは考えられない。[6]
仮に無理やりHelenを誘拐するにしても、Spartaの町から海岸までは相当な距離があり、困難である。
2.3 推測
BC5世紀の歴史家Herodotusは、HelenがIliumの町にはいなかったと推測しているが、実際は、Helenとはまったく関係なく、Agamemnonが権勢にものを言わせて、遠征に参加させたものと思われる。[7]
Helen の父Tyndareus が娘の求婚者たちに、娘やその夫となった者に危害が及ぶ時は、団結して2人を守るという誓いを立てさせ、その誓約をもとに求婚者たちを遠征に参加させたとされるが、つぎの点から、Agamemnonを筆頭とするPelopidaeの復讐戦であったと推測される。[8]
2.3.1 Tantalusの遺骨の前で復讐の誓いをしていること
AD2世紀の紀行作家Pausaniasは、Argosの町に、Tantalusの骨壺を納めている場所があり、そこで、Troyに出征するArgos勢がTroy攻略を誓ったと伝えている。[9]
Pausanias本人は、そのTantalusは、Agamemnonが殺したClytaemnestraの前夫であるThyestesの子Tantalusと考えていたようであるが、Agamemnonが、自分で殺した男に誓いを立てるということは理解しがたい。[10]
Pausaniasは、Lydia地方のSipylus山中にあるTantalusの墓は見ているので、Pelopsの父Tantalusではないように考えていたようであるが、PelopsがLydiaを後にするとき、父Tantalusの遺骨を持ってGreeceに亡命し、遠征勢はTrojansによって故郷を追われたTantalusの遺骨の前で復讐を誓ったと考えた方が妥当である。[11]
2.3.2 出征拒否者に対して攻撃していること
Boeotia地方のTanagraの町のStratoniceの子Poemanderは、遠征への参加を拒否して、Achillesに攻められ、Poemanderの子Ephippusの子Acestorは、Achillesに殺された。PoemanderやAcestorは、Helenの求婚者ではなく、このことからも、力による軍勢集めであったことが分かる。[12]
2.3.3 遠征の総大将がAgamemnonであったこと
Troy遠征の目的が求婚者たちへの誓約に基づくHelen奪還であるならば、誓約のまとめ役であるHelenの父Tyndareusが遠征軍を率いるべきであろうが、当時、Tyndareusは鬼籍の人であり、その跡を継いだMenelausが総大将となるのが妥当と思われる。[13]
しかし、実際に総大将となったのは、Menelausの兄で、Mycenae王であるAgamemnonであった。このことからも、求婚者や誓約については、後世の創作と思われ、実際は、絶大な権力を手にしたAgamemnonの復讐戦であったと思われる。[14]
3 Pelopidae以外の参加者の参加理由
3.1 Achillesの参加理由
Achillesは、Pelops一族とは系図上で繋がりがなく、Agamemnonに協力する理由はない。
逆に、Agamemnonの姉妹Anaxibiaの夫Strophiusの祖父Phocusを殺したPeleusは、Achillesの父であり、AchillesとAgamemnonは、敵対関係にあったとも言える。[15]
Achillesは、Troy遠征への参加を拒む者を攻撃して、積極的にAgamemnonに協力しており、BC8世紀の吟遊詩人Homerが伝えているように、AgamemnonはAchillesに土地の割譲を条件に遠征に誘ったとも考えられる。[16]
Troy陥落後、AgamemnonやAchillesの子Neoptolemusは、略奪品の保管場所であったTenedosに立ち寄ってから帰還の途に就いており、Achillesに限らず、略奪目当ての遠征でもあった。[17]
3.2 Amphictyonsの決議による参加
また、Thessaly地方の北の外れ、Olympus山の西の麓のCyphusの町からもAenianians(or Enienes)のOcytusの子Gouneusまでもが遠征に参加していることから、Amphictyons(隣保同盟)の決議による参戦であったとも考えられる。[18]
Amphictyonsのもととなったのは、BC1390年にThessaly地方からPelasgiansを追い出したときの種族集団であった。最初の盟主は、Locris地方のThermopylae付近のAntheiaの町に住むDeucalionの子Amphictyonで、当時の参加種族は、Ionians、Dolopians、Thessalians、Aenianians、Magnesians、Malians、Phthiotians、Dorians、および、Phociansの諸部族とPhocis地方に接してCnemis山麓に住むLocriansであった。[19]
その後、Argosの町のAbasの子AcrisiusがAmphictyonsを組織化したとされ、この時は、Acrisiusが盟主であったものと思われる。[20]
Acrisiusの時代、Laconia地方からArgolis地方にかけて、Thessaly地方から移住してきたAchaeansが広く居住していたが、Amphictyons の参加種族も、元をたどれば、Hellenesとして同族であった。Acrisiusは、Lacedaemonから妻を迎え、Acrisiusの双子の兄弟Proetusは、Sicyonの町の海の近くにHera神殿を創建したと伝えられており、Argosの町の影響力はArgolisの北部から、Laconia地方まで、広範囲に及んでいた。[21]
そのため、Orchomenusの町のPhlegyasが、Greece各地から集めたPhlegyansと呼ばれる戦士集団が周辺の町を襲い、Delphiにまで迫ると、Argosの町のPhilammonは、精鋭部隊を率いてPhlegyansを迎え撃つが、全滅してしまった。[22]
このPhilammonは、Acrisiusの息子と推定され、これを機にAcrisiusは、Amphictyonsを組織化したものと思われる。[23]
4 補給基地Lemnos島
Iliumの町の西方約70km沖に浮かぶLemnos島にはEuneusという者がいて、Troy上陸を前にしたAgamemnon一行を歓待し、上陸後は、遠征軍に物資を補給した。[24]
AD1世紀初期の地理学者Strabonは、このEuneusは、Argonautsの遠征隊を率いたAesonの子Jasonの息子としているが、その論拠となっているのは、BC4世紀の神話作家Asclepiadesの『悲劇の物語』であろう。彼は、Argonautsの遠征の途中、Lemnos島に寄港したJasonと島を統治していたThoasの娘Hypsipyleとの間の息子として、Euneusが生まれたと伝えている。[25]
しかし、このThoas は、Crete島のMinos一族がAegean Seaに勢力を拡大したとき、Lemnos島を任せられたMinosの娘Ariadneの息子と思われる。[26]
系図を作成すると、MinosからHypsipyleまでの各世代間を18歳としても、JasonとHypsipyleの年齢差は34歳、その場合でも、JasonがLemnos島を訪問したときのHypsipyleの年齢は8歳となるが、実際は生後間もなくであったものと推定される。
AD2世紀の著述家Apollodorusは、奴隷の身になったHypsipyleがPeloponnesus半島北部のNemeaの町で奉公していたと伝えているが、奴隷の母を持つEuneusがどのような経緯でLemnos島の主になれたのかは伝えていない。[27]
実際は、Argonautsの遠征に参加した、ArgolisのPhliusの町に住むThoasの兄弟PhliasusおよびEurymedonが、Lemnos島に立ち寄った際に、Hypsipyleを連れ帰ったか、Hypsipyleが後に叔父を頼ってLemnos島からPhliusの町へ移住したものと思われる。[28]
Hypsipyleは、Phliusの町からすぐ近くのNemeaの町に住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[29]
Euneusが成人した頃、Nemeaの町は、南南東10kmほどの所にあるMycenaeの町の支配下にあったと思われ、Euneusは、Troy遠征の際に、Lemnos島を補給基地にしようとするAgamemnonの力添えでLemnos島に帰還して、祖父Thoasの地位を引き継いだものと思われる。
AD1世紀初期の地理学者Strabonは、AchillesがTroy周辺の島や町を攻めて略奪行為をしたとき、Lemnos島には手を付けなかったのは、JasonとAchillesの間に縁戚関係があったからだと伝えているが、Lemnos島は重要な補給基地であったからである。[30]
5 前進基地Tenedos島
Iliumの町の南西約20kmにあるLeucophrys島は、Iliumの町の南にあるColonaeの町を治めるCycnus(or Cygnus)の息子Tenes(or Tenes)が島に移住してからTenedos島と名前を変え、Tenesが治めていた。[31]
Tenedos島から本土のTroy地方まで、最短5kmと近く、AgamemnonはTroy上陸前に島を急襲して、TenesはAchillesに討ち取られ、住民は皆殺しにされた。[32]
しかし、Peloponnesus半島のCorinthの町とMycenaeの町の中ほどに、Genea とも呼ばれるTeneaの町があり、Agamemnonの命でTenedos島から強制移住させられた住民が住んでいたと伝えられる。Agamemnonは、Tenedos島を前進基地とするために、敵対勢力となり得る島の住人を強制的に退去させた。彼らの後方移送は、Lemnos島のEuneusが担当し、Euneus自身の出身地Nemeaの町に近いTeneaの町に住まわせたものと思われる。[33]
BC750年、Corinthの町のHeracleidaeの一人Archiasに率いられて、Sicily島に建設されたSyracuseの町への移民のほとんどは、Teneaの町の住民であった。[34]
Achillesは、Mysia地方を荒らした後で、略奪品を持って、Tenedos島にいるAgamemnonのもとへ戻ったりしており、島を戦利品の保管場所にしていた。[35]
AgamemnonもNeoptolemusもTroyを去るときに、戦利品を持ち帰るためにTenedos島に立ち寄っている。[36]
6 Troy周辺各地の攻略
Peleusの子AchillesとTelamonの子Ajaxは、艦隊を率いる提督に任命され、それぞれ部隊を率いて、Troy周辺の町を荒らした。[37]
Achillesが略奪した町は、船で12、徒歩で11であったと伝えられる。[38]
6.1 Ajaxの攻略
6.1.1 Thracia地方のChersoneseの町
Ajaxの急襲を受けたChersoneseの町のPolymestorは降伏して、遠征軍への補給を約束した。[39]
このとき、Ajaxの軍の中には、Protesilausもいて真っ先に上陸したが戦死した。Protesilausは、the Thracian Chersonesusの南端にあるElaesus(or Eleus)に葬られた。[40]
Polymestorは、Priamの娘Ilionaを妻としており、その支配地域から考えて、Priamの妻Hecubaの父Dymasの父Eioneusの父Thynusの父である、Salmydessusの町の創建者Phineusの後裔と推定される。[41]
6.1.2 Phrygia地方
Ajaxは、Chersoneseの町からHellespontを越えたPhrygia地方を襲い、Teuthrasと戦って殺し、娘Tecmessaを捕虜とした。[42]
AjaxとTecmessaの間には、息子Eurysacesが生まれ、Eurysacesは、後にAthensの町の市民権を得て、Salamis島をAthensの町に譲渡して、Eurysaces はAttica地方の東海岸のBrauronの町に住んだ。Eurysacesの子Philaeus の後裔には、BC490年のMarathon の戦いでPersia 軍を破った将軍Miltiadesを輩出した。[43]
6.2 Achillesの攻略
6.2.1 Lesbos島
AchillesはTroyに加担するLesbos島を攻撃して、Phorbasを殺害し、その娘Diomedeaを戦利品とした。[44]
Phorbasは、Priamの親戚であり、当時、島を支配していた。[45]
また、Lesbos島北海岸のMethymnaの町も襲い、LampetusやHicetaon、Antenorの子Hypsipylusを殺した。[46]
この戦いで、Naupliusの子Palamedesが戦死したと推定される。Palamedesの死をAchillesが弔い、Methymnaの町にPalamedesの墓があった。[47]
Achillesに殺されたPhorbas は、BC1340年頃、Thessaly地方から当時、Pelasgia島あるいは、Macarの家と呼ばれていた島へ移住し、Lesbos島の名祖となった、Lapithes の子Lesbosの後裔と思われる。Achillesは、Lapithesの子Aeolusの娘Pisidiceの子Actorの子Aeacusの子Peleusの息子であり、Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であった。[48]
Lesbos島は、古くはPelasgia島と呼ばれ、Pelasgiansが多く住んでいたが、その後、Thessaly地方から移住したAeolisが支配する島となった。しかし、姻戚関係によりTroyとの結びつきが強く、Achillesに対する抵抗は激しかったと思われる。Antenorの子Hypsipylusの兄弟Helicaonの妻は、Priamの娘Laodiceであった。[49]
Trojan Warの後でAeolisの植民活動が始まるが、Lesbos島は、Orestesの子Penthilusに一度占領された後で、Penthilusの子Echelas(or Archelaus)の子Grasが再び占領したと伝えられている。[50]
6.2.2 Scyrosの町
Achillesは、Enyeusが支配するScyrosを攻め落とした。[51]
Pausanias は、AchillesがScyrosを攻略したと述べた後で、Euboea島の北にあるScyros島を記している。[52]
そのため、Achillesの妻の故郷Scyros島をAchillesが攻めたと誤解されている。
しかし、当時、Rhodes島対岸のCyrnusの町をMinosの娘Ariadneの子Enyeusが治めていた。[53]
Dictysは、AchillesはScyrosとHierapolisをほぼ同時に攻略したと伝えている。[54]
Cyrnusの町はHierapolisの町の南南西約120kmの距離にある。
以上のことから、Achilles が攻略したのは、Scyrosではなく、Cyrnusだと思われる。
つまり、Achillesが攻略したEnyeusが支配するScyrosは、Scyros島ではなく、Rhodes島対岸のCyrnusの町であった。
6.2.3 Hierapolisの町
Achillesは、Rhodes島対岸のCyrnusの町を攻略後、兵士たちの求めに応じて、裕福な町Hierapolisを略奪した。[55]
Hierapolisの町は、Rome時代には、多色大理石の産地、染物に適した豊かな水で有名で、海岸から休みなしで片道5日行程の奥地であったが、Achillesの時代から余程評判の町であったものであろう。 [56]
6.2.4 Thebeの町
Achillesは、Ida山南東のThebeの町を攻めて、Eetionを殺し、その妻であるChrysesの娘Astynomeを捕虜にした。[57]
Eetionから得た戦利品の中にあった竪琴をAchillesは、つま弾いて心を鎮めていたと伝えられる。[58]
その竪琴は、Cilixの娘Thebeと結婚したDardanus の甥Corybas が、Samothrace島から持参し、Lyrnessusの町の所有となり、その後、Thebeの町が所有していた。[59]
また、Eetionからの戦利品には、鉄塊もあり、Achillesが競技の賞品とした。刀剣も青銅の時代、人が投げられる程度の鉄塊は、農夫の年収5年分の価値があった。[60]
6.2.5 Lyrnessusの町
Achillesは、Thebeの町の近くのLyrnessusの町を攻めて、Selepusの子Evenusの2人の息子たち、MynesとEpistrophusを殺して、Mynesの妻で、Pedasusの町のBriseusの娘Briseisを捕虜にした。[61]
6.2.6 Pedasusの町
Achillesは、Iliumの町の南方のLeleges の町Pedasusを攻めて、Briseus(or Brises)を自害させ、3人の息子たちを討ち取り、娘Hippodamiaを捕虜にした。[62]
6.2.7 Scepsisの町
Achillesは、Ida山周辺も荒らし、Anchisesの子Aeneasの居城とみなされるScepsisの町も襲われ、Aeneasは戦わずにLyrnessusの町を目指して逃亡した。[63]
6.2.8 Phocaeaの町
Achillesは、Lesbos島対岸のMysia地方の南にあるPhocaeaの町も荒らしたと伝えられる。しかし、Phocaeaの町は、BC1080年、Phocis地方のPhocaeansが、Aeolis南部に移住して創建した町であり、当時は名もない集落があったものと思われる。[64]
6.2.9 Colophonの町
Achillesが荒らした町の名前に、Ephesusの町の近くのColophonの町も伝えられている。[65]
しかし、Colophonの町は、BC1200年、Crete島からLebesの子Rhaciusが移民団を率いて、Chios島とSamos島の間の本土側に移住して創建した町である。[66]
RhaciusがColophonの町に住んで間もなく、EpigoniのThebes攻めで捕虜になったBoeotia地方の人々が移住して来て、Cretansと共住した。移住者の中にいたThebesの町の予言者Tiresiasの娘Manto(or Daphne)は、Rhaciusと結婚し、Agamemnonに従軍したCalchasを凌ぐ予言者となる息子Mopsusを産んだ。[67]
AchillesがColophonの町を攻めようとした当時、町を治めていたのは、MycenaeanのRhaciusと推定され、略奪はなかったものと思われる。[68]
6.2.10 Smyrnaの町
Achillesは、Smyrnaの町も荒らしたと伝えられる。[69]
しかし、Ionia地方の12市の一つであるSmyrnaの町は、まだ創建されていなかった。
また、BC1075年、Codrusの嫡出子AndroclusがCariansやLelegesを追い出して創建したEphesusの町の一角に、かつて、その地を占拠したAmazonsの指導者Smyrnaに因んで名付けられた古い町があったが、その町もまだ創建されていなかった。[70]
Trojan Warの頃、EphesusはAlopeと呼ばれており、Amazonsの侵入もAthens王Demophonの子Oxyntesの治世中の出来事で、Troy陥落の1世代後であった。[71]
6.2.11 Clazomenaeの町
Achillesが荒らした町の名前に、Clazomenaeの町もあるが、町は、BC1050年、Colophonの町のParalus(or Parphorus)に率いられた人々が創建したと伝えられ、当時は名もない集落があったものと思われる。[72]
6.2.12 Cymeの町
Achillesが荒らした町の名前に、Phocaeaの町の近くのCymeの町もある。しかし、Cymeの町は、Trojan Warの後に創建された町であり、当時は存在していなかった。
Cymeの町は、BC1126年にLocris地方のPhricium山付近の住人を率いて、Agamemnonの曾孫と思われるMalausが先住民のPelasgiansを征服して創建した町であった。Achillesの略奪は、当時、その地に住んでいたPelasgiansの集落を対象としたものであった。[73]
6.2.13 Sideの町
Achillesが荒らしたとされるSideがPamphylia地方のSideの町であるとすれば、Cymeの町の植民市であるので、当時は存在していなかったし、Troyに応援部隊を派遣した一番南端のLycia地方より、さらに南にあり、Achillesの略奪行為がこれほど遠くまで及んだとは思われない。[74]
当時、Iliumの町の近くのGranicus河畔にSideneの町があり、この町が誤って、Sideと伝えられたのかもしれない。[75]
6.2.14 Aegialusの町
Achillesは、Aegialusの町も荒らしたとされ、当時有名なAegialusが黒海南岸にあったが、略奪の対象としては、遠すぎるように思われる。「海岸」を意味するAegialusは、他にも数か所見られ、Troy地方近郊にあったのかもしれない。[76]
6.2.15 Tenos島
Achillesは、Delos島の北に浮かぶTenos島も荒らした。当時、Delos島は、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの娘Rhoeoの子Anius(or Anion)が治めており、Tenos島とEuboea島の間のAndros島は、Aniusの子Andros(or Andreus)が治めていた。AgamemnonがAndros島に触手を伸ばし、AniusがTroyのAnchisesの子Aeneasと旧知の間柄であったことから、Achillesの略奪は、Tenos島にも及んだものと思われる。[77]
6.2.16 Coloneの町
Achillesは、Troy地方のPedasusの町のやや北にあるColoneの町も荒らした。その町を治めていたCycnusは、Achillesに討ち取られた。[78]
6.2.17 Miletusの町
AchillesはMiletusの町を襲い、Lelegesの王Trambelusを殺した。 [79]
Trambelusの母は、Priamの姉妹Hesioneであったことから、父は、Achillesの父Peleusの実弟Telamonの息子であったように、伝えている。しかし、この伝承は、創作であり、Trambelusの父は、Miletusの町からArgonautsの遠征に参加したErginusであったと思われる。[80]
6.2.18 その他
Achillesは、Ida山南側にあるAntandrusの町やAdramytiumの町も荒らした。この他に、Endiumの町やLinaeumの町も荒らしたようであるが、町の位置は不明である。[81]
7 Troyの援軍
Priam一族が支配したTroy領は、Asia Minor北西部の一角であるが、Trojan War時の援軍は、南はAsia Minorの南端Lycia地方、西はGreece北部のPaeonia地方、東は黒海の南東Trapezus付近からも応援に来ている。
7.1 Asia Minorからの援軍
7.1.1 Pelasgians
Lesbos島対岸のMysia地方とLydia地方に隣接したLarissaの町から、Teutamusの子Lethusの2人の息子たち、HippothousとPylaeusがPelasgiansを率いて来援した。[82]
Teutamus は、Athens王Aegeusと同時代のMitraeusの息子で、Mitraeusは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Lesbos島を経由して、Asia Minorに移住したPelasgiansの後裔と思われる。[83]
Teutamusの家系とPriamの家系に婚姻関係は認められず、Teutamusの種族はIliumの町の支配下にあったものと思われる。
7.1.2 Lycians
Lycia地方のXanthus川の河口のXanthusの町から、Xanthusの子SarpedonとHippolochusの子GlaucusがLyciansを率いて来援した。[84]
Sarpedonは、Crete島から兄弟Minosに追われて、Lycia地方に移住したSarpedonの孫であり、Glaucusは、Sarpedonの母方の従兄弟であった。[85]
彼らの祖父BellerophontesはPriamと共に、Amazonsの地へ遠征したことがあり、遠隔の地で、婚姻関係は認められないが、援軍を派遣するほど良好な関係にあったものと思われる。[86]
また、Xanthusの町の同族が、Troyに地理的に近いLesbos島にも入植しており、さらに、Troy領北東端のZeleiaの町にもLyciansが居住しており、彼らと行動を共にしていたものと思われる。[87]
7.1.3 Carians
Nomionの2人の息子たち、NastesとAmphimachusが、Miletusの町とその東にあるPhthires山付近に住んでいたCariansを率いて来援した。[88]
Nomionは、Argonautsの遠征に参加したMiletusの町のErginusとParthenia島(Samos島)のAncaeusの兄弟と思われる。[89]
当時、Miletusの町は、Priamの姉妹Hesioneの息子Trambelusが治めており、町の周辺に住むCariansやLelegesも勢力下に置いていた。[90]
7.1.4 Maeonians
Talaemenesの2人の息子たち、AntiphusとMesthlesが、MaeoniaのTmolas山の麓に住んでいたMaeoniansを率いて来援した。[91]
Talaemenesは、Heraclesが奉公したLydia地方のOmphaleの兄弟と思われる。[92]
7.1.5 Thracians
Eusorusの2人の息子たち、AcamasとPirus(or Peirous)が、Hellespont近くのThracia地方からThraciansを率いて来援した。[93]
Eusorusは、Telamonの子Ajaxに攻められて降伏したThracia地方のChersoneseの町のPolymestorの父で、黒海南西岸のSalmydessusの町からHellespont付近に移住した、Phineusの後裔の一人と思われる。[94]
7.1.6 Ciconians
Ceasの子Troezenusの子Euphemusが、Thasos島対岸のThracia地方のIsmarusの町からCiconiansを率いて来援した。[95]
Ceasの祖父は、第6代Athens王Erechtheusの双子の兄弟で、Athensの町の神官であったButesの息子と思われるBoreasとErechtheusの娘Orithyiaとの間の娘Chioneの子Eumolpusの子Ismarusと推定される。[96]
Ismarusは、Thasos島対岸のThracia地方のIsmarusの町の創建者と思われる。[97]
Ismarusの母Daeiraは、Cyzicusの町近くのEthiopiansの地のBenthesicymeの娘であり、Ethiopiansの王となったPriamの兄Tithonusとは親戚関係にあり、TrojansとCiconiansも縁戚関係にあった。[98]
7.1.7 Thracians
Eion(or Eioneus)の子Rhesusが、Thracia地方のStrymon川近くからThraciansを率いて来援した。[99]
AD1世紀初期の地理学者Strabonによれば、Rhesusは、Strymon川下流に住むOdomantiやEdoni、Bisaltaeを支配していた。[100]
7.1.8 Phrygians
Aretaonの2人の息子たち、Phorcys(or Palmys)とAscaniusが、Ascania地方のPhrygiansを率いて来援した。[101]
また、Phrygia地方のSangarius川の近くからは、Dymasの子で、Hecubaの兄弟Asiusが来援した。[102])
7.1.9 Mysians
Arsinousの2人の息子たち、ChromiusとEnnomusが、Olympus山近くのMysia地方からMysiansを率いて来援した。[103]
彼らはMygdoniansであった。[104]
また、Lesbos島対岸のMysia地方からは、Telephusの子EurypylusがMysiansを率いて来援した。[105]
7.1.10 Paphlagonians
Bilsates(or Melius)の子Pylaemenesが、息子Harpalion共々、黒海南岸のHeracleiaの町とSinopeの町の間のEnetiの郷のCytorusの町からPaphlagoniansを率いて来援した。[106]
Paphlagoniansの名祖Paphlagonは、黒海南西岸のSalmydessusの町のPhineusの息子で、母Idaeaは、Troy王家の出身であった。[107]
7.1.11 Alizonians
Minuus(or Mecisteus)の2人の息子たち、OdiusとEpistrophusが、黒海南岸のAmisusの町とTrapezusの町の間のAlizonia地方からAlizoniansを率いて来援した。[108]
7.1.12 Paeonians
Axiusの子Pyraechmesと、Pelegonの子Asteropaeusが、Paeonia地方のAmydonの地からPaeoniansを率いて来援した。[109]
彼らは、Elisの町からPaeonia地方へ移住したEndymionの子Paeonの後裔ではなく、Trojan War以前に、TeucriansとMysiansがThracia地方からIonians海に及ぶ大遠征をしたときに、Paeonia地方に住み着いたMygdonの後裔と推定される。[110]
7.1.13 Ethiopians
Tithonusの子Memnon率いるEthiopiansを率いて来援した。[111]
古代の史家は、このEthiopiaをEgyptの南にあるEthiopiaのような記述をしている。[112] BC1世紀の歴史家Diodorus Siculusや、同人の記述を引用したAD4世紀初頭のRomeの歴史家Eusebiusは、そのEthiopiaがAssyria帝国の支配下にあったように記し、Memnonを派遣したのは、Assyria王Teutamusであったとしている。[113] また、Memnonの居城はSusaにあったと伝えているものもある。[114] BC5世紀初頭のGreeceの詩人Simonidesによれば、Memnonは、Syria地方のBadas川沿いにあるPaltus近くに葬られたと伝えているという。[115]
しかし、このEthiopiaは、Egyptの南にあるEthiopiaとは別物と思われ、つぎのものとは同一の民族を指していると推定される。
つまり、Danaeの息子Perseusの妻や、Priamの兄弟Tithonusの妻の故郷とされるEthiopiaである。[116]
Trojan War時の応援部隊を精査すると、Teutamusは、Pelasgiansを率いてLarissaの町から来たHippothousとPylaeusの父Lethusの父であった。[117]
Larissaの町については、Ionia地方のCymeの南を流れるHermus川沿いにあったLarissaの町と推定される。Pylaeusの支配するPelasgiansは大きな種族であったと言われる。[118]
Pelasgiansの王であるArgosの町のTriopasの子XanthusがLarissaの町の対岸に浮かぶ無人のLesbos島に入植し、それまでのIssaという島の名前がPelasgiaになったと伝えられ、島の住民は、その後、本土へ広く居住したものと思われる。[119]
このPelasgiansの王Teutamusの命によりMemnonが部隊を率いたという事実は確認されず、Diodorusの脚色であろう。
Troy領北東端のZeleiaの町の近くを流れるAesepus川の河口から上流へ行ったところにある丘にMemnonの墓があり、その近くにはMemnon村もあった。[120]
MemnonはAchillesに討ち取られているが、その後、Achillesが死んで、Achillesの子Neoptolemusが招集されるまで、相当な期間があったはずで、Memnonは故郷の地に丁寧に埋葬されたものと思われる。[121]
したがって、Memnonの墓があったZeleiaの町より海手のAesepus川流域が、Memnonが率いたEthiopiansの居住地であったと思われる。
8 Troy陥落日
8.1 古代の史料中の記述
Troy陥落日を推定できる史料には、つぎのようなものがある。
AD4世紀の歴史家Eusebiusは、「Peteusの子Menestheusの治世にTroyは占領された」と伝えている。[122]
AD2世紀の紀行作家Pausaniasは、「Theseusの子Demophonの治世に、陥落後のTroyからTydeusの子Diomedes率いる遠征隊が帰還した」と伝えている。[123]
AD2世紀の神学者Clemensは、Argosの町のDionysiusの話として、「Theseusの子Demophonの治世の最初の年のThargelion月の12日目であった」と伝えている。[124]
BC5世紀の歴史家DamastesやBC4世紀の歴史家Ephorus、BC4世紀の歴史家Callisthenes、BC2世紀の歴史家Phylarchusは、「Thargelion月の24日目にTroyが陥落した」と伝えている。[125]
以上の記述から、Troy陥落年は、Theseusの子DemophonがAthens王に即位した年であると推定される。
8.2 Athens王Demophonの即位年
第29代Athens王Aeschylusの治世第12年目に第1回Olympiadが開催されたと伝えられる。[126]
その年が、BC776年であることから、Agamestorの子Aeschylusの即位は、BC787年と推定される。これを基準に、EusebiusのChronicleにより、歴代のAthens王の在位を遡ると、第12代Athens王Demophonの即位年は、BC1186年となる。
8.3 Troy陥落日
Attica地方の著作家は、Troyが陥落した日は満月であったとし、the Little Iliadの作者は、月がはっきりと輝いていたと伝えている。[127]
NASAなどのWebサイトに掲載されている歴史的日食の一覧によれば、BC1178年4月16日に日食が観測されていることから、その日は満月であったことが分かる。[128]
この日から遡って、現在の暦で、5月から6月とされるThargelion月の満月を月の満ち欠けの周期を、29.53日として計算すると、つぎのようになる。
BC1178.4.16(新月)から15日目は、BC1178.5.1(満月)
閏年(BC1180, 1184) BC1178.5.1 - BC1186.6.1(8 * 365 + 2 - 31 = 2,891 days)
2,891 / 29.53 = 97.90044 ----- 29.53 * 98 = 2893.94 = 2894 = BC1186.5.29
以上のことから、Troy陥落は、BC1186年5月29日と推定される。
9 Agamemnonを総大将としたTroy遠征について
AgamemnonのTroy遠征は、先祖が受けた迫害への復讐戦であったが、軍を起こすきっかけは、次のようなものであったと推定される。
9.1 Mysiaでの出来事
BC1205年、Argosの町のAmphiarausの子Alcmaeonが率いるEpigoniが、Thebesの町を攻め落とした。[129]
この時、Thebesの町の予言者Tiresiasの娘Mantoは、Alcmaeonの捕虜となり、2人の間に、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[130]
Alcmaeonは、Acarnaniaへ遠征して後にArgos-Amphilochicumと呼ばれる町を創建して、新しい妻Callirhoeを得た。 [131]
Mantoは、EpigoniのThebes攻めで捕虜となった人々と新天地へ移住することをAlcmaeonに懇願し、Alcmaeonは、ThebesのThersandorusに移民団を率いて、新天地に入植させるように頼んだ。[132]
Thersandorusにとって、Alcmaeonは妻Demonassaの兄であり、Thebes王に復位させてくれた恩人でもあった。[133]
Mantoたちは、Greeceから遠く離れたAsia Minorを移住先として希望したと思われる。
Thersanderは、EpigoniのThebes攻めに参加したParthenopaeusの子Tlesimenesの出身地MysiaにMantoたちを連れて行くことにした。[134]
Thersanderが率いる移民団には、Tlesimenesが水先案内人をつとめたと思われ、無事にMysiaに着くことができたが、Thersanderはその地で死去した。[135]
9.2 AgamemnonのTroy遠征の期間
Mysiaでの出来事から8年後、Agamemnonは、各地の代表者をArgosの町に集め、Troy遠征が決議された。[136]
Agamemnonを総大将とするTroy遠征軍は、Athensの町に集結後、AchillesとPatroclusをDelphiへ派遣して神託を持ち帰らせた。その後、Boeotia地方のAulis港に再集結して、Troyへ向かった。[137]
恐らく、船を持たない部隊に貸し与える船舶がAthensの町に用意されていて、各部隊の乗船場所であったものと思われる。[138]
Troy遠征軍の出発は、BC1188年の春で、Iliumの陥落まで、2年3か月であった。[139]
10 Troyのその後
BC5世紀初頭のIoniaの反乱時、AeoliansとともにIliumの町周辺にいたGergithaeもまたPersia軍に討伐されており、Troy陥落後もAeoliansと共住していたものと思われる。[140]
Gergithaeは、Iliumの町からAbydusの町に向けて進み、Dardanusの町を左に見て、右手にあったthe Teucrians of Gergisという場所にいたようである。[141]
また、BC4世紀初頭、Ida山北西方のScepsisの町の近くにGergisの町があったという。[142]
さらに、Iliumの町の北方のLampsacus地方に、ブドウの産地でGergithiumというところがあり、かつて、そこにGergithaの町もあったと言われ、Teucriansと呼ばれたTroy民族は、Troy陥落後も広くTroy地方に住んでいたことがうかがわれる。[143]
BC2世紀には、Pergamon王国のAttalos王の命によってTroy地方のGergithae人は、Pergamonの町の近くを流れるCaicus川の源流付近に移住させられた。[144]
そこは、Eetionの娘Andromacheが眠る地であった。[145]
11 Trojan Warの影響
11.1 Boeotia地方
11.1.1 Pelasgiansの侵入
Boeotia地方に、Sicily島から移住してAcarnania地方に住んでいたPelasgiansが侵入し、Coroneiaの町を占拠した。[146]
Coroneiaの町や近隣の町からは、Thessaly地方のArneの町から移り住んだBoeotusの子Itonusの後裔が多くのBoeotiansを率いてTroyに遠征中で、Coroneiaの町に残っていた住人は、父祖の地であるArneの町へ移住した。[147]
BC1330年に、AmphionとZethusがThebesの町を攻略したとき、Locris地方のAmphictyonの孫LocrusもLelegesを率いて協力した。[148]
このとき、Locrusの従兄弟に当たり、Arneの町に住むBoeotusも息子たちとともに参加した。それが契機となってBoeotusの子ItonusがBoeotia地方へ移住したものと思われる。[149]
Pelasgiansに占領されたCoroneiaの町は、BC1126年にArneの町を追われて、Boeotia地方に帰還したBoeotiansや、彼らが併合したOrchomenusの町の住人らによって奪還され、Pelasgiansは、Athensの町へ逃げ込んだ。[150]
11.1.2 Thraciansの侵入
また、Phocis地方のHyampolisの町に居住していたThraciansに属するHyantesが、Boeotia地方に侵入した。Hyantesは、IalmenusとAscalaphus兄弟に率いられて、戦士となり得る若者たちがTroyに出征して、手薄となったOrchomenusの町を占拠した。[151]
Hyantesは、かつてBoeotia地方の代名詞であったと言われるくらい勢力をあったが、Cadmusに追われてPhocis地方に移り住んでいた。[152]
Orchomeniansの一部は、Aeolusの子Athamasの後裔のAthamasに率いられてIonia地方のTeosの町へ移住した。[153]
Teosの町のすぐ東側には、Colophonの町があり、EpigoniのThebes攻めで、捕虜となったThebesの町の住人やBoeotia地方の人々が、少し前に、その地に移住していたので、彼らを頼っての移住であった。[154]
また、一部はAthensの町に受け入れられて、Munychiaに住んだ。[155]
Orchomenusの町からTroyに出征したAscalaphusは戦死し、Ialmenusは、Troy陥落後に、故郷の現状を知り、Pontus地方に人々を連れて移住した。[156]
BC1126年にThessaly地方のArneの町を追われて、Boeotia地方に帰還したBoeotiansは、Athensの町や近隣の町に避難していたOrchomeniansに協力して、Orchomenusの町を占拠していたHyantesを追い出し、Orchomenusの町を併合した。[157]
11.2 Thessaly地方
Troyへ遠征して手薄となったThessaly地方へ、東のPindus山脈を越えて、Dodona周辺に住んでいたThesprotiansが攻め込んだ。[158]
AchaeansやPerrhaebians、Magnesiansは、Thesprotiansと戦ったが敗れた。[159]
Perrhaebians、Magnesiansは、PenestaeとしてThesprotiansに従属して住み続けた。[160]
その他の人々は、つぎのように住み家を変えた。
11.2.1 Triccaの住人
Asclepius(or Aesculapius)の2人の息子たち、MachaonとPodalirus(or Podalirius)は、Thessaly地方の北西部のTriccaの町からTroyに出征したが、Machaonは戦死し、Podalirusは祖国へ帰還できなかった。[161]
Podalirusは、Troy陥落後、Asia Minorを放浪し、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定されるDamaethusが治めるCaria地方のBybastusの町で、Damaethusの娘Syrnaと結婚して、妻の名に因んだSyrnusの町を創建した。[162]
Podalirusの後裔Hippocratesの子Dracoの子Hippocratesは、Amphipolisに幽閉されたAlexander The Greatの妻Roxaneを治療した。[163]
Machaonの遺骨は、Neleusの子Nestorによって持ち帰られ、Messenia 地方とLaconia地方の境にあるGereniaに埋葬された。[164]
かつて、Nestorは、同じMessenia地方のPharaeの町のDioclesの娘Anticleiaの嫁ぎ先であるTriccaの町のMachaonから招かれたことがあった。[165]
Thessaly陥落後、Machaonの妻Anticleiaは、Triccaの町から子供を連れて実家のあるMessenia地方のPharaeの町に移住した。AnticleiaのMessenia移住よりも、NestorがTroyから帰還する方が早かったものと推定される。[166]
Machaonの息子たちのうち、NicomachusとGorgasusは、Pharaeの町を継承し、PolemocratesやAlexanorやSphyrusは、Argolis地方のEuaの町やSicyonの町やArgosの町に住み、人々を治療して、人々からの尊敬を集めた。[167]
11.2.2 GyrtonやArgisaの住人
Gyrtonの町や、近くのArgisaの町からTroyに出征したPeirithousの子Polypoetes、Coronusの子Leonteusは、陸路南下して、Ionia地方のColophonの町に着いた。[168]
彼らには、預言者CalchasやAsclepiusの子Podalirusが同行していた。[169]
Podalirusは、さらに南下して、Caria地方にSyrnusの町を創建したが、PolypoetesとLeonteus は、Colophonの町に定住した。[170]
BC7世紀の叙事詩人Callinusによれば、その後、Mantoの息子Mopsusに率いられて、Taurus山脈を越えて移住し、Pamphylia地方やCilicia地方、Syria地方、Phoenicia地方にまでも分散したと伝えられ、Troyから本国に帰還せず諸国を放浪した人々が如何に多かったかが分かる。[171]
Peirithousの後裔はThesprotiansに追われて、Athensの町へ逃れた。Atheniansは、TheseusとPerithousとの親交があったことから、彼らを受け入れ、後にPerithoedaeと呼ばれる土地を分け与えた。[172]
11.2.3 Ormenionの住人
the Pagasaean gulfの北岸のOrmenionの町からTroyに出征したEuaemonの子Eurypylusは、故郷に帰還できず、Achaia地方のPatraeの町に住み着いた。
EurypylusとPatraeの町との関連は不明で、伝承の通り、Delphiの神託に従って、その地を決めたのかもしれない。[173]
11.2.4 Pheraeの住人
the Pagasaean gulfの北西方のPheraeの町からTroyに出征したAdmetusの子Eumelus本人の消息は不明であるが、Eumelusの子Zeuxippusの子Armenius(or Harmenius)は、Thesprotiansに追われて、Athensの町へ逃れたと思われる。[174]
Athensの町で生まれたArmeniusの娘Heniocheは、Messenia地方のPenthilusの子Andropompusに嫁ぎ、息子Melanthusが生まれ、第16代Athens王となった。Melanthusの母や妻は、Athenianであった。[175]
11.2.5 OlizonやMethoneの住人
the Pagasaean gulfの東のthe Mount Pelion peninsulaのOlizonの町やMethoneの町の住人は、Poeasの子Philoctetesに率いられてTroyに出征した。
Philoctetesは、Heraclesと親しい関係から弓を贈られたとも伝えられ、高齢での遠征参加であったと思われる。[176]
Philoctetesは、約60歳であったと、AD3世紀のPhilostratus of Lemnosは伝えている。[177]
PhiloctetesはLemnos島で毒ヘビに噛まれて、島に置き去りにされたという伝承がある。[178]
しかし、Lemnos島は、Agamemnonによって、島の支配者に据えられたThoasの孫Euneusがいて、遠征軍への補給基地となっていた。
Philoctetesの支配地域は、遠征軍中、一番、Lemnos島に近い位置にあり、Philoctetesは遠征軍の兵站を担っていたものと思われる。[179]
Philoctetesの支配地域の規模の割に、遠征に参加した船の数が、7隻と少ないが、これはPhiloctetesの代わりに戦闘に参加する部隊を率いたOileusの子Medonが、直接、Troy沖に漕ぎ着いた数であって、後方輸送に参加した船舶数はもっと多かったものと思われる。[180]
Medonは、Locris地方のNarycusの町の住人であったが、Thessaly地方のPhylaceの町のProtesilausのもとへ身を寄せていた。[181]
Protesilausは、Phylaceの町の部隊を率いていたが、Philoctetesとは、Phthiotaeとして同族であった。[182]
11.2.6 Magnesians
Thessaly地方の北東部に住むMagnesia 地方の住人は、Aeolusの子Magnesの後裔、Tenthredon の子Prothousに率いられて遠征に参加した。[183]
Troy陥落後、Magnesiansは、戦利品の10分の1をDelphiに奉納し、Delphiに住み着いた。その後、Magnesiansは、Delphiを荒らしたAchillesの子Neoptolemusとの戦いに参加した。Neoptolemusを殺したDelphiの司祭Daetasの子Machaereus率いるDelphiansと共にMagnesiansはCrete島を経由して、Asia Minorへ移住した。彼らは、Lydia地方にMagnesiaの町を創建した。[184]
BC7世紀の叙事詩人Archilochosは、Magnesiaの町の住人は、不摂生であったため、Ephesusの町の手に落ちたと伝えている。[185]
Troy遠征に参加せず、Thessaly地方にいたMagnesiansは、侵入してきたThesprotiansと戦ったが敗れ、Penestaeと呼ばれる農奴となって、Magnesia地方に住み続けた。[186]
PhiloctetesがMagnesiaを支配していたと伝えられるが、ProthousがMagnesiansを率いており、奇異な感じがする。ここでのMagnesiansは、Aeolusの子MagnesがArneの町から独立して移住後、その地に昔から住んでいたAenianiansや後から勢力を伸ばして来たLapithsと混血して出来た種族と思われ、Philoctetesが属するPhthiotaeとは異質の人々であった。[187]
BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、Magnesiansは、土と水をPersia大王に献じたと伝えられ、その頃には独立を勝ち取っていたものと思われる。[188]
11.2.7 Perrhaebians
Thessaly地方北部に古くから居住するPerrhaebiansも、Ocytusの子Guneusに率いられて遠征に参加した。[189]
残されたPerrhaebiansは、侵入してきたThesprotiansと戦うも敗れ、Penestaeと呼ばれる農奴となって、Thessaly地方に住み続けた。[190]
Perrhaebiansは、Euboea島のHistiaeotis地方を征服して、住民をThessaly地方に移住させ、それまで、Doris地方と呼ばれていた地方が、Histiaeotis地方と呼ばれるようになったと伝えられるが、単に名前が同じであったから、そのような伝承が生まれたのであろうとも考えられている。[191]
Euboea島のHistiaeotis地方のHistiaeaの町は、Athensの町の入植者によって、創建されたと伝えられ、同じ頃、Euboea島に入植したXuthusの子Cothusが島に渡ったときは、Aeoliansが島の大部分を占めていた。[192]
BC1126年、Orestesの子PenthilusがLesbos島へ向けBoeotia地方のAulisの港から出航する際、遠征隊のAeoliansの一部がEuboea島に残ったとも伝えられ、Athensの町からの入植は、その後で、Perrhaebians がHistiaeans を連れ帰ったのは、それより、ずっと後のことであったと思われる。[193]
Perrhaebiansは、800年後のAmyntasの子Philipの時代も、Thessaly地方北部に住んでいて、それより少し前の、Persiaの進攻に際しては、土と水をPersia大王に献じた民族として名前が挙がっている。[194]
11.2.8 Dolopians
Thessaly地方西部のDolopia地方からは、Achillesの父Peleusのもとへ亡命したAmyntorの子Phoenixに率いられて遠征に参加した。[195]
Troy陥落後、Phoenixは、Achillesの子Neoptolemusと行動を共にし、新天地へ向かう途中、Thermopylae付近で客死した。[196]
Dolopia地方の住人は、Thesprotiansに追われて、AchillesやNeoptolemusに縁が深く、恐らくPhoenixにも縁のあった、Euboea島の北に浮かぶScyros島に住み着いた。[197]
BC475年、Athensの町のCimonがScyros島に住み、他との接触を断ち、海賊行為を生業としていたDolopiansを攻めて奴隷にした。[198]
しかし、Thessaly地方のDolopiansは、Thesprotiansの支配に服することなく住み続け、BC5世紀のPersiaの進攻に際して、土と水をPersia大王に献じた民族として名前が挙がっている。[199]
11.2.9 Phthians
Trojan War最大の英雄Achillesの支配するPhthiaから遠征に参加した人々は、旧領への帰還を断念した。Achillesの子Neoptolemusに率いられて、新天地を目指した。[200]
Neoptolemusは、Molossiansの地に侵入して、この部族を支配下に置き、後のEpirus王国の基礎を作ったと伝えられる。[201]
しかし、Neoptolemusの跡を継いだのは、息子Molossusであったと伝えられる。征服した部族の名前を息子に付けたのではなく、Molossusの名に因んで、Neoptolemusの後裔の部族がMolossiansと呼ばれるようになったと推定される。[202]
当時、名もない部族が居住していたのは、Dodonaの神託所の北18kmほどの、後にPassaronの町となる土地であったと推定される。その地方には、Hellopiaと呼ばれる、家畜を飼育する良い牧草地があった。[203]
Thesprotiansに追われて、各地に四散していたPhthiansは、Molossiansの地へと集まり、MolossiansはEpirus王国中で最大の勢力となり、Dodonaの神託所を支配下に置くまでになった。[204]
Phthiaの一部の地域では、Thesprotiansの支配に服することなく住み続けたAchaeansがいたと思われる。Dolopiansと共にPhthiaも、BC5世紀のPersiaのGreece進攻に際して、土と水をPersia大王に献じた民族として名前が挙がっている。[205]
11.2.10 Dorians
Trojan Warの少し前、BC1227年、HeraclesはDoriansを不当に圧迫し、居住地から追い出そうとしていた、Gyrtonの町のLapithsと戦った。[206]
このとき、DoriansはGyrtonの町からPeneius川を西に越えた土地に住んでいたと思われるが、Trojan War後の動静は不明である。
恐らく、侵入してきたThesprotiansから圧迫を受けたPerrhaebiansによってDoriansも圧迫を受け、Thessaly地方からDoriansの宗家が住む、かつては、Dryopis地方と呼ばれ、そのときは、Doris地方と呼ばれていた地方へ移り住んだものと思われる。[207]
それまで、Doriansが住んでいた地方は、Histiaeotis地方と呼ばれるようになった。[208]
DoriansのThessaly地方からDoris地方への移住は、Aristomachusの子Temenus率いるHeracleidaeのPeloponnesus半島侵入直前のBC1115年頃までには終わっていたものと思われ、この人口流入による戦力増強がHeracleidaeの帰還を成功させた一因であったと言っても過言ではない。
11.3 Athenians
Athens王Menestheusは、Athensの町に帰ることができずに、Menestheus自身は、Melos島に移住して、島で死んだ。[209]
Arcadiansの一部は、Italy半島南部Scylletiumへ移住した。[210]
また、一部は、Mysia地方のElaeaへ移住した。[211]
Mysia地方には、Arcadiansが住んでいた。[212]
11.4 Arcadians
Ancaeusの子Agapenorは、Arcadia地方へ帰らずにCyprus島へ渡って、Palaepaphosの町の近くにPaphosの町を創建した。[213]
Pausaniasは、Arcadiansが乗った船が嵐に遭ってCyprus島に流れ着いたと伝えている。[214]
しかし、Agapenorの父Ancaeusの父Lycurgusの母Neaeraの父Pereusの母Laodiceは、Palaepaphosの町の創建者Cinyrasの娘であった。[215]
つまり、Arcadia地方とCyprus島とは古くから交流があった。
11.5 Salamians
Salamis島からTroy遠征に参加したTelamonの子Teucerは、Agapenorと共にCyprus島へ渡って、Salamisの町を創建した。[216]
Teucerは、Cyprus島南西海岸のPalaepaphosに住むCinyrasの娘を妻にした。Cinyrasは、Midas王と共に、富豪の代名詞とされる人物であった。[217]
Teucerは祖国の土を踏むことは許されなかったが、Ajaxが捕虜の女たちに産ませた息子たち、Cycnusの娘Glauceの息子Aeantidesと、Teuthrasの娘Tecmessaの息子Eurysacesは、祖父Telamonの手に託された。[218]
Aeantidesは、Athensの町のAeantis部族の名祖のようであり、BC479年のPlataeaの戦いでは、Greece側死者1360人のうち、Atheniansは52人、そのすべてが、Aeantis部族出身者であったと伝えられている。[219]
Teucerは、父Telamonが死んだという噂を聞いて、故国へ戻ろうとするが、Ajaxの子Eurysacesに阻止されて、Hispaniaへ入植したとも伝えられる。[220]
しかし、Teucerの子Ajaxが、Cyprus島の北側の対岸、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配したとも伝えられ、他に、Salamisの町を継ぐ息子もいたと思われることから、Hispaniaへの移住は、真実ではないと思われる。[221]
また、Teucerの母は、Troy王Laomedonの娘Hesioneであったと伝えられるが、Cyprus島のSalamisの町の支配者が流布したものと思われる。[222]
Salamisの町は、TeucerがTroyで獲得した捕虜を住民として創建された町であり、Teucerの後裔が、住民を従わせるために、そのような創作をしたものと思われる。[223]
AjaxがTroyに行く前に、妻Lysidiceから生まれていた息子Philaeus(or Philius)はAthensの町のMeliteに移住し、その後裔はPhilaidae と呼ばれ、BC6世紀に僭主Peisistratusを輩出した。[224]
BC594年から1年間、Athensの町のachonを務め、法を定めた古代ギリシアの7賢人の一人、Solonは、Atheniansに10年間は、法の廃棄や修正をしないように約束させて、旅に出て、Cilicia地方に住んだ。その間、高所にあって、堅固なばかりで、痩せた土地に住んでいたPhilocyprusを説得して、平原にSoliの町を建設するのに協力した。[225]
Solonは、Rhodes島のLindusに住む友人Cleobrosに呼びかけ、かつて、Heraclesの子TlepolemusとともにArgolis地方のTirynthの町からRhodes島に移住したAchaeansやRhodes人をCiliciaに移住させてSoliの町の住人とした。また、Athensの町からも移住させた。[226]
Solonは、長旅の終わりに祖国Salamis島と同じ名前の町、Cyprus島のSalamisの町に立ち寄り、そこで、Telamonの子Teucerの後裔が、Cilicia地方にいることを知り、Philocyprusと出会った。彼は、Teucerの子Ajaxの後裔と思われる。[227]
End