BC1750年、Ogygus時代の大洪水[Paus.10.6.2, JeromeChro.1757]
** Ogygus時代の大洪水から初代Athens王Cecropsの即位(BC1561)まで、190年であった。[Euseb.Chron.181, JeromeChro.1757]
** Ogygus時代の大洪水は、Argos王Phoroneusの時代であった。[AugustCity.18.8, FGrH.Nr2.F23b]
BC1750年、Coryciaの子Lycorusは、Cephisus川の上流からParnassus山へ移住して、Lycoreiaを創建した。[Paus.10.6.3]
BC1750年、Ogygus率いるEctenesは、Thebesの北側に定住した。[Paus.9.5.1, Paus.9.19.6, Paus.9.33.5]
** BoeotiansはEctenesの名前で呼ばれた。[Suda.epsilon.647] Ectenesの王は、Ogygusであった。[Paus.9.5.1]
** Boeotiaは、Ogygiaと呼ばれた。[Strabo.9.2.18]
** Ogygusは、Atheniansの最初の王であり、OgygusはAtheniansの先祖であった。[Euseb.Chron.181]
BC1750年、Ogygusの子Eleusisは、Eleusisを創建した。[Paus.1.38.7, JeromeChro.1777]
** Ogygusが創建した。[Euseb.Chro.177]
BC1750年、Inachusの子Aegialeus (or Aezeius)は、Aegialeia(後のSicyon)を創建した。[Paus.7.1.1, StephByz.A40.13]
BC1750年、Inachusの子Phoroneusは、Phoroneus (後のArgos)を創建した。[Paus.2.15.5]
** Phoroneusが創建した町の名前。Phoronicum [Newton.173] Asty Phoronicum [LeakeN.2.400]
BC1750年、Inachusの娘Myceneの夫は、Mycenaeを創建した。[Paus.2.16.3-4, StephByz.M460.9から推定]
** Mycenaeの名前は、Inachusの娘Myceneに因む。SicyonとArgosを結ぶ交通の要衝に位置し、ほぼ同時に創建されたと思われる。
BC1725年、Phoroneusの子Carは、ArgosからMegaraへ移住した。[Paus.1.39.5]
** Carの墓は、MegaraからCorinthへ向かう街道沿いにあった。[Paus.1.44.6]
BC1708年、Aegialeusが死に、ArgosのPhoroneusの子Europsが第2代Sicyon王になった。[EuriSchoOr.932.02とPaus.2.34.4から推定]
BC1702年、Sicyonの有力者Telchin (or Telchis)は、Europsから王位を簒奪して、第3代Sicyon王になった。[PhoroneusとTelchinesとの戦いから推定]
BC1702年、Phoroneusは、Sicyonを攻めて、Telchin率いるTelchinesと戦うが撃退された。[Orosius.1.7]
BC1700年、Phoroneusが死に、彼の息子Apisが跡を継いだ。[Apo.2.1.1]
BC1700年、Phoroneusの子Europsの子Hermionは、Argosの南東の海岸にHermioneを創建した。[Paus.2.34.4]
BC1690年、Lycorusの子Hyamusの娘Celaenoの子Delphusは、Lycoreiaから移住して、Delphiを創建した。[Paus.10.6.3]
BC1690年、Phoroneusの子Apisは、Aegialeiaを支配下に置いた。[Euseb.Chron.173, Orosius.1.7]
BC1690年、AegialeiaのTelchinの子Cresは、ArgosのApisとの戦いに敗れてCreteへ移住した。[Paus.8.53.5, Cleme.Str.1.21, Orosius.1.7, Newton.107から推定]
** Telchines とArgos王Phoroneusの戦いがあった。[JeromeChro.1792, Newton.107, Orosius.1.7]
** 敗れたTelchines は、Rhodes島へ行った。[Newton.107, Orosius.1.7]
** Cresが最初にCreteを統治した。[JeromeChro.1962] Cresに因んで、Crete島と呼ばれるようになった。[JeromeChro.1957]
** Cresは、Crete島のEteocretansの王[Diod.5.64.1]
** Cresには、息子Talosがいた。[Paus.8.53.5]
** Creteは、Telchinia とも呼ばれ、Cretans は Telchines と呼ばれていた。[StephByz.T614.4]
** Corybantes, Cabeiri, Idaean Dactyli, Telchines, Curetesは、おなじ氏族。[Strabo.10.3.7]
** AD2世紀の神学者Clemens of Alexandriaは、Sicyonの統治は、Aegialeusに始まり、Europs、Telchisに続き、Crete島ではCresが統治したと記している。[Cleme.Str.1.21] Eusebiusは、Clemensを引用[Euseb.Pra.10.12]
** PhoroneusとParrhasiansは、TelchinesとCaryatiiと戦った。[JeromeChro.1792, Orosius.1.7]
** つまり、Phoroneusは、Parrhasiansに属していなかった。
** Parrhasiansは、Lycaonの系譜であった。[Apollo.2.500]
** Parrhasiansは、Romeへ移住したEvanderの部族であった。[Ovid.Fasti.1.475]
BC1690年、Phoroneusの子ApisはSicyonを併合し、Peloponnesusは、Apisに因んでApiaと呼ばれるようになった。[Apo.2.1.1, Paus.2.5.7]
** PeloponnesusがApiaと呼ばれたのは『梨の里』であったからだ。[Athen.14.650c]
** PausaniasはApisをTelchisの息子だと記している。Sicyon王の誤った系譜(Euseb.Chron.173)を参考にしていたと思われる。[Paus.2.5.6]
** Peloponnesus, 21,549.6 km2。The Great Chersonesus (Crimea) 27,000 km²。[Strabo.7.4.5]
BC1665年、Apisは、ThelxionとTelchisに謀殺された。[Paus.10.6.3, TzeAdLyco.177]
** Apisは、Sicyonを25年間支配した。[Euseb.Chron.173]
BC1665年、Apisの跡を、Niobeの子Argusが継いだ。[Euseb.Chron.177]
** Niobeの子Argusの名前に因んで、Argosと呼ばれるようになった。[Apo.2.1.2, Hyginus.145]
BC1635年、Niobeの子Argusの子Tirynsは、Tirynsを創建した。[Paus.2.25.8]
BC1635年、Niobeの子Argusの子Epidaurusは、Epidaurusを創建した。[Paus.2.26.2]
** TirynsとEpidaurusの創建は、Phoroneusが所属していた部族とParrhasiansによるArgosの内紛が原因と思われる。
BC1635年、Lycaonの子Oenotrusは、Italy半島西南部へ移住して、Pandosiaを創建した。[Antiq.1.11.3, Strabo.6.1.5]
** Pausaniasは、他国への移住者は、Oenotrusが最初だと記している。[Paus.8.3.5]
BC1635年、Lycaonの子Peucetiusは、Italy半島東南部へ移住した。[Antiq.1.11.3]
** Italy半島東南部は、Peucetiusに因んでPeucetiaと呼ばれた。[Plin.3.16.1]
** OenotrusとPeucetiusの移住も、Argosの内紛が原因であり、彼らの出発地は、Sicyonではなく、Argosと思われる。
BC1625年、Criasusの子Ereuthalionは、Argosの近くにEreuthaliaを創建した。[FGrH.333.F66]
BC1620年、Niobeの子Argusの子Peirasusは、ArgosのHera神殿を創建した。[Euseb.Pra.3.8]
** Argusが梨の樹でHera神像を作った。[Cleme.Exho.4]
** Hera神殿の創始者Peirasは、自分の娘CallithyiaをHeraの巫女に任命し、Tirynsの梨の樹でHera神像を作った。[Plut.Mor.Fr]
** Peirasは彼の娘Callithyiaを最初の巫女にした。[Euseb.Pra.3.8]
** Pirantosの子Callithiasが最初の神職になった。[JeromeChro.1637] Peirasの娘Callithyiaの間違いと思われる。
BC1601年、Argusの子Criasusの子Phorbasは、Argusの子Peirasusの子TriopsからArgosの王位を簒奪した。
BC1601年、Agenorの子Argusは、後にMycenaeが建設される土地に町を建設して、Argionと名付けた。[PsPlut.NRM.18]
** Argusは、many-eyed、あるいは、All-seeingと称された。[Apo.2.1.2, PsPlut.NRM.18]
** 同じ頃、Argusは、SicyonのThurimachusの娘Ismeneと結婚している。
** Apisの時代以降、SicyonとArgosは敵対していた。ArgusとIsmeneの結婚や、Argionの創建は、戦いの結果であったと思われる。
BC1601年、Argusは、第7代Sicyon王Thurimachusの娘Ismeneを妻に迎えた。[Apo.2.1.3から推定]
BC1595年、Hittite王Mursili Iは、Babylon まで遠征して略奪した。[wiki : Mursili I]
** Thera島の火山の噴火による凶作が原因ではないかとの説がある。[wiki : Mursili I]
BC1580年、Boeotiaに悪疫発生した。[Paus.9.5.1]
BC1580年、BoeotiaのEctenesは、Attica、Thessaly、Egyptへと移住した。[Paus.9.5.1, Strabo.9.2.18]
** Ectenesの一部はBoeotiaに残留した。後にCadmusと戦って敗れている。[Nonnus.5.35]
** Boeotiansは、Ectenesと呼ばれていた。[Suda.epsilon.647]
BC1580年、Cecropsの父は、EgyptのNile Deltaへ移住してSaisを創建した。[Diod.1.28.4と Tzetzes.5.650から推定]
** Cecropsは、SaisからAthensへ来た。[TzeAdLyco.111, Tzetzes.5.650]
** OgygusはAtheniansの先祖であった。[Euseb.Chron.181]
** BC4世紀の歴史家Callisthenes of Olynthus やBC3世紀の歴史家Phanodemus of Athensは、AtheniansがSais人の先祖だと記している。[FGrH.Nr325.F7]
BC1576年、Argusの子Messapusは、第8代Sicyon王Leucippusの娘Calchiniaを妻に迎えた。[Euseb.Chron.175から推定]
BC1562年、Cecropsの娘Herseは、EgyptからAthensへの途中で、PhoeniciaのTyreに嫁いだ。[Apo.3.14.3とMarceReg.30から推定]
BC1562年、Cecropsは、EgyptからAtticaの東海岸のMirinousに上陸した。[Paus.1.31.5]
** Cecropsは、Egyptianであった。[FGrH.Nr328.F93, JeromeChro.1550, Suda.ka.1272, Suda.pi.2506]
BC1562年、Colaenusは、MirinousからMessenia湾入り口西側へ移住して、Colonidesを創建した。[Paus.1.31.5, Paus.4.34.8]
BC1561年、Cecropsは、Athens北東のAthmoneisのPorphyrionの次の王Actaeusの娘Agraulusと結婚した。[Apo.3.14.2, Paus.1.14.7]
BC1561年、CecropsはCecropia (後のAthens)を創建した。[Apo.3.14.2, Euseb.181, Paus.1.2.6, Paus.1.5.3, Paus.1.14.7, Pliny.7.194]
** Cecropsの添え名「Diphyes」は、2つの言語を使用する人。[FGrH.328.F93, JeromeChro.1550]
** a body compounded of man and serpent [Apo.3.14.1, Diod.1.28.7]
** 男は女を共有して、子供は母親しか知らなかったが、Cecropsは王になると夫婦の概念を定めた。[Suda.ka.1272, Tzetzes.5.650, TzeAdLyco.111]
** 7 世紀の年代記作家John of Antiochは、それまで、人々は獣のように交わって、一人の親(母)しかいなかったが、Cecropsが夫婦の概念を定めて、2人の親(父と母)を持つようにさせたと伝えている。[TzeAdLyco.111]
** Athenaが生まれたTritonis湖の近くに住む人々は、妻を共有していた。[Herod.4.180]
** Tritonis湖は、Cecropsが住んでいたSaisの近くにあったと思われる。
** AthenaはSaisと呼ばれていた。[TzeAdLyco.111]
** Cecropsは、Athena女神にちなんでその都市をAthensと名づけた。[FGrH.Nr328.F93, Jerome.1550]
** Saisは、海沿いにあったと思われる。[Diod.1.66.8]
** Cecropsは、大災害の後で、Atticaへ移住した。[Tzetzes.5.650]
BC1561年、密儀祭司Trochilusは、Triopasの子Agenorと争って、ArgosからEleusisに亡命した。[Paus.1.14.2]
** TrochilusはCallithyiaの息子であった。[SchoAratus.Pheno.161]
BC1560年、Argosの住人は、各地へ大移住した。[Antiq.1.17, Diod.5.60.4, Diod.5.81.2, Paus.2.16.1, Paus.8.1.6, Photios.186.19]
** BC1601年にNiobeの子Argusの子Ecbasusの子Agenorの子Argusは、Argionを創建している。[PsPlut.NRM.18]
** この大移動は、Argusの子Criasusの後裔と、Sicyonを味方につけたArgusの子Ecbasusの後裔との戦いの結果だと思われる。
BC1560年、Triopasの子Iasusは、彼の娘Ioを連れてEgyptへ移住した。[Paus.2.16.1]
** Ioは、the temple of Hera in Argosの巫女であった。[Apo.2.1.3, Palaepha.42]
** Ioは、Egyptでは、Isisと呼ばれた。[Suda.iota.636]
** Ioの父の名前。Inachus [AelianAnim.11.10, AescProm.i, Hyginus.155, Parthe.1]、Iasus [JeromeChro.1529, Paus.2.16.1]
BC1560年、Triopasの子Xanthusは、ArgosからLyciaに植民後、無人のLesbosに植民した。[Diod.5.81.2]
BC1560年、ArgosのCyrnusは、CariaのCherronesusにCyrnusを創建した。[Diod.5.60.4]
BC1560年、Triopasの子Pelasgusの娘Larisaは、ArgosからThessalyへ移住した。[Antiq.1.17]
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Pelasgusは、ArcadiaのLycaeus山(現在のMt. Lykaion、標高1,421m)の麓へ移住した。[Paus.8.1.6]
BC1560年、Triopasの子Agenorの子Crotopusは、MegaraのGeraneia山麓へ移住して、Tripodiskionを創建した。[Photios.186.19]
BC1540年、Deucalionは、Thessaly地方のEnipeus川の源流付近に、Pyrrha (後のMelitaea)を創建した。[Paus.9.5.1, Paus.9.33.5, Suda.epsilon.647, Strabo.9.2.18, Strabo.9.5.6]
** Deucalionは、王になった。Athens王Cecrops治世中であった。[Parian.Marble.2]
BC1535年、Telegonusの子EpaphusはSaisからNileDeltaの南へ移住して、Memphisを創建した。[Apo.2.1.4, Cleme.Str.1.21, Herod.2.153]
BC1530年、Cecropsの子Erysichthonは、Temple of Apollo at Delosを建立した。[JeromeChro.1511]
BC1530年、Cecropsの子Erysichthonは、Delos島へ木像を送った。[Euseb.Pra.3.8]
BC1530年、Xanthusの娘Lyciaの子Patarusは、LyciaのXanthus河口近くにPataraを創建した。[FGrH.Nr1.F256, Strabo.14.3.6]
BC1530年、Cranausの娘Atthisが誕生した。[Apo.3.14.5]
** Athenaは、Tritonis湖近くで生まれた。[Herod.4.180]
** Cranausの娘Atthis(別名Athena[Apo.3.14.6, Tzetzes.1.170])は、Triton川の近くで育った。[Herod.4.180, Paus.1.14.6, Paus.9.33.7]
** Cranausの娘Atthisに因んでAtticaと呼ばれるようになった。[JeromeChro.1506, Just.2.6, Strabo.9.1.18]
BC1525年、Cecropsの子Erysichthonは、Delos島からの航海中に死に、Prasiaeに埋葬された。[Paus.1.2.6, Paus.1.31.2]
BC1525年、Pelasgusの子Lycaonは、Mount Lycaeusの近くにLycosuraを創建した。[Paus.8.2.1]
BC1520年、Italusの子Sicelusは、Italy半島中央部へ移住した。[Euseb.Chron.281から推定]
BC1520年、Italusの子Ausonusは、Acheron川の南側へ移住して、Tempsaを創建した。[Strabo.6.1.5]
BC1520年、Italusの子Morgesは、Italy半島南西部へ移住した。[Strabo.6.1.6]
BC1515年、Cranausは、EgyptからAtticaへ移住した。[Diod.1.29.1から推定]
** Athensの住人はPelasgiansであり、Cranaansと呼ばれていたことから、Cranausは、Ioの息子と推定される。[Herod.8.44, Ps-Scym.550]
** Cranausは、先祖Ogygusが昔住んでいたBoeotiaのTriton川のほとりに居住したと思われる。[Strabo.9.2.18]
** Cecropsが(Cranausに命じて)Triton川のほとりにAthensとEleusisを創建した。[Strabo.9.2.18]
** Homer(Il.4.8)は、Athenaの添え名にAlalcomenaeを使用しており、当時からその村がTriton川のほとりにあったと思われる。
** Atthisの息子Erichthoniusは、Egyptから来航しているので、AtthisもEgyptへ戻っていたと思われる。
BC1515年、Deucalionの子Hellenは、Enipeus川の対岸にHellasを創建した。[Strabo.9.5.6]
BC1511年、Deucalion時代の洪水
** Cecropsの治世中であった。[Euseb.Chron.183]
** Cranausの治世中であった。[Apo.3.14.5, Newton.143]
** 大地震が発生して、ThessalyのPeneius川が河口近くで堰き止められて、大洪水が発生した。[Apo.3.14.5, Euseb.183]
** Hellasが被災して、HellenはMelitaeaへ移住した。[Strabo.9.5.6]
BC1511年、Deucalionは、HellenやAmphictyonと共に、Athensに避難した。[Newton.143]
** Deucalionの墓がAthensにあった。[Newton.143, Paus.1.18.8, Strabo.9.4.2]
BC1511年、Cecropsが死に、CranausがAthens王に即位した。[Paus.1.2.6]
** CranausがDeucalionを味方に付けて、Cecropsから王位を簒奪したと推定される。
BC1511年、Cranausは、彼の娘Atthisと夫をEgyptへ追放した。[Cranausの死後、Cranausの子Rharusではなく、Cranausの娘の息子がAthens王を継承していることから推定]
** Atthisの夫は、Cecropsの子Erysichthonの息子であったと思われる。
BC1510年、Deucalionの子Amphictyonは、Cranausの娘と結婚した。[Paus.1.2.6, Euseb.Chron.183]
BC1510年、Atthisの子Erichthoniusが誕生した。[Apo.3.14.6]
BC1510年、Pelasgusの子Lycaonは、Lycaean gamesを開催した。[Paus.8.2.1]
** Lycaean gamesは、恐らく、ギリシア最古の競技会である。
BC1502年、Cranausは、Amphictyonに追放され、Lamptrae(AthensとSunium岬の間)で死んだ。[Apo.3.14.6, Euseb.183, Paus.1.31.3]
BC1495年、HellenとOthreisの息子Meliteusは、Melitaeaを創建した。[Antoninus.13, FGrH.Nr4.F125]
** DeucalionやHellenの時代は、町をPyrrhaと呼んでいたが、Meliteusの時代にMelitaeaと呼ぶようになったと思われる。[Strabo.9.5.6]
BC1492年、大干ばつがGreeceを襲った。[Diod.1.29.1]
BC1492年、Cranausの娘Atthisの子Erichthoniusは、EgyptからAthensへ移住した。[Diod.1.29.1, Paus.1.2.6]
** Erichthoniusは、Amphictyonを追放してAthens王に即位した。[Diod.1.29.1, Paus.1.2.6]
** Erichthoniusは、Eleusisに住むCranausの子Rharusの子Celeusの従兄弟であった。[Newton.Chro.143]
** Rharusは、Erichthoniusと共にEgyptから渡来した。
BC1492年、Eleusisの近くのRharium平原に初めて大麦(barley)の種が蒔かれた。[Diod.1.29.2, Paus.1.38.6]
** Egyptから種を持ち込み、種をまいたのは、Rharusであったと推定される。
** Triptolemusが最初にDemeterの果実の種を授けたのはPeloponnesusであった。[Xeno.Hel.6.3.6]
** Lelexの子Mylesが、挽臼を発明し、粉挽きした。[Paus.3.20.2]
BC1490年、Lycaonの子Orchomenusは、ArcadiaにOrchomenusを創建した。[Paus.8.3.3]
BC1480年、Orchomenusは、Arcadia地方にMethydriumを創建した。[Paus.8.3.3, Paus.8.36.1]
BC1480年、Pelasgiansは、ThessalyのScotussaからDodonaに神託所を移した。[Strabo.7.7.10-12, Strabo.9.5.23]
** Haemonの子Thessalusは、Dodonaに神殿を建立した。[Hyginus.225]
** the sanctuary (of Dodona) also was from the beginning Pelasgian [Strabo.9.2.4]
** Dodonaの神域そのものがPelasgiansの創建と思われる。
BC1470年、Hellenの子Xuthusは、兄弟AeolusやDorusによって、Thessalyから追い出されてAthensへ移住した。[Paus.7.1.2]
** Xuthusは、第4代Athens王Erichthoniusの娘Creusaと結婚した。[Paus.7.1.2]
BC1470年、Lycaonの子Tegeatesは、Tegeaを創建した。[Paus.8.3.4]
BC1465年、Xuthusは、Attica北東部にTetrapolis(Oenoe, Marathon, Probalinthus, Tricorynthus)を創建した。[Strabo.8.7.1]
BC1460年、Hellenの子Dorusは、MelitaeaからThessaly北部のPeneius川流域へ移住した。[Herod.1.56]
** Dorusは、Doriansの始祖になった。[Apo.1.7.3]
BC1450年、Arcadiaで、飢饉が発生した。[Paus.8.53.3]
BC1450年、Tegeatesの息子たち、Cydon、Gortys、Archediusは、TegeaからCreteへ移住した。[Diod.5.80.1, Paus.8.53.4]
** Tegeatesの息子たちは、Cydonia、Gortyna、Catreusを創建した。
** Diodorusは、Eteocretansに続く、Creteの住人としてPelasgiansを挙げている。[Diod.5.80.1]
BC1450年、Lycaonの子Heraeeusは、ArcadiaのAlpheius 川の右岸にHeraeaを創建した。[Paus.8.26.1]
BC1450年、Lycaonの子Hyperetusは、Achaia地方へ移住して、Hyperesiaを創建した。[StephByz.Y650.17]
BC1450年、Lycaonの子Cauconは、Arcadia地方からEleia地方南部へ移住して、Lepreumを創建した。[Strabo.8.3.16]
BC1450年、Cnossusに住んでいたCyrbasは、島の南東岸へ移住して、Hierapytnaを創建した。[Cleme.Exho.2, Nonnus.14.23, Strabo.8.6.13]
BC1450年、Hierapytnaは、Prasus (or Priansos)を破却した。[Strabo.10.4.12]
** HierapytnaによるPrasusの破却は、もっと後の時代かもしれない。
BC1450年、Erysichthonは、CreteのPrasusからRhodesへ移住した。[FGrH.Nr4.F122とStrabo.10.3.19から推定]
** Prasusからの移住は、Hierapytnaによる攻撃ではなく、Tegeatesの子GortysのGortynaへの入植が原因と思われる。
BC1450年、Erysichthonは、TelchinesのHaliaの娘Rhodosと結婚し、7人の息子たちが誕生した。[Diod.5.55.4, Diod.5.56.5]
BC1446年、Orchomenusの娘Sterope (or Asterie, Asterope)は、ArcadiaのHeraeaに住むLycaonの子Heraeeusに嫁いだ。[Paus.8.20.1-4とPaus.8.26.1から推定]
BC1445年、Aeolusの子Hypseusは、MelitaeaからPelion山の近くへ移住した。[Diod.4.81.1]
BC1442年、Hellenの子Xuthusは、AtticaからAegialus(後のAchaia)地方へ移住した。[Paus.7.1.3]
** 義父王Erechtheus死去し、Atticaで養いきれない人々を率いて新天地を求めた移住と思われる。[Paus.7.1.2]
** AeolisのPeloponnesus進出は、Hellenの子Xuthusが最初であった。
BC1440年、Xuthusの子Ionは、Aegialiansの王Selinusの娘Heliceと結婚し、Selinusの跡を継いだ。[Paus.7.1.4]
** Selinusは、Hyperesiaの創建者Hyperetusの息子と推定される。
BC1438年、CreteのIda山で山火事が発生して、偶然に鉄が発見された。[Cleme.Str.1.21]
** Teutamusの子Asterius(BC1442年生まれ)の時代[Newton.183]
** Telchinesがはじめて鉄と銅を加工した。[Strabo.14.2.7]
** CyprusのAmathusは、銅を産出した。[Ovid.10.520]
** CreteのBerecynthusにあるApteraのIdaean Dactylsが最初に鉄の活用手段を発明した。[Diod.5.64.5]
** CreteのIdaean Dactylsが最初の鍛鉄法を発明した。[Pliny.7.197]
** Idaean Dactylsが最初の鉄の製造者であった。[FGrH.Nr333.F47]
** Celmis (and Damnameneus) of the Idaean Dactylsが、AthensのPandionの治世に、CreteのIdaで鉄を発見した。[Parian.Marble.11]
** Telchinesは、CreteからCyprus、Rhodesへと移住した。[Strabo.14.2.7]
** Idaean Dactylsと呼ばれる人々がCreteで鉄の製錬と焼き入れを教えたと述べている。[Hesiod.ID.F1]
** 最初のIdaean DactylsであるCelmisとDamnameneusはCyprusで鉄を発見した。[Hesiod.ID.F2]
** Kelmis and Damnaneus, Idaean Dactyls, first discovered iron in Cyprus. [Hesiodの断片を Cleme.Str.1.16, Euseb.Pra.10.6が引用]
** Damnameneus、Scelmisは、Telchinesであった。[Nonnus.14.36]
** Corybantes, Cabeiri, Idaean Dactyls, and Telchines as identical with Curetesは、同じ氏族であった。[Strabo.10.3.7]
BC1435年、Xuthusの子Achaeusは、Athensから味方を得てAegialus地方からThessalyのMelitaeaへ帰還した。[Paus.7.1.3]
BC1435年、Hellenの子Aeolusの子Mimasは、Melitaeaから北西へ移住してArneを創建した。[Paus.7.1.3から推定、Achaeusに追放されて]
** Mimasの兄弟Athamas, SisyphusもMelitaeaからArneへ移住したと思われる。
BC1435年、Teucrusは、CreteのApteraを出航し、TroadのHamaxitus付近に上陸した。[Strabo.13.1.48]
** 少し前のIdaean Dactylsの鉄の発見が関連し、CadmusがSamothraceに立ち寄るより前と思われる。
** Ida山の名前は、TeucriansがCreteにある山と同じ名前を付けた。[Strabo.13.1.48]
** Teucrusは、Hellespontus海峡近くにTeucris(後のDardanus)を創建した。[Antiq.1.61.4, StephByz.D218.1]
** Teukrosは、Gergisの王であった。[Herod.5.122, 7.43]
BC1433年、Teucrusに同行したIdaean Dactylsは、Ida山周辺に有望な鉱脈を見つけ、鉄の加工を始めた。[Strabo.10.3.22]
** Idaean Dactylsは、Cyzicus近くのIda山で鉄を作った。[Diod.17.7.5]
BC1432年、Aeolusは、Mimasの子HippotesとMelanippeの息子として、ThessalyのArneで誕生した。[Diod.4.67.3, Home.Od.10.2]
BC1431年、Idaean Dactylsは、Cabeiriと共にLemnos島、Imbros島、Samothraceへ渡った。[Strabo.10.3.22から推定]
BC1430年、Xuthusの子Ionは、妻Heliceの名前に因んだHeliceを創建した。[Paus.7.1.4]
BC1430年、Agenorは、EgyptのThebesからPhoeniciaのSidonへ移住した。[Diod.1.23.4, Pliny.5.76]
BC1430年、DanausはEgyptのChemmisから出航して、RhodesのLindusに上陸した。[Apo.2.1.4, Diod.5.58.1, Herod.2.91]
** Egyptから追い出された多くの異邦人たちの指導者たちの中で最も有名なのは、DanausとCadmusであった。[Diod.40.3]
** Lindusは、BC1390年の洪水後にできた町。
BC1430年、DanausはRhodesのLindusで娘3人を亡くして、Athena神殿を建立した。[Diod.5.58.1]
** Rhodesに残ったDanausの娘たちが造営した。[Strabo.14.2.13]
** 籤にあたった(Danausの娘たち)Helike and ArchedikeがLindian Athena神殿を建立した。[Parian.Marble.9]
** Athenaの座像は、木製であった。[Euseb.Pra.3.8]
** Danausには、50人の娘たちがいた。[Apo.2.1.4, Hyginus.168, LucianDial.6, PindN.10.1, Plut.Mor.837e, Strabo.5.2.4, Tze.7.360]
BC1430年、Danausは、ArgosとLacedaemonの境であるThyreaのPyramia近くに上陸した。[Plut.Pyrrhus.32]
** Danausの最終上陸地点は、Lernaの近くのApobathmiであった。[Paus.2.38.4]
** Cadmus[Dictys.5.17, Diod.3.67.1, Herod.5.58, Hyginus.277]とDanaus[Dictys.5.17, FGrH.Nr1.F20]がPhoenician alphabetを伝えた。
** Egyptiansがalphabetを発明し、PhoeniciansがGreeksに伝えた。[Tacit.Ann.11.14]
** Cadmusと共へ移住してきたPhoeniciansが持ち込み、彼らの言語がGreekになったときに、the Greek alphabetとなった。[Herod.5.58]
BC1430年、Danausは、Sthenelas (or Stheneleus、Sthenelus、Sthelenus)の子GelanorからArgosの支配権を奪取した。[Paus.2.16.1, Plut.Pyrrhus.32, JeromeChro.1475]
** Gelanorは、同族が住んでいたSicyonに亡命した。[Paus.2.6.5から推定]
** DanausとGelanorの間に戦いがあった。[Jerome.1475] GelanorがDanausに譲った。[Apo.2.1.4]
** Gelanorは内乱で町を追われ、Danausは町を攻撃して勝利した。[Plut.Pyrr.32]
** DanausはGelanorに王権を要求して、そして奪った。[Paus.2.19.3, Paus.2.16.1]
BC1430年、Danausの兄弟Aegyptusは、Peloponnesus半島北西部Aroe(後のPatrae)に定住した。AroeにAegyptusの墓があった。[Paus.7.21.13]
BC1430年、Danausの弟と思われるOrusは、Oraea(後のTroezen)を創建した。[Paus.2.30.5]
BC1430年、Danausの叔父Lelexは、後にLacedaemonとなる地に入植した。[Apo.3.10.3, Paus.1.39.6, Paus.1.44.3]
** その地方はLelegia、その地方の住人は、Lelegesと呼ばれるようになった。[Paus.4.1.1, Paus.1.44.3]
BC1430年、Lelexは、彼の息子MylesにLacedaemonを託して、Megaraへ移住した。[Apo.3.10.3, Paus.1.39.6, Paus.1.44.3]
** その地方の人々は、Lelegesと呼ばれるようになった。[Paus.1.39.6]
BC1430年、Lelexの娘Therapneの夫は、Lacedaemon近くにTherapneを創建した。[Paus.3.19.9, Strabo.7.7.2]
BC1430年、Dardanusは、ArcadiaのMethydriumからSamothraceへ移住した。[Antiq.1.61.3, Paus.8.36.1]
** Dardanusの母の姉妹Alcyoneも、彼女の夫Megassaresや2人の息子たち、HyperenorやHyrieus、それに娘Pharnaceと共に、Dardanusの移民団に参加した。[Apo.3.10.1, Paus.9.22.5]
BC1430年、Lycaonの子Parrhasiusの子Parusは、ArcadiaのParrhasiaからParos島へ移住した。[StephByz.P507.5, Dic:Parrhasius]
BC1430年、CelmisとDamnameneusは、Cyprusで鉄を発見した。[Hesiod.ID.F2]
BC1430年、Orchomenusの娘Meropeは、ArcadiaのOrchomenusからAchaia地方のHyperesiaへ逃れた。[SisyphusとMeropeの結婚(Apo.3.10.1)から推定]
BC1429年、Idaean Dactylsと共にSamothraceへ渡ったCabeiriのひとりCybeleは、Dardanusの兄弟Iasionと結婚した。[Diod.5.49.2]
BC1426年、Agenorの子Cadmusは、移民団を率いてSidonを出航した。[Diod.4.2.1, Isocrates.Helen.68, Ovid.Meta.3.120, Pliny.5.76]
** Cadmus, who was a citizen of Egyptian Thebes. [Diod.1.23.4]
** Phoenix and Cadmus, having set out from Egyptian Thebes into Syria, reigned in Tyre and Sidon. [JeromeChro.1454]
BC1426年、Cadmusは、RhodesのLindusに上陸した。[Diod.5.58.2]
BC1426年、Meropeは、Aeolusの子Sisyphusと結婚した。[Apo.3.10.1]
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Astypalaeaは、ApteraのIdaean Heraclesと結婚した。[Paus.7.4.1から推定]
BC1425年、Cadmusの移民団の中にいたPhoenixの娘Europaは、Cydoniaの創建者Tegeatesの子Cydonと結婚した。[推定]
BC1425年、Cadmusは、Calliste島(後のThera島)に立ち寄り、Poecilesの子Membliarusが率いる一部の人々が島に定住した。[Herod.4.147]
BC1425年、Cadmusは、Samothraceに立ち寄り、秘儀に入会して、Harmoniaと結婚した。[Diod.5.48.5]
BC1425年、Cadmusは、SamothraceからThraciaへ渡った。[Cadmusの母TelephassaのThraciaでの死と、Pangaeus山での金鉱発見から推定]
BC1425年、Rhodosの息子たち(Heliadae)は、TelchinesをRhodesから追放した。[Diod.5.56.1, Nonnus.14.36]
BC1425年、TelchinesのLycusは、RhodesからLyciaのXanthus川近くへ移住して、Apollo Lyciusの神殿を奉納した。[Diod.5.56.1]
BC1425年、Aegyptusの子Lynceusは、Danausの長女Hypermnestraと結婚した。[Apo.2.2.1, Pindaros.622]
** Hypermnestraは、ArgosのHera神殿のPriestessであった。[JeromeChro.1434, Newton.Chro.139]
BC1425年、Agenorの子CilixはIda山近くのCiliciaへ移住して、Thebeを創建した。[Apo.3.1.1]
** Cilixの娘Thebeは、Ida山のCorybasに嫁いだことから、Cilixが町に娘の名前を付けたと思われる。[Diod.5.49.3]
BC1425年、Achaeusの子Archanderは、Hypseusの娘Cyreneと結婚した。[Diod.4.81.2, Hyginus.161, Nonnus.13.286]
BC1424年、Aristaeusは、Achaeusの子ArchanderとHypseusの娘Cyreneとの間に、ThessalyのMelitaeaで誕生した。[Diod.4.81.2]
BC1423年、Abasは、LynceusとHypermnestraとの息子として、Argosで誕生した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.2]
BC1422年、Cadmusは、Chalcidice半島北方のPangaeus山付近で金鉱を発見した。[Cleme.Str.1.16, Euseb.Pra.10.6, Strabo.14.5.28, Plin.7.197, Newton.146]
** Cadmusに同行した職人集団は、Idaean Dactylsとも呼ばれるTelchinesであった。[Newton.146]
** Cadmus found out gold in the mountain Pangæus in Thracia, and copper at Thebes. [Newton.146]
BC1422年、Cadmusの母Telephassaは、Thraciaで死んだ。[Apo.3.4.1]
BC1420年、----- 1回目のAegean Seaの大津波 ------
** Diodorusは、Deucalionの洪水の後で、CadmusがCadmeiaを創建したと伝えている。[Diod.19.53]
BC1420年、Rhodesに大津波が襲来した。[Diod.5.56.2]
BC1420年、SamothraceのDardanusの妻Chryseと弟Iasusは津波で死んだ。[推定]
BC1420年、Dardanusは、SamothraceからのTroadへ移住した。[Apo.3.12.1, Diod.5.49.2, Hesiod.CW.F102]
** DardanusはIda山の麓にDardanusを創建した。[Apo.3.12.1]
** Teucrisに住んでいたTeucriansと共住した。[Antiq.1.61.4]
BC1420年、Cadmusと共にThraciaの海岸部に定住した人々が津波で被災した。[推定]
BC1420年、Danausが死んで、彼の娘婿LynceusがArgosの支配権を継承した。[Paus.2.16.1, Cleme.Str.1.21]
BC1420年、Cadmusは、ThraciaからBoeotia へ移住して、Cadmeia(後のThebes)を創建した。[Herod.1.56, Strabo.9.2.3]
** CadmusがCadmeiaを選んだのは、地上に露出した銅鉱石があったからと推定される。[Pliny.34.117]
** その鉱石は、cadmeaと呼ばれるようになった。[Pliny.34.2]
** Cadmusに従っていたCuretes (Idaean Dactyli)は、Cadmeiaで銅を見つけた。[Newton.146]
** Cadmusに従っていたCuretesは、EuboeaのChalcisで銅鉱床を見つけた。[Newton.146, Strabo.10.1.9, Strabo.10.3.19]
** Cadmusの移民団の中に、Cadmusに次ぐ実力を持つSparti(or Spartos)と呼ばれる者たちがいた。[Apo.3.4.2, Paus.9.5.3]
** Spartiは、会戦前に戦列を跪かせ、敵と十分な間合いとなったときに、雄叫びを上げて立ち上がり、敵を驚かせて委縮させる戦法を編み出した指導者のことであった。[Photios.186.37]
** Chthonius, Udaeus, Hyperenor, Pelorus, Echion [Apo.3.4.1]
** Chthonius, Udaeus, Hyperenor, Pelorus, Echion [Hyginus.178]
** Chthonius, Udaeus, Hyperenor, Pelorus, Echion [Paus.9.5.3]
** Chthonius, Udaeus, Hyperenor, Pelor, Echion [Tze.10.430]
** CadmusとDanausがPhoenician alphabetをGreeceに伝えた。[Dictys.5.17, Euseb.Pra.1.6]
** Cadmusの移民団の中には、Arabiansも含まれていて、Euboeaに定住した。[Strabo.10.1.8]
** Sunium岬からBoeotia へ移住して来たTemmices(Temmicians)もいた。[Strabo.9.2.3]
** Temmix(Temmikes)は、最初にBoeotiaに定住した部族。[StephByz.T615.3, TzeAdLyco.644]
BC1420年、Boeotiaに住んでいたHyantesは、Cadmusに敗れて、西へ追いやられた。[Paus.9.5.1, Paus.10.35.5]
** Hyantesは、Thebesに住んでいた。[Paus.10.35.5, TzeAdLyco.433]
** Hyantesは、Onchestusを中心に住んでいた。[Apollo.3.1240]
** Hyantesの一部は、Aetoliaへ移住した。[Strabo.10.3.4]
** 後に、AetolusがElisから移住したときに、Curetesの地(Pleuronの古名[Strabo.10.2.5])にいたのは、名前を変えたHyantesと思われる。
** Hyantesは、barbariansであった。[Strabo.9.2.3]
** BC1126年にBoeotiansとOrchomeniansによって追われたThraciansとは、Hyampolisに住むHyantesと思われる。[Strabo.9.2.3-4]
BC1420年、Cadmusとの戦いに敗れたAoniansは、Glissasに住むことを許された。[Nonnus.5.35, Paus.9.5.1]
BC1420年、Cadmusと共にPhoeniciaから来たGephyraeansは、Tanagra周辺に定住した。[Herod.5.57, Strabo.9.2.10]
** Gephyraeansの指導者は、Cephisusと思われる。[Plut.QuestGr.40] Tanagraは、Gephyraと呼ばれていた。[FGrH.Nr1.F118]
BC1420年、Atlasの娘Alcyoneの子Anthasは、Anthedonを創建した。[Paus.9.22.5, StephByz.A96.11]
BC1420年、Dorusの子Tectamusは移民団を率いて、PeloponnesusからCreteへ移住した。[Diod.4.60.2, 5.80.2]
BC1420年、Achaeusは、ThessalyのMelitaeaからPeloponnesusへ移住した。[Paus.7.1.6, Strabo.8.7.1]
** Achaeusの移住先は、Thessalyへ行く前の居住地であるAegialus地方と思われる
** Pausaniasは、Achaeusの子でArchanderとArchitelesの2人が、PhthiotisからArgosへ移住したと記している。[Paus.7.1.6]
** Straboは、Achaeusが「過失殺人の罪を犯して」Lacedaemonへ亡命したと記している。[Strabo.8.7.1]
**[推定] Achaeusと息子たちは、Aegialus地方へ戻り、ArchanderとArchitelesは、Danausの娘たちを娶った。
** Sicyonとの戦いでArgosに加勢し、Archanderは、Argosに住んで、Abasの後見をした。
** この時点で、Aegialus地方からArgosの範囲の住人をAchaeansと呼んでいた。その後Lacedaemonの子Lelexの子Polycaonに嫁いだMesseneと共にArgosから多くのAchaeansがMesseniaのAndaniaへ移住した。ArgolisからMesseniaの一部まで範囲の住人がAchaeansと呼ばれた。
** Sisyphusは、従兄弟Achaeusに同行して、ThessalyからAegialusへ移住した。[Paus.7.1.6とStrabo.8.7.1から推定]
** Aegialusの近くのHyperesiaには、Orchomenusの娘Meropeが住んでいて、MeropeとSisyphusは結婚した。
BC1420年、Tereusは、ThraciaからPhocisのDaulis付近へ移住した。[Strabo.7.7.1]
** TereusはThracianで、兄弟Dryasがいた。[Hyginus.45]
** Cadmusの娘Agaveの子Pentheusの時代、Strymon川流域のEdoniの王は、Dryasの子Lycurgusであった。[Apo.3.5.1-4]
** TereusはCadmusの大移動と共に南下したと思われる。
BC1420年、Hellenの子Dorusは、Olympus山の近くからOeta山とParnassus山の間のPindusへ移住した。[Herod.1.56]
** Dorusは、Cadmusに追われて、移住した。[Herod.1.56]
** Dorusは、ThessalyのDorisに住んでいた。[Strabo.9.5.17]
** Pindusの住人は、Macedniと呼ばれていた。[Herod.1.56, StephByz.D251.6]
** DorusはParnassus山周辺のDoriansを集めて、Pindusを創建した。[Ps-Scym.587, Strabo.8.7.1]
BC1420年、Ida山のHeraclesは、津波で被災した人々を率いてEleiaへ移住した。[Paus.5.7.9から推定]
** Idaean Heraclesが住むApteraの隣にCydoniaを創建したCydonから聞いて移住先を決めたと思われる。
BC1419年、Ida山のHeraclesは、兄弟5人で、Olympiaで競技会を初めて開催した。[Paus.5.7.9]
** Idaean Heracles(Acmon)は、BC1445生まれと推定され、最年長であったことから、この頃の出来事と思われる。
** 兄弟で徒競走をして、勝者にオリーブの冠を与えた。[Paus.5.7.7]
** Olympia祭競技会と名付け、5年目ごとに開催した。[Paus.5.7.9]
** Idaean Heraclesの兄弟たちは、Paeonaeus、Epimedes、Iasius、それに、Idasであった。[Paus.5.7.6]
BC1419年、Dardanusは、Teucrusの娘Bateiaと再婚し、Teucrusの死後、Dardanusがその地方を継承した。[Apo.3.12.1, Diod.4.75.1]
BC1418年、Tereusは、PhocisからMegara地方のPagaeへ移住した。[Paus.1.41.8]
** Tereusは、Athens王Pandionの娘Procneを妻に迎えた。[Apo.3.14.8, Paus.1.5.4, Hyginus.45]
** Tereusの墓は、Megaraにあった。[Paus.1.41.8]
BC1418年、Polydorusは、CadmusとHarmoniaの息子として誕生した。[Apo.3.4.2]
BC1416年、Creteの5人のCuretesは、Rhodes対岸のCherronesusにいたCariansを追い出して、5つの町を創建した。[Diod.5.60.1]
** Olympiaで競技会を初めて開催したIdaean Heraclesを含む兄弟5人と推定される。[Paus.5.7.9]
BC1415年、Eumolpusは、Atticaに侵入した。[Strabo.7.7.1]
** Straboは、Ionと戦ったEumolpusは、Thracianであったと記しているが、Chioneの子Eumolpusと混同している。[Strabo.8.7.1]
** Eumolpusは、つぎの理由で、ArgosからThessalyへ移住したPelasgusの娘Larisaの後裔と思われる。
** Eumolpusの子Immaradusが、AthensのErechtheusと戦ったとき、DodonaからScirusが応援に駆け付けた。[Paus.1.36.4]
** 当時、Dodonaには、Thessalyへ移住したPelasgusの娘Larisaの後裔が住んでいた。[Hyginus.225, Strabo.7.7.10]
** また、Eleusisには、Argosから移住した密儀祭司Trochilusの後裔が住んでいた。[Paus.1.14.2]
** Trochilusは、BC1580頃、Larisaの父Pelasgusの兄弟Agenorとの争いで、ArgosからEleusisに亡命した。[Paus.1.14.2]
** Eumolpusの侵入は、BC1415年ではなく、BC1390年にThessalyを追われたときとも考えられるが次の理由により否定される。
** XuthusのIon(45)がかなりの高齢(70)になる。
** 第5代Pandion(55)ではなく、第6代Erechtheus(40)の治世となり、Ionがpolemarchosになる必要がなくなる。
BC1415年、Atheniansは一時、Gephyraeansが住んでいたBoeotiaのTanagraまで避難した。[Suda.delta.1395]
** この時の避難がErechtheusとPraxitheaとの結婚を可能にした。[Apo.3.15.1, Tzetzes.1.170]
BC1415年、Xuthusの子Ionは、Atheniansの推挙を受けてpolemarchosとなり、Eumolpusと戦って休戦した。[Herod.8.44, Paus.2.14.2, FGrH.333.176]
** 戦いの後、EumolpusがEleusisに定住しているので、Eumolpusが優勢でIonが休戦に持ち込んだと思われる。[Paus.2.14.2]
** Atheniansを救ったIonを讃えて、Boedromiaという祭りがAthensで催されるようになった。[FGrH.Nr333.F176, Suda.beta.357]
** Ionの母は、第4代Athens王Erechtheusの娘Creusaであり、当時のAthens王PandionはIonの叔父であった。[Paus.7.1.2]
** Eumolpusの侵入時、IonはPotamiに住んでおらず、AchaiaのHeliceから駆け付けたと思われる。[Paus.7.1.3-4]
BC1415年、Celeusの弟Dysaulesは、EleusisからPhliusの近くのCeleaeへ移住した。[Paus.2.14.4]
BC1415年、Celeusの子Triptolemusの子Croconは、Eleusiniansとして初めて、Athensとの境のRheiti川の東側に居住した。[Paus. 1.38.2]
BC1415年、Rhodosの子Triopasは、他の兄弟の助けを借りて、兄弟のTenagesを殺害してCariaへ逃亡した。[Diod.5.57.2]
** Erysichthonの子TriopasはRhodes対岸のCnidus半島にTriopium(or Triopion)を創建した。[Diod.5.61.1, StephByz.T636.1]
** Triopasは、Cherronesusの王Melisseusによって、兄弟殺しの罪を浄められた。[Diod.5.61.1]
BC1415年、Rhodosの子Macarは、Lesbosへ逃亡した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Rhodosの子Candalusは、Cos島へ逃亡した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Rhodosの子Auges(Actis, Actics, Atlas)は、RhodesからEgyptへ移住しHeliopolisを創建した。[Diod.5.57.2]
BC1415年、Aeolusの子Athamasは、Pagasetic Gulf西岸にHalusを創建した。[Strabo.9.5.8]
BC1415年、Dorusの子Deucalionは、PindusからLocrisのOpus近くへ移住した。[Strabo.9.4.2]
** Ozolian Locrisは、Euboeaの対岸のLocrisから入植した。[Ps-Scym.475]
** Ozolian Locrisへの最初の入植者は、Deucalionの子Orestheusと思われる。[Athen.35b, Paus.10.38.1]
BC1415年、Triptolemusは、AchaiaのEumelusを訪問し、穀物栽培や町作りを教授した。[Paus.7.18.2]
** Triptolemusは、Ioの子Cranausの子Rharusの子Celeusの息子。
** Eumelusは、Ioの子Epaphusの娘Libyaの子Belusの子Aegyptusの息子。
BC1415年、Eumelusは、AchaiaにAroe(後のPatrae)を創建した。[Paus.7.18.2]
** Eumelusは、Aroeに墓があるDanausの兄弟Aegyptusの息子と思われる
BC1415年、EumelusとTriptolemusは、Aroe近くに、共同でAntheiaを創建した。[Paus.7.18.3]
BC1413年、Deucalionの娘Protogeniaは、LocrisからThessalyのArneに住むHippotesの子Aeolusに嫁いだ。[Apo.1.7.2, Paus.5.8.2]
BC1413年、Lynceusが死に、彼の息子AbasがArgosの支配権を継承した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.2]
BC1413年、Hypseusの娘Themistoは、Pagasetic Gulfの西岸のHalusのAthamasのもとへ嫁いだ。[Apo.1.9.2, Hyginus.1, Paus.9.34.7]
BC1411年、Danausの娘Polydoreは、Peneius川近くに住むIphthimeの息子と結婚した。[FGrH.Nr333.F8から推定]
** Polydoreの結婚を可能にしたのは、彼女の姉妹ScaeaとAutomateと、Achaeusの息子たちとの結婚であったと思われる。[Paus.7.1.6]
BC1410年、Deucalionの子Orestheusは、Epicnemidian LocrisからOzolian Locrisへ移住して、Amphissaを創建した。[Athen.35b, Paus.10.38.1, Ps-Scym.475]
BC1410年、Pygmalionは、Cyprusの北東部にCarpasiaを創建した。[StephByz.K361.13]
BC1410年、Astynousの子Sandocusは、PhoeniciaのTyreからCiliciaへ移住して、Celenderisを創建した。[Apo.3.14.3, MarceReg.30]
** Astynousは、Cecropsの娘Herseの子Cephalusの子Tithonusの子Phaethonの息子であった。[Apo.3.14.3]
** Pygmalionの娘MetharmeとSandocusの子Cinyrasは結婚から、PygmalionとSandocusは、同時に移住したと思われる。[Apo.3.14.3]
BC1410年、Deucalionの子Amphictyonは、Thermopylae付近にAntheia(or Anthela)を創建した。[Herod.7.200]
BC1410年、Danausの娘Anaxiteaの子Olenusは、AchaiaにOlenusを創建した。[FGrH.Nr334.F41]
BC1410年、Macerisは、LibyaにCapsaを創建した。[Newton.114, Orosius.5.15]
BC1408年、Danausによって追放されたGelanorの子LamedonがSicyonからArgosに攻め込んで占拠した。[MalaChro.4.68]
** Lynceusの跡を継いだAbas、別名Triopasの治世5年目に、ArgosはSicyonに占領された。[MalaChro.4.68]
BC1408年、Abasは、Phocisへ移住してAbaeを創建した。[Paus.10.35.1]
** Danausと共に渡来したOrusがTroezen、LelexがLacedaemonやMegaraにいたのに、何故、AbasがPhocisへ移住したのかは不明。
BC1408年、Aegyptusの子AntimachusとDanausの娘Mideaとの息子Amphianaxは、Ptolis(後のMantineia)へ移住した。[Strabo.8.3.2, Paus.8.12.7から推定]
** AmphianaxもAbasと同様に、Gelanorの子Lamedonによって、追放されたと思われる。
BC1408年、Achaeusの子Archanderは、Danausの娘Scaeaと結婚した。[Paus.7.1.6]
BC1408年、Achaeusの子Architelesは、Danausの娘Automateと結婚した。[Paus.7.1.6]
BC1407年、Dorusの娘Iphthimeの息子とDanausの娘Polydoreが結婚した。[FGrH.Nr333.F8とNonnus.14.105から推定]
BC1407年、Achaeusの息子たちArchanderとArchitelesは、Lamedonと戦った。[Paus.2.6.5]
** Pausaniasは、ArchanderとSicyonのCoronusの子Lamedonとが戦ったと記しているが、時代が異なる。[Paus.2.6.5]
** このLamedonは、Danausによって、Argosを追われたGelanorの息子と思われる。
BC1407年、SicyonのOrthopolisは娘をDeucalionの子Marathoniusに嫁がせて、Sicyonを譲ることで和睦した。[Euseb.Chron.175から推定]
** LocrisのDeucalionも同族としてAchaeusの息子たちに加勢したと思われる。
** この時から、Sicyonの王家は、Inachusの後裔からThessalyのDeucalionの後裔へ移った。
BC1407年、Aeolusの子Sisyphusは、Sicyonの近くへ移住して、Ephyra(後のCorinth)を創建した。[Apo.1.9.3]
** Sisyphusも従兄弟Achaeusの息子たちに加勢したものと思われる
** この後、SicyonやCorinthなど、Argolis各地にThessalyの住民が移住してきて、Achaeansの呼び名が定着したものと思われる。
BC1407年、AbasはAbaeからArgosへ帰還し、義理の叔父ArchanderがAbasを後見した。[Paus.2.6.5から推定]
BC1407年、Aristaeusは、Cadmusの娘Autonoeと結婚した。[Apo.3.4.2, Diod.4.81.3, Paus.10.17.4]
BC1406年、AristaeusとAutonoeの間に、Actaeon誕生した。[Diod.4.81.3]
** Diodorusは、このAristaeusをCyreneの息子としているが、別人または、創作と思われる。
** AristaeusがCyreneの息子とすれば、Aristaeusは、父Archanderと一緒にEgyptへ行けなくなる。
BC1405年、LacedaemonのLelexの子Polycaonは、MesseniaにAndaniaを創建した。[Paus.4.1.2]
** Andaniaの創建には、Polycaonの妻Messeneの出身地Argosから大勢のAchaeansが参加した。[Paus.4.1.2]
** Polycaonの後裔が絶えたとき、Thessalyから継承者を迎えている。[Paus.4.2.2]
** Andaniaの住民は、Achaeusの息子たちと共にThessalyからArgos周辺へ移住したAchaeansと思われる。
** Lacedaemonの分家ではあったが、Polycaonの妻Messeneに因んで、地方はLacedaemonではなく、Messeneと呼ばれた。[Paus.4.1.2]
BC1405年、Danausの娘Amymoneの子Naupliusは、Tiryns近くにNaupliaを創建した。[Paus.4.35.2, Paus.2.38.2]
BC1405年、Callistoの子Arcasは、ArcadiaにTrapezusを創建した。[Hyginus.176, 275]
** Arcasの名前に因んで、Arcadiaに住むPelasgiansは、Arcadiansと呼ばれるようになった。[Paus.8.4.1]
BC1405年、Celeusの子Triptolemusは、ArcadiaのArcasに栽培穀物の種子を与えた。[Paus. 8.4.1]
BC1404年、Acmonの子Ancaeusは、Maeander川の近くへ移住して、Lelegeis(後のMiletus)を創建した。[Pliny.5.31.1]
BC1402年、Achaeusの子Archanderは、EgyptのNileDeltaへ移住して、Archandropolisを創建した。[Herod.2.98, Paus.7.1.6]
** Archanderには、Thessalyで結婚したCyreneも同行した。[Diod.4.81.1]
** ArchanderとCyreneの息子Aristaeusも、Archanderに同行した。[Diod.4.82.4から推定]
BC1402年、Callistoの子Arcas、Triptolemusの子Croconの娘Meganiraと結婚した。[Apo.3.9.1]
** Meganiraの祖父Triptolemusが、Arcadiaを訪問したことが縁と思われる。
BC1402年、Cilixの娘Thebeは、Ida山近くに住むCybeleの子Corybasへ嫁いだ。[Diod.5.49.3, PsPlut.NRM.13]
BC1401年、Abasは、ArcadiaのPtolis(later Mantineia)のMantineusの娘Aglaiaと結婚した。[Apo.2.2.1]
BC1400年、ProetusとAcrisiusは、AbasとAglaiaとの間の双子の息子として、Argosで誕生した。[Pindaros.418]
BC1400年、Agenorの子Cilixの子Thasusは、Ida山近くのThebeから移住してThasus島に入植した。[Apo.3.1.1, Herod.2.44]
** Tudhaliya年代記に記されているAssuwansの反乱に、Cilixの子Thasusも加わっていたと思われる。
BC1400年、Madduwattaは、AhhiyawaのAttarsiyaに攻撃されて、Tudhaliya Iのもとへ亡命した。[wiki: Madduwatta]
** Madduwattaは、Tudhaliya IからZippaslaとSiyanda River Landの支配者の地位を与えられた。[wiki: Madduwatta]
BC1400年、Macerisは、EgyptのCanopusから地中海の西の外れへ移住して、Heracleia(後のCalpe)を創建した。[Strabo.3.1.7]
BC1400年、Ausonの子Liparusは、兄弟によって、Italy半島から追われて、Sicily島の北東のLipara島へ移住した。[Diod.5.7.5]
** それまで、Lipara島は、Meligunisと呼ばれていた。[Calli.Hym.3.46, Strabo.6.2.10, Pliny.3.93]
BC1395年、CnossusのAsteriusが跡継ぎを残さずに死に、Doriansは、MinosをCnossusに呼び寄せた。[Apo.3.1.3, Diod.4.60.3]
BC1393年、Aeolusの娘Canaceは、ArneからSicyonのSisyphusの子Aloeusへ嫁いだ。[Apo.1.7.4, Paus.2.1.1]
BC1392年、第6代Athens王Erechtheusは、Praxitheaと結婚した。[Apo.3.15.1, Tzetzes.1.170]
** Praxitheaの母Diogeniaの父Cephisusは、Cadmusと共にTanagra周辺に渡来したPhoeniciansの首領と思われる。
** Praxitheaと共へ移住したPhoenicians(Gephyraeans)がPhoenician lettersをAthensにもたらした。
** Gephyraeansは、Mesopotamiaで作られた星座の知識もAthensにもたらしたと思われる。
** ギリシア人が独自に追加した星座のOrionは、Gephyraeansが住んでいたTanagraに縁があった。
BC1392年、Amphictyonの子Itonusは、LocrisからThessalyのPagasetic Gulf西岸へ移住してItonusを創建した。[Paus.9.1.1]
** Hellenの子Aeolusの子Athamas。Hellenの子Dorusの子Deucalionの子Amphictyonの子Itonus
** つまり、Itonusは、Halusを創建した彼の祖父の従兄弟Athamasを頼って、Halusの近くへ移住したと思われる。
BC1391年、Itonusは、Arneに住むAeolusの娘Melanippeを妻に迎えた。[Paus.9.1.1]
BC1391年、Cadmusの娘Autonoeの子Actaeonは、飼い犬に噛まれて死んだ。[Apo.3.4.4, Diod.4.81.3, Paus.10.30.5]
** Actaeonは、Cithaeron山で狩りをしていて死んだ。[Apo.3.4.4, Tzetzes.6.560]
** EuropeのlionはAchelousとNestus両川の間に生息していた。[Herod.7.126, Pliny.8.45]
** Europeのlionは、AfricaやSyriaのlionより強い。[Arist.HA.8.28.5, Pliny.8.45]
BC1391年、Cadmusの娘Autonoeは、息子Actaeonの死を悲しみ、Megaraへ移住した。[Paus.1.44.5]
BC1390年、----- 2回目のAegean Seaの大津波 ------
BC1390年、Pelasgiansは、ThessalyからDeucalionの息子たちに追われて各地へ移住した。[Antiq.1.17.3, Antiq.1.28.3, Diod.5.61.1, FGrH.4.4]
** Deucalionの息子たちにRhodosの子Triopasが加勢し、Dotiumを分け前として与えられた。[Diod.5.61.1]
** Triopasが住んだのは、Scotussaと思われる。[Strabo.7.8.F1]
** Scotussaから神託所はDodonaへ移されたが、聖域は残っていたと思われる。[Strabo.7.8.F1]
BC1390年、Thessalyを追われたPelasgiansの大部分は、Dodona周辺に逃げ込んだ。[Antiq.1.18.2]
BC1390年、Pelasgiansの一部は、Chios島へ移住した。[Strabo.13.3.3]
BC1390年、Pelasgiansの一部は、Italy半島のPadus川河口の南にSpinaを創建した。[Antiq.1.18.3, Just.20.1]
BC1390年、EgyptのCanopusも津波で被災し、Macerisの子Sardusは、Sardinia島への移民団を率いた。[Paus.10.17.2]
BC1390年、PelasgianのDiusは、ThessalyからItonusの妻Melanippeと共にItaly半島南部のMetapontiumへ移住した。[Strabo.6.1.15]
BC1390年、Aeolusの子Athamasは、Pagasetic Gulf西岸のHalusを津波で失い、Boeotiaへ移住した。[Apo.1.9.3, Paus.9.34.7, Strabo.9.5.8]
** Athamasは、Mt. Ptous近くのAcraephniumとCopais湖の間にあるthe Athamantian Plainに住んでいた。[Paus.9.24.1]
** Athamasは、Acraephnium(or Acraephium)を創建し、Athamasの子Ptousは、近くの山に名を残した。[StephByz.A63.10]
BC1390年、Copais湖付近に住んでいたEncheleansは、Illyriaへ移住した。[FGrH.Nr4.F50]
** Encheleansの移住は、内紛が原因で、Cadmusは、Encheleansと共にIllyriaへ移住したと思われる。
** CadmusとEncheleansの定住地は、Epidamnosから北北西へ陸路で3日行程のRizous川の近くであった。[PsScylax.25]
BC1390年、Cadmusは、IllyriaのEncheleansから要請を受けて移住した。[Apo.3.5.4, Apollo.4.507, Paus.9.5.3, Strabo.7.7.8]
** Cadmus 終焉の地は、IllyriaのButoe(or Buthoe, now Budva)であった。[FGrH.Nr790.F32]
** Cadmusの娘AgaveがEchionとの間に産んだ娘Epirusも同行した。[Parthe.32]
BC1390年、Cadmusの子Polydorusは、Thebes王に即位した。[Apo.3.5.5]
BC1390年、Hyrieusの息子たち、NycteusとLycusは、Phlegyasを殺害して、EuboeaからHyriaへ逃亡した。[Apo.3.5.5]
** Euboeaは、Aulis近くのHyriaの古名と思われる。HyriaはCithaeron山麓のHysiaeと思われる。[Strabo.9.2.12]
** つまり、NycteusとLycusは、Aulis近くのHyriaから、Cithaeron山麓へ移住して、Hysiaeを創建した。[FGrH.Nr333.F5]
BC1390年、PolydoreとIphthimeの息子との間の息子Dryopsは、Peneius川近くからSpercheius川近くへ移住した。[FGrH.Nr333.F8]
** Iphthimeには3人の息子たち、Pherespondos、Lycos、Pronomosがいた。[Nonnus.14.105]
** Aristotleは、DryopiansがSpercheius川近くからAsine へ出て来たと述べている。[Strabo.8.6.13]
** Danausの娘Polydoreの子Dryopsは、Dryopiansの始祖であった。[FGrH.Nr333.F8]
** Dryopsの娘DryopeがDorusの後裔Andraemonと結婚していることから、Iphthimeの夫は、Dorianと思われる。
BC1390年、Aeolusの3人の息子たち、Macareus、PerieresとAethliusは、ThessalyのArneからPeloponnesusへ移住した。[Diod.5.81.2-4]
** AeolisはLocrisから西へ居住地域を広げ、さらに、海峡を越えてPeloponnesusへ渡った。
** Aetoliaには、Cadmusに追われたHyantesの一部が既に居住していたため、海峡を渡ったと思われる。[Strabo.10.3.4]
BC1390年、Aeolusの子Macareusは、Olenusの娘と結婚した。[Diod.5.81.4から推定]
BC1390年、Aeolusの子Perieresは、Olenusの娘と結婚した。[Perieresの子PisusとPharaeのPharisの娘Telegoneの結婚から推定]
** PerieresはOlenusの婿となり、彼の息子PisusはOlenusで生まれた。その後、PisusはOlenusから移住してPisaを創建したと思われる。
BC1390年、Aeolusの子Aethlius、ThessalyのArneからEleiaへ移住して、Elisを創建した。[Paus.5.1.3]
** Elisを流れるPeneius川の名前は、Aethliusと共へ移住した人々が名付けたと思われる。[Strabo. 8.3.2]
BC1390年、Sisyphusの子Aeetesは、Ephyraea(後のCorinth)をBunusに預け新天地を求めてColchisへ移住した。[Paus.2.3.10]
** Aeetesは、Cytaという名前であった。[CalliAetia.F7c.5, StephByz.K398.14]
** Medeia(or Medea)は、Cytaeの出身であった。[TzeAdLyco.174]
** Bunusは、Corinthにthe temple of Heraを創建した。[Paus.2.4.7]
** したがって、Bunusの母Alcidameaは、ArgosのHera神殿の巫女であったと思われる。
** (理由) Sisyphusの家系はThessalyのDeucalionの後裔で、Hera信仰に縁が薄いと思われるため。
** SicyonとArgosの戦いの後、Gelanorの子Lamedonの娘と思われるAlcidameaは、Sisyphusの子Almusに嫁がされたと思われる
BC1390年、Archanderの子Belusは、EgyptからCyzicus手前のAesepus川河口付近へ移住した。[Apo.2.1.4, Herod.7.61, Strabo.1.3.21]
** Belusの入植地は、Ethiopiaと呼ばれるようになった。
BC1390年、Lelexの娘Therapneの子Teleboasは、Acarnania西部へ移住した。[Paus.3.19.9]
** Aristotleによれば、Acarnania西部には、LelegesとTeleboansが住んでいた。[Strabo.7.7.2]
BC1390年、Aristaeusは、Ceos島へ移住した。[Apollo.2.528, Diod.4.82.1]
** 移住参加者には、Lycaonの後裔のParrhasians(Arcadia創建時からの主要な部族)がいた。[Apollo.2.528]
** Cyreneの子Aristaeusは、Arcadia王であったという伝承がある。[Just.13.7]
BC1390年、Kupanta-Kuruntaは、 Tudhaliya I(BC1410?-1390)やArnuwanda I(BC1390-80)に敗れた。[wiki: Kupanta-Kurunta]
BC1390年、Kupanta-Kuruntaは、 Madduwattaの本拠地を占領して略奪した。[Yakubovich.98]
BC1390年、Tuthaliya Iは、将軍Piseniを派遣してMadduwattaを復帰させた。[Yakubovich.98]
BC1390年、Thessaly地方のEphyra (後のCrannon)の創建者Crannonの後裔であるLycaonの子Thesprotusは、Dodonaの南西へ移住して、Ephyraを創建した。[StephByz.A84.22から推定]
BC1390年、Messapusは、BoeotiaのHyriaからItaly半島東南部へ移住した。[Pliny.3.99, Strabo.9.2.13, StephByz.M447.12]
** Messapusの名前からMessapiaと呼ばれた。[Pliny.3.99]
** Messapiaの名祖Messapusは、Greek。[Solinus.2.12]
** AD1世紀の博物学者Plinyは、Messapusは、Greek。[Pliny.3.16.1]
** AD3世紀の著述家Antoninus Liberalisは、MessapusをIllyriansにしているが、作り話と思われる。[Antoninus.31]
** MessapiaのHyria と、BoeotiaのHyria近くのMessapius山の名から、MessapusはHyriaのHyrieusの息子と推定される。[Paus.9.22.5]
BC1390年、大津波に襲われたAthensから、Boreasが移民団を率いて、Samothrace島向かいの本土の内陸へ移住した。[Apo.3.15.1, Apollo.1.221, FGrH.Nr2.F30, Paus.1.19.5]
** Boreasは、Hebrus川を遡上し、支流のRheginia川を遡って、移住の適地を見つけた。Rheginia川は、古くは、Erigon川と呼ばれ、Haemon山の麓にあり、Sarpedon岩が近くにあった。[Apollo.1.221, FGrH.Nr333.F145, Strabo.断片.48]
BC1389年、Janus率いるPelasgiansは、ThessalyのPerrhaebiaからReateの東のVelia(Cutilia)へ移住した。[Antiq.1.20.2, Plut.Mor.269a]
BC1389年、Aeolusの子Macareusは、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いてPelasgia(Lesbos)へ移住した。[Antiq.1.18.1, Diod.5.81.2 - 4]
BC1389年、夏、Greece全体に疫病が発生した。[Diod.4.82.2]
BC1389年、Autonoeは、Megaraで死んだ。[Paus.1.44.5]
BC1389年、Cercaphusの3人の息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、Rhodesに彼らの名前に因んだ3つの町を創建した。[Diod.5.57.8, Strabo.14.2.8]
BC1388年、Aeolusの娘Melanippeは、MetapontiumでBoeotusを出産した。[Paus.9.1.1, 7.4, Diod.4.67.4, Diod.19.53]
BC1388年、Triopasは、Demeterの聖地で伐採した木を使って宮殿を建て、先住民によってThessalyから追放された。[Diod.5.61.2]
BC1388年、Erysichthonの子Triopasは、Rhodes島からThessalyを経由して、CariaにTriopium (or Triopia)を創建した。[Diod.5.61.2, FGrH.Nr4.F122, Newton.107, StephByz.T636.1]
** Triopiumは、後のCnidusの外れの岬にあった。[Thucy.8.35]
BC1387年、Deucalionの娘Thyiaは、LocrisからThessalyのArneに住むHippotesの子Aeolusへ嫁いだ。[Apo.1.7.3, Hesiod.CW.F3]
BC1387年、Abasは、Argosで死んだ。[Euseb.157から推定]
** Abasは、23年間統治した。[Euseb.157]
BC1387年、Abasの子Proetusは、Acrisiusを追放し、17年間Argosを支配した。[Euseb.157]
BC1387年、Abasの子Acrisiusは、ArgosからEgyptのChemmisへ亡命した。
** Acrisiusは、亡命中に結婚して、娘Danaeが生まれた。Danaeは、ChemmisでPerseusを産んだ。
** Acrisiusは父Abasの後見人であったArchanderのもとへ亡命したと推定される。
BC1387年、AeolusとStilbeとの間に、息子Lapithesが生まれた。[Diod.5.81.6]
BC1385年、Madduwattaは、AhhiyawaのAttarsiyaと共にAlasiya(Cyprus)を攻撃した。[wiki: Madduwatta]
BC1385年、Sandocusの子Cinyrasは、CiliciaのCelenderisからCyprusの南西海岸へ移住して、Palaepaphosを創建した。[Apo.3.14.3]
BC1385年、Peneiusの娘Triccaの夫は、ThessalyにTriccaを創建した。[Steph.T635.1から推定]
BC1385年、Cauconは、EleusisからMesseniaのAndaniaを訪問し、Messeneに大女神の密儀を伝えた。[Paus.4.26.8]
** Cauconは、Messeneの姉Celaenoの孫であった。
BC1385年、Sancusは、Testrunaへ移住した。[Antiq.1.16.1, Antiq.2.49.2]
BC1385年、Thesprotusの子Ambraxは、EphyraからAmbracia湾の北側へ移住して、Ambraciaを創建した。[StephByz.A84.22]
BC1384年、Aethliusは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
BC1381年、Acrisiusは、Aganippeと結婚した。[Hyginus.63]
BC1381年、Dardanusの娘Idaeaは、Aesepus川河口近くに住むBelusの子Phineusへ嫁いだ。[Apo.3.15.3, Dios.4.43.4]
BC1380年、Belusの子Phineusは、Aesepus川河口近くから黒海南西岸へ移住して、Salmydessusを創建した。[Apo.1.9.21, Apo.2.1.4, Herod.7.61]
BC1380年、Athamasの子Schoeneusは、Thebesの北東にSchoenusを創建した。[Apo.1.9.2, Paus.8.35.10, Strabo.9.2.22]
** Schoenusの創建者をAthamasの子Schoeneusと明示している伝承はない。次のことから、推定される。
** Schoenusの中をSchoenus川が流れていた。[Strabo.9.2.22]
** Schoenus川は、Athamasの子Schoeneusに因んで名付けられた。[StephByz.S596.10]
BC1380年、Aeolusの子Andreusは、ArneからBoeotiaへ移住してAndreis(後のOrchomenus)を創建した。[Paus.9.34.7]
** Aeolusの子Athamasは、Aeolusの子AndreusにOrchomenus付近の土地を割譲した。[Paus.9.34.7]
** << Pausanias説は、逆と思われる >>
** BC1390年、津波で土地を失ったAthamasが、当時移住先として適地であったBoeotiaに定住した。
** 同族のAndreusがAthamasを頼ってArneから移住した。その後、Orchomenusが発展したので、逆の説話が流布されたと思われる。
** Andreusは、Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの息子。
** Athamasは、Hellenの子Aeolusの息子。つまり、Athamasは、Andreusの曾祖父Mimasの兄弟。
BC1380年、Danaeは、Acrisiusの娘として誕生した。[Herod.6.54, Hyginus.63]
BC1380年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharesは、AchaiaのPeirus川中流域にPharaeを創建した。[Paus.7.22.5]
BC1380年、Amphianaxの子Oetylusは、ArcadiaのPtolisからTaenarum岬の北へ移住し、Oetylusを創建した。[Paus.3.25.10]
** LaconiaのOetylosは、英雄Oetylusに因む。[StephByz.O487.15]
BC1380年、IalysusとDotisの娘Symeの子Chthoniusは、Triopasから援助を受けて、Metapontis(後のSyme)島に入植した。[Diod.5.53.1, StephByz.S591.17]
BC1380年、Cadmusの子Polydorusは、成人した息子たちと共にIllyria地方からCadmeiaへ帰還した。[Diod.19.53から推定]
BC1378年、Athamasは、彼の孫娘EuippeをAndreusに妻として与えた。[Paus.9.34.9]
BC1377年、Cadmusの子Polydorusは、Chthoniusの子Nycteusの娘Nycteisと結婚した。[Apo.3.5.5]
BC1375年、Labdacusは、PolydorusとNycteisとの間の息子として誕生した。[Apo.3.5.5]
BC1375年、Proetusは、Sicyonの海岸近くにHera神殿を創建した。[Paus.2.12.2]
BC1375年、Aloeusの子Epopeusは、ThessalyのArneに住んでいた母方の祖父Aeolusの養子になった。[Paus.2.6.1から推定]
BC1375年、Thasusの子Galepsusは、Thasus島対岸にGalepsusを創建した。[FGrH.Nr1.F152, StephByz.G197.11, Suda.gam.38]
BC1375年、Minosの子Asteriosは、ColchisからAeetesの娘Chalciope (or Iophossa, Euenia)の娘を妻に迎えた。[Nonnus.13.222とAeetesの血筋から推定]
** Asteriosの結婚は、Hellespontosを通過する交易を通じて、成立したと思われる。
BC1372年、Aristaeusは、Ceos島からEgyptへ帰り、移民団を率いてSardiniaへ移住した。[Diod.4.82.4, Paus.10.17.3]
BC1372年、AthamasとThemistoとの間の息子Leuconは、病死した。[Paus.9.34.7]
BC1371年、Thersanderの2人の息子たち、CoronusとHaliartusは、Athamasの養子になった。[Paus.9.34.7]
** Athamasは、Thersanderの父Sisyphusの兄弟であった。
BC1370年、Thersanderの子Coronusは、BoeotiaのCopais湖の南西にCoroneiaを創建した。[Paus.9.34.8]
BC1370年、Thersanderの子Haliartusは、CoroneiaからThebes寄りの地にHaliartusを創建した。[Paus.9.34.8]
BC1370年、Cadmusに追われてOnchestus付近にいたHyantesは、Copais湖の北西へ移住した。[Apollo.3.1240, Paus.9.5.1, Paus.10.35.5]
** Hyantesは、CoronusとHaliartusに追われて、移住したと思われる。
BC1370年、Europaの子Minosの子Asteriosは、Colchisへ移住した。[Nonnus.13.222]
** Aeetesの孫たちと周辺部族との戦いに、AsteriosがTroadから義兄弟を助けるために駆け付け、そのままColchisに定住したと思われる。
** AsteriosがChalciopeの息子たちを追放したのであれば、MinosとPasiphaeの結婚やMedeaのCorinth継承はないと思われる。
BC1370年、Phrixusの子Cytissorusは、ColchisからPontus海南岸へ移住してCytorusを創建した。[Strabo.12.3.10, StephByz.K399.12]
** Cytissorusは、Sinopeと結婚する前に、Cytorusを創建したと思われる。
** Cytissorusの移住には、AsteriosのColchis移住が関係するかもしれない。[Nonnus.13.222]
BC1370年、Phrixusの子Presbonは、兄弟Melasと共にColchisから祖父Athamasが住むBoeotiaへ移住した。[Paus.9.34.8]
** Athamasはまだ存命していた。[Paus.9.34.8]
** Presbonは、Athamasが養子であるHaliartusとCoronusに与えた土地以外のAthamasの領地を相続することになった。[Paus.9.34.8]
** Presbon帰還後もColchisとの交流はあったと思われる。
** Colchisへの航海の港は、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusが移住したAnthedonと思われる。[Paus.9.22.6から推定]
BC1370年、Acrisiusは、Proetusを追放し、31年間Argosを支配した。[Euseb.Chron.157]
** Acrisiusは、妻Aganippeと娘DanaeをEgyptに残して、Argosへ帰還したと思われる
BC1370年、Proetusは、ArcadiaのPtolisのAmphianaxのもとへ亡命した。[Apo.2.2.1]
** Amphianaxの父Antimachusの父Aegyptusは、Proetusの父Abasの父Lynceusの父であった。
** つまり、Proetusは、父Abasの従兄弟Amphianaxを頼って亡命した。
BC1370年、Proetusは、Amphianaxの娘Stheneboeaと結婚した。[Apo.2.2.1]
** Homerは、Proetusの妻をAnteiaにしている。[Home.Il.6.144]
** Homerは、CorinthのSisyphusの子Thersanderの子Proetusと混同している。[FGrH.Nr333.F170]
** Amphianaxの2人の娘たち、StheneboeaとAnteiaは、Abasの息子、Thersanderの息子、いずれも同名のProetusと結婚している。
BC1370年、Aeolusの娘Melanippeの子Boeotusは、ItalyからThessalyのArneへ帰還して、祖父Aeolusの跡を継いだ。[Diod.4.67.6]
BC1370年、Aloeusの子Epopeusは、ThessalyのArneからSicyonへ帰還した。[Paus.2.6.1]
BC1370年、Polydorusは、Cadmusの娘Agaveの子Pentheusに殺された。[Nonnus.5.190]
** Labdacusは、当時5歳と推定される。
BC1370年、Pentheusは、Semeleの子Dionysusに殺された。[Tzetzes.6.580]
** 恐らく、Labdacusの後見人Nycteusも関与していたと思われる。
BC1370年、Polydorusの子Labdacusが年少のため、Nycteusが後見人になった。[Paus.2.6.2, Paus.9.5.4]
BC1370年、Macareusの長男は、LesbosからChios島へ入植した。[Diod.5.81.7]
** Macareusの長男は、先住民の娘と結婚して、息子Chiosが生まれた。[Paus.7.4.8から推定]
BC1370年、Aethusaの子Eleutherは、HyriaからCithaeron山を南に越えて移住して、Eleutheraeを創建した。[StephByz.E265.10]
BC1370年、Boreasの娘Cleopatraは、Phineusに嫁いだ。[Apo.1.9.21, Apo.3.15.3, GrAntho.3.4]
BC1370年、Rodosの子Triopasが死ぬとTriopium (後Cnidus)で内紛が起きて、各地への移住が発生した。[Athen.6.262e]
** Triopasの子Phorbasは、Rhodes島のIalysus、Triopasの子Periergusは、Cameirusを占領した。[Athen.6.262e]
BC1370年、Boreasの娘Chioneは、Thraciaに住むEumolpusの子Ceryxのもとへ嫁いだ。[Apo.3.15.4とFGrH.10.13から推定]
BC1370年、Amphictyonの子Aetolusの子Physciusは、LocrisにPhyscusを創建した。[StephByz.Ph675.7]
BC1370年、Danausの娘Phylodameiaの子Pharisは、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くにPharaeを創建した。[Paus.4.30.2]
** Pharisは、兄弟PharesがAchaiaのPeirus川中流域に創建した町と同じ名前を付けた。[Paus.7.22.5]
BC1368年、ProetusはArcadiaから帰還して、Tirynsを占拠した。[Apo.2.2.1]
BC1368年、Proetusは、Argosの東でAcrisiusと戦い、戦死者を出すが勝敗は付かなかった。[Paus.2.25.7]
BC1368年、Proetusは、Acrisiusと和解して、Tiryns、Heraeum、Mideia、およびArgolisの沿海地方を領することになった。[Paus.2.16.2]
** Proetusは、Tirynsに住んでいた。[Paus.2.16.2]
BC1366年、Aetolusの子Physciusは、Corinthに住むProetusの娘Maeraを妻に迎えた。[FGrH.333.170, Paus.10.30.5, Plut.QuestGr.15]
BC1365年、Sisyphusの子Almusは、Orchomenus王Andreusの子Eteoclesから土地を割譲されてAlmonesを創建した。[Paus.9.34.10]
** EteoclesはHellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Andreusの息子。
** Almusは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの息子。
** Almusは、Eteoclesの曾祖父Hippotesの従兄弟であった。
** 恐らく、Almusに土地を分け与えたのは、Athamasであったと思われる。Athamasは、Almusの叔父であった。
BC1365年、Melanippeの子Aeolusは、Sicily島の北東に浮かぶLipara島へ移住して、Liparusの娘Cyaneと結婚した。[Diod.5.7.5-6]
BC1365年、AmphionとZethusは、Hyrieus(or Chthonius)の子Nycteusの娘Antiopeの息子として誕生した。[Apo.3.5.5, Home.Od.11.260]
** Lycusの後見期間と、結婚の年から逆算して推定した。
BC1365年、NycteusがEpopeusとの戦いで負傷して死んだ。[Paus.2.6.2]
BC1365年、Nycteusの弟LycusがLabdacusの後見役を継承した。[Paus.9.5.5]
BC1365年、Macareusの子Cydrolausは、LesbosからSamos島へ移住した。[Diod.5.81.7-8]
BC1365年、Lapithsの始祖、Aeolusの子Lapithesは、ArneからPeneius川北側へ移住した。[Diod.4.69.2]
BC1365年、Boreasの息子たち、ZetesとCalaisは、Peuce島(Hyperboreansの地)へ移住した。[Diod.2.47.6, Hesiod.CW.F40]
** Hyperboreansの王たちや聖域の管理者たちは、Boreadae(Boreasの子孫)であった。[Diod.2.47.6]
** HyperboreansとAtheniansとDeliansには、友好関係があった。[Diod.2.47.2-4]
BC1365年、Teleboansは、Acarnania西部のLeucas半島に入植した。[Strabo.7.7.2]
BC1365年、Hippotesの子Aeolusの子Deion(or Deione or Deioneus)は、Arneから、Phocisへ移住した。[Apo.1.9.4]
BC1364年、Liparusは、Aeolusの援助を得て、Crater湾 (現在のナポリ湾)のAthenaeum岬へ移住した。[Diod.5.7.6]
BC1362年、Danaeは、Pilumnusと結婚した。[ComAugCity.18.13]
** Danaeの夫は、Archanderの子Metanastesの息子と思われる。
** PerseusはChemmisで生まれたことから、Danaeの夫は、Chemmisに住んでいたと思われる。[Diod.4.9.1, Diod.1.24.8, Herod.2.91]
** Metanastesの母Scaeaは、父DanausがEgyptから移住する前に、Chemmisで幼少期を過ごした。[Herod.2.91]
** Perseusの妻Andromedaは、Ethiopiaで生まれた。[Apo.2.4.3, Plin.6.182]
** Ethiopiaの創建者は、Egyptからの移民で、Archanderの子Belusと思われる。[Apo.2.1.4, Herod.7.61, Strabo.1.3.21]
BC1362年、Andreusの子Eteoclesの時代に、Orchomenusに複数の隕石が落下した。[Paus.9.38.1]
BC1362年、Dryopsの娘Dryopeは、Amphissaに住むPhytius (or Oxylus)の子Andraemonへ嫁いだ。[Antoninus.32, Ovid.Meta.9.362]
BC1361年、Lapithesの子Phorbasは、Thessaly地方北部を流れるPeneius川中流域で生まれた。[Diod.4.69.2]
BC1360年、Arcasの子Elatusは、Cyprusの南西部のPalaepaphosに住むCinyrasとMetharmeの間の娘Laogoreと結婚した。[Apo.3.9.1]
BC1360年、Sisyphusの子Aloeusの子Aloeusは、SicyonからAnthedonへ移住した。[Paus.9.22.6]
** AnthedonからThebesへ半分くらいのSchoenusは、Athamasの子Schoenusが創建した町。Schoenusは、Aloeusの父の従兄弟であった。
** Aloeusの父の兄弟であるSisyphusの子AeetesはColchisへ移住した。Anthedonは、Colchisへ向けての航海に適した位置にあった。
BC1360年、Almusの娘Chryseの子Phlegyasは、Phlegyasを創建した。彼は、Phlegyansと呼ばれる戦士をその町に集めた。[Paus.9.36.2]
** Phlegyasは、near the Cephisian lakeに住んでいた。[Hymns.3.277]
** PhlegyesはThebesの近くに住んでいた。[FGrH.Nr333.F41]
BC1360年、Perseusは、DanaeとPilumnusの息子として、EgyptのChemmisで生まれた。[Diod.4.9.1, Diod.1.24.8, Herod.2.91]
BC1360年、Erechtheusの子Pandorusは、Euboeaへ渡って、Chalcisを創建した。[Ps-Scym.566]
BC1357年、Acrisiusは、Lacedaemonの娘Eurydiceと結婚した。[Apo.3.10.3, Paus.3.13.8]
BC1357年、Labdacusは成人して、Lycusの後見は解除された。[Paus.9.5.5]
BC1356年、Ozolian LocrisのAmphissaに住むPhytiusの子Oineusは、Lesbos島からMacarの娘Amphissaを妻に迎えた。[Athen.35b, Diod.5.81.4, Paus.10.38.4]
** Oineusの祖父Orestheusは、Amphissaの祖母Protogeniaの兄弟であった。つまり、Oineusは、Amphissaの又従兄であった。
** Amphissaの名前は、Aeolusの子Macarの娘Amphissaに因む。[Paus.10.38.4]
** タコが陸と海の両方に住んでいるので、Amphissaと名付けた。[TzeAdLyco.1073]
** 周りを丘に囲まれた場所にあったため、Amphissaと名付けた。[Suda.al.1761]
BC1355年、Danaeは、息子Daunusを産んだ。[Dic: Daunus]
BC1355年、Azanの子Cleitorは、Arcadia北部にCleitorを創建した。[Paus.8.4.5]
BC1354年、Epopeusの娘Harpina (or Harpine)は、ArcadiaのHeraeaに住むAlxionに嫁いだ。[Diod.4.73.1, Paus.5.1.6]
BC1352年、Eumolpusの子Immaradusは、AthensのErechtheusと戦い、両者とも戦死した。[Paus.1.38.3]
** Eleusisの祭儀は、EumolpusとCeleusの娘たちが継承し、その後、Chioneの子Eumolpusが継承した。[Paus.1.38.3]
BC1352年、Scirusは、DodonaからEleusisの応援に駆け付けて戦死した。[Paus.1.36.4]
BC1352年、Chioneの子Eumolpusは、ThraciaからEleusisの応援に駆け付けた。[Paus.1.27.4とPaus.1.38.2から推定]
** Thracian EumolpusがAtticaを侵略した。[IsoPane.1, IsoPana.193, FGrH.Nr10.F13]
** Chioneの子EumolpusがThraciansを率いて、Atticaに駆け付けた。[Apo.3.15.4, LycLeok.98]
** Athens側には、Hellenの子Xuthusの子Ionの息子たちの後裔からの求めで、同族のSicyonやCorinthから応援に駆け付けたと思われる
** SicyonとCorinthからは、Hellenの子Aeolusの子Sisyphusの子Aloeusの子Epopeusの子Marathonが参加したと思われる。[Paus.2.1.1]
** Marathonは、この戦いへの応援で、Erechtheusの娘との結婚が成立したと思われる。[Newton.173]
BC1352年、Erechtheusの子Cecropsが第7代Athens王に即位した。[Paus.1.5.3]
BC1351年、Lacedaemonの子Amyclasは、Spartaから南へ約4km離れた、Eurotas川の右岸へ移住して、Amyclaeを創建した。[Paus.3.1.3]
BC1351年、Lacedaemonの子Amyclasは、Lapithesの娘Diomedeと結婚した。[Apo.3.10.3]
** Amyclasの姉妹Eurydiceは、ArgosのAcrisiusの妻であり、AmyclasとAcrisiusは義兄弟であった。[Apo.3.10.3, Paus.3.13.8]
** Acrisiusが隣保同盟を組織化したときに、ThessalyのLapithesと知合い、義理の弟の縁組みを仲介したものと思われる。[Strabo.9.3.7]
** Diomedeと共にThessalyから移住したAeolisが初めてLacedaemonに居住した。
BC1351年、Itonusの娘Cromiaは、ThessalyのItonusからEleiaのElisに住むAethliusの子Endymionのもとへ嫁いだ。[Paus.5.1.4]
BC1350年、Immaradusの父Eumolpusが死に、Immaradusの兄弟CeryxがThraciaからEleusisへ移住して祭儀を継承した。[Paus.1.38.3]
BC1350年、Epopeusの子Marathonは、父の横暴に耐えかねてSicyonからAtticaの海沿いの町へ移住した。[Paus.2.1.1]
BC1350年、Epopeusの子Marathonは、第6代Athens王Erechtheusの娘と結婚した。[Newton.Chro.173]
BC1350年、Orchomenusの子Aspledonは、BoeotiaのCopais湖の北西にAspledonを創建した。[Paus.9.38.9, Strabo.9.2.41]
BC1350年、Chrysogeneiaの子Chrysesは、Copais湖西側のAcontius山の近くに新しい町(後のOrchomenus)を建設した。[Strabo.9.2.42]
BC1350年、Boeotiaに住むPhlegyansがDelpiを荒らした。[Paus.9.36.2]
BC1350年、AcrisiusはAmphictyonsを組織化した。[Strabo.9.3.7]
** Achaiansが多く住むようになったArgosのAcrisiusは、LocrisやPhocisからの求めで、Phlegyansと戦うために組織化したと思われる。
** Dorusの子Deucalionの子Amphictyon が最初に結集した種族 - Ionians, Dolopes, Thessalians, Aenianians, Magnesians, Malians, Phthiotians, Dorians, Phocians, Locrians who border on Phocis, living at the bottom of Mount Cnemis. [Paus.10.8.2]
** Ionians, Dolopes, Aenianians, Magnesians, Molians, Phthiotians, Dorians, Phocians, Perrhaiboi, Boiotians, Achaians, Delphians [Suda.Alpha.1736]
** Thessalians, Boeotians, Dorians, Ionians, Perrhaebi, Magnetes, Dolopians, Locrians, Oitaeans, Phthiotians, Malians, Phocians [Aeschines.116]
BC1350年、ArgosのPhilammonは、Delhpiを荒らしたPhlegyansとの戦いで戦死した。[Paus.9.36.2]
** Philammonは、Argosの精鋭を率いていたことから、Acrisiusの息子と思われる。[Paus.9.36.2]
BC1350年、Arcasの子Elatusは、Arcadiansを率いてPhlegyansを撃退した。[Paus.8.4.4, Paus.10.34.2]
BC1350年、Arcasの子Elatusは、PhocisにElateiaを創建した。[Paus.8.4.4]
BC1350年、Aeolusの子Macedonは、ArneからOlympus山近くへ移住した。[Hesiod.CW.F3, Strabo.7.8.2]
BC1350年、Haliartusの子Hippomenesは、HaliartusからThebes寄りへ移住して、Oncestusを創建した。[Paus.9.26.5]
BC1350年、Aeolusの子Magnesは、兄弟Macedonと共に、ArneからOlympus山近くへ移住した。[Apo.1.7.3, Paus.6.21.11, Hesiod.Women.3]
BC1350年、Aeolusの子Cretheusは、ArneからPagasetic Gulf北岸へ移住して、Iolcusを創建した。[Apo.1.9.11]
BC1350年、Phineusの子Bithynusは、SalmydessusからBithyniaへ移住した。[FGrH.156.77a]
BC1350年、Phineusの子Thynusは、SalmydessusからPhrygiaへ移住した。[Strabo.7.3.2]
BC1350年、Phineusの子Mariandynusは、Salmydessusから後のHeracleiaへ移住した。[Strabo.7.3.2]
BC1350年、Phineusの子Paphlagon(or Paphlagonus)は、SalmydessusからPaphlagoniaのCytorumへ移住した。[Eustath.ad.Hom.Il.2.851, StephByz.P513.5]
BC1350年、Cytissorusは、Cytorusの東側にSinopeを創建した。[Strabo.12.3.10から推定]
BC1350年、Sinopeは、Cytissorusと結婚して、黒海南岸のSinopeへ移住した。[Diod.4.72.2, DionyGuide.77, Plut.Lucu.23から推定]
** Cytissorusは、Sinopeと一緒に移住希望者を連れて、町を建設したと思われる。
BC1350年、Arasが町(後のPhlius)を創建した。[Paus.2.14.1]
BC1349年、Acrisiusは、後継者がいなくなったため、Egyptに住むDanaeの子PerseusをArgosへ連れ帰った。[Plut.Mor.106aから推定]
BC1348年、Proetusは、LyciaからCyclopesを招きTirynsの城壁を強化した。[Apo.2.2.1, Paus.2.16.5, Paus.2.25.8, Strabo.8.6.11]
** Cyclopesは7人で、Nauplia近くの洞窟を住んでいた。[Strabo.8.6.2, Strabo.8.6.11]
BC1345年、AmphionとZethusは、Thespiae近くへ移住して、Eutresisを創建した。[Strabo.9.2.28]
BC1345年、Perieresの子Pisusは、OlenusからAlpheius川の近くへ移住してPisaを創建した。[Paus.6.22.2]
BC1345年、Cardysの子Clymenusは、CreteのCydoniaからOlympiaへ移住した。[Paus.5.8.1, Strabo.8.3.30]
** Deucalionの時代の大洪水から、約50年後であった。[Paus.5.8.1]
BC1345年、Phineusの息子たち、Clytius、Polymedes (or Plexippus, Pandion)は、SalmydessusからTauric Chersoneseへ移住した。[Diod.4.44.7]
BC1345年、Ancaeusの孫Anaxは、Maeander川の近く(後のMiletus)へ移住して、Anactoriaを創建した。[Paus.7.2.5, Pliny.5.31.1]
BC1344年、Cardysの子Clymenusは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.1]
BC1344年、Aethliusの子Endymionは、Cardysの子ClymenusをOlympiaから追放した。[Paus.5.8.1]
** Clymenusは、Idaean Heraclesの孫であった。[Newton.156]
** Clymenusの移住先は、Troad地方のIda山近くと思われる。[Strabo.12.8.21などから推定]
BC1344年、Arzawa王Anzapahhaduは、Tuthaliya IIIの将Himuili率いるHittite軍を破った。[wiki: Anzapahhadu]
BC1344年、Arzawa王Anzapahhaduは、Suppiluliuma I率いるHittite軍と戦って、全滅した。[wiki: Anzapahhadu]
BC1343年、Perseusは、祖父の兄弟Proetusを殺した。[Hyginus.244]
BC1343年、Perseusは、Seriphus島へ逃れて、Dictysと妻Clymeneの庇護を受けた。[Apo.2.4.1, Hyginus.63]
** Dictysと妻Clymeneは、Perseusの救済者で、Athensに両者の祭壇がある。ClymeneはAthensに縁があると思われる。[Paus.2.18.1]
** PolydectesとDictysをMagnesの息子たちとする説。[Apo.1.9.6, Hesiod.CW.F3]
Hellenの子Aeolusの子Mimasの子Hippotesの子Aeolusの子Magnesの子Dictys。
Hellenの子Xuthusの子Achaeusの子Archanderの子Metanastesの子Pilumnusの子Perseus。
** PolydectesとDictysをPeristhenesの息子たちとする説。[FGrH.Nr333.F4]
Danausの娘Amymoneの子Naupliusの子Damastorの子Peristhenesの子Dictys。
Danausの娘Hypermnestraの子Abasの子Acrisiusの娘Danaeの子Perseus。
** 両説とも、PolydectesとDictys兄弟の名前はあるが、Seriphusとの関係は明記されていない。
** 前者の説では、Perseusとの関係が薄く、ThessalyのMagnesiaからSeriphus島までの距離も遠い。
** 後者の説では、Abasと従兄弟のNaupliusは、住んでいる町も近く、親戚付き合いがあったと思われる。NaupliaからSeriphusまでも近い。
** したがって、Seriphus島のPolydectesとDictys兄弟は、Danausの娘Amymoneの子Naupliusの曾孫と思われる
** Seriphus島は、ArgosとCrete、Egyptを結ぶ航路の補給基地であったと思われる
** Seriphus島は、Dictys兄弟が入植する前から、Danausの娘Amymoneの子Naupliusが創建した、Tiryns近くのNaupliaの住人が漁や交易で利用していたと思われる。Naupliusの父は、Danausと共に渡来した者であった。[Paus.4.35.2]
BC1342年、Perseusは、EthiopiaのCepheusの娘Andromedaと結婚した。[Apo.2.4.3]
** Adrasteiaに住んでいたTantalusと、Ethiopia(Adrasteiaの一部)に住んでいたPerseusとは面識があったと思われる。
** 後の、Perseusの息子たちとTantalusの子Pelopsの娘たちとの結婚は、この当時の縁であったと思われる。
BC1341年、Danaeは、Egyptから植民団を率いてSardinia島へ向かう途中、強風に流され、Italy半島西部海岸に漂着した。[Virg.Aene.7.409]
** Sardinia島へは、(BC1390年)Macerisの子Sardusに、(BC1372年)Archanderの子Aristaeusが、Egyptから植民団を率いている。
** 第18王朝の第10代pharaoh Akhenaten [c. 1353–1336 or 1351–1334 BC]の治世12年目に疫病が蔓延した。[wiki: Akhenaten]
BC1341年、Danaeは、Romeの南東30kmの所にArdeaを創建した。[Pliny.3.56, Virg.Aene.7.409, Solinus.2.5]
** Danaeの植民団には、ArgosからEgyptへ移住したAchaeansやPelasgiansが含まれていたものと思われる。
BC1341年、Tantalusは、TroyのTrosの娘Eurythemisteと結婚した。[FGrH.Nr333.F40, Euri.Scho.Or.11.1から推定]
** Euripidesの「Orestes」の古註は、Pelopsの母Eurythemisteの父はXanthusだと記している。
** Xanthusは、Ilium近くを流れるScamanderの古名であり、河神の意味で、当時のTroy王Trosであったと思われる。
BC1341年、Persesは、PerseusとAndromedaの長男として誕生した。
BC1340年、Electryonは、PerseusとAndromedaの息子として誕生した。
BC1340年、Aethexの子Faunusは、Aboriginesと共にTrasimene湖北のCrotonからUmbriansを追い払った。[Antiq.1.20.4, Ita.5.1]
** Faunusの子ArnusはThessalyから移住したPelasgiansの後裔であった。[Herod.1.57]
BC1340年、Orchomenusの子Aspledonは、Orchomenusから南西へ約10kmの所に母の名前に因んだMideiaを創建した。[Paus.9.39.1]
** Aspledonの再移住は、Hyantesとの戦いが原因と推定される。
BC1340年、Lapithesの子Lesbosは、Thessalyから植民団を率いてLesbosへ移住し、Macareusの娘Methymaと結婚した。[Diod.5.81.6]
BC1340年、LesbosのMacareusは、彼の息子NeandrusをCos島へ移住させた。[Diod.5.81.8]
BC1340年、LesbosのMacareusは、彼の息子LeucippusをRhodesへ移住させた。[Diod.5.81.8]
BC1340年、Hippocoonは、Crannonの近くにPylus (Phyllus[Strabo.9.5.14])を創建した。[Apo.1.9.11から推定]
** Hippocoonは、Deucalionの子Pronousの子Hellenの子と思われる。
BC1340年、Melanippeの子Aeolusの子Iocastus (or Jocastus)は、Rhegiumを創建した。[TzeAdLyco.46, Heraclides.55]
BC1340年、Melanippeの子Aeolusの子Agathyrnusは、Sicily島北部にAgathyrnusを創建した。[Diod.5.8.2]
BC1340年、Peristhenesの2人の息子たち、DictysとPolydectesは、NaupliaからSeriphus島へ移住した。[FGrH.Nr333.F4から推定]
BC1340年、Andraemonの子Amphissusは、AmphissaからOeta山近くへ移住して、Oetaを創建した。[Antoninus.32]
** Oetaの建設には、Spercheius川近くに住んでいたDryopiansが参加した。
BC1339年、Acrisiusは、Argosで死去して、ArgosのAcropolisであるLarisaに埋葬された。[Cleme.Exho.3]
** Larisaの中で、最も古いのがArgosのLarisaで、これはAcropolisにほかならない。[FGrH.Nr4.F91]
BC1339年、Proetusの子Megapenthesは、TirynsからArgosに居を変えた。[推定]
** Megapenthesは、Abasの直系であり、傍系のPerseusよりもArgosの住民は歓迎したものと思われる。
** Megapenthesと共に、Tirynsなどの住民もArgosへ移住したと思われる。
BC1338年、Laiusは、Labdacusの息子としてThebesで生まれた。[Apo.3.5.5]
BC1338年、Salmoneusの娘Tyroは、ThessalyのArneの近くのPylusに住むHippocoonに嫁いだ。[Apo.1.9.11, Hyginus.10]
** Salmoneusは、Enipeus川を挟んでPylusの対岸に住んでいたと思われる。
** TyroはEnipeus河神(Hippocoon)に恋した。[Apo.1.9.8, Home.Od.11.235, Strabo.8.3.32]
BC1337年、Labdacusは、Thebesで死んだ。[Apo.3.5.5]
** Labdacusは、父方の従兄弟Pentheusと同じような考えを持っていたので狂乱女たちに殺された。[Apo.3.5.5]
BC1337年、Labdacusの子Laiusは、1歳であったので、祖父Nycteusの兄弟Lycusが2度目の後見になった。[Apo.3.5.5、Paus.9.5.6]
BC1336年、Asteriosの娘Perseisは、Tauric Chersoneseに住むPhineusの息子と結婚した。[Apo.3.1.2, Diod.4.44.7]
BC1335年、Salmoneusは、ThessalyからEleiaへ移住して、Salmoneを創建した。[Strabo.8.3.32, Apo.1.9.7]
** Salmoneusは、異母兄弟Aethliusが創建したElisの近くへ移住した。
BC1335年、Andraemonの子Amphissusは、Oeta山近くに、Oetaを創建した。[Antoninus.32]
BC1335年、Anaxは、Maeander川の河口近くに、Anactoriaを創建した。[Paus.7.2.5]
** Anaxは、Lelegesの王Ancaeusの息子の息子と思われる。[Miletusにいたことから推定]
BC1335年、Cytissorusは、Cytorusの東側にSinopeを創建した。[Strabo.12.3.10から推定]
BC1335年、Harpinaの子Oenomausは、Acrisiusの娘Evareteと結婚した。[Hyginus.84]
BC1335年、Pandorusの子Diusは、EuboeaのChalcisから北西へ移住して、Dion(Dium, Dios)を創建した。[wiki:Dius, SchoOnHomeIl.2.538]
BC1335年、Antiopeの子Zethusは、LocrisからPhysciusの娘Thebeを妻に迎えた。[Apo.3.5.6]
BC1332年、Perseusは、Peloponnesusへ帰国し、Tirynsを占拠した。[推定]
BC1332年、Antiopeの子Amphionは、Tantalusの娘Niobeと結婚した。[Apo.3.5.6, Paus.9.5.7]
** 出会いの場は、Thebesの西約5kmのCabeiriの神域と思われる。そこから南西約7kmの所にAmphionが住むEutresisがあった。
** SamothraceからGreeceに伝播したCabeiriには、Niobeの父祖が信奉するCybele信仰も含まれていた。
** Tantalusの子Broteasは、神々の母の一番古い神像を作った。[Paus.3.22.4]
** Tantalusは、Paphlagoniaに住んでいた。[Diod.4.74.1]
BC1332年、EthiopiaのBenthesicymeの娘Daeiraは、Thraciaに住むChioneの子Eumolpusのもとへ嫁いだ。[Apo.3.15.4, Euseb.Pra.2.6]
BC1332年、Ascraの子Oeoclusは、OtusとEphialtesと共にBoeotiaのAsopus川源流付近にAscraを創建した。[Paus.9.29.1]
** Sicyonに住むAloeusの息子たち、OtusとEphialtesがAscra創建に協力したのは、両者の間につぎのような関係があったからと思われる。
** AscraはSisyphusの子Aloeusの娘で、夫はSisyphusの子Thersanderの子Haliartusで、従兄妹同士の結婚と思われる。
** Ascraの子OeoclusとAloeusの息子たちとは、Sisyphusの子Aloeusを共通の祖父とする従兄弟と思われる。
BC1332年、Physciusの娘Thebeは、Boeotia地方のEutresisに住むEleutherの子Zethusに嫁いだ。[Apo.3.5.6, Paus.9.8.4]
BC1331年、Lapithesの子Periphasは、Peneiusの子Hypseusの娘Astyaguiaと結婚して、8人の息子が生まれた。[Diod.4.69.3]
BC1330年、Ilusは、Wilusa王の娘と結婚した。[wiki: Kukunni(ウクライナ語、ロシア語)]
** Kukkunni(Ilusの義父)は、Alaksandu(Laomedon)の祖先であり、おそらく女系である。[wiki: Kukunni(ウクライナ語、ロシア語)]
BC1330年、Perieresの子Pisusは、Olenus近くのPharaeからPharisの娘Telegoneを妻に迎えた。[Greeceの河神に記述]
BC1330年、Alxionの子Oenomausは、ArcadiaのHeraeaからEleiaへ移住して、Harpinaを創建した。[Paus.6.21.8]
BC1330年、Lycaonの子Cauconの後裔、PhrixusとMakistus兄弟は、Eleia南部に、PhrixaとMakistosを創建した。[StephByz.M428.11]
BC1330年、Aeolusの子Magnesの子Glaphyrusは、ThessalyのBoebeis湖の近くにGlaphyraeを創建した。[StephByz.G209.3]
BC1330年、PerseusはMycenaeを創建して、堅固な城壁で囲んだ。[Paus.2.15.4, Paus.7.25.6]
** PerseusはMideaも創建した。[TzeAdLyco.838]
** PerseusはMideaも城壁で囲んだ。[Apo.2.4.5]
BC1330年、Naxos(Strongyle)島のThracians、Euboeaを襲撃したが撃退された。[Diod.5.50.4]
** Euboeaは島ではなく、Hyriaと思われる。その後、近くのAnthedonからAloeusの妻と娘が拉致されている。[Diod.5.50.6]
BC1330年、Naxos島のThraciansは、ThessayのDrius(位置不明)を襲撃した。[Diod.5.50.4]
BC1330年、BoeotiaのAnthedonのAloeusの妻Iphimedeiaと娘Pancratisは、Thraciansに拉致されてNaxos島へ連れ去られた。[Diod.5.50.6]
** Aloeusは、AitoliaにAlusを創建したという伝承もあるが、創作と思われる。[Hesiod.CW.F6]
** Aloeus の息子たち、OtusとEphialtes の墓がAnthedonにあった。[Paus.9.22.6]
BC1330年、OtusとEphialtesは、Naxos島のThraciansを打ち負かした。[Diod.5.50.6]
** Strongyleと呼ばれていた島の名前をDiaに変更した。[Diod.5.51.2, Pliny.4.67]
** PhliusやSicyonで大事に祀られているDia(Hebe ~ Argosで崇拝される女神Heraの娘)を島名にしたと思われる。[Strabo.8.6.24]
** Naxos島は、豊かなブドウ畑の故にDionysiasと呼ばれた。[Pliny.4.67]
BC1329年、Endymionは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.1.4]
BC1328年、OtusとEphialtesは、Muses女神を3柱 Melete (Practice), Mneme (Memory) and Aoede (Song)と見なした。[Paus.9.29.2]
BC1327年、Ilusは、Wilusaの王位を継承した。[wiki: Kukunni(ウクライナ語、ロシア語)]
** Ilusは、Hittiteの属国Wilusa王の娘を妻にしたと推定される。武力による王位簒奪であれば、Hittiteとの戦いになっていたと思われる。
** IlusのWilusa王継承は平和的なもので、Ilusは、Wilusaの住人と共住したと思われる。
** WilusaとHittiteとは、Hattusili I (BC1650-20)の時代から親交があった。[wiki: Alaksandu]
** WilusaのKukkunniは、Suppiluliuma I (BC1344-22)に対するArzawaの反抗に参加しなかった。
BC1326年、Endymionの子Aetolusは、Phorbas(Phorbus)の娘Pronoe (or Astynome)と結婚した。[Apo.1.7.7]
** PhorbasがThessalyに住んでいた頃で、Hippotesの子Aeolusを共通の先祖とする同族の結婚であった。
BC1326年、ZethusとAmphionは、Thebesを攻めたが、Lycusに撃退されて、Locrisに亡命した。[FGrH.Nr333.F170とPaus.9.5.6から推定]
** ZethusとAmphionは、Thespiae近くのEutresisに住んでいた。[Strabo.9.2.28]
** Locrisには、Zethusの妻Thebeの父Physciusがいた。[Apo.3.5.6]
BC1325年、ZethusとAmphionが軍勢を集めてThebesを攻めて、Lycusと交戦した。[Diod.19.53, Paus.9.5.6]
BC1325年、Lycusは、ZethusとAmphionによって殺害された。[Apo.3.5.5]
** Lycusは、後見20年目であった。1回目~8年(BC1365-57)、2回目~12年(BC1337-25)
** Thebeの兄弟Locrusは、義兄弟Zethusに加勢した。[FGrH.Nr333.F170]
** ThessalyのArneに住むBoeotusの子Itonusも加勢したと思われる。
** Itonusは、Locrusの父Physciusの父Aetolusの兄弟Itonusの妻Melanippeの子Boeotusの息子であり、Itonusは、Locrusのまたいとこであった。
** この戦いへの参加が端緒となって、Boeotusの子ItonusがBoeotiaへ移住したと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Amphionは、LaiusをThebesから追放した。[Apo.3.5.5] Laiusは、密かにThebesから逃れた。[Paus.9.5.6]
** しかし、後にLaiusはPelopsのもとへ亡命しているので、Pelopsの姉妹Niobeの夫AmphionとLaiusの間には敵対関係はなかった。
** Laiusは、そのままThebesにいて、AmphionはLaiusの後見人になったと推定される。
** LaiusはAmphionの母Antiopeの姉Nycteisの息子Labdacusの息子であった。つまり、LaiusはAmphionの母方の従兄弟の息子であった。[Aelian.13.5, Athen.603a, Plut.Mor.313e]
** Amphionは、Laiusの父Labdacusの母Nycteisの妹Antiopeの息子であった。
BC1325年、ArneのBoeotusの子Itonusは、Boeotiaへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Itonusの居住地は、最初はLake Copaisに沈んだArne、そこから、近くのCoroneiaへ移り住んだと思われる。
** Itonian Athenaが、ThessalyのArneの近くと、BoeotiaのCoroneia周辺にあった。[Strabo.9.5.17, Paus.3.9.13, Paus.9.34.1, Paus.9.34.5, Strabo.9.2.29]
** LelegesもLocrisからBoeotiaへ移住した。[Strabo.7.7.2]
BC1325年、Meliaの子Tenerusは、Ptous山に神託所を開設した。[Paus.9.26.1, Strabo.9.2.34]
** Ptous山の神託所は、BC335年、Alexander the GreatがThebesを破壊するまで続いた。[LeakeN.2.279]
BC1325年、Deionの子Phylacusは、PhocisからThessalyへ移住し、Pagasetic Gulfの北西にPhylaceを創建した。[Apo.1.9.12]
BC1325年、Tantalusは、Ilusに追われてLydiaのSipylus山へ移住した。[Diod.4.74.4]
** Tantalusは、ElisのEndymionによってOlympiaから追放されたCardysの子Clymenusの息子と思われる。[Paus.5.8.1]
** Tantalusの領地は、Adrastusに与えられて、Adrasteiaと呼ばれるようになった。[Strabo.13.1.13]
** Adrastusは、Ilusの妻Eurydiceの父であった。[Apo.3.12.3, FGH.Nr4.F24c]
** TantalusはPhrygia地方のSangarius川の源流付近にあるPessinusへ逃れた。[Diod.10.Fr.Incerta.3]
** Pessinusは、Ida山付近から約370km。Tantalusが領土内の種蒔きをするのに10日の旅を必要だと言われていた。[Strabo.12.8.21]
** Tantalusは、Gordium近くのPessinusまで支配していたと思われる。
BC1325年、Perseusは、Mideaを創建した。[TzeAdLyco.838]
** PerseusはMideaも城壁で囲んだ。[Apo.2.4.5]
** 後に、Perseusの子Electryonが、妻Mideaの名前に因んで、Mideaと名付けた。[Apo.2.4.5]
BC1324年、AmphionとZethusは、Cadmeiaの下方に城壁を備えた市を創建した。[Home.Od.11.253, Paus.9.5.7]
** 城壁は、近くに住む横暴なPhlegyesから町を守るためであった。[FGrH.Nr333.F41]
** 7つの門の名前は、Amphionの娘たち、Thera, Cleodoxe, Astynome, Astycratia, Chias, Ogygia, Chlorisに因む。[Hyginus.69]
** 最初は、12の門があった。[MalaChro.2.49]
BC1324年、AmphionとZethusは、Cadmeiaの下方に創建した町の名前をThebesと定めた。[Paus.9.5.6]
** Cadmeiaは、Zethusの妻Thebeの名前に因んで、Thebesと呼ばれるようになった。[Paus.2.5.2]
** AmphionとZethusの父の名前に因んで、Thebesと名づけられた。[MalaChro.2.49]
BC1324年、Endymionの子Epeiusは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
BC1323年、Seha River Land王Muwa-Walwisが死に、Manapa-Tarhuntaが跡を継いだ。[CTH 61, II.2B iv: 14]
** Manapa-Tarhuntaは、Muwa-Walwisの息子であった。[CTH 61, II.2B iv: 14]
** Muwa-Walwisの息子たちは、Manapa-Tarhuntaを追放した。[CTH 61, II.2B iv: 14]
** Manapa-Tarhuntaは、Karkiya(Caria)へ逃れた。[CTH 61, II.2B iv: 14]
BC1322年、Mursili IIは、KarkiyaへManapa-Tarhuntaの亡命を受け入れるよう手紙を送った。[CTH 61, II.2B iv: 14]
** Mursili II(BC1321-1295)が即位する前と思われる。
BC1322年、Sehaの住人が反乱を起こして、Manapa-TarhuntaをKarkiyaから呼び戻した。[wiki: Manapa-Tarhunta]
BC1322年、Tantalus (Uhha-Ziti)は、Arzawa王Tarhuntaraduの跡を継いだMaskhuiluwaを追放した。[wiki: Maskhuiluwa]
** Maskhuiluwaは、Hittite王Suppiluliuma I[BC1344-22]のもとへ亡命し、彼の娘Muwattiと結婚した。[wiki : Maskhuiluwa]
** Suppiluliuma IもArnuwanda IIも疫病で死んでおり、すぐにArzawaへの軍を起こせなかったと思われる。
** Uhha-Zitiは、SehaのManapa-Tarhuntaにも反乱に参加するよう説得した。[wiki: Manapa-Tarhunta]
BC1322年、Zethusは、彼の息子NeisがThebeの過失で死に、悲嘆のあまり死んだ。[Paus.9.5.9]
BC1322年、Perseusは、Persesへ援軍として、息子ElectryonをEthiopiaへ派遣した。[推定]
** その後、Electryonは、PhrygianのMideiaを妻にして、多くの息子たちが生まれた。[Apo.2.4.5]
BC1321年、Epopeusが死去。Epopeusの子Marathonは、AtticaからSicyonへ帰還した。[Paus.2.1.1]
** Marathonは、SicyonにAsopia(後のSicyon)、CorinthusにEphyraea(後のCorinth)を分け与えた。[Paus.2.1.1]
BC1321年、Arnuwanda II(BC1322-21)が死に、Mursili II(BC1321-1295)が跡を継いだ。[wiki: Manapa-Tarhunta]
BC1320年、Trosの子Ilusは、Mysia of Olympeneに進出し、BebrycesのByzosと戦って、勢力を拡大した。[Photios.186.12, Strabo. 12.3.3, 14.5.23, Plin.5.127]
BC1320年、Lapithes (or Lapithus)の子Phorbasは、Rhodesの住民から招かれて、Thessalyから島へ移住した。[Diod.5.58.5]
** Rhodesへ招いたのは、Macareusの子Leucippusと思われる。彼とPhorbasは、Hippotesの子Aeolusを祖父とする従兄弟であった。
BC1320年、Salmoneusは、ElisのEndymionの子Aetolusを追放した。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33]
BC1320年、Aetolusは、ElisからAetoliaへ移住した。[Apo.1.7.6]
** Aetolusの移住先は「Curetian country」、つまり、後のPleuronであった。[Apo.1.7.6, Strabo.10.2.5]
** Aetolusの移住先は、Achelous川とEuenus川の間の、Curium山麓の土地であった。
** Aetolusは、Aetoliaに住んだ最初のGreeksであった。AetolusがAetoliansの名祖となった。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33, Strabo.10.3.4]
BC1320年、Endymionの子Paeonは、Paeoniaへ移住した。[Paus.5.1.5]
** PaeonもAetolusと同じく、Salmoneusによって、Elisから追い出されたと思われる。
BC1320年、Amphion一家が悪疫のために、死に絶えた。[Apo.3.5.6, Paus.9.5.9]
** Amphionの息子Amyclasと娘Meliboea(Chloris)は、助かった。[Apo.3.5.6]
** Chlorisには兄弟姉妹が多く、彼女は最年長であった。[Apo.3.5.6]
** Chlorisは、Pelopsの結婚当時も、未婚であった。[Paus.5.16.4]
BC1320年、Labdacusの子Laiusは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.10]
BC1320年、Erechtheusの子Cecropsは、Euboeaへ移住した。[Paus.1.5.3]
** 支配者が、突然「移住した」という場合、「追放された」であることが時々ある。
** Lynceusの子AbasによるArgosからPhocisへの移住。[Paus.10.35.1]
** Melampusの子AbasによるArgosからThessalyへの移住。[Strabo.9.5.5]
** BC1360年、Cecropsの兄弟Pandorusは、Euboeaへ渡って、Chalcisを創建していた。[Ps-Scym.566]
BC1320年、Pandionの兄弟と思われるCychreusとScyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)もそれぞれ、Salamis島とScyros島へ移住した。[推定]
** Pandionは、Scyrius(or Sciron, Chiron, Scirus)と共にScyros島へ移住した。[推定]
BC1320年、Amyclasの子Acriasは、Laconia湾岸にAcriaeを創建した。[Paus.6.21.10]
BC1320年、Linusは、AmphimarusとOuraniaの息子として、Thebesで生まれた。[Diogenes.1.3, Suda.la.568]
BC1320年、ElectryonとMideiaに、息子Celaeneus (Piyama-Radu)が生まれた。[Apo.2.4.5]
BC1320年、Haliartusの子Hippomenesは、Haliartusから東南東へ移住して、Onchestusを創建した。[Hesiod.CW.F28]
BC1320年、Magnesの子Methonは、Olympus山近くからThermaic Gulf北西岸へ移住して、Methoneを創建した。[Plut.QuestGr.11]
BC1319年、Pandionは、Scyriusの子Aegeusを養子にした。[Apo.3.15.5]
BC1319年、Melampusは、AmythaonとAglaiaの間の息子として、ThessalyのPylusで生まれた。[Apo.1.9.11, Diod.4.68.3]
** Melampusの予言術と、兄弟すべてがBoeotiaから妻を迎えていることから推測して、Aglaiaは、BoeotiaのTenerusの娘と思われる。
BC1319年、Attarimma、Huwarsanassa、Surudaの軍がArzawaに逃れ、Mursili IIがUhha-Zitiに引き渡しを要求した。[CTH 61 I, B ii: 29]
BC1319年、Mursili IIは、Uhha-ZitiがいたApasasへ進軍して、Piyama-Kurundasと戦って勝利した。[CTH 61 I, A ii: 15]
** 戦いは、Astarpa River(Meander Riverと推定)近くのWalmaで行われた。[CTH 61 I, A ii: 15]
** Mursili IIの治世(BC1321-1295) 3年目[wiki:Astarpa River]
BC1319年、Mursili IIがApasasに接近すると、病気になっていたUhha-Zitiは戦わずに、島々へ渡った。[CTH 61 I, A ii: 15]
** 島へ渡らなかった人々は、捕虜となってHattusasへ送られた。15,500人であった。[CTH 61 I, A ii: 33]
** 彼らはArinnandas山へ立て籠もったが、Mursili IIは彼らを包囲して兵糧攻めにした。[CTH 61, II.2B iii: 27]
BC1319年、Mursili IIは、冬営のためAstarpa川近くへ撤退した。[CTH 61 I, A ii: 46, CTH 61, II.2A iii: 23]
BC1319年、TantalusはMiletusのAhhiuwa王と同盟を結んだ。[CTH 61 II, 2B i: 23]
BC1319年、Alector (or Alexinus)は、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
** Alexinusは、ElisのSalmoneusの子Alectorと思われる。[Diod.4.69.2]
BC1318年、Cecropsの子Pandionは、Megaraへ移住して、Pylasの娘Pyliaと結婚した。[Apo.3.15.5, Paus.1.5.3]
BC1318年、Hittite王Mursili IIはMala-ZitiとGullaに、Uhha-Zitiに味方したMiletusを攻撃させた。[CTH 61 II, 2B i: 23]
** Miletusは占領され、牛や羊と共に住人は、Hattusasへ連行された。[CTH 61 II, 2B i: 23]
** Miletus王Anaxの子Asteriusは、Miletusの前に浮かぶLade島近くの島に埋葬された。[Paus.1.35.6]
** Cleochusの娘Ariaは、Crete島へ逃れ、Miletusが生まれた。[Apo.3.1.2から推定]
BC1318年、Uhha-Zitiの子Piyama-Kuruntaは、Impaに陣を置くMiraのMashuiluwasを攻撃するが、撃退された。[CTH 61 II, 2B i: 23]
BC1318年、Piyama-Kuruntaは、Apasas(Ephesus)からTantalusとPelopsが避難した島(Samos島と推定)へ渡った。[wiki: Piyama-Kurunta]
** 当時のSamos島には、約1000人の奴隷いた。[Apollo.1.185, Heraclides.30, Strabo.14.1.3]
BC1318年、Uhha-Zitiは病気がもとで死んだ。[CTH 61, II.2A iii: 23, CTH 61, I. A ii: 50]
BC1318年、Tapalazunauliは島から本土へ戻って、人々が立て籠もっているPurandasに入った。[CTH 61, I. A ii: 50]
BC1318年、Mursili IIは、Purandasへ行軍して、Purandasから出て来たTapalazunauliと戦って破った。[CTH 61, I. A ii: 57]
** IliumのIlusも攻撃に参加していた。[Paus.2.22.3]
** Hittiteの文書によれば、当時、HittiteとWilusa(Troy)は連携して、Arzawa(Maeonia)と戦っていた。[wiki: Wilusa, Arzawa]
** Tapalazunauliは、包囲されるとPurandasを脱出したが、妻と息子たちは捕虜になった。[CTH 61, I. A ii: 71]
** Purandasは陥落し、16,00人が捕虜になって、Hattusasへ送られた。[CTH 61, I. A ii: 79]
** 島にいたPiyama-KuruntaとAhhiuwa王は、島に逃れた人々と共に島から連れ出されて捕虜になって、Hattusaへ送られた。[CTH 61, I. A iii: 1]
** Ahhiuwa王は、Miletusから逃れたCleochusと思われる。
** Cleochusの遺骨は、後に、Miletus近くのDidymaeumに埋葬された。[Cleme.Exho.3]
BC1318年、Mursili IIは、SehaのManapa-Tarhundasのもとへ行き、彼の行動を許し、領地を安堵した。[CTH 61, I. A iii: 13]
** Sehaに逃げ込んでいた追放者4,000人は、Hattusasへ送られた。[CTH 61, I. A iii: 13]
** Mursili IIは、2年でArzawaを征服した。Hattusasへ送られた追放者は66,000人であった。[CTH 61, I. A iii: 26]
BC1318年、Mursili IIは、Mashuiluwas をMiraの支配者にした。[CTH 61, II.2B iv: 34]
BC1318年、Polemonの子Naxosは、Dia島へ移住して、島の名前をNaxosに変えた。[Diod.5.51.3]
BC1318年、Salmoneusの娘Tyroは、Iolcusに住む、叔父Cretheusと再婚した。[Hyginus.13]
BC1317年、Minyasの娘Clymeneは、ThessalyのPhylaceに住むPhylacusのもとへ嫁いだ。[Apollo.1.45, Hesiod.CW.F84, Hyginus.14]
BC1315年、Oenomausは、HarpinaからPisaへ移住した。[Paus.5.1.6]
** Harpinaに住むOenomausは、すぐ西側のPisaに住むPerieresの子Pisusを攻めた。Pisusは、殺されたと推定される。
** Pisusの妻Telegoneは、父Pharisが創建したMesseniaのPharaeへ移住したと推定される。
** 当時、Olympiaを領していたElisは、Perieresの兄弟Aethliusの後裔の町であり、Oenomausは、Olympiaをも奪った。[Paus.5.1.7]
BC1315年、2人目のMinosが生まれた。[Diod.4.60.3]
BC1315年、Pelopsは、Samos島からPeloponnesusへ移住した。[Paus.2.22.3]
** PelopsがGreeceに来る前に、息子Chrysippusがいたことから、戦いの後で、3年ほどAsia Minorにいたと思われる。[Hyginus.85, Plut.Mor.313e]
** Pelopsは、IliumのIlusに攻められ、LydiaからPeloponnesusへ移住した。[Paus.2.22.3]
** Hittiteの文書によれば、当時、HittiteとWilusa(Troy)は連携して、Arzawa(Maeonia)と戦っていた。[wiki:Wilusa, Arzawa]
** Pelopsの居住地もMaeonia内にあったと思われ、HittiteとWilusaの連合軍に攻められて、海外へ移住したと推定される。
** PelopsのPeloponnesus上陸地は、Laconia湾のEurotas川の河口近くと思われる。
** Eurotas川の河口近くのAcriaeの創建者AcriasがOenomausに殺された。[Paus.6.21.10]
** Acriasは、Spartaから南へ移住してAmyclaeを創建したAmyclasの息子と推定される。
** AcriaeにはPeloponnesus半島内で最古の神々の母の神像があった。[Paus.3.22.4]
** Pelopsの本当の名前は、Peloponnesusであった。[StephByz.P515.2]
** Pelopsは、Asiaから莫大な富を持って、貧しい人々の暮らすGreeceにやってきて、富によって勢力を広げた。[Thucy.1.9]
** TantalusとPelopsの子孫たちが持つ富はPrygiaやSipylus山一帯の鉱床から生れた。[Strabo.14.5.28]
BC1315年、Pelopsは、PisaのOenomausの娘Hippodamiaを妻にした。[Paus.5.16.4]
** Pelopsは、Oenomausを槍で殺した。[Eur. IT.826]
** PisaからCorinth地峡までの戦車競走の逸話があるが、馬が競走できる距離ではない。[Apo.E.2.5]
** PelopsとHippodamiaの婚礼の宴の徒競走でAmphionとNiobeの間の娘Chlorisが勝利した。[Paus.5.16.4]
BC1315年、Aeolusの子Macedonの子Emathionは、Emathiaを創建した。[Strabo.7.8.2]
BC1315年、Chioneの子Eumolpusは、祭儀を継承するため、ThraciaからEleusisへ移住した。[Eumolpusの子孫がEleusisの祭司であったとこから推定]
** EleusisにChioneの子Eumolpusの墓があった。[Paus.1.38.2]
BC1314年、Oenomausは、Olympiaで競技会を開催した。[Euseb.Chron.191]
** Oenomausは、Pelopsを婿として、Pisaに迎え入れたと思われる。
BC1312年、Pandionは、MegaraからAthensへ帰還し、Athens王に即位した。[Euseb.Chron.185から推定]
BC1312年、Mursili's eclipse (24 June 1312 BC) [wiki: Astarpa River]
** Mursili IIの治世10年目[wiki:Mursili's eclipse]
BC1312年、Perseusの子Persesは、Troyに圧迫されてMycenaeのPerseusに援軍派遣を要請した。[推定]
BC1310年、PisaのOenomausの子Dyspontusは、OlympiaからElisに向かう海に近い街道沿いに、Dyspontiumを創建した。[Paus.6.22.4]
BC1310年、Periphasの子Melaneusは、Triccaの近くにOechaliaを創建した。[Strabo.10.1.10から推定]
BC1310年、Aeolusの子Perieresは、後継者の絶えたMesseniaのAndaniaからの求めに応じて、ThessalyからAndaniaへ移住した。[Paus.4.2.2]
** ThessalyのAeolisの有力者の中から独身であったPerieresが選ばれたものと思われる。
** Perieresと共に、多くのLapithsがThessalyからAndaniaへ移住したと思われる。
BC1310年、Perseusは、Proetusの子Megapenthesに殺された。[Hyginus.244]
** この後、ArgosとMycenaeは絶縁状態になった。
** Thebes攻めでMycenaeは援軍を出すことを承諾したが、結局出さなかった。最初から援軍要請もしていなかったと思われる。
** Argos はTroy攻めに名を連ねているが、戦死者もなく、消極的参加だったと思われる。
BC1310年、Perseusの子Sthenelusが、Mycenaeを継承した。[Strabo.8.6.19]
BC1310年、Megapenthesは、PhocisのAbaeのLynceusを殺害した。[Hyginus.244]
BC1310年、PhocisのAbaeのLynceusの子Abasは、Megapenthesを殺害した。[Hyginus.244]
** Acrisiusの死後、MegapenthesがArgosを治め、植民市Abaeとの間で、紛争があったと思われる
BC1310年、Megapenthesの子Argeusは、Argos王に即位した。[Paus.2.18.4]
BC1310年、Lynceusの子Abasは、PhocisのAbaeからEuboeaのChalcisへ移住した。[Hyginus.244, Strabo.10.1.3]
BC1310年、Lynceusの息子と思われるOrnytusは、AbaeからPhocis北西部へ移住してNaubolenses(後のDrymaea)を創建した。[Paus.10.33.12]
BC1310年、Lynceusの息子と思われるCriusは、AbaeからEuboeaへ移住した。[Paus.10.6.6]
BC1310年、Hyantesは、PhocisのAbae近くへ移住して、Hyampolisを創建した。[Paus.10.35.5]
** Hyantesの移住は、Minyasとの戦いと思われる。
BC1310年、Aeolusの子Magnesの子Pierusは、Olympus山の北側にPieriaを創建した。[Tzetzes.6.930]
** Hemathion (or Emathion)の子Aeropusが最初にPieriaを統治した。[Tzetzes.6.930]
BC1310年、Chioneの子Eumolpusの子Ismarusは、ThraciaのHebrus川とNestus川の間の海の近くにIsmarusを創建した。[Ps-Scym.646から推定]
BC1308年、Labdacusの子Laiusは、Menoeceusの娘Jocastaと結婚した。[Paus.9.5.10]
BC1307年、Aeolusの子Perieresは、MycenaeのPerseusの娘Gorgophoneと結婚した。[Apo.1.9.5, Paus.4.2.4]
** AndaniaとMycenaeはAchaeansの町であることから、この婚姻が成立したと思われる。
BC1306年、Lapithesの子Phorbasは、Pelopsを恐れたElis王Alectorから招致されてOlenusを任せられた。[Diod.4.69.2]
** <<AlectorがSalmoneusの息子と思われる理由。>>
** Salmoneusは、ElisのEndymionの子Aetolusを追放した。[Paus.5.1.8, Strabo.8.3.33]
** Aetolusの跡を継いだのは、Aetolusの姉妹Eurycydaの子Eleiusであった。[Paus.5.1.8]
** Eleiusは、Salmoneusの異母兄弟Aethliusの孫娘の息子であった。[Apo.1.7.3]
** Pausaniasの系譜に登場しないElis王Alectorが、PhorbasにOlenusを任せた。[Diod.4.69.2]
** Phorbasは、Salmoneusの異母兄弟Lapithesの息子であった。[Diod.5.81.6]
** Oenomausの後にOlympic Gamesを開催したAlexinusは、Alectorと同一人物と思われる。[Euseb.Chron.191]
** 以上のことから、つぎのことが推定される。
** AlectorはSalmoneusの息子であり、Eurycydaの夫であり、Eleiusの父であった。
** Salmoneusは、Elis王Aetolusを追放して、孫EleiusはElis王となり、年少であったため父Alectorが後見人になった。
** その後、PisaのPelopsが勢力を増し、危機感を募らせたAlectorは、従兄弟Phorbasに当時Elis領であったOlenusを任せた。
BC1305年、Aeolusの息子と思われるMelaneusは、Andaniaの近くにOechaliaを創建した。[Paus.4.2.2]
** Melaneusは、兄弟のPerieresの求めでMesseniaへ移住したと思われる。
BC1305年、Aeolusの子Macedonの子Europusは、Pellaの少し北に、Europusを創建した。[StephByz.E287.14]
** Europusの母は、Cecropsの娘Oreithyiaであった。[StephByz.E287.14]
BC1305年、Macedonの子Beresは、Macedonia地方にBerisを創建した。[StephByz.B164.23]
BC1305年、Minyasの子Cyparissusは、Delphiの近くにCyparissusを創建した。[Paus.10.36.5]
BC1305年、Mashuiluwaは、義兄弟Mursili IIに反乱を起こして捕らえられた。[wiki: Mashuiluwa]
BC1305年、Mashuiluwaの養子Kupanta-KuruntaがMiraの王になった。[wiki: Mashuiluwa]
BC1305年、Cychreusの娘Charicloは、Salamis島からScyros島に住むCecropsの子Scyriusのもとへ嫁いだ。[Plut.These.10]
BC1305年、Tiryns王AlcaeusとHipponomeの間にAmphitryonが生まれた。[Apo.2.4.5, Paus.8.14.2, Paus.9.11.1]
BC1303年、PhliusのAraethyreaの子Phliasは、SicyonからSicyonの娘Chthonophyleを妻に迎えた。[Paus.2.12.6]
BC1303年、MesseniaのAndaniaのPerieresは、2人の息子たち、AphareusとLeucippusを残して死んだ。[推定]
** Perieresの妻Gorgophoneが、LacedaemonのOebalusと再婚して、Aphareusと結婚する娘Areneが生まれるので、この頃と思われる。
BC1303年、Aeolusの子Cretheusは、Iolcusで死んだ。[Diod.4.68.3]
BC1303年、Amythaonの娘Perimelaは、Periphasの子Antionと結婚した。[Diod.4.69.3]
BC1303年、Amythaonは、Neleus、Melampus、Biasを連れてEleiaへ移住して、Pylusを創建した。[Apo.1.9.9, Diod.4.68.3, Paus.4.36.1]
** Neleusの移住の原因は、兄弟Peliasとの争いと伝えられている。[Diod.4.68.3]
** しかし、次のことから、PeliasとNeleusは、良好な関係にあった。
** 1) PeliasやNeleusは共同でOlympia祭競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
** 2) Neleusと共へ移住したBiasの娘がPeliasと結婚した。[Hyginus.14]
** Amythaonは、息子たちを同行させており、Eleiaへの移住を主導したのはNeleusではなく、Amythaonであった。[Diod.4.68.3]
** Pylusは、ElisからOlympiaへ行く山道にあった。Pylusの近くを流れるLadon川がPeneius川に合流する。[Paus.6.22.5]
** MegaraのClesonの子Pylasは、EleiaにPylusを創建したという伝承もある。[Paus.6.22.5]
** 史実であれば、Pylasは78歳以上である。Pylusの名前から考えられた創作と思われる。
** Pylusの名前は、Amythaonの生まれ故郷、ThessalyのPyllusをそのまま名付けものと思われる。[Apo.1.9.11]
BC1303年、Aeolusの子Perieresの妻Gorgophoneは、SpartaのOebalusと再婚した。[Apo.1.9.5, Paus.4.2.4]
BC1303年、Hippocoonの子Pheresは、PhyllusからIolcusの近くへ移住してPheraeを創建した。[Apo.1.9.14]
BC1302年、Paeonの娘Evippeは、Pieriaに住むMethoneの兄弟Pierusと結婚した。[Tzetzes.6.930]
** Pierusは、Evippeの祖父Endymionの従兄弟であった。
BC1302年、Amythaonの子Melampusは、ArgosのMegapenthesの娘Iphianeiraと結婚した。[Apo.2.2.2, Diod.4.68.5]
** Megapenthesの子Argeusは、Mycenaeを恐れて、当時、Eleiaの盟主であったAmythaonの息子に妹を嫁がせたものと思われる
BC1301年、Aetolusの子Calydonは、Amythaonの娘Aeoliaと結婚した。[Apo.1.7.7]
** Aetolusの父Endymionの父Aethliusは、Amythaonの母Tyroの父Salmoneusの兄弟であった。
** つまり、CalydonとAeoliaは、3いとこであった。
** Amythaonの祖父Salmoneusは、Calydonの父AetolusをElisから追い出した敵であった。
** Calydonの住人の多くは、Elis出身者の後裔であった。
** Calydonは、Curetesを味方にして勢力を増す彼の兄弟Pleuronに、婚姻を通して対抗しようとしたと思われる。
BC1301年、Methonの子Charopsは、MacedoniaのMethoneからThraciaのBisaltiaへ移住した。[Tzetzes.8.1から推定]
BC1301年、Minyasの娘Periclymeneは、Thessaly地方のPheraeに住むPheresのもとへ嫁いだ。[Hyginus.14, Tzetzes.2.280]
BC1300年、Hippocoonの子Aesonは、Pagasetic Gulf近くにAesonis (or Aeson)を創建した。[Apollo.1.411, StephByz.A54.16]
BC1300年、Perseusの子Cynurusは、MycenaeからLaconiaの近くへ移住してCynuriaを創建した。[Paus.3.2.2]
BC1300年、Eurymachus率いるPhlegyesは、Thebesに攻め入り、略奪して町を荒廃させた。[FGrH.Nr333.F41]
** Phlegyesには、Phorbasという指導者もいた。Phorbasは、Trojan Warの後でPanopeusに住んでいた。[Ovid.Meta.11.410, Philos.2.19]
BC1300年、CreonはMenoeceusの息子としてThebesで生まれた。[Hyginus.86]
BC1300年、Atysの子Tyrrhenus率いるMaeonians は、Italy西海岸へ移住した。[Antiq.1.27.2, Herod.1.94, Plut.Romu.2, Strabo.5.2.4]
** Hittite王Mursili IIがApasa(後のEphesus)を首都とするArzawaを攻略して住人を追放した。[wiki : Arzawa]
** 追放された住人の一部は、Samos島へ逃れ、Ephesusの人口は少なくなったと思われる。
** Samos島には、戦いで奴隷になった人々がいた。奴隷1,000人が、反乱を起こして和議を結んで、Ephesusへ渡った。[Athen.6.267a]
** Herodotusは移住の原因を飢饉のように伝えているが、Hittiteとの戦いが原因と思われる。[Herod.1.94]
** Tyrrheniansに名前を変えたMaeoniansは、Pelasgiansであった。[Antiq.1.28.3, Plut.Romu.2, Strabo.5.2.4]
** PelasgiansとTyrrheniansの言葉は、まったく似ていなかった。[Antiq.1.29.3]
** Etruriansは、Lydiaから来た。[Just.20.1]
BC1300年、Romisは、Latiumに侵入しようとしたPelasgiansを撃退した。[Plut.Romu.2]
BC1300年、Faunusの子Arnusは、TyrrhenusらのPelasgiansによって、Trasimene湖周辺から追い出された。[Ita.5.1]
BC1300年、PelasgiansのMaleosは、Tyrrhenusに追われてRome近くのRegis VillaからSicilyへ移住した。[Paus.1.28.3, Strabo.5.2.8]
** Pelasgiansは、Sicily、Acarnania、Boeotiaと住居を変えて、BC1126年頃にAthensへ移住した。[Paus.1.28.3, Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
BC1300年、ThessalyからItalyへ移住したPelasgiansは、Tyrrhenus率いるMaeoniansに追い出された。[Pliny.3.50, Strabo.5.2.3]
BC1300年、Triopas(Abas)の子Phorbasの子Pellenは、ArgosからAchaiaへ移住して、Pelleneを創建した。[Paus.7.26.12]
BC1300年、Perseisの子Aeetesは、Tauric ChersoneseからColchis地方へ移住して、Colchis地方を継承した。[Apo.1.9.1]
BC1299年、Pelopsは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1299年、Saturnusの子Picusは、TestrunaからRomeの南へ移住して、Laurentumを創建した。[Euseb.Chron.283]
BC1299年、Iasiusの子Amphionの娘Phylomacheは、OrchomenusからIolcusに住むCretheusの子Peliasのもとへ嫁いだ。[Apo.1.9.10]
BC1298年、Amythaonの子Biasは、Megapenthesの娘Lysippeと結婚した。[Apo.2.2.2]
** Megapenthesの子Argeusは、Mycenaeを恐れて、当時、Eleiaの盟主であったAmythaonの息子に妹を嫁がせたと思われる。
BC1297年、MycenaeのPerseusの子Sthenelusは、Amphidamasの娘Antibiaと結婚した。[FGrH.333.68]
BC1297年、ElisのEurycydaの子Eleiusは、ArcadiaのAmphidamasの娘Nausidameと結婚した。[Hyginus.14]
BC1297年、Minosは、Tauric ChersoneseからPasiphaeを妻に迎えた。[Apo.1.9.1, Apo.3.1.2, Diod.4.77.1]
BC1296年、Trosの子Ilusが死に、Laomedon<Alaksandu>が跡を継いだ。[wiki: Alaksanduから推定]
** Laomedonは、即位時にMursili II(BC1321-1295)と条約を締結したと思われる。[wiki: Alaksandu]
BC1296年、Persesの娘Hecate (or Idyia)は、Tauric ChersoneseからColchis地方に住んでいたPerseisの子Aeetesのもとへ嫁いだ。[Diod.4.45.3, Hyginus.25]
** Aeetesは、Hecateの父の兄弟であった。
BC1295年、Damasistratusは、Plataeaを創建した。[Apo.3.5.8とPaus.10.5.4から推定]
** Damasistratusは、Tanagraの創建者Poemanderの父Chaeresilausの弟と思われる。
BC1295年、Pandionは、Metionの息子たちによってAthensを追われて、Megaraへ亡命した。[Apo.3.15.5, Paus.1.5.3, Paus.1.39.4]
BC1295年、Scyriusは、Cychreusの跡を継ぐため、Scyros島からSalamis島へ移住した。[Plut.These.10から推定]
** ScyriusとCychreusは、Athens王Cecropsの息子と思われる。Scyriusの妻は、Cychreusの娘Charicloであった。[Plut.These.10]
BC1295年、Macedonia にMiezaとBeroeaが創建された。[StephByz.M452.1]
** MiezaとBeroeaは、Aeolusの子Macedonの子Beresの娘たちの名前であった。[StephByz.M452.1]
BC1295年、Laomedonは、Phaenodamas(or Hippotes)によってIliumから追放された。[wiki: Trattato di Alaksanduから推定]
BC1295年、Laomedon<Alaksandu>は、Phaenodamasを殺して、Troy王に即位した。[Antiq.1.52.2, Lycoph.Cassa.1115]
** Phaenodamasの娘たちは、Sicily島へ移住した。[Antiq.1.52.2, Lycoph.Cassa.1115]
** Alaksanduは、正当な継承者ではない。Alaksanduは、Kukkunniと血縁関係がないかもしれない。[wiki: Alaksandu]
正当な継承者ではないのは、Alaksanduか、Kukkunniか。
** Alaksanduは必ずしもKukkunniの血縁者ではない[wiki: Alaksandu]
** KukkunniがAlaksanduの祖先であり、おそらく女系であると述べています。[wiki: Kukunni(ウクライナ語、ロシア語)]
** 誰かが彼から王位を奪ったため、Alaksanduが王位に留まるためにはHittiteの介入が必要だった[wiki: Kukunni(伊)]
** Alaksanduが王位に就くか王位に留まるためには、Hittiteの介入が必要だった[wiki: Alaksandu(伊)]
** LaomedonがIlusの息子だとする伝承は作り話かもしれない。[Diod.4.75.4, Home.20.220]
** Alaksanduは、Mursili II(BC1321-1295)とMuwatalli II(BC1295-72)と協定を締結している。[wiki: Alaksandu]
** AlaksanduとMuwatalli IIの協定書の中で、Sehaの王は、Manapa-Kuruntaであると記している。[wiki: Manapa-Tarhunta]
BC1295年、Minosは、TroadからCreteへ移住した。[Plato.Gor.524aとPlut.Mor.121cとSuda.mu.1092から推定]
** MinosとRhadamanthusは、Creteではなく、Asiaで生まれた。[Plato.Gor.524a, Plut.Mor.121c, Suda.mu.1092]
** Rhadamanthusは、Chios島に定住したと思われる。
** Minosは、Trosや彼の息子たち(Ilus, Assaracus)と交流があった。[Suda.mu.1092]
** Minosは、Assaracusに味方してLaomedonと戦ったが、戦いに敗れて、Troadから去ったと思われる。[Suda.mu.1092から推定]
BC1295年、Perseusの子ElectryonはEthiopiaから追われて、Peloponnesusへ帰還し、Mideaを任せられた。[Paus.2.25.9から推定]
** このとき、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>と彼の兄弟の数人は、Asia Minorに残ったと思われる。
BC1295年、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>が反抗を開始した。[wiki: Piyama-Radu]
** Piyama-Raduの反抗は、Muwatalli II(BC1295-72)からTudhaliya IV(BC1237-09)まで続いた。[wiki: Piyama-Radu]
BC1295年、Piyama-RaduがSehaの支配下のLazpa(Lesbos島)を攻撃した。[wiki: Manapa-Tarhunta letter]
** Lesbos島は、BC1560年にTriopasの子XanthusがArgosから無人のLesbosに植民した。[Diod.5.81.2]
** BC1389年にAeolusの子Macareusが、IoniansやPelasgiansを含む移民団を率いて、Lesbos島へ入植した。[Diod.5.81.2 - 4]
** Trojan Warの時代には、Priamの娘Laodiceの夫HelicaonがLesbos島に住んでいた。[Apo.3.12.5, Home.Il.3.121, Paus.10.26.7]
BC1295年、Saturnusの子Picusは、Saturniaから南東へ移住して、海岸近くにLaurentumを創建した。[Euseb.283]
BC1294年、Ariaの子Miletus<Apta>は、CreteからAsia Minorへ移住して、Miletusを創建した。[Apo.3.1.2, Paus.7.2.5, Strabo.12.8.5]
** Minosの兄弟Sarpedonも、CreteのMilatosからMiletusの建設に参加した。[Strabo.12.8.5]
** このとき、島に逃れていたCariansやLelegesは、Cretans(Ariaの子Miletus)の援助で、本土に帰還した。[Strabo.12.8.5]
** 一族は先住民Solymiから、Termilaeと呼ばれた。[Herod.1.173]
BC1294年、Amythaonは、Olympia競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1294年、Oedipusは、LaiusとJocastaとの間の息子として生まれた。[Diod.4.63.5, Paus.9.5.10]
BC1293年、Trosの子Ilusは、Ethiopiaを攻撃して、EthiopiaをTroyの支配下に置いた。[Laomedonの後裔がEthiopiaを支配していたことから推定]
** Ethiopiaは、Ilusの妻Eurydiceの父Adrastusに与えられ、その地方は、Adrasteiaと呼ばれるようになった。[Strabo.13.1.13, StephByz.A28.4]
BC1293年、Aeolusの子Cercaphusは、Peneius川付近からItonusへ移住した。Cercaphusは、PhthiaのMyrmidonの娘Eupolemeiaを妻に迎えた。[Apollo.1.51, Strabo.9.5.18]
BC1293年、Amythaonの子Biasは、Neleusの娘Peroと結婚した。[Apo.1.9.13, Apollo.1.118]
BC1293年、Perseusの娘Autochtheは、Pelopsと結婚した。[TzeAdLyco.494から推定]
** AtreusとThyestesの母は、Hippodamiaではなく、Autochtheであったと思われる。
BC1292年、Amythaonが死去した。
BC1292年、MelampusとBiasは、Eleiaの南へ移住して、Lepreatic Pylusを創建した。[Home.Od.15.220とStrabo.8.6.10から推定]
** MelampusとBiasは、Argosへの移住する前、Pisatis、Triphyliaに住んでいた。[Strabo.8.6.10]
** MelampusとBiasは、PylosからArgosへ移住した。[Herod.9.34]
BC1291年、Aesonは、PhylaceからPhylacusの娘Alcimedeを妻に迎えた。[Apollo.1.45, Hyginus.14]
BC1291年、Scyriusは、SicyonからSicyonの娘Salamisを妻に迎えた。[Apo.3.12.7, Diod.4.72.4, Paus.1.35.2]
** ScyriusとSalamisには、息子Cychreusが生まれた。
BC1290年、Melampusは、Argeusの子AnaxagorasからArgosの1/3を割譲された。[Apo.2.2.2, Diod.4.68.4, Paus.2.18.4, Herod.9.34]
BC1290年、Biasは、AnaxagorasからArgosの1/3を割譲された。[Paus.2.18.4]
** Anaxagorasは、MelampusとBiasをArgosに住まわせて、勢力を増すMycenaeに対抗した。[Diod.4.68.5]
** MelampusとBiasは、Anaxagorasの叔母たち、IphianeiraとLysippeの夫たちであった。[Apo.2.2.2, FGrH.333.114, Diod.4.68.5]
** Melampusが治した女人の狂気とは、酒乱[Ovid.Meta.15.307]、または、便秘[Plin.25.47]と思われる。
BC1290年、MesseniaのOechaliaのMelaneusに、息子Eurytusが生まれた。[Paus.4.3.10, Hesiod.CW.F79]
BC1290年、Perseusの子Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建した。[Paus.3.20.6, Strabo.8.5.2]
BC1290年、Manapa-Tarhunta letter (CTH 191)
** Manapa-Tarhunta (Seha River Landの王)からHittite王Muwatalli II(BC1295-72)に宛てた書簡[wiki: Manapa-Tarhunta letter]
** Piyama-RaduがTroyを攻撃し、Manapa-TarhuntaがTroyに加勢するがPiyama-Raduを追い出すことに失敗した。[CTH 191.3]
** Piyama-RaduがLazpa(Lesbos島)を攻撃した。島にはManapa-Tarhuntaの部下がいたが、Piyama-Raduに合流した。[CTH 191.4]
** Lazpaの職人集団がMiletusのAtpaのもとへ亡命した。[CTH 191.4]
** Hittite軍がSehaに到着して、Wilusaを攻撃するために進んだ。[CTH 191.3]
** Hittite軍がWilusaに向かったのは、Troy近くに居座っているPiyama-Raduを攻めるためと思われる。[wiki: Piyama-Radu]
** MiraのKupanta-Kuruntaが職人集団の帰還について、Atpaと交渉した。[CTH 191.4]
BC1289年、Sarpedonは、MiletusからLycia<Lukka lands>へ移住した。[Herod.1.173]
** BC1277年、Sarpedonは、Lycusに土地を分けているので、それ以前にMiletusからLyciaへ移住していた筈である。
BC1288年、Actorの子Aeacusは、ThessalyにDiaを創建した。[StephByz.D229.1]
BC1287年、Actorの子Aeacus、DiaからAegina島へ移住した。[StephByz.D229.1から推定]
BC1287年、第8代Athens王Pandionは、亡命先のMegaraで病死した。[Paus.1.5.3-4]
BC1287年、Pandionの養子Aegeusは、Megaraにおいて、第9代Athens王に即位した。[Paus.1.5.4]
BC1287年、Alcaeusの子Amphitryonは、PheneusのGuneusの娘Laonomeと結婚した。[Apo.2.4.5とPindaros.170とPaus.8.14.9から推定]
BC1287年、Aeacusは、Megaraの継承をめぐるPandionの子NisusとPandionの娘婿Scironとの争いを裁いた。[Paus.1.39.6]
** Aeacusの2人の妻の父Scyrius(or Sciron or Chiron or Scirus)は、Pandionの養子Aegeusの実父であった。[Apo.3.12.6, Apo.3.15.5, FGrH.333.60, Hyginus.14, Paus.2.29.9, Plut.These.10, Plut.These.35]
** つまり、AeacusとAegeusは義兄弟であり、NisusやScironもAegeusを通して義兄弟であった。恐らく、当時Athens王であったAegeusが、義兄弟同士の争いを、義兄弟の中でも敬虔な人物として有名であったAeacusに仲裁させたものと思われる。[Apo.3.12.6]
BC1287年、Pelopsの子Chrysippusが死んだ。[Paus.6.20.7]
BC1287年、Pelopsの2人の息子たち、PittheusとTroezenは、後のTroezenの土地へ移住した。[Paus.2.30.9]
BC1287年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraへ移住して、Pylasの子Scironの娘Pyrgoと結婚した。[Paus.1.43.4]
BC1287年、Pelopsの子Letreusは、Pisaから海岸近くへ移住して、Letriniを創建した。[Paus.6.22.8]
BC1287年、Thyestesは、Atreusと共に、Triphylia地方のMacistusへ移住した。[Euri.Scho.Or.5.1]
** Thyestes、Atreusは、まだ幼少なので、彼らの母と共へ移住したと思われる。
BC1287年、Hippodamiaは、PelopsによってPisaから追い出されてMideaへ亡命した。[Paus.6.20.7]
** Hippodamiaの娘Eurydice (or Lysidice)の夫ElectryonがMideia王であった。[Diod.4.9.1, Paus.2.25.9]
** 後にElisは神託に従い、Hippodamiaの遺骨をOlympiaまで運んだ。[Paus.6.20.7]
** Hippodamiaの遺骨は、Mideaにあったので、彼女はPelopsより先に死んだと思われる。
** HippodamiaからChrysippusを殺すように諭されたAtreusとThyestesが殺し、HippodamiaはPelopsに責められて自害した。[Hyginus.85, 243]
** HippodamiaからChrysippusを殺すように諭されたAtreusとThyestesが拒否して、Hippodamia自らが殺した。[Plut.Mor.313e]
** Hippodamiaと息子たちがChrysippusを殺した。[Euri.Scho.Or.5.1, FGrH.Nr4.F157]
** PelopsがChrysippusを殺した。[Dic:Atreus(Schol.Thucy.1.9)]
** Hippodamiaと彼女から生まれた息子たちは、Pelopsによって、Pisaから追い出されたと思われる。
** その原因は、PelopsとAtreusの母との結婚と思われる。
BC1286年、Iphiclesは、Alcaeusの子Amphitryonの息子として生まれた。[Apo.2.4.11, Hyginus.173, Paus.8.14.9]
BC1286年、Thestiusは、MesseniaのAndaniaからPerieresの娘Deidamia (or Leucippe)を妻に迎えた。[SchoOnApoRhod.1.201]
BC1285年、Lysianassaは、PolybusとPeriboeaとの間の娘として生まれた。[Paus.2.6.6]
BC1285年、Phorbasの子Actorは、OlenusからElis西部の海の近くへ移住して、母の名前に因んだHyrminaを創建した。[Paus.5.1.11]
BC1285年、Aegeusは、MegaraからAthensに帰還してMetionの息子たちを追放した。[Paus.1.5.4]
BC1285年、叙事詩人Linusは、Phoenician languageとPhoenician lettersを学んで、Pelasgic lettersを考案した。[Tacit.Ann.11.14から推定]
BC1285年、Troezenが死ぬと、Pittheusは、近くのHypereaやAntheaを併合して、Troezenを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1285年、Actorの子Daedalionは、PhthiaからParnassus山の近くへ移住した。[Paus.4.33.3とPaus.8.4.6から推定]
BC1285年、Emathionの子Galadrusは、EmathiaからPieria地方へ移住して、Galadraeを創建した。[TzeAdLyco.1342, Steph.G196.5]
BC1282年、Sicyonの娘Chthonophyleの子Polybusは、Phliusから東南東へ移住して、Teneaを創建した。[Strabo.8.6.22から推定]
BC1282年、Polybusは、Periboeaと結婚した。[Apo.3.5.7, Hyginus.66]
** OedipusがPolybusの養子になっていることから、Periboeaは、Labdacusの子Laiusの娘で、Oedipusの姉と推定される。[Apo.3.5.7]
** TeneaとThebesは離れているが、Polybusの祖父Sicyonの祖父EpopeusとThebesの縁で婚姻が成立したと思われる。
** Epopeusの子Ismenusは、Amphionと共に、Laiusの後見人Lycusと戦った。LaiusにとってEpopeusの一族は、恩人であった。
BC1281年、Pleuronの子Agenorは、Calydonの娘Epicasteと結婚した。[Apo.1.7.7]
BC1280年、Pyttiusは、ThessalyからEleiaへ移住してBuprasiumを創建した。[Paus.5.1.11, Strabo.8.3.8]
** Pyttiusの子Amarynceusの子Dioresの子Automedonは、Achillesのcharioteerであった。[Dictys.2.34]
** AutomedonはMyrmidonsの一員であり、PyttiusはMyrmidonの子Actorの息子と思われる。[Dictys.2.34]
** Buprasiumは、Alesiumの丘の近くにあった。[Home.11.737]
** ElisからOlympiaまで通じる街道沿いのSalmoneの近くにあった。[Strabo.8.3.10]
** Pyttiusの出身地Phthiaは、Salmoneの創建者Salmoneusの出身地の近くであった。PyttiusはSalmoneusを頼って、Eleiaへ移住した。
BC1280年、Daedalionは、Parnassus山の近くへ移住した。[Daedalionの子AutolycusがParnassusに住んでいたことから推定(Paus.8.4.6)]
** Daedalionは、TrachisのCeyxの兄弟であった。[Ovid.Meta.11.289]
** Trachisは、Myrmidonsの町であり、CeyxはMyrmidonの子Actorの息子と推定される。[Home.Il.2.681]
** つまり、Daedalionの父は、Myrmidonの子Actorであったと思われる。
BC1280年、Perieresの子Aphareusは、Andaniaを弟Leucippusに任せて、自分はMessenia西海岸へ移住して、Areneを創建した。[Paus.4.2.5]
** Idasは父Aphareusの跡を継いでAreneに住み、LynceusはPapaeに住んでいたと思われる。[FGrH.Nr790.F50]
BC1280年、PellenとGonussaの息子は、Pelleneの近くに、Gonussaを創建した。[Newton.Chro.62から推定]
BC1280年、Manapa-Tarhuntaの跡をMasturiが継いだ。[wiki: Seha River Land]
** Masturiは、Manapa-Tarhuntaの息子と思われる。[wiki: Seha River Land]
** Muwatalli II(BC1295-72)がMasturiの継承を支持した。[wiki: Seha River Land]
BC1280年、Chironの子Carystusは、Salamis島からEuboea南東部へ移住してCarystusを創建した。[StephByz.K362.13, TzeAdLyco.580]
BC1280年、Perseusの子Alcaeus死去。Alcaeusの子AmphitryonがTirynsを継承した。
** Alcaeusの兄弟Electryonが参加したBC1277年のTeleboansの地への遠征に、Alcaeusが参加していない。
BC1280年、Abasの子Canethusは、ChalcisからEuboea北部へ移住してCerinthusを創建した。[Apollo.1.77から推定]
BC1280年、Antionの子Phlegyasは、Larisaの近くにGyrtonを創建した。[Strabo.9.5.21から推定]
** Phlegyasの跡を継いだIxion(別名Gyrton)に因んで、Phlegyasが創建した町は、Gyrtonと呼ばれた。[Dic: Gyrton, StephByz.G215.20]
BC1279年、Oedipusは、CorinthのPolybusの養子になった。[Apo.3.5.7とStrabo.8.6.22から推定]
** Oedipusには先に生まれた兄弟が何人かいたために、養子に出されたと思われる。[Paus.9.26.3]
BC1279年、NeleusとPeliasは共同で、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.2]
BC1279年、Deionの子Cephalusは、妻Procrisを殺してThebesに亡命した。[Apo.2.4.7, Strabo.10.2.20]
** Cephalusは、the Areopagusで裁かれて追放刑に処せられた。[FGrH.Nr4.F169a]
** Cephalusは、Procrisを偶発的出来事で殺した。[FGrH.Nr333.F34]
** 過失殺人はAreopagusの管轄外で、CephalusのProcris殺害は創作である。Cephalusは彼の義兄弟Aegeusに追放された。[推定]
BC1279年、Deion<Deioneus>の子CephalusはThebesから依頼されて、HaliartusのAlopekosと戦って勝利した。[Plut.Lysand.29, Tzetzes.1.560]
** Cephalusは、AtticaのThoricusに住んでいた。[Apo.2.4.7, FGrH.Nr333.F34]
** Hyginusは、Deioneの子CephalusをAtheniansの王の一人に名前を挙げている。[Hyginus.48]
** 他の史料[Apo.3.15.5, Paus.1.39.4, Strabo.9.1.6]では、Pandionの息子と記されているNisusを、HyginusはDeionの息子だと伝えている。[Hyginus.198]
** したがって、Cephalusは、Pandionの息子と思われる。[Hyginus.48, 198から推定]
** Cephalusは、Minosの将CynasをAlopekosと戦わせた。[Tzetzes.1.560]
** Alopekos(or Alopecus)は、Haliartusの創建者Haliartusの孫で、Hippomenes(or Oncestus)の子Megareusの従兄弟と思われる。
** Haliartusは、ThebesとOrchomenusの中間に位置し、両者の係争地であった。
** BC395年には、SpartiのNeochorusが住んでいた。[Plut.Lysand.29, Plut.OraDelp.27]
** The Teumessian fox[Ovid.Meta.7.762, Paus.9.19.1]、あるいは、Teumesian lion[Statius.4.74]とは、Alopekosのことと思われる。
** Alopex(狐)と綽名されたThebesの有力者が、Teumesionの丘を占拠してThebesを攻撃したが、Cephalusが救った。[Palaepha.5]
** Haliartusには、Foxの丘とも呼ばれるAlopecusの丘があった。[Plut.Lysand.29]
** 狙った獲物を逃さない犬Laelapsとは、Minosの将Cynasのことであったと思われる。[Hyginus.189]
BC1278年、Minosの娘Ariadneは、CreteからNaxosのDionysusの神官Oenarusのもとへ嫁いだ。[Plut.These.20]
BC1278年、Amphitryonは、Spartiから招かれて、Thebesへ移住した。[Pind.Py.9.80]
** Amphitryonが叔父Electryonを誤って殺害して、追放されたとするのは作り話と思われる。[Apo.2.4.6]
BC1278年、Pieriaに住むPierusの娘Calliopeは、Bisaltiaに住むCharopsの子Ismeniusのもとへ嫁いだ。[Paus.9.30.4, Tze.1.300]
BC1277年、Neleusは、OrchomenusのAmphionの娘Chlorisを妻に迎えた。[Diod.4.68.6, Hyginus.97, Paus.9.36.8, Home.Od.11.281]
** Chlorisには、多くのMinyansが同行してPylusへ移住した。[Strabo.8.3.19]
** Minyansは、HeraclesによってPylusが破壊された後、Lepreatic Pylusの近くのTriphyliaへ再移住した。[Strabo.8.3.19]
BC1277年、Amphitryonは、Deionの子Cephalusらと共にTeleboansの地へ遠征した。[Apo.2.4.7, Paus.1.37.6, Pind.Ne.10.10, Strabo.10.2.14]
** Perseusの子HeliusのGreece北西部への移住に、兄Electryonと甥Amphitryonが協力し、Cephalusが参加した。[推定]
** Heliusは、Laconia湾岸にHelosを創建していた。[Paus.3.20.6, Strabo.8.5.2]
BC1277年、Perseusの子Heliusは、Echinades諸島に入植した。[Apo.2.4.5, Apo.2.4.7]
BC1277年、Cephalusは、Cephallenia島に入植した。[Paus.1.37.6]
BC1277年、遠征で、Electryonと息子たちが死に、遺児となったAlcmenaとLicymniusをAmphitryonがThebesへ引き取った。[Apo.2.4.8]
BC1277年、Perseusの子Sthenelusは、MideaをAtreusとThyestesに任せた。[Apo.2.4.6]
** AtreusとThyestesがSthenelusの妻の兄弟であったからというよりも、姉妹Autochtheの息子だからと思われる。
** Hippodamiaは、6人の息子を産んだ。[Pind.Ol.1.89]
** Atreus was the firstborn. [Tzetzes.1.420] the eldest, Atreus. [Euri.Scho.Or.5.1]
** Thyestes as the firstborn(長子、最初に生まれた), the second-born, Atreus. [Euri.Scho.Or.12.3]
** つまり、AtreusとThyestesの母は、Hippodamiaではなく、Perseusの娘Autochtheであった。
** AtreusとThyestesがMideaの主となったとき、Hippodamiaは既に死んでいたと思われる。
BC1277年、Amphitryonは、Thebesの神殿にTeleboansから得た鼎を奉納した。[Herod.5.59]
BC1277年、Pandionの子OrneusはAegeusに追われて、Phliusに近いArgolisの辺境へ移住して、Orneaeを創建した。[Paus.2.25.6]
** Pausaniasは、Orneusの父をErechtehusとしている。[Paus.2.25.6]
** Orneusの父が第6代Athens王であるとすれば、Orneusの子Peteusの子Menestheusは、(Erechtehusの子)Cecropsの子Pandionの子Aegeusと同時代である。
** しかし、MenestheusはTrojan War時代の人物であるが、Aegeusは、それ以前の人物である。
** Trojan Warは、Aegeusの孫の時代であり、ここでのErechtehusは、第8代Athens王Pandionの別名と思われる。
BC1277年、Pandionの子LycusはAegeusに追われて、MesseniaのAreneのAphareusを訪問して、Andaniaで密儀を行った。[Paus.4.2.6]
BC1277年、Pandionの子Lycusは、MesseniaからAsia Minorへ渡り、LyciaのMilyasのSarpedonのもとへ移住した。[Herod.1.173]
** SarpedonはLycusに土地を分け与えた。この後、Lycusに因んでLyciaと呼ばれた。[Herod.1.173]
BC1277年、Oeneusの子PeteusはAegeusに追われて、AtticaのStiriaからPhocisへ移住して、Stirisを創建した。[Paus.10.35.8]
BC1277年、LebadusはAegeusに追われて、AthensからBoeotiaのMideiaへ移住した。MideiaはLebadeiaと呼ばれるようになった。[Paus.9.39.1]
** BoeotiaのLebadeiaと、ArcadiaのLycaonの子Lebadusを関連付ける伝承がある。[Plut.QuestGr.39]
** Aegeusに追われたPandionの子Oeneusの子Peteusは、Lebadusの兄弟と思われ、OeneusがLebadusの父と思われる。
** Lebadusと共に、Carmanorと彼の息子Eubulus (or Phoenix)もMideiaへ移住したと思われる。
BC1277年、Aegeusに追われた人々が、ArcadiaのAleusの子Cepheusを頼ってOrchomenus近くのCaphyaeへ移住した。[Paus.8.23.3]
** Caphyaeは、Capysの孫Aeneasが創建したという伝承があるが、Romeの庇護を受けるための創作と思われる。[Antiq.1.49.1, Strabo.13.1.53]
BC1277年、Pandionの子TeuthrantusはAegeusから逃れて、Boeotiaへ移住してThespiaeを創建した。[StephByz.Th310.9から推定]
BC1277年、Iasiusの子Amphionの娘Chlorisは、OrchomenusからEleiaのPylusに住むCretheusの子Neleusのもとへ嫁いだ。[FGrH.Nr333.F117, FGrH.12.21, Hyginus.97, Paus.9.36.8]
BC1277年、Cretheusの子Peliasは、Argosに住むBiasの娘Anaxibiaを妻に迎えた。[Apo.1.9.10]
BC1276年、Amphitryonは、従妹Alcmenaと結婚した。[Apo.2.4.8, Herod.2.145]
BC1276年、Polybusは、祖父Sicyonの跡を継いで王になり、CorinthのTeneaからSicyonへ移住した。[Euseb.175, Paus.2.6.6]
** Oedipusは、Sicyonへ移住したPolybusの跡を継いでTeneaの村を治めたと思われる。
BC1276年、CorinthのOedipusは、Hyperphasの娘Iocastaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusのTenea継承を正当化するための結婚で、HyperphasはCorinthの支配層の人物と思われる。
BC1276年、Perseisの子Aeetesの娘Circeは、Colchis地方からSauromataeの地の王のもとへ嫁いだ。[Diod.4.45.4]
BC1276年、Ixionは、Diaと結婚して、息子Peirithous (or Pirithous, Perithous)が生まれた。[Diod.4.69.3, Apo.1.8.2, Strabo.9.5.19]
< Heracles's Thebes period (24年間) >
BC1275年、Heraclesは、AmphitryonとAlcmenaとの間の息子として、Thebesで生まれた。[Herod.6.53, Paus.5.8.3, Apo.2.4.5]
** HeraclesとIphiclesは、双子であったという伝承があるが、作り話と思われる。[Arist.HA.7.4.15, Pind.Py.9.75, Pliny.7.49, Solinus.1.60]
BC1275年、Eurystheusは、Sthenelusの息子として、Mycenaeで生まれた。[Apo.2.4.5]
** EurystheusとHeraclesは同年生まれであった。[Apo.2.4.5, Home.Il.19.95]
BC1275年、Actorの子Ctimenusは、PhthiaからDolopia地方のXynian湖近くへ移住し、Ctimeneを創建した。[Apollo.1.65から推定]
BC1275年、Actorの子Perieresは、Spercheius川の近くへ移住した。[Home.16.168から推定]
BC1275年、HyettusはArisbasの子Molurusを殺して、ArgosからBoeotiaへ移住して、Hyettusを創建した。[Paus.9.36.6]
** Hyettusは、Hippotesの子Aeolusの子Salmoneusの娘Tyroの子Amythaonの子Biasの息子と思われる。
** Hyettusは、Minyasの子Orchomenusから土地を分け与えられた。[Paus.9.36.6]
** Orchomenusは、Sisyphusの子Almusの娘Chrysogeneiaの子Chrysesの子Minyasの息子であった。
** つまり、Hyettusは、同じHellenesのOrchomenusを頼って移住した。
** Arisbasは、Argos宗家のMegapenthesの息子と思われる。ArisbasをBiasやMelampusの息子とするのは、年代的に無理である。
BC1275年、Peliasの娘Euadneは、IolcusからPhocisに住むCephalusの子Canesに嫁いだ。[Diod.4.53.2]
BC1274年、Kadeshの戦い (HittiteとEgyptの戦い)
** Hittiteの援軍としてLukka lands(Lycia)からも参戦している。[wiki:Lukka lands]
** BC1277年、Sarpedonは、Lycusに土地を分けているので、それ以前にMiletusからLyciaへ移住していた筈である。
** Kadeshの戦いに部隊を派遣したのは、Sarpedon以前にHittiteと関りのあったSolymiであったと思われる。
BC1272年、Myrmidonの子Erysichthonの娘Mestraは、Tricaに住むDeimachusの子Autolycusに嫁いだ。[Ovid.Ibis.413]
BC1270年、Aethusaの子Eleutherの子Iasiusの子Chaeresilausの子Poemanderは、Eleutheraeから移住してTanagra創建した。[Paus.9.20.1]
** Poemanderは、Gephyraeansと共住していた。
** Poemanderの孫Poemanderが、BC1200年にTanagra周辺からGephyraeansを追い出した。[Herod.5.61]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansはBoeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
BC1270年、MiraのKupanta-Kuruntaは、Miletus<Atpa>にCelaeneus<Piyama-Radu>の身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Miletus]
BC1270年、叙事詩人Linusは、ThebesからEuboea島のChalcisへ移住した。[Diogenes.1.4, Suda.lambda. 568]
BC1270年、Presbonの子Clymenusは、Minyasの子Orchomenusの跡を継いで、Orchomenus王になった。[Paus.9.37.1]
BC1270年、Minyansは、PylusからEleia地方南部のTriphylia地方へ移住した。[Strabo.8.3.19]
BC1268年、PelopsがPisaで死去した。[Paus.5.13.4]
BC1268年、Jasonは、Aesonis (or Aeson)に住むMinyansと共にColchisへ遠征した。[FGrH.Nr8.F3から推定]
** Athamasの子PresbonがColchisからBoeotiaへ帰還した後も両者の間に交流があったと思われる。
** その航海術を持ったMinyansと共に、JasonがColchisへ遠征したと思われる。[Paus.9.34.8]
BC1268年、Jasonは、Aeetesの娘Medeaと結婚した。[Diod.4.46.4, Paus.2.3.11]
BC1268年、Heraclesの異母兄Iphiclesは、Pelopsの子Alcathousの娘Automedusaと結婚した。[Apo.2.4.11]
** IphiclesとAutomedusaの結婚は、Perseusの息子たちとPelopsの娘たちの結婚の後の世代の結婚であった。
** IphiclesはPerseusの曾孫であり、AutomedusaはPelopsの孫娘であった。
BC1268年、Daedalionの子Philammonは、Parnassus山の近くからChalcidice半島北部へ移住した。[Paus.4.33.3とStrabo.7.8.3から推定]
** Philammonの妻Argiopeは、Odrysianであった。[Paus.4.33.3]
BC1268年、Aethalidesは、父からItonusを継ぎ、IolcusのPeliasの娘Pelopiaと結婚した。[Apo.2.7.7, Tzetzes.2.460]
BC1267年、Iolausは、IphiclesとAutomedusaとの間の息子として、Thebesで生まれた。[Apo.2.4.11]
BC1267年、Calydonの子Oeneusは、Thestiusの娘Althaeaと結婚した。[Apo.1.8.1, Diod.4.34, Strabo.10.3.6]
BC1266年、Calydonの娘Protogeniaは、Amphissaに住むAetolusの子Andraemonに嫁いだ。[Apo.1.7.7から推定]
BC1266年、HyrminaのPhorbasの子Actorは、Aetolia地方のPleuronからMolusの娘Molioneを妻に迎えて、双子の息子たち、CteatusとEurytusが生まれた。[Apo.2.7.2, Paus.5.2.1]
BC1265年、Amphitryonは、Heraclesをthe temple of Apollo Ismeniasの1年任期の祭司にして、青銅の鼎を奉納した。[Paus.9.10.4]
BC1265年、Corinth王Marathonの子Corinthusが死んだ。[Paus.2.3.10]
BC1265年、Dexamenusの子Hipponousは、AchaiaのOlenusからAetoliaへ移住して、Olenusを創建した。[Strabo.8.7.4]
** Olenusの近くのPleuronは、Dexamenusの兄弟Actorの妻Molioneの出身地であった。[FGrH.333.79]
BC1265年、Oebalusの子Tyndareusは、SpartaからAetoliaへ移住した。[Apo.3.10.5, Strabo.10.2.24, Paus.3.1.4]
** Hippocoonが、TyndareusとIcariusを追放した。[Apo.3.10.5, Strabo.10.2.24]
** HippocoonがTyndareusを追放した。[Paus.3.1.4]
** Tyndareusの自発的な移住であり、Tyndareusと一緒へ移住したのは、Icariusではなく、Idasであった。
** Tyndareus は、PleuronのThestiusに嫁いだ異父姉妹のDeidamiaを頼って移住したと思われる。
BC1265年、Idasは、PleuronのEvenusの娘Marpessaと結婚した。[Apo.1.7.8, Paus.4.2.7]
** Tyndareusは、Pleuronへ行く前にAphareusのもとへ行き、同年代のIdasも一緒にPleuronに行ったと推定される。[Paus.3.1.4]
** Idasの母Areneは、Tyndareusの姉であった。つまり、IdasはTyndareusの甥であった。
BC1265年、Aethusaの子EleutherはCithaeron山近くへ移住して、Eleutheraeを創建した。[StephByz.E265.10]
BC1265年、Mursili III(Urhi-Teshup)は、叔父Hattusili III(即位前)を攻撃した。[wiki: Mursili III]
** WilusaとAhhiyawaはMursili IIIを支援したが敗れ、Wilusaは独立した。[wiki: Piyama-Radu(galega語)]
BC1265年、Polybusの娘Lysianassaは、SicyonからArgosのTalausに嫁入りした。[Paus.2.6.6]
BC1265年、Minosの息子たち、Eurymedon、Nephalion、Chryses、Philolausは、CreteからParosへ移住した。[Apo.2.5.9, Apo.3.1.2]
BC1265年、Metionの子Eupalamusの子DaedalusはAegeusに追われて、Crete島へ移住した。[Apo.3.15.8, Hyginus.244, Paus.1.21.4, Tzetzes.1.490から推定]
** Daedalusが、Minosの子AndrogeusとPallasの息子たちとを結び付けたと推定される。
BC1265年、Pyrgeusの子Lepreusに率いられたCauconesは、Eleia地方南部へ移住して、Lepreusを創建した。[Paus.5.5.4]
BC1264年、Melampusの子Mantiusは、Calydonへ亡命した。[Apo.1.7.7およびOeclesとHypermnestraと結婚から推定]
** Calydonは、Mantiusの父Melampusの姉妹Aeoliaの嫁ぎ先であった。[Apo.1.7.7]
BC1264年、Mantiusの子Oeclesは、PleuronのThestiusの娘Hypermnestraと結婚した。[Diod.4.68.5, Hyginus.70, Paus.6.17.6]
** Thestiusは、Mantiusの叔母Aeoliaの夫Calydonの兄弟Pleuronの息子であった。つまり、OeclesとHypermnestraは、義理の又従兄妹。
BC1264年、Labdacusの子Laiusは、PhocisのPanopeusの近くのthe Cleft Roadで死んだ。[Apo.3.15.7, Paus.10.5.4]
** Rome時代、PhocisのPanopeusにPhlegyansが住んでいた。[Paus.10.4.1]
** BC1215年にPhlegyansは、Thebesに味方するために、the Minyan countryから来た。[Paus.9.9.2]
** PlataeaのDamasistratusがLaiusの遺体を葬った。[Apo.3.5.8, Paus.10.5.4]
** Damasistratusの妻は、Asopus河神の娘Tanagraの姉妹Plataeaと思われる。[推定]
** Damasistratusの父Iasiusは、Laiusの後見人Amphionの兄弟であった。[Paus.9.20.1からの推定]
** LaiusはPlataeaのDamasistratusと共にPanopeusのTityusと戦い、戦死したと思われる。
BC1264年、Creonは、Thebes王に即位した。[Apo.3.5.8, Hyginus.67]
** Laiusには多くの息子たちがいたと思われる。Creonは王ではなく、Laiusの息子の後見人であったと思われる。
BC1264年、Minosの子Androgeusは、Aegeus治下のAthensで殺害された。[Apo.3.15.8, Diod.4.60.5]
** Aegeusは、Androgeusが自分の政敵Pallasの息子たちと親密であったために殺害した。[Diod.4.60.4-5]
** Minosの子AndrogeusはLaiusの葬送競技会参加のためにThebesに赴く途中であった。[Apo.3.15.7]
** AndrogeusはMarathonの雄牛に殺された。[Apo.3.15.8, Paus.1.27.10]
** Androgeusは、戦争中に殺された。[Hyginus.41]
** この後、MinosとMegaraの戦いは伝えられているが、MinosとAthensの戦いは不明である。
BC1264年、Minosは、Pandionの子Nisus治下のMegaraを攻撃した。[Apo.3.15.8]
BC1264年、AtheniansはMinosと、9年目ごとに、若い男女7人ずつを貢納することで、和議を結んだ。[Plut.These.15]
BC1264年、Minosは、Ceos島を攻撃して、捕虜にしたDexitheaを妻にした。[Apo.3.1.2, Bacchy.1.180]
** Dexitheaは、AristaeusがCeos島に残した子供の子孫と思われる。[Diod.4.82.4]
BC1264年、Pandionの子Nisusは、Minosとの戦いで戦死した。[Apo.3.15.8, Paus.1.39.5]
BC1264年、Hippomenesの子Megareusは、OnchestusからMegaraに駆け付けて、Minosと戦って戦死した。[Apo.3.15.8, Paus.1.39.5]
BC1264年、Minosの兄弟Rhadamanthusは、Onchestusへ移住した。[Apo.2.4.11, Plut.Lysa.28]
** MinosとThebesは、良好な関係にあった。[Apo.3.15.7, Tzetzes.1.560]
BC1264年、Pelopsの子Alcathousは、Megara王を継承して城壁を造成した。[Paus.1.41.6, Paus.1.42.4]
** Alcathous の最初の妻Pyrgoの墓がMegaraにあったことから、つぎのように推定される。[Paus.1.43.4]
** Pyrgoは、Nisusと王権を争った、Pylasの子Scironの娘であった。Nisusと娘婿Megareusがともに戦死して、Megaraの跡継ぎが絶えた。
** Pyrgoの夫AlcathousがMegaraを継承して、妻Pyrgoが死んだ後で、Nisusの孫娘Euaechmeを妻にした。
** AlcathousはNisusの死後、Minosと和議を結んだ。Alcathousの娘Periboeaも貢物となった。[Paus.1.17.3; 1.42.2]
BC1264年、Aegeusは、TroezenのPittheusのもとへ亡命した。[Apo.3.15.8, Euri.SupW.1から推定]
** Alcathousは、Pallasの息子たちによって追放されていたAegeusに亡命先としてTroezenのPittheusを紹介したと思われる。
BC1264年、Minos、Aegina島にCretansを入植させる[Strabo.8.6.16から推定]
BC1264年、Elatusの子Ampycusは、従兄弟Aeolusの子Melaneusが創建したOechaliaへ移住した。[Hyginus.14]
BC1263年、Theseusは、AegeusとAethraとの間の息子として、Troezenで生まれた。[Apo.3.16.1, Euseb.185, Hyginus.14]
** Aethraの父Pittheusが神託に従って、Aegeusに嫁がせた。[Euri.SupW.1]
** Aegeusの帰還を手助けしたのは、TroezenからAtticaへ移住したTroezenの2人の息子たち、AnaphlystusとSphettusと思われる。[Paus.2.30.9]
** SphettusはTheseusの治世に1つにまとめた12の町の中にあるので、少なくともSphettusの移住は、Theseusの時代以前と思われる。[Strabo.9.1.20]
BC1263年、Amphiarausは、OeclesとHypermnestraとの間の息子として生まれた。[Home.Od.15.220, Hyginus.70, Paus.6.17.6, Diod.4.68.5]
** Amphiarausは、Calydonian Boar HantへはArgosから参加した。[Apo.1.8.2]
** Amphiarausは、AdrastusのThebes攻めの時には、Pylosから参加した。[Hyginus.70]
BC1262年、Aegeusは、Troezenの息子たち、AnaphlystusとSphettusの協力を得て、Athensへ帰還した。[Paus.2.30.9から推定]
BC1262年、Troezenの子Anaphlystusは、AtticaにAnaphlystusを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1262年、Troezenの子Sphettusは、AtticaにSphettusを創建した。[Paus.2.30.9]
BC1262年、Heraclesは、音楽の師Ismeniusの子Linusを殺害した。[Aelia.3.32, Paus.9.29.9]
** 叙事詩人Linusの父は、Amphimarusである。Heraclesと叙事詩人Linusは同時代に生きていたが面識はなかったと思われる。
BC1262年、Picusが死去して、FaunusがLaurentumを継承した。[Euseb.Chron.283]
BC1262年、MycenaeのSthenelusが死去した。[推定]
BC1262年、Sthenelusの子Eurystheusは、Mycenae王に即位した。[Euseb.Chron.179, Strabo.8.6.19]
** Eurystheusの治世は、45年間であった。[JeromeChro.1308]
BC1262年、Locrusの子Opusは、LocrisにOpusを創建した。[Pind.Ol.9.65]
** Locrusの名前に因んで、Locrusの住む地方は、Locris、地方に住む人々は、Locriansと呼ばれるようになった。[Ps-Scym.587]
BC1262年、Actorの子Menoetiusは、PhthiaからLocrisへ移住して、Opusの創建に参加した。[Pind.Ol.9.65]
** Menoetiusは、Opusの信任を得て、町を任せられた。[Pind.Ol.9.65]
** Menoetiusは、Heraclesの友人であった。[Diod.4.39.1]
BC1262年、EuboeaのCriusの息子は、Delphiの神域や周辺を荒らして討ち取られた。[Paus.10.6.6, Paus.10.7.1]
** Criusの息子を殺したのはApolloであった。[Paus.10.6.6] Apolloは、Orchomenusの娘Elareの子Tityusを殺した。[Apo.1.4.1]
** 以上のことから、Criusの息子は、Elareの子Tityusと推定される。
** Tityusの墓は、Panopeusにあった。[Paus.10.4.5]
** Tityusの娘Europaは、Cephisus 川の近くに住んでいた。[Pind.Py.4.45]
** 以上のことから、Tityusは、父Criusが住むEuboeaから祖父が住むOrchomenusの近くへ移住して、Panopeusに住んでいた。
** Tityusを殺したApolloは、以下のことから、Carmanorの子Eubulus (or Phoenix)と推定される。
** CarmanorはApolloを清めた。[Paus.2.30.3] ApolloはCarmanorの家でMinosの娘Acacallisと結婚した。[Paus.10.16.5]
** Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、女神Dictynna (or Aphaea)になった。[Paus.2.30.3]
BC1262年、Carmanorと彼の息子Eubulusは、Crete島西南部のTarrhaへ移住した。[Paus.10.16.5]
BC1261年、Pieriaに住むAcessamenusの娘Periboeaは、Mygdoniaに住むMygdonの子Axiusに嫁いだ。[Home.Il.21.136]
** Acessamenusは、Aeolusの子Magnesの子Pierusの息子と思われる。
BC1260年、Asclepiusは、Triccaで誕生した。[Strabo.14.1.39]
BC1260年、Aeacusは、AthensやGreeceの干ばつで雨乞いを行った。[Cleme.Str.6.3, Diod.4.61.1, Paus.1.44.9, Paus.2.29.7, Paus.2.30.4]
BC1260年、Heraclesの従兄弟で、Licymniusの子OeonusがHippocoonの息子たちに殺された。[Diod.4.33.5, Paus.3.15.4]
BC1260年、AthensのAegeusは、9年ごとに若い男女7人ずつを人質として島へ送ることを条件にMinosと和睦した。[Diod.4.61.3]
** 2回目は、BC1251。3回目は、BC1242。Theseusは、21歳。
BC1260年、Elatus(or Eilatus)の子Ischysは、Triccaの住人を追放した。[Plut.Lucu.23, Strabo.12.3.11から推定]
BC1260年、Deimachusの子Autolycusは、TriccaからPontus海南岸のSinopeへ移住した。[Plut.Lucu.23, Strabo.12.3.11]
** Autolycusは、BC1268年、Jasonの遠征に参加して、Pontus海方面を知っていたと思われる。[Apollo.2.946から推定]
BC1260年、Opusの子Cynusは、Opusの近くにCynusを創建した。[Strabo.9.4.2]
BC1260年、Aeneusの子Cyzicusは、Propontis海のHerron島にCyzicusを創建した。[StephByz.K391.4]
BC1258年、Iphiclusの子Protesilausは、Phylaceの北東のIolcusからAcastusの娘Laodamiaを妻に迎えた。[Hyginus.103]
BC1258年、Amphitryonは、Boeotiaに侵入したEuboeaのChalcisのChalcodonと戦って、勝利した。[Paus.9.19.3]
** Chalcodonの子Elephenorは、Troy遠征に参加しているので、Chalcodonの死の直前に生まれたと推定される。
** Chalcodonの娘Chalciopeは、この頃、AthensのAegeusと結婚した。[Apo.3.15.6, Athen.556f]
** 後に、Theseusの息子たちは、Chalciopeの弟Elephenorのもとへ避難した。[Plut.These.35]
BC1257年、Heraclesは、Cithaeronの獅子を退治した。[Apo.2.4.9]
BC1257年、Heraclesは、BoeotiaのThespiaeの王Thespiusの歓待を受けた。[Apo.2.4.9]
BC1256年、Heraclesは、父Amphitryonと共にTroezenのPittheusを訪問した。[ErginusのThebes攻めに彼らがいなかったことから推定]
** Pittheusは、Heraclesの母Alcmenaの母Eurydice (or Lysidice)の兄弟であった。
BC1256年、Theseusは、TroezenのPittheusの家で、獅子の皮を敷いて座っているHeraclesを見た。[Paus.1.27.7]
** Pittheusは、Theseusの母方の祖父であった。
BC1256年、Presbonの子Clymenusは、OnchestusでThebesのCreonの子Menoeceusの御者Perieresに殺された。[Apo.2.4.11]
** 殺されたClymenusの娘で、Troyの戦士最年長Nestorの妻Eurydiceは、長女であったことから、この頃の出来事だと思われる。[Home.Od.3.452]
** AmphitryonとHeraclesは、旅に出ていて、Thebesにいなかったと思われる。[Apo.2.4.9から推定]
BC1256年、Minyansの王Clymenusの子Erginusは、Thebesに攻め込んで勝利して、Thebesに20年間の貢納を課した。[Apo.2.4.11]
BC1256年、Heraclesは、Minyansの王Erginusと戦って勝利した。[Apo.2.4.11, Diod.4.10.5, Strabo.9.2.40]
** Heraclesが成人すると、Thebansは貢納から解放され、Minyansは戦いに敗れた。[Paus.9.37.2]
** ErginusとThebesは、和議を結んだ。[Paus.9.37.3]
BC1256年、Oedipusの息子たち、PhrastorとLaonytusは、Erginusとの戦いで戦死した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusがThebesへ帰還する前なので、Oedipusの息子たちは、Corinthから駆け付けたと思われる。
BC1256年、Heraclesは、Erginusとの戦いでの勝利を記念して、ThebesのArtemisの神殿に獅子の石像を奉納した。[Paus.9.17.2]
BC1256年、Amphitryonは、Erginusとの戦いで戦死した。[Apo.2.4.11]
BC1256年、Oebalusの子Icariusは、Orsilochusの娘Dorodocheと結婚した。[FGrH.Nr333.F128]
BC1256年、Oebalusの子Icariusは、Spartaの南にPharisを創建した。[Paus.4.16.8とFGrH.Nr333.F128から推定]
** Pharisは、Pharaeとも呼ばれていた。[Paus.4.16.8]
** Orsilochusの母Telegoneの父Pharisは、Messenia湾に流れ込むNedon川の河口近くに、Pharaeを創建した。[Paus.4.30.2]
** Icariusは、創建した町を妻Dorodocheの出身地Pharaeと同じ名前、あるいは、Pharaeの創建者Pharisの名前で呼んだと思われる。
BC1256年、Megareusの子Hippomenesは、Onchestusから追い出されてArcadiaへ移住した。[Apo.3.9.2, Hyginus.185]
BC1256年、BoeotiaのSchoenusのSchoeneusは、Thebesから圧迫されて、Arcadiaへ移住した。[Paus.8.35.10, Plut.Lysa.29.7, Tzetzes.1.560, Strabo.9.2.22]
BC1256年、Onchestusの子Plataeusの子Copaeusは、Onchestusから追い出されてCopais Lake対岸へ移住して、Copaeを創建した。[StephByz.K401.12から推定]
BC1256年、Opusに属していたLarymnaがBoeotia地方に属するようになった。[Paus.9.23.7]
BC1256年、Aeacusの子Phocusは、Aegina島からPhocis北西部のNaubolenses(後のDrymaea)の近くへ移住した。[Paus.10.1.1, 10.33.12]
BC1256年、Aeacusの子Telamonは、Aegina島からSalamis島へ移住して、Cychreusの娘Glauceと結婚した。[Diod.4.72.7]
** PeleusとTelamonは、それぞれ別の場所からArgonautsに参加した。[Apollo.1.90]
BC1256年、Aeacusの子Peleusは、Aegina島からPhthiaのActorの子Eurytionのもとへ移住した。[Apo.3.13.1]
BC1256年、Peleusは、Eurytionの娘Antigoneと結婚して、娘Polydoraが生まれた。[Apo.3.13.1]
** Antigoneの父Eurytionの父Actorは、Peleusの父Aeacusの父であり、AntigoneはPeleusの従兄妹であった。[Apo.3.13.1]
BC1256年、Laomedonの子Tithonusは、Persesの孫娘Cissiaを妻にした。[Strabo.15.3.2, Dictys.4.4, Apo.3.12.4, Diod.4.75.4]
BC1256年、Minosの娘Ariadneの子Thoasは、Naxos島からLemnos島へ移住した。[Diod.5.79.2]
BC1255年、Oedipusは、Hyperphasの娘Euryganeiaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** OedipusとEuryganeiaとの結婚は、Erginusとの戦いの1年後であった。[FGrH.Nr333.F95]
BC1255年、Heraclesは、Creonの娘Megaraと結婚した。[Apo.2.4.11, Diod.4.10.6]
BC1255年、Iphiclesは、Creonの娘Megaraの妹と結婚した。[Apo.2.4.11]
** Iphiclesも戦いに大きく貢献した結果であると思われる。
** Iphiclesの2人の息子たちは、Heraclesの子供たちと一緒に死んだ。[Apo.2.4.12]
** Amphitryonの墓の隣には、Heraclesの子供たちの墓があった。[Paus.1.41.1]
** 以上のことから、IphiclesとCreonの娘との結婚は、実際はなかったのかもしれない。
BC1255年、Alcmenaは、Thebansから栄誉を授けられた。[Diod.4.58.6]
BC1255年、Alcmenaは、Rhadamanthusと再婚し、HariartosのOcaleaeに居住した。[Apo.3.1.2, Apo.2.4.11, Plut.Lysand.28]
BC1255年、DelphiのThemisの神託所が、Apolloの神託所になった。[Paus.10.16.5, Paus.10.23.2, Paus.1.4.4]
** PhemonoeがApolloの最初の女性予言者となり、はじめて6脚韻詩で神託を吟調した。[Paus.10.5.7, Newton.Chro.143]
BC1252年、Amphitryonの娘Laonomeは、Theiodamas(or Theodamas)の子Euphemusに嫁いだ。[Tzetzes.2.610]
BC1252年、Eurystheusは、TegeaのAmphidamasの娘Antimacheと結婚した。[Apo.3.9.2]
** Antimacheの父Amphidamasの父Lycurgusの父Aleusは、Eurystheusの父Sthenelusの妻Antibiaの父Amphidamasの父であった。
** つまり、Eurystheusは、父Sthenelusの妻Antibiaの従兄妹Amphidamasの娘Antimacheと結婚した。
BC1252年、Cretheusの子Peliasの娘Alcestisは、Messenia地方のOechaliaのEurytusの子Hippasusへ嫁いだ。[FGrH.Nr325.F9]
BC1251年、Heraclesは、Megaraとの子供3人とIphiclesの子供2人を死なせた。[Apo.2.4.12, Diod.4.11.1]
** Pindarは、息子8人と伝えているが、多過ぎと思われる。[FGrH.Nr333.F14, Pind.Is.4.50]
** Heraclesの子供たちは、恐らくMegaraの失火による火事で死んだと思われる。[Apo.2.4.12から推定]
BC1251年、HeraclesはMegaraを離縁して、IolausにMegaraと結婚させた。[Apo.2.6.1, Diod.4.31.1]
** Heraclesは、Megaraとの結婚を「神から祝福されない結婚」と思ったようである。[Paus.10.29.7]
< Heracles's Tiryns period (3年間) >
BC1251年、Heraclesは、Thebesから彼の父Amphitryonが領していたTirynsへ移住した。[Apo.2.4.12, Diod.4.10.6]
** 神託により、Heraclesは、Eurystheusのもとで功業をすることになった。[Apo.2.4.12]
BC1251年、Licymniusは、Thebesから彼の父Electryonが領していたMideaへ移住した。[Apo.2.4.8, Diod.4.33.2から推定]
** LicymniusはAlcmenaと共にThebesへ行き、Heraclesと共に行動していた。[Apo.2.4.8]
** HeraclesがTirynsを去った時に同行した人々の中に、Licymniusの名前がない。[Diod.4.33.2]
** MycenaeのEurystheusは、Argosに対抗するために、身内であるHeraclesやLicymniusを喜んで迎えたと思われる。
BC1251年、Pelopsの子Atreusは、Mideaから北へ移住して、Cleonaeを創建した。[FGrH.Nr2.F3, FGrH.Nr333.F20]
BC1251年、Pelopsの子Thyestesは、MideaからCythera島へ移住した。[FGrH.10.11とTzetzes.1.460とHome.Od.4.512から推定]
** AtreusとThyestesの移住は、LicymniusのThebesからMideaへの帰還が原因と思われる。
** Licymniusは、HeraclesとOechaliaのEurytusとの戦いの前には、Heraclesと合流している。[Apo.2.7.7]
** Cythera島は、交易拠点として重要であったと推定される。
BC1251年、Carmanorの娘Chrysothemisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1250年、ArcadiaのLycurgusは、Triphylia地方のAreneのAreithousと戦って、Areithousを討ち取った。[Home.7.8, FGrH.Nr333.F158]
BC1250年、Heraclesは、Eleusisの秘儀に入門するため、AthenianのPyliusの養子になった。[Apo.2.5.12, Plut.These.33]
** Eleusisの応対者は、Orpheusの子Musaeus[Diod.4.25.1]、Eumolpus[Apo.2.5.12]、不明[FGrH.Nr334.F20]
** Heraclesを応対した人物は、密儀を定めた大司祭Eumolpusの父で、Antiophemusの息子のMusaeusと思われる。
BC1250年、Melampusは、GreeceにDionysusの儀式を紹介した。[Herod.2.49]
BC1250年、Minosの娘AriadneとOenarusは、Dionysusの儀式を広めるため、Naxos島からPeroponessusを訪問した。[Paus.2.23.8, Paus.3.13.7]
** Dionysusを招いたのは、Amythaonの子Melampusと思われる。[Herod.2.49]
** Choreaの墓がArgosにある。[Paus.2.20.4] Choreaは、Leucippusの娘の一人で、Naxos島の王Smerdiusの姉妹と思われる。[Diod.5.51.3]
** OenarusとAriadneが率いた訪問団は、Messeniaも訪問した。[Paus.4.31.4]
** OenarusとAriadneに同行した女人の合葬墓もArgosにあった。[Paus.2.22.1]
BC1250年、OenarusとAriadneとの間の息子Phliasusは、跡継ぎの絶えたPhliusを継承した。[Paus.2.6.6]
** Phliasusは、父Oenarusを通して、Phliusの創建者と繋がりがあった。
** Lemnos島に住んでいたThoasの娘Hypsipyleは、両親が死んで、孤児になり、Phliasusの養女になったと思われる。
** Lemnos島へは、Thoasと共にNaxos島から移住した人々がいて、Dionysus(Oenarus)の遠征に参加したと思われる。
** Hypsipyleの両親は、疫病で死んだと推定される。Lemnos島で疫病が猛威を振るった。[Thucy.2.47]
BC1250年、Hodoedocusの子Oileus(or Oeleus)は、LocrisのCynusの西方にNarycusを創建した。[Hyginus.14]
BC1250年、Actorの子Ceyxは、PhthiaからOeta山麓へ移住して、Trachisを創建した。[Home.Il.2.681から推定]
BC1250年、Pierusの子Linusの子Pierusは、MacedoniaのPieriaからThespiaeへ移住した。[Paus.9.29.3]
BC1250年、Phocusの子Panopeusは、Naubolenses(後のDrymaea)からPanopeusへ移住した。[Paus.10.4.1]
** Phocusの子Panopeusは、Naubolusの子Iphitusと一緒へ移住したと推定される。
** Iphitusは、Panopeusの兄弟Crisusの妻Antiphateiaの兄弟であった。つまり、PanopeusとIphitusは義兄弟であった。
** Panopeusには、Naubolusの父Ornytusの兄弟と思われるCriusの子Tityosが住んでいたが、Thebesとの戦いで死んだ。
BC1250年、Ornytusの子Naubolusの子Iphitus(or Perimedes)は、NaubolensesからPanopeusへ移住した。[Apollo.1.207から推定]
** Phocusの子Panopeusの名前に因んで、Panopeusと呼ばれるようになった。[Paus.10.4.1]
** Iphitusは、JasonがArgonautsの遠征を前にしてDelpiを訪問した際に案内役を務めた。[Apo.1.9.16, Apollo.1.207, Home.2.517]
** したがって、IphitusがPanopeusへ移住したのは、Argonautsの遠征より前である。
BC1250年、叙事詩人LinusはChalcisで死に、その地に埋葬された。[Diogenes.1.4, Suda.lambda. 568]
BC1250年、Hattusili IIIは、Ahhiyawa王へCelaeneus<Piyama-Radu>の身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Tawagalawa letter]
BC1250年、Eleia南部のLepreusに住むCauconesは、Lepreusの横暴に耐え切れずにLyciaへ移住した。[Strabo.断片.63]
BC1250年、Tawagalawa letter (CTH 181)
** Hattusili III(BC1265-35)からAhhiyawa王に宛てた書簡[wiki: Tawagalawa letter]
** Tawagalawaは、Ahhiyawa王の兄弟[wiki: Tawagalawa letter]
** Lukkaでの反乱が失敗して、Ahhiyawaへ逃亡したPiyama-Raduの身柄の引き渡しを要求した。[wiki: Tawagalawa letter]
** Hittiteに反抗する活動を抑制するようにAhhiyawa王に要請している。[wiki: Tawagalawa letter]
** Hittiteから命令ではなく、依頼。AhhiyawaがHittiteと同等の勢力を持ったと思われる。[wiki: Tawagalawa letter]
** Troyをめぐって、HittiteとAhhiyawaはかつて敵対していたが、現在は、良好な関係にあった。[wiki: Tawagalawa letter]
BC1250年、Priamは、Amazonsに攻められたPhrygiaに援軍として駆け付けた。[Strabo.12.3.24, Strabo.12.8.6, Home.3.181]
** Priamは、Amazonsと戦っていたOtreus(Laomedonの妻Placia (or Leucippe)の父)とMygdonに援軍として駆け付けた。[Home.3.181]
BC1250年、Teucerは、Aeacusの子Telamonの息子として誕生した。[Apo.3.10.8, Hyginus.97, VellePat.1.1.1, Strabo.14.6.3]
** Teucerの母は、TroyのLaomedonの娘Hesioneと伝えられる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** この伝承は、Trojansと共にSalamisを創建したTeucerの後裔が、住民を従わせるために流布した作り話と思われる。[Athen.256b]
** Teucerの母は、Telamonの最初の妻、Cychreusの娘Glauceと思われる。
BC1250年、Minosの子Androgeusの子Alcaeusは、Crete島からParos島へ移住した。[Diod.5.79.2]
BC1250年、Charopsの子Ismeniusの子Linusは、BisaltiaからThebesへ移住した。[Paus.9.29.9から推定]
** Linusの母Calliopeの兄弟Linusの子Pierusは、BoeotiaのThespiaeに住んでいた。[Paus.9.29.3]
BC1249年、AriadneはArgosで死に、その地に埋葬された。[Paus.2.23.8]
BC1249年、Augeasは、Elisで競技会を開催した。[FGrH.Nr333.F118, Home.Il.11.655]
** 競技会の開催地は、Elisではなく、Olympiaと思われる。[Paus.5.8.3]
BC1248年、Heraclesは、TirynsでOechaliaのEurytusの息子Iphitusを殺害した。[Apo.2.6.2, Diod.4.31.3]
** この当時、EurytusがいたOechaliaとは、Euboeaではなく、MesseniaのOechaliaであった。
BC1248年、Heraclesは、Heraclesは悪病に襲われ、Neleusに罪の清めを依頼して拒否される[Diod.4.31.4]
BC1248年、Heraclesは、SpartaのHippocoonに罪の清めを依頼して拒否される[Paus.3.15.3]
BC1248年、Heraclesは、Sparta近くのAmyclaeのDeiphobusにより罪の清めを行う[Diod.4.31.5]
< Heracles's Lydia period (3年間) >
BC1248年、Heraclesは、LydiaのOmphaleの下で奉仕した。[Apo.2.6.3, Diod.4.31.5, Herod.1.7, Tzetzes.2.420]
** Heraclesは、Iphitusを殺した後で病気になり、神託により、奴隷になることを求められた。[Apo.2.6.3, Diod.4.31.5, Tzetzes.2.420]
** Heraclesは、Omphaleの下で3年間奉仕した。[Apo.2.6.2, Tzetzes.2.420]
** 当時、過失により人を殺した者は、他人のもとで一定期間奉仕するという決まり事があった。[Plut.QuestGr.37]
** Heraclesが奉仕していた間に、Argonautsの遠征、Calydonの猪狩り、Theseusの地峡での功業があった。[Apo.1.9.19, 2.6.3]
** Omphaleの居住地は、LydiaのHyllus川が流れるTimolus山の麓であったと思われる。[Home.20.379, Paus.1.35.8, Strabo.13.4.5]
BC1248年、Naubolusの子Iphitusは、神託を得るためにDelpiを訪問したJasonを案内した。[Apo.1.9.16, Apollo.1.207, Home.2.517]
BC1248年、Argonautsの遠征[Apo.1.9.16-28, Hyginus.14]
** Theseusは16歳でAthensへ行く前年に、Troezenから参加した。[Paus.1.27.8]
** 遠征は、Aegeusの治世中(BC1288-1240)であった。[Euseb.Chron.183]
** 遠征は、Minyansにより行われたが、後に当時の英雄が加わったように改められた。[FGrH.Nr8.F3]
** 金毛羊皮とは、黄金ができる手順が書かれた巻物であった。[Para.Anony.F3]
** Hylasの出身地Oechaliaは、Trachisにあった。[Hyginus.14, StephByz.O487.18, Strabo.10.1.10]
** BC6世紀、Italy半島南部の町CrotonのOrpheusが『Argonautica』を書いた。[Suda.omicron.657]
** BC2世紀、AlexandriaのDionysius of MityleneもArgonautsについて書き、それをDiodorusが引用した。[Diod.3.52.3, Suda.delta.1175]
** Jasonの仲間は、54人。[Diod.4.41.2]
** BC3世紀の叙事詩人Apollonius of Rhodesの『Argonautica』には登場しないLaertesがDiodorusに登場する。[Diod.4.48.5]
BC1248年、Aeneusの子Cyzicusは、先祖を追い出したThessaliansと知って、Argonautsの遠征隊と戦って戦死した。[Apollo.1.936, Apollo.1.961, FGrH.Nr70.F61, Hyginus.16, Hyginus.273]
BC1248年、Polyneicesは、OedipusとEuryganeiaとの間の息子として、CorinthのTeneaで生まれた。[Paus.2.20.5, Hyginus.243]
BC1247年、Carmanorの娘Chrysothemisは、the competition to sing the Pythian Apollon hymnで勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1247年、Melampusの子Mantiusは、Aetoliaから帰還し、兄弟AbasやBiasの後裔をArgosから追放した。[Pind.Ne.9.10から推定]
** Mantiusの子Oecles(or Oecleus)やMantiusの孫Amphiarausも、AetoliaからArgosへ移住した。
** この後のHeraclesのElis攻撃にArgivesが参加していることから、Mantiusの帰還にEurystheusが協力したと思われる。
BC1247年、Talausは、Amphiarausに殺害された。[Schol.Pind.N.9.30b]
BC1247年、Talausの子Adrastusは、Melampusの後裔Amphiarausと争って、SicyonのPolybusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.2, Paus.2.6.6]
** PolybusはAdrastusの母Lysianassaの父であった。
BC1247年、Talausの子Pronaxは、ArgosからSicyonとCorinthの境を流れるNemea川の上流へ移住してNemeaを創建した。[Apo.3.6.4から推定]
** Pronaxは、CorinthからAeolusの子Sisyphusの娘Nemeaを妻に迎えて、町の名前をNemeaにした。[Apo.1.9.13, Paus.5.22.6から推定]
BC1247年、Melampusの子Abasの子Polypheidesは、父と争って、AchaiaのHyperesiaへ移住した。[Home.Od.15.220]
** Polypheidesの移住は、Argosの内紛が原因と思われる。Hyperesiaの近くには、Argivesが創建したPelleneがあった。[Paus.7.26.12]
** Polypheidesは、Eleusisにも住んでいた。[FGrH.Nr333.F116]
** BC1580年にCallithyiaの子TrochilusがEleusisへ移住した後で、ArgosとEleusisは交流があったと思われる。[Paus.1.14.2]
BC1247年、Melampusの子Abasは、ArgosからThessalyのLarisa近くのPhyllusへ移住した。[Strabo.9.5.5]
** Abasの子Idmonは、ArgosからArgonautsに参加した。それまでは、Abas一家は、Argosに住んでいたと思われる。[Apollo.1.139]
BC1247年、Melampusは、孫Coeranusと共に、Megaraへ移住した。[Paus.1.43.5とPaus.1.44.5から推定]
** Melampusは、Alcathousを清めるためにMegaraを訪問したのではなく、Argosの内紛によって、移住したと思われる。[Paus.1.43.5]
BC1247年、Peleusは、DolopesのAmyntorと戦って勝った。Peleusは、Amyntorの子Crantorを人質として預かり、自身の盾持ちとした。[Ovid.Meta.12.341]
** Amyntorは、DolopesのActorの子Ctimenusの息子と思われる。つまり、Peleusの従兄弟であった。
** Ctimenusの2人の息子たち、EurydamasとEurytionは、Argonautsの遠征に参加した。[Hyginus.14]
BC1247年、Theseusは、TroezenからAthensへ行く途中で功業を行った。[Apo.3.16.1 - E.1.4, Plut.These.15]
** Theseusは、TroezenからArgonautsの遠征に、AthensからCalydonの猪狩りに参加した。[Hyginus.14, Apo.1.8.2]
** Theseusは、Heraclesの名声をずっと前から聞き知り、自分も功業を熱望していた。[Plut.These.6]
** HeraclesがLydiaのOmphaleのもとにいたので、Greeceは乱れていた。[Plut.These.6]
** Theseusは、16才になった時、その岩を押上げ、父が置いた剣とsandalsを取り出して、旅に出た。[Paus.1.27.8]
** 剣とsandalsは、男子の旅の必需品であった。Odysseyの6か所に登場する。[Home.Od.2.1, 4.306, 16.80, 17.1, 20.125, 21.340]
BC1247年、JasonとMedeaは、Corinthiansから町を任された。[Paus.2.3.10]
** JasonがCorinthusの跡を継いだ。[Paus.2.3.10]
** しかし、Euripidesに登場するCreonがCorinthusの跡を継ぎ、JasonはCreonの跡を継いだと思われる。[Medea.20]
** Jasonは、BC1237年にHeraclesと遠征するまで、10年間Corinthに住んでいた。[Apo.1.9.28]
BC1247年、Oeneusの子Meleagerは、Idasの娘Cleopatra(or Halcyone)と結婚した。[Paus.4.2.7]
BC1247年、Daedalionの子Philammonは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1246年、Calydonian boar hunt [Apo.1.8.3, Home.9.544, Hyginus.173, Paus.8.45.6-7, Strabo.10.3.6]
** AetoliansとCuretesとの間の激戦は、6日間続いた。[Bacchy.5.100]
** Argosからは、PleuronのThestiusの娘Hypermnestraを母に持つ、Oeclesの子Amphiarausのみが参加した。
BC1246年、Peleusは、Calydonの猪狩りでPhthiaのEurytionを誤って殺し、Peliasの子Acastusによって清められた。[Apo.1.8.2, Apo.3.13.2]
BC1246年、Alcathousの子Ischepolisは、Calydonの猪狩りで死んだ。[Paus.1.42.6]
BC1246年、MegaraのAlcathousは、Ischepolisの死を知らせようとした自分の息子Callipolisを殺した。[Paus.1.42.6]
** Melampusは、Alcathousを清めるためにMegaraを訪問した。[Paus.1.43.5]
** Alcathousの息子たちの死と、MelampusのMegaraへの移住をCalydonの猪狩りと絡めて作られた作り話と思われる。
** MelampusのMegara移住は、Argosの内紛が原因と思われる。
BC1246年、CalydonのOeneusは、AetoliaのOlenusのHipponousを攻めて陥落させ、Periboeaを戦利品とする。[Apo.1.8.4]
BC1246年、Aenianiansは、Ixionや彼の息子Peirithousが率いるLapithsによって、Dotiumから追われた。[Strabo.9.4.10, Strabo.9.5.22]
** Aenianiansの一部は、MolossiaのAuas川付近へ移住し、Parauaeiと呼ばれるようになった。[Plut.QuestGr.13]
BC1246年、LarisaのIxionの子Peirithousは、CentaursをPelion山から追い出した。[Apo.2.5.4, Diod.4.70.3, Paus.5.10.8]
** CentaursのCheironは、ThessalyのIolcus北東のMount Pelion周辺に居住していた。[Apo.2.5.4]
** Centaursの一部は、Peneius源流のAethicesの地方へ移住した。[Strabo.9.5.19]
** PeleusもCentaursとの戦いに参加した。Peleusの盾持ち、DolopesのAmyntorの子Crantorは戦死した。[Ovid.Meta.12.341]
** Peirithousは、Pelion山周辺を自領とした。[Strabo.9.5.19]
BC1246年、Perrhaebiansは、Lapithsに追われて、Peneius川の源流付近へ移住した。[Strabo.6.2.4, Strabo.9.5.12, Strabo.9.5.19]
BC1246年、Theseusは、Lapithsに味方して、Centaursと戦った。[Plut.These.29]
** 戦いの発端であるPeirithousの婚礼の場には、Theseusも同席していた。[Diod.4.70.3]
** Peirithousの妻Hippodameiaの父Butesは、Theseusの義理の従兄弟と思われる。
BC1246年、Theseusは、貢物の一人としてPhalerumからCreteへ行った。[Paus.1.1.2, Paus.1.22.5, Plut.These.15]
** 9年目ごと、3度目の貢納であった。[Plut.These.15, 17] Minosとの戦いはBC1264年(1回目貢納)、BC1255年(2回目貢納)
** Creteの王位は、9年を1期としていた。[Paus.3.2.4]
** MegaraのAlcathousの娘Periboeaも貢物の一人。[Paus.1.17.3; 1.42.2] Scirusの娘の子Menesthesも貢物の一人。[Plut.These.17]
** Minos自身が貢物の男女を迎えに来た。貢物を乗せる船はAtheniansが用意し、舵取りはSalamians。[Plut.These.17]
** Atheniansの若い男女がCreteへ送られたのは、競技会の勝者に与えられる奉公人としてであった。[Plut.QuestGr.35, Plut.These.16]
** 彼らの子孫は、Bottonを指導者としてMacedoniaへ移住し、Bottiaeansと呼ばれるようになった。[Plut.QuestGr.35, Plut.These.16]
** Aristotleも「Constitution of Bottiaea」の中で、若い男女は奴隷としてCreteへ送られたと述べている。[Plut.These.16]
< Heracles's Tiryns period (2年間) >
BC1245年、Heraclesは、Omphaleの下での奉仕を終えて、Tirynsへ帰った。[Apo.2.6.4]
BC1245年、HeraclesはIolausと共に、IolcusのPeliasの子Acastusが開催した葬送競技会に参加した。[Apo.3.13.2, Hyginus.273, Paus.5.17.9]
** Hyginusは、開催順に記している中で、Argonautsの遠征中の競技会の次に紹介している。[Hyginus.273]
BC1245年、Sisyphusの子Glaucusは、Peliasの葬送競技会で、馬に踏まれて死んだ。[Hyginus.250, Hyginus.273, Paus.6.20.19]
BC1245年、Hodoedocusの子Calliarusは、LocrisのCynusの近くにCalliarusを創建した。[StephByz.K349.8]
BC1245年、Idasは、CalydonからAreneへ帰還した。[推定]
BC1245年、Minos死去。
** 伝承では、Minosは、Sicily島西南部のCamicus川付近で、Sicaniの支族CamicのCocalusによって殺された。[Diod.4.79.2]
** TheseusとPhaedraとの結婚当時、Creteの支配者はDeucalionであった。[Diod.4.62.1]
** Herodotusは、Minosの死の2世代後にTrojan Warがあったと伝えている。[Herod.7.171]
BC1245年、Ariadneの子Staphylusは、Naxos島からPeparethos島へ移住した。[Diod.5.79.2, Ps-Scym.566]
** Staphylusには、兄弟Peparethusも同行し、Staphylusが島を去った後、島の名前がPeparethosになったと思われる。
BC1245年、Minosの娘Ariadneの子Oenopionは、Naxos島からChios島へ移住した。[Diod.5.79.1, Paus.7.4.8]
** Oenopionの息子たち、Talus、Euanthes、Melas、Salagus、Athamasも父と共にChios島へ移住した。[Paus.7.4.8]
BC1245年、Ariadneの子Enyeusは、Naxos島からRhodes島対岸のCyrnusへ移住した。[Diod.5.79.2, Schol.Home.Il.9.668]
BC1245年、Neleusの息子たちは、PylusからEleia地方南部のLepreatic Pylusへ移住した。[Strabo.8.3.7]
BC1245年、Carystusの子Petraeusの子Zarexは、CarystusからDelosへ移住した。[Zarexの子AniusがDelosの祭司であったことから推定]
BC1244年、Laomedonが死んだ。[Dictys.4.22, Home.20.220, Hyginus.89]
BC1244年、Troyの王位争いに敗れた者が、Miletusへ亡命した。[wiki: Milawata letterから推定]
** Miletusへ亡命したのはPriamで、一時、Troy王に即位したのは、Phaenodamasの孫Aegestusだと思われる。
** Aeneasの父Anchisesは、Hattusili IIIに攻められて、Aegestus(Acestes)と共にSicilyへ逃れたと推定される。
** Aeneasは、Sicilyで生まれたと思われる。Aeneasは、高齢のAnchisesの息子であった。[FGrH.Nr2.F39]
BC1244年、Philoctetesは、Italy半島南部のCroton地方のMacallaに定住した。[AristCorp.27.107, Strabo.6.2.5, TzeAdLyco.921-2]
** Poeasの子Philoctetesは、Sicily島へ向かうAegestusに案内されて、Anchisesと共に航海していた。[Strabo.6.2.5]
** Philoctetesの移住は、Magnesia地方のMeliboeaで内乱が発生したためであった。[Strabo.6.1.3]
BC1244年、MysiansやTeucriansが、ThraciaからIonia海に及ぶ大遠征を行った。[Herod.7.20]
** Mygdonは、Antenorに味方して居住地を追われて、Paeonia地方へ移住した。[Diod.5.64.4とHerod.5.12-15とHerod.7.20から推定]
** この時、MygdoniansがPaeoniaに定住した。[Diod.5.64.4, Herod.5.12-15]
** Mygdonと一緒にIdaean Dactyliが、Europeに渡った。[Diod.5.64.4]。彼らは、後に、Midasの富を掘り出す技術者になったと思われる
** Troyに遠征したのは、Mygdonの後裔と思われる。[Dares.18, Home.2.848, Home.21.136, Strabo.7.8.2]
** BC490年、Paeoniansの一部(Siropaeonians, Paeoplians)は、Dariusの将Megabyzusによって、Asiaへ移住させられた。[Herod.5.12-15]
BC1244年、Heraclesは、Iliumへ遠征した。[Apo.2.6.4, Diod.4.32.3, Dares.2-3, Ovid.Meta.11.200, Tzetzes.2.440]
** 遠征参加者、Heracles、Telamon、Oecles[Apo.2.6.4, Diod.4.32.3-5]
** 遠征参加者、Heracles、Telamon、Peleus、Castor、Pollux、Nestor[Dares.3]
** Argonautsの遠征の際に立ち寄ったTroy沖でLaomedonに酷い扱いをされた復讐として遠征した。[Dares.2]
** この時、Heraclesは仲間を集めるために、lettersを送った。[Dares.3]
** Laomedonの娘Hesioneは、Telamonに与えられた。[Apo.2.6.4, Ovid.Meta.11.200]
** CyprusのSalamis創建時の住民は、Trojansであった。[Athen.256b]
** Salamisを支配するTeucerの後裔が、住民を従わせるために、Teucerの母をHesioneだとする話を創作したと思われる。[Apo.3.12.7, Hyginus.97]
** この話に真実味を持たせるためにHeraclesが必要であったものと思われる。
BC1244年、Heraclesは、Iliumからの帰路にCos島のAstypalaeaの子Eurypylusと戦った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** HeraclesとCos島の話は創作と思われるが、仮にあったとすれば、つぎのようなことであったと推定される。
** Cos島の支配者Meropsが、娘Clytiaの夫Eurypylusに追われた。[Calli.Hym.4.153]
** Heraclesは、Meropsを帰還させるためにEurypylusと戦った。[FGrH.Nr333.F78]
** この時、Heraclesを負傷させたChalcodonは、Eurypylusの息子であった。[Apo.2.7.1, ComTheocId.7.5]
BC1244年、Heraclesは、Cos島を去り、Phlegraで巨人と戦って破った。[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]
** ItalyのCampaniaのPhlegra[Diod.4.21.7, Strabo.6.3.5]、Chalcidice半島のPhlegra[Strabo.7.8.3]、場所不明のPhlegra[Apo.2.7.1, Tzetzes.2.440]。いずれにしても創作と思われる。
BC1244年、Heraclesは、Paros島に住むMinosの子Eurymedonらと戦った。[Apo.2.5.9]
** Heraclesの第9番目の功業の出来事であるが、AmazonやParos島、Thasus島での話はすべて創作と思われる。
BC1244年、Minosの子Androgeusの息子たち、AlcaeusとSthenelusは、Paros島からThasus島へ移住した。[Apo.2.5.9]
BC1244年、Eleia南部のPylusのNeleusの息子たちは、Chaaの領有権を巡ってArcadiansと戦った。[Home.Il.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
** このときのArcadiaの王はLycurgusであったが、高齢のため、PsophisのCepheusが代理であったと思われる。[FGrH.Nr333.F158]
** あるいは、Lycurgusは陣中で病死したと思われる。Lycurgusの墓がTegeaではなく、Chaaの近くのLepreusにあった。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Augeasの長男Phyleusは、ElisからAcarnaniaのDulichium(Dulichia)へ移住した。[Apo.2.5.5, Diod.4.33.4, Home.Il.2.625]
** Phyleusが移住したDulichiumは、Echinades諸島の島ではなく、Cephallenia島西部のPaleisであったと思われる。[Paus.5.5.5]
BC1244年、Talausの子Adrastusは、Demonassaと結婚した。[Hyginus.71]
** 彼らの娘DeipylaをBC1243生まれとしなければならないため、この年の結婚と推定した。
BC1244年、Augeasは、Olympiaで競技会を開催した。[Paus.5.8.3]
BC1243年、Alcmenaは、再婚したRhadamanthusと死別して、BoeotiaからTirynsのHeraclesのもとへ移住した。[Diod.4.33.2から推定]
** HeraclesがTirynsからPheneusへ移住したとき、母Alcmenaも一緒にいたので、この頃、同居したものと思われる。[Diod.4.33.2]
BC1243年、Heraclesは、最初のElis攻めの軍を準備した。[Apo.2.7.2]
** Elis攻撃は、報酬未払いが原因とするのは創作と思われる。[Diod.4.33.1, Paus.5.1.9]
BC1243年、Augeasは、Heraclesの動きを知り、Actorの息子たち、CteatusとEurytusを将に任命した。[Apo.2.7.2, Paus.5.1.10]
BC1243年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦うが勝敗が付かなかった。[Diod.4.33.1, Apo.2.7.3, Paus.5.2.1]
** Phliusの子Dameonも参加したが、Actorの子Cteatusに討ち取られた。[Paus.6.20.16]
** Diodorusは、この戦いの後で、Heraclesは、AchaiaのOlenus市のDexamenusのもとに滞在したと伝えている。[Diod.4.33.1]
** しかし、Dexamenusの双子の娘たちの夫は、Actorの息子たちであり、敵方の家へHeraclesが滞在したとは思えない。[Paus.5.3.3]
BC1243年、Heraclesが病気になり、休戦した。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesが病気であるのを知ったActorの息子たちに攻撃されて、多くの者が殺された。[Apo.2.7.2]
BC1243年、Heraclesの異母兄Iphiclesは、ArcadiaのPheneusで戦いの傷が原因で死んだ。[Apo.2.7.3, Paus.8.14.9]
** Iphiclesは、Lacedaemonでの戦いで戦死したという伝承もある。[Plut.Mor.492d]
BC1243年、Amarynceusが死去。EleiaのBuprasiumで葬送競技会が開催された。[Home.Il.23.624]
** Amarynceusは、ElisのAugeasの盟友であったが、Heraclesとの戦いには登場しない。[Paus.5.1.10]
** 葬送競技会が開催されたとすれば、Heraclesとの戦いが開始されて、Actorの双子の息子たち殺される前までの間である。
BC1243年、Heraclesは、HyrminaからIsthmusへ向かう途中のActorの息子たち、CteatusとEurytusをCleonaeで襲撃して殺した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.2.1]
** Aelianusは、Heraclesに加勢したCleonaans 360人が戦死したと伝えている。[Aelia.4.5]
** しかし、Actorの息子たちの母Molioneが犯人捜しをしたことから、少人数による暗殺規模であったと思われる。[Paus.5.2.2]
** Pausaniasは、Heraclesが彼らを矢で殺したと伝えている。[Paus.2.15.1]
** 当時、Cleonaeは、創建者Atreusが住んでいた。Atreusの父Pelopsは、Heraclesの母方の曽祖父であった。
** ElisがArgosに襲撃犯の処罰を求めたとき、HeraclesはTirynsにいたので、Cleonaeでの襲撃は、HeraclesがTirynsから追放される前であった。[Paus.5.2.1]
< Heracles's Pheneus period (5年間) >
BC1243年、Heraclesは、AlcmenaとIphiclesとIolausと共にTirynsからArcadiaのPheneusへ移住した。[Diod.4.33.2]
** Elisからの要求にEurystheusが耐えられずに、Heraclesを退去させたと思われる。
** この頃のEurystheusは、息子たちが成年に達しておらず、勢力がなかったと思われる。
BC1243年、Philammonの子Thamyrisは、Pythia祭で賛歌を歌う競技会で勝利した。[Paus.10.7.2]
BC1243年、Ampycusの子Mopsusは、Oechaliaから北北東へ移住して、Gyrtonの近くにMopsiumを創建した。[Hyginus.14, Strabo.9.5.22]
BC1242年、Nestorは、OrchomenusからClymenusの娘Eurydice(or Anaxibia)を妻に迎えた。[Home.Od.3.452, Hyginus.97, Apo.1.9.9]
BC1241年、Theseusは、Minosの娘Phaedraと結婚した。[Diod.4.62.1]
** Minosの子DeucalionはAtheniansと同盟を結ぶために、PhaedraをTheseusに嫁がせた。[Diod.4.62.1]
** Minotaur伝説は、Theseusが競技会でMinosの子Asterius(別名Minotaur)に勝ったことからできた逸話と思われる。[Apo.3.1.4, Paus.2.31.1]
** Cerameicus区の名祖Minosの娘Ariadneの子Ceramusは、Theseusの妻Phaedraと共にAthensへ移住したと思われる。[Paus.1.3.1]
** Ceramicusは、Potters Quarter(陶工たちの区)であった。[Pliny.35.45.1]
** Cerameisは、陶工の工芸品とCeramusに由来する。[Suda.ka.1360]
BC1241年、Theseusは、CreteからAthensへ帰還する途中、Delos島に立ち寄った。[Plut.These.21]
** Delos島の祭司は、Theseusの父Aegeusの父Chironの子Carystusの子Zarexであったと推定される。[Plut.These.21]
BC1241年、TheseusとAmazonsのAntiopeとの間の息子Hippolytusは、祖父Pittheusの跡継ぎとなるためにTroezenへ移住した。[Diod.4.62.1]
BC1241年、Pelion山から追い出されたCentaursは、ArcadiaのPholoe山を根城にして山賊行為をしていた。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、Pholoe山のCentaursと戦った。[Apo.2.5.4]
** この戦いは、HeraclesがTegeaのCepheusに協力したもので、以後、Heraclesは、Arcadiansを戦力として加えた。
BC1241年、CentaurのChironは、ArcadiaのMaleaで死んだ。[Apo.2.5.4]
BC1241年、Heraclesは、EleusisのEumolpusによって、Centaurs殺害の罪を清めた。[Apo.2.5.12]
BC1241年、Heraclesは、Argives, Thebans, Arcadiansから構成される、2回目のElis遠征軍を準備した。[Paus.5.3.1]
** AchaiaのDymeのEpeiansもHeraclesのElis遠征に参加した。[Strabo.8.3.9]
** Argivesは、Mantiusの子OeclesとAmphiarausが率いていたと思われる。
** Argosの内紛で、MelampusとBiasの後裔は、Oeclesの家族しかArgosにいなかった。
BC1241年、Glaucusの子Bellerophontesは、IsthmusからLyciaのXanthusへ移住して、Iobatesの娘Philonoeと結婚した。[Apo.2.3.2, Tzetzes.7.850]
** Iobatesは、Pandionの子Lycusの息子で、周辺の異民族(Solymi)に対抗するためにBellerophontesを呼び寄せたと思われる。[Strabo.12.8.5]
** Bellerophontesの母Eurynomeの父Nisusは、Iobatesの父Lycusの兄弟であった。BellerophontesとPhilonoeは又従兄妹であった。
** ProetusはIobatesに手紙を書いた。[Apo.2.3.1] ProetusはBellerophontesより100以上前の人物、手紙も書けなかったと思われる。
BC1240年、Heraclesは、ElisのAugeasと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.2, Diod.4.33.4, Paus.5.3.1]
** EleiaのPylusやPisaも、Elisに加わって防戦した。[Paus.5.3.1]
** HippocoonもNeleusに味方した。[Apo.2.7.3]
BC1240年、Heraclesは、Elisに加勢したPisaへの遠征は神託により中止した。[Paus.5.3.1]
** ElisへPisaが加勢したことについて、ApollodorosやDiodorusに記述がなく、Pausaniasのみが伝えている。実際はなかったと思われる。
** Pelops亡き後、Elisが、Pisaに代わってOlympiaを支配下に置いて、競技会を開催するなど、Pisaにも影響力を及ぼすようになった。
** EurystheusがPisaからの請願を受けてHeraclesにElisを攻めさせたと推定される。[Apo.2.4.5, Paus.5.8.3]
** EurystheusとHeraclesは、PisaのPelopsの後裔であった。
BC1240年、Heraclesは、PylusのNeleusと戦って、町を占領した。[Apo.2.7.3]
** Heraclesに破壊されたPylusは、MesseniaのPylusではなく、Elis近くのPylusであった。
** Pausaniasは、HeraclesがEleiaのPylusに遠征したと伝えている。[Paus.6.25.2]
** Pausaniasは、Heraclesに滅ぼされPylusの廃虚がEleiaにあったと伝えている。[Paus.6.22.5]
** Neleusの12人いた息子はNestorを除いてすべて殺された。[Aelia.4.5, Apo.2.7.3, Strabo.8.3.28]
BC1240年、Heraclesは、Augeasの子PhyleusをElisに呼び戻した。[Diod.4.33.4]
** Heraclesは、Phyleusの願いを聞き入れて、Augeasを許すと共に捕虜も返すという寛大な処置をした。[Paus.5.3.3]
BC1240年、Heraclesは、Eleia南部のLepreusの支配者Lepreusを一騎打ちで殺した。[Aelia.1.24, Athen.412a]
** Lepreusは、HeraclesがElisのAugeasに報酬を要求したときに、Heraclesに敵対した人物。[Aelia.1.24]
BC1240年、Heraclesは、MesseniaのStenyclerusで、Neleusの子供たちと誓を交した。[Paus.4.15.8]
** 誓約したのは、GereniaにいたNestorおよび戦死したNeleusの息子たちのそのまた息子たちのことと思われる。
** Heracleidaeの帰還時、HeraclesがNestorにPylusを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** 不正な籤引きと同様に、Doriansが広めた創作と思われる。HeraclesはMesseniaに足を踏み入れてはいないと思われる。
BC1240年、Evanderは、ArcadiaのPallantiumから植民団を率いてRomeへ移住して、Pallantiumを創建した。[Antiq.1.31.1-4, Paus.8.43.2]
** 60th year before the Trojan war. [Antiq.1.31.1]
** FaunusはEvanderを受け入れ、土地を分け与えた。[Antiq.1.31.2, Ita.6.579, Just.43.1]
** ArcadiansがalphabetをItalyへ持ち込んだ。[Antiq.1.33.4, Euseb.Chron.269, Hyginus.277, Livius.1.7]
** EvanderがItalyへ伝えたのは、Greek alphabetではなく、Homerの頃まで使われていたPelasgic lettersと思われる。[Diod.3.67.5]
** Evanderの移民団は、Elisの外港Cylleneから出発した。[DionyGuide.34]
** AD2世紀の叙事詩人Dionysius of Alexandriaは「Italy半島の西側のTyrrheniansの次に住むPelasgiansはCylleneから来た」と伝えている。[DionyGuide.34]
** Evanderは、TegeaからOlenusを結ぶ大街道を利用してElisの北西にあるCylleneに陸路で移動したと思われる。
** Tegea、Heraea、Olympia、Elis、Olenusは、古代の大街道(the Arkadhia road[LeakeM.1.023])であった。
BC1240年、Evanderに同行したEpeansやPheneusの人々は、Sicelsを追い出してSaturnianの丘に居住した。[Antiq.1.34.2, Antiq.2.1.4]
BC1240年、Evanderに同行した兄弟Catillus, Coras, Tiburnusは、Tiburを創建した。[Solinus.2.6, SerCVAene.7.670]
BC1240年、Sicelsは、PelasgiansとAboriginesによって追われてItaly半島南部へ移住した。[FGrH.3.228]
** ArgosのAlcyoneの女司祭職26年目で、Trojan Warの2世代前であった。(1186+27*2=1240) [Antiq.1.22.3, FGrH.3.228]
** Alcyoneの就任は、BC1265年。(1240+26-1=1265) Alcyoneが、18歳で就任したとすれば、BC1283年生まれ。
** Alcyoneは、MycenaeのSthenelusの子Eurystheusの姉と思われる。[Apo.2.4.5, Diod. 4.12.7]
BC1240年、Sicels、Oenotriansに追われてSicily島へ移住した。[Antiq.1.22.3, Strabo.6.1.6]
** この時、MorgetesもSicily島へ移住して、Morgantiumを創建した。[Strabo.6.2.4, Strabo.6.1.6]
** Troy戦争の3世代前、ArgosでAlcyoneが神職を務めた26年目[Antiq.1.22.3]
** 移住したSicelsの指導者は、Stratonであった。[Antiq.1.22.5]
** 移住したのは、Ausoniansであり、指導者は、Sicelusで、部族と島に彼の名前を与えた。[Antiq.1.22.3]
BC1240年、Pelasgiansは、Sicelsの移住に伴う混乱でSicily島からAcarnaniaへ移住した。[Paus.1.28.3, Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
BC1240年、Geryonesの孫Noraxは、Sardinia島南東部に島で最古のNoraを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1240年、Phocusの子Crisusは、NaubolensesからDelpiの近くへ移住して、Cirra (後のCrisa)を創建した。[Euri.Scho.Or.33.1]
BC1239年、Heraclesは、Olympiaで競技会を開催した。[Apo.2.7.2, Paus.5.8.3]
** Heraclesが競技会を開催したのは、Athens王Aegeusの治世中であった。[Euseb.185]
** 歴代の実力者が開催していたOlympia競技会の開催は、EurystheusにHeraclesに対する敵対感情が生じる原因になったと思われる。
BC1239年、Aegeusが死去。TheseusがAthens王になった。[Diod.4.61.8, Plut.These.24]
BC1239年、Heraclesは、AmyclaeとSpartaでHippocoonと戦って勝利した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6, Tzetzes.2.450]
** HeraclesがHippocoonを攻めたのは、伝承では、罪の清めを依頼して拒否されたなどがある。[Paus.3.15.3]
** 実際は、TegeaのCepheusからの要請に応じた戦いであったと思われる。
** Hippocoonの息子たちの半分はSpartaに住み、彼と残りの息子たちはAmyclaeに住み、IcariusはPharisに住んでいた。[Paus.3.14.7, 3.15.1]
** Hippocoonとの戦いで、Cepheusと彼の17人の息子たちは戦死した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.6]
BC1238年、Sphinxの反乱が、Thebesに迫り、Creonの息子Haemonが戦死した。[Apo.3.5.8]
BC1238年、Oedipusは、Corinthiansを率いてThebesに帰還し、Sphinxの反乱を鎮圧した。[Paus.9.5.10, Paus.9.26.2]
** Sphinxとの戦いには、Oedipusの息子たち、EteoclesとPolyneices は参加せず、Adrastus はOedipusに同道したと思われる。
** Sphinxの反乱とは「海の民」の一部と思われる。
** Sphinxは、多数の船でAnthedon沖に現れ、Anthedonの西南西約27kmの標高550m位の山に拠点を置いて周辺を荒らした。[Paus.9.26.2]
** Boeotiansは、treacheries「裏切り、反逆」を riddles「なぞなぞ」(Athen.456bを参照)と呼んでいた。[August.City.18.13]
BC1238年、Adrastusは、Amphiarausと和解して、Argosへ帰還した。[FGrH.Nr12.F29, Dic: Amphiaraus]
BC1238年、Talausの娘Eriphyleは、Amphiarausと結婚した。[Apo.1.9.13, Diod.4.65.6, Hyginus.71]
** 結婚が和解の条件であった。[Pind.Ne.9.15]
BC1238年、Bellerophontesは、Troadに侵攻したAmazonsと戦うために遠征した。[Home.Il.6.191, Strabo.12.8.6]
** Bellerophontesの遠征は、Hittiteからの命を受けたもので、Hittiteの影響力が弱まる前と思われる。
** 恐らく、Lycia地方のBellerophontesもHittiteの支配下に入り、Wilusa (Troy)への応援のために派遣されたものと思われる。
** この結果、Lyciansの一部は、Aesepus川近くのZeleia周辺に定住して、Troad地方にもLyciaが誕生した。[Strabo.12.4.6]
** Eleia地方のLepreusからLycia地方へ移住したCauconesも、このとき、黒海南岸のTieium近くへ移住したと思われる。
< Heracles's Calydon period (3年間) >
BC1238年、Heraclesは、ArcadiaのPheneusに5年間居住した後で、AetoliaのCalydonへ移住した。[Diod.4.34.1]
** Heraclesは、多くのArcadiansと行動を共にしていたため、Eurystheusに敵とみなされないようにPeloponnesusを出たと思われる。[Diod.4.34.1]
** Eurystheusは、妻の祖父で、Arcadiaの支配者Lycurgusを通して、Pheneusから去るようにさせたと思われる。
BC1238年、Heraclesは、CalydonのOeneusの娘Deianeiraと結婚した。[Diod.4.34.1]
BC1238年、Heraclesは、Calydonで大規模なAchelous川の灌漑地を造成した。[Diod.4.34.1, 4.35.3, Strabo.10.2.19]
** Heraclesが灌漑したのは、Paracheloitis(Achelous川の河口近くの氾濫地帯)と思われる。[Strabo.10.2.19]
** Achelous川は、Calydonから西にあるPleuronやCuretesのさらに西を流れていた。Oeneusの支配はその地まで及んでいたと思われる。
BC1237年、HeraclesはCalydoniansを率いてThesprotiansの地へ向けて遠征し、Phyleusを殺して、Ephyraを占領した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.1]
** Thesprotiansの地は、Acarnaniaの北西にあり、中心地はEphyraであった。後に、Dodonaも支配地域に入った。[Strabo.7.7.11]
** Heraclesが、MolossiansのAidoneusに捕らわれていたTheseusを放免させたという伝承がある。[Plut.Thess.35]
** この伝承では、Heraclesの生存中に、TheseusはAthens王としての権力を失っている。しかし、Heraclesの死後、TheseusはEurystheusの攻撃に対して、Heraclesの息子たちに加勢している。[Diod.4.57.6]
** この遠征には、Augeasの子Phyleusも協力して、Ephyraと敵対関係にあったEuphetesから胸当てを贈られている。[Home.Il.15.531]
** この遠征には、Jasonと息子たちも参加し、Mermerusは戦死したが、PheresはEphyra、JasonはCorcyra島を得た。[Paus.2.3.9]
** Trojan Warの前に、Ephyra に住むPheresの子Mermerusの子IlusをOdysseusが矢に塗る毒を求めて訪問した。[Home.Od.1.261]
** この遠征には、Icariusと2人の息子たち、AlyzeusとLeucadiusも参加したと思われる。[Strabo.10.2.9]
** この遠征には、CorinthのSisyphusの子Ornytionも参加したと思われる。[Paus.2.3.11から推定]
** この遠征には、Melampusの子Abasの子Coeranusの子Polyidusも参加したと思われる。PolyidusはCorinthに住んでいた。[Home.Il.13.663]
** PolyidusはAcarnaniaのDulichiumに住むPhyleusの娘Eurydameiaと結婚した。[FGrH.Nr333.F115]
** この結婚を可能にしたのは、Phyleusの遠征参加であったと思われる。
** この遠征は、最遠の地Corcyra島に入植したJasonの発案と思われる。
** Oedipusと共にThebesに遠征したJasonが各地を荒らしていたSphinx(海の民)からCorcyra島付近の豊かさの情報を得たと思われる。
BC1237年、Jasonは、CorinthからCorcyra島へ移住した。[Paus.2.3.9]
** Jasonの移住の動機は、妻Medeaの死であったと思われる。
** Jasonの移住には、Medeaが産んだMermerusやPheresも同行した。[Paus.2.3.9]
BC1237年、Heliusの子Taphiusは、Echinades諸島からTaphos島へ移住した。[Apo.2.4.5から推定]
BC1237年、Aeolusの子Sisyphusは、JasonからCorinthを継承した。[Home.Il.6.144, Paus.2.3.11]
BC1237年、Telonの子Oebalusは、Teleboansを率いてAcarnaniaからItaly半島のCapreae(near Neapolis)へ移住した。[Dic:Oebalus, Virg.Aene.7.713]
** OebalusはAchelous川近くに居住し、彼の娘Peireneは、Sisyphusの子Ornytionの妻になった。[Paus.2.3.11と川の名前と年代から推定]
BC1237年、Icariusの息子たち、LeucadiusとAlyzeusは、LeucasとAlyziaを創建した。[Strabo.10.2.9]
** 当時、Leucasは島ではなく、半島であった。[Strabo.1.3.18, PsScylax.34]
BC1237年、Heraclesは、Ephyraに滞在中、IolausにSardinia島への植民を指示した。[Apo.2.7.6]
** Heraclesは、MaeoniasのSardinia島などへの入植について、Omphaleから聞き知っていたものと思われる。[Herod.1.94, Strabo.5.2.2]
** Sardinia島入植については、神託に従ったという伝承もある。[Diod.4.29.3]
BC1237年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hyllusが誕生した。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Tyndareusは、AetoliaからSpartaへ移住した。[Apo.2.7.3, Diod.4.33.5, Tzetzes.2.450]
** Heracleidaeの帰還時、Heracleidaeは、先祖のHeraclesがTyndareusにSpartaを預けたという大義を掲げた。[Paus.2.18.7]
** Tyndareusは、Heraclesによって帰還させられたことになっているが、HippocoonやIcariusがいなくなったSpartaへ自らの意志で帰還したと思われる。
BC1237年、Tyndareusの息子たち(Dioscuri)は、AndaniaのLeucippusの2人の娘たちを奪い、自分たちの妻にした。[Paus.3.18.11]
** この後、Andania近くのOechaliaのEurytusも追い出されているので、Leucippusは戦死し、娘たちは捕虜になったと思われる。
** Dioscuriは、Therapneに住んでいた。[Pind.Py.11.54]
BC1237年、MesseniaのOechaliaのEurytusは、SpartaのTyndareusに攻められて、追放された。[Paus.3.18.11]
BC1237年、Eurytusは、Euboeaへ移住して、3番目のOechaliaを創建した。[Strabo.10.1.10]
** Eurytusは、父Melaneusに因むMelaneis (後のEretria)をも創建していた。[Strabo.10.1.10, StephByz.E276.3]
BC1237年、The Battle of Nihriya
** Tudhaliya IVは、Assyria王Sulmanu-asared Iと戦って敗れた。[wiki: Battle of Niḫriya]
BC1237年、Electryonの子Celaeneus<Piyama-Radu>の反抗が終わった。[wiki: Piyama-Radu]
** Piyama-Raduの反抗は、Muwatalli II(BC1295-72)からTudhaliya IV(BC1237-09)まで続いた。[wiki: Piyama-Radu]
** Hittiteの力が弱まって、Asia Minorへの関与が弱まり、Hittiteに反抗する必要がなくなったと思われる。
** Telephus率いるArcadiansのMysia移住がそれを物語っている。
BC1236年、Hattusili IIIは、Piyama-Raduが反乱を起こしていたYalandaを破壊した。[wiki: Yalanda]
** Hattusili IIIは、Piyama-Raduの兄弟Lahurziの待ち伏せに遭遇するが、撃退した。[wiki: Yalanda]
** Yalandaは、Ahhiyawaの領土の境界にあるWallarimaの西にある。[wiki: Yalanda]
** Wallarimaは、Arzawaの南の境界付近の海岸にある。[wiki: Wallarima]
BC1236年、Milawata letter (CTH 182)
** Hittite王、恐らく、Hattusili III(BC1265-35)から属国のMilawata王に宛てた書簡[wiki: Milawata letter]
** Hittite王は、Wilusa王のWalmuをHittiteに引き渡すように要請した。[Milawata letter]
** Priamと王位を争った者は、Laomedonの息子の一人と思われる。
** Miletusには、Laomedonの娘Hesioneが嫁いでいる。Wilusaで王位を争った者がMiletusに逃げ込んだと思われる。
** 書簡の受取人の父は、Hittite王に敵対していたが、Hittite王が受取人を王に据えた。[wiki: Milawata letter]
** 受取人の父とは、Miletus<Atpa>で、Hittiteとの戦いで死んだと思われる。
** Piyama-Raduを過去の人物として言及している。[wiki: Milawata letter]
BC1236年、SicyonのPolybusは、在位40年目で死んだ。[Euseb.175]
BC1236年、Polybusの娘Lysianassaの子Adrastusは、祖父からSicyon王を継承した。(4年間)[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1236年、Iolausは、Thespiusの娘たちの息子たちを率いてAthensを出発した。[Diod.4.29.1, Paus.1.29.5]
BC1236年、Iolausは、Sardinia島北東部にOlbiaを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1236年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Ctesippusが生まれた。[Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1236年、Peleusは、IolcusのPeliasの子 Acastusを殺したMinyansを追放した。[Apo.3.13.7, FGrH.Nr333.F62, Strabo.9.5.15]
** Iolcus破壊の原因は、IolcusのAcastusの僭主化に反発したMinyansの反乱であった。[Strabo.9.5.15]
** BC511年、Hippiasの亡命先候補としてIolcusの名前が登場する。[Herod.5.94]
** BC290年、Demetrias創建時、Iolcusは、町として存続していたが吸収された。[Strabo.9.5.15]
** Straboは、Iolcusが破壊されたままだと記しているが、町の中心部分と思われる。[Strabo.9.5.15]
** BC5世紀の抒情詩人PindarはIolcusを破壊したとき、PeleusがThetisを捕らえたと伝えている。[Pind.Ne.3.30, FGrH.Nr333.F62]
** Thetisは、Acastusの息子の妻であったと思われる[FGrH.Nr333.F62から推定]
BC1236年、Iolcus周辺にいたMinyansは、Lemnos島へ移住した。[推定]
** 後にPelasgiansによって、追放されるMinyansがLemnos島に住み着いたのは、このときと推定される。
BC1236年、Pheraeに住んでいたPheresの子Admetusは、EuboeaのTamynaeへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9から推定]
** ThessalyのPheraeにもAdmetusの母であるMinyasの娘Periclymeneと共へ移住したMinyansがいた。
** Peliasの娘Alcestisの夫Admetusも反乱に巻き込まれて、Alcestisの前夫Hippasusの子Theseusのもとへ亡命した。[FGrH.Nr325.F9]
** Hippasusの死後、Alcestisは息子Theseusを連れて、Admetusと再婚した。[FGrH.Nr325.F9]
BC1236年、Arcesiusの子Laertesは、ParnassusのAutolycusの娘Anticliaと結婚した。[Apo.E.3.12, Hyginus.97]
** Anticliaの父Autolycusの母Philonis(or Chione)の父は、Pandion。
** Laertesの父Arcesiusの父Cephalusの父は、Pandion。
** つまり、LaertesとAnticliaは又従兄妹であった。
BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、Iolcusの南東にOrmeniumを創建した。[Strabo.9.5.18]
** Ormenusは、Lapithsであったが、IolcusのMinyans追放に加勢して、the Pagasaean gulf周辺に進出できたものと思われる。
** Ormenusの母は、Myrmidonの娘Eupolemiaであった。Peleusは、Ormenusの母方の従兄弟Aeacusの息子であった。
BC1235年、Heraclesは、Oeneusの家で彼の親戚のArchitelesの子Ennomus(Eurynomus)を過失により殺害した。[Apo.2.7.6, Athen.410f, Diod.4.36.2, Tzetzes.2.450]
** HeraclesとDeianeiraとの結婚から3年後であった。[Diod.4.36.2]
BC1235年、Heraclesは、Trachisへ行く途中、Calydonの東のEvenus川で、CentaurのNessusを殺害した。[Apo.2.7.6, Diod.4.36.5, Strabo.10.2.5, Tzetzes.2.450]
** Centaursの生き残りNessusは、AetoliaからPhocisやThessalyへ通じる要衝の地で山賊行為をしていた。
BC1235年、Daedalusの子Iapyx率いる移民団は、CreteからItaly半島南東部へ移住した。[Herod.7.170, Pliny.3.102, Strabo.6.3.2, Strabo.6.3.6]
** Iapyxは、Hyriaを創建したと伝えられるが、Messapusが創建した町と思われる。[Messapusの出身地Hyriaから推定]
** 伝承では、IapyxがGlaucusを探していたことになっている。[Athen.523a]
** Iapyxは、Bottonらと同じ植民活動をしていたと思われる。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
BC1235年、Botton率いるCreteの移民団は、Adrias海から陸路でMacedoniaへ移住して、その地に定住した。[Strabo.6.3.2, Strabo.7.8.2]
** Pellaの少し北に、Aeolusの子MacedonとCecropsの娘Oreithyiaの子Europusが創建したEuropusがあった。[StephByz.E287.14]
** Bottiaeansは、Argeadaeに追われてChalcidiansの地に隣接した土地へ移住。Thucydidesの時代もそこにいた。[Thucy.2.99]
** BottiaeansはBithyniaに植民市を建設した。最初Ankore, 次にAntigoneia, そして、Lysimachosの妻Nikaiaに因んでNikaiaとよばれた。[StephByz.N474.17]
BC1235年、Minosの子Cleolausは、CreteからItaly半島東南部へ移住した。部族は彼の息子Daunusに因んで、Dauniiと呼ばれた。[Solinus.2.6]
** Cleolausの子Daunusの娘Euippeは、Tydeusの子Diomedesと結婚した。[Ovid.Meta.14.500, Dic: Daunus]
BC1235年、Minosの子Deucalionの子Idomeneusは、CreteからCalabriaへ移住した。[SerCVAene.3.121から推定]
** Calabriaは、Messapia, Iapygia, Salentinaの別名。[Strabo.6.3.5]
** Idomeneusは、Iapyxと一緒に, CreteからItaly半島へ移住したと思われる。
BC1235年、Pierusの子Oeagrusは、Boeotia地方のThespiaeからOlympus山近くのPimpleiaへ移住した。[Nonnus.13.428]
< Heracles's Trachis period (12年間) >
BC1235年、Heraclesは、CalydonからDryopesの地を通り、TrachisのCeyxのもとへ到着した。[Apo.2.7.7, Diod.4.36.5, Paus.1.32.6]
** Eurystheusが、ArgosのOeclesの子Amphiarausを通じて、Calydonに対してHeraclesを追い出すように迫ったと思われる。
** BC1247、Melampusの子Mantius、息子Oecles、孫AmphiarausがArgosに帰還する際に、Eurystheusが協力したと思われる。
** Ceyxは、Myrmidonの子Actorの息子で、Heraclesの親友であるPatroclusの父Menoetiusの兄弟と思われる。[Home.2.681, Paus.1.32.6]
** Ceyxが率いるMeliansは、Ossa近くのDotium平原からLapithsに追われたAenianiansの支族と思われる。[Apo.2.7.7, Strabo.9.5.22]
BC1235年、Atreusの子Plisthenesは、CreteからCleonaeに、Catreusの娘Aerope (or Eriphyle)を妻に迎えた。[Apo.3.2.2, Euri.Scho.Or.5.1, Dictys.1.1]
** CreteとCleonaeの遠距離婚を可能にしたのは、Phliusに住むPhliasusであったと推定される。
** Catreusの娘AeropeとAriadneの子Phliasusは、Minosを共通の祖父とする従兄妹であった。
BC1235年、Pelopsの子Thyestesは、Cythera島で死んだ。[推定]
** BC1217年、Eurystheusが死んで、AtreusがMycenaeを継承したとき、Thyestesは既に死んでいたと思われる。
BC1235年、Cercaphusの子Ormenusは、ItonusからIolcusの東側へ移住して、Ormenionを創建した。[Strabo.9.5.21]
BC1234年、Oedipusは、MycenaeのSthenelusの娘Astymedusaと結婚した。[FGrH.Nr333.F95]
** CreonはHeraclesとの確執もありArgives嫌いであった。[Dic:Creon]
** この結婚は、OedipusがThebesを追放された原因であったと思われる。
** Oedipus がCorinthのTeneaにいた頃、MycenaeのAstymedusaとは面識があったと思われる。
BC1234年、Heraclesと、EphyraのPhyleusの娘Astyocheとの間に、息子Toepolemusが生まれた。[Apo.2.7.8, Home.2.653]
BC1234年、Achillesは、PeleusとThetisとの間の息子として、Phthiaで誕生した。[Pind.Py.3.100]
BC1234年、Clytonaeusの子Naupliusは、Catreusの娘Clymeneを妻に迎えた。[Apo.2.1.5, Dictys.1.1]
BC1233年、Thoasの娘Hypsipyleは、Nemeaに住むTalausの子Pronaxに嫁いだ。[Apo.3.6.4から推定]
BC1233年、HeraclesとDeianeiraとの間に、息子Hoditesが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
BC1232年、Talausの子Adrastusは、Sicyonを4年間支配して、Argosへ帰還した。[Euseb.175, Paus.2.6.6]
BC1232年、Iolausは、Greeceへの帰国の途中で、Sicily島に滞在した。[Diod.4.30.3]
** DaedalusがいたSicily島中南部のCamiciの地と推定される。[Strabo.6.2.6]
BC1231年、Iolausは、Sardinia島からTrachisに帰還した。[Diod.4.30.3]
BC1230年、HeraclesとDeianeiraの間に娘Macariaが生まれた。[Paus.1.32.6, Plut.Pelo.21]
BC1230年、Ornytionは、Corinthian gulfに面したLechaeumと、Saronic Gulfに面したCenchreaeを創建した。[Paus.2.2.3]
BC1230年、Ornytionの子Phocusは、CorinthからPhocisのTithoreaへ移住した。[Paus.2.4.3]
BC1230年、OrmeniumのAmyntorの子Phoenixは、PhthiaのPeleusのもとへ亡命して、Dolopiaを与えられた。[Home.9.430, Strabo.9.5.11]
** Peleusは、Phoenixの父Amyntorの父Ormenusの母Eupolemeiaの兄弟Actorの子Aeacusの息子であった。
** つまり、Peleusは、Phoenixの父Amyntorの又従兄弟であった。
** Phoenixの亡命は、父Amyntorとの争いが原因であった。[Home.Il.9.430-]
** Phoenixは、PeleusからCtimeneを与えられた。[StephByz.A388.17]
** Phoenixは、Phthiaとの国境に近いDolopiaのCtimeneに住んでいた。[Home.Il.9.484, StephByz.A388.17]
BC1230年、Heraclesは、Dryopiansを追放した。[Diod.4.37.1, Herod.8.43, Paus.4.34.9-10]
** Diodorusは、Delphiの神殿に不敬を働いたDryopesの王Phylasを殺し、Dryopiansを追放したと記している。[Diod.4.37.1]
** HerodotusとPausaniasは、Delphiには触れず、DryopiansがHeraclesに追い出されたと記している。[Herod.8.43, Paus.4.34.9-10]
** Pausaniasの「Delphi略奪史」にも記載なし。[Paus.10.7.1]
** Dryopiansを追い出した後の土地は、Meliansに与えられた。[Diod.4.37.1]
** つまり、Dryopiansと争っていたMeliansにHeraclesが加担して、Dryopiansを追放したと思われる。
** Dryopiansは、HeraclesとMeliansに追われた。[Diod.4.37.1, Herod.8.43]
** Dryopiansは、Spercheius川一帯の諸地域からDryopisに進出して来た。[Strabo.8.6.13, Strabo.9.5.9]
** Heraclesに殺されたPhylasの3代前のDryopsは、Parnassus周辺のLycoritaeの隣にDryopsを創建した。[Paus.4.34.9]
** Heraclesに追い出されたDryopiansは、Eurystheusのもとへ逃げて、ArgolisにAsineを創建した。[Diod.4.37.2]
** 後に、Dryopiansは、Argivesによって、Asineから追われてLacedaemonへ移住した。[Paus.4.8.3]
** Hermioneには、Heraclesに追われたDryopiansが住んでいた。[Herod.8.43]
** Phylasの父は、Cragaleusと思われる。[Antoninus.4]
** BC4世紀のAthensの政治家Aeschinesの演説「against Ctesiphon」(107)にDelphiを冒涜したCragalidaeが登場する。
** Diodorusは、Heraclesに追われたDryopiansがEuboea南東部にCarystusを創建したと記している。[Diod.4.37.2]
** Diodorusは、Carystusと、その近くにあるStyraとを混同しているようである。
** Heraclesに追い出される前に、Dryopiansは、EuboeaにStyraを創建していた。[Paus.4.34.11]
** Dryopiansの一部は、Ceos島近くのCythnos島にも移住したと思われる。[Herod.8.46]
** Theiodamas (or Theodamas)の子Euphemusは、Lemnos島へ逃れた。[Euphemusの子孫がLemnosに住んでいたことから推定]
BC1230年、Ariadneの子Oenopionの子Euanthesは、Chios島からThraciaのIsmarusへ移住した。[Home.Od.9.193, Diod.5.79.2]
** Euanthesは、Cariansによって、Chios島から追い出されたと推定される。[Paus.7.4.9]
BC1230年、TegeaのTelephusは、彼の母Augeと共にPergamusのあるMysiaへ移住した。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
** Arcadiansと称する住人がPergamusにいたことから、Tegeaの住人の集団移住と思われる。[Paus.1.4.6]
** Telephusは、妻の父TeuthrasからMysiaを継承して実力者になった。[FGrH.Nr327.F19]
** Pergamusの近くには、Arcasの子Azanの息子が創建したAzaniaの住人が移住している。[Paus.8.4.3, Paus.10.32.3]
** Arcadiansの移住先は、Larisa近くを流れるHermus川の上流にあるAzanoiと思われる。
** Azanの息子は、Augeの父Lycurgusの父Aleusの従兄弟であった。
** Azaniaの住人の移住を創建の2世代後とすれば、彼らはTelephusの移民団の中にいて、分かれてAzanoiへ定住したと推定される。
** Mysiaは、Hittiteの属国Seha River Landの領土であったが、最早Hittiteの支配は及んでいなかったと思われる。
** Tegea近くのSchoenusのAtalataの子Parthenopaeusも移住に参加していた。[Hyginus.100]
** 史実は、TelephusがTeuthrasと戦って、捕虜になった彼の娘Argiopeを妻にしたと思われる。[Diod.4.33.12]
** AugeとTeuthrasの間に、息子Teuthraniusが生まれ、TroyでAjaxに殺されたというのは、作り話と思われる。[Dictys.2.3]
** TelephusとArgiopeの間の息子Eurypylusが生まれ、Troy側としてAchaeansと戦ったというのも、作り話と思われる。[Dictys.2.3]
BC1230年、Ariadneの子Staphylusは、Peparethos島を兄弟Peparethusに譲って、CariaのBybastusへ移住した。[Apo.E.1.9, Parthe.1]
BC1230年、Rhadamanthusの子Erythrusは、Chios島の対岸にErythraeを創建した。[Diod.5.84.3, Paus.7.3.7]
** 伝承では、Erythrusは、Creteから移住したことになっているが、Chios島から移住したと思われる。[Paus.7.3.7]
BC1230年、Minosの子Catreusの子供たち、AlthaemenesとApemosyneは、CreteからRhodesへ移住した。[Apo.3.2.1]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Amphithemisは、CreteからLibyaへ移住した。[Apollo.4.1485から推定]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの子Oaxosは、TarrhaからIda山の近くへ移住して、Oaxosを創建した。[StephByz.O482.10]
BC1230年、Minosの娘Acacallisの息子たち、PhylacidesとPhilanderは、Tarrhaの近くにElyrusを創建した。[Paus.10.16.5から推定]
BC1230年、Thamyrisの娘Menippeは、Chalcidice半島北部からOlympus山近くのPimpleiaに住むOeagrusのもとへ嫁いだ。[Nonnus.13.428, Tze.1.300]
** OeagrusとMenippeは、Aeolusの子Magnesを共通の先祖とする同族であった。
BC1228年、Aeacusの子Peleus(52)は、Phthiaで死んだ。
** Peleusは、HeraclesとLapithsとの戦いに登場しない。
** Homerは、PeleusがAchillesをTroyへ送り出したと伝えている。もし、それが本当であれば、Peleusは92歳。[Home.Il.11.762]
** Peleusが死んだ時、Achillesは、6歳。
** Achillesは、Phthiaの西南西約55kmのDolopia地方のCtimeneに住むPhoenixのもとで養育された。[Home.Il.9.484, StephByz.A388.17]
BC1227年、Heraclesは、Aegimiusからの要請でLapithsと戦い、Gyrtonの王Caeneusの子Coronusを殺した。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.3]
** このとき、Aegimiusは、Dorisの土地の3分の1と王権を約束した。[Diod.4.37.3]
** Aegimiusは、Heraclesの死後、Hyllusを養子にした。[Strabo.9.4.10]
** Hyllusは、Dorians 3部族の一つの首領となっているので、3分の1の土地と住人を割譲されたと思われる。
** Heraclesの軍中には、TrachisのCeyxがいた。[Apo.2.7.7]
** Ceyxは、Ajaxの父Telamonの父Aeacusの異母兄弟であり、Telamonの叔父であった。
** Telamonは、叔父Ceyxと共にHeraclesの遠征に参加したと思われる。
** Coronusが死に、Coronusの娘Lysidiceは捕虜になり、後に、Telamonの子Ajaxと結婚することになったと推定される。
BC1227年、Heraclesは、Lapithsに味方したDryopesの王Laogorasを殺した。[Apo.2.7.7, Tzetzes.2.460]
** Dryopesは、Heraclesに敗れて各地に逃れたが、Lapithsの地に逃れて抵抗していた者たちを一掃したものと思われる。
BC1227年、Heraclesは、ItonusでPelopiaの息子Cycnusと一騎打ちをして討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
BC1227年、Heraclesは、Iolcus近くのOrmeniumの支配者Ormeniusと息子Amyntorと戦って討ち取った。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.4]
** LapithsではないPhylaceのProtesilausは、Heraclesに協力したか、中立を保って、湾の西側を南のAntronまで領土にした。[Strabo.9.5.7]
BC1227年、Heraclesは、Lapithsとの戦いを終えて、Trachisに帰還した。[Apo.2.7.7]
BC1226年、Oeneusの子Tydeusは、Adrastusのもとへ亡命して、Adrastusの娘Deipylaと結婚した。[Apo.1.8.5, Hyginus.97]
** Oeneusの母Aeoliaは、Adrastusの父Talausの父Biasの姉であり、TydeusとAdrastusは、Amythaonを共通の曾祖父とする又従兄弟であった。
BC1225年、Oedipusは、Thebes から追放されて娘Antigoneと共に、AthensのTheseusのもとへ亡命した。[Apo.3.5.9]
** Antigoneの息子MaeonもAthensに同行したと思われる。
** Heracleidaeの帰還の頃、ThebesにAthensのAegeusの血を引くAegeidaeがいたという伝承がある。[FGrH.Nr70.F16]
** Maeonの妻は、Aegeusの孫娘であったと推定される。
** EteoclesとPolyneicesは、協議の結果、Thebesを交代で治めることになった。[Apo.3.6.1]
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、ArgosのAdrastusのもとへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Polyneicesの父Oedipusの養父Polybusの娘Lysianassaの息子であった。
** つまり、Polyneicesは義理の従兄弟Adrastusのもとへ亡命した。
BC1225年、Oedipusの子Polyneicesは、Adrastusの娘Argiaと結婚した。[Hyginus.72, Paus.9.5.12]
** Adrastusは、Sicyonで暮らしていたときに、CorinthにいたPolyneicesと面識があったと思われる。
BC1225年、Helenは、Tyndareusの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.3.10.6, Paus.5.19.3]
** Helenの母は、Tyndareusが帰還後に娶った若い妻で、遺児となったHippocoonの娘、または、孫娘と思われる。
BC1225年、Phyleusの子Megesは、Cephallenia島から、Heliusの子Taphiusが移住して住人の少なくなったEchinades諸島へ移住した。
** Megesは、Echinadesの一番大きな島を故郷と同じDulichiumと呼んだ。[Home.Il.2.625, Home.Il.15.518, Apo.2.4.5, Apo.2.4.7から推定]
BC1225年、Clytonaeusの子NaupliusはAchaeansに追われて、Euboea島のChalcisへ亡命した。[Plut.QuestGr.33]
BC1225年、Teucerは、Salamis島からCyprus島へ移住して、Cinyrasの娘Euneと結婚した。[Paus.1.3.2, TzeAdLyco.450]
BC1225年、Thamyrisの子Musaeusは、Chalcidice半島北部からThebesへ移住した。[Suda.mu.1295から推定]
BC1224年、Heraclesは、Oechaliaへの遠征のために、Arcadians、Melians、Locriansを招集した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの遠征動機は、EurytusがEuboeansから貢納を強制していたからであるという説もある。[Athen.461f]
** 実際は、LapithsであるEurytusがThessalyのLapithsに協力して、Heraclesと戦っていたと思われる。
** ThessalyからEurytusと共にOechaliaへ逃れたLapithsは、かなりの数であったと思われる。
** Rome時代には、Eretria領内にOechaliaがあり、Heraclesが破壊した町の名前を残していた。[Strabo.10.1.10]
BC1224年、Heraclesは、EuboeaのOechaliaに住んでいたEurytusを攻めた。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5]
** Eurytus自身と彼の息子たち、Toxeus、MolionおよびClytiusは戦死、娘Ioleは捕虜になった。[Apo.2.7.7, Diod.4.37.5, Hyginus.31]
** TrachisのCeyxの子Hippasusが戦死した。[Apo.2.7.7]
** Heraclesの母の腹違いの弟Licymniusの息子たち、ArgiusとMelasが戦死した。[Apo.2.7.7]
BC1224年、Heraclesは、Oechaliaから船でEuboeaのCenaeum岬に着き、生贄式を行った。[Apo.2.7.7]
BC1224年、HeraclesとDeianeiraの間に、息子Gleneusが生まれた。[Diod.4.37.2, Paus.4.30.1, Apo.2.7.8, Hesiod.98]
** Gleneusの乳母Abiaが、Heracleidaeの帰還に参加していたことから、Gleneusは末子と思われる。[Paus.3.15.10, Paus.4.30.1]
BC1223年、Heraclesは、TrachisのHeracleaと呼ばれる町を創建した。[Athen.462a]
** Heracleaは、HeraclesがLydiaから呼び寄せたCylicranesが盗賊集団と化したため、居留地を破却して、新たに建設された。
** Heraclesの遠征には、Lydians(Kylikranoi, Cyliks)がつき従っていた。[Athen.461f]
BC1223年、HeraclesはHyllusに、成人したらIoleと結婚するように遺言した。[Apo.2.7.7]
BC1223年、Heraclesは、Trachisで死んだ。[Apo.2.7.7]
** Heraclesは、52歳の生涯であった。[Cleme.Exho.2.25, JeromeChro.1196]
** Heraclesは、背は低いが、強い精神力を持っていた。[Pind.Is.4.50]
** 小さな身長、剛毛の髪、大きな力、スリムで、しなやかで、暗く、鉤鼻、明るく輝く目、そして長くまっすぐな髪。[Cleme.Exho.2]
** Heraclesの死因は不明であるが、過労が持病を悪化させたことによる病死と推定される。
BC1222年、Oeneusの娘Gorges(or Gorge)は、CalydonからAmphissaのAndraemonに嫁いだ。[Apo.1.8.1, Hyginus.97, Paus.10.38.5]
BC1220年、Arcesiusの子Laertes率いるCephalleniansは、Leucas半島のNericusを攻略した。[Home.Od.24.375, Strabo.1.3.18, Strabo.10.2.8]
BC1220年、AmazonsがAthensに侵入した。
** Amazonsの侵入は、AdrastusのThebes攻めの5年前であった。[Parian.Marble.21]
BC1220年、HyllusはAegimiusの養子となり、Doriansの3部族の一つHylleisの始祖になった。[FGrH.Nr70.F15, Strabo.9.4.10]
** HeracleidaeがDoriansの地へ行ったのは、Hyllusが死んだ後である。
** Pamphyli、Dymanes、Hylleis [FGrH.Nr70.F15]
BC1220年、Sisyphusの子Ornytionの2人の息子たち、LechesとCenchriasがLechaeumとCenchreaeを創建した。[Paus.2.2.3から推定]
BC1219年、Hyllusは、Ioleと結婚した。[Apo.2.8.2]
BC1219年、Tyndareusが死に、Dioscuriが跡を継いだ。[Paus.3.1.5]
BC1218年、Oedipusは、Athensで死んだ。[Apo.3.5.9, Paus.1.28.7]
** OedipusはThebesに埋葬され、その後、Athensに改葬された。[Paus.1.28.7]
BC1218年、Oedipusの葬送競技会がThebesで開催され、Talausの子Mecisteusが活躍した。[Home.23.676, Paus.1.28.7]
** Adrastusの娘ArgeaはOedipusの葬儀に参列した。[Hesiod.CW.F24]
** Polyneicesは、Eteoclesと争っており、妻Argeaを弔問に行かせたと思われる。
** Mecisteusの母Lysianassaの父Polybusは、Oedipusの養父であり、OedipusはMecisteusの義理の叔父であった。
** AmphiarausはOedipusを埋葬した一人であった。[Hesiod.CW.F99]
** PolyneicesがEteocles に招かれてThebesに戻ったのは、Oedipusの死後であった。Polyneicesの妻の弔問がきっかけと思われる。
BC1218年、Eurystheusは、CeyxにHeraclesの子供たちを追い出さなければ武力に訴えると脅した。[Diod.4.57.3, Paus.1.32.6]
BC1218年、Heracleidaeは、TrachisからAtticaへ移住した。[Diod.4.57.4, Paus.1.32.6]
** Heracleidaeが住んでいたのは、Tricorythus [Diod.4.57.4, 4.58.3, 4.58.5, 7.7.1]、Marathon [Paus.1.32.6]
** Theseusの妻の一人Iopeは、Iolausの妹であり、TheseusとIolausは、義兄弟であった。[Plut.These.29]
BC1217年、Eurystheusは、Heracleidaeが住んでいたAthensへ攻め込んで、Iolausに討ち取られた。[Apo.2.8.1, Paus.1.44.10, Strabo.8.6.19]
** Heraclesのすべての息子たちが成人して、Heraclesの栄光のために若者たちに誇りの精神が芽生えたときであった。[Diod.4.57.5]
** ArgosのHera神殿の巫女、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島に逃れた。[Athen.15.672a]
** ArgosとMycenaeはHera神殿をめぐって争っていたが、Eurystheusの時代にはMycenaeの管轄にあった。[Diod.11.65.2]
** Eurystheusの治世は、45年間であった。[JeromeChro.1308]
BC1217年、Atreusは、Mycenaeを継承して、CleonaeからMycenaeへ移住した。[Diod.4.58.2]
** Atreusが創建したCleonaeは、兄弟Cleonymusを住まわせ、この時、町の名が変わった。[FGrH.Nr2.F3, Paus.2.15.1]
** << AtreusがMycenaeを継承した理由 >>
** Eurystheusの死後、後継者がいなくなり、神託がPelopsの子を王とすべしと告げた。[FGrH.Nr333.F133]
** EurystheusがHeracleidaeを攻めるために出発するとき、AtreusにMycenaeを託した。[Dic:Atreus, Thucy.1.9]
** Atreusは、Perseusの娘Autochtheの息子であったと推定される。[Dic:Perseus]
** したがって、Atreusには、祖父Perseusが創建したMycenaeの相続権があった。
BC1216年、Iolausは、Athensで移民を集めてSardiniaへ移住した。その後、IolausはSardiniaで生涯を終えた。[Paus.9.23.1]
** Iolausは、AdrastusのThebes攻めのときには、Greeceにいなかったと思われる。
** Atheniansは、SardiniaにOgryleを創建した。[Paus.10.17.5]
BC1216年、Oedipusの子Polyneicesは、Eteocles に招かれてThebesに戻った。その後、再びArgosへ亡命した。[Apo.3.6.1, Paus.9.5.12]
BC1215年、不慮の死を遂げたThebes攻め参加予定者Lycurgus(or Lycus)の子Opheltes(or Archemorus)を偲んで第1回Nemean gamesが開催された。[Apo.3.6.4, Cleme.Exho.2, Euseb.Pra.2.6, Hyginus.14, Hyginus.74, Hyginus.273, Paus.8.48.2, Pindaros.1]
** Nemean gamesは5年ごとに開催された。[Hyginus.74]
** Pronaxの子Lycurgusは、Nemean Zeusの祭司であった。[TzeAdLyco.373]
BC1215年、Thebesを追放されたPolyneicesに同行して、Tydeusが、Mycenaeを訪問した。[Home.4.364]
** Mycenaeは援軍を出すことを承諾したが、不吉な前兆により援軍を出さないことに決した。[Home.4.364]
** Perseus創建時からMycenaeは、Argosとは、敵対関係にあった。
** 当時のMycenaeは、AtreusかThyestesの支配下にあったが、応対者の名前が逸話に登場しない。Tydeusらの訪問は作り話と思われる。
** Eurystheusが死んで、Mycenaeには、遠征に参加される勢力もなかった。
BC1215年、Seven Against Thebes [Apo.3.6.1, Hyginus.70, Paus.9.9.1]
** Argos側の援軍には、ArcadiansやMesseniansがいた。[Paus.9.9.2, Paus.2.20.5]
** PharaeのDioclesの2人の息子CrethonとOrtilochusと思われる。
** Thebes側の援軍には、Phociansや、Minyan地方のPhlegyansがいた。[Paus.9.9.2]
** Adrastus以外の将たちは戦死した。[Apo.3.6.8, Paus.9.9.3]
BC1215年、Tydeusは、Thebesへ使者としての帰り、Thebes勢に襲われるが、逆襲して、Haemonの子Maeonのみが生還した。[Home.4.364]
BC1215年、Astacusの子Melanippusは、Amphiarausに討ち取られた。[Apo.3.6.8]
BC1215年、EteoclesとPolyneicesは、戦死した。Eteoclesの子LaodamasがThebes王に即位して、Creonが後見人になった。[Paus.1.39.2]
BC1215年、Theseusは、Thebesと和議を結び、放置されていたArgivesの遺体を葬った。[Aelia.12.27, Plut.These.29]
** Pausaniasは、TheseusがThebesと戦って遺骸を運んだ、あるいは、戦いはなく、Thebesが許したとも伝えている。[Paus.1.39.2]
** BC4世紀の弁論家Isocratesは、AthensがThebesに脅しをかけたと伝えている。[Isocra.Pan.170]
** 将官はEleusisに、兵はEleutheraeに埋葬された。[Plut.These.29]
** BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを希望した。[Paus.1.38.8]
** この頃から、EleutheraeはThebesよりもAthensに好意をもっていたと思われる。
BC1215年、Amphiarausの御者Batonは、IllyriaのEncheleae近くのHarpyiaへ移住した。[Polyb.Fr.2.34]
** Illyriaの指導者Batonとの混同と思われる。[Strabo.7.5.3]
BC1215年、Oenopionの子Euanthesの子Maronは、ThraciaのIsmarusの近くにMaroneiaを創建した。[Diod.1.20.2]
< 1st return of Heracleidae >
BC1215年、Hyllusは、Peloponnesusに侵入して、各地を占領した。[Apo.2.8.2]
** 戦力の回復していないMycenaeは籠城し、Hyllusが占拠したのは、MideiaとTirynsと思われる。[Pind.Ol.7.20, 75, Strabo.8.6.11]
BC1215年、Pelopsの子Alcathousは、Megaraで死んだ。[Paus.1.42.4から推定]
BC1215年、Telamonの子Ajaxは、Salamis島からMegaraへ移住し、Alcathousの跡を継承した。[Paus.1.42.4]
BC1214年、Heracleidaeは、Peloponnesus各地に悪疫が発生したため、Tricorythusへ撤収する。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.4]
** Hyllusは、「3度目の収穫の後に帰還するように」との神託を得た。[Apo.2.8.2]
** Mycenaeの勢力回復や、Hyllusと異母兄弟Tlepolemusとの仲間割れが撤収の原因と思われる。
** TlepolemusはHyllusらと共に撤収せずに、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7]
BC1214年、Alcmenaは、Megaraで死んだ。[Paus.1.41.1]
** Alcmenaの埋葬場所をArgosにするかThebesにするかで争いが起った。[Paus.1.41.1]
** しかし、AlcmenaはMideiaの生まれで、Argosとは無縁であった。
** また、Thebesには、AmphitryonやAlcmenaの孫たちの墓があったが、埋葬はできなかったものと思われる。
** Alcmenaは、BoeotiaのHariartos領のOcaleaeにある、Rhadamanthusの墓の傍らに葬られた。[Plut.Lysa.28]
** Alcmenaの墓は、BC4世紀にSpartaのAgesilaus(BC399-358)によってSpartaへ改葬された。[Plut.Mor.577e]
** Alcmenaの墓には、Egypt文字に似た古代文字(Cretan hieroglyphs)が書かれた青銅板があった。[Plut.Mor.577e]
** Agesilausは、その青銅板の碑文の写しをEudoxus of Cnidusに託して、Egyptの王Nectanabisに送って、解読した。[Diogenes.8.87.]
BC1213年、Tlepolemusは、Rhodesへ移住した。[Apo.2.8.2, Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Home.Il.2.662, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは、Lindus、Ilysus(Ialysus)、Cameirusを創建した。[Diod.4.58.8, Strabo.14.2.6]
** Tlepolemusは祖母の弟Licymniusと残留していたが、Licymniusは病死し、Mycenaeに圧迫されて、Rhodesへ移住したと思われる
** LicymniusがArgosで死んだと伝えているもの[Diod.4.58.7, Diod.7.7.1, Paus.2.22.8]
** Tlepolemusは、ArgosではなくMideaに滞在し、Tirynthiansと共にRhodesに渡った。[Pind.Ol.7.20, 75]
** Tirynthiansの中には、Eurystheusの兄弟Iphitusの息子と推定されるLebesもいて、Creteに定住した。[Pind.Ol.7.75から推定]
** TirynsのAcropolisは、Licymniusに因んでLicymnaと呼ばれていた。Licymniusの墓は、そこにあったと思われる。[Strabo.8.6.11]
BC1213年、Lycomedesの娘Deidamiaは、Thessaly地方のPhthiaのAchillesのもとへ嫁入りした。[Dictys.4.15, Hyginus.123]
BC1212年、Neoptolemusは、AchillesとLycomedesの娘Deidamiaと間の息子として生まれた。[Apo.3.13.8, Dictys.4.15, Epic.Cypria.1, Hyginus.97]
** Neoptolemusは、Scyros島で生まれた。[Strabo.9.5.16, Sopho.Philo.220]
BC1211年、Theseusの妻Phaedraが死んだ。[Diod.4.63.2]
< 2nd return of Heracleidae >
BC1211年、Hyllusは、神託を「3年待って帰還せよ」と解釈し、Peloponnesusに向けてTricorythusを出発した。[Apo.2.8.2]
BC1211年、Atreusは、Tegeatansや他の民族を彼の部隊に加えて、Heracleidaeと会戦するために進軍した。[Diod.4.58.2]
BC1211年、Hyllusは、Isthmusで、TegeaのEchemusと一騎打ちをして討ち取られた。[Diod.4.58.4, Herod.9.26]
** Heracleidae側が総大将を出しているのに、Peloponnesus側が総大将ではなく、援軍に来た者を出しているのは、不自然である。
** Thyestesが追放したAgamemnonとEchemusとは、お互いの妻を通して義兄弟であった。
** HyllusとEchemusの一騎打ちは、創作で、Hyllusは合戦で戦死したと思われる。
** Hyllusの墓は、Megaraにあった。[Paus.1.41.2]
BC1211年、Heracleidaeは、Aegimiusのもとへ行き、父が預けていた土地を要求して、Doriansの地に住み着いた。[Diod.4.58.6]
** Hyllusの軍にはIoniansもいたと思われ、その中に戦死した者たちがいて、Tricorythusに居づらくなったと思われる。
** Athensの名祖の一人で、HeraclesとDryopesのPhylasの娘Medaとの間の息子Antiochusはそのまま住み続けた。[Paus.1.5.2から推定]
BC1211年、HeraclesとDeianeiraの娘Macariaは、Theseusの子Demophonの妻になって、Athensに残った。[JeromeChro.1148から推定]
BC1210年、Theseusは、IdasからTyndareusの娘Helenを預かって、Aphidnaeに匿った。[Diod.4.63.2, Plut.These.31]
** 当時、Helenは、7歳[FGrH.Nr4.F168b]、10歳[Diod.4.63.2]、12歳[Apo.E.1.23]であった。
** IdasとTheseusの友Peirithousは、Hippotesの子Aeolusの子Lapithesを共通の祖とする同族であった。
** Lapithesの子Aeolusの子Perieresの子Aphareusの子Idas。Lapithesの子Periphasの子Antionの子Ixionの子Peirithous。
** IdasとTheseusも、Peirithousを介して親交があったと思われる。[Plut.These.30]
BC1210年、Theseusは、Thesprotisへ出かけてAthensを留守にした。[Paus.1.18.4, Paus.2.22.6, Paus.3.18.5, Plut.These.31]
** ThesprotisのAornumには死者を呼び出す神託所がある。Theseusは死んだ妻Phaedraを呼び出すために行った。[Paus.9.30.6]
BC1210年、Theseusの2人の息子たち、DemophonとAcamasは、EuboeaのChalcisのElephenorのもとへ亡命した。[Aelia.4.5, Plut.These.35]
** Theseusが息子たちを避難させた。[Plut.These.35] DemophonとAcamasは、Menestheusに追放された。[Aelia.4.5]
** Chalcodonの子Elephenorは、Aegeusの妻Chalciopeの兄弟であった。つまり、Theseusの義母の兄弟であった。
BC1210年、Dioscuriは、AthensのAphidnaeを占領し、HelenをLacedaemonへ連れ戻した。[Paus.2.22.6]
** Megareusの子Timalcusも遠征に参加してTheseusに討ち取られたとされるが、Theseus不在で戦いもなかった。[Paus.1.41.3-4, Paus.3.18.5]
BC1210年、Dioscuriは、Eleusisの秘儀に入門するため、Aphidnusの養子になった。[Plut.These.33]
**Athens市民でない者が秘儀に入門するためには、Athens市民の養子になる必要があった。
** Persia戦争の頃には、Greeksであれば入門できるようになった。[Herod.8.65]
BC1210年、Theseusは、Athensに帰るが、住民の反感を抑えられず、GargettusでAtheniansへの呪詛を行う。[Plut.These.35]
BC1209年、TheseusはScyros島へ亡命するが、Lycomedesに殺害された。[Paus.1.17.6, Plut.These.35, Plut.Cimon.6]
** Theseusは、Lycusの偽の中傷により追放されて、Lycomedesに嫉妬されて殺された。[Suda.th.368]
BC1209年、Menestheusが、Athens王に即位した。[Euseb.185]
** HeracleidaeがTricorythusからDoriansの土地へ移住したため、Theseusが劣勢になったと思われる
** DioscuriがMenestheusに協力した。[Paus.1.17.5]
** DioscuriがMenestheusを連れ戻した。[Apo.E.1.23]
** DioscuriがMenestheusに勧められて、Athensを攻めた。[Plut.These.32]
** DioscuriがMenestheusに王位を与えた。[Aelia.4.5]
** 史実は、Helen奪還のためにAthensに来たDioscuriを、Theseusの留守中に政権奪取を画策したMenestheusが利用したのだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの息子たち、CastorとPolydeuces(Dioscuri)は、Messeniansと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** Pausaniasは、Dioscuriが父Tyndareusの跡を継いだように記している。[Paus.3.1.5, 3.17.2]
** しかし、彼らには息子がおり、その後、娘婿MenelausがSpartaを継承するのは困難である。
** Dioscuriが父より先に死んで、TyndareusがMenelausにSpartaを任せたとする伝承の方が妥当。[Apo.3.11.2]
BC1209年、IdasとLynceusは、Tyndareusの息子たちと戦って死んだ。[Apo.3.11.2]
** IdasがCastorを殺した。[Apo.3.11.2]
** その後の戦いで、PolydeucesがLynceusを殺した。[Apo.3.11.2, Paus.3.14.7, Paus.4.3.1]
** IdasがPolydeucesを殺し、Idasも死んだ。[Apo.3.11.2, Paus.4.3.1]
** DioscuriがMenestheusのAthens王即位を助けたので、IdasとLynceusが死んだのは、この頃と思われる。[Aelian.4.5, Paus.1.17.5]
BC1209年、Nestorは、Idasの跡を継いで、MesseniaのArene近くへ移住して、Pylusを創建した。[Paus.4.3.1, Paus.4.3.7]
** Nestorは、Idasの娘婿として、Idasの跡を継いだと思われる。
BC1209年、Tyndareusの娘Clytaemnestraは、MycenaeのAgamemnonに嫁いだ。[Tzetzes.1.460, Paus.2.22.3]
BC1205年、EpigoniのThebes攻め[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1, Paus.9.9.4, Paus.9.5.13]
** AdrastusのThebes攻めの10年後、Eteoclesの子Laodamasの治世であった。[Apo.3.7.2]
** Amphiarausの子Alcmaeonが指揮した。[Apo.3.7.2, Diod.4.66.1]
** Polyneicesの子供たちが指揮した。[Paus.9.33.1]
** Polyneicesの子Thersanderが指揮した。[Paus.7.3.1]
** Thebes側の援軍は、Thebes周辺の諸市であった。[Paus.9.9.4]
** Argos側の援軍は、Messenians、Arcadians、Corinthians、Megariansであった。[Paus.9.9.4]
** Theseusの子Hippolytusは、戦車が転覆して引きずられて死んだ。[Apo.E.1.19, Diod.4.62.3, Paus.2.32.10]
** HippolytusはEpigoniに参加して戦死したものと思われる。[Paus.2.32.1]
** TroezenにDiomedesが創建したHippolytusの神苑があった。HippolytusとDiomedesは同世代であった。
** EpigoniのThebes攻めの後、Thebesの勢力は、次の理由によって、急減したと思われる。
** 1) Argivesとの戦いによる戦死や、各地(Illyria, Euboea, Acarnania, Asia Minor)への移住による人口の急減。
** 2) Argivesが去った後での、Argos出身のThersanderや息子Tisamenusの統治の困難さ。
** その証拠に、EpigoniのThebes攻めの後、Thersanderの子Tisamenusの子AutesionがThebesを去るまでの動静はほとんど不明である。
BC1205年、Epigoniは、Argosから海路でAulisに上陸した。ThebansがGlisasで待ち受けて、戦いになった。[Paus.9.5.13]
BC1205年、Polyneicesの子Thersanderは、Thebes王に即位した。[Paus.9.5.14]
** BC1324年にAmphionがThebesを城壁で囲んでから、Epigoniに占領されるまで、Thebesは少なくとも2度占領された。
1) BC1300年、Eurymachus率いるPhlegyes[FGrH.Nr333.F41]
2) BC1256年、Clymenusの子Erginus率いるMinyans[Apo.2.4.11]
BC1205年、Thebesから逃れた人々は、Alalcomenae近くのTilphossaeumに集まった。[Diod.4.66.5]
BC1205年、予言者Tiresiasは、Thebesから逃れる途中でTilphusaの泉で死んだ。[Apo.3.7.3]
** Tiresiasは、Argivesに連れられてDelphiへ行く途中、Haliantiaで死んだ。[Paus.7.3.1, Paus.9.33.1]
** Tiresiasの娘Mantoは、戦利品の中で最良のものとして、Delphiへ連れて行かれた。[Apo.3.7.4]
BC1205年、Tiresiasの娘Mantoは、Amphiarausの子Alcmaeonの捕虜になった。[Apo.3.7.7]
** 後に、AlcmaeonとMantoとの間に、息子Amphilochusと娘Tisiphoneが生まれた。[Apo.3.7.7]
BC1205年、Eteoclesの子Laodamasは、ThebesからIllyriaのEncheleansのもとへ移住した。[Herod.5.61, Paus.9.5.13, Paus.9.8.6]
BC1205年、Thebansの一部は、Illyriaへ行かずに途中で分かれて、ThessalyのHomoleへ移住した。[Paus.9.8.6-7]
BC1205年、Thebansの一部は、Euboea北部にHestiaea(Histiaea)を創建した。[Apo.3.7.3]
BC1205年、Thebansの一部は、Copais Lake南西のAlalcomeniaやTilphosium山にArgivesが退去するまで隠れていた。[Diod.19.53]
BC1205年、Adrastusは、EpigoniのThebes攻めに同行し、帰る途中、Megaraで死んだ。[Paus.1.43.1]
BC1205年、Thebes西方約5kmのCabeiraeaのPelasgiansは、Athensへ移住した。[Herod.2.51, Paus.9.25.7]
BC1205年、Atreusの孫Menelausは、SpartaのTyndareusの娘Helenと結婚した。[Hyginus.78, Paus.2.22.6]
BC1205年、Menelausは、義父TyndareusからLacedaemonの王位を譲渡された。[Apo.3.11.2, Apo.E.2.16, Hyginus.78]
** Tyndareusは、Dioscuriより先に死んでいたと推定される。MenelausがTyndareusから王位を譲られたという伝承は作り話と思われる。
** AgamemnonがLaconia地方をMycenaeへ併合して、Laconia地方をMenelausが領有した。[Strabo.8.6.10]
BC1205年、Carmanorの子Eubulusの娘Carmeの娘Britomartisは、Crete島からAegina島へ移住した。[Antoninus.40]
BC1204年、Alcmaeonは、Acarnaniaへ遠征してArgos(後のArgos-Amphilochicum)を創建した。[Strabo.7.7.7, Strabo.10.2.25]
** Alcmaeonは、Mantoらの捕虜を連れて、Illyriaを目指すが、途中Achelous川河口付近にAstacusを創建した。[Strabo.10.2.21から推定]
** Diomedesの協力者は、Alcmaeonではなく、Capaneusの子Sthenelusであった。[Hygnius.175]
** AlcmaeonのAcarnania遠征の動機は、捕虜がIllyria行きを希望したからであったと思われる。
** the Peloponnesian warの頃のAstacusのtyrant Evarchusは、Epigoniの捕虜の中にいたSpartiの後裔と思われる。[Memnon.12.1から推定]
** Alcmaeonは、Melampusの後裔で、息子たちAcarnanとAmphoterusの後裔がHesiodに予言術を教えたと思われる。[Paus.9.31.5]
** Hesiodは、Naupactusから東へ15kmほどのOineonで殺害された。[Plut.Mor.969e, Thyc.3.96]
** Hesiodは、AcarnaniaとBoeotiaを往復していたと思われる。
** Thermopylaeの戦いに参加したAcarnania出身の予言者Megistiasは、Melampusの後裔であった。[Herod.7.221]
** Alcmaeonの弟Amphilochusもこの遠征に参加し、以後、Argosには帰らなかったと思われる。[Apo.3.7.7]
** Thucydidesは、AmphilochusがTroy遠征に参加したと記している。[Thucy.2.68]
** しかし、つぎの理由で、Alcmaeonの弟Amphilochusは、Troy遠征に参加していなかったと推定される。
** 1. 兄弟でEpigoniのThebes攻めに参加しているのに、兄の遠隔の地での町の創建に弟が参加しないはずがない。
** 2. 兄Alcmaeonが、Agamemnonからの要請を断り、弟だけがTroy遠征に参加したとは思われない。
** 3. HomerがAmphilochusについて言及していない。
** 4. Homerは、Argosの将を3人列挙している。[Home.Il.2.557]
** (1) Argos 3王家の本家Anaxagoridae[Paus.2.30.10] Capaneusの子Sthenelus
** (2) Bias王家Biantidae[Dic: Bias]のTalausの子Adrastusの子Aegialeusの子Cyanippusの代理のDiomedes
** (3) Bias王家のTalausの子Mecisteusの子Euryalus
** AmphilochusのTroy遠征が真実であれば、Argos 3王家のひとつMelampodidae[Paus.6.17.6]の将として名前が挙がっているはずである。
** 5. 兄Alcmaeonには多くの妻子の名前が伝えているが、Amphilochusの妻子は不明であり、若くしてGreeceから離れたと思われる。
** 6. 多くの史料で、Asia MinorのColophonで生まれて、CiliciaのMallusで死んだ、兄AlcmaeonとMantoの息子と混同されている。
BC1203年、ThebesのThersanderは、Epigoniに追われて、Homoleへ逃れた人々を呼び戻した。[Diod.19.53, Paus.9.8.7, Strabo.9.2.3]
BC1203年、Atreusが死に、AgamemnonがMycenae王になった。[Euseb.177]
** Agamemnonの在位18年目にTroyが陥落した。[Cleme.Str.1.21, Tatian.39]
** Agamemnonは、30年(35年)間Mycenaeを統治し、在位18年目にTroyが陥落した。[Euseb.Chron.179, (JeromeChro.1197)]
** AgamemnonとMenelausは、Lacedaemoniansを率いて、Mycenaeに帰還した。[Tzetzes.1.460]
** 彼らは、Thyestesと彼の息子AegisthusをLaconia湾の沖に浮かぶCythera島に住むように命じた。[FGrH.10.11, Tzetzes.1.460]
** Thyestesは、Cythera島で死んだ。[Home.Od.4.512から推定]
BC1202年、Oeneusは、Agriusの息子たちに追われて、CalydonからArgosのDiomedesのもとへ亡命した。[Paus.2.25.2]
BC1202年、Diomedesは、Aetoliaへ遠征し、Calydonを追われた祖父Oeneusの仇を討った。[Paus.2.25.2]
** Diomedesの協力者は、Amphiarausの子Alcmaeon[Apo.1.8.6, Strabo.10.2.25]ではなく、Capaneusの子Sthenelus[Hygnius.175]
** Sthenelusは、Diomedesの親友であった。[Hygnius.257]
** Oeneusの敵であるPleuronのParthaonの子Agriusの息子たちは、Alcmaeonとは、従兄弟の孫同士の関係であった。
** Alcmaeonが親族を相手の戦いに協力したとは思えない。
** DiomedesのAetolia遠征は、EpigoniのThebes攻めの後であった。[Strabo.7.7.7]
** OeneusはTrojan War前に死んでいたので、DiomedesのAetolia遠征はTrojan War前であった。[Home.Il.14.117]
** Diomedesは、AmphissaのOeneusの娘婿AndraemonにAetoliaを任せた。[Apo.1.8.6]
** Diomedesが戦ったのは、Agriusと彼の息子たち[Antoninus.37]
** Thestius一族とAgrius一族は、Aetoliaの内陸部へ逃れて、ThestiaとAgriniumを創建した。[LeakeN.1.155]
** ThestiaやAgriniumは、数で最大のEurytaniaに属していた。[LeakeN.2.623]
** ThestiaやAgriniumは、BC218 年にMacedonia王Philip 5世がAetoliansを攻めたときに存在していた。[Polyb.5.7]
BC1202年、Alcmaeonは、Achelousの娘Callirhoeと結婚した。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonの父Amphiarausの父Oeclesの妻Hypermnestraは、Aetolusの子Pleuronの後裔であり、Callirhoeも母方の先祖はPleuronであった。
BC1202年、Agamemnonは、Argosを攻めて、Mycenaeの支配下に置いた。[Strabo.10.2.25]
** Agamemnonは、Argivesの多くがDiomedesと共にAetoliaへ遠征中を狙った。[Strabo.10.2.25]
BC1202年、Oeneusは、Calydonを娘婿Andraemonに任せ、孫のDiomedesと共にArgosへ行って死んだ。[Apo.1.8.6, Paus.2.25.2]
** Oeneusは、孫のDiomedesと共にArgosへ行く途中、ArcadiaでAgriusの息子たちに殺されたという伝承もある。[Apo.1.8.6]
BC1200年、Nestorは、ThessalyのTriccaのAsclepiusを訪問した。[Strabo.1.1.16から推定]
** IdasからMesseniaを継承したが、領内のLapithsが、彼に従わなかったために、ThessalyのLapithsの有力者を利用したと思われる。
** PharaeのDioclesの娘AnticleiaとAsclepiusの子Machaonとの婚姻を仲介したと思われる。[Paus.4.3.1]
** Nestorは、Troyで戦死したMachaonの遺骨を持ち帰って、Gereniaに埋葬した。[Paus.3.26.9-10]
BC1200年、Asclepiusの子Machaonは、MesseniaのPharaeからDioclesの娘Anticleiaを妻に迎えた。[Paus.4.30.3]
BC1200年、Tanagra周辺のGephyraeansは、Chaeresilausの子Poemanderの孫Poemanderに追われて、Athensへ移住した。[Herod.5.57, Paus.9.20.1]
** EpigoniのThebes攻めの少し後でGephyraeansは、Boeotiansに追われてAthensへ移住した。[Herod.5.61]
** BC1415年にEumolpusに追われたAtheniansをGephyraeansが受け入れた借りを返したものと思われる。[Suda.Delta.1395]
BC1200年、Lebesの子Rhaciusは、CreteからAsia Minorへ移住して、Colophonを創建した。[Paus.7.3.1]
** MopsusがColophonを創建したという説もある。[PompoMela.1.88] Trojan War時代には、Colophonという町はなかったことになる。
BC1200年、Eurystheusの娘Admeteは、Samos島へ移住した。[Athen.15.672a]
** Admeteは、ArgosのHera神殿の巫女であった。[Newton.139]
** Admeteは、LebesとCreteへ行ってから、Rhaciusと共にAsia Minorへ向かい、Samos島へ移住したと思われる。
BC1200年、Dardanusの子Zacynthusは、ArcadiaのPsophisからZacynthus島へ移住した。[Paus.8.24.3]
** ArcadiaのPsophisは、EpigoniのThebes攻めの頃はPhegiaと呼ばれていた。Troy遠征には、Zacynthus島から参加していた。
** したがって、Zacynthusの移住は、この頃と思われる。[Paus.8.24.8, Home.Il.2.631]
BC1200年、Agamemnonは、LaconiaをMycenaeに併合して、MenelausがLaconiaを領有した。[Strabo.8.6.10]
BC1198年、HelenがTroyへ連れ去られた。[Apo.E.3.1-5, Dictys.1.3]
** Helenが連れ去られた2年後に、準備を終えてTroyへ遠征した。[Apo.E.3.18]
** HelenはSparta近くのTherapneに埋葬された。[Paus.3.19.9]
BC1197年、Hermioneは、MenelausとHelenの娘として、Spartaで誕生した。[Apo.E.3.3, Paus.10.16.4]
** Hermioneの誕生をTroy遠征の9年前とした。
** HelenがTroyへ連れ去られたとき、Hermioneは9歳であった。[Apo.E.3.3]
BC1196年、第1回Troy遠征と称される出来事。
** Agamemnonの遠征軍は、MysiaをTroyと間違えて上陸して失敗した。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Achillesは15歳で海軍を指揮した。[Apo.E.3.16]
** Athens王Menestheus[BC1209-1186]の治世13年目であった。[Parian.Marble.23]
** Epigoniを率いたAlcmaeonは、Thersanderの妻Demonassaの兄であり、ThersanderをThebes王に復位させた恩人であった。
** AlcmaeonはTiresiasの娘Mantoとの間に子供2人をもうけ、その後、Aetoliaへ遠征し、AcarnaniaでCallirhoeを妻にした。[Paus.8.24.9]
** Alcmaeonは、Epigoniの捕虜になった人々と新天地へ移住を希望するMantoをThersanderに託した。[推定]
BC1196年、Thersanderは、TegeaからMysiaへ移住したTelephusのもとへ行くが、その地で死んだ。[Apo.E.3.17, Strabo.1.1.17]
** Telephusの従兄弟Parthenopaeusの2人の息子たち、TlesimenesとBiantesは、MysiaからEpigoniのThebes攻めに参加した。[Hyginus.71]
** TlesimenesとBiantesは、AlcmaeonやThersanderの戦友であり、Mysiaへ案内した。[推定]
** Telephusが留守にしたMysiaを荒らすのは簡単だという諺の元となったほど、Telephusの強さは有名であった。[FGrH.Nr327.F19]
** Troyと間違えてMysiaに上陸して、ThersanderがTelephusに殺されたという伝承には、この諺も影響していた。
BC1196年、Tiresiasの娘Mantoは、Mysiaから南下して、Colophonに住んでいたCretansと共住した。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
BC1196年、Mantoは、CreteからColophonへ移住したMycenaeanのLebesの子Rhaciusと結婚した。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusは、Thebes陥落をMantoから聞いて泣いた。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesは、MycenaeのSthenelusの子Iphitusの息子と思われる。[Epic.Epigoni.3]
** Rhaciusの父Lebesの父Iphitusの姉妹Astymedusa(Eurystheusの姉妹)は、ThebesのOedipusの妻であった。[FGrH.333.95から推定]
BC1194年、Mantoは、Colophon近くの海辺のClarusにApollonの神託所を創建した。[Photios.186.6]
BC1190年、Euanthesの子Maronの子Macedonは、Macedonia地方へ移住した。[Diod.1.20.3]
** Diodorusは、Macedonの名前に因んで、Macedoniaと名付けられたと伝えている。[Diod.1.20.3]
BC1190年、Agamemnonは、Lemnos島をTroy遠征軍の補給基地とするためにNemeaのEuneusを島の支配者にした。[推定]
** Lemnos島の住人は、Euneusの母Hypsipyleの父Thoasが率いたNaxos島からの移住者と、Thessayから逃げ込んだMinyansであった。
** Agamemnonは、両方の住人を従わせるために、EuneusがHypsipyleとArgonautsの遠征を率いたJasonの息子だと流布したと思われる。
** Euneusの父をJasonとする史料[Apo.1.9.17, FGrH.Nr12.F14, Home.Il.7.464; 23.738, Hyginus.15, 273, Statius.6.340, Strabo.1.2.38]
** 次の理由で、Euneusは、NemeaのTalausの子PronaxとHypsipyleとの間の息子と思われる
** (理由1) Argonautsの遠征時、Minosの娘Ariadneの子Thoasの娘Hypsipyleは、7歳くらいであった。
** (理由2) HypsipyleとJasonとの間にはEuneusの他に息子Nebrophonus(or Deipylus)がいた。[Apo.1.9.17, Hyginus.273]
** Lemnos島にいたHypsipyleがNemeaに住むことになった経緯は、次のように推定される。
** Lemnos島に住んでいたThoasの娘Hypsipyleは、両親が死んで、孤児になり、Phliasusの養女になったと思われる。
** Lemnos島へは、Thoasと共にNaxos島から移住した人々がいて、Dionysus(Oenarus)の遠征に参加したと思われる。
** Hypsipyleの両親は、疫病で死んだと推定される。Lemnos島で疫病が猛威を振るった。[Thucy.2.47]
** Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusで育てられた。婚期を迎え、Phliusから約7km離れたNemeaのPronaxに嫁いだ。
** あるいは、Argonautsの遠征とは関係なく、Hypsipyleは、叔父の養女となってPhliusに住んでいた。
BC1190年、Agamemnonは、SicyonのRhopalusの子Hippolytusを攻めて、支配下に置いた。[Paus.2.6.7]
BC1190年、Achillesは、遠征への参加を拒否するTanagraのPoemanderを攻めた。[Plut.QuestGr.37]
** これが原因で、ThebesとEleutheraeの対立が続いたと思われる。BC6世紀にEleutheraeは、Athens領となることを欲した。[Paus.1.38.8]
BC1190年、TanagraのPoemanderは、過失により息子を殺害し、ChalcisのElephenorにより清められた。[Plut.QuestGr.37]
BC1190年、Phocusの子Crisusの子Strophiusの子Pyladesは、Crissaから南へ移住して、Crissa湾の岸辺にCirrhaを創建した。[Pind.Py.11]
BC1190年、Agamemnonの子Halaesusは、MycenaeからItalyのFaleriiへ移住した。[Ovid.Fasti.4.63, Strabo.5.2.9]
** HalaesusはFaleriiから南南西へ約46kmのAlsiumにも関係があった。[ItaPunica.1.1]
BC1190年、Agamemnonの娘Iphigeniaは、MycenaeからMegaraに住むAjaxの子Philaeusに嫁いだ。
** Philaeusの妻は、Agamemnonの娘Iphigeniaであったと思われる。その理由は、つぎのとおりである。
** Philaeusは、Megara王である父Ajaxと共にMegaraに住んでいたと思われるが、その町にIphigeniaの英雄廟があった。[Paus.1.42.4, Paus.1.43.1]
** Iphigeniaは、Artemisに仕える巫女になって、Brauronで死んだと思われる。[Eur.IT.1464]
** Iphigeniaの兄弟HyperionがMegara王を継承している。[Paus.1.43.3]
BC1190年、Italy半島北東部のRavennaにいたPelasgiansは、Tyrrheniansに圧迫されてThesprotiaへ移住した。[Strabo.5.1.7から推定]
** BC1390年にThessalyからRavennaへ移住したPelasgiansが、Thessalyへ帰還した。[Strabo.5.1.7]
BC1189年、Alcmaeonは、Phegeusの息子たち、TemenusとAxionによって、Arcadiaで殺された。[Paus.8.24.10]
** Alcmaeonは、AgamemnonからのTroy遠征参加要請を断っているので、Acarnaniaに建設した町を離れたとは思われない。
BC1189年、Menelausは、SpartaのHeIleniumに遠征参加者を集め、会議を開催した。[Dares.10, Paus.3.12.6]
BC1188年、Laomedonの子Priam死去。[推定]
BC1188年、ArgosのHera神殿で、Troy遠征参加者が総大将に相応しい人物の名前を書いて投票し、Agamemnonが選出された。[Dictys.1.16]
BC1188年、Troy遠征参加のArgivesは、ArgosのTantalusの骨壺が安置された場所で、Troy攻略を誓った。[Paus.2.22.2]
BC1188年、AchaeansによるTroy遠征があった。
** 総大将は、Agamemnonではなく、Achillesと思われる。
** 第1回Troy遠征と称される出来事から8年後であった。[Apo.E.3.19]
** AthensのPhalerum港に集結後、AchillesとPatroclusが代表して、Delphiで神託を受けて来て、Aulisへ向かった。[Dares.14, Paus.1.1.2]
** Telamonは、AthensからAulisに向かう船をSalamisから見送った。[Paus.1.35.3, Paus.8.28.4]
** 戦いは、10年続いた。[Athen.343d, Apo.E.3.19, Apo.E.5.8, Dictys.3.23, DioChry.7.96, Diod.37.1.2, Demosthenes (Funeral Speech.10), GrAntho (5.139 and many others), Hyginus.108, Isocrates (To Philip.111, Panegyricus.83), Ovid.Meta.13.640, Plato.Laws.682, PlutMor.350e, Thucy.1.11, Virgil.Aeneid.8.370]
** Iphiclusの子ProtesilausがTroyに一番乗りした。[Arr.1.11.5, Apo.E.3.30, Dictys.2.11, Hyginus.103]
** Protesilausの墓は、ChersoneseのElaesusにあった。[Arr.1.115, GrAntho.7.141, Herod.9.116, HygAstro.2.40.3, Pliny.16.238]
** Elaeusa [HygAstro.2.40.3] Elaious [PhiloHero.672] Eleus [Strabo.Fr.51] Elaeus [Arr.1.11.5]
** Protesilausは戦死して、Elaeusに埋葬された。Protesilausの遠征は、BC1244年と思われる。
** << 遠征が10年ではなかったと思われる理由 >>
** Agamemnonの在位18年目にTroyが陥落した。[Euseb.Chron.179, Cleme.Str.1.21, JeromeChro.1197, Tatian.39]
** AgamemnonはTrojan War前に、Achaia、Argolis、Messenia湾岸を支配下に置いていた。[Home.Il.2.569, Home.Il.9.150, Strabo.8.4.1]
** AgamemnonがPeloponnesusの半分を支配下に置くのに、8年間では短すぎる。
** << 遠征が1年ではなかったと思われる理由 >>
** Troy遠征中に捕虜の女性たちとTelamonの子Ajaxとの間に息子たちが生まれていた。[Dictys.5.16, Plut.Arist.19, Harp10Orat.e167]
** 3日か、4日で行ける所に10年もいたとは思われない。[Home.Il.9.356, Home.Od.3.151]
BC1188年、LemnosのEuneusは、Troy遠征軍を歓待して、物資を補給した。[Home.Il.2.716, Home.Il.7.464, Home.Il.8.212]
BC1188年、Achillesは、Troyに加担するLesbiansを攻撃した。Phorbasを殺害し、娘Diomedeaを戦利品にした。[Dictys.2.16, Home.9.656]
BC1188年、Achillesは、Miletusを襲って、Lelegesの王Trambelusを殺した。[Athen.43d]
BC1188年、Agamemnonは、Troy沖に浮かぶTenedos島の住民をArgolisのTeneaに居住させた。[Paus.2.5.4]
** Cadmusの娘Inoの息子Melicertes(Palaemon)は、Tenedosで尊敬され、幼児を供儀することがあった。[TzeAdLyco.229]
BC1188年、Telamonの子Ajaxは、Phrygiansの支配者Teuthrasを殺して、娘Tecmessaを捕虜にした。[Dictys.2.18]
** このTeuthrasは、MysiaのTelephusの義父でない。Chersoneseに近い、Hellespont付近のPhrygiaの支配者と思われる。
BC1188年、Sicilyから移住してAcarnaniaに住んでいたPelasgiansは、Boeotiaへ侵入した。[Paus.1.28.3]
BC1188年、Boeotiansは、ThraciansやPelasgiansに追われて、ThessalyのArneへ移住した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** << Boeotiansが亡命先をArneにした理由 >>
** BC1330年のAmphionとZethusのThebes攻めのとき、Amphictyonの孫Locrusも協力した。[FGrH.Nr333.F170]
** LocrusはLelegesを率いていた。[Hesiod.Women.82]
** このとき、Locrusの従兄弟のBoeotusも参加して、Boeotusの子ItonusがBoeotiaへ移住したと思われる。[Diod.19.53, Strabo.7.7.2]
** Boeotusの後裔がBoeotiansを率いてTroyへ遠征し、残っていた者たちがArneへ逃れた。
** Thraciansとは、Boeotiaの代名詞であった。[Pliny.4.27]
** Hyantesは、PhocisのHyampolisに居住していた。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** Thraciansは、Orchomenusを占領した。[FGrH.Nr4.F42b]
** Pelasgiansは、Coroneiaを占領した。[Diod.19.53, Strabo.9.2.3]
** Thraciansは、Thebesも占領した。Thebansの捕虜たちはHaliartusまで連れて行かれたが奪還された。[Paus.9.16.6]
BC1188年、Aeolusの子Athamasの後裔Athamas率いるOrchomeniansは、Ioniaへ移住してTeosを創建した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** Teosのすぐ近くのColophonには、EpigoniのThebes攻めの捕虜たちが、少し前に移住していた。[Paus.7.3.2, Paus.9.33.2]
** Teosへ移住したAthamasの後裔に率いられたOrchomeniansは、BC4世紀にPhilipによって帰還させられた。[Paus.9.37.8]
BC1188年、Thraciansに追われたOrchomeniansの一部は、Munychusに受け入れられて、AthensのMunychiaに住んだ。[FGrH.Nr4.F42b]
** Munychusは、DemophonとLaodiceの息子。[Plut.These.34] Munychusは、AcamasとLaodiceの息子。[Parthe.16]
BC1186年、Chalcisへ逃れていたTheseusの息子たち、DemophonとAcamasは、Athensへ帰還して、Atheniansを掌握した。[推定]
BC1186年、Menestheusは、Melos島へ逃れた。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
BC1186年、Atheniansは、Scyros島へ渡って、Lycomedesを殺して、Theseusの仇討ちをし、Theseusの遺骨を持ち帰った。[Suda.th.368]
BC1186年、Thesprotiansは、Thessalyへ攻め込んで、Thessalyを占領した。[FGrH.Nr70.F23, Herod.7.176, Strabo.9.5.23, VellePat.1.3.1]
** Phociansは、Thesprotiansの侵入を防ぐために城壁を造った[Herod.7.176]
** Thessalus率いるThesprotiansが武力で占領し、Thessalyと呼ばれるようになった。それ以前は、Myrmidonesの国と呼ばれていた。[VellePat.1.3.1]
** Thucydidesは、Thesprotiansを非ギリシア人とみなしている[Thucy.2.80]
** ThessalyのArneのBoeotiansは、Haimonに敗れてBoeotiaへ帰還した。[Suda.pi.962]
** Arneの一部の住人はpenestai(農奴)となって残留し、3代目まで住み続けた。[Athen.264b, Suda.Pi.962]
BC1186年、予言者Peripoltasは、Peneleusの子OpheltesやBoeotiansを率いて、ArneからChaeroneiaへ移住した。[Plut.Cimon.1]
** Opheltesは、ThessalyのArneには2年間しかいなかったと思われる。
** Opheltesは、この時、Thessalyへ行く前に住んでいたCoroneiaをPelasgiansから奪還する力はなかったと思われる。
** Chaeroneiaは、当時、Arneと呼ばれていた。[FGrH.Nr4.F81, Paus.9.40.5]
BC1186年、Achaeansは、Antenorの息子たちに敗れて、Ilium奪還を断念して、各地へ逃れた。
** Thessaly陥落の知らせが届いて、遠征軍は解散したと思われる。
BC1186年、Neoptolemusは、Tenedosに立ち寄って、2日間滞在した。[Apo.E.6.5]
** < NeoptolemusがThessalyへの帰還を断念した理由 >
** Neoptolemusの故郷はAcastusに奪われたが奪還して故郷へ帰還した。[Dictys.6.7-9]
** Neoptolemusは、Molossiansの地に行った後、Peleus亡き後の旧領を継承した。[Apo.E.6.13]
** Neoptolemusは、帰還を軽蔑して、Molossiansの地へ移住した。[Paus.1.11.1]
** Neoptolemusは、父の王国を不在にして王国を失った。[Just.17.3, LeakeN.4.175]
BC1186年、Diomedesは、AthensのPhalerum付近に停泊して、Demophonと夜間の戦闘となった。[FGrH.Nr325.F12, Paus.1.28.9]
** Diomedesは、NestorやMenelausと共に、Tenedos島、Lesbos、Chios島、Psyria島、Euboeaを経由して帰還した。[Home.Od.3.151]
** OdysseusはTenedos島からAgamemnonのもとへ戻った。[Home.Od.3.151]
** DiomedesのArgos到着は、Troy出発の4日目であった。[Home.Od.3.151]
** Troyから3日目で、Phthiaに着く。[Home.Il.9.356]
** Troyの帰路、NestorがCeos島に立ち寄り、Nedusian Athena神殿を造営した。[Strabo.10.5.6]
** 後に、Messenia湾奥のNedon川近くの住人がCeos島へ移住して造営したものと思われる。
** PheraeのAdmetusの子Eumelusの後裔は、Athensへ移住した。[FGrH.4.125]
** OrmeniumのEuaemonの子Eurypylusは、Delphiの神託に従って、AchaiaのPatraeに定住した。[Paus.7.19.6-]
** Agamemnonは、Tenedosに立ち寄ってから帰国した。[Apo.E.6.5]
** Agamemnonは、LaconiaのMalea岬付近で暴風に遭遇した。[Home.Od.4.512]
** Agamemnonの軍船団にいたAchaiaのPelleneの人々は、暴風で流されてChalcidice半島のPelleneに住み着いた。[Thucy.4.120]
BC1186年、Achillesの育ての親Phoenixは、Thermopylae付近で死んだ。[Home.Il.9.485, Apo.E.6.12, Strabo.9.4.14]
BC1186年、Neoptolemusは、Molossiansの地へ移住した。[Apo.E.6.12]
** Neoptolemusは、HelenusとAndromacheを連れていた。[Apo.E.5.23, Apo.E.6.12, Just.17.3, Paus.2.23.6]
** Helenusは、Neoptolemusに与えられたHectorの息子たちを連れていた。[Dictys.5.16, Dictys.6.12]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Athensに上陸できずに、 Italy半島南部Scylletiumへ移住した。[Strabo.6.1.10]
BC1186年、Menestheusが率いたAtheniansは、Aeolis地方のCyme近くのElaeaへ移住した。[Strabo.13.3.5]
** ElaeaのあるMysiaには、Arcadiansが住んでいた。[Paus.1.4.6, Strabo.12.8.4]
BC1186年、Telamonの子Teucerは、父に下船を阻止され、Cyprusへ移住して、Salamisを創建した。[Just.44.3, Paus.1.28.11, Parian.Marble.26]
** Teucerは、捕虜たちをCyprusに植民した。[Athen.256b]
** Teucerは父の死の噂を聞いて、故国へ戻ったが、Ajaxの子Eurysacesに阻止されて、Hispaniaへ入植した。[Just.44.3]
** Teucerの子Ajaxは、Cilicia TracheiaのOlbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1186年、Asclepiusの子Podalirusは、Damaethusが治めるCaria地方のBybastusの近くにSyrnusを創建した。[FGrH.Nr70.F167, Paus.3.26.10, Parthe.1, Steph.Byz.593.17]
** Damaethusは、Minosの娘Ariadneの子Staphylusの息子と推定される。
** Podalirusは、Damaethusの娘Syrnaと結婚した。
BC1186年、Tiresiasの娘Mantoは、Colophonで死んだ。[Photios.186.6]
** Colophon近くの海辺のClarusにあるApollonの神託所をMantoの子Mopsusが継承した。[Photios.186.6]
** ClarusのApollonの神託所は、Mantoが創建したと思われる。
** RhaciusとMantoの息子Mopsusは、Colophon周辺からCariansを追い出した。[Paus.7.3.2]
BC1186年、Peirithousの子Polypoetesと、Coronusの子Leonteusは、Colophonに定住した。[Apo.E.3.14, Apo.E.6.2, Dares.14]
** Thessalyから参加したPhiloctetesは、無事に帰還した。[Home.Od.3.176]
BC1186年、Calchasは、Pamphyliaへ移住してSelgeを創建した。[Herod.7.91, Paus.7.3.7, Strabo.12.7.3, Strabo.14.4.3]
** Pamphyliaは、Mopsusの姉妹の名前に因む。[StephByz.P498.15]
** Pamphyliaは、Mopsusの娘の名前に因む。[Photios.176]
** Selgeは、Alexander the Greatの信頼される同盟者となった。[Arr.1.28.1]
BC1186年、Ancaeusの子Agapenorは、Arcadiaへ帰らないで、Cyprus南西部のPalaepaphosの近くにPaphosを創建した。[Strabo.14.6.3]
** Agapenorは、Cyprusで銅を採掘した。[TzeAdLyco.447, TzeAdLyco.484]
** Agapenorは、Teucerに次いで2番目にやってきた。[TzeAdLyco.478]
BC1186年、Magnesiansは、戦利品の10分の1をDelphiに奉納して、Delphiに定住した。[Photios.186.29]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Troyを出航した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、Anchisesの子Aeneasは、Troyを出航した。[Antiq.1.63.2, Virg.Aene.3.1]
BC1186年、ElymusとAegestusは、Sicily島北西部のCrimisus河畔に到着した。[Antiq.1.52.1]
BC1186年、OrchomenusのAstyoche (or Pernis)の子Ialmenusは、Sauromataeの地へ移住した。[FGrH.Nr333.F143, Strabo.9.2.42]
** Astyocheは、Athamasの子Phrixusの子Presbonの子Clymenusの子Azeusの子Actorの娘であった。
** Phrixusの後裔Perseisの子Aeetesの娘Circeは、BC1276年、Sauromatiansの王のもとへ嫁いでいた。[Diod.4.45.4]
BC1185年、Anchisesの子Aeneasは、Thraciaでの冬営を終えて南下した。[Antiq.1.63.2]
BC1185年、Aeneasは、Delos島に立ち寄り、神官Aniusの歓待を受けた。[Antiq.1.50.1, Virg.Aene.3.69]
** Aniusの父ZarexとAchillesは、第7代Athens王Cecropsを共通の先祖とする又従兄弟であり、この伝承は創作と思われる。
BC1185年、Aeneasは、Cythera島に立ち寄って、Aphroditeの神殿を造営した。[Antiq.1.50.1]
** Cythera島はMycenae領であったと思われ、この伝承も創作と思われる。[FGrH.Nr10.F11, Tzetzes.1.460]
BC1185年、Aeneasは、SicilyでElymusとAegestusに迎えられ、AegestaとElymaの創建に協力した。[Antiq.1.52.4]
** Aeneasの目的地は、Sicilyであり、ElymusとAegestusと合流する予定であったと思われる。
BC1184年、Diomedesは、妻Aegialeiaの謀略で死刑判決を受け、Argosを去ってAetoliaへ移住した。[Diod.7.3.1]
** Diomedesの妻Aegialeiaは、Sthenelusの子Cometesと不貞を働いた。[Apo.E.6.9, Tzetzes.3.280]
BC1184年、Tydeusの子Diomedesは、AetoliaからItaly半島東岸へ移住して、Argyrippeを創建した。[Tzetzes.1.760, Strabo.6.3.9]
** DiomedesとDauniansの王Daunius(or Daunus)の娘Euippeとの間には、2人の息子たち、DiomedesとAmphinomusがいた。[Antoninus.37]
** Brundisiumは、Diomedesと共に渡海したAetoliansが創建した。[Just.12.2]
** ArpiとBeneventumは、Diomedesが創建した。[Solinus.2.10]
BC1184年、Aeneasは、Sicilyでの冬営を終えてItaly半島西岸を北上した。[Antiq.1.63.2]
BC1184年、Aeneasは、Laurentum付近に上陸した。[Antiq.1.45.1]
** Latinusの治世35年目であった。[Antiq.1.44.3] 夏の半ば[Antiq.1.63.3]
** Aeneasの仲間は、600人であった。[Solinus.2.14]
BC1184年、Aeneasは、Laurentumの近くにLaviniumを創建した。[Antiq.1.45.1, Just.43.1]
** Laviniumの創建者は、Latinusであり、彼の娘の名に因んで町の名にしたという伝承もある。[Strabo.5.3.2]
BC1184年、Helenusは、Hellopia地方からCorcyra島対岸へ移住して、Buthrotumを創建した。[Ovid.Meta.13.720, SerCVAene.3.293]
BC1182年、Aeneasは、Latinusの娘Laviniaと結婚した。[Antiq.1.60.1, Euseb.Chron.283, Just.43.1]
** AeneiasとLaviniaの結婚はLatinusが戦死した後であるという伝承もある。
** しかし、LatinusがLaurentumを継承しているので、戦いの前と思われる。[Euseb.Chron.283]
** Aeneiasは父Anchisesが55歳頃に生まれたと思われる。[FGrH.Nr2.F39]
** Anchisesは、Aeneasが戦死した戦いの前年にLaurentumで死んだ。[Antiq.1.64.5]
** これが事実であれば、Anchisesは、100歳で死んだことになる。Anchisesは、Aeneas誕生後、BC1220年頃にSicilyで死んだと思われる。
** Pausaniasは、Anchisesの墓がArcadiaにあると伝えている。山の名前が似ていることから作られた作り話と思われる。[Paus.8.12.8]
** Anchisesは、Sicily西部のDrepanumで死んだ。[Virg.Aene.3.692]
** Aeneasは、Anchisesの葬儀をSicilyで行った。[Hyginus.273]
BC1182年、Latinusは、反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Just.43.1]
BC1182年、Tyrrhenusは、Latinsとの戦いで戦死した。[Antiq.1.64.3]
BC1182年、Tydeusの子Diomedesは、Rutuliansの王Turnusから援軍を要請されるが断った。[Ovid.Meta.14.460]
** Turnusは、InachusやAcrisiusの後裔。[SerCVAene.6.88]
BC1182年、Evanderの子Pallasは、Aeneasに味方してRutuliansの王Turnusと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.466]
** Turnusは、Caereaに住むEtruriansの王Mezentiusと同盟を結んだ。[Livius.1.2]
BC1182年、RutuliansのTurnusは、Aeneasとの戦いで戦死した。[Euseb.Chron.283, Just.43.1]
BC1182年、AeneasがLaurentumを継承した。[Antiq.1.43.2, Antiq.1.64.2, Diod.7.5.2, Just.43.1]
BC1182年、Agamemnonの子Halaesusは、Aeneasの味方のEvanderの子Pallasと戦って戦死した。[Virg.Aene.10.411]
BC1181年、Menestheusは、Melos島で死んだ。[Apo.E.6.15b, JeromeChro.1181]
** Menestheusは、Melos島の王Polyanaxの跡を継いだ。[Apo.E.6.15b]
BC1180年、AeneasとLaviniaとの間に、娘Aemiliaが誕生した。[Plut.Romu.2]
BC1180年、Zarexの子Anius (or Anion)の子Androsは、Delos島からEuboea島の近くのAndros島へ移住した。[Diod.5.79.2]
BC1179年、Aeneasは、再び反乱を起こしたRutuliansとの戦いで戦死。AscaniusがLaurentumを継承した。[Antiq.1.64.3, Just.43.1]
** Aeneasは、Troy陥落から7年目に死んだ。[Antiq.1.65.1]
BC1178年、AeneasとLaviniaとの間に、息子Silviusが誕生した。[Antiq.1.70.1]
BC1178年、Orestesは、Aegisthusを殺害して、Mycenae王に即位した。[Dictys.6.3, Hyginus.119]
** Orestesの友Pyladesが、Aegisthusに加勢したNaupliusの息子たちを殺した。[Paus.1.22.6]
** 『Atreusの子らの帰国』第3巻の「HermioneusがIasusを追いかけて槍で刺した」のは、このときの記述と思われる。[Athen.9.399a]
** Hermioneusは、Pyladesの兄弟と思われる。
** Orestesには、CreteやAthensからも援軍が来たとされるのは、創作と思われる。[Dictys.6.3]
** 実際は、Aegisthusは高齢であったので、Aegisthusの死を聞いて、OrestesがMycenaeを掌握したとも思われる。
BC1178年、MenelausはTroad地方を掠奪して、8年目に帰還した。[Paus.3.22.2]
** Orestesが、治世8年目のAegisthusを誅殺し、供養の宴を催していた日に、Menelausが帰還した。[Home.Od.3.312]
** Menelausは、8年の放浪の末に帰還して、復讐を終えたOrestesに会った。[Apo.E.6.29]
** Menelausは、Amyclaeに帰り着いて死んだ。[Pind.Py.11.1]
BC1175年、Mantoの子Mopsusは、異父兄弟Amphilochusと共に、ColophonからCilicia Pediasへ移住して、Mallusを創建した。[Strabo.14.5.16]
** MopsusとAmphilochusは、後に争って二人とも死んだ。[Strabo.14.5.16]
** Mopsusには3人の娘、Rhode, Melias,Pamphiliaがいた。LyciaのRhodiaとPamphyliaは、娘たちの名前に因んでいた。[Photios.176]
** Alexander the Greatに随行し、EgyptのAlexandriaの発展を予言したTelmessusのAristandrusは、Mopsusの後裔と思われる。[Arr.3.2]
** Telmessusからは、Sardisの王MelesやCroesusも神託を受けたと伝えられる。[Herod.1.78, Herod.1.84]
BC1175年、NeoptolemusはDelphiを略奪して、Daetasの子Machaereus率いるDelphiansとの戦いで戦死した。[Apo.E.6.14, Strabo.9.3.9, FGrH.Nr12.F15, FGrH.Nr333.F64]
** Orestesらに謀殺されたとも伝えられる。[Apo.E.6.14, Paus.2.29.9, Just.17.3, Hyginus.123]
** NeoptolemusはDelphiのApollo神殿で、司祭Machaereusを裏切ったため、Orestesに殺された。[JeromeChro.1160]
** Troyから帰還して、Delphiに住み着いていたMagnesiansもNeoptolemusとの戦いで、Delphiansに協力したと思われる。
BC1175年、AchillesとDeidamiaとの息子Oneirosは、Phocisでの戦いでOrestesに討ち取られた。[Photios.190]
** Oneirosは兄弟Neoptolemusと共に、Delphiansに味方したPhociansに加勢したOrestesとの戦いになったと思われる。
BC1175年、Alcmaeonの子Acarnanは、AcarnaniaにAnaktorionを創建した。[Ps-Scym.450]
BC1175年、Alcmaeonの子Phoetiusは、AcarnaniaにPhoetiaeを創建した。[FGrH.4.30]
BC1175年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの息子と思われるAcrisiusは、Larisaを再建した。[Steph.L412.18]
< 3rd return of Heracleidae >
BC1173年、Agamemnonは、Mycenaeを30(35)年間支配して、死んだ。[Euseb.Chron.179, (JeromeChro.1197)]
BC1173年、Hyllusの子CleodaeusはDoriansを率いて、Mycenaeを攻めて、町を破壊した。[Paus.3.15.10とPaus.4.30.1から推定]
** 近年の考古学調査で、BC12世紀のMycenaeに破壊された痕跡が確認されている。[wiki: Mycenae]
** Doriansは、TirynsやMideaも破壊して、Argosを占拠した。[OrestesのTegea移住などから推定]
** Hyllusは2回目の試みで、Cleodius 3回目の試みで、4回目の試みでAristomachusが殺された。[Newton.63]
BC1173年、Heraclesの子Glenus(or Gleneus)の乳母Abiaと一部の人々は、帰還を断念してMesseniaのIreに定住した。[Paus.4.30.1]
** Heraclesの子Glenus(BC1224生)の乳母AbiaをBC1241生まれと推定。Glenusも遠征に参加していたと思われる。
** GlenusはCleodaeusより年長で、始祖Heraclesの息子であった。
** しかし、Heracleidaeを率いたのは、Doriansの王であるHeraclesの子Hyllusの子Cleodaeusであったと思われる。[Paus.4.30.1]
** Cleodaeusと息子Aristomachusの生年差が40歳以上あり、Cleodaeusと共に遠征に参加した彼の長男がいたと思われる。
** Cleodaeusは戦死し、長男は、Glenusの乳母Abiaと共にMesseniaに逃れてIre (後のAbia)に定住した。[Paus.4.30.1]
** 長男の孫が「真の」Heraclesの後裔と称されるPolyphontesであったと思われる。[Apo.2.8.5]
BC1173年、ThessalyのMagnesiansは、DelphiからCreteを経由してLydiaへ移住してMagnesiaを創建した。[Photios.186.29]
** Magnesiansと共にDaetasの子Machaereusも移住して、Magnesia創建に参加した。[Dic.Machaereus, Strabo.14.1.40, Strabo.9.3.9]
** MagnesiaからMiletus近くへ移住して、DidymaにApolloの神託所を開設したBranchusは、Machaereusの子孫であった。[Strabo.9.3.9]
BC1173年、Orestesは、ArcadiaのTegeaへ逃れた。[Paus.8.5.4とHerod.1.67から推定]
** Orestesは、DelphiのApollonの神託に従って、MycenaeからArcadiaへ移住した。[Paus.8.5.4]
** OrestesはTegeaで死んだので、Trapezusへの遷都とOrestesの移住に関連があると思われる。[Herod.1.67]
** OrestesはArcadia の大半も領した。[Paus.2.18.5]
** Messenian Warの際に、Arcadiansは、Messeniansを同族として支援した。
** Agamemnonは、Messenia湾岸の7つの町を支配して、多くのAchaeansがMesseniaに居住していたと思われる。
** Orestesと一緒に多くのAchaeansがTegeaへ移住したと思われる。
** Mycenaeは、Aegisthusの子Aletesが継承したと思われる。Aletesは、Orestesの妻Erigoneの兄弟。[Hyginus.124]
BC1173年、Arcadia王Hippothousは、王都をTegeaからTrapezusに遷都した。[Paus.8.5.4]
** Hippothousは、Calydonの猪狩りに参加しているので、BC1262以前の生まれと思われる。[Paus.8.45.7]
BC1173年、Agamemnonの子Hyperionは、MycenaeからMegaraへ逃れた。[Paus.1.43.3から推定]
BC1173年、Ajaxの息子たち、PhilaeusとEurysacesは、BrauronとMeliteへ移住した。[Plut.Solon.10]
** Eurysacesの聖域がMeliteにあり、EurysacesはMeliteに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** 従って、PhilaeusはBrauronに住んだと思われる。[Harp10Orat.e167]
** PhilaeusとEurysacesの移住は、HyperionがMycenaeからMegaraへ移住して来たことが原因と思われる。
BC1170年、Hectorの息子たちは、Priamの子Helenusから軍勢を与えられて、Antenorの息子たちを追い出してIliumを奪還した。[JeromeChro.1154から推定]
** 夏至の17日前、Thargelion月の終わりの日から8日目にTroyは陥落した。[Antiq.1.63.1]
** Troy陥落は、Thargelion月の満月の日であったと伝えられる。
** BC1178年4月16日の歴史的日食をもとに、月齢周期を、29.53日として計算すると、Ilium占領は、BC1170年6月1日であった。
** Odyssey Eclipse - https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEhistory/SEhistory.html
** Herodotusは、Trojan WarをPersiaのGreece侵攻以前に起こった悲惨な出来事のように記している。[Herod.6.98]
** この後のOrestesによるTenedosへの植民は、タイミングが良く、OrestesもTroy遠征に参加していたと推定される。
BC1170年、Orestesは、遠征隊を率いて、Aeolisに植民活動を開始した。[Strabo.13.1.3]
** Aeolisの植民活動はIoniansより4世代前に開始された。[Strabo.13.1.3]
BC1170年、Orestesは、AmyclaeのPeisanderと共にTenedosを創建した。[FGrH.Nr4.F32, Pind.Ne.11, Strabo.13.1.3]
** Peisanderの母方の祖父は、Thebes攻めの守将Melanippusであった。[Pind.Ne.11]
** Tenedos島の住民は、Agamemnonによって受け入れられて、ArgolisのTeneaに居住した。[Paus.2.5.4]
** Orestesは、Teneaの住人がTenedos島からの避難民であり、彼らを追い出したAntenorだと知っていた。
** Teneaの住人の一部は、Orestesの遠征に参加して、Tenedos島へ帰還したと思われる。大部分の住人は、後にSicily島へ移住した。
** BC4世紀の歴史家Nymphodorusが"Voyage round Asia"の中でTenedosは美女の島だと伝えている。[Athen.13.609e]
BC1170年、EpidaurusのPerinthusは、Orestesに同行して、(Thraciaではない)Perinthusを創建した。[Steph.P517.17]
BC1170年、Hippothousの子Aepytusは、Arcadia王に即位した。[Paus.8.5.4]
BC1170年、Teucerの子Ajaxは、CyprusからCilicia Tracheiaへ移住して、Olbe一帯を支配した。[Strabo.14.5.10]
BC1169年、Tyndareusの息子たちCastorとPolydeuces(Dioscuri)は、神として祀られることになった。[Paus.3.13.1]
** Dioscuriの神格化は、IdasとLynceusとの戦いから40年後であった。[Paus.3.13.1]
BC1165年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusは、Arneに残留して反乱を起こしたBoeotiansを攻めた。[Polya.8.44]
BC1165年、Sthenelusの子Cylarabesが死去した。[Paus.2.18.5]
** Inachusの子Phoroneusから585年続いたArgosの王統が断絶した。
BC1165年、Orestesは、Argosを占領した。[Paus.2.18.5]
** このとき、OrestesはArgosのneighborであった。[Paus.2.18.5] Orestesは、Mycenaeではなく、Tegeaに住んでいたと思われる。
BC1160年、Andrus島で反乱が起きて、Aniusの子Androsは、Ida山の南麓へ移住して、Antandrosを創建した。[Photios.186.41]
BC1160年、Agamemnonの子Hyperionは、横暴に振舞ったため、Sandionに殺されて、Megaraの王制は廃止された。[Paus.1.43.3]
BC1156年、Neoptolemusの子Pergamusは、母Andromacheと共にAsia Minorへ移住してPergamonを創建した。[Paus.1.11.2]
** AndromacheとHectorには、複数の息子たちがいた。Neoptolemus はHelenus にHectorの息子たちを与えた。[Dictys.5.16]
** Hectorの子Laodamasは、Andromache と共にNeoptolemus のもとにいた。[Dictys.6.12]
BC1154年、Aeneasの子Ascaniusは、Albaを創建した。[Antiq.1.66.1]
** Albaの創建は、Laviniumの創建から30年目であった。[Antiq.1.66.1]
BC1150年、Smyrna率いるAmazonsは、Ephesusの神殿を焼き払った。[Euseb.Chron.185, Strabo.14.1.4]
** Demophonの子Oxyntesの治世(BC1153-41)であった。[Euseb.Chron.185]
** Ephesiansは、Sisyrbeに因んでSisyrbitaeと呼ばれた。[Strabo.14.1.4]
BC1150年、Pyladesの子Medonは、Cirrhaから東へ移住して、Medeonを創建した。[StephByz.M439.19]
BC1150年、Acrisiusの子Pharsalusは、Pharsalus (後のPalaepharsalus)を創建した。[Steph.Ph659.18]
BC1150年、Diomedesの死後、彼の息子Amphinomusは、Italy半島からAetolia地方へ移住した。[娘の息子がAetoliaにいたことから推定]
BC1142年、Ascaniusが死んだ。彼の異母弟Silviusが継承した。[Antiq.1.70.1]
** Ascaniusの治世38年目であった。[Antiq.1.70.1]
BC1132年、Orestesが死んだ。[Herod.1.67, Paus.2.18.6]
** Orestesは70歳のとき、ArcadiaのOresteiaで蛇に噛まれて死んだ。[Apo.E.6.28, FGrH.Nr12.F25, TzeAdLyco.1374]
** Orestesの最初の墓は、Tegeaの市門の内側にあった。そこから、SpartansがOrestesの遺骨を盗み出した。[Paus.8.54.4]
** Orestesは、Arcadiaで死んだ。[Herod.1.67, Strabo.13.1.3]
** Orestesは、Oresteiaで死んだ。[Apo.E.6.28, TzeAdLyco.1374]
** Oresteiaは、Arcadia南部のOresthasiumではなく、Tegea市内にあったと思われる。
** OresthasiumがOresteiaと呼ばれるようになったのは、Orestesの居住と無関係と思われる。[Paus.8.3.2]
BC1126年、Heraclesの子Dexamenusの子Pheidippusの子Aeatusの子Thessalusは、Arneに残留していたBoeotiansを追い出した。[Polya.1.12]
BC1126年、ThessalyのArneから追い出されたBoeotiansは、Boeotiaへ帰還した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29, Thucy.1.12]
BC1126年、Arneから帰還したBoeotiansはCoroneiaを奪回して、Orchomenusも併合した。[Strabo.9.2.3, Strabo.9.2.29]
** AthensのMunychiaに避難していたOrchomeniansもこの時、帰還した。[Strabo.9.2.3]
BC1126年、Orchomeniansの一部がTheroの子Chaeronと共にBoeotiansがいなくなったArneへ移住して、Chaeroneiaと呼ぶようになった。[FGrH.Nr1.F116, Paus.9.40.5, Plut.Sulla.17]
BC1126年、BoeotiansはOrchomeniansと共に、BoeotiaからPelasgiansを追い出した。Pelasgiansは、Athensへ行った。[Strabo.9.2.3]
** このPelasgiansの中にはSamothraceからCadmusらと共にBoeotiaへ移住して来た者の後裔もいた。[Herod.2.51]
** Pelasgiansは、AthensのAcropolisの下に住み、AgrolasとHyperbiusの指揮下で城壁を築いた。[Herod.6.137, Paus.1.28.3, Strabo.9.2.3]
** Pelasgiansは、城壁築造の功により、Hymettus山麓の不毛な土地(Pelasgicon地区)を与えられた。しかし、その土地が立派に開墾したのをAtheniansが嫉まれて、追放された。[Herod.6.137]
BC1126年、Orestesの子Penthilusは、Aulis港を出港し、Lesbos島に植民した。[Paus.3.2.1, Strabo.9.2.3, Strabo.13.1.3]
** Penthilusは、Lesbos島東部Mityleneであった。Penthilusは、MityleneでMegaclesに殺された。[AristPoli.1311b]
** Penthilusは、Lesbos島に入植して、町を作る前に死んだ。100年後、Gras (or Graus)が町を作った。[FGrH.3.195, TzeAdLyco.1374]
** Boeotiansの帰還とPenthilusのAulis出航は、Troy陥落60年目であった。[Strabo.13.1.3, Thucy.1.12]
** Heracleidaeの帰還の頃であった。[Strabo.13.1.3]
< 4th return of Heracleidae >
BC1126年、Opheltes の子Damasichthonは、Chaeroneiaから進軍して、Thebesに入城した。
BC1126年、Thebesを追われたCadmusの後裔最後の王Autesionは、Doriansの地にいるAristodemusのもとへ亡命した。[Paus.9.5.15]
** Autesionの祖母の故郷Argosは、MycenaeのOrestesの子Tisamenusの支配下にあった。
** Autesionの移住は、AristomachusにPeloponnesusへの遠征を決断させた要因の一つであったと思われる。
BC1126年、Aristomachusは、Orestesの子Tisamenusに敗れた。[Apo.2.8.2, Paus.2.7.6, Strabo.13.1.3]
** Aristomachusは、
BC1126年、Agamemnonの子孫たち、Dorusの子CleuesとMalausの遠征隊は、Locris付近に長期間駐留していた。[Strabo.13.1.3]
** CleuesとMalausは、Aristomachus率いるHeracleidaeのPeloponnesus帰還の経過を見ていたものと思われる。
** Penthilusの遠征隊の出発地からは100km以上離れているが、Cleuesらの出発地からは、直近の位置にDoriansの居住地があった。
** CleuesとMalausはAgamemnonの曾孫で、彼らの祖父母は、Aegisthusによって、Mycenaeから追放されたと思われる。
** 遠征隊の多くの者は、Mt. Phriciumに住んでいた(恐らく、Thessalyから逃げ込んだ) Aeolisであったと思われる。[FGrH.Nr4.F80]
BC1126 年、Malausの遠征隊は、Larisa周辺に住んでいたPelasgiansを征服し、Phryconian Cymeを創建した。[Strabo.13.1.3, Strabo.13.3.3]
** LarisaのPelasgiansは、強大な部族であったが、Trojan Warで弱体化していた。[Strabo.13.3.3]
** Larisa周辺から追われたTeutamusの後裔率いるPelasgiansは、ItalyのPisaeに逃れて、Tyrrheniansと共住した。[Pliny.3.50から推定]
** Cymeへの主たる移住者は、Thesprotiansによって、Thessalyを追われたAeolisであった。[FGrH.Nr4.F80から推定]
** Cymeは、Amazonsの名前であった。[Strabo.11.5.4, 12.3.21]
BC1125年、Heraclesの子Alcaeusの子Belusの子Ninusの子Agronは、Sardis王に即位した。[Herod.1.7]
** この系譜は、創作と思われる。
BC1120年、Orestesの子PenthilusはBoeotiansを率いて、the Aeolian colonyを実行した。[Strabo.9.2.5]
** BC1126年にThraciansとPerasgiansをBoeotiaから追い出した後であった。[Strabo.9.2.5]
BC1120年、Amphinomusの息子と思われるErginusは、祖父Diomedesの故郷Argosへ移住した。[ErginusはDiomedesの後裔であったことから推定]
< 5th return of Heracleidae >
BC1115年、Aristomachusの子Temenusは、「帰還は3度目の子孫の収穫」という神託を聞いて軍を準備した。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Temenusは、Thoasの子Haemonの子Oxylusを道案内にする。[Apo.2.8.3, Paus.5.3.5, Strabo.8.3.33]
** Oxylusが、陸路ではなく、船でPeloponnesusに入るように進言した。[Paus.5.3.6]
** Temenusは、過去の失敗から学んで、海峡を渡ってPeloponnesusへの侵入を計画して、その方面に詳しいOxylusを仲間にしたと思われる。
** Oxylusは、Temenusの父Aristomachusの父Cleodaeusの父Hyllusの母Deianeiraの姉妹Gorgeの子Thoasの子Haemonの息子。
** つまり、Oxylusは、Temenusの父の3従兄弟であり、親族であった。
BC1115年、Temenusは、LocrisのNaupactusで、船を建造した。[Apo.2.8.2, Paus.10.38.10, Strabo.9.4.7]
** Naupactusの創建者はTemenusであった。[Ps-Scym.475]
BC1115年、Temenusの兄弟Aristodemusは、Tisamenusの従兄弟MedonとStrophiusにDelphiで殺害された。[Apo.2.8.2, Paus.3.1.6, Paus.2.16.7]
** MedonとStrophiusは、Delphiの南西60stadesにあるCirrhaに住んでいた。[Pindar.Py.11]
** Aristodemusは子供の誕生を見た後で病死した。[Herod.6.52]
** Aristodemusは落雷で死んだ。[Apo.2.8.2]
BC1115年、Phylasの子Hippotes(Hippotas)は、Naupactusで預言者Carnusを殺害した。[Apo.2.8.3, Paus.3.13.4, Photios.186.26]
** Carnusは、ArgosのAmphiarausの子Alcmaeonの孫と思われる。
BC1115年、Temenusは、神託によりHippotesを10年間の追放処分にした。[Apo.2.8.3]
** Hippotesは、Heraclesに追い出されたDryopesの王Phylasの娘から生まれたAntiochusの後裔であった。
** 40年後、Hippotesの子AletesがCorinthの支配権を獲得した。[Paus.2.4.4]
BC1115年、PelasgiansはAthensを追放されて、Lemnos島やImbros島へ移住した。[FGrH.Nr328.F100, Herod.6.137]
BC1115年、Lemnos島に住んでいたMinyansは、Pelasgiansに追われてLacedaemonへ移住した。[Herod.4.145, Paus.7.2.2, Strabo.8.3.19]
** Minyansの一部は、Cyzicusへ移住した。Cyzicusの住人は、Ida山南のAntandrosへ移住した。[Photios.186.41]
** Cononは、Cyzicusの住人を追い出したのは、Tyrrheniansだと伝えているが、Lemnos(Tyrrhenia)に住むMinyansと思われる。
** SpartansがMinyansを受け入れたのは、彼らの先祖が自分たちの先祖と同じArgonautsであったからであった。[Herod.4.145]
** Minyansの一部がOrchomenusからIolcusへ移住し、このためArgo船の勇士たちはMinyansと呼ばれるようになった。[Strabo.9.2.40]
** IolcusのPelias がOrchomenusのAmphionの娘Phylomacheを妻に迎えたときに、若干のMinyansを伴ってきたものと思われる。
** これと似た例は、Neleusの場合やNiobeの場合にも見られる。[Strabo.8.3.19, Strabo.8.4.4]
** 当時のSparta王は、Tyndareusの血を引くOrestesの子Tisamenusであったと思われる。
** Herodotusは、Argonautsから3世代目の子孫(or 子供たちの子供たち)だと伝えている。[Herod.4.145]
** Phocus(PeleusはArgonauts)の子Crisusの子Strophiusの子Pylades(Orestesの親友)。Tisamenusは、Argonautsから4世代目。
** Herodotusは、3世代で100年として計算している。[Herod.2.142]
BC1115年、Lemnos島のPelasgiansは、AtticaのBrauronで娘たちを略奪した。[FGrH.Nr328.F100, FGrH.Nr328.F101, Herod.6.138]
** Lemnos島の最初の住人Sinties or Sintiは、Pelasgiansであった。[FGrH.Nr328.F101][Thucy.2.98, Home.Il.1.594, Strabo.7.8.3]
BC1114年、Temenusは、Naupactusで、再び、船の建造を開始した。
BC1113年、Temenusは、渡海用の艦隊の建造を完了した。Naupactusへの翌春集合を伝達した。
BC1112年、Temenusは、DorisのPindusから出発して、Naupactusに到着した。[Herod.1.56, Pind.Py.1.66, Strabo.9.4.10]
** HeracleidaeはDryopisから出発してPeloponnesusに帰還した。[Strabo.9.4.10]
** Doriansは、DryopisからPeloponnesusへ移動した。[Herod.1.56]
** HeracleidaeとDoriansは、Pindusから出発してSpartaやAmyclaeに着いた。[Pind.Py.1.66]
** Temenusには、HeraclesとOmphaleの子孫Hegeleosも同行していた。[Paus.2.21.3]
** Hegeleosは、後に、ArgosにA sanctuary of Athena Trumpetを造営した。[Paus.2.21.3]
BC1112年、AtticaのTetrapolisのIoniansは、NaupactusでTemenusの軍に合流した。[Strabo.8.6.15から推定]
** AtticaのTetrapolisのIoniansも同行し、ArgolisのEpidaurusに定住した。[Strabo.8.6.15]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、NaupactusからMolycriumまで回航して、渡海の準備をした。[Paus.5.3.6]
** AetoliaとLocrisの境界にあるAntirrhium岬(Molycrian Rhium)から、対岸のRion岬を目指した。[Strabo.8.2.3から推定]
** Polybiusは、HeracleidaeがRionに向かった場合、LocriansはTisamenusに連絡するという協定を交わしていたと伝えている。[Polyb.12.12a]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusらの上陸をAchaiaのRion付近で待ち受けた。[Polya.1.9]
BC1112年、Tisamenusは、Temenusの偽計に騙されて、Isthmusに軍を移動させた。[Polya.1.9]
BC1112年、Temenusは、AchaiaのRionに上陸した。[Paus.8.5.6, Polya.1.9]
** 海峡の幅は、約3km。Tisamenus側の船から妨害を受けた。[Apo.2.8.3]
BC1112年、Temenusは、Oxylusの案内で、AchaiaのAegaeからArcadiaへ進軍した。[Paus.5.4.1]
** Heracleidaeは、Pheneus周辺から、Heraclesの遠征に参加したArcadiansの子孫を多く遠征隊に編入したと推定される。
BC1112年、Arcadia王Cypselusは、娘MeropeをTemenusの弟Cresphontesに嫁がせたい旨を申し出た。[Paus.8.5.6, Polya.1.7]
BC1112年、Temenusの弟Cresphontesは、ArcadiaのTrapezusで、Cypselusの娘Meropeと結婚した。[Paus.4.3.6]
BC1111年、Temenusは、TrapezusのArcadiansを軍に編入し、Pylusに侵攻した。
** PylusのAndropompusの子Melanthusの先祖Neleusの息子の時代から、Arcadia人の土地へ進出して、敵対していた。[Home.7.132, Paus.8.11.4, Strabo.8.3.21]
BC1111年、Temenusは、PylusのMelanthus等のNeleusの子孫を追放した。[Paus.2.18.8]
** MelanthusがPylusの王であったとする伝承がある。[Euseb.Chron.183, JeromeChro.1136, JeromeChro.1129, Paus.7.2.3, Photios.186.39]
** しかし、Melanthusは、Nestorの直系ではないのでPylus王ではなく、Neleusの長男の直系としてMessenia王であったと思われる。
BC1111年、Melanthusは、Athensへ移住して、Oxyntesの子Thymoetesを追放した。[Paus.2.18.9]
** Melanthusは、Delphiでどこに住むべきかを神に問うて、EleusisのあるAthensへ行くことになった。[Athen.3.96e]
** Eleusisの祭司CauconがAndaniaのMesseneに伝えた大女神の祭儀は、脈々と受け継がれていた。[Paus.4.1.5]
** Melanthusの母も妻もAtheniansであった。Melanthusは、Thymoetesの娘婿であったと思われる。[Paus.7.2.3, Tzetzes.1.180]
** Melanthusの移住団の中には、Cauconesもいた。[Herod.1.147]
BC1111年、Melanthusは、ThebesのXanthusと決闘して、偽計を用いて殺した。[Polya.1.19, Strabo.9.1.7]
** Thymoetesが一騎打ちを忌避して、Melanthusに譲ったとする伝承もある。[Photios.186.39]
** Melaenae (or Melania)の領有権をめぐる争いであった。[FGrH.Nr70.F22, Polya.1.19, Harp10Orat.a173]
** Oinoeの領有権をめぐる争いであった。[Photios.186.39]
BC1111年、Melanthusは、Athens王になった。[Herod.5.65]
BC1111年、Nestorの子孫Alcmaeonは、Melanthusと共にAthensへ移住して、Alcmaeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Paeonの子供たちは、Melanthusと共にAthensへ移住して、Paeonidaeの始祖になった。[Paus.2.18.9]
BC1111年、Nestorの子孫Peisistratusは、Athensへ移住した。[Herod.5.65]
** BC6世紀のAthensの僭主Hippocratesの子Peisistratusは、Nestorの子孫であった。[Herod.5.65]
BC1110年、Aristomachusの子Temenusは、待ち受けていたTisamenusと会戦した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Tisamenusに味方したAegimiusの子PamphylusとDymasは、Temenusとの戦いで戦死した。[Apo.2.8.3]
** Pamphylusは、後に、Temenusの娘Hyrnethoの娘Orsobiaと結婚しているので、この戦いでは死んでいない。[Paus.2.28.6]
BC1110年、Tisamenusは、Argosに籠城した。[Apo.2.8.3]
BC1110年、Temenusは、Argosの南のTemeniumに砦を築いてTisamenusと戦った。[Paus.2.38.1]
** Heracleidaeは、艦隊でArgolis沿海地方を攻略したと思われる。Temeniumも海からの兵站に便利であったと思われる。[Polya.2.12]
BC1110年、Diomedesの子Amphinomusの子Erginusは、Argosの守護神Palladium像を盗み出して、Temenusに協力した。[August.City.3.7, Plut.GreekQuest.48]
** Diomedesの死後、息子Amphinomusは、ItalyからAetoliaへ移住、彼の息子Erginusは、Argosに住んでいたと思われる。[Antoninus.37]
** ErginusとTemenusは、CalydonのOeneusを共通の先祖とする親族であった。
BC1109年、Temenusの子Phalcesは、Sicyonに夜襲をかけるが、戦闘はせずLacestadesと共同で王権を握った。[Paus.2.6.7]
** Sicyonは、最初の王Aegialeus (即位BC2090)から981年続いた。[Suda.sigma,402]
** 実際は、Inachusの子Aegialeusを始祖とするSicyonの王統は、BC1750年から641年間続いた。
BC1109年、Heraclesの子Ctesippusの曾孫Agamedidasは、Cleonaeを奪取した。[Paus.3.16.6]
BC1107年、Temenusは、TisamenusにArgosの領有権を主張して獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.2.18.7, Paus.4.3.3, Polya.1.6]
** TroezenもArgosの支配下にあったため、Doriansを共住者として受け入れた。[Paus.2.30.10]
BC1107年、Tisamenusは、ArgosからSpartaへ移った。
BC1107年、Temenusは、Argosに入城した。
BC1106年、Temenusは、Sparta攻略のためにArgosを出発した。[Polya.1.10]
** Sparta攻略のとき、EurysthenesとProclesだけではなく、Temenusもいて、全軍であったと思われる。[Polya.1.10]
BC1106年、Temenusは、Spartaに籠城したTisamenusを攻囲した。
BC1106年、Oxylusは、案内役を終えて、Aetoliaへ向けて、Spartaを出発した。
** OxylusがTisamenusのSparta退去まで、Temenusのもとにいた場合は、Tisamenusの移住先は、Achaiaではなく、彼の先祖Pelopsが住んでいたPisaであったかもしれない。
BC1105年、Heracleidaeは、Perseusの末子Heliusが創建したLaconia湾岸のHelosを包囲して降伏させた。[Paus.3.20.6]
BC1105年、Oxylusは、Aetoliansを率いてElisに進軍した。[Paus.6.23.8, Strabo.8.3.33]
BC1105年、Oxylusは、ElisのDiusと戦って、Elisの王権を手に入れた。[Paus.5.4.2, Strabo.8.3.33]
** BC1320年にAetolusがSalmoneusに追われてから、215年後の帰還であった。
BC1104年、Philonomusは、Heracleidaeと裏取引して、TisamenusにAchaiaへ移住するように説得した。[Strabo.8.5.4-5]
** Philonomusは、Imbros島やLemnos島からSpartaに来た。[Photios.186.36]
** Philonomusは、BC1115年にPelasgiansに追われてLemnos島からLacedaemonへ移住したMinyansの一人であったと思われる。
** Lemnos島からLacedaemonへ移住した人々は、Helotsとの戦いで、戦功を認められて、重用された。[Plut.Mor.247]
BC1104年、Tisamenusは、SpartaからAchaiaへ移住した。[Paus.2.18.8, Strabo.8.7.1, 8.8.5]
BC1104年、EurysthenesとProclesの後見人Therasは、籤で領土を決めるように提案した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.4-5, Strabo.8.1.2, Strabo.8.5.6]
** Heracleidaeは、Peloponnesusを征服した後で、籤引きをした。[Apo.2.8.4]
BC1104年、Cresphontesは、Messeniaの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Paus.4.3.5, Polya.1.6, Strabo.8.8.5]
** Heraclesの正妻Deianeiraの長男Hyllusの直系の男子、Temenus、Cresphontes、Aristodemusの遺児で分配した。[Diod.4.34.1, Strabo.9.4.10]
BC1104年、EurysthenesとProclesは、Lacedaemonの領有権を獲得した。[Apo.2.8.4, Polya.1.6]
** Lacedaemonに居住したのは、Dorians 3部族のうち、Hyllusの部族であった。[FGrH.Nr70.F173]
BC1104年、Aristodemusの双子の息子EurysthenesとProclesは、Sparta王に即位した。
** Troy陥落から80年後であった。[Thucy.1.12]
BC1104年、Philonomusは、EurysthenesとProclesからAmyclaeを任せられた。[Photios.186.36, Strabo.8.5.4]
BC1104年、Tisamenusは、Achaiaに住んでいたIoniansに対して、共住を申し出るも拒否された。[Paus.7.1.8]
BC1103年、Tisamenusは、Ioniansとの戦いで戦死した。[Paus.7.1.8]
** Tisamenusが鳥の飛び方で伏兵を知った逸話は、この時の戦いと思われる。[Polya.2.37]
BC1103年、Ioniansは、神の庇護を求めてHeliceに集まり、Achaeansがこれを包囲した。[Herod.1.145, Paus.7.1.8]
BC1103年、Cresphontesは、Messeniaの王都をStenyclerusに定めた。[Paus.4.3.7, Strabo.8.4.7]
BC1102年、Ioniansは、Achaeansと休戦条約を結んでAthensへ移住した。[Paus.7.1.5, Strabo.8.7.1, Strabo.8.7.4]
BC1102年、Athens王Melanthusは、Achaiaから亡命してきたIoniansを共住させた。[Paus.7.1.9]
BC1102年、Antimachusの子Deiphontes(Temenusと同世代)は、Argivesを率いてEpidaurus王Pityreusから王位を譲渡させた。[Paus.2.26.1]
BC1102年、Deiphontesは、AtticaのTetrapolisから同行したIoniansをEpidaurusに定住させた。[Strabo.8.6.15]
BC1102年、Xuthusの子Ionの後裔Pityreusは、Epidaurusの住人を率いてAthensへ移住した。[Paus.2.26.1]
BC1101年、Oxylusは、神託により、AchaiaのHeliceからOrestesの曾孫Agoriusを迎えてElisの共同統治者にした。[Paus.5.4.3]
** MesseniaとEleiaの勢力が逆転した。[Strabo.8.3.30]
BC1100年、TemenusはDeiphontesとHyrnethoを偏愛したので、息子たちに殺された。[Apo.2.8.5]
BC1100年、Temenusの息子たちと娘Hyrnethoの夫Deiphontesとの対立が生じた。[Paus.2.26.2]
BC1100年、Ceisusは、Argos王に即位した。[Paus.2.19.1]
BC1100年、Autesionの子Therasは、後見人の役目を終えた。[Herod.4.147]
BC1100年、Penthilusの子ArchelausはAeolis遠征隊を率いて、Dascylium一帯やCyziceneへ移住した。[Strabo.13.1.3]
BC1099年、Oxylusは、Olympia競技会を開催した。[Paus.5.8.5]
** Oxylusを最後にOlympia競技会はIphitus が復活させるまで中断した。[Paus.5.8.5]
BC1099年、Therasは、SpartaにAthena神域を奉納した。[Paus.3.15.6]
BC1099年、Lacedaemonに定住したMinyansは、不法行為が多く処刑が決まっていたが、脱獄して立てこもった。[Herod.4.146]
BC1099年、Therasは、Calliste島へ移民し、その地の王になって、島をTheraと改名した。[Paus.3.15.6, Strabo.8.3.19]
** 移民は、LacedaemoniansとLemnos島からPelasgiansに追われてLaconiaへ逃げ込んだMinyansの一部とで構成された。[Paus.7.2.2]
** Therasの移民団には、Minyansが含まれていた。[Herod.4.148, Paus.7.2.2]
** 当時、島には、BC1425にCadmusから分かれたPoecilesの子Membliarusを指導者とする入植者たちの後裔が住んでいた。[Herod.4.147]
BC1099年、EurysthenesとProclesは、Therasの植民市創建を支援した。[Paus.3.1.7]
BC1097年、TriphyliaのScillusは、OlympiaにDoris様式のHera神殿を建立した。[Paus.5.16.1]
** OxylusがElisを手に入れてから約8年後であった。[Paus.5.16.1]
** 後に、Scillus はPisaと共にElisに対して反乱を起こしていることから、Scillusの建設者は、Pelopsの息子と思われる。[Paus.5.6.4]
BC1095年、Athensの王Melanthusが死んだ。CodrusがAthens王に即位した。[Euseb.185]
BC1095年、Pityreusの子ProclesはEpidaurusの元住人を率いて、AthensからSamos島に入植してSamosを創建した。[Paus.2.26.1, Paus.7.4.2, Strabo.14.1.3]
BC1090年、Temenusの子Ceisusは、住民を集めてArgosを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1090年、Proclesは住民を集めて、Argos創建と同時期に、Spartaを創建した。[Strabo.10.4.18]
BC1087年、Temenusの子Phalcesの子Rhegnidasは、ArgosとSicyonの軍勢を率いてPhliusへ遠征した。[Paus.2.13.1]
BC1087年、Phalcesの子Rhegnidasは、Phliusの王になった。[Paus.2.13.2]
BC1087年、PhliusのHippasusは、Samosへ移住した。[Paus.2.13.2]
BC1085年、Cresphontesは、息子2人と共に「真の」Heraclesの後裔のPolyphontesに殺され、Messenia王位を簒奪された。[Apo.2.8.5, Paus.4.3.7]
** Polyphontesは、Heraclesの子Hyllusの子Cleodaeus長男の孫と思われる。
BC1085年、Xuthusの3人の息子たち、Cothus、Aeclus、Ellopsは、Euboeaに、それぞれ、Chalcis、Eretria、Ellopiaという町を創建した。
** Ellopsは、さらに、周辺のHistiaea、Perias、Cerinthus、Aedepsus、Orobiaも攻略した。[Plut.QuestGr.22, Strabo.10.1.3, Herod.5.57]
BC1085年、AthensのEretria区のGephyraeansは、Euboeaへ移住して、Eretriaを創建した。[Herod.5.57, Strabo.10.1.3]
BC1082年、Cresphontesの末の息子Aepytusは、Messenia王に即位した。[Apo.2.8.5, Paus.4.3.8, Paus.8.5.7]
** Aepytusは、Arcadiaの伯父HolaeasやArgosのTemenusの子Isthmius、SpartaのEurysthenesやProclesの支援を受けた。
BC1075年、Xuthusの息子と思われるAmphiclusは、EuboeaのHistiaeaから、Chios島へ入植した。[Paus.7.4.8]
BC1075年、Aletesは、GonussaからAntasusの子Melasを遠征隊に加えて、Corinth攻略に向かった。[Paus.2.4.4, Paus.7.26.13, Photios.186.26]
** Aletesは、Heraclesの子Antiochusの子Phylasの子Hippotasの子で、Temenusとは同世代であった。
** Melasは、Marathonの子Sicyonの娘Gonussaの子孫であった。[Newton.Chro.62]
BC1075年、Aletesは、Solygiaの丘に陣を構えて、抵抗した住民(Aeolis)と戦って、彼らをCorinthから追い出した。[Paus.2.4.3, Thucy.4.42]
BC1075年、Aletesは、Propodasの2人の息子DoridasとHyanthidasから譲位されてCorinth王となり、Melasを共住者にした。[Paus.2.4.4]
** Melasは、BC657にCorinthの僭主になったEetionの子Cypselusの先祖であった。[Paus.2.4.4]
** Aletesは、Corinthから亡命して、再び、帰国した。[FGrH.Nr76.F80]
BC1075年、PelasgiansとAtheniansの女性から生まれた子供たち(Pelasgians)が、Lemnos島からLaconia地方へ移住した。[Plut.Mor.247]
** Herodotusは、BC1115年のMinyansの移住と、BC1075年のPelasgiansのLaconia地方への移住を1つにして物語っている。
BC1075年、Pelasgiansは、SpartaからEleiaへ逃れてLepreum, Macistus, Phryxae, Pyrgus, Epium, Nudiumを創建した。[Herod.4.148]
** Herodotusは、Eleia南部に6つの町を創建したのは、Minyansとしているが、PelasgiansとHelotsと思われる。[Plut.Mor.247]
** Herodotus説のMinyansは、Athensから追放されたPelasgiansによって、Lemnos島から追い出された人々であったが、Minyansだけで6つの町を創建することはできないと思われる。
BC1074年、Melanthusの子Codrusは、Athensに攻めて来たPeloponnesusのDoriansと戦って戦死した。[Paus.7.25.2, Polya.1.18]
** Aletes (vagabond)がAthensを攻めた。[Photios.186.26]
** しかし、Aletesの先祖、Heraclesの子Antiochusは、Athensの10部族のひとつAntiochisの名祖なので疑わしい。[Paus.1.5.1]
** Codrusは、Ilissus川の近くで、Peloponnesiansによって殺された。[Paus.1.19.5]
BC1074年、Doriansは、Athens領MegaraのIoniansを追い出して、DoriansのMegaraを創建した。[Paus.1.39.4, Strabo.9.1.7]
** 後に、Megaraが力をつけると、母市Corinthと戦った。[FGrH.Nr327.F9]
< the migration of the Ionians (BC1073-43) >
BC1073年、Codrusの子Neileusは、AthensのPrytaneumから最初の移民団を率いて、Miletusに入植した。[Herod.1.146, Paus.7.2.6]
** Neileusの移民団は、Athensの市会堂から出発した正式な移民団であった。[Herod.1.146]
** Neileusの移民団は、Iolausの植民団に次ぐAthensが単独で送り出した2回目の遠征隊であった。[Paus.1.29.5]
** Neileusに同行したPasiclesの子Philistusは、Miletusの北西の海岸近くにa temple of Eleusinian Ceresを建立した。[Herod.9.97]
BC1073年、Athens出身のEuctemonの息子たち、PhilogenesとDamonは、Phocaeaを創建した。[Strabo.14.1.3]
** PhilogenesとDamonは、Neileusの移民団と共に航海していたが、途中で、Neileusと別れた。[Paus.7.2.4]
BC1070年、Codrusの庶子Cydrelus(or Cyaretus)は、Miletusを少し遡った所にMyusを創建した。[Paus.7.2.10, Plut.Mor.253a, Strabo.14.1.3]
BC1070年、PolisとDelphos率いるPhilonomosの人々は、Creteへ移住し、Gortynを攻略して、先住民と共住した。[Photios.186.36, 47]
** Pollis、Delphusは、Althaemenes(Proclesの1つ後の世代[Strabo.10.4.18])と一緒に行動していた。[Photios.186.47]
** Pollis、Delphus、Crataidasは、Spartansであったが、彼らが率いたのは、Pelasgiansであった。[Plut.Mor.247]
** Delphus、Crataidasが率いた人々はMelos島に入植した。[Plut.Mor.247]
** ほとんどの人々は、Pollisに率いられて、Crete島東部に入植して、Lyctusを創建した。[Plut.Mor.247]
BC1070年、Apodasmosを指導者とする集団は、Creteに渡らず、Melos島に定住した。[Photios.186.36]
** Apodasmosは、Philonomusの息子と思われる。[Commentary on Thucydides Book 5]
** Melos島民は、Lacedaemonからの入植者であった。[Herod.8.48, Thucydides.5.84]
** Doriansは、ThebesからTimomachusを招いて、Amyclaeとの戦いの軍事指導をさせた。[FGrH.Nr70.F16, Pind.Is.7.1]
BC1070年、Althaemenesは、ArgosからDoriansとPelasgiansを率いてCreteへ植民した。[Photios.186.47, Strabo.14.2.6]
** BC4世紀の歴史家Ephorusは、Althaemenesが率いたDoriansがCreteに10市を建設したと伝えている。[Strabo.10.4.15]
BC1070年、Althaemenesは、Rhodesへ移住し、Lindus, Ialysos, Kameirosを創建した。[Photios.186.36, 47]
** BC1389年、Rhodosの子Cercaphusの息子たち、Lindus、Ialysus、Cameirusは、Rhodesに3つの町を創建した。[Diod.5.57.8, Strabo.14.2.8]
** BC1213年、Heraclesの子Tlepolemusが、Rhodesへ移住して、同じ3つの町を創建している。[Diod.4.58.8]
** しかし、BC1430年、Danausは、RhodesのLindusに上陸している。[Apo.2.1.4, Diod.5.58.1]
** Althaemenesの移民団には、DoriansがAthens攻めから戻る途中に創建したMegaraに住むDoriansがいた。[Strabo.14.2.6]
** Rhodesの支配者は、HeliadaeからPhoeniciansに、それからCariansになっていたが、Doriansが取って代わった。[Photios.186.47]
** Greeceの7賢人の一人、RhodesのLindusのCleobulusは、Althaemenesの後裔と思われる。[Diogenes.1.89, Paus.10.24.1]
BC1070年、AnthesはTroezenから植民団を率いて、Cariaへ移住して、HalicarnassusとMyndusを創建した。[Paus.2.30.9, StephByz.A74.6, Strabo.14.2.16]
** Anthesは、Anthasの子Aetiusの後裔であった。[Paus.2.30.9]
** AlthaemenesはRhodesに居を定めで、植民団の一部は、HalicarnassusやCnidusやCosに分散した。[Strabo.14.2.6]
** RhodesやCnidusへ移住したPeloponnesiansはDoriansであり、移住の原因は、飢饉であった。[Suda.la.555]
BC1068年、Codrusの子Androclusは、CariansやLelegesを追い出して、Ephesusを創建した。[Strabo.14.1.3]
BC1068年、Codrusの子Andraemonは、Cariansを追い出して、Lebedusを創建した。[Paus.7.3.5, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Codrusの2人の息子たち、DamasichthonとPromethusは、Ioniansを率いてColophonに移住し、Cretansに共住を許された。[Paus.7.3.3, Strabo.14.1.3]
** Colophonの住人は、Pylus出身であった。[Strabo.14.1.4]
BC1065年、Codrusの庶子Nauclusに率いられたIoniansは、Teosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
BC1065年、Androclus率いるEphesiansがSamos島に攻め込んで、島の住民を追放した。[FGrH.Nr70.F166, Paus.7.4.3, Plut.GreekQuest.55]
** Samos島のProclesの子LeogorusがCariansと通じて、Ioniansに対して陰謀を企んでいるという理由であった。
** 島の住民の一部は、Samothraceへ移住した。
** 残りは、Leogorusと共に本土に渡り、島の対岸のAmazonsのAnaea埋葬の地やMycaleへ移住した。
** Samiansは、追放されてから10年後にSamos島を奪還した。[Paus.7.4.3]
BC1060年、Colophonに住むCodrusの子Promethusは、兄弟Damasichthonを殺して、Naxos島へ亡命した。[Paus.7.3.3]
** Promethusが死に、Naxos島から運び込まれたPromethusの遺骸をColophonの住人は、町へ迎え入れた。[Paus.7.3.3]
BC1060年、Codrusの庶子Nauclusと彼の弟Damasus、Melanthusの曾孫Apoecus、GeresがTeosに入植した。[Paus.7.3.6, Strabo.14.1.3]
** BoeotianのGeresは、Boeotiansを率いていた。[Paus.7.3.6]
BC1060年、SamothraceのSamiansの一部は、Propontis海の北岸にPerinthusを創建した。[Plut.GreekQuest.57]
** 創建からDarius Iの時代までの間に、Strymon流域に住むPaeoniansはPerinthusを攻略した。[Herod.5.1]
BC1060年、Codrusの子Neileusの子Aepytusは、Ioniansを率いてIonia地方にPriene創建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
BC1060年、Codrusの庶子Cnopusは、Ionia地方の全地域から人を集めてErythraeへ移住した。[FGrH.Nr1.F228, Paus.7.3.7, Polya.8.43, Strabo.14.1.3]
** ErythraeはCnopopolisと呼ばれた。
BC1055年、Penthilusの子Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Lacedaemonの支援を受けてLesbosを占領した。[Paus.3.2.1, Strabo.13.1.3]
BC1055年、Echelas(or Archelaus)の子Grasは、Ionia地方とMysiaの間のAeolis地方を領有した。[Paus.3.2.1]
** Grasは、Granicus川まで進出した。[Strabo.13.1.3]
** これ以前にPenthilusがLesbosを占領しているので、再占領であった。[Paus.3.2.1]
** GrasはAeolisからLesbosへ移民団を率いた。[Athen.11.466c]つまり、Lesbosの再占領は、Aeolis植民の後である。
** Aeolis地方の植民は、Ionia地方の植民より4世代前に始まり、後者より長期間であった。[Strabo.13.1.3]
BC1055年、島から追い出されたSamiansは、Samos島からEphesiansを追い出して、島を奪い返した。[Paus.7.4.3, Plut.QuestGr.55]
BC1053年、EphesusのAndroclusは、Cariansに攻められたPrieneの救援中に戦死した。[Paus.7.2.9, FGrH.Nr70.F126, StephByz.A1.1]
BC1050年、ColophonのParalus(or Parphorus)を指導者とするIoniansは、Clazomenaeを創建した。[Paus.7.3.8-9, Strabo.14.1.3]
** Ioniansの大半は、Heracleidaeに追われたCleonaeやPhliusのAchaeansであったことから、Paralusは、Codrusの後裔と思われる。[Paus.7.3.9]
BC1043年、Hippalcimusの子Peneleusの後裔Philotasは、ThebesからIoniaのPrieneへ移住して、町を再建した。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Prieneの創建者は、Codrusの子Neileusの子Aepytusであった。[Paus.7.2.10, Strabo.14.1.3]
** Apollodorus of Athensは、Ioniansの移住から最初のOlympiad(BC776)まで267年間あったと伝えており、BC1043年がIoniansの移住が完了した年になる。[Euseb.Chron.179]
BC1020年、Amphiclusから4代目のHector[BC1050年生まれ]が、Chios島からAbantesやCariansを追い出して、Ionian Leagueに加入した。[Paus.7.4.10]
BC1020年、Samiansは、Ionian Leagueに加盟した。[Paus.7.4.3]
** Samos島をEphesiansから奪還してから、少なくとも1世代以上後と思われる。
BC1020年、Deionの子Cephalusの10世代目の子孫、ChalcinusとDaetusは、Athensへ移住した。[Paus.7.4.3]
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