1 はじめに
古代ギリシアの伝承の中に、Hittiteは登場しない。
古代ギリシア人が本格的に歴史を記すようになった頃には、Hittiteは既に忘れ去られていた。
しかし、Hittiteの文書には、多くの古代ギリシア人が登場する。
多くの人の手を経た古代ギリシアの伝承から真実の歴史を見つけるのは、非常に難しい。
Hittiteの文書に記された内容は真実であり、当時の歴史を現在に伝えている。
ここでは、Hittiteの文書に記された、つぎの個人名のギリシア名とその人物の系譜を記述する。
Attarisiya、Atpa、Kupanta-Kurunta、Uhha-Ziti、Piyama-Kurunta、Tapalazunauli、Manapa-Tarhunta、Masturi、Piyama-Radu、Tawagalawa、Kukkunni、Alaksandu、Walmu。
2 Attarisiyaについて
2.1 Hittite文書中のAttarisiya
Attarisiya (or Attarsiya)は、Hittiteで記録された最古のGreekであった。
Hittiteの文書、the Indictment of Madduwatta (CTH 147)に記録されている。
Attarisiyaは、Ahhiyawaの将軍であった。
BC1400年、Attarisiyaは、Madduwattaを攻めて、彼の領地を占領した。[1]
BC1385年、AttarisiyaとMadduwattaは、Alasiya(Cyprus)を攻撃した。[2]
2.2 Attarisiyaのギリシア名
Attarisiyaは、古代ギリシアの伝承に登場する、つぎの人物と推定される。
それは、Agenorの子Phoenixの娘Astypalaeaの子Ancaeusである。
Ancaeusは、BC1424年生まれであった。
Ancaeusは、Miletus、Cyprus、Cydonia(in Crete)と関係があり、MycenaeのAtreusと系譜上の繋がりがあった。
2.3 Miletusとの関係
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Crete北西部のApteraに住むAcmon(or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[3]
Acmonは、4人の兄弟と共にCreteからRhodes対岸のCherronesusへ移住して、Cariansを追い出して、5つの町を創建した。[4]
彼らより、135年前、Triopasの子Xanthusの移民団の中にいたCyrnusがRhodes対岸のCherronesusにCyrnusを創建していた。[5]
彼らの入植の10年後には、RhodosからErysichthonの子TriopasがRhodes対岸のCnidus半島にTriopionを創建した。[6]
AcmonとAstypalaeaとの間の息子Ancaeusは、Lelegesの王になった。[7]
Lelegesとは、特定の種族に属さない混血した人々に与えられた名前であった。[8]
つまり、Ancaeusが支配する人々は、Cariansと共住して、混血したGreeksであった。[9]
AncaeusはMaeander川の河口付近に住んでいたSamiaを妻にした。[10]
SamiaはMiletus付近を支配していたCarianの娘で、戦争捕虜であったと推定される。
AncaeusはCherronesusからMiletusまでの範囲に居住するGreeksとCariansを支配するLelegesの王になった。[11]
古い時代には、MiletusはLelegeisと呼ばれて、Lelegesの居住地であった。[12]
Trojan Warの時代には、Lelegesの居住地は、Troasにまで広がっていた。[13]
2.4 Cyprusとの関係
BC1438年、CreteのIda山で山火事が発生して、偶然に鉄が発見された。[14]
発見者は、CelmisとDamnameneusであった。[15]
彼らは、BerecynthusのApteraに住み、Idaean Dactylsと呼ばれた。[16]
その後、CelmisとDamnameneusは、Cyprusでも鉄を発見した。[17]
CelmisとDamnameneusは、Idaean Heraclesとも呼ばれるAcmonの叔父であった。[18]
2.5 Cydoniaとの関係
BC1425年、Ancaeusの母Astypalaeaと共にCadmusの移民団の中にいたAstypalaeaの姉妹Europaは、Aptera近くのCydoniaに住んでいたTegeatesの子Cydonと結婚した。[19]
Cydonは、BC1430年に、ArcadiaのTegeaからCreteへ移住して、Cydoniaを創建していた。[20]
Cydonの子CardysはCydoniaに住み、Acmonの娘を妻に迎えて、息子Clymenusが生まれた。[21]
CardysとAcmonの娘とは、Agenorの子Phoenixを共通の祖父とする、いとこ同士であった。
また、AncaeusとCardysは義兄弟であると同時に、いとこ同士であった。
Acmon兄弟が、CreteのApteraからCherronesusへ移住したとき、Aptera近くのCydoniaからも多くの人々が参加した。
2.6 MycenaeのAtreusとの関係
Atreusの父Pelopsの父Tantalusの父は、CardysとAcmonの娘との間の息子Clymenusと推定される。[22]
つまり、AtreusとAncaeusは、Acmon (Idaean Heracles)を共通の先祖とする同族であった。
2.7 Ancaeusの系譜
Ancaeusの父Acmonは、Idaean Dactylsであり、種族としては、Telchinesに属していた。[23]
Telchinesは、Aegialeia (後のSicyon)のAegialeusの子Telchinを始祖にしていた。
BC1690年、Telchinesは、ArgosのApisとの戦いに敗れて、Telchinの子Cresに率いられて、Creteへ移住した。[24]
Telchinの父Aegialeusは、Argosの始祖Inachusの息子であり、Phoroneusの兄弟であった。[25]
Ancaeusの母Astypalaeaの父Phoenixの父Agenorは、ArgosのDanausの父Belusの兄弟であった。[26]
つまり、Ancaeusは、父方も母方も、Argosの始祖Inachusを先祖にしていた。
2.8 Cyprusへの軍事行動
Attarisiyaは、Alashiya (Cyprus)へ遠征しているが、それに関連していると思われる出来事が古代ギリシアの史料に記されている。
BC1410年、Astynousの子Sandocusは、PhoeniciaのTyreからCiliciaに移住して、Celenderisを創建した。[27]
Astynousは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[28]
Sandocusと共に移住先を探していたPygmalionは、Cyprusの北東部にCarpasiaを創建した。[29]
BC1390年、Sandocusの子Cinyrasは、CiliciaのCelenderisからCyprusの南西海岸に移住して、Palaepaphosを創建した。[30]
これらの移住は、Attarisiyaの軍事行動と関連があると推定される。
Ancaeusの母Astypalaeaの父Phoenixは、PhoeniciaのTyreの王であった。[31]
Phoenixの妻Perimedeは、Cecropsの娘Herseの子孫と思われ、SandocusとAstypalaeaは、いとこ同士、あるいは、又従兄弟同士であった。
つまり、Ancaeus (Attarisiya)と、CiliciaからCyprusへ移住したSandocusの子Cinyrasとは、親族であった。
Cinyrasの移住は、AttarisiyaのCyprusへの軍事行動の結果と推定される。
3 Atpaについて
3.1 Hittite文書中のAtpa
Lazpa (Lesbos島)の職人集団がMillawandaのAtpaのもとへ亡命した。[32]
MiraのKupanta-Kuruntaが職人集団の帰還について、Atpaと交渉した。[33]
Atpaの妻は、Piyama-Raduの娘であった。[34]
3.2 Ancaeus (Attarisiya)の孫Cleochus
Ancaeusには4人の息子たち、Perilaus, Enudus, Samus, Alithersesと、娘Parthenopeがいた。[35]
Ancaeusの息子たちは、SamosやChiosへ移住してLelegesの居住地を広げた。[36]
AncaeusからMiletusを継承した息子もいた。
Minosの時代に、Ariaの子MiletusがCreteからAsia Minorへ移住して、Miletusの町を創建した。[37]
その町がMiletusと呼ばれる前は、Anactoriaと呼ばれていた。[38]
Anactoriaの王は、Anaxと彼の息子Asteriusであった。[39]
したがって、Anaxは、Ancaeusの跡を継いだ息子であったと推定される。
BC1318年、Hittite王Mursili IIは、Millawanda (Miletus)を攻めて、占領した。[40]
この戦いの原因は、Ahhiuwa王がUhha-Zitiと同盟を結んでいたからであった。[41]
Mursili IIの年代記には、Ahhiuwa王がMillawandaにいたと記されている。[42]
このAhhiuwa王は、MiletusのCleochusと思われる。[43]
Ahhiuwaは、Achaeansと同一視されているが、Miletusがその中心であったと推定される。
Anaxの子Asteriusは、Miletusの前に浮かぶLade島近くの島へ逃れて死んだ。[44]
また、Anaxの息子と思われるCleochusは、Uhha-Zitiの軍に合流した。
その後、Cleochusは、Mursili IIとの戦いに敗れて、Uhha-Zitiの子Piyama-Kuruntaと共にHittite軍の捕虜になった。[45]
その後のCleochusの消息は不明であるが、Miletus近くのDidymaeumに墓があった。[46]
3.3 Cleochusの孫Miletus
Cleochusの娘AriaはCreteへ逃れ、その地で息子Miletusが生まれた。[47]
BC1295年、Miletusは、Minosの兄弟Sarpedonの協力を得て、CreteからAsia Minorへ移住して、祖父の旧領を回復した。[48]
その後、Sarpedonは、Milyas(後のLycia)へ移住した。[49]
Atpaのギリシア名は、Cleochusの孫Miletusと推定される。[50]
3.4 Miletus (Atpa)の息子たち
3.4.1 Miletusを継承した息子
Miletus (Atpa)から町を継承した息子は、Erginusであり、Tawagalawa letter (CTH 181)に登場するAhhiuwa王であったと推定される。
Erginusは、BC1248年が舞台のArgonautsの遠征の物語にMiletusの町からの参加者として登場している。[51]
Erginusの母の名前は、Astypalaeaであった。[52]
Astypalaeaは、Atpaの妻Tragasiaの別名、あるいは、Atpaのもう一人の妻であったと思われる。
Erginusの兄弟Ancaeusは、Samos島に住んでいた。[53]
また、Erginusの兄弟Eurypylusは、Cos島に住んでいた。[54]
Hittiteで内紛があり、Mursili IIIと叔父(後のHattusili III)が戦って、Mursili IIIが敗れた。[55]
この戦いで、Wilusa(Troy)とMillawanda(Miletus)とAhhiyawa(Achaeans)はMursili IIIを支援した。戦いの後、それまで、Hittiteに従属していたWilusaとMillawandaは独立した。[56]
独立したWilusaのLaomedonは、Millawandaとの関係を良くしようとして、彼の娘HesioneをMiletusの町のErginusへ嫁がせた。[57]
その後、Erginusの時代に、MillawandaはHittiteに攻められて、Hittiteの属国になった。
Hittiteとの戦いに敗れたErginusは、Hittiteに許されて、Millawandaを統治した。[58]
Erginusの父AtpaもHittiteに敵対していたのに、Erginusが許されたのは、Laomedonの娘Hesioneを妻にしていたからと思われる。
BC12世紀初め、ErginusとHesioneの息子、Trambelusは、Millawanda(Miletus)を統治していた。[59]
3.4.2 Caunos (Tawagalawa)
Miletus (Atpa)には、Caunosという息子もいた。[60]
BC1250年、Caunosは、Miletusの町から東南東へ移住して、Lycia地方に近い、Caria地方にCaunusの町を創建した。[61]
Caunosの子AegialusもCaunusの町に住んでいた。[62]
Tawagalawa letterに登場するTawagalawaのギリシア名は、Caunosと思われる。
Piyama-Raduに攻められた時、Lukka(Lycia)の住人は、Tawagalawaのもとへ逃げ込んだ。[63]
当時、Millawanda(Miletus)は、Hittiteの属国であり、CaunosもまたHittite側の人間であった。
4 Kupanta-Kuruntaについて
4.1 Hittite文書中のKupanta-Kurunta
Hittiteの文書によれば、ArzawaのKupanta-Kuruntaは、Hittiteの領土に侵入して、 Tudhaliya IやArnuwanda Iに敗れた。[64]
その後、Kupanta-Kuruntaは、Madduwattaを攻めて、その領地を占領して略奪した。[65]
Tudhaliya Iは、将軍Piseniを派遣して、Madduwattaの領地を回復した。[66]
4.2 Kupanta-Kuruntaのギリシア名
Kupanta-Kuruntaは、最初のArzawa王であった。[67]
BC17世紀のHattusili Iの時代からArzawaと呼ばれる地方があった。[68]
恐らく、元々のArzawaの住人は、Greeksではなく、強力な指導者もいなかったと思われる。
BC1390年に、Thessalyに住んでいたPelasgiansは、Deucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。[69]
彼らの中で、Silenusの息子と思われるManesは、LydiaのMaeoniaへ移住した。[70]
Manes率いるPelasgiansは、先住民と共住して、Manesは、Arzawa王になった。
Arzawaの最初の王であるKupanta-Kuruntaは、彼の活動の年代や地域が同じことから、Manesと同一人物と推定される。
4.3 Kupanta-Kuruntaの継承者
Kupanta-Kuruntaの娘は、Madduwattaと結婚した。[71]
Madduwattaは、Carianと推定される。
Kupanta-Kuruntaの次に登場するArzawa王は、Tarhuntaraduであった。[72]
系図を作成すると、Kupanta-KuruntaとTarhuntaraduの間には、1世代の空きがある。
Kupanta-Kuruntaの跡をMadduwattaが継ぎ、その跡をMadduwattaの息子と推定されるTarhuntaraduが継いだと思われる。
4.4 Tarhuntaradu
Tarhuntaraduは、Hittiteの支配地域の奥まで攻め入り、大王と呼ばれた。
Egyptの第18王朝のファラオAmenhotep IIIは、Tarhuntaraduに、彼の娘を嫁がせた。[73]
古代ギリシアの伝承では、Manesの娘婿や、娘の息子は登場せず、MadduwattaやTarhuntaraduのギリシア名は、不明である。
4.4.1 TarhuntaraduとPerseus
Tarhuntaraduの時代にArzawaは、全盛期を迎え、Tarhuntaraduは、Hittite領の奥深くまで侵入して、Hattusaの南方約240kmのTuwanuwa (Tyana)の町を占領した。[73-1]
これと同じ頃、Argosの町を去ったDanaeの子Perseusは、Lycaonia地方のIconium (Konya)の町まで遠征していた。[73-2]
Iconiumの町は、Tuwanuwaの町の西方約185kmにある。
Perseusは、この頃、成人したばかりで、Ahhiyawaの軍と共に、Arzawa王Tarhuntaraduの遠征に参加していたと思われる。
4.5 Anzapahhadu
Tarhuntaraduの跡を継いだのは、Anzapahhaduであった。[74]
Anzapahhaduは、Tarhuntaraduと同世代で、恐らく、Tarhuntaraduの弟と推定される。
BC1344年、Anzapahhaduは、Tuthaliya IIIの将Himuili率いるHittite軍を破った。[75]
その後、Anzapahhadu率いるArzawa軍は、Suppiluliuma I率いるHittite軍に敗れて全滅した。[76]
恐らく、Anzapahhaduも戦死したと思われる。
4.6 Maskhuiluwa
Anzapahhaduの跡を継いだのは、Tarhuntaraduの子Maskhuiluwaであった。[77]
BC1322年、Maskhuiluwaは、Uhha-Zitiに追放されて、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[78]
後に、ArzawaがHittiteに攻略されて、3つの属国に分けられたとき、MaskhuiluwaはMiraの王になった。[79]
4.7 Kupanta-Kuruntaの後裔
Manes(Kupanta-Kurunta)には息子CotysがいたがArzawa王としては登場しない。[80]
Cotysの跡を、彼の息子Atysが継いだ。[81]
Atysの息子たちの時代に、Uhha-ZitiとHittiteとの間に戦いが起こり、Manesの後裔の大部分は、他へ移住することになった。
BC1300年、Atysの子Tyrrhenusに率いられたArzawaの人々は、Italy半島へ移住した。[82]
Tyrrhenusは、Lydiaから直接Italyへ移住したのではなく、Lemnos島に10年以上住んでからであったと推定される。
Tyrrhenusは、Pelasgianであったが、Arzawaの人々の大部分は、Luwian languageを話していた。[83]
あるいは、ThessalyからMaeoniaへ移住してから、Italy半島へ移住するまでの90年間に、PelasgiansもLuwian languageを話すようになったと思われる。
BC1390年にThessalyからItaly半島へ移住して住んでいたPelasgiansと、Tyrrhenusと共に移住した人々とは言葉が通じなかった。[84]
5 Uhha-Zitiについて
5.1 Hittite文書中のUhha-Ziti
Uhha-Zitiは、Hittiteの属国となる前のArzawaの最後の王であった。[85]
Uhha-Zitiには、Piyama-KuruntaとTapalazunauliという2人の息子たちがいた。
Uhha-Zitiは、Arzawa王Tarhuntaraduの跡を継いだMaskhuiluwaを追放した。[86]
Maskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[87]
BC1318年、Uhha-Zitiは、Hittite軍に攻められて、Arzawaの首都Apasas(Ephesus)を拠点にして抵抗したが、病死した。[88]
Piyama-Kuruntaは、Hittiteの捕虜になって、Hattusaへ連行された。[89]
Tapalazunauliは、Hittite軍に包囲されたが、包囲から脱出した。[90]
5.2 Uhha-Zitiと息子たちのギリシア名
Uhha-Zitiの行動や年代から、Uhha-Zitiのギリシア名は、Pelopsの父Tantalusと推定される。
Piyama-Kuruntaのギリシア名は、Tantalusの息子Broteas、Tapalazunauliのギリシア名はPelopsと推定される。[91]
5.3 Tantalusの系譜
Tantalusは、Acmon (Idaean Heracles)の孫Clymenusの息子と推定される。[92]
前述したように、Attarisiyaのギリシア名は、AcmonとPhoenixの娘Astypalaeaとの息子Ancaeusであった。
つまり、Tantalusは、初めて、Hittiteと戦ったGreekであるAttarisiyaの甥Clymenusの息子であった。
5.4 Tantalusの最初の居住地
Tantalusは、Anatolia半島北西部のIda山近くのBerecyntian landに住んでいた。[93]
Tantalusが領内の畑の種蒔きをするためには10日の旅を必要とした。[94]
Tantalusは、TroyのTrosの子Ilusに追われて、PhrygiaのSangarius川の源流付近にあるPessinusへ逃れた。[95]
Pessinusは、Ida山からは直線で約370km離れていた。
Tantalusは、Ida山からPessinusまでの広い範囲を支配していたのかもしれない。
5.5 Lydiaへの移住
Pessinusは、Gordiumのすぐ西側にあり、Hittiteの支配地域と隣接していた。
Trosの子Ilusは、PessinusにいたTantalusを攻めた。[96]
戦いに敗れたTantalusは、LydiaのSipylus山付近へ移住した。[97]
5.6 Arzawaの支配権の奪取
Tantalusが移住した地方は、Arzawaの支配地域であった。
当時、Arzawa王は、Anzapahhaduの跡を継いだTarhuntaraduの子Maskhuiluwaであった。[98]
Tantalusは、Sipylus山一帯の鉱床から金を採掘して莫大な富を蓄積した。[99]
TantalusのLydiaへの移住には、Ida山周辺で採掘に従事していたIdaean Dactylsも参加していたと推定される。
Tantalusは財力と、ArgosのInachusを共通の先祖とするManesの後裔を指導者とするMaeoniansの支持を得て、Maskhuiluwaを追放して、Arzawa王になった。
5.7 Hittiteとの戦い
Arzawaから追放されたMaskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma Iのもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[100]
Suppiluliuma Iと、彼の跡を継いだArnuwanda IIは疫病で死去して、Hittiteは、すぐには、Arzawaに対する軍事行動を起こすことができなかった。
Arnuwanda IIの跡を継いだMursili IIは、治世3年目にArzawaと戦うことになった。[101]
戦いの端緒は、Attarimma、Huwarsanassa、Surudaの人々がArzawaへ逃げ込み、Mursili IIがTantalus(Uhha-Ziti)に彼らの引き渡しを要求したことであった。[102]
Tantalusは彼らの引き渡しを拒否したため、Mursili IIは、Tantalusが拠点としていたApasas(Ephesus)へ向けて進軍した。Tantalusは、Broteas (Piyama-Kurundas)にHittite軍を迎撃させるが敗れた。[103]
その後、Hittite軍がApasasに着く前にTantalusは病気になって、近くの島へ逃れた。[104]
BC1318年、Tantalusは病気が悪化して死んだ。[105]
Tantalusの子Pelops (Tapalazunauli)は、島から本土へ渡って、Mursili IIの軍と戦ったが、敗れて包囲された。Pelopsは、包囲から無事に脱出したが、彼の妻と息子たちは捕虜になった。[106]
Broteas (Piyama-Kurundas)は、島から本土へ渡って、Mursili IIと交渉するが、Hattusaへ送られた。[107]
Broteasが製作した神々の母の神像がLydia地方のSipylus山の近くの岩の上にあった。[107-1]
また、Broteasには、息子Tantalusがいたかもしれない。Argosの町にTantalusの遺骨が納められた容器があったと伝えられている。[107-2]
5.8 PelopsのGreeceへの移住
その後、PelopsはAsia MinorからPeloponnesusへ渡った。その時、Pelopsは彼の息子Chrysippusと一緒であった。[108]
Pelopsは、Mursili IIとの戦いの後で、失地回復を狙って、3年ほどAsia Minorにいたが、その望みを断念して、Peloponnesusへ渡ったと推定される。
Ida山南東のThebeの町の近くには、Pelopsの御者Cillusの大きな墓があった。Cillusは、その地方の支配者であった。[108-1]
Pelopsの行動範囲は、その地方にまで、及んでいたと思われる。
6 Manapa-Tarhuntaについて
6.1 Hittite文書中のManapa-Tarhunta
Arzawaのひとつの地方であったSeha River Landの王Muwa-Walwisが死んで、彼の息子Manapa-Tarhuntaが跡を継いだ。[109]
Manapa-Tarhuntaは、兄弟たちによって、Sehaから追放されて、Karkiya(Caria)へ逃れたが、Sehaの人々が反乱を起こして、Manapa-Tarhuntaを呼び戻した。
Uhha-ZitiがHittiteに対して反乱を起こすと、Manapa-Tarhuntaは彼を支持した。[110]
Uhha-Zitiは、Mursili IIとの戦いに敗れて、ArzawaはHittiteの属国になって、3つに分割された。[111]
その中の一つ、Seha River Landは、Manapa-Tarhuntaに与えられた。Manapa-TarhuntaはUhha-Zitiに味方していたが、Mursili IIは彼を許した。[112]
Piyama-RaduがTroyを攻撃したとき、Manapa-TarhuntaはTroyに加勢した。しかし、Piyama-Raduを追い出すことに失敗した。[113]
その後、Piyama-RaduがLazpa(Lesbos)を攻撃した。島にはManapa-Tarhuntaの部下がいたが、彼らはPiyama-Raduの軍に合流した。[114]
6.2 Manapa-Tarhuntaのギリシア名
Manapa-Tarhuntaの父Muwa-Walwisの祖父は、Arzawaの初代王Kupanta-Kurunta(Manes)、または、Manesと共にThessalyからLesbosの対岸へ移住して来たPelasgiansと思われる。[115]
Manapa-Tarhuntaの跡をMasturiが継ぎ、Masturiは、Tarhunta-Raduに追放された。その後、Manapa-Tarhuntaの子孫が、Seha River Landを支配した。[116]
Trojan Warの時代、TroasとLydiaの間のHermus川流域には、Lethusの2人の息子たち、HippothousとPylaeusを指導者とする大部族がいた。[117]
年代を比較すると、Lethusは、Masturiの跡を継いだManapa-Tarhuntaの孫と推定される。
MasturiがManapa-Tarhuntaの息子であるとすれば、Masturiのギリシア名は、Teutamusになる。[118]
また、Manapa-Tarhuntaのギリシア名は、Lethusの祖父Mitraeusになる。[119]
ただし、このMitraeusは、歴史家CephalionのみがAssyria王Teutamusの父だとして伝えているもので、正しくないかもしれない。
6.3 Masturiの妻
Masturi (Teutamus)の妻は、Mursili IIと Gassulawiyaとの間の娘Massanauzzi (or Matanaza)であり、Hittiteであった。[120] 歴史家Cephalionは、TeutamusをSemiramisの子Ninyasから26人目のAssyria王だと記している。[121]
Hittiteの存在を知らない古代ギリシアの歴史家は、HittiteをAssyriaと同じと見なしていたようである。
6.4 Seha River Landの中心地
Seha RiverをHermus川ではなく、Pergamon近くを流れるCaicus川と見なして、Seha River Landの中心地をMysia of Pergameneに置くことも可能である。
その場合、Seha River Landの領土は、Propontis海近くのMysia of Olympeneまでを含むことになる。[122]
Caicus川流域のMysiansも、Hermus川流域のPelasgiansも、ArgosからThessalyを経由して、Asia Minorに定住した部族であった。
前者は、Thessalyから陸路で、後者は、Lesbosを経由して海路でAsia Minorに移住した。[123]
前者は、Olympus山周辺からMysia of Pergameneへ居住地を広げた。
前者の居住者は、Trojan Warより少し前に移住して来たArcadiansになり、後者の居住者は、Trojan Warの後で移住して来たAeolisになった。
後者は、前者よりも遥かに大部族であった。[124]
したがって、Manapa-Tarhuntaの支配の中心は、Hermus川流域であったと推定される。
7 Piyama-Raduについて
7.1 Hittite文書中のPiyama-Radu
Piyama-Raduは、Hittiteに抵抗した人物として、Manapa-Tarhunta letter (CTH 191)、Tawagalawa letter (CTH 181)、Milawata letter (CTH 182)に登場する。
7.2 Piyama-Raduの系譜
Piyama-Raduには兄弟Lahurziと、MillawandaのAtpaと結婚した娘がいたことしか分かっていない。
Atpaのギリシア名が、Ariaの子Miletusであるという私の推定が間違っていなければ、Piyama-Raduのギリシア名は、Celaeneusである。
Miletusの歴史家Aristocritusの『Miletusの歴史』によれば、Miletusの妻Tragasiaの父の名前は、Celaeneusであった。[125]
古代ギリシアの史料の中に、このCelaeneusの他に、もう一人のCelaeneusが登場する。
それは、MycenaeのPerseusの子Electryonの子Celaeneusである。[126]
Miletusの妻の父Celaeneusと、Electryonの子Celaeneusとは、年代的にまったく矛盾しない。
伝承によれば、Electryonの子Celaeneusは兄弟たち(Stratobates、Gorgophonus、Phylonomus、Amphimachus、Lysinomus、Chirimachus、Anactor、Archelaus)と共に、Argosに攻め込んで来たTaphiansと戦って死んだことになっている。[127]
しかし、この伝承は、明らかに作り話である。
Electryonの子CelaeneusとMiletusの妻Tragasiaの父Celaeneusが同一人物であるとすれば、つぎのようになる。
Electryonの長男Persesは、祖父Cepheusの跡を継いでEthiopiaに住んでいた。[128]
EthiopiaはEgyptの南ではなく、Anatolia半島北西部のZeleia近くを流れるAesepus川の河口近くにあった。[129]
Trojan War時代、TroyのLaomedonの子Tithonusの子Memnonは、Ethiopiaに住んでいた。[130]
Ethiopiaは、Perseusの子Persesが祖父Cepheusの跡を継いだ後で、Troyの支配下になったと推定される。[131]
このような、Troyとの関係で、Ethiopiaに住んでいたPersesは、彼の父Perseusへ援軍の派遣を要請し、PerseusはElectryonをEthiopiaへ行かせた。
ElectryonはEthiopiaで、PhrygianのMideiaを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[132]
Electryonは、その後、Peloponnesusへ帰還して、Pelopsの娘Lysidice(or Eurydice)を妻に迎えて、Heraclesの母となるAlcmenaが生まれた。[133]
7.3 EthiopiaのTroy併合
EthiopiaはAdrasteiaに含まれていたが、Adrasteiaの名前は、Adrastus王に因むものであった。[134]
Adrastusは、Trosの子Ilusの妻Eurydiceの父であった。[135]
Ethiopiaは、Ilusに攻められて占領され、IlusはEthiopiaを彼の妻の父Adrastusに与えた。[136]
Ilusとの戦いに敗れたElectryonはPeloponnesusへ帰還し、Mideaを任せられた。[137]
この時、Electryonの息子たちは、20歳以下であった。
Electryonの息子たちの何人かは、Asia Minorに残った。その中の一人が、Celaeneusであった。
7.4 Piyama-Radu (Celaeneus)の反抗活動
7.4.1 反抗期間
Celaeneusは、戦士の年齢に達するとEthiopiaを追われた人々と共に、TroyやTroyと友好関係にあったHittiteとの戦いを開始した。
Piyama-Raduの反抗期間は、Muwatalli IIの治世(BC1295-72)からTudhaliya IVの治世(BC1237-09)まで続いた。[138]
要するに少なくとも35年以上の間、Piyama-Raduは戦い続けたことになる。
彼は、第2次メッセニア戦争の時のMesseniaのNicomedesの子Aristomenesのような英雄であった。
7.4.2 反抗動機
CelaeneusがTroyやHittiteを相手に反抗活動をした主な動機は、Ethiopiaを奪われたことであった。
しかし、Tantalusが領地を追われたことも、彼の戦いの動機の一つであった。
Celaeneusの祖父Perseusは、Cepheusの娘Andromedaと結婚し、長男Persesが生まれるまで、少なくとも3年はEthiopiaに住んでいた。[139]
TantalusがTroyのIlusに追われる前、Tantalusの領地は、Ethiopiaに隣接し、TantalusとPerseusの間には、交流があったと推定される。
Tantalusの子Pelopsの娘たちと、Perseusの息子たちとの間の結婚がそれを証明している。
Pelopsの娘Eurydice (or Lysidice)は、Perseusの子Electryonと結婚した。[140]
Pelopsの娘Nicippeは、Perseusの子Sthenelusと結婚した。[141]
Pelopsの娘Lysidiceは、Perseusの子Mestorと結婚した。[142]
Celaeneusは、Tantalusが領地を追われた後の経過を知っていたと思われる。
7.4.3 Troy攻撃
Seha River LandのManapa-TarhuntaがMuwatalli II(BC1295-72)に宛てた書簡には、Piyama-RaduがWilusa(Troy)を攻撃したと記されている。Manapa-Tarhuntaは、Troyに加勢したがPiyama-Raduに敗れた。[143]
この出来事は、BC1296年にTrosの子Ilusが死去した後の後継者争いに関係していると思われる。
Piyama-Raduは、Ilusの子Laomedonと王位を争っていたPhaenodamasを支援して、Laomedonを追放した。
PhaenodamasはWilusaの王に即位したが、Hittite軍に攻められて、Laomedonに王位を奪われた。
Piyama-Raduは、Lesbos島へ渡った。[144]
7.4.4 Lazpa攻撃
Manapa-Tarhunta letterには、Piyama-RaduがWilusa(Troy)を攻撃した後で、Lazpa(Lesbos)を攻撃したと記されている。[145]
当時、島にはManapa-Tarhuntaの部下がいたが、Piyama-Raduの軍に合流した。[146]
BC1560年、Triopasの子Xanthusは、Argosから当時無人であったLesbosに植民した。Issaと呼ばれていた島は、Pelasgiaと呼ばれるようになった。[147]
BC1389年、Aeolusの子Macareusは、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、PeloponnesusからPelasgiaへ入植した。[148]
BC1340年、Lapithusの子Lesbosは、Thessalyから植民団を率いて、Lesbosへ入植し、島はLesbosと呼ばれるようになった。[149]
つまり、島はPelasgiansが最初に住み、その後、IoniansやAeolisが入植し、Piyama-Raduの時代には、Seha River Landに支配されていた。
7.4.5 Lukkaでの反乱
Piyama-Raduは、Lukkaでの反乱が失敗して、Ahhiyawaへ逃亡した。[150]
これより前に、GreeksとLukka (Lycia)との関係は、つぎのようであった。
BC1560年、Triopasの子Xanthus率いるPelasgiansの移民団は、ArgosからLyciaのXanthus河口近くへ入植した。[151]
BC1530年、Xanthusの娘Lyciaの子Patarusは、LyciaのXanthus河口近くにPataraを創建した。[152]
BC1425年、TelchinesのLycusは、RhodesからLyciaのXanthus川近くに移住して、Apollo Lyciusの神殿を奉納した。[153]
BC1348年、Proetusは、Tirynsの城壁を強化するために、LyciaからCyclopesを呼び寄せた。[154]
BC1289年、Minosの子Sarpedonは、CreteからMiletusを経由してLyciaへ移住した。[155]
BC1277年、Pandionの子Lycusは、AthensからMesseniaを経由してAsia Minorへ渡り、Lyciaへ移住した。[156]
BC1250年、Eleia南部のLepreusに住んでいたCauconesは、その町の支配者Lepreusの横暴に耐え切れずにLyciaへ移住した。[157]
Astydameiaの子Lepreusは、HeraclesがElis攻めの後で、一騎打ちをして、Heraclesに殺されたという伝承がある人物であった。[158]
Piyama-RaduのLukka(Lycia)での反乱の原因は、最後の移住が関係していたと推定される。
LyciaのXanthus川付近は、古くからGreeksの入植地であったが、Solymiなどの周辺の異民族との争いが絶えなかったと思われる。
BC1241年には、Glaucusの子BellerophontesがIobatesに招かれて、IsthmusからLyciaのXanthusへ移住している。[159]
Bellerophontesは、LyciaでSolymiと戦っている。[160]
7.4.6 反抗活動の終了
Piyama-Radu(Celaeneus)の反抗活動は、BC1295年に始まり、BC1237年頃に終わった。
Celaeneusは、25歳で反抗活動を開始して、78歳まで活動したと推定される。
Hittiteの支配が、Asia Minorに及ばなくなり、反抗活動が自然になくなったとも考えられる。
HittiteのAsia Minorへの影響力が弱まった1つの例がある。
BC1230年、Hittiteの属国であったSeha River LandにArcadiansの大規模な入植があった。
Augeの子Telephus率いるArcadiansは、SchoenusやAzaniaからMysia of Pergameneへ入植した。
その後、Azaniansは、Hermus川の上流に定住した。[161]
Rome時代のMysia of Pergameneには、Telephusと共に移住したArcadiansの子孫が住んでいた。[162]
7.4.7 Heraclesの支援
Piyama-Raduの活動期間に、Heraclesは少なくとも2度、Asia Minorへ渡っている。
最初は、BC1248年から3年間、LydiaのHyllus川が流れるTimolus山の麓である。[163]
2度目は、BC1244年にIliumやCos島へ行っている。[164]
Heraclesは、Piyama-Radu (Celaeneus)を支援するためにAsia Minorへ渡ったとも考えられる。Celaeneusの妹Alcmenaは、Heraclesの母であり、CelaeneusはHeraclesの伯父であった。
8 Wilusa (Troy)について
Wilusaに関係する人物として、Hittite文書中に3人の名前が登場する。
つまり、Kukkunni、Alaksandu、Walmuである。
8.1 Kukkunniについて
8.1.1 Hittite文書中のKukkunni
Wilusa王Kukkunniは、Hittite王Suppiluliuma Iと同盟を結んだ。[165]
8.1.2 Kukkunniのギリシア名
Suppiluliuma I (BC1344-22)と同盟締結可能なTroy王は、Erichthoniusの子Tros、あるいは、Trosの子Ilusである。[166]
しかし、Suppiluliuma Iの孫Muwatalli IIとAlaksanduが締結したAlaksandu条約にはつぎのような文章がある。[167]
「あなた(Alaksandu)の父親(Kukkunni)にした誓いのために、私(Muwatalli II)はあなたの助けを求める声に応え、あなたの代わりにあなたの敵たちを殺した。」
したがって、Kukkunniは、Alaksanduの父であることが分かる。
つぎのAlaksanduの検討で、AlaksanduはLaomedonと推定されるので、Kukkunniのギリシア名は、Laomedonの父Ilusと推定される。
8.1.3 Kukkunni (Ilus)のWilusa王継承
Hittite文書によって、つぎのことが判明している。
1) Dardanusの町の近くのIliumには、Hittiteの属国Wilusaがあった。
2) Wilusaは、Hittite王Hattusili I (BC1650-20)の時代から存在していた。[168]
3) Wilusa王Kukkunniは、Suppiluliuma I (BC1344-22)と同時代であった。[169]
4) Kukkunniは、通常ではない方法でWilusaの王位を継承した。[170]
以上のことから、Trosの子Ilusは、Wilusa王の娘を妻に迎え、Wilusa王が死んだとき、正当な王位継承者から王位を簒奪したと推定される。あるいは、Wilusa王に息子がいなかったのかもしれない。
Ilusが外部から武力によってWilusaを征服したのではなく、Wilusa王の娘婿としての王位継承をHittiteは認めたと思われる。
つまり、Hittiteから見て、WilusaがTroyを指すようになったのは、Kukkunni (Ilus)がWilusa王を継承したときからであった。
8.2 Alaksanduについて
8.2.1 Hittite文書中のAlaksandu
Wilusa王Alaksandu (or Alakasandu, Alaksandus)は、Hittite王Mursili IIや Muwatalli IIと同盟を結んだ。[171]
8.2.2 Alaksanduのギリシア名
Hittite文書には、Muwatalli II(BC1295-72)がAlaksanduの敵対者を排除して、彼をWilusa王に即位させたと記されている。[172]
系図を作成すると、Muwatalli IIの治世中に即位したTroy王は、Ilusの子Laomedonだけである。
したがって、Alaksanduのギリシア名は、Laomedonであり、つぎのような王位継承争いがあったと推定される。
BC1296年、Ilusが死去して、彼の息子LaomedonがIlusの跡を継いだ。[173]
Laomedonは、即位時にMursili II(BC1321-1295)と条約を締結した。[174]
その後、Laomedonは競争者によって、Iliumから追放された。[175]
Laomedonを追放したのは、Ilusの息子と思われるPhaenodamas (or Hippotes)であった。
Laomedonは、Hittite軍やHittiteの属国の軍を味方にして、Iliumを攻めた。
Laomedonを王位に復帰させたのは、Muwatalli IIであり、Iliumへの攻撃は、BC1295年の出来事と推定される。[176]
この頃、Hittiteは、Lydiaを中心としたArzawaを征服して、Asia Minorへも強大な影響力を持っていた。[177]
この戦いで、Phaenodamasは、彼の息子たちと共に殺された。[178]
残されたPhaenodamasの3人の娘たちは、Sicilyへ逃れた。[179]
8.3 Walmuについて
8.3.1 Hittite文書中のWalmu
Milawata letter (CTH 182)の中で、Hittite王は、Wilusa (Troy)の王位継承争いに敗れたWalmuを引き渡すようにMilawata王に要請している。[180]
8.3.2 Walmuのギリシア名
その書簡の発出者は、Hattusili III(BC1265-35)であり、ギリシアの伝承で確認されるLaomedonの子Priamが即位した頃のものと推定される。[181]
Hittite王の仲介でWalmuがTroy王になっているのであれば、Walmuのギリシア名はPriamになる。
または、仲介が失敗してWalmuがTroy王になることができなかったのであれば、WalmuはPriamと王位継承権を争った者ということになる。
しかし、Hittite王の仲介が実現しなかった可能性は低く、Walmuのギリシア名は、Priam (or Podarces)と推定される。
8.3.3 王位継承争い
Wilusaの王位継承争いは、つぎのようであったと推定される。
8.3.3.1 Walmuの亡命
Laomedonが死ぬと王位継承争いが起きた。王位継承争いに敗れたWilusaのWalmuがMilawata(Miletus)へ逃げ込んだ。Hittite王は属国のMilawata王にWalmuをHittiteに引き渡し、Wilusaの王に据えることができるように要請した。[182]
Priamは、Miletusへ嫁いだ彼の姉妹Hesioneを頼ってMiletusへ亡命したと思われる。
8.3.3.2 Walmuを追放した者たち
Walmuを追放したのは、Ilusが死んだ時に、Laomedonと王位を争った者の孫であった。
つまり、Laomedonに殺されたPhaenodamasの孫Aegestus (or Acestes)である。
しかし、AegestusはSicilyに住んでいた。[183]
したがって、Iliumの内部にもWalmu追放に関与した者たちがいたと推定される。
それは、後に、Aegestusと一緒にSicilyへ移住した、Aeneasの父Anchisesであった。[184]
また、Iliumの南約1kmの平原に墓があるAntenorの父AesyetesもAegestusの支援者であった。[185]
Anchisesの父はTrosの子Assaracus(or Asarakos)の子Capysであり、母は、Ilusの娘Themisteであり、Anchisesにも王位継承権があった。
また、Antenorの父Aesyetesは、Dardaniaに住んでいたAssaracusの子Capysの息子で、Anchisesの兄弟であったと思われる。[186]
Aegestusは、AnchisesとAesyetesの支援を受けて、Priamを追放して、一時、Iliumを掌握した。しかし、彼らは、Hittite軍の後ろ盾を得たPriamに攻撃されて、Iliumを放棄した。[187]
8.3.3.3 Anchisesらの移住
AesyetesはIliumの南約1kmの平原で、Priamの軍を迎え撃とうとして、戦死した。[188]
Aesyetesの子Antenorは、Adriatic Seaの奥の地へ移住した。[189]
Aegestusは、Anchisesと共にSicilyへ移住した。[190]
したがって、Anchisesの子Aeneasに関するSicilyより前の伝承は、すべて作り話であり、AeneasはSicily生まれであった。[191]
AegestusやElymus (or Elyuius)は、Sicilyの北西部にAegesta (or Egesta)の町(現在のSegesta)とElyma (or Eryx)の町(現在のErice)を創建した。[192]
Elymus は、Anchisesの息子であった。[193]
おわり |