1 はじめに
多くの古代の伝承は、ヘラクレスの誕生から死までを伝えている。
また、現代のヘラクレスに関する記述などでも、古代の伝承をそのまま引用している。
ヘラクレスは、歴史上の人物ではなく、神話に登場する架空の人物だと見なされている。
しかし、古代の伝承を精査すると、ヘラクレスの実像が見えてくる。
2 テバイ時代
2.1 ヘラクレスの誕生
ボイオティア地方のプラタイアの町からテバイの町に着き、エレクトラ門を抜けると左側にアルカイオス の子アンピュトリオンの家があった。[1]
BC1275年、アンピュトリオンの妻アルクメナは、そこで、男の子を産んだ。
男の子はアルキデス、あるいは、祖父の名前でもあったアルカイオスと名付けられた。[2]
後に、神託を授ける際にデルポイの巫女が彼をヘラクレスと呼び、以後、彼は、その名で呼ばれるようになった。[3]
2.1.1 ヘラクレスの祖父アルカイオス
ヘラクレスの父アンピュトリオンは、テュリンス王ペルセウスの子アルカイオスの息子であった。[4]
アンピュトリオンの母は、テバイの町のメノイケウスの娘ヒッポノメであった。[5]
BC1305年、テュリンス王アルカイオスとヒッポノメの間にアンピュトリオンが生まれた。[6]
2.1.2 ヘラクレスの父アンピュトリオン
アンピュトリオンの兄弟は知られておらず、リキュムニオスと結婚した姉妹ペリメデ(または、アナクソ)がいた。[7]
BC1287年、アンピュトリオンは、アルカディア地方のペネウスの町の有力者グネウスの娘ラオノメと結婚した。彼らには、息子イピクレスが生まれた。[8]
イピクレスが生まれた後、アンピュトリオンの妻ラオノメは、死んだ。イピクレスは、ラオノメの兄妹と思われるペネウスの町に住むブパゴスとその妻プロムネに育てられたと推定される。[9]
BC1278年、アンピュトリオンは、テバイの町のスパルトイに招かれて、テュリンスの町からテバイの町へ移住した。[10]
アンピュトリオンを招いたスパルトイとは、彼の祖父メノイケウスであった。
メノイケウスから、クレオン、ハイモン、マイオンへと続く血統は、スパルトイの家系であった。[11]
2.1.2.1 ギリシア北西部への遠征
BC1277年、アンピュトリオンは、ギリシア北西部のテレボアイ人の地へ遠征した。[12]
この遠征を企画したのは、アンピュトリオンの叔父で、ペルセウスの末子ヘリウス(または、ヘレウス)であった。ヘリウスは、アルゴス地方にヘロスの町を建設していたが、それに飽き足らず新天地を求めたものと思われる。[13]
ヘリウスは、兄弟のエレクトリュオンや甥アンピュトリオンに協力を求めた。アンピュトリオンは、アイゲウスに追われて、アッティカ地方のトリコスの町からテバイの町へ逃れて来ていたパンディオンの子ケパロスを誘って遠征に参加した。[14]
遠征隊は、アカルナニア地方西方のイオニア海に浮かぶ島々からテレボアイ人を追い出して植民した。アンピュトリオンは、テバイの町に帰還して、神殿に戦利品を奉納した。[15]
ケパロスは、イオニア海で最大の島に入植し、島をケパレニアと呼ばせた。[16]
ヘリウスは、エキナデス諸島に入植した。[17]
その後、ヘリウスの子タピウスは、ケパレニア島の北に浮かぶ島々からテレボアイ人を追い出して、その一つにタポスの町を創建し、島をタポスと呼ばせた。[18]
彼らに追い出されたテレボアイ人の始祖は、BC1430年、エジプトからラコニア地方に入植したレレクスの娘テラプネの子テレボアスと推定される。[19]
遠征中、テレボアイ人との戦いで、エレクトリュオンと息子たちが戦死した。[20]
アンピュトリオンは、エレクトリュオンの娘アルクメナと、エレクトリュオンの息子たちの中で唯一生き残ったリキュムニオスをテバイの町に引き取り、アンピュトリオンは、アルクメナと結婚した。[21]
2.1.2.2 アンピュトリオンの子イピクレス
ヘラクレスの異母兄イピクレスは、エレイア地方のピサの町からペロプスの子アルカトオスの娘アウトメドゥサを妻に迎えた。[22]
アルカトオスは、メガラ王ニソスの孫娘エウアイクメと結婚して、メガラ王を継承している。しかし、イピクレスの妻アウトメドゥサは、エウアイクメの娘ではなく、アルカトオスの前妻ピュルゴの娘であった。[23]
イピクレスの継母アルクメナの母エウリュディケ (または、リュシディケ)は、アウトメドゥサの父アルカトオスの姉妹であった。イピクレスとアウトメドゥサとの間には、息子イオラオスが生まれた。[24]
イオラオスは、ヘラクレスより8歳年下で、ヘラクレスの甥であったが、弟であるかのように常にヘラクレスと行動を共にした。ヘラクレスは息子たち以上にイオラオスを愛した。[25]
ヘラクレスの功業も、ヘラクレイダイのペロポネソス帰還も、イオラオスなくしては達成できなかったと思われる。
イピクレスには、イオラオスの他に、アテナイの町のテセウスと結婚した娘イオペがいた。[26]
ヘラクレスの死後、エウリュステウスへの脅威からヘラクレスの子供たちを受け入れる町がなくなったときに、アテナイの町だけが彼らを受け入れた。[27]
ヘラクレスの子供たちを受け入れたアテナイ王テセウスは、彼らの後見人イオラオスの義兄弟であった。
2.1.2.3 アンピュトリオンの娘ラオノメ
また、ヘラクレスには、同じ母から生まれた妹ラオノメがいた。[28]
ラオノメは、ドーリス地方に住むテイオダマスの子エウペモスと結婚した。[29]
エウペモスには、弟ヒュラスがいた。[30]
ヒュラスは、アルゴ船の遠征にオイカリアの町から参加している。[31]
オイカリアの町は、オイタ山近くのトラキス地方にあった。[32]
後に、ヘラクレスが移住したトラキスの町の近くには、彼の妹ラオノメが嫁いだオイカリアの町があった。[33]
2.2 ヘラクレスの少年期
ヘラクレスは、良家の美少年だけがなれる「イスメニオスに坐すアポロン」に仕える1年限りの祭司になり、アンピュトリオンは、神殿に青銅の鼎を奉納した。[34]
BC1262年、ヘラクレスは、13歳のとき、牛飼場へ送られた。[35]
BC1258年、エウボイア島のカルキスの町に住むカルコドンがボイオティア地方に侵入した。アンピュトリオンは、テバイの町の北東のプロイティデス門付近で武具を身に着けて、カルコドンに向かって進軍した。アンピュトリオンは、テバイの町からアウリスの町方向へ約10kmの所にあるテウメッソスの町近くでカルコドンと戦って、彼を討ち取った。[36]
これより少し前に、エウボイア島のクリオスの息子が、デルポイ周辺を荒らして討ち取られている。[37]
この頃、ギリシア全体を襲った干ばつによる飢饉が原因で、カルコドンも同様の理由でボイオティア地方に侵入したものと思われる。[38]
このとき、17歳と推定されるヘラクレスが、父アンピュトリオンの戦功に関与したかは不明である。
ヘラクレスが働いていた牛飼場は、テバイの町の西方のテスピアイの町の近くにあった。
キタイロン山地からライオンが下りて来て、アンピュトリオンの牛たちやテスピアイの町のテスピウスの牛たちを襲った。18歳になったヘラクレスは、テスピウスから歓待を受け、このライオンを退治した。[39]
この後、ヘラクレスは父アンピュトリオンと共にペロポネソスを旅して、アルゴス地方の東海岸にあるトロイゼンの町のピッテウスの家を訪問した。ピッテウスの娘アイトラの子テセウスは、まだ子供であったが、ライオンの皮を敷いて座っているヘラクレスを見た。[40]
ピッテウスは、ヘラクレスの母方の祖母エウリュディケ (または、リュシディケ)の兄弟であり、テセウスはヘラクレスの母方の又従兄弟であった。
2.3 ミニュアス人との戦い
BC1256年、アンピュトリオンとヘラクレスが旅をしているときに、テバイの町の北西約50kmの所にあるオルコメノスの町のミニュアス人とテバイの町との戦いがあった。
ミニュアス人の王クリュメノスが、テバイの町とのほぼ中間にあるオンケストスの町で、テバイの町のクレオンの子メノイケウスの御者ペリエレスによって殺害された。テバイの町は、クリュメノスの子エルギヌスに攻められて敗れ、20年間の貢納を課せられた。[41]
旅から帰ったアンピュトリオンとヘラクレスは、エルギヌスと戦って、オルコメノスの町まで攻め寄せて、戦いを短期間で終わらせた。[42]
ヘラクレスは、ミニュアス人との戦いで、彼の父アンピュトリオンを失ったが、エルギヌスに対して寛大に振舞った。[43]
この戦いには、コリントスの町からもテバイの町の応援に駆け付けており、十分に戦備を整えた上での戦いであった。[44]
コリントスの町から駆け付けたオイディプスは、2人の息子たち、プラストールとラオニュトスを戦いで失った。[45]
また、これより少し前に、ミノスとアテナイの町との戦いの後でハリアルトスの町の近くのオカレアイの町に住んでいた、ミノスの兄弟ラダマンティスもテバイの町に加勢した。[46]
ヘラクレスは、エルギヌスとの戦いの勝利を祝ってテバイの町のアルテミスの神殿に獅子の石像を奉納した。[47]
テバイの町のクレオンは、戦いの殊勲者であるヘラクレスに娘メガラを、ヘラクレスの異母兄イピクレスにはメガラの妹を与えた。[48]
メガラは、ヘラクレスの父方の祖母ヒッポノメの年の離れた弟クレオンの娘であり、アンピュトリオンの従妹であった。
イピクレスは、それまでアルカディア地方のペネウスの町に住んでいたが、ミニュアス人との戦いの前から息子イオラオスと共にテバイの町に住んでいた。イオラオスは、当時11歳で、戦士の年齢には達していなかった。
未亡人となったアルクメナは、オカレアイの町のラダマンティスと再婚した。[49]
アルクメナは、テバイの町を出るとき、テバイの人々から栄誉を授けられた。[50]
2.4 メガラとの離別
ミニュアス人との戦いの後、ヘラクレスはテバイの町で平和な時を過ごし、妻メガラとの間には子供たちが生まれた。[51]
恐らく、失火が原因と思われる火事でヘラクレスの子供たち全員が死んだ。ヘラクレスは、メガラとの結婚は神に祝福されないものであったと理解して、メガラを離縁して、イオラオスと結婚させた。[52]
この出来事は、ヘラクレスとクレオンとの関係を疎遠にした。その後、ヘラクレスは、テバイの町を忌避するように、居を変えた。
ヘラクレスの子供たちの死は、テバイの町での出来事であり、アンピュトリオンとヘラクレスの子供たちの墓は、テバイの町にあった。[53]
3 テュリンス時代
3.1 テュリンスへの移住
BC1251年、ヘラクレスは、テバイの町から彼の父アンピュトリオンの旧領テュリンスの町へ移住した。[54]
ミュケナイの町は、創建者ペルセウスからステネロスへ継承され、さらにエウリュステウスへと継承された。ペルセウスの時代から続いていた、アルゴスの町との対立関係は解消されておらず、エウリュステウスの息子たちも幼少で、彼を助ける者は、近くにいなかった。
エウリュステウスは、彼の従兄弟アンピュトリオンの息子ヘラクレスにテュリンスの町を任せたのではないかと思われる。あるいは、テバイの町のクレオンとの確執から、ヘラクレス自身の意志で、テュリンスの町へ移住したのかもしれない。
古代の詩人も、ヘラクレスがテュリンスの町へ移住した動機を理解できずに、神託を理由にしている。[55]
3.2 ヘラクレスの功業
エウリュステウスがヘラクレスに命じたとされる12の功業の多くは、荒唐無稽な作り話である。
しかし、第4の功業に登場するアルカディア地方にいたケンタウロスと、第5の功業に登場するエリスの町のアウゲアスについては、史実をもとにしていると思われる。[56]
ただし、両者と関わった時期については、ヘラクレスがテュリンスの町にいた時ではなく、もっと後のことであった。
また、第10の功業に登場するエリュテイアの町のゲリュオンについては、実在の人物であった。ゲリュオンの孫ノラクスがイオラオスより少し前の人物で、ヘラクレスとほぼ同世代であり、ゲリュオンも長生きしたとすれば、ヘラクレスと同時代であった。
しかし、イベリア半島南部のエリュテイアの町までヘラクレスが行ったという伝承は作り話である。ゲリュオンや、彼の住んでいた地方は、ヘラクレスが関係していたが、アンピュトリオンの子ヘラクレスではなく、エジプトの ヘラクレス、あるいは、フェニキアの ヘラクレスとも呼ばれたマケリスであった。マケリスは、エジプトのカノープスの町の人であり、イベリア半島で死んだ。[57]
3.3 小アジアでの活動
3.3.1 リュディアでの3年間
BC1248年から3年間、ヘラクレスは、リュディア地方のオンパレのもとにいた。[58]
伝承によれば、ヘラクレスが、エウリュトスの子イピトスを過失により殺害して、オンパレに奴隷として売られたと伝えられている。[59]
ヒッタイト文書によれば、この時期、ヒッタイトは、ピヤマラドゥのルッカ (リュキア)での反乱を鎮圧して、アヒヤワへ逃れた彼の身柄の引き渡しを要求していた。[60]
ピヤマラドゥは、ヘラクレスの母アルクメナの兄ケライネオスと推定される。
ヘラクレスは、伯父ケライネオスを支援するために、小アジアへ行ったのではないかと思われる。ミュケナイの町のエウリュステウスは、ケライネオスの従兄弟であり、エウリュステウスがヘラクレスを小アジアへ派遣したのかもしれない。
イアルダノスの娘オンパレは、リュディア地方のトモロス山の近くに住んでいたマイオニア人であったと思われる。[61]
BC1318年、ヒッタイト王ムルシリ2世との戦いに敗れたマイオニア人の大部分は、アテュスの子テュッレノスに率いられて、リュディア地方からイタリア半島へ移住した。[62]
その後も、リュディア地方に残留していたマイオニア人は、ピヤマラドゥと共に、ヒッタイトへの反抗活動をしていたと推定される。
3.3.2 リュディアからの帰還
BC1246年、ヘラクレスは、リュディア地方からテュリンスの町へ帰還した。[63]
ヘラクレスは、リュディア地方からキュリクラネス (または、キュティニオン)を連れて来た。[64]
その中には、オンパレも含まれており、オンパレは、ヘラクレスとの間に息子テュルセノス (または、テュッレノス)を産んだ。[65]
キュリクラネスは、マイオニア人の支族であり、ヒッタイトに追われて、ヘラクレスと共に、ペロポネソスへ移住して来たと思われる。
BC1107年、テュルセノスの後裔ヘゲレオスは、ヘラクレイダイの一員として、アリストマコスの子テメノスと共に、ドーリス地方からアルゴスの町へ移住した。[66]
3.3.3 イリオンへの遠征
ヘラクレスは、イリオンの町へ遠征したと伝えられている。[67]
BC1244年、アカイア人が参加したトロイ戦争が起きた。
イリオンの町に住んでいたイロスの子ラオメドンが死んで、ラオメドンの子プリアモス (または、ポダルケス)が跡を継いだ。[68]
ダルダノスの町に住むトロスの子アッサラコスの後裔たちは、プリアモスをイリオンの町から追放して、イロスの子パイノダマスの孫アイゲストス (または、アケステス)を王にした。しかし、プリアモスは、ヒッタイト軍の助けを借りて、イリオンの町を奪還した。[69]
ヘラクレスは、アッサラコスの後裔たちの援軍として、イリオンの町に駆け付けたアカイア人の遠征軍の中にいたと推定される。
3.3.4 コスへの遠征
ヘラクレスは、イリオンの町からの帰路、コス島に立ち寄ったという伝承がある。[70]
これが事実であれば、つぎのようであったと推定される。
当時、コス島は、メロプスが治めていたが、メロプスは、彼の娘クリュティアの夫エウリュピロスに追われて、ヘラクレスに助けを求めた。ヘラクレスはメロプスを帰還させようとしたが、エウリュピロスとの戦いになった。ヘラクレスは、エウリュピロスの子カルコドン (または、カルコン)と戦って負傷した。[71]
メロプスは、レスボス島からコス島へ移住したマカレウスの子ネアンドロスの後裔と推定される。[72]
ヘラクレスとエウリュピロスの娘カルキオペとの間に、息子テッサロス (または、テッタロス)が生まれた。テッサロスには、2人の息子たち、ペイディッポス (または、ピディッポス)とアンティパスが生まれた。トロイ戦争時代、ヘラクレスの子テッサロスの後裔がコス島を支配していた。[73]
BC4世紀初頭、コス島に住んでいた、医学の父ヒッポクラテスは、ヘラクレスから20代目の子孫であった。[74]
3.4 1回目のエリス攻め
3.4.1 エリス攻めの原因
BC1243年、ヘラクレスは、エリス攻めの準備をした。[75]
伝承によれば、ヘラクレスのエリス攻めは、エリスの町のアウゲアスがヘラクレスに約束した報酬を支払わなかったことが原因であったと伝えられている。しかし、史実は次のようであったと思われる。[76]
アウゲアスの母は、アルカディア地方のアンピダマスの娘ナウシダメであった。ナウシダメの姉妹アンティビアは、エウリュステウスの継母であり、アウゲアスとエウリュステウスは、義理の従兄弟であった。 [77]
この婚姻関係によって、エウリュステウス誕生前は、エリスの町とミュケナイの町は、良好な関係にあった。しかし、エウリュステウスの父ステネロスが、ペロプスの娘ニキッペ(または、アルキッペ)と2度目の結婚をして、彼らの間にエウリュステウスが生まれると、エリスの町とミュケナイの町の関係は悪化した。[78]
ペロプスが死んだ後で、エリスの町が、ピサの町に代わってオリュンピアを支配した。エリスの町がオリュンピアで競技会を開催し、ピサの町とエリスの町の関係も悪化した。エウリュステウスは、母の出身地であるピサの町からの請願を受けてヘラクレスにエリスの町を攻めさせたと推定される。[79]
つまり、ヘラクレスのエリス攻めの目的は、オリュンピアをエリスの町の支配から解放して、オリュンピアをピサの町の管轄に戻すことであった。
3.4.2 ピサのエリス加勢
パウサニアスは、ヘラクレスに攻められたエリスの町の防戦にピュロスの町やピサの町が参加したと伝えている。[80]
しかし、ピサの町は、エウリュステウスの母の町であり、ヘラクレスの母方の祖母の町であった。ピサの町がヘラクレスを相手にした戦いに加わったとは思われない。
パウサニアスは、ヘラクレスがデルポイから次のような神託を受け取って、ピサの町を攻めなかったと伝えている。[81]
わが父はピサを憂慮なされ、私は窪地にあるピュトを憂える。
デルポイの巫女が神アポロを代弁して、「父ゼウスはピサを私アポロはデルポイを憂慮する」というような意味と解され、ゼウスの聖地ピサに手出しするなとの警告のようである。
しかし、この神託は、ピサとオリュンピアを同一視するBC5世紀のピンダロスやヘロドトスのような人物による作り話と推定される。[82]
3.4.3 エリス攻撃
アウゲアスは、ヘラクレスの動きを知り、エリスの町の西方のヒュルミナの町を治めるアクトールの2人の息子たち、クテアトスとエウリュトスを将に任命した。[83]
アクトールは、エンデュミオンの子エペイオスの娘ヒュルミナの息子であり、エンデュミオンの娘エウリュキュダの子エレイオスの子アウゲアスの又従兄弟であった。[84]
ヘラクレスはエリスの町を攻撃するが、勇猛な戦士であったアクトールの息子たちに勝てず、ヘラクレスが病気になって、休戦した。[85]
3.4.4 イピクレスの死
しかし、アクトールの息子たちは、ヘラクレスが病気であるのを知って攻撃を仕掛け、ヘラクレス側で多くの戦死者が出た。 [86]
戦死者の中には、アクトールの息子たちに傷を負わされたヘラクレスの異母兄イピクレスも含まれていて、アルカディア地方のペネウスの町で傷がもとで死んだ。[87]
イピクレスは、ラケダイモンでの戦いで死んだという伝承もある。しかし、イピクレスはペネウスの町で、ブパゴスとその妻プロムネの看護を受けて死んだという伝承の方が詳細で真実味がある。[88]
3.4.5 クレオナイでの襲撃
BC1243年、ヘラクレスは、ヒュルミナの町からイストモスの町へ向かう途中のアクトールの2人の息子たち、クテアトスとエウリュトスをクレオナイの町で襲撃して殺した。[89]
伝承によれば、この襲撃には、多くのクレオナイ人がヘラクレスに加勢して、360人が戦死したと伝えられている。[90]
しかし、殺された兄弟の母モリオネが犯人捜しをしたとも伝えられることから、少人数での待ち伏せによる襲撃であったと思われる。[91]
当時のクレオナイの町は、ペロプスの子アトレウスによって創建されて間もなくの頃であって、ヘラクレスの襲撃には、アトレウスが協力していた。[92]
アトレウスは、ヘラクレスの母アルクメナの母エウリュディケ (または、リュシディケ)の兄弟であった。
モリオネの訴えにより、エリスの町が襲撃犯の処罰を求めたとき、エウリュステウスは、ヘラクレスを処罰せずに、ヘラクレスをテュリンスの町から出て行かせた。[93]
4 ペネウス時代
4.1 ケンタウロスとの戦い
BC1243年、ヘラクレスは、母アルクメナと甥イオラオスを伴い、アルカディア地方北東部のペネウスの町へ移住した。[94]
これより前に、アルクメナは、ミノスの兄弟ラダマンティスと再婚して、ボイオティア地方のオカレアイの町に居住していた。その後、ラダマンティスが死に、アルクメナは、テュリンスの町でヘラクレスと共に暮らしていた。[95]
ペネウスの町へ移住したヘラクレスは、テゲアの町のケペオスからケンタウロスの掃討作戦への協力を求められた。ケンタウロスは、テッサリア地方のペリオン山付近に住んでいたが、勢力を伸ばしたラリッサの町のイクシオンの子ペイリトウスを中心としたラピタイによって居住地を追われた。ケンタウロスの一部は、アルカディア地方の北西部にあるポロイ山周辺に住みついて、山賊行為をしていた。[96]
ヘラクレスは、アルカディア地方に住んでいたケンタウロスを滅ぼし、ケペオスという協力者とともに多くのアルカディア人を戦力として得ることができた。[97]
4.2 2回目のエリス攻め
BC1241年、ヘラクレスは、新たな戦力を得て、再びエリス遠征軍を準備した。この遠征には、アルカディア人、テバイ人、アルゴス人、エペイオイ人が参加した。[98]
4.2.1 アルカディア人
アルカディア人とは、ヘラクレスの異母兄イピクレスに縁のあるペネウスの町の人々であった。
アルカディア人は、ヘラクレスと共に行動し、ヘラクレスが死ぬと、ヘラクレスの息子たちと共に行動した。[99]
4.2.2 テバイ人
テバイ人とは、ヘラクレスと共にオルコメノスの町のエルギヌスと戦って、ヘラクレスと共にテバイの町からテュリンスの町へ移住した人々であった。
4.2.3 アルゴス人
アルゴス人とは、メランプスの子マンティオスの子オイクレスが率いるアルゴスの町の人々と思われる。これより少し前、兄弟アバスに追われてカリュドンの町へ亡命していたオイクレスが、父や息子アンピアラオスと共にアルゴスの町に帰還した。彼らは、自分たちを追い出した者たちを追放したため、アルゴスの町には、オイクレスの家族しか残っていなかった。
ミュケナイの町のエウリュステウスがオイクレスの帰還を助けて、エウリュステウスがオイクレスをヘラクレスのエリス攻めに参加させたと思われる。
4.2.4 エペイオイ人
エペイオイ人とは、エリスの町のエンデュミオンの子アイトロス が、サルモネオスから追われて、アイトリア地方へ移住したときに、海峡を渡らずにアカイア地方のデュメの町などに残っていた人々の子孫であった。[100]
4.2.5 エリスの占領
BC1240年、ヘラクレスは遠征軍を率いて、ペネウスの町を出発し、エリスの町を攻撃した。アウゲアスは、ピュロスの町からも援軍を受けて防戦したが、アクトールの息子たちがいないエリス勢は、ヘラクレスに敗れ、町は占領された。[101]
ヘラクレスは、アウゲアスの長男ピュレウスをアカルナニア地方のドウリキオンの町からエリスの町へ呼び寄せた。ヘラクレスは、ピュレウスの願いを聞き入れて、アウゲアスを許した。[102]
4.3 ピュロス攻め
4.3.1 ピュロスの破壊
ヘラクレスは、ピュロスの町のネレウスを攻めた。この戦いで、12人いたネレウスの息子たちは、一番末のネストルを除いて戦死し、ピュロスの町は破壊された。[103]
ネレウスが住んでいたピュロスの町は、メッセニア地方にあったとする伝承もあるが、エレイア地方のエリスの町からペネイオス川を遡り、さらに支流のラドン川を少し遡った所にあった。[104]
4.3.2 ネストルの所在
これ以前にネストルが兄弟たちと共にエレイア地方南部のカアの町の領有権を巡ってアルカディア人と戦い、最年少のネストルが一騎打ちをしたと伝えられている。したがって、ヘラクレスとの戦いの時には、ネストルはすでに戦士の年齢に達していたはずである。[105]
おそらく、ネストルは、彼の兄弟の子供たちや、ネレウスの富の象徴であった牛の群れを避難させ、それを守るために、メッセニア湾奥の東側にあったゲレニアにいたと思われる。[106]
4.4 エウアンドロスの移民団
戦いを終えたヘラクレスの遠征隊は、エウアンドロスの移民団に遭遇した。
アルカディア地方のテゲアの町の西方約8kmにあるパランティオンの町(現在のパランティオ付近)で争いが起こり、争いに敗れたテミスの子エウアンドロスは、新天地を探す旅の途中であった。[107]
エウアンドロスは、ヘラクレスの遠征隊の中にいたアカイア地方のデュメの町のエペイオイ人やアルカディア地方のペネウスの町のアルカディア人から希望者を移民団に加えた。エウアンドロスは、エリスの外港キュレネから新天地を求めるための航海に出発した。[108]
エウアンドロスの移民団は、イタリア半島を右回りに航海して、半島西側中央部のティベル川を遡り、後のローマの地に上陸した。彼らは、それまでウェリアと呼ばれ、後にパラティオンと名付けられる丘の近くに定住した。[109]
4.5 オリュンピア競技会の開催
BC1239年、ヘラクレスは、オリュンピア競技会を開催した。[110]
ヘラクレスより前には、オリュンピアの町をも支配していたエリスの町のアウゲアスが開催した。
それより前には、エリスの町のアイトリオス、エンデュミオン、エペイオス、アレクシノス、ピサの町のオイノマオス、ペロプス、ピュロスの町のアミュタオン、ネレウスが開催した。
オリュンピア競技会の開催者は、エレイア地方の有力者であった。ヘラクレスがオリュンピア競技会を開催したことは、ミュケナイの町のエウリュステウスに警戒心を懐かせることになった。[111]
4.6 ヒッポコーンとの戦い
4.6.1 戦いの理由
BC1239年、ヘラクレスは、スパルタの町に住むヒッポコーンを攻めた。
伝承によれば、攻撃の理由は、ヘラクレスがピュロスの町を攻撃した際に、ヒッポコーンがネレウスに味方したためだと伝えられている。[112]
しかし、つぎのことから、戦いの理由は、スパルタの町とテゲアの町の紛争であったと推定される。
1) ヒッポコーンが、遠く離れたピュロスの町に住むネレウスに味方する理由が見つからない。
2) ヘラクレスとヒッポコーンとの戦いは、エリス攻めの部隊を解散した後の出来事であった。
3) この戦いで、テゲアの町のケペオスと、彼の息子たちが戦死した。[113]
4) スパルタの町とテゲアの町は、争いを繰り返していた。[114]
つまり、スパルタの町と戦っていたテゲアの町のケペオスは、ヘラクレスの助けを借りて、ヒッポコーンを攻めたと思われる。
ケペオスの兄弟アンピダマスは、エウリュステウスの妻アンティマケの父であり、エウリュステウスからヘラクレスにケペオスを助けるように依頼があったのかもしれない。
4.6.2 戦いの結果
ヘラクレスは、アミュクライの町とスパルタの町でヒッポコーンと戦い、彼を討ち取って町を占領した。この戦いでケペオスと、彼の20人の息子たちのうち、3人を残して全員戦死した。[115]
5 カリュドン時代
5.1 カリュドンへの移住
BC1238年、ヘラクレスは、アルカディア地方のペネウスの町から海峡を渡り、アイトリア地方のカリュドンの町へ移住した。ヘラクレスは、多くのアルカディア人を引き連れていたため、エウリュステウスに敵対勢力とみなされるのを危惧して、自らペロポネソス半島を出たものと思われる。[116]
あるいは、エウリュステウスがアルカディア王リュクルゴスの子アンピダマスに働きかけて、ヘラクレスにペネウスの町から退去するようにと迫ったのかもしれない。アンピダマスは、エウリュステウスの妻アンティマケの父であった。[117]
ヘラクレスがカリュドンの町を移住先に決めたのは、エリス攻めに参加して死んだマンティオスの子オイクレスから、カリュドンの町のことを聞いたためと推定される。[118]
オイクレスは、父マンティオスと共にアルゴスの町から逃れて、カリュドンの町に20年以上住んでいた。カリュドンの町は、当時の人々にとって、人気の入植地の一つであった。[119]
5.2 デイアネイラとの結婚
BC1238年、ヘラクレスは、オイネウスの娘デイアネイラを妻に迎えた。[120]
ヘラクレスは37歳、デイアネイラは17歳であった。[121]
デイアネイラは、ヘラクレスがテバイの町のクレオンの娘メガラを離縁した後で、正式に結婚した女性であった。[122]
5.3 アケロイオスの灌漑
ヘラクレスは、カリュドンの町でアケロイオス川の大規模な灌漑地を造成した。ヘラクレスに付き従っていたアルカディア人の鍛錬と、地方への恩返しを兼ねたものであった。 [123]
ヘラクレスが灌漑したのは、パラケロイティスと呼ばれるアケロイオス川の河口近くの氾濫地帯であった。[124]
アケロイオス川は、カリュドンの町の西側にあるプレウロンの町やクレテスが住む土地よりさらに西側を流れていた。カリュドンの町とプレウロンの町は、長年、抗争を繰り返していたが、当時は、オイネウスがアケロイオス川までの地方を支配していたことを証明している。
5.4 テスプロティアへの遠征
BC1237年、ヘラクレスは、テスプロティア人の地へ向けて遠征し、カリュドンの町の北西約180kmの所にあるエピュラの町を陥落させた。片道7日行程を要する大遠征であった。遠く離れたカリュドンの町とエピュラの町に利害対立があったとは考えられない。この遠征の目的が何であったのかは伝えられていない。[125]
5.4.1 遠征の目的
トロイ戦争の少し前に、ラエルテスの子オデュッセウスが矢に塗る毒を求めて、エピュラの町のメルメロスの子イロスを訪れている。[126]
このメルメロスは、アルゴ船の遠征を率いたイアソンとアイイテスの娘メダとの間の息子であった。メルメロスの子イロスの毒作りの技術は、毒薬作りで有名な祖母メダから伝授されたものと思われる。[127]
イアソンは晩年、ドドナ西方のイオニア海に浮かぶスケリア (後のコルキュラ)島に入植した。[128]
以上のことから、遠征の目的は、イアソンの入植のためであったと思われる。カリュドンの町に住んでいたヘラクレスは、イアソンに協力してテスプロティア地方への遠征に参加したと思われる。
イアソンの移住の動機は、ボイオティア地方を略奪して捕虜になったスピンクスからギリシア北西部の豊かさの情報を得たことであったと推定される。ボイオティア地方に侵入したスピンクスは、コリントス人を率いたオイディプスによって撃退された。当時、コリントスの町は、イアソンが治めており、イアソンもスピンクスとの戦いに参加していた。[129]
また、イアソンに新天地への移住を決断されたのは、彼の妻メディアの死であった。イアソンの移住には、メディアが産んだ息子たち、メルメロスやフェレスも同行していた。[130]
5.4.2 遠征の参加者
ヘラクレスには、ペロポネソス半島から付き従っていたアルカディア人とカリュドンの町のオイネウス配下のカリュドン人がいた。しかし、これだけの勢力でエピュラの町を攻め落とすことは困難であった。エピュラの町は、50年後にテッサリア地方を占領したテスプロティア人が住むテスプロティア地方の中心の町であった。 [131]
この遠征には、イアソンとヘラクレスが率いる人々の他に、つぎの人々が参加していた。
アウゲアスの子ピュレウスが率いるドウリキア人。
オイバロスの子イカリオスが率いるラケダイモン人。
シシュッポスの子オルニュティオンが率いるコリントス人。
ヘリウスの子タピウスが率いるタポス人。
ケパロスの子アルケシオス(または、アルキシオス)が率いるケパレニア人。
コイラノスの子ポリュイドス。
5.4.2.1 アウゲアスの子ピュレウス
ホメロスは、アウゲアスの子ピュレウスがエピュラの町から持ち帰った胸当てのことを記し、さらに、その胸当ては、その地の王エウペテスから贈られたものであったと伝えている。[132]
ホメロスが言及したエピュラの町は、エレイア地方にあったとも解釈されているが、テスプロティア地方のエピュラの町であった。[133]
ヘラクレスは、エリスの町を占領したとき、ピュレウスの願いを聞き入れて、ピュレウスの父アウゲアスを寛大に処置した。ピュレウスがヘラクレスの遠征に参加したのは、その恩返しであった。[134]
ピュレウスは、ケパレニア島のドウリキオン (または、ドウリキア、後のパレイス)の町からドウリキア人を率いて、ヘラクレスと共にエピュラの町まで遠征した。[135]
この遠征の後で、ピュレウスの子メゲスは、エキナデス諸島に移住して、一番大きな島を領して、故郷と同じドウリキオンと呼んだ。
メゲスは、トロイ遠征にケパレニア島のドウリキオンの町やエキナデス諸島、さらにエレイア地方のキュレネの町の人々を率いて参加した。[136]
5.4.2.2 オイバロスの子イカリオス
イカリオスは、ヘラクレスのテスプロティア地方への遠征に、移住を希望するラケダイモン人を率いて参加した。[137]
イカリオスは、アカルナニア地方に入植し、彼の2人の息子たち、アリュゼウスとレウカディオスは、彼らに因んだ名前の町を創建した。[138]
アカルナニア地方に住んでいたテレボアイ人は、テロンの子オイバロスに率いられてイタリア半島中部の西海岸へ移住し、ネアポリスの町の近くに浮かぶ島にカプレアイの町を創建した。[139]
イカリオスが遠征の後で、妻にしたリュガイオスの娘ポリュカステ (または、ポリュボイア)は、戦争捕虜と推定される。ポリュカステから、後にオデュッセウスの妻となるペネロペが生まれた。[140]
5.4.2.3 シシュッポスの子オルニュティオン
イアソンと共に遠征に参加してコリントス人を率いたのは、後にコリントスの町の支配者となるシシュッポスの子オルニュティオンであった。
この遠征で、オルニュティオンは、アカルナニア地方のアケロイオス川近くに住んでいたテロンの子オイバロスの娘ペイレネを妻にした。[141]
コリントスの町の2つの外港、コリントス湾に面したレカイオンと、サロニコス湾に面したケンクレアイの名前のもとになったレケスとケンクリアスは、彼らの息子たちであった。[142]
5.4.2.4 ヘリウスの子タピウス
タピウスは、父ヘリウスがヘラクレスの父アンピュトリオンの助けで、エキナデス諸島に入植することができたことへの恩返しで遠征に参加した。[143]
タピウスは、エキナデス諸島から北西方向の島へ移住して、タポスの町を創建し、島はタポスと呼ばれるようになった。[144]
5.4.2.5 ケパロスの子アルケシオス
アルケシオス (または、アルキシオス)もタピウスの場合と同じで、ヘラクレスの父アンピュトリオンへの恩返しで遠征に参加し、ケパレニア島からイタカ島へ居住地を広げた。
アンピュトリオンの遠征のとき、ケパロスはケパレニア島からテレボアイ人を追い出し、テレボアイ人はイタカ島に移住した。[145]
そのとき、ケパロスは、テレボアイ人のプテレラスの娘エウリュオデイアを妻にして、息子アルケシオスが生まれた。[146]
アルケシオスは、イタカ島のテレボアイ人との戦いで、イタコスの娘と推定されるカルコメドゥサを妻にした。[147]
ストラボンは、イタカ島とタポス島の住人は親しい関係だと記している。
両者が、ヘラクレスの遠征へ参加したことと、ヘラクレスの父アンピュトリオンの助けで、両者ともこの地に同時期に入植したからであった。[148]
この遠征の後で、アルケシオスの子ラエルテスは、レウカス半島の地峡部分にあるネリコスの町を攻略した。[149]
5.4.2.6 コイラノスの子ポリュイドス
メランプスの子アバスの子コイラノスは、アルゴスの町の内紛で、町を去った。
遠征当時、コイラノスの子ポリュイドスは、コリントスの町に住んでいた。[150]
BC5世紀のアテナイの神話学者フェレキュデスは、ポリュイドスとアカルナニア地方のドウリキオンの町に住むピュレウスの娘エウリュダメイアが結婚したと伝えている。[151]
当時、ポリュイドスとエウリュダメイアは結婚適齢期であり、コリントスの町とドウリキオンの町との遠距離婚を成立させたのは、ヘラクレスの遠征にポリュイドスが参加したことであったと推定される。[152]
5.4.3 ヘラクレスとピュレウスの娘アステュオケとの息子たち
ヘラクレスと、エピュラの町で捕虜となったピュレウスの娘アステュオケとの間には、息子トレポレモス (または、トレプトレモス)が生まれた。[153]
このトレポレモスは、後に、ヘラクレイダイの一員として、一時、ペロポネソスへ帰還を果たし、そこから、ロドス島へ移住した。[154]
ヘラクレスとアステュオケとの間には、もう一人の息子デクサメノスがいた。デクサメノスの子アンブラクスは、エピュラの町近くのアンブラキアの町の支配者となった。[155]
デクサメノスには、ペイディッポスやハイモンという息子たちがおり、彼らはテスプロティア人を率いて、テッサリア地方に攻め込んで占領した。テッサリア地方の住人は、ペネスタイと呼ばれる奴隷身分になって残留するか、他の土地へ移住した。[156]
BC1126年、ペイディッポスの子アイアトスの子テッサロスは、ペネスタイとなってアルネの町に残留していたボイオティア人を追い出し、その地方は、テッタリオティスと呼ばれるようになった。[157]
5.4.4 サルドへの植民
ヘラクレスはエピュラの町に滞在中、イオラオスに、テスピウスの娘たちが産んだ息子たちを率いてイタリア半島の西に浮かぶサルド島に植民するように指示した。[158]
テスピウスの娘たちの息子たちは51人おり、ヘラクレスとテスピウスの娘たち50人から生まれたと伝えられる。大勢の孫を持つテスピウスから相談を受けていたヘラクレスが、イオラオスに彼らを率いて、イタリア半島へ入植するように指示したと思われる。[159]
古代の史料では、行動の真意が不明の場合、しばしば「神託により」という言葉を使用する。このときも、ヘラクレスが「神託により」植民団を送ったと伝えられている。[160]
エピュラの町の人々は、ドドナに神託を求めるために、町に立ち寄った人々から、サルドの豊かさの情報を得ていて、ヘラクレスは彼らからサルドのことを聞き及んだと思われる。[161]
BC1236年、イオラオスは、植民団を率いてアテナイの町を出発した。イオラオスの植民団は、アテナイの町がギリシア以外の地に人々を派遣した最初であった。2回目のコドロスの子ネイレウス率いるイオニア植民団のときと同じく、イオラオスの植民団も、アテナイの町のプリュタネイオンから出発した正式な移民団であったと思われる。[162]
5.5 カリュドンからの移住
BC1237年、ヘラクレスは、カリュドンの町で平和な日々を送り、デイアネイラとの間に、長男ヒュッロスが生まれた。[163]
デイアネイラとの結婚3年目に、ヘラクレスは、オイネウスの親戚のアルキテレスの子エンノモス (または、エウリュノモス)を過失により殺害したことにより、カリュドンの町を去ることにしたと伝えられる。 [164]
しかし、この時のヘラクレスの移住も、カリュドンの町でのヘラクレスの更なる勢力拡大を危惧したミュケナイの町のエウリュステウスの意志が働いたものと思われる。このエウリュステウスの意志をオイネウスに伝えたのは、オイクレスの子アンピアラオスであったと推定される。アンピアラオスはカリュドンの町で生まれ、オイクレスとオイネウスとは、お互いの妻を通して、義理の兄弟であった。[165]
5.6 ケンタウロスの残党との戦い
BC1235年、ヘラクレスはトラキスの町へ向けて、3年間住み慣れたカリュドンの町を出発した。途中、カリュドンの町の東側を流れるエウイノス川で、妻デイアネイラに乱暴しようとしたケンタウロスのネッソスを殺害したと伝えられる。[166]
しかし、これは後のヘラクレスの死とも関連させた作り話である。
実際は、アイトリア地方からポキス地方やテッサリア地方へ通じる要衝の地で山賊行為をしていたケンタウロスの生き残りのネッソスとヘラクレスとの戦いであった。[167]
戦いは、エウイノス川から東へ10kmほどの所で行われた。そこのタピアッソスの丘には、ネッソスらケンタウロスの墓があった。[168]
この後、ヘラクレスは、コリントス湾を右に見て東進し、デルポイの外港キッラの町から内陸に入り、クリサ平原を北上してアンピッサの町に入った。[169]
アンピッサの町には、デイアネイラの姉ゴルゲスが住んでいて、ヘラクレスたちを歓迎した。[170]
アンピッサの町から北上を続けて、北はオイタ山(標高2,152m)、南はパルナッソス山(標高2,457m)に挟まれ、ケピソス川の上流域に広がるドリュオピス地方を通ってトラキスの町に到着した。[171]
6 トラキス時代
6.1 ケユクスの系譜
トラキスの町は、ヘラクレスの友人ケユクスが治めていた。[172]
ケユクスは、アクトールの息子で、ヘラクレスの親友メノイティウスの兄弟であった。[173]
ケユクスは、プティア地方からスペルケイオス川を越えて、オイタ山麓へ移住し、トラキスの町を創建した。トラキスの町は、ミュルミドン族の町であった。[174]
ケユクスが移住した後で、テッサリア地方のドティオン平原に住んでいたアイニアネス人が、ラピタイに追われて、オイタ山近くへ逃れて来た。[175]
アイニアネス人の支族マリア人がトラキスの町の近くに住み着き、マリア人の首領の娘がケユクスに嫁ぎ、ケユクスがマリア人を率いることになった。[176]
6.2 ドリュオプス人との戦い
BC1231年、サルド島への植民を終えたイオラオスが、トラキスの町へ帰還した。[177]
ヘラクレスのトラキスの町での最初の5年間は、平和であった。デイアネイラからは、息子たち、グレネオス、ホディテス、それにクテシッポス、そして、娘マカリアが生まれた。[178]
BC1230年、ヘラクレスは、マリア人と共に、ドリュオプス人の王ピュラスを攻めて、ピュラスを殺し、ドリュオプス人を追放した。[179]
追放されたドリュオプス人は、ペロポネソスへ逃れて、ミュケナイの町のエウリュステウスから土地を分け与えられた。ドリュオプス人は、アルゴス地方にアシネ、ヘルミオネ、エイオンの町を建設した。[180]
ドリュオプス人が追い出された後の土地は、マリア人が獲得した。[181]
ピュラスの娘メダとヘラクレスの間には、息子アンティオコスが生まれた。[182]
BC6世紀に、アテナイの町のクリステネスが定めた10部族の一つに、ヘラクレスの子アンティオコスを名祖とする部族があった。[183]
6.3 ラピタイとの戦い
6.3.1 イオルコスの滅亡
BC1236年、テッサリア地方のイオルコスの町に住んでいたミニュアス人が反乱を起こして、ペリアスの子アカストスは殺され、イオルコスの町は破壊された。[184]
ミニュアス人は、プティアの町のペレウスによって、テッサリア地方から追い出されて、レムノス島へ移住した。[185]
イオルコスの町のクレテウスの子ペリアスは、アルゴ船の遠征の物語で、遠征を命じた王として登場するほど繁栄したが、創建から3代目で滅亡した。
6.3.2 ラピタイの勢力拡張
イオルコスの町の滅亡は、テッサリア地方内の勢力関係に影響を及ぼした。テッサリア地方北部ペネイオス川下流域のギュルトンの町やラリッサの町に居住していたラピタイの動きを活発にした。
BC1420年、ペネイオス川流域のドーリス地方 (後のヘスティアイオティス地方の一部)には、ヘレンの子ドロスが居住していたが、パルナッソス山近くへ移住した。[186]
BC1390年、テッサリア地方に住んでいたペラスゴイ人が追い出されて、彼らが去った後の土地にラピタイが進出した。ラピタイは、その後、ペネイオス川上流へも進出した。アンピュコスの子モプソスは、オイカリアの町に、イスキュスの子アイスクラピオスはトリッカの町に住むようになった。ドーリス地方に住んでいたドーリス人は、次第に、ギュルトンの町のカイネウスの子コロノスに圧迫されるようになった。[187]
6.3.3 コロノスとの戦い
ドーリス地方のドーリス人は、ヘレンの子ドロスがパルナッソス山の近くへ移住した後も、ドロスの後裔と同族として繋がりがあった。
BC1227年、ギュルトンの町のカイネウスの子コロノスに攻められたドーリス地方のドーリス人は、パルナッソス山近くに住むドーリス人の王ドロスの子アイギミオスに助けを求めた。アイギミオスは、ドーリス地方へ駆け付けるが、コロノスによって追い返された。アイギミオスは、トラキスの町のヘラクレスに土地の割譲を約束して援助を求めた。ヘラクレスは、アルカディア人やマリア人を率いて、ドーリス地方へ遠征した。ヘラクレスは、ドーリス人の土地を占拠していたコロノスと戦って破り、ラピタイを追い出した。[188]
6.3.4 ラオゴラスとの戦い
さらに、ヘラクレスは、ラピタイに味方していたドリュオプス人のラオゴラスを殺した。[189]
ラオゴラスは、ドリュオピス地方に住んでいたピュラスの兄弟で、ヘラクレスと戦って敗れた後で、ギュルトンの町のコロノスのもとへ逃れていた。ラオゴラスは、ドーリス地方に居住するドーリス人を追い出そうとしていたコロノスに味方していた。[190]
6.3.5 キュクノスとの戦い
ギュルトンの町のコロノスには、すべてのラピタイが協力していたわけではなく、トリッカの町のイスキュスの子アイスクラピオスは参加していなかった。
ヘラクレスは、コロノスに味方したラピタイと戦うために行軍し、ギュルトンの町からパガサイ湾西岸のイトノスの町を目指した。[191]
イトノスの町のキュクノスは、ラピトスの子ペリパスの子アイオロスの子ケルカポスの子アイタリデスの息子であり、ラピタイであった。[192]
ヘラクレスは、イトノスの町でキュクノスと戦い、彼を討ち取った。[193]
6.3.6 オルメノスとの戦い
この後、ヘラクレスは破壊されたイオルコスの町の東側に新しく創建されたオルメニオンの町を攻めた。伝承では、オルメノス (または、オルメニオス)がヘラクレスの通行を妨害したことが戦いの原因であったと伝えられる。[194]
しかし、オルメノスは、ラピトスの子ペリパスの子アイオロスの子ケルカポスの息子であり、ラピタイの一員であった。オルメノスは、コロノスに味方したためにヘラクレスに攻められたと思われる。[195]
ヘラクレスとの戦いで、オルメノスとその息子アミュントルは討ち取られた。アミュントルの子ポイニクスは、これより少し前に、父との不和からプティアの町のペレウスのもとへ行き、ドロピア地方を分け与えられていた。[196]
ポイニクスの父アミュントルの父オルメノスの父ケルカポスの妻エウポレメイアの兄弟アクトールの子アイアコスの息子は、ペレウスであった。つまり、ペレウスは、ポイニクスの父の義理の従兄弟であった。[197]
6.3.7 エウリュトスとの戦い
BC1224年、次にヘラクレスが向かったのは、エウリュトスが住むオイカリアの町であった。
6.3.7.1 オイカリアの所在
ヘラクレスが攻めたオイカリアの町の所在については諸説ある。
パウサニアスは、エウリュトスの遺骨があったと伝えられるメッセニア地方が有力だと記している。[198]
BC5世紀の歴史家ヘカタイオスは、エウボイア島のエレトリア領内のスキオス地方あった町だと伝えている。[199]
ホメロスと同時代のサモス島の詩人クレオピュロスもエウボイア島にあったと伝えている。[200]
AD1世紀初期の地理学者ストラボンの著作の中でもメラネオスの子エウリュトスが住んでいたオイカリアの町については、議論されている。しかし、ヘラクレス により破壊されたオイカリアの町について、ストラボンはエウボイア島のエレトリア領内にあったと断言している。[201]
この混乱は、メラネオスと彼の息子エウリュトスが居住地を変えても町の名前を変えなかったことが原因であった。
エウリュトスの父メラネオスは、メッセニア地方のアンダニアの町を治めていたアイオロスの子ペリエレスのもとへ行き、分け与えられた土地にオイカリアの町を創建した。[202]
ペリエレスの父アイオロスは、その年代や後裔の居住地から、ヒッポテスの子アイオロスの子ラピトスの息子で、ペリエレスとメラネオス は兄弟であったと思われる。[203]
年代順に見ると、次のようであったと推定される。
BC1310年、メラネオスは、ペネイオス川に注ぐイオン川を少し遡った所に最初のオイカリアの町を創建した。
BC1305年、メラネオスは兄弟のペリエレスから求められてメッセニア地方へ移住し、アンダニアの町の近くに2番目のオイカリアの町を創建した。[204]
BC1239年、テュンダレオスが移住先のアイトリア地方からスパルタの町に帰還した。[205]
BC1237年、エウリュトスはテュンダレオスに攻められてメッセニア地方を追われ、エウボイア島へ移住して、3番目のオイカリアの町を創建した。[206]
6.3.7.2 エウリュトスとの戦い
ヘラクレスがエウリュトスを攻めたのは、エウリュトスから貢納を強いられていたエウボイア人からの要請であったとも伝えられる。[207]
しかし、この戦いは、ギュルトンの町のコロノスに加担したラピタイとの最後の戦いであった。これより前に、ヘラクレスとの戦いで居住地を追われたラピタイが、エウリュトスのもとへ逃げ込んでいたと思われる。エウリュトスとの戦いは、これまでの戦い以上に激戦を極めた。
ヘラクレス側では、トラキスの町のケユクスの子ヒッパソスや、ヘラクレスの母の異母兄弟リキュムニオスの息子たち、アルギオスとメラスが戦死した。[208]
エウリュトス側では、エウリュトス本人とその息子たち、トクセオス、モリオン、クリュティウスが戦死して、娘イオレが捕虜になった。[209]
この戦いには、アルカディア人やトラキスの町のケユクス率いるマリア人、それにロクリス・エピクネミディオス人が参加した。その他に、キュリクラネスもヘラクレスに従っていた。[210]
ロクリス・エピクネミディオスの母市は、ヘラクレスの友人であるアクトールの子メノイティウスが治めるオプスの町であり、メノイティウスも遠征に参加していた。[211]
メノイティウスの子パトロクロスは、まだ少年であったため、この戦いには参加していない。しかし、ヘラクレスのお気に入りであったメノイティウスの子アブデロスは参加していたと推定される。[212]
ヘラクレスは、オイカリアの町を出発してエウボイア島北西端のケナイオン岬で生贄式を行った後で、トラキスの町へ帰還した。[213]
6.4 ヘラクレアの創建
ヘラクレス と共にリュディア地方から移住して来たキュリクラネスは、トラキスの町から少し離れた土地に住んでいたが、盗賊になって周辺住民を脅かした。ヘラクレスは、彼らの居留地を破却し、ヘラクレアと呼ばれる町を創建して、彼らを町に住まわせた。[214]
キュリクラネスは、ヘラクレアの町に住み続け、112年後、ヘラクレスとオンパレと間の子孫ヘゲレオスに率いられて、ヘラクレイダイのペロポネソスへの遠征に参加した。[215]
7 ヘラクレスの死
ヘラクレスは、少なくとも2度、リュディア地方へ行く前と、最初のエリス攻めのときに、重い病を患っていた。ヘラクレアの町を創建した後で、ヘラクレスは、死に至る病に襲われた。[216]
ヘラクレスは、死に際して、長男ヒュッロスに、成人したらエウリュトスの娘イオレと結婚するようにと遺言した。[217]
ヒュッロスは、父の死後、父の命に従ってイオレを妻にして、息子クレオダイオスと娘エウアイクメが生まれた。[218]
ヘラクレスの最期の地は、オイタ山の近くのヘラクレアの町であったと推定される。[219]
ヘラクレスに助けられたドーリス人の王アイギミオスは、ヘラクレスに感謝して、長男ヒュッロスを養子にした。[220]
アイギミオスがヘラクレスの子供たちに施した配慮は、ドーリス人をペロポネソスの支配者へと導くことになった。
ヘラクレスが死んだのは、BC1237年生まれのヒュッロスが成人する前であり、BC1224年のエウリュトスとの戦いの後であった。
AD2世紀の神学者アレクサンドリアのクレメンスや、AD5世紀の神学者ヒエロニムスは、ヘラクレスが52歳で死んだと伝えている。[221]
BC1223年、ヘラクレスは、52歳で死んだ。
AD2世紀初期の歴史家ニコメディアのアッリアノスは、ヘラクレスとライオスの子オイディプスとが同時代だと推定しているが、彼らは、同じ頃に死んだ。[222]
8 ヘラクレスの母アルクメナ
ヘラクレスの死後、アルクメナは孫ヒュッロスと共に、一時、生まれ故郷であるアルゴス地方のミデイアの町への帰還を果たすが、ヘラクレイダイと共にペロポネソスから撤退する際にメガラ地方で死去した。BC1214年、アルクメナは78歳で死んだ。[223]
アルクメナの埋葬場所を先祖の眠るアルゴスの町にするか、夫アンピュトリオンやヘラクレスの子供たちの墓があるテバイの町にするかで争いが起きた。結局、ボイオティア地方のオカレアイの町にある、彼女の2度目の夫ラダマンティスの墓の傍に葬られた。[224]
当時、テバイの町はヘラクレスが離縁したメガラの父クレオンが治めており、アンピュトリオンやヘラクレスの子供たちの墓の傍には埋葬できなかった。[225]
BC4世紀になって、オカレアイの町にあったアルクメナの墓は、スパルタ王アゲシラオスの手でスパルタの町に改葬された。[226]
アルクメナの墓には、エジプト文字に似た古代文字が書かれた青銅板があった。アゲシラオスは、その碑文の写しをクニドスの町のエウドクソスに託して、エジプトの王ネクタナビスに送った。エジプトの神官コノピスがその碑文を3日かけて解読した。[227]
その碑文には宗教的なことが書かれていた。その古代文字は、ラダマンティスと共にクレタ島からオカレアイの町に移住した祭司が書き記したクレタ島のヒエログリフと思われる。[228]
9 ヘラクレスの人物像
少年時代のヘラクレスは、容姿の美しい少年だけがなれる祭司に選ばれるほど容姿端麗で、体も並外れて大きく、力も強く、運動能力も他に抜きんでていた。[229]
AD2世紀の著述家アポロドロスは、ヘラクレスが13歳の時に、身長は 4 キュビト (約185cm)あったと伝えている。[230]
しかし、BC5世紀の抒情詩人ピンダロスやBC4世紀の哲学者ディカイアルコスは、ヘラクレスは背が低かったと伝えている。[231]
また、ヒエロニュモスやBC4世紀の哲学者ディカイアルコスは、ヘラクレスは、色黒で屈強な体に、鉤鼻と鋭い眼光をした、長くてまっすぐな髪の持ち主であったと伝えている。[232]
大衆向けに誇張された伝承とは異なり、ヘラクレスには凶暴性や残忍性がなく、慈悲の心を持っていた。
父アンピュトリオンを失ったミニュアス人との戦いでのエルギヌスや、異母兄弟イピクレスを失ったエリスとの戦いでのアウゲアスに対する処遇が、それを示している。[233]
さらに、ヘラクレスは野心家ではなかった。もし、ヘラクレスが人並みの野心を持ち合わせていたならば、ギリシア全域を支配下に置いていたと思われる。ミュケナイの町のエウリュステウスは、ヘラクレスに野心がないのを見抜いており、ヘラクレス存命中は行動を起こさなかった。しかし、息子たちの代になって、立場が逆転しないように不安の芽を摘み取ろうとして、ヘラクレスの息子たちを攻撃した。[234]
ヘラクレスは、エウリュステウスをペルセウスの正当な後継者と認めて、その権威に逆らわないように気を遣っていた。エウリュステウスもエリスの町からのヘラクレスの身柄引き渡し要求にも応ぜず、彼を庇うように、テュリンスの町から出て行かせた。[235]
ただ、その後のヘラクレスの活躍についてはエウリュステウスも予期していなかったようであり、次第に危機感が増してきたものと思われる。[236]
また、ヘラクレスには支配欲がなかった。他を支配するために戦いをしたことがなかった。理不尽な理由で地位を追われた者や、不当に攻められている者の頼みを聞き入れて、彼らに味方した。ヘラクレスは、道の安全な通行を脅かされていた人々の声を聞き、公共の秩序を回復することに全力を尽くした。
ヘラクレスがリュディア地方にいた3年の間に、ギリシアでは悪が栄え、悪事が蔓延していたと伝えられる。[237]
ヘラクレスは、死後、神々の列に加えられ、多くのヘラクレスの息子と称される者たちが登場したのもヘラクレスの当時からの評判が如何に絶大であったかを物語っている。
10 ヘラクレスの実像を伝える古代史料
ヘラクレスが登場する古代史料には、荒唐無稽な作り話が多い中で、ヘラクレスの生涯を詳しく、時系列に沿って伝えているのは、BC1世紀の歴史家ディオドロス・シクロスである。
彼の引用元は、ヘラクレスへの賛歌を書いたテバイの町のマトリスであった。[238]
11 最後に
ヘラクレスを神話上の人物で、実在しなかったと考える人も多いが、私は、歴史上の人物だと思っている。
これまで見て来たように、ヘラクレスの生涯は、年単位で追跡することができる。
アテナイ王テセウスや、他の多くの人物の伝承と突き合わせても、矛盾するところがない。
おわり |