第3章 ギリシア系移民のエジプト脱出(BC1430)

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Create:2023.6.23, Update:2025.8.17

1 はじめに
BC1430年、Egyptに住むGreece系移民が、Egyptから各地へ移住した。

1.1 Manethoの記述
AD1世紀の歴史家Josephusは、BC3世紀の歴史家Manethoの著作から引用して、次のように伝えている。
「Misphragmuthosis王の治世中、Egypt各地から追放された人々は、城壁で囲まれ、24万人の兵士が守るAuarisという場所に包囲された。籠城していた人々は、Egyptから出て行くという条件で解放された。Auarisから解放された人々は、家族を伴って、Egyptを去り、砂漠を越えてSyriaへ逃れた。」[1]
AD3世紀の歴史家Sextus Julius Africanusは、Manethoが記したEgypt第18王朝の歴代のファラオの名前を列挙しており、Misphragmuthosisは、第6代目であった。[2]
つまり、Misphragmuthosisは、Egypt第18王朝の第6代ファラオThutmose IIIの別名と推定される。[3]
Thutmose IIIは、古代Egyptを最大版図にした征服王であり、BC1425年に死亡した。[4]

1.2 推定
BC1430年当時、GreeceからEgyptへ移住した人々は、Sais、Thebes、Memphis、Chemmisの町に住んでいた。
Belusの子Danausは、Chemmisの町に住んでいた。[5]
Danausの部族と推定されるDanaya (Tanaju)は、Thutmose IIIに朝貢していた。[6]
以上のことから、次のように推定される。
NileDeltaに住んでいた人々が、Thutmose IIIに対して反乱を起こしたが、彼らの居住地から追放されて、Auaris (or Avaris, Athyria)に籠城した。
Auarisの籠城者には、GreeceからEgyptへ移住した人々だけではなく、ユダヤ人も含まれていた。
ユダヤ人は、陸路で砂漠を越えて、Syria地方へ移住した。
GreeceからEgyptへ移住した人々は、DanausやAgenorに率いられて、海路で、Peloponnesus半島やSyria地方へ移住した。
Manethoの記述が正しければ、このとき、Egyptから各地へ移住した人々は、数十万人ということになる。

2 Danausの移住
2.1 EgyptからArgosへの移住
Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの子Danausは、NileDeltaのChemmisの町に住んでいた。[7]
BC1430年、Danausは、Egypt出港後、Rhodes島に上陸して住民の歓迎を受けた。[8]
伝承では、Danausは、Lindosの町に上陸しているが、当時は、Cyrbeという名前の町であったと思われる。[9]
Danausは、Rhodes島で娘3人を亡くした。[10]
Danausの2人の娘たち、HeliceとArchediceは、島に残って、Lindian Athena神殿を建立した。[11]
約850年後、Greeceの7賢人の一人に数えられる、Rhodes島のLindosの町のCleobulusは、古くなっていたAthena神殿を再建した。[12]
Cleobulusは、Heraclesの後裔と伝えられている。[13]
Cleobulusは、Argosの町からRhodes島へ移住した、Temenosの子Ceisusの子Althaemenesの後裔と思われる。[14]
Cleobulusは、DanausがHeraclesの先祖であり、したがって、Danausが自分の先祖であることを知っていたと思われる。[15]
Danausの移民団はRhodes島を出航し、PeloponnesusのArgolic Gulfに入った。
移民団はArgolis地方とLaconia地方の境のThyrea地方のPyramia付近に上陸して、Danausの叔父Lelexは、そこから内陸へ進んだ。[16]
Danausは、そこから航海を続けてLernaの近くのApobathmiに上陸して、Argosの町へ向かった。[17]
当時、Argosの町は、Sthenelasの子Gelanorが治めていた。[18]
Danausは、GelanorをArgosの町から追放した。[19]
Gelanorは、Sicyonの町へ逃れた。[20]

2.2 Danausの同行者の移住
Danausの移民団には、叔父Lelex、兄弟Orus、兄弟AegyptusとAegyptusの息子たちが含まれていた。

2.2.1 Lelex
Libyaの子Lelexは、Laconia地方のEurotas川中流域に、彼の息子Mylesを入植させた後、彼自身は、Megara地方へ移住した。Megara地方には、彼より12世代前にPhoroneusの子CarがArgosの町から移住していた。[21]
その後、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Greece北西部のEchinades諸島へ移住した。
Teleboasの父もDanausと共に渡来した者で、Lacedaemonの町の近くにTherapneの町を創建した。[22]

2.2.2 Orus
Danausの弟と思われるOrusは、Argolis地方の沿海地方に定住して、Oraea (後のTroezen)の町を創建した。[23]

2.2.3 Aegyptus
Danausの双子の兄弟Aegyptusは、Peloponnesus北西部に定住した。Aroe (後のPatrae)の町にBelusの子Aegyptusの墓があった。[24]

2.2.4 Aegyptusの子Lynceus
Lynceusは、Danausの娘Hypermnestraと結婚して、Danausの跡を継いで、Argosの町を治めた。[25]

2.2.5 Aegyptusの子Eumelus
Eumelusは、Danausの娘Phylodameiaと結婚して、Aroeの町に住んだ。[26]

2.2.6 Aegyptusの子Antimachus
Antimachusは、Danausの娘Mideaと結婚して、息子Amphianaxが生まれた。[27]

2.3 Danausの名前
Pausaniasは彼の著書の中の5か所で、Lelexの子Polycaonと結婚したMesseneの父は、Triopasであったと記している。[28]
Triopasは、名声と権力で当時のGreeksの指導者であり、Argosの町に住んでいた。[29]
PolycaonがMesseneと結婚した頃、Argosの町を治めていたのはDanausであり、Triopasは、Danausの別名、あるいは、本名であったと思われる。
Thutmose IIIの年代記に、Greeksと推定されるDanaya (Tanaju)の土地から貢納があったと記されている。[30]
Danayaは、Danausの父Belusの種族名で、Danausは、その種族名から人の名前のように作られた造語かもしれない。
あるいは、Danausは、Belusの父であり、Belusの母Libyaの夫であり、孫が祖父の名前で呼ばれていたのかもしれない。
Danausの双子の兄弟Aegyptusの名前も、Egyptを人の名前のように作った造語のように思われる。

3 Agenorの子Phoenixの移住
Agenorの子Phoenixは、EgyptのThebesの町からPhoenicia地方のTyreの町へ移住した。[31]
Phoenixが住んでいたThebesの町は、Nile Deltaにあったと思われる。[32]
Phoenixは、移住より前に、Oeneusの娘Perimedeを妻に迎えていた。[33]
Oeneusは、初代Athens王Cecropsの娘Herseの曾孫で、Tyreの町に住んでいたと推定される。[34]

4 Agenorの移住
Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Agenorは、EgyptからPhoenicia地方のSidonの町に移住した。[35]
Cadmusの移民団の中に彼の母Telephassaがいたことから、Agenorは、Sidonの町で死んだと思われる。[36]

5 Macerisの移住
5.1 Agenorの息子と思われるMaceris
Macerisは、Agenorと共にEgyptからPhoenicia地方へ移住した。[37]
当時、Tyreの町には、初代Athens王Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの子Astynousが住んでいた。[38]
後に、Astynousの子Sandocusは、Cilicia TracheiaにCelenderisの町を創建した。[39]
Macerisは、Tyreの町でAstynousの一族から航海術を学んだと推定される。[40]
Macerisは、その後、EgyptのHeliopolisの町でActis (or Auges、Atlas)から天体の知識を学んだ。[41]
Rhodosの子Actisは、Rhodes島のHeliadaeの一人で、EgyptのHeliopolisの町の創建者であった。[42]
天体の知識を航海術に取り入れたMacerisは、海洋民族Phoeniciansにとっては、神のような存在であった。Macerisは、Egyptian Heracles、または、Phoenician Heraclesと呼ばれた。[43]
Tyreの町の他に、Iberia半島のTartessusの町、EgyptのCanopusの町、Thasos島にもHeraclesの神域や神殿があった。[44]
2世紀の歴史家Arrianは、Tartessusの町で信仰されているHeraclesは、Tyreの町のHeraclesと同じだと見なしていた。[45]
Agenorの子PhoenixはTyreの町に住み、Agenorの子Cillixの子ThasusはThasos島に住んでいた。[46]
Macerisは、Iberia半島の南部にHeracleia (後のCalpe、現在のAlgeciras付近)の町を創建して、その地で死んだ。[47]
Macerisは、Melcartusとも呼ばれた。[48]
Heracleiaの町の近くには、Pillars of Herculesの北の柱(Calpe山)があった。[49]
Macerisは、Tartessusの川から産出される錫を目当てに移住したとも思われる。[50]

5.2 Macerisの子Sardus
BC1390年、Macerisの子Sardusは、EgyptのCanopusの町からItaly半島西側のIchnussa (後のSardinia)へ移住した。[51]
Sardinia島の南西部に「父なるSardusの神殿」があり、その付近がSardusの移住先であったと推定される。[52]

6 Agenorの子Cilixの移住
BC1425年、Agenorの子Cilixは、Sidonの町からTroad地方のIda山の南側に移住して、Thebeの町を創建した。[53]
Cilixと共に移住した人々はCiliciansと呼ばれ、彼らの住む地方はCiliciaと呼ばれた。[54]
Cilixの娘Thebeは、Ida山の近くに住んでいたCorybasに嫁いだ。[55]
Cilixの子Thasusは、Thebeの町からThasus島へ移住した。[56]

7 Agenorの子Cadmusの移住
7.1 SidonからRhodesへ
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、Phoenicia地方のSidonの町から移民団を率いて出発した。Cadmusの移民団には、PhoeniciansやArabiansも含まれていた。[57]
彼らは、Egyptを追われて、陸路を通って、Sidonの町で、Cadmusと合流した人々であり、もの凄い人数であった。Manethoは、24万人以上の人々がEgyptから砂漠を越えてSyriaへ渡ったと伝えている。[58]
Cadmusは、Rhodes島北東部に上陸して、Poseidonの神殿を建立した。[59]
その後、Cadmusは、Danausが創建したAthena神殿にPhoenicia文字が刻まれた青銅の大釜を奉納した。[60]
Cadmusの移民団の中にいたPhoeniciansの一部は、Rhodes島に定住した。[61]

7.2 Cadmusの協力者
Tyreの町のPhaethonの子Astynousは、Cadmusの移民団に船を供出し、Cadmusの移民団をThracia地方に送り届けてからTyreの町に戻った。[62]
これは、Megassaresの娘PharnaceとAstynousの子Sandocusとの結婚からの推定である。[63]
Megassaresの妻は、Arcadia地方のOrchomenusの町の創建者Orchomenusの娘Alcyoneであった。[64]
Megassaresは、Troy王家の始祖Dardanusと共に、Arcadia地方からSamothrace島に移住して住んでいた。[65]
Astynousに同行していた彼の息子Sandocusは、Samothrace島で、Megassaresの娘Pharnaceと結婚した。AstynousとSandocusは、Cadmusの移民団をThracia地方に上陸させた後で、Pharnaceを連れてTyreの町へ帰還した。[66]
その後、Sandocusは、Cilicia Tracheiaへ移住して、Celenderisの町を創建した。[67]

7.3 Phoenixの娘Europaの結婚
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Tegeatesの子Cydonと結婚した。
Cydonは、BC1450年、Arcadia地方のTegeaの町からCrete島北西部へ移住し、Cydoniaの町を創建していた。[68]

7.4 Phoenixの娘Astypalaeaの結婚
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、Crete島北西部のApteraの町に住むAcmon (or Celmis、Damnameneus、Idaean Heracles)と結婚した。[69]
Astypalaeaは、Acmonと共にOlympiaへ行き、その後、Rhodes島近くのCaria地方へ移住した。[70]
Astypalaeaの子Ancaeusは、Lelegesの王となった。[71]
Lelegesは、Cariansと混血したGreeksであった。[72]
Astypalaeaの後裔は、Rhodes島からやや北にあるSamos島やCos島を領した。[73]

7.5 CadmusのThera島寄港
その後、CadmusはCalliste (後のThera)島に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusを指導者にして入植希望者を島に残した。この時の入植者の後裔は、Spartaの町からAutesionの子Therasが島に入植するまで、8世代にわたって島で暮らしていた。[74]

7.6 CadmusのSamothrace島訪問
Cadmusは、Aegean Seaの島々を巡りながら北上して、Samothrace島に上陸した。島には、BC1430年にArcadia地方から移住してきたDardanusやMegassaresが住んでいた。
Samothrace島で、Cadmusは、Dardanusの妹Harmoniaと結婚した。[75]
CadmusとHarmoniaは、Argosの町のInachusの子Phoroneusの娘Niobeの子Argusの子Criasusの子Phorbasの子Triopasを共通の先祖としていた。

7.7 CadmusのThracia上陸
Cadmusは、Samothrace島を後にして、Thracia地方に上陸してChalcidice半島北方のPangaeus山付近に居を定めた。Cadmus の移民団の中にいたTelchinesは、行く先々で探鉱活動をしていた。[76]
Cadmusは、Pangaeus山で探し当てた金鉱で富を成した。[77]
Cadmusの母Telephassaは、Thracia地方で死んだ。[78]

7.8 Cadmeiaの創建
BC1420年、Cadmusの移民団が入植したThracia地方沿岸部を津波が襲い、Cadmusは再び、移民団を率いてThessaly地方へ南下して、Boeotia 地方へ侵入した。[79]
当時、Boeotia地方にはTemmix (Temmikes)、Hyantes、Ectenes、そしてAoniansが住んでいた。
Cadmusは、彼らと戦って勝利した。[80]
Thebes周辺に居住していたHyantesは、西へ追われた。[81]
Hyantesより前にThebesの町周辺に居住していたEctenesは、160年ほど前にHyantesから追い出されて、大部分はAttica地方に移住していた。残ったEctenesはCadmusに追われて、Attica地方へ移住した。 [82]
Thebesの町の北東のGlissas周辺に居住していたAonianは、引き続き居住することを許された。[83]
Cadmusは、Hyantesが立ち退いた土地の高い場所に館を構えて、周りに人々を住ませて町を創建し、Cadmeiaと呼ばせた。[84]
Phoenicia地方から来たGephyraeansは、Tanagra周辺に定住した。[85]
また、Cadmusの集団に含まれていたArabiansは、Euboea島に定住した。[86]

おわり