第5章 トロイの勃興とペロプスの来航(BC14世紀)

home English
Create:2019.8.29, Update:2025.8.21
TroyPelops

1 はじめに
BC15世紀、Anatolia半島では、Hittiteが勢力を拡大させていた。[1]
Anatolia半島北西部に初めて定住したGreekは、Crete島から移住したTeucriansであり、彼らの移住は、BC1435年であった。
Teucriansに、Arcadia地方から移住して来たPelasgiansが合流して、彼らの国は、Troyと呼ばれるようになった。
その後、古くから存在していたHittiteの属国Wilusaをも取り込んで、Troyは、急速に勢力を拡大した。
このTroyの勃興によって、Tantalusの子PelopsがPeloponnesusへ移住することになった。

2 Troadへの移住
2.1 Creteからの移住
2.1.1 Creteでの鉄の発見
AD1世紀の哲学者Thrasyllusは、「洪水」からCrete島での「鉄の発見」までは73年であったと伝えている。彼は、さらに「鉄の発見」から「AdrastusのThebes攻め」まで、220年であったと伝えている。
AdrastusによるThebes攻めは、BC1215年と推定されるので、「洪水」はBC1508年の出来事になる。[2]
Hellenの父Deucalion時代の大洪水は、つぎの理由からBC1511年に起こったと推定されるので、この「洪水」に一番近い。
BC2世紀の年代記作者Castorは、この洪水は初代Athens王Cecropsの時代に発生したと伝えている。AD2世紀の著述家Apollodorosは、第2代Athens王Cranausの時代であったと伝えている。つまり、初代Athens王Cecropsから第2代Athens王Cranausに代わった年に起こったものと推定される。[3]
CastorのAthens王たちの一覧をもとに、第1回Olympiad(BC776年)から逆算すると、CecropsからCranausに代わった年は、BC1511年となる。[4]
したがって、Crete島のIda山で鉄が発見された年は、Deucalion時代の「洪水」(BC1511年)から73年後のBC1438年と推定される。

2.1.2 Idaean Dactylsの誕生
Crete島で、最初に鉄を発見したのは、Celmis (or Kelmis)とDamnameneusであった。[5]
BC5世紀の悲劇詩人Sophoclesは、Crete島のIda山麓に住む「ある人物」に5人の息子たちが生まれ、彼らが初めて鉄を発見したと伝えている。[6]
彼らは、さらに鉄の加工法を発明し、Crete島のBerecynthus地方にあるApteraの町で、鉄の製錬と焼き戻しを教え、彼らはIdaean Dactylsと呼ばれるようになった。[7]

2.1.3 Idaean Dactylsの祖先
Crete島で、最初に鉄を発見したのはTelchinesであり、その一族から冶金術に優れたIdaean Dactylsが生まれた。[8]
Telchinesは、古代Aegean Sea世界に技術革新をもたらした超越した種族であった。彼らは航海術に優れた海の子であり、発明者であり、紹介者であり、時には科学的な知識を持った魔術師であった。[9]
BC1690年、Telchinesの始祖である、Sicyonの町のTelchinは、Argosの町のApisと戦って敗れた。Telchinの子Cresは、Crete島へ移住した。[10]
Cresの子Talosの子Hephaestusは、Cabeiriの祖Cabeiroと結婚した。Telchinesには、宗教的な要素も加わり、TelchinesとCabeiriとIdaean Dactylsは同一視された。[11]

2.1.4 TroadへのTeucrusの移住
Crete島で最初に鉄を発見して、Idaean Dactylsと呼ばれたCelmis (or Kelmis)とDamnameneusは、Cyprus島でも鉄を発見した。彼らは、鉄を求めて、活発に探鉱活動をしていたことが分かる。[12]
彼らの兄弟の一人に、Ida (or Idothea)の子Teucrus (or Teucer, Teukros)がいた。[13]
BC1435年、Teucrusは、移民団を率いて、Apteraの町を出港し、Anatolia半島北西部Troad地方のHamaxitus付近に上陸した。[14]
Teucrusに同行したIdaean Dactylsは、Hamaxitusから北へ鉱脈を探索して、Ida山周辺に有望な場所を見つけた。彼らは、その地に定住し、沖合に浮かぶLemnos島などの島々へも探索範囲を広げた。BC1425年、CadmusがSamothrace島に寄港したときには、彼らは、既にその島にいた。[15]
また、Teucrusの移民団には、Cabeiriも含まれていた。Cabeiriは、Cabeiri信仰を広めるために、Idaean Dactylsに同行して、Samothrace島へも渡った。
Teucrusは、Hellespontus海峡の近くにTeucris (後のDardanus)の町を創建した。[16]

2.2 Arcadiaからの移住
2.2.1 ArcadiaからSamothraceへの移住
BC1430年、Arcadia地方中央部に長期的な洪水が発生し、Methydriumの町に住んでいたLycaonの子Orchomenusの娘Electraの子Dardanusも被災した。[17]
Methydriumの町は、標高約1,000mの高地を流れるMaloetas川とMylaon川の間の小高い丘の上にあった。[18]
Dardanusは住民を率いてPeloponnesus半島を去って、Aegean Seaを北上して、Hellespontos海峡手前のMelas Gulfの沖合に浮かぶSamothrace島へ移住した。[19]

2.2.2 SamothraceからTroadへの移住
Dardanusの弟Iasionは、Cybeleと結婚して、息子Corybasが生まれた。[20]
Cybeleは、Teucrusの移民団の中にいて、Idaean Dactylsと共にCrete島からSamothrace島へ渡ったCabeiriの一人であった。
BC1425年、Cadmus率いる移民団がSamothrace島に滞在し、CadmusはDardanusの姉妹のHarmoniaと結婚した。[21]
Cadmusの移民団は、さらにThracia地方へ向かって、Samothrace島を出航した。Cadmusには、島にいたIdaean DactylsやCabeiriも同行した。Cadmusは、Chalcidice半島北部のPangaeus山の近くで金鉱を発見しているが、Idaean Dactylsの功績であった。[22]
BC1420年、Samothrace島を突然大津波が襲った。このとき、IasionとDardanusの妻Chryse (or Chyse)は津波の犠牲になった。DardanusはCybeleと彼女の息子Corybasを連れて、Samothrace島を去った。[23]
Dardanusは、Cybeleに案内されて、Troad地方のTeucrisの町へ移住して、Teucrusと共住した。[24]
Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚し、Teucrusの死後、Dardanusがその地方を継承した。[25]
Teucrisの町は、Dardanusの町と呼ばれるようになった。[26]

2.2.3 CybeleとCorybas
Dardanusと共にTroad地方へ渡った、Iasionの妻CybeleとCorybasは、Idaean Dactylsと共にIda山麓に定住した。[27]
Ida山の山頂から北北西方向へ7kmほどの所のCorybissaに神域があったと伝えられる。[28]
CybeleとCorybasは、その付近に住んでいたと推定される。
Cybeleは、女神として崇められ、Corybasは母の儀式を祝う者たちをCorybantesと呼んで、人々に踊りを伝えた。[29]
Corybasは、Ida山の南東のThebeの町からCilixの娘Thebeを妻に迎えて、娘Ideが生まれた。[30]
その後、Cybeleは、Phrygia地方のPessinusの町に移り住み、the Mother of the gods、the Mountain Mother、Phrygia the Great Goddess等と呼ばれるようになった。[31]

2.3 Creteからの移住
2.3.1 ArcadiaからCreteへの移住
BC1450年、Tegeatesの子Cydonは、Arcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住して、Apteraの町の近くにCydoniaの町を創建した。[32]

2.3.2 CydonとEuropaの結婚
BC1425年、Agenorの子Cadmus率いる移民団がCydoniaの町に寄港し、移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydonと結婚した。[33]
CydonとEuropaは、Argosの町のPhorbas (or Peranthus、 Piras)の子Triopas (or Triops)を共通の先祖とするPelasgianであった。
CydonとEuropaの間には2人の息子たち、MinosとCardysが生まれた。[34]
BC1420年、Crete島北岸を大津波が襲ってCydoniaの町を破壊した。この津波でCydonは死んだ。Europaは、大津波の後でPeloponnesusからCrete島へ移住してきたTectamusの子Asteriusと再婚した。Europaは、MinosとCardysをCydoniaの町に残して、Cnossusの町へ移り住んだ。[35]
Minosは、Crete島のPhaistosの町からAndrogeneiaを妻に迎えて息子Asteriosが生まれた。[36]
その後、Tectamusの子Asteriusが跡継ぎを残さずに死んだ。Cnossusの町のDoriansは、Europaの子MinosをCnossusの町へ呼び寄せ、Lyctusの娘Itoneと結婚させて、Asteriusの跡を継がせた。[37]
Lyctusは、Cnossusの町の南東にあるLyctusの町の創建者で、Asteriusの母方の祖父Cretheusの息子と推定される。[38]

2.3.3 CreteからTroadへの移住
Europaの子Minosは、一人目のMinosと言われ、2人目のMinosとの生年差は、100年以上ある。しかし、その期間の記録が殆どない。その期間、Crete島に住んでいなかったことが理由と思われ、つぎのように推測される。
BC1390年、Crete島北部のCnossusの町は大津波に襲われ、Minosも被災した。[39]
Minosは、Cydoniaの町に住む兄弟Cardysのもとへ避難した。しかし、Cardysも同様に津波の被害を受けていた。MinosとCardysは、Apteraの町から被災者を乗せて、Asia Minorへ向かうTelchinesの移民団に参加してTroad地方へ移住した。
その後、Cardysは、Cydoniaの町へ帰ったが、Minosは、当時、Dardanusの子Erichthoniusが治めていたDardanusの町の近くに定住した。
その頃、Dardanusに連れられて海を渡ったDardanusの弟Iasionの子Corybasは、Ida山の近くで、母Cybeleとともに暮らしていた。Corybasは、Agenorの子Cilixの娘Thebeと結婚して、娘Ideが生まれた。Minosには息子Lyctiusが生まれた。LyctiusとIdeは後に結婚した。[40]
LyctiusとIdeとは、Arcadia地方のPelasgusの子Lycaonを共通の先祖としていた。
Minosの後裔は、Dardanusの町の近くのAstyraの金鉱採掘によって富を蓄えた。
BC1295年、2人目のMinosは、Crete島へ帰還した。Minosは、多くの艦船を保有し、当時、海上交通を脅かしていた島々の海賊同様の住人を駆逐して多くの島々を支配した。
Minosは、Aegean Seaの制海権を手に入れた。[41]
Platoは、『Gorgias』の中で、MinosとRhadamanthysはAsia生まれだと記している。[42]
また、MinosとPerseisの娘Pasiphaeとの結婚も、Pasiphaeが黒海地方からCrete島へ嫁いだと考えるよりも、黒海地方からTroad地方へ嫁いだと考えた方が妥当である。[43]

2.4 Egyptから移住
BC1390年の大津波は、Achaeusの子ArchanderがArgosの町から移住して、EgyptのNileDeltaに創建したArchandropolisの町にも及んだ。[44]
Archanderの子Belusは移民団を率いて、EgyptからPeloponnesusへ来た。Belusは、新天地を求めて旅に出ようとしていたCorinthの町のSisyphusの子Aeetesの移民団と旅を共にすることになった。
AeetesとBelusは、Deucalionの子Hellenを共通の先祖としていた。[45]
Aeolusの子Sisyphusが創建したばかりのCorinthの町、Athensの町、それに、Eleusisの町も津波の被害に遭っていた。
Athensの町のBoreasと、Eleusisの町のCeryxもAeetesの移民団に参加した。
移民団は、Aegean Seaを北上し、Ceryxは、Thasos島近くのThracia地方に入植した。
Boreasは、Samothrace島近くのHebrus川を遡上し、支流のRheginia川をさらに遡った土地に入植した。
AeetesとBelusは、Hellespontos海峡を抜けて、Propontisに入った。Egyptからの移民団を率いたBelusはCyzicus手前のAesepus川河口近くに適地を見つけて入植した。Aeetesは、Bosporos海峡を抜けて、黒海東岸のPhasis川の河口近くに入植した。[46]
Belusの入植地は、Ethiopiaと呼ばれるようになった。

2.5 Creteからの移住
BC1345年、Crete島のCydoniaの町からCardysの子ClymenusがPeloponnesusのOlympiaの町へ移住した。BC1344年、Clymenusは、Elisの町のAethliusの子Endymionに追放された。[47]
Clymenusは、Idaean Heraclesの孫であった。[48]
Clymenusの父Cardysは、Cydoniaの町に住んでいた。系図を作成すると、Cardysは、Cydoniaの町の創建者Cydonの1世代後であり、Cardysは、Cydonの息子と推定される。
したがって、Clymenusの母は、Idaean Heraclesの娘であった。
Cardysは、兄弟のMinosと共に、Troad地方に住んでいたことがあった。
Cardysの子Clymenusは、Troad地方で生まれたと思われる。
Clymenusは、Cydoniaの町からOlympiaの町へ行き、Olympiaの町から彼の生まれ故郷のTroad地方へ行ったと推定される。
つぎのことから、Clymenusは、Pelopsの父Tantalusの父であると推定される。
1) Clymenusが住んでいたCydoniaの町の近くのApteraの町は、Berecynthus地方にあった。Tantalusの支配地は、Berecyntesの土地と呼ばれていた。[49]
2) Lydia地方からPeloponnesusへ渡ったTantalusの子Pelopsは、Clymenusが追われたOlympiaの町を目指していた。当時、Olympiaの町は、Pisaの町の支配下にあった。[50]
3) Pelopsは、Pisaの町の近くにあったthe temple of Athena surnamed Cydonianに供犠した。その神殿は、Clymenusが造営したものであった。[51]

2.6 Argosからの移住
Argos王Acrisiusの娘Danaeの子Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺して、Seriphus島へ逃れた。[52]
Perseusは、Seriphus島からTroad地方へ渡り、Belusの子Cepheusの娘Andromedaと結婚した。[53]
Belusの父Archanderには、Danausの娘Scaeaとの間に、Metanastesという息子もいた。[54]
Metanastesには、Danaeと結婚したPilumnusという息子もいた。[55]
つまり、Andromedaは、Perseusの又従妹であった。

3 Troyの勃興
3.1 Erichthoniusの時代 (BC1385-60)
Dardanusには、息子Erichthoniusが生まれた。彼の名に因んでErechtheian平原と呼ばれる広大な牧草地で、3,000頭の牝馬が飼育されていた。[56]
BC1381年、Erichthoniusの姉妹Idaeaは、Cyzicusの町近くのEthiopiansの地に住むBelusの子Phineusと結婚した。[57]
その後、Phineusは、黒海南西岸に移住して、Salmydessusの町を創建した。[58]
Erichthoniusの時代、Troy王家とEthiopiansは良好な関係であった。

3.2 Trosの時代 (BC1360-30)
Erichthoniusには、息子Trosが生まれた。Trosは、周辺部族をまとめて、自身の名に因んだTroyの町を建設した。[59]
Trosには3人の息子たち、Ilus (or Ilos)、Ganymedes (or Ganymede)、Assaracus (or Asarakos)、それに、娘Cleomestra (or Cleopatra)が生まれた。

3.2.1 Tantalusとの姻戚関係
BC2世紀の弁論家Dio Chrysostomは、Atreusの後裔は、Pelopsを通じて、Troy王家と繋がりがあったと述べている。[60]
Pelopsの父Tantalusは、Troy王家に関係がないので、Pelopsの母がTroy王家に関係する女性であったと思われる。
また、BC5世紀の歴史家Pherecydes of Athensは、Pelopsの母をXanthusの娘Eurythemisteと伝えている。[61]
Xanthusは、Troad地方を流れるScamanderの河神であり、Tantalusの1つ前の世代のTrosのことで、Eurythemisteは、Trosの娘と推定される。[62]
つまり、Trosには、Eurythemisteという娘がいて、Tantalusと結婚して、Pelopsが生まれた。
TantalusとEurythemisteの結婚は、BC1341年と推定される。
Trosの時代、Ida山の近くに住んでいたTantalusとTroy王家は良好な関係であった。

3.2.2 Achaeansの進出
BC1355年、Belusの子PhineusとIdaeaの息子たち、Thynus とPaphlagon (or Paphlagonus)は、Phrygia地方やPaphlagonia地方へ移住して、それぞれ、ThyniansやPaphlagoniansの始祖になった。[63]
また、Idaeaの息子たち、BithynusとMariandynusは、Bithynia地方へ移住して、それぞれ、BithyniansやMariandyniansの始祖となった。[64]
彼らは、Achaeusの子Archanderの後裔であり、Thessaly地方から、Argosの町、Egyptを経由してAnatolia半島へ移住したAchaeansであった。

3.3 Ilusの時代 (BC1330-1297)
Trosの跡を継いだのは、彼の息子Ilusであった。

3.3.1 Wilusa王の継承
つぎの伝承からTrosの子Ilusは、急速に勢力を拡大したことが分かる。
1) Ilusは、Ida山近くからPhrygia地方のPessinusの町へ逃れたTantalusを追撃して、Tantalusと戦った。[65]
2) Ilusは、Lydia地方のSipylus山近くへ逃れたPelopsを攻めて、追放した。[66]
Ilusが急速に勢力を拡大した事情は、つぎのように推定される。
Dardanusの町に住んでいたIlusは、Hittiteの属国Wilusa王は、娘をIlusに嫁がせた。
Wilusa王が死ぬと、彼の娘婿Ilusが王位を継承した。
王の娘婿が王位を継承することは、Hittite王の系譜にもあり、HittiteはIlusをWilusa王として承認した。
Wilusa王が娘をIlusに嫁がせたのは、Dardanusの町に住むTroy王家と周辺部族との婚姻による関係強化であったと思われる。
1) BC1381年、Dardanusの娘Idaeaは、Dardanusの町からAesepus川河口近くに住むBelusの子Phineusへ嫁いだ。[67]
2) BC1341年、Trosの娘Eurythemisteは、Dardanusの町からIda山近くに住むTantalusへ嫁いだ。[68]

3.3.2 東方への拡大
Wilusa王を継承して、Hittiteの後ろ盾を得たIlusは、Berecyntesの地に住んでいたTantalusを追放した。Tantalusが去った後の土地は、Ilusの妻Eurydiceの父Adrastusに与えられ、以後、その地方はAdrasteiaと呼ばれるようになった。[69]
その後、Ilusは、さらに東方のMysia地方に進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[70]
Byzosの先祖は、Thessaly地方を追われて、Propontis海南東のAscania湖付近に住み着いたPelasgiansであった。[71]

3.4 Laomedonの時代 (BC1297-1244)
3.4.1 Hittite文書中の記述
Hittite文書の中に、Hittite王Mursili II (BC1321-1295)、および、Muwatalli II (BC1295-72)と同盟を締結したWilusa王Alaksanduが記されている。[72]
また、Muwatalli IIとAlaksanduが締結したAlaksandu条約にはつぎのような文章がある。「あなた(Alaksandu)の父にした誓いのために、私(Muwatalli II)はあなたの助けを求める声に応え、あなたの代わりにあなたの敵たちを殺した。」[73]

3.4.2 王位継承争い
Hittite文書中のAlaksanduのギリシア名は、Ilusの子Laomedonと推定される。
BC1296年、Ilusの跡を、彼の息子Laomedonが王位を継承した。[74]
Laomedonは、即位時にMursili II (BC1321-1295)と条約を締結した。[75]
その後、Laomedonは、Iliumの町を追放された。[76]
Laomedonを追放したのは、Phaenodamas (or Hippotes)であり、彼はIlusの息子であったと思われる。
Laomedonは、Hittite軍やHittiteの属国の軍の助けを借りて、Iliumの町を攻めた。
Laomedonを王位に復帰させたのは、Muwatalli IIであり、Iliumの町への攻撃は、BC1295年の出来事と推定される。[77]
この頃、Hittiteは、Lydia地方を中心としたArzawaを征服して、Anatolia半島西部へ絶大な影響力を持っていた。[78]
戦いに敗れたPhaenodamasは、彼の息子たちと共に殺された。[79]
Phaenodamasの3人の娘たちは、Sicily島へ逃れた。[80]

3.4.3 Laomedonの娘Hesione
3.4.3.1 Hesioneの結婚
Hesioneは、Heraclesの第9番目の功業に登場する。Hesioneは、怪物への人身御供になるが、Heraclesに救われたというが、作り話である。[81]
史実としてのHesioneを知るための手がかりが4つある。
1) Priamの姉妹にTrambelusという息子がいた。[82]
2) Achillesが、Telamonの子Trambelusを殺した。[83]
3) Achillesが殺したTrambelusは、Miletusの町のLelegesの王であった。[84]
4) HeraclesのTroy遠征の時、HesioneはTelamonに与えられた。[85]
以上の手がかりから、Hesioneは、Miletusの町の王に嫁いで、息子Trambelusが生まれたと推定される。

3.4.3.2 結婚の時期
Hittite文書によると、Hittite王Mursili IIIは、叔父 (後のHattusili III)を攻撃して、敗れた。[86]
BC1265年、Wilusa (Troy)とAhhiyawa (Achaeans)はMursili IIIを支援した。
戦いの後、それまで、Hittiteに従属していたWilusaは独立した。[87]
独立したWilusaのLaomedonは、Ahhiyawaと同盟関係にあるMillawanda (Miletus)と婚姻関係を結ぼうとして、彼の娘HesioneをMiletusの町へ嫁がせたと思われる。
Hesioneの結婚の時期は、Hattusili III (BC1265-35)の即位の数年後で、Laomedonにとって、Hittiteへの脅威が増して来た頃、BC1260年と推定される。

3.4.3.3 Hesioneの夫
Hesioneの夫は、Trambelusの父であり、Miletusの町のLelegesの王であった。[88]
Hesioneの夫は、Miletusの町の創建者Ariaの子Miletusの息子と推定される。Ariaの子Miletusは、Hittite文書の中では、Atpaと呼ばれていた。[89]
Hesioneの夫は、AtpaからMiletusの町を継承したが、Hittite軍に攻められて敗れた。Miletusの町は、Hittiteの属国となり、Hesioneの夫は、許されてMiletusの町を任せられた。[90]

3.4.3.4 HesioneとTelamonの結婚伝承
多くの伝承が、HesioneとAeacusの子Telamonとの結婚を伝えている。[91]
この伝承は、Telamonの子TeucerをTroy王家の後継者にするための作り話と思われる。
Teucerは、Cyprus島へ移住して、Salamisの町を創建した。その時、町の住人は、Trojansであった。[92]
Teucerの後裔であるSalamisの町の支配者は、住民を従わせるため、自分たちがTroy王家の後裔であるという作り話を広めたと推定される。[93]

3.4.4 Priamの母
Priamは、Amazonsに攻められた彼の母Leucippe (or Placia)の祖国に援軍として駆け付けた。[94]
Leucippeの父Otreusは、BC1390年にThessaly地方を追われて、Propontis海南東のAscania湖付近に住み着いたSilenusの子Dolionの後裔であった。Minyansと戦って死んだCyzicusは、Otreusの子Aeneusの息子と思われる。[95]
Otreusは、Cyzicusの町近くのAesepus川からDascylitis湖にかけて居住していたDolionesに属していた。Aeneusの子CyzicusもDolionianであった。[96]
Otreusは、Ascania湖の近くに、Otroeaの町を創建した。[97]
Otreusの子Aeneusは、西方へ移住して、Placiaの町を創建した。[98]
Otreusの娘Placiaは、Iliumの町のLaomedonに嫁ぎ、Priamの母となった。[99]

3.5 Priamの時代 (BC1244-1188)
3.5.1 王位継承争い
BC1244年、Laomedonが死ぬと王位継承争いが起きた。王位継承争いに敗れたWilusaのWalmuがMilawata (Miletus)の町へ逃げ込んだ。Hittite王は属国のMilawata王にWalmuをHittiteに引き渡し、Wilusaの王に据えることができるように要請した。[100]
このWalmuは、Laomedonの次のTroy王として登場するLaomedonの子Priam (or Podarces)と推定される。[101]
Priamは、Miletusの町に住んでいた彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusの町へ亡命したと思われる。
Priamは、HittiteやHittiteの属国の軍と共に、Iliumの町を攻撃して、町を奪還した。

3.5.2 戦いの構図
Iliumの町を舞台にして、少なくとも4度の大きな戦いがあった。
戦いのすべての原因は、Dardanusの町に住んでいたTrosの子Ilusが、Hittiteの属国Wilusaの王になって、Iliumの町に住んだことであった。
Dardanusの町に残ったTrosの子Assaracus (or Asarakos)の後裔と、Hittiteの影響下にあったIliumの町に住むTrosの子Ilusの後裔との間には、対立が生じた。 そして、この対立は、Hittiteの政策によって生じたと思われる。
Iliumの町を奪還したPriamは、Dardanusの町からAssaracusの後裔を追い出した。
Priamの領土は、Iliumの町周辺から、Hellespont沿岸地方へも拡大した。
Wilusaは、Troyと同一と見なされるようになった。

3.5.3 Priamの妻Hecuba
Priamには、複数の女性たちとの間に多くの子供たちがいたが、正妻は、Hectorの母Hecuba (or Hecabe)であった。[102]
Hecuba は、Sangarius川の流れるPhrygia地方のEioneusの子Cisseus (or Dymas)の娘であった。[103]
Eioneusは、黒海の南西岸にSalmydessusの町を創建した、Belusの子Phineusの子Thynusの孫であった。Thynusは、Salmydessusの町から東へ移住し、Bosporus海峡を渡って、Ascania湖近くのPhrygia地方に定住した。[104]
Thynusの母は、DardanusとBateiaの娘Idaeaであり、Dardanusは、PriamとHecuba の共通の先祖であった。[105]
この結婚によって、Troyの支配は、黒海沿岸地方にまで及んだ。

4 PelopsのPeloponnesus移住
4.1 Lydiaへの移住
Pelopsは、TantalusとTrosの娘Eurythemisteとの間の息子として、Anatolia半島北西部のIda山近くで生まれた。[106]
Trosの時代、TantalusとTroy王家は良好な関係であった。
しかし、Trosの子IlusがHittiteの属国Wilusaの王位を継承した後で、Ilusは、周辺に領土を拡張した。[107]
BC1325年、Tantalusは、Ilusに追われて、Ida山近くからPhrygia地方のSangarius川の源流付近にあるPessinusの町へ逃れた。[108]
Ilusは、Pessinusの町へ攻め込んで、Tantalusと戦った。戦いに敗れたTantalusは、Lydia地方のSipylus山近くへ移住した。[109]
Sipylus山の北側のMagnesiaの町の近くに有名なSipylusの町があり、古くはTantalisと呼ばれていた。[110]
その後、Tantalusは、Sipylus山およびTmolus山一帯の鉱床からの採掘で財をなした。[111]
Tmolus山を源流とするPactolus川には、BC6世紀のCroesusの時代まで大量の砂金が流れていた。[112]

4.2 LydiaでのTantalus
Hittite文書に登場するUhha-Zitiと彼の2人の息子たち、Piyama-KuruntaとTapalazunauliは、Tantalusと彼の2人の息子たち、BroteasとPelopsと推定される。
Tantalusが移住したLydia地方は、Hittite文書に記されたArzawaの支配地域であった。
当時、Arzawa王は、Tarhuntaraduの跡を継いだ彼の息子Maskhuiluwaであった。[113]
Tantalusは、Sipylus山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を得た。[114]
TantalusのLydia地方への移住には、Ida山周辺で採掘に従事していたIdaean Dactylsも参加していたと推定される。
Tantalusは、Argosの町のPelasgiansを共通の先祖とするManesの後裔率いるMaeoniansの支持を得て、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。

4.3 Hittiteとの戦い
Arzawaから追放されたMaskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命して、王の娘Muwattiと結婚した。[115]
Suppiluliuma Iと、彼の跡を継いだArnuwanda IIは疫病で死んだ。Hittiteは、すぐには、Arzawaに対する軍事行動を起こすことができなかった。
Arnuwanda IIの跡を継いだMursili IIは、治世3年目にArzawaと戦うことになった。[116]
戦いの端緒は、Attarimma、Huwarsanassa、Surudaの人々がArzawaに逃げ込み、Mursili IIがTantalusに彼らの引き渡しを要求したことであった。[117]
Tantalusが彼らの引き渡しを拒否したため、Mursili IIは、Tantalusが拠点としていたApasas (Ephesus)へ向けて進軍した。Tantalusは、BroteasにHittite軍を迎撃させたが、Broteasは敗れた。[118]
その後、Hittite軍がApasasに着く前にTantalusは病気になって、島へ逃れた。[119]
BC1318年、Tantalusは、病気が悪化して死んだ。[120]
Pelopsは、島から本土へ渡って、Mursili IIの軍と戦ったが、敗れて包囲された。Pelopsは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[121]
Broteasは、島から本土へ渡って、Mursili IIと交渉したが、Hattusaへ送られた。[122]

4.4 PelopsのGreece移住
Pelopsは、Mursili IIとの戦いの後で、失地回復を狙って、約3年間、恐らく、Samos島にいた。その後、Pelopsは、その望みを断念して、Peloponnesusへ渡った。
その時、Pelopsは、Danais (or Axioche)から生まれた、彼の息子Chrysippusを連れていた。[123]

おわり